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昨日は、「私の印象では文明社会の人より、むしろ森の中で素朴な生活をしている人の方がより高度な論理能力を持っているように感じるのです。」と書きました。ただし、彼らの論理は全ての論理が一緒くたになってしまっているので、対象や目的によってその論理を使い分けることができません。というより、彼らの生活には“生活”しかないので論理が分離する必要性がないのです。ですから、神様や宇宙のことと、目の前の石や魚が同じ論理で語られるのです。でも、文明が進み、人間社会の中に生活以外の様々な活動が増えてくると共に、それらを扱うために論理が分離してきました。経済が発展してくれば、経済を扱う論理が分離してきます。文学が発展すれば、文学を扱う論理が分離してきます。科学が発展すれば、科学を扱う論理が分離してきます。それは昔の医者は“人間丸ごと”を見てくれましたが、今の医者は“胃”や“腸”しか見ないのと似ています。そして、あまりにも科学を扱う論理が私達の生活に及ぼす影響が大きかったので、他の論理の価値が明確にされないまま忘れられてしまっているのです。からだでいえば、“脳”の働きがあまりにも大きいので、脳を扱う論理だけが全てに優先されて特別扱いされるようになってしまったというようなことです。一般的には、文明の進歩に伴って様々な論理が発明、発見され、増えていくように思われるのかも知れませんが、そうではなくただ“分離”していくだけなのです。無から有は生まれないのです。そして、分離していく過程で取りこぼしが起きてしまっているということです。だからこそ私達は、そのような素朴な人たちの物語に深く共感することができるのです。そこには全てがあるからです。では、その取りこぼしてしまったものを取り戻すためにはどうしたらいいのかということなんですが、そこで重要になってくるのが“言葉”と“表現”なんです。“言葉”と“表現”には分離したものをつなげる働きがあるからです。ということで、今日も中途半端ですが、ここで終わりです。明日から三重で仕事で、その準備があるのと、なんだかんだで仕事が山積みなのです。では、乞うご期待!ということで。************************************友人のかめおかゆみこさんのワークを、横浜の気質の勉強会のお母さん達が中心になって企画しました。絶対、面白いですからご都合のよい方はぜひおいで下さい。かめおかゆみこさんの「からだほぐし・こころほぐし」ワークショップ・日時 3/17(金) 9:45~11:459:30から受付開始。9:35までにはお越し下さい。・場所 都筑地区センター 和室(桃・桜)詳細はhttp://www.geocities.jp/nenemu2001/yotei/kame.htmでご覧になって下さい。ちなみに残念なことに私は別の仕事で参加できません。
2006.02.28
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昨日は色々な“論理の形”についてお話ししました。私がどうしてこのようなことにこだわるのかというと、人はより高次の論理を持つことでお互いに争うことの無意味さを知ることが出来るからなのです。ただ、ここで重要なことは高度な文明を持っている社会や高等教育を受けた人の方がより高次の論理を持っているとは限らないということなんです。一般的には高等教育を受けた人、文明国の人の方が教育を受けない人、自然の中で素朴な生活をしている人達より高い論理能力を持っているように思えるのかも知れませんが、実際はむしろその逆なんです。だから問題なんです。確かに、彼らには科学的な知識はありません。ロケットも飛ばせません。地球が丸いと言うことすら知らないかも知れません。でも、それらは論理能力とは関係のないことなんです。私の印象では文明社会の人より、むしろ森の中で素朴な生活をしている人の方がより高度な論理能力を持っているように感じるのです。森を壊せば動物だけでなく人も生きることが出来なくなります。海も死にます。全ての生命はつながっています。全ての出来事はつながっています。昔からの知恵として伝えられてきたこの事実に現代人が気付き始めたのはつい最近のことです。しかも、まだ一部の人しかこのような論理を知りません。でも、このような論理は2000年以上も前にはもうすでに出来上がっていたのです。それが、文明の進展と共に失われてきてしまったのです。どうしてそういうことになってしまったのかというと、現代人が“物のレベルで実証できる論理”だけにこだわるようになってしまったからなのです。つまりこれは昨日書いたレベルで言うと“3次論理”のレベルです。4次論理、多次元論理になると物の世界では実証できないのです。心の中でシュミレーションするしか確認のしようがないのです。時間と空間を自由に扱うことが出来るのは心の中だけだからです。そして、人間が“物のレベルで実証できる論理”だけでしか考えることが出来なくなった時、地球も人間も生命を支えることができなくなってしまいました。それをもう一度回復するためには、物を超えた論理の世界を人間が取り戻すしかないのです。そして、そのためにはどうしたらいいのかということなんですが、昨日“その流れは一次論理が発展して二次論理になり、二次論理が発展して三次論理になり、という風に展開していきます”と書きましたが、まずとにかく子どもたちに一次論理をしっかりと身につけさせることが必要になってくるのです。そのためには、子どもたちのからだ、感覚、感情、意志、意識、言葉が育つような活動を子どもたちにいっぱい与えてあげることが必要になるのです。今の子どもたちは本当に悲しいくらいこれらが育っていません。それでも、“便利な現代社会”を生きていくのには困らないかも知れませんが、そのような子どもたちが大人になっても“消費”するだけの生き方しか出来ません。それでは地球が、生命が困るのです。
