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4月20日あと10日生きていれば、11歳だったんだよ、ももこ。久しぶりにシーザーね。おめでとう、ももこ。。。ちゃんと祝いたかったのに、ごめんね。そっちで味わってね。
Apr 20, 2011
ふだんはサイエンスダイエットだけだったけど、イベントのときはシーザーあげたね。
Apr 20, 2011
旦那の同僚の愛犬、11歳のシェルティ。震災後、突然食べなくなり、原因不明のまま2週間前に入院。でもどこが悪いわけでもないから治療できなくて、そのまま衰弱していき、病院から「覚悟して」と言われて退院し、最後の1週間は家族で食べ物を押し込んでいたけどだめで、衰弱の末、この間の日曜に亡くなった。ストレスだろうか。わからない。家族も本犬も無念だっただろうが。家族はこの2週間、覚悟を決めていたとのこと。私には覚悟がなかった。(いつか介護し、いつか看取るという数年後の覚悟はあったが…)覚悟して数週間、衰弱していく愛犬を看続けるのと、覚悟無いまま数分で看取るのと、、、つらさは同じだろうか、、、、、わからない。私の先代もシェルティ。彼女は13歳で虹の橋を渡った。彼女ですら寿命より少し早かった。。。ももこは肺に水が溜まろうが苦しかろうが、最後のご飯も完食したから、最後までももこらしかったと言わねば。あ~、ももこ、いい子。まだまだ、右腕にももこの重みを感じるよ。
Apr 19, 2011
4月12日(火)いつもの朝と違う朝が来た。もう、腕の中にももこはいない。舐めて起こしてこない。おなかの上が重くもない。横の箱には、すっかり冷たいももこがいた。でも、耳と肉球は柔らかいままだった。会社は午前休にして、お寺に電話した。午前の供養が予約できた。ももこは好きな単語は、みかん、とまと、さんぽ、みるく、ごはん。みかん代わりのオレンジ、いつもベランダで狙っていた「年越しプチトマト」、最後のわずかなしずくを狙っていたクリームポーション、いつものドッグフード、そして、言葉は覚えなかったけど、大好きだったプレーンヨーグルト。代わりにフルーツヨーグルトを入れた。徹底的に花より団子主義な、ジャ○アンなももこだから、花は止めた。花を入れるスペースがあるなら食べ物入れろなんて言われちゃうもの。そしてずっと使い続けたリードと散歩バッグ、そして、震災後は特に大好きになり、部屋の中でも入っていたモックを入れた。モックに入って日曜にサイクリング行ったのが、遠い遠い日に思えた。迎えの車が最期のドライブになるだんて、ももこも思わなかったはず。最近のドライブは実家行きのタクシーだったけど、まさかその次が、ね。お寺でたった一人でお焼香を済ませ、ももこと本当に最期の時。最後に耳を撫で、顎を撫で、肉球をぷにぷにし、尻尾をさわり、そして、お礼した。ももことの出会いからどわーっと思いが押し寄せた。ももこは幸せだった?私は本当に、ももこに幸せにしてもらってばかりだった。本当にありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう。言っても言っても足りなかった。ありがとう以上の感謝の気持ちだった。2時間後、ももこは小さくなって戻ってきた。頭も足も犬歯も尾てい骨も肩甲骨もしっかり太く、はっきりしていた。ずっしりと重かった。お骨を拾って、おさめた。大たい骨がずっしり、はっきりしていた。顔もしっかりしていた。お骨を家に置き、午後は仕事に行った。けど、何も言ってないのに私が普通でないことを察した上司に帰れといわれ、打ち合わせ1件だけで帰宅した。ドアを開けても、タカタカと廊下を走ってくる姿はなかった。ハウスにも、ベッドにもどこにも、だれもおらず、ももこ、ももこ、ももこ、ももこと、呼んだ。いるはずがないけど、泣けて泣けて泣くしかなかった。夜、旦那と献杯した。当たり前だった「お座り、お手、お変わり、待て」「ひーん」。待ってくれるももこも、ヒーン、クーンも無い。もともと、ほとんどほえず、静かなももこだったけど、いるだけで存在感いっぱいだった。ももこがいないと、本当に何もかもが全然違う。でも、救われるのは、「ももこを本当に愛していた」という自信。ももこを愛し、愛し、愛を与えた。そしてももこは、それ以上に愛してくれていた、と思う。「土曜に病院に行っていたら違ったかも」「月曜会社に行く前にもっと見ていれば」などなど、思うところはある。