2006.02.27
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今まで“正解はない”ということを言い続けてきましたが、でも今日は“客観的な正解がある”世界のお話しをします。私が“正解がない”と言うのは、人の心が価値を決めるような問題の場合です。つまり、子育てや人生には正解がないと言うことです。“病気で辛い”という人もいれば、“病気でよかった”という人もいます。“お金持ちでよかった”という人もいれば、“貧乏でよかった”という人もいます。そして、どれも“その人にとっては正解”です。でも、物質世界と論理の世界には正解があります。これは、個人的な好みや事情によって正解が変わったりはしません。そして、物質世界の正解に関しては数学や物理学という形で学校で学びます。でも、実はここで大切なのは正解の方ではなく、その正解を導き出す論理の方だと言うことはあまり理解されていないように感じます。私は物理と幾何学が大好きでしたが、その理由の一つが覚えなくてもすんだからです。他の教科は覚えないことには点数が取れませんでしたが、物理と幾何は覚えなくても考えれば答えが分かるので、非常に暗記力が乏しい私には合っていたのです。それと証明問題も好きでしたね。パズルを解いているようなワクワク感がたまらなくて、マンガと同じくらい好きでした。(今、高2の息子が同じような状態です。数学、物理は学年で上位クラスで、社会国語はビリクラスです。でも、私のように趣味で問題集を解いたりはしていないようです。我が家で私がそれを言うと変人扱いされます。)実は、科学の世界では学問として出来上がった数学や物理の知識より、この論理の方が重要なんです。ですから、いくら数学や物理の知識を覚えても、また実験が好きでもこの論理を使いこなせないことには科学者にはなれません。今、子どもたちの科学嫌いを何とかしようと、子どもが興味を引きそうな面白い実験を体験させる活動も盛んですが、多分あまり効果はありません。いくら実験を繰り返しても、それだけでは論理の学習にはつながらないからです。論理が分からなければどんな化学の実験も、手品やディズニーランドのショウやSFXの映画と同じです。“ただ面白い”だけなんです。実際、物理や科学といった分野では常に新しい発見があって、その知識は塗り替えられています。100年前の科学の常識と現代の科学の常識とは異なっているのです。(つまりここでも正解はないのですが、個人ごとに正解が違うと言うことはありません。)でも、そこで使われている論理は同じです。科学は変化しても、論理は不変なんです。ですから、子どもたちは学校で結果よりも論理を学ぶべきなんです。じゃあ、その論理とはなんでしょうか。難しく考えることはありません。“言葉”も論理によって成り立っています。共通した論理がなければ言葉が通じません。特に“考え”を伝える時には“論理”が必要になります。でも、この“考えを伝える”という学びは、日本の学校教育の中には存在していません。これは自分で自分の考えを言葉化する(表現する)という作業の中でしか身につけることができません。この論理的に考える力を身につけることが出来ないと、ただ感情に流されるばかりの思考しかできなくなります。すると、問題を解決する能力が育ちません。また、“木登り”にも論理が必要です。これは重力と木と自分の身体との関係性の論理です。この論理は世界共通です。ですから、日本の木登り名人はアフリカに行っても木登り名人です。けん玉にも論理が必要です。ザリガニやメダカを飼育したり、ウサギやニワトリを飼うのにも論理が必要です。生命や生態の論理です。でも、テレビゲームにはこのような普遍的な論理は含まれていません。テレビゲームの中の論理は、制作者が勝手に作ったものです。ですから、ゲームを変えてしまえば通じなくなります。でも、論理とはこのようなものばかりではありません。直接的な体験を通して学ぶことが出来る論理を“一次論理”と名付けると、論理には二次論理、三次論理があるのです。(この一次論理を私は“体験論理”と呼ぶこともあります。)例えば、ある人がある場所でA=Bという体験をしたとします。そして、別の場所でB=Cという体験をしたとします。すると、この人はA=Cという体験をしたことがなくても、論理的に考えることでA=Cを知ることが出来ます。A=Cは体験することができません。でも、体験したことがなくても体験によって学んだ論理によって、体験したことのない論理を構築することが出来るわけです。子どもたちは大体9才頃までは一次論理の世界に住んでいます。つまり、体験したことのないことはイメージできないということです。でも、9才を過ぎるとそれまでに体験を通して学んだ論理を組み合わせることで、体験したことのない論理をイメージすることが出来るようになります。これが二次論理になります。すると、実際にやったことがないことでも、“もしやったらどうなるか”という想像が出来るようになります。さらに、思春期が近くなると、他の人の論理と、自分の論理を比較して客観的な論理をイメージできるようになります。これが三次論理です。これで、異文化の人と話をしても、お互いに話しが理解できるようになります。でも、ここまではニュートン物理学レベルの論理です。そして、ここまでは人間の論理です。そして、ここから先は宇宙の論理になります。さらに、時間や空間をシフトさせ、より普遍的な論理を組み立てることも可能です。(四次論理)この論理が使えないと科学者にはなれません。もっと先に行ったら、時間や空間を消滅させて論理を組むことも可能です。(多次元論理)そして、これができないと“般若心経”が理解できません。そして、その流れは一次論理が発展して二次論理になり、二次論理が発展して三次論理になり、という風に展開していきます。****************中途半端ですが、今日はここまでにします。学校の講義のようで申し訳ありません。
2006.02.26
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ずっと、ブログを書いてきて難しいなあと感じるのは、“直接言葉では伝えられないこと”をどうやって言葉で伝えるかということです。直接的に伝えられないことは、間接的に伝えることしかできません。でも、間接的であるから、うけとり手によって全くちがった意味で伝わってしまいます。これは避けられないのです。例えば、童謡「浦島太郎」で“絵にも描けない美しさ”という表現があります。それで、たとえば10人の人に、“これはどんな美しさだと思いますか”と聞いたとしたら、10人とも違ったイメージを話してくれるでしょう。ここに正解はないのです。だから、正確にその美しさを伝えようと思ったら“床は大理石で、壁には宝石がちりばめられていて、エメラルドの珊瑚があって、・・・”と具体的に描写するしかありません。そうすれば、誰でも同じイメージを持つことが出来ます。つまり、正解が生まれるわけです。でも、そのように描写したとたん、それは“浦島太郎が見た美しさ”ではなくなってしまいます。それらは“物”に過ぎないからです。“美しさ”というものは“物”の側にあるのではなくて、浦島太郎の“心”の中にあるのです。だから、“絵にも描けない”のです。(絵本は正解を作ってしまいます。)むしろ、これは、その歌を聞いた人が一人一人違ったイメージを持つことが大切なんです。自分にとっての“絵にも描けない美しさ”を自分の心の中に思い浮かべることが大切なんです。その時、一人一人が“浦島太郎”になることができるのです。正解を決めてしまったとたんに、それは“人ごと”になってしまいます。ですから、心には届かないのです。この場合、大切なのは“正解”ではなくむしろ答えを探そうとする“心の働き”の方なのです。この“心の働き”が自分が納得する“答え”を創り出すのです。その時、その答えは一つではありません。10人いれば10通りの答えがあります。でも、“自分の心の働き”で発見した答えだからこそ、自分の心を納得させることが出来るのです。つまり、自分で発見した答えでないと、その人の問題を解決する力にはならないのです。ところが、多くの人が自分で答えを見つけることに躊躇しています。そして、色々な講演会に行ったり、本を読んだりして正解を探し回っています。でも、絶対に正解は見つかりません。一時、正解だと思うことはあります。でも、すぐに正解ではなかった事に気付きます。そして、また“別の正解”を探し始めます。昨日、一昨日と“よいことを伝える”事の大切さを書きました。でも、その“よいこと”の具体的な説明はほとんどしていません。私が“よいこと”という言葉で伝えたいことは“みんながしあわせになるような考え方や、行為、そして体験の全て”を指しているのです。と書いたっきりです。これは、自分で考えて欲しいのです。私にとっての“よいこと”と、あなたにとっての“よいこと”は違います。違って当然です。また、違うことが大切なんです。これを私が具体的に書いてしまったら、それは“よいこと”ではなく“正しいこと”になってしまいます。私のイメージの中では、“よいこと”は心に響き、“正しいこと”は頭に響いてきます。そして、“心に響くこと”は一人一人が自分で考えないことには自分の心に響かないのです。“絵にも描けない美しさ”と同じです。そして、自分の心に響くことだからこそ、子どもの心にも響くのです。そして、もう一つ今日私が言いたいことがあります。それは、“何を伝えるのか”ということにはあまり意味がないと言うことです。こう書いてしまうと、今まで書いてきたことをひっくり返してしまうようですが、そういうことではありません。そうではなく、一番大切なことは“自分にとって大切なことを伝えようとする想いと意志と行為”だということです。何を伝えたらいいのかという正解などありません。“伝えようとする意志”を持つことそのものが大切だと言うことです。今、大人たちにこれが一番欠落しているのです。親も教師も、また多くの大人たちもです。大人たちは“正解”を教えようとばかりしています。でも、正解は“自分のもの”ではありません。正解を教えている限り、自分に責任はありません。でも、そのような言葉は子どもたちに伝わりません。子どもたちは、“教えようとする態度”に反発し、“伝えようとする想い”に共感するのです。子ども同士のコミニケーションを考えてみてください。遊びの中で子どもは他の子に正解を教えたりはしません。子どもは常に自分の考え、自分の気持ちを言うだけです。子どもの世界に正解という概念は存在していないのです。ですから、大人が“正解”にこだわる限り、大人の言葉は子どもの心に届きません。