でも、ももこのことは見ていたのに、ももこが最期の最期まで咳をせず、最期の最期まで完食し、最期の最期までさんぽを止めず、最期の最期までしっかりうんし、って、日常を続けたのだから、ももこを信じた私を許してください。ももこの最期のの朝、おそらく今シーズン最終と思えるシクラメンが咲いた。白いシクラメンを買ったつもりだけど、昨日咲いたシクラメンは、ほんのりピンクだった。初めて咲いた、ほんのりピンクのシクラメン。ももこは、血統書の名前はシクラメンなのだよね。なんだか不思議だった。ももこが最期に粗相したキッチンマットはまだ洗えない。血水を吐き続けて呼吸を止めたももこをくるんで病院に連れて行ったタオルは洗えない。最期のうんは、ベランダのトマトの土に埋めた。血水のついたフローリングも、まだ全部を拭くことはできない。ももこの最期の、生きた証なのだから。少しだけ拭いたけど、拭きながら出てくる言葉はひたすら「ありがとう」だった。本当に、ももこには感謝ばかり。ももこと過ごした11年は本当に充実していた。愛して、愛して、愛された11年だった。途中、子宮蓄膿症で大手術し、急性推薦で入院し、大病してくれたけど、その2回。一度も下痢をせず、毎度コロコロなうんのまま、最後の最後までコロコロだった。ヘルニアにも湿疹にも歯肉炎にも何にもならず、薬もいらず、だった。いや、最期は、心臓病とかで本当は苦しくて苦しくて苦しくて仕方なかったかもしれない。でも最後までしっかり走り、しっかり食べ、しっかり遊び、一緒に寝てくれた。そして愛してくれた。ほんとにももこには、ひたすら「ありがとう」につきる。ありがとう、ももこ。そっちに行くのはまだ先なるけど、待っててね。ももこ、あ~、いい子。
Apr 12, 2011
「ももこは幸せだったよ、最低もう3年は生きると思ったけど、仕方ないよ」そう母はいい、帰って行った。ももこのためにきてくれて、ありがとう。ゴミ箱はティッシュでいっぱいだった。全部父のだった。ずっと泣いていたと旦那が言った。ももこのために泣いてくれて、ありがとう。先月末には、ももこと一緒に実家に帰った。行く前に、ももこが大好きな浜辺で遊んでからかえった。ももこは浜辺が大好き。浜辺だと芝生と違って、猛ダッシュで走る。この日が最期の浜辺になたけどよかったね。親が帰り、ももこにいろいろ語りかけた。昨日、サイクリングでお花見に行き、今朝のごはんも完食し、うんも2か所にして、そんな当たり前のことをしたももこが、今、目の前の箱に横たわっているのが嘘のようだった。ももこの生きた証は、いたるところにあった。人様用の布団の上で寝ていたらしい。いつものことだった。キッチンマットにチーをしたらしい。雷が来ると狂うので、いつものことだった。地震でおもらしも増えたし、仕方ないことだった。廊下にはうんがあるし、トイレにもうんがあった。トイレのは朝の分かな、カサカサだった。廊下のは夕方したのか、しっとりだった。トイレでチーを済ませ、朝ごはんを完食し、布団の上で寝て、トイレで1回目のうんをし、その後、キッチンでチーの粗相をし、廊下で2回目のうんをし、それでも帰ってこない私らを待っていた。苦しかっただろうに。早く死にたかっただろうに。でも、帰宅して、ドアを開けたら、ももこは、廊下を走ってきてはくれなかったけど、お座りして待っていてくれた。そして、私のところまで歩き、いつも腕枕をしていた右腕に抱えられたところで血を吐き、倒れ、そして死んだ。待っていてくれたももこには、本当に感謝しかない。気づけば、晩御飯を食べないまま、2時くらいになっていた。箱に入れたももこを、オットマンの上に置き、私らのベッドの横に置いたら、ちょうど同じ高さになった。日曜の晩は、ももこが右腕に来るのを見れなかった。でも、旦那と一緒に来たももこは、当たり前のように私の腕の中に入ったとのことだった。確かに、途中で起きたら、ももこは腕に居た。でも、朝は布団の上に居た。暑いから出ただけかと思ったけど、もし、苦しかったためなら、本当にごめん。。。そしてこの晩は、ももこに腕枕することもできなかった。どんどん体はかたくなっていった。つらすぎた。でも、耳、しっぽ、肉球は柔らかいままだった。撫でた感触は、本当にいつもと同じだった。耳を撫で続けながら、少しだけ眠った。ももこと過ごす最期の晩になった。
Apr 12, 2011