繰り返しますが、子どもは“想い”に感応するのです。でも、そのようなことを言うと、多くの大人の人が“でも、私は何にも子どもに伝えるものを持っていません”などと言います。だから、子どもに伝えるべき“正解”が欲しいのだと。でも、伝えるものは何でもいいのです。自分の子ども時代の出来事、遊びでもOKです。掃除の仕方、お洗濯の仕方、包丁の使い方でもOKです。散歩の途中で見かけた小さなお花の美しさ、空の雲の面白さ、鳥の声の楽しさ、何でもいのです。ね、伝えることはいっぱいあるでしょう。生きている限り、伝えることは山ほどあるはずなんです。そのことに蓋をしてはいけません。そこで、ここで上に書いた“何を伝えるのか”には意味がない、ということにつながるのです。そのように、子どもに伝えるという視点で自分の生活や心の中を見つめていくことが大人の心の中に動きを目覚めさせるのです。そして、心が生き返るのです。心が生き返れば、子どもに言葉が届くようになります。そして、この“伝えよう”と心が動き始めることから“表現”が始まるのです。ちなみに、私はよくワークの参加者から“結論を言って下さい”と言われます。でも、結論は自分で考えないことには意味がありません。私が結論を言ってしまったら“正解”になってしまいます。
2006.02.25
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今日は、夜友人が泊まりに来るのでちょっと早めに書いておきます。昨日、ミンシュクベンベンさんが>正しい。より、たのしい。を優先させましょうか?と書いてくださったことに関係してです。そう、ここまで私が“よいこと”という言葉で書いてきたことは“正しいこと”という意味ではありません。“正しいこと”と言ってしまうと“正解”があるように聞こえてしまいます。すると、“正解を守らなくてはならない”、“正解を守らせるべきだ”という話になってしまいます。私が“よいこと”という言葉で伝えたいことは“みんながしあわせになるような考え方や、行為、そして体験の全て”を指しているのです。そして、そこに正解はありません。そして、そのような“よいこと”が子どもたちを“悪”から遠ざけると言いたいのです。悪に近付くなと言うだけでは、逆に子どもたちは悪に興味を持ってしまいます。ただ問題なのは、“悪いこと”や“正しいこと”はマスメディアでも流せますが、私の言うところの“よいこと”は人から人へ直接伝えないことには伝わらないということなんです。だから一人一人が、目の前の子どもたちに伝えていくしかないのです。
2006.02.24
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昨日のちょっと補足です。“善”は補色として“悪”を含み、“悪”は補色として“善”を含んでいます。ですから、“100%の善”を目指すと、必然的に“悪”が現れます。赤い色をずっと見ていると、目の中に緑が現れます。それと同じです。生命は外からの刺激に反応してバランスを取ろうとするのです。ですから、完璧主義はいつでも失敗します。生命の働きが勝手にその刺激に対する補色を生みだしてしまうからです。でも、そのバランスの取り方は生き物によって違います。さらに人間は個体によっても違います。その反応の仕方にはいくつかのパターンがあります。それは例えば・押されたら押し返す・押されたら固くなる・押されたら逃げる・押されても無反応というようなものです。そして、その反応パターンを理解すると“想い”と“結果”が違ってしまうということが少なくなります。うちの4番目は憂鬱質で泣き虫です。ちょっとしたことですぐ泣きます。そんな時、“泣くな”というと泣き続けます。でも、“いっぱい泣いていいよ。何分泣いていられるか記録を作ろうね。”などというと、泣きやみます。どうも、人の心というものは“あまのじゃく”に作られているようです。だからアダムとイブはリンゴの実を食べてしまったのです。(これは神様の責任だ)でも、その一方で環境に対しては非常に従順に作られています。暑ければ汗が出て、天気が悪ければ気持ちも沈みます。つまり環境に対しては従順だということです。生命は他者からの働きかけに対してはあまのじゃくに反応しますが、環境からの働きかけに対しては従順なんです。それは、他者からの働きかけに対しては“個”を守ろうとし、環境に対しては適応の働きが生じるからかも知れません。ですから、子育てでも教育でもこの性質を利用しない手はないと思うのですが、なぜかみんな逆のことをやっています。環境からの働きかけはほとんど考慮されず、それでいて大人からの(意識に対する)働きかけに対しては従順さを求めています。(ここでいう環境とは人工的な環境も含みます。)子育てや教育では環境からの働きかけが非常に重要な意味を持ちます。なぜなら環境からの働きかけは無防備に子どもの心とからだに染みこんでいくからです。でも、意識への働きかけは反応を引き出すように小出しにする必要があります。そうでないと逆効果になります。“すっごく面白いんだよ。でも、今は教えないよ。”と言われたら聞きたくなるものです。私は造形のワークでもすぐにやらせないことがあります。すると、子どもが“早く作りたいよ”と言い出します。そうなってから始めると、最初から“さあ、やりなさい”というより集中するのです。それをみんな最初から、“さあ、やりなさい”、“さあ、覚えなさい”とお皿に山盛りにして子どもの前に出してしまいます。それは家庭でも学校でも同じです。でも、それでは、やんなっちゃいますよね。そんな子どもの“あまのじゃく”につき合うためには、ちょこっと見せてニコッとして“今はダメ”というような“遊び心”が必要なのではないかと思っています。子どもは追いかければ逃げるし、逃げれば追いかけてくるのです。大人も少しあまのじゃくになった方がいいのかも知れません。