親が到着した。母は、号泣してももこを抱きかかえようとしたので「死後硬直の姿勢がくずれちゃう!」と、無理に止めた。「抱きしめるために来たのに!」と、母は、ももこに覆いかぶさり号泣した。母の号泣は延々と続いた。父も、ティッシュを何度もとっていた。トイレにこもったまま出てこない時間もあった。静かに泣いているようだった。母は、「かわいいね、かわいいままだね、寝ているようだね、ももこちゃん」そう何度も言った。ひとしきり泣いた母は、弟にメールしていたらしく、弟からの返信に再度、状況を伝えるメールを送りながら、弟からのメールを読んだ。「姉貴は大丈夫?」とのことだった。大丈夫なはずがないよ。。。でもありがとう。。。「でも、かわいそうだけど、ももこは幸せな犬だった、決して不幸ではなかったよ」母が言った。その言葉だけが、救いだった。「ももこのことをかわいがったはず、大事にしたはず」って自分に言い聞かせないと、どうかなりそうだったけど、母に言われて救われた。私は、ももこが、大事で、大事で、大事で、大事で、大事でたまらなかった。おかげで、さほど犬好きではなかった旦那も、ももこが大事になった。あの震災の日、「電車は止まっているし、帰れないな」と思ったけど、「ももこがいるんだから、歩いて帰ろう」と言い出したのは、旦那だった。ももこがいたから、歩きと電車を繰り返し、最寄駅ではない駅から歩き、5時間ちかくかけて帰った。ももこは、震災の日、人様用のベッドの掛布団の上で尻尾を振っていた。無事だったどころかふつうだった。生き延びていてくれたし、ふつうに寝ていた。本当に、ももこのために帰ってきてよかったと思った。そんなに大事だった。でも、ペットロスにはなりたくない、と思ったし、ももこにも、そんなべったりと、分離不安症になってほしくなかったので、ある程度距離を保って、いいパートナー的な関係を作った。おかげでももこは、クールでいてくれた。その関係が、震災で少し狂った。ももこはすっかり不安症になり、粗相を繰り返したり、すぐに抱っこをせがんだり、神経質になった。私はできるだけももこを抱っこし、家の中でもモックに入れたりした。でも、この日の度重なる余震のとき、私はそばにいられなかった。それがももこの体調に追い打ちをかけたのでは?そう思えてならなかった。病院の先生は「「震災でストレスがたまった子がたくさんいるけど、さすがに死ぬまでは」といったし、震災のストレスで死んだとは思いたくない。それだとかわいそうすぎる。
Apr 12, 2011
「準備をしますからお待ちください。」と言われ、受付前で待った。その間に母に再度、電話した。母に電話するたびに、張り詰めていたものが緩み号泣した。「父と車で向かっているから」だと。父も一緒に来るとのことだった。とてつもなく、長い時間だった。その間にわんこがやってきた。救急病院だから、救急かもしれないけど、元気そう。見ていられるわけがなかった。そして、箱に入れられたももこが出てきた。倒れた時に、いつもの姿勢の、右側を下にした状態で倒れ、同じ姿勢でマッサージを受けたので、「きれいにしました」と言われて、箱に入って運ばれてきたももこは、見慣れた姿とは逆向きだった。しっくりこない向きを向いていて残念だった。ももこも落ち着かなかったはず。会計の時、アニコム使えますか、と冷静に聞いてしまう自分が不思議だった。でもそうでもしていないと、やっていられなかった。長くて、長くて、長い病院だった。帰りのタクシーは早かった。行きの抜け道はなんだったの?あれさえもっと早ければ。そう思ったりした。でも、肺水腫は、たとえ病院で吐かれても、措置は非常に難しい、と言われた。そう聞いたから納得するしかなかった。ひたすら自分を納得させた。マンションではだれにも会わずに部屋まで行けた。エレベータの中や、廊下や、血の跡が見えた。拭かねばと思った。でも、これもももこがいた証。申し訳ないけど、しばらくこのままにさせて、と思い、そのままにした。部屋に入ると、リビングの床は、血水だらけ。もう乾いている。ももこが最期に座っていた場所にも一滴。ここで自分で吐いたのか、運ぶ時に垂れたのか、わからない。わかりたいけどわからない。ももこをリビングの真ん中に置き、蓄冷剤をタオルで巻いて、おなかと背中に添えた。旦那が初めて、大声で号泣した。私以上の号泣だった。そんなんじゃ私が泣けないじゃん。
Apr 12, 2011
病院に飛び込み、「蘇生措置をしますから」と言われ、ももこを看護師さんに託した。親にメールすると、すぐに電話があり、母親が電話の向こうで絶叫した。「今からマンション行くから!」だと。車で1時間以上かかるのに、そんなことを言われ、とても驚いた。父親に「駅まで送って!」と叫んでいるのが聞こえた。その時初めて、力が抜け号泣した。促されて処置室に入ると、首と両前足の毛を剃られ、のどに気道を確保され、点滴されたももこがいた。口には看護師さんの手で息を吹き込まれていた。先生が懸命に心臓マッサージしていた。心臓の薬をうち、気道を確保し、点滴をし、息を吹き入れ、人工呼吸し、それでもももこに反応はなかった。ろっ骨を押すたびに毛が舞い上がり、ボサボサだった。先生が説明を始めた。「胃の内容物を吐いたわけではないし、肺水腫だと思う」とのこと。咳をしたりしてなかったかと聞かれたが、していなかった。ただ、ゲフっというのと、心臓がたまに荒くなるのは気になってたので、そのことを伝えた。「ほかの病院で、年のせいと言われたから仕方ないのかと思ってた」。そう伝えた。でも、何かあって、肺に水が溜まり、出てきたのはあくまで肺からの水。だからピンクだし、具合悪かったはず、とのことだった。「今、人工呼吸をしないと、すぐに止まってしまう状況。とても厳しい。もう、楽にさせてあげたほうがいいと思います。」そう言われた。もう、そうなんだろうなと思い、わかりました、と伝えた。ももこも、もう、苦しい思いはごめんだ、って思っているだろうし。決断するしかなかった。
Apr 12, 2011
本当に歩けないの?ちょっと確認したかったので、ももこを通り越し、2メートルほど先に座った。「ももこ~」と呼んだ。ももこは、尻尾を振りながら近づいてきた。でも様子がおかしい。よろよろと歩いている。足が震えているの?しびれたの?ももこが私の右腕のところまで来たので、抱っこしようとて抱えた。そうしたら、「ゲフっ」と声を立て、水を吐いた。ピンクの水だった。そしてバタンと倒れた。「ももこが血を吐いた!これ、血だよね!」私は絶叫した。ももこ、ももこと、何度も呼んだ。口の周りに血水がついているとつまってまずいと思い、キッチンタオルで拭った。その後も何度か、ゲフゲフと血水を吐いた。でも、ももこは、名前を呼ばれると起き上がり、ふせの姿勢で私を見て尻尾を振った。そして、また倒れ、そのしぐさをなんどか繰り返し、その後、動けなくなった。ぜーぜーと息をしていた。相方が救急病院とタクシー会社に電話し、その間私は、名を呼び続けた。でも、息が止まった。やり方はわからないけど、心臓を押し続けた。途中で何度かげふっと言って、舌が引っ込み、ももこと目も合った。相方もその様子を見ており「戻った!」といっていた。でもその後、まったく反応しなくなり、舌も出っ放し。目も開いたままダランとした。その頃タクシーがついた。抜け道を使ったつもりだろうけど、全然早くない。病院の人には10分くらい、と言われたけど、30分近くかかった。タオルで包み、名前を呼び続けたり、体をたたき続けたりしたが、反応なし。絶望感でいっぱいになった。
Apr 12, 2011
マンションのドアを開けると、乱れたうんがあった。「あ~やっぱり、雷鳴ったから、粗相したのね。ももこったら~」と、苦笑しながら中へ。いつもは、真冬は、人様用の布団から出てこず、布団の中で帰宅を待つももこ。それが暖かくなると、自分のハウスで寝ているので、タカタカと出迎えに来てくれる。でも、粗相した日は、怒られる!と思うのか、テーブルの下にいたまま出てこない。だからこの日も、出てこなかった。見ると、リビングの入り口でお座りしている。雷の時のいつもの様子で、ハアハアと焦った息をしている。旦那が先に「ももこ~、だめでしょ」と言いながら、ももこに近づいた。でも、ももこは、おすわりしたままだった。その前の廊下には、場違いなうん。こっちはまだ、しっとり新しい。案の定、2回したのね。「ももこが立たないよ、おかしいよ!」 旦那が大声を出した。度重なる地震で腰を抜かしたか?雷で腰を抜かしたか?怖かったもんね。ごめんね。そう言いながら、私もももこのもとに行った。
Apr 12, 2011