2006.02.23
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昨日、後半の方でしつけでも同じです。子どもの行為の中の“善”の部分に意識を向けてあげれば子どもはその“善”を意識することが出来るようになります。そして、色々な“善”を自分で考えることが出来るようになります。子どもの中の“悪”の部分に意識を向けてあげると、その逆が起きます。どうなるかお分かりですよね。と書きました。ちょっと簡単に、ここに補足を入れておきますね。今、世の中全体がおかしな事になっているのでちょっと強調しておきたいのです。子どもの無意識的な行動に“悪いことをしちゃいけない”と言い続けていると、子どもは“悪い事って何だろう?”と“悪いこと”に興味を持つようになります。そして、“やってみたらどうなるんだろう”という誘惑が湧いてくるのです。“この扉を開けてはいけません”と書いてあると開けてみたくなるのと同じ心情です。でも、逆に“良いことをしてるね”と言い続けていると、子どもは“良い事って何だろう?”と興味を持つようになります。そして、それをするとお母さんに褒められることを知って、子どもは良いことをするようになります。また、良いことをしても褒めずに、悪いことをした時だけ叱っていると、子どもは“悪いことをした時だけお母さんの気持ちを自分に向けることが出来る”ということを学習します。叱られるより、褒められる方が嬉しいのは当たり前ですが、子どもは無視されるよりは叱られている方が好きなのです。お母さんの気持ちを独占することが出来るからです。いつも“悪いことをしちゃだめ”と言っている人は、いつでも頭の中に“悪いこと”がいっぱい詰まっています。ですから、子どもが“悪い事ってなあに?”と聞けば、即座に色々な“悪いこと”がいっぱい出てきます。でも、そういうことを考えるって楽しいですか。そんな時のお母さんって子どもにはどのように見えますか。もしかしたら、そんなことを考えている時って“不安”がいっぱいなのではないですか。不安から出た言葉は子どもを不安にするだけです。不安になった子どもは安心するためにその“悪いこと”をしたくなります。(分かりますか、この心理・・・)子どもはいつでも“ダメ”ではなく、“じゃあどうしたらいいのか”という具体的な行動を示して欲しいのです。そして私の見る限り、“ダメ”が多いお母さんは、“じゃあ、どうしたらいいのか”ということは語ってくれません。実は、“悪いこと”はすぐ分かっても、“じゃあどうしたらよいのか”ということはなかなか分からないのです。“悪いことをしないことが良いこと”ではないからです。もしかしたら、そのようなお母さんの多くは“悪いことをしさえしなければOK”なのではないでしょうか。子どもに“良いことをする”事までは望んでいないのではないでしょうか。よく私のところに、“子どもが他の子に乱暴して困っています、どうしたらいいでしょうか”という質問が来ます。お母さんはいつも、“ぶってはいけない、優しくしなさい”と言っているそうです。でも、子どもは基本的に“○○してはいけない”という禁止後はあまり理解できません。さらに、怖い顔で“優しくしなさい”と言われても、その意味が分かりません。実際、“優しくしなけりゃだめじゃないの”と怒鳴っているお母さんが時々いますが、これでは子どもは“優しくする”とは“怒鳴ること”だと理解してしまいます。お母さんの言葉と、態度が一致していなければ、子どもはお母さんの言葉の意味を理解できないのです。それは、まずそうな顔をして“美味しいね”と言っているのと同じことです。そんな時は、“子どもたちにみんなで遊ぶ楽しさを体験させてあげて”と答えています。みんなで遊ぶ楽しさを知り、みんなで遊ぶようになれば、むやみに“仲間”をぶったりはしないのです。つまり、“友達をぶつ”という悪いことをやめさせるためには、“実際に楽しく遊ぶ”という体験が必要になるわけです。これが“悪いこと”をやめさせる“良いこと”になるわけです。つまり、“悪いこと”をやめさせるには“良いこと”を伝える必要があるということです。昨日も書いたように、“悪いこと”と“良いこと”とは共存できないからです。“悪いこと”だけを否定しても、“悪いこと”は消えないのです。ですから、ここで私が言っている“良いこと”とは“○○しなければいけない”というような道徳的なことではありません。みんなが仲良く幸せになるような考えや行動の全てが“良いこと”なんです。そんな“良いこと”をいつも考えている人の頭の中にはいつでも“いいこと・楽しいこと”がいっぱい詰まっています。ですから、子どもが“いい事ってなあに?”と聞けば、即座にキラキラするような“いいこと”がいっぱい出てきます。みんなと縄跳びすること。みんなでお花を植えること。みんなでお話しを聞くこと。これらはみんな“いいこと”です。でも、これを義務にしないで下さいね。義務にしてしまったら楽しくなくなります。楽しくなくなったら“いいこと”ではなくなってしまいます。子どもは押しつけられるとそれがどんなに良いことでも反発したくなります。“良いこと”を強制することも子どもたちに“悪いこと”への興味を抱かせます。