4月11日(月)月曜朝はいつも慌ただしい。シャワーを浴びて、洗面所の扉をあけると、ももこは扉の前にお座りしていた。あらら、起きてきてたのね。おはよう。朝ごはんはサンドイッチをかきこんだ。毎度の催促をしてきたので、毎度のごとく、ほんの少しだけ、白いパンの部分をあげた。いつもは毎朝交代で散歩し、毎朝のごはんは私があげてから出かける。ただ、月曜だけは違う。日曜に遊びまくって疲れているももこに甘えて、月曜朝だけは、ほとんど散歩をしない。だから、チーシートでチーをしてもらった。いつも通りに、シートでしてくれた。うんは出なかった。となると、帰宅したら、2回分があるのかな。そして月曜朝だったので、朝ごはんは相方に託し、急いで家を出た。月曜朝だけは、私が先に出るので、ももこに「待っててね」を言って扉を閉めない。だからこの日も、月曜だったので、私は朝ごはんを見届けず、「待っててね」も言わずに出かけた。この日夕方は、大きな地震が何度も起きた。ももこは地震ですっかりナーバスになっているので、早く帰らねば。そう思いつつ残業し、相方と合流し、スーパーに寄って帰った。この日は、地震に加え、嵐もあった。ももこはカミナリに弱い。雷が起きるとところ構わず、粗相をする。うんを変な場所でしたりキッチンマットでチーをしたり。「あ~、外も嵐だけど、家の中も嵐だろうな」と言いながらマンションに向かった。
Apr 12, 2011
4月10日(日)もちろん、ももこはいつも通り、朝食は間食した。すぐ出かけねばならなかったので、トイレを済ませず、自転車で出かけた。ももこはいつもどおり、お気に入りのモックに入れて行った。用事がすぐに終わったので、散歩。チー・うんは今日も快調もとい快腸だった。桜は満開だった。定位置で写真に納まった。2009年の9歳の誕生日に載せた写真と同じ位置でポーズ。相変わらず、通り過ぎる人たちには仔犬に間違われた。いったん自宅に戻った。ももこは疲れた様子だったが、外から戻ると寝入るのはいつものことだった。私はいったん出かけ、戻ってから昼食。いつも、ぜったいにおこぼれをもらいにくるももこが、珍しくベッドに居たままだった。ちょっとおかしいと思ったが、相当疲れてるのかと思った。再度、別の場所に花見に出かけることにした。この日が満開の桜をめでるラストチャンスだったから。そのときは、絶対連れて行け!と、ももこは、ひたすらせがみ、玄関で仁王立ち。体力が復活したのかと思い、当然、モックで連れて行った。ももことサイクリングがしたいから、お花見にでかけるんだよ。その日は、花見の帰りに、動物病院に寄る予定だった。4月のフィラリアの薬がないし、年2回の血液検査をやらねばだ。でも、ももこはサイクリングで疲れた様子だったし、次の週末でも間に合うから、その日は止めにしておいた。前の血液検査ではすべてが順調。歯石とりの全身麻酔も大丈夫と言われていた。ただ、呼吸がたまに乱れるのと、心拍が早いのと、たまにゲフっというのは気になっていた。そのことを話すと、心拍を測られた。脈も心音も乱れてないし、年のせいと言われた。レントゲンは撮られなかった。目が悪くなっているのも気になっていた。ガラスが白く濁っているわけではないし、瞳孔が開いているわけではないし、年のせい。見えているところは見えているとのことだった。どの犬でも10歳くらいになれば老眼になる、と言われた。だから、フィラリアは次の土曜で間に合うし、血液検査もその時でいいはずと思った。狂犬病もそろそろだし、次の週末が血液検査、その次の週末に狂犬病かなと思った。その足で、都知事選に向かった。ももこはモックに入ったまま。一緒に投票した。その晩のごはんは、せがんできた。でも、玉ねぎ入りのものばかりだったし、生野菜もないし、あげられなかった。冷ややっこの薬味がついていない部分だけ少しだけあげた。その晩テレビで映画を見た。その時ももこは、膝の上だったり、ハウスだったり、いろいろだった。いつものことだった。ももこはハウスで寝たままだったので、私はひとりで寝室に向かった。相方とももこは後から寝室に来たが、ももこは定位置の私の右腕の腕枕に納まった、とのことだった。右腕枕は、いつものことだった。ももこは、寝室に向かう前、必ず、お水を飲んでからベッドに向かう。キッチンでぴちゃぴちゃ飲む音が寝室から聞こえると、ああ、そろそろ本気で寝るのね、との合図だった。ただ、私は先に寝てしまったので、その日は、水を飲む音を聞けなかった。
Apr 12, 2011
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