子どもと一緒にそんな“楽しくてよいこと”をいっぱい考えていると、不安ではなく、信頼と希望が子どもたちの心の中に育ちます。それに、そういうことを考えていると人は元気になります。そんなお母さんの姿を見て、子どもは安心します。子どもも自分で“いいこと”を考えるようになります。だって、いいことを考えていると楽しいし、お母さんや友達と気持ちを通わせることが出来るからです。でも、今世の中全体が子どもたちに“悪いこと”を教えています。“○○しちゃいけないぞ”と脅すこと自体が、もう“悪いこと”を教えていることなんです。でも、“よいこと”は教えてくれません。このままでは、ますます難しい時代になっていくと思います。ということで、今日は短いですがここで終わります。オリンピックを見ます。では、・・・・。
2006.02.22
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昨日の最後に、子どもの無意識的な“ピョンピョン”も、大人が意識的に関わり、見てあげていれば、子どもはそれを意識するようになり、表現としての“ピョンピョン”を始めます。ということを書きました。今日はここを書いていきます。昨日も少し書いたのですが、表現には無意識的な表現と、意識的な表現の二種類があります。そして、無意識的な表現は身体的、感情的、本能的な反応によって引き起こされます。ですから、そのような表現は広く人間以外の動物にも観察することが出来ます。人間でも、赤ちゃんの表現はこのようなものです。だから、赤ちゃんは世界中で共通した表現をするわけです。でも、人間の場合は成長と共にこの人類共通の無意識的な表現から、それぞれの文化に合わせた形で、社会的な表現へと変化していきます。それは例えば挨拶や叱り方といった文化に属する表現です。みんなが同じ表現を共有することで、お互いにコミニケーションがとれるようになっているわけです。でも、みんなが同じ表現を使っているわけですから、自分たちの表現を意識することはありません。例えば、日本人は挨拶の時にお辞儀をしますが、普通そのことを意識することはありません。“握手”という別の文化の挨拶の仕方を意識するようになって“お辞儀”を意識するようになるのです。つまり、この“社会的な表現”も無意識的なものです。また、家族の中だけで通じる表現もありますが、これも無意識的なものです。さらには、気質などに基づいた個人的な無意識に基づく表現もあります。このように、成長と共に無意識的に表現や反応の方法が変化していくことを“適応”という言葉で大分以前に書きました。じゃあ、問題はどんな時に“無意識が意識化”するのかということです。このことが“表現”を考える時に非常に重要な問題になります。そして、無意識が意識化する時“自立した個”というものが目覚めます。つまり、“自立した個を持つ人”とは、“無意識に支配されない人”ということでもあります。それはまた、権力やお金に支配されない人ということでもあります。そのような状態を禅宗では“随所作主”と言います。今日、知り合いの紹介で一冊の絵本を買いました。「てん」(ピーター・レイノルズ著/谷川俊太郎訳/あすなろ書房)です。絵を描くことに自信がなく、絵を描くことが大嫌いな女の子の話しです。彼女は絵の時間に何にも描きませんでした。それで先生が、“なんでもいいから白い紙にしるしをつけてみて”と言います。それで彼女は破れかぶれでマーカーで思いっきり“点”を一つだけ描きます。そして、先生に言われるままサインをします。そして、翌日彼女が登校してみると、なんと先生の机の後ろに立派な額に入って彼女の「点」が飾られています。そこで彼女は“もっといい点だって描けるんだから”と色々といっぱい点を描き始めます。そして、結果として彼女の点の絵は学校の展覧会で大評判になります。“点”が彼女の“表現”になったのです。ここで何が起きたか分かりますか。最初の“やぶれかぶれの点”はそれもそれで表現かも知れませんが、無意識的なものです。ですから、そのままでは何の展開も変化も進展もありません。無意識は変化しないので“アート”にはならないのです。でも、その彼女にとっては“無意識的な表現”に過ぎないものを、先生が“意識的な表現”として受け止めてくれたのです。そのことで、彼女の中の“無意識的なもの”が“意識的なもの”へとシフトしたのです。そして、意識化されることで多様に変化させることが可能になったのです。つまり、彼女は一つの“自由”を手に入れたのです。だから“点”が“アート”になったのです。つまり、子どもの中の“無意識的なもの”が“意識化”されるためには、このようにその“無意識的なもの”を“意識的”に受け止めてくれる大人の存在が必要だということです。“そんなの当たり前じゃん”とか、“たかが点”などという受け取り方をしていたら、彼女の中で“点”が意識化されることもなかっただろうし、表現に変化することもなかったのです。また、“そんなの絵じゃありません”とか“絵はこう描くんです”とやってしまったら、彼女はそこで自分の表現に目覚めることもなかったでしょう。それはつまり、自由を手に入れることができないということです。なんか話しが難しくなって申し訳ありません。もう一つだけ簡単な例を出して終わります。生まれてしばらくしてからの赤ちゃんの笑顔は実は“反射”であって、“笑い”ではないそうです。でも、大人がそれを勘違いして“笑った笑った”と反応しているうちに、赤ちゃんは自分のその表情を表現として使うようになるそうです。でも、大人が無反応だとしばらくするとその笑顔は消えていくそうです。子どもの何気ない言葉、動き、表情などに大人が気付いて“気付いているよ”と返してあげる、それだけで子どもは自分でもそのことを意識することが出来るようになります。すると、自分でそれを変えたり、成長させたりすることができるようになります。しつけでも同じです。子どもの行為の中の“善”の部分に意識を向けてあげれば子どもはその“善”を意識することが出来るようになります。そして、色々な“善”を自分で考えることが出来るようになります。子どもの中の“悪”の部分に意識を向けてあげると、その逆が起きます。どうなるかお分かりですよね。幼い子どもの場合は“悪”を指摘するのではなく、“善”を指摘してあげると自然と“悪”は消えていきます。だって、この両者は共存できないからです。子育てや教育で“表現”の持つ意味が見直されなければならないのはその点なんです。教えることは時として子どもの成長を阻害してしまうことがあるのです。教えるのではなく、子どもの持っている様々な要素の中から導きたい方向に沿うものだけを意識化させ、気付かせてあげればいいのです。すると子どもはその方向で色々と試してみます。その過程で子どもの意識は目覚めていきます。すると自分で学び始めるのです。そして、それは“子どもを信じる”ことから始めます。性善説を信じれば性善説が真実になり、性悪説を信じれば性悪説が真実になります。子どもがそれに合わせてしまうからです。それが真実です。“表現”(アート)ということを考えていくと、このようなことも見えてきます。だから、学ぶことの全てが“アート”になる必要があるのです。
2006.02.21
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人は、何かを表現しようと意識したとたん、突然自分の頭と心とからだが自分のものではなくなったように感じます。それで、時には考えることが出来なくなったり、動けなくなったり、声が出なくなったりします。また、何を言っているのか、何をやっているのか自分でも分からなくなってしまうこともあります。どうして、そのようなことが起きるのでしょうか。日頃、私達の活動の大部分は無意識の働きによって支えられています。意識して考えたり、意識して歩いたり、意識して話したりはしていないものです。ですから、多くの人がその事にすら気付いていません。たしかに、考えている自分を意識していることはあります。歩いている自分を意識していることもあります。話している自分を意識していることもあります。でも、特別な場合を除き、意識して考えているわけでも、意識して歩いているわけでも、意識して話しをしているわけでもありません。そうですよね。でも、意識的(能動的)に何かを表現しようとする時には、意識して考え、意識して歩き、意識して話しをしなければなりません。つまり、人は表現をしようとする時には無意識な活動を意識による能動的な活動に変換しなければならないのです。つまり普段とは違う“自分の使い方”が必要になるわけです。そのため、そのような“自分の使い方”に慣れていない人は動けなくなってしまうのです。でも、そこから“表現”が始まっていくわけです。どんなに上手に踊っていても、夢遊病者の踊りはロボットの踊りと同じで表現ではありません。逆に、ずっこけながらの下手くそな踊りでも、自分の意志で動こうとしているのならそれは立派な表現です。少なくとも私はそう考えています。表現には“想いを伝える”、“考えを伝える”、“感情を伝える”という働きがありますが、その全てにおいて、その“無意識の意識化”が行われています。ですから、“ただ歩く”ということでも、意識して歩けば、それが“私にとっての表現”になります。普通に文字を書いている時には無意識ですが、お習字の時には意識して字を書きます。その時、字を書くと言うことが表現になります。また、今やっているオリンピックのようなスポーツでも、意識を通して身体をコントロールしている姿は表現そのものです。子どもがおままごとでお母さんやお父さんになっている時も、うさぎやアンパンマンになってごっこ遊びをやっている時も、けん玉や竹馬をやっている時も表現です。また、ワークなどでもやりますが、“スローモーションのようにゆっくりあるいて下さい”と歩いている姿はもう表現です。太極拳ではゆっくりと動きますが、あれは何をしているのかというとこの無意識の意識化なんです。それをすることで、高い身体コントロール能力を得ることが出来るわけです。そして、その姿がもう表現でもあるわけです。どうでしょうか。私は“表現”というものをこのように考えています。英語ではこの“表現”を“アート”と言います。普通、アートは芸術と訳されますが、アートはその内容においては“芸術”ではなく、むしろ“表現”に近いのです。ですから、“表現”は特別なものではありません。お料理を作る時も、お掃除をする時も、意識によってその動きをコントロールしようとするならそれも表現(アート)なんです。ちなみに、意識されていない動きは“表現”ではなく、無意識による“反応”に過ぎません。この反応は人間以外の動物にも普通に見られますが、“意識的な表現”は人間だけの活動です。(高等な類人猿にも似たようなものはあるようですけど。)もっとも、時にはこの“無意識的な反応”も表現として扱うこともあります。でも、それは見る側がそれを表現として見なしていると言うだけのことです。でも、人間の場合は、見る側がそのように“無意識的な反応”をも表現として扱っているうちに、本人はそれを意識的な表現に変えていきます。人は自分の向けられた意識を感じて、自分でも意識するようになるからです。子どもの無意識的な“ピョンピョン”も、大人が意識的に関わり、見てあげていれば、子どもはそれを意識するようになり、表現としての“ピョンピョン”を始めます。“アート”の始まりです。
2006.02.20
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今日は、以前からお知らせしていた「どろんこ座」のお二人をお呼びしての、劇遊びの日でした。すごく楽しかったです。でも、今は眠いです。ということで、今日はその劇遊びの報告だけで簡単に済ませます。*********************<あらすじ>子どもたちに愛されてきた桜の木が、“もう年寄りで、きれいな花を咲かせなくなった”という理由で切られてしまうことになりました。その桜が北風小僧に願いを託したのです。そして、北風小僧は未来への希望を運んで飛びました。☆みんなで桜の木になってみました。(桜1)(桜2)(桜3)(桜4)(湖の妖精)(北風)(北風をだまそうとする春風)(山を越えた北風)(桜の木の周りでわらべうたで遊ぶ子どもたち)(さあ、工事が始まった)(工事に反対する子どもたち)とまあ、こんな感じで話しが進みました。みなさん、お疲れさま。
2006.02.19
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今日は、子どもたちと横浜でやっている“ポップサーカス”というサーカスを見てきました。いやー、久しぶりのサーカス、楽しかったですよ。前回は、25年ほど前に、スペインで見たっきりです。でも、そのスペインで見たサーカスと、今日見たサーカスとでは大分雰囲気が違うことに気付きました。といっても、その内容のことではありません。(もちろん内容も違いますけど。)その違いとは、観客も含めた会場全体の雰囲気の違いです。スペインで見た時には、ピエロが観客に問いかけると、子どもたちが一斉に応えたのです。“Como esta su madre?”(お母さんは元気かい?)と聞くと、“Bien bien bien”(元気、元気)と大合唱が起きます。そうやって、“○○は元気かい”と“元気、元気”が延々と大合唱で繰り返されていました。その、観客と舞台の一体感がすごく印象的でした。でも、今日のサーカスはあくまでも舞台は舞台、観客は観客という雰囲気でした。素晴らしい演技で、みんな一生懸命拍手はしていましたが、一体感がないのです。“やる人”と“見る人”が分離してしまっているのです。以前、ディズニーランドに行った時にも似たような感じを受けました。にぎやかな音楽を流しながらパレードが通ったのですが、私はそのリズムにからだを弾ませながらパレードを見ていたのですが、他の人はただ、ジーッと熱心に見ているだけなのです。私は、その状態にすごく違和感を感じました。どうして、こんなに楽しい音楽、楽しいパレードなのにからだが動かないのか、どうして無表情でジーッと見ているだけなのか。また、別の時にも同じように感じたこともあります。それは、茅ヶ崎の障害を持っている人たちの作業所でのお祭りの時でした。そのお祭りのプログラムの一つとして“アフリカン太鼓で踊ろう”というようなワークがあったのです。専門の人たちが来て、生で演奏をしてくれました。それで、ファシリテータの人が、“みんなで踊ろうよ”と呼びかけたので、私も夢中になって踊りました。だって、太鼓がドンドコなっていたら踊らずにはいられないでしょ。でも、ふと気付くと踊っているのは障害を持っている人たちと、私とスタッフばかりでした。他にもいっぱい人はいたのですが、みんな黙って見ているだけなんです。まるで金縛りにあっているようで、なんか異様です。どうして、日本人は(こういう言い方は良くないのかも知れませんが、こういう言い方しか思いつきません)こうなんでしょうか。私の解釈では、簡単にいうと“からだが解放されていない”からなのだろうと思います。からだが解放されていないので感情が外に向かって動き出さないのです。感情が外に向かって動かないので、からだが動かないのです。そして、からだが動かないので、からだが解放されないのです。つまり、悪循環になってしまっているのです。この状態の人の心やからだはまるで鎧を着込んでいるようにガチガチです。でも、その鎧をぬぐように導くのは至難の業です。なぜなら、その鎧は自分の心を守るために、無意識のうちに自分で作り上げているものだからです。その鎧を抜いてでしまったら裸にならざるおえません。でも、多くの日本人はその裸の自分と向き合うことを嫌がるのです。それは多分、自己肯定観が低いからなのかも知れません。それでも、からだをゆるめ、自分のからだからのメッセージに気付いていくワークをすれば、からだも感情も動き出します。鎧も次第に薄くなっていきます。自己肯定観も高くなります。ただし、かなり長い時間がかかります。それに、限度もあります。でも、子どもたちはそんな鎧を着込んで生まれてくるわけではありません。ですから、子どもたちは自由に動き、自由に感じ、自由に表現します。その自由な状態がいわゆる“子どもらしさ”と呼ばれるものなんです。でも、そんな自由な子どもたちでも、成長の過程で、身を守る必要が生じて、鎧を作ってしまうのです。そして、“子どもらしさ”を失っていきます。その“身を守る必要”とは、否定されることによって傷つかないようにするためにです。ですから、鎧の厚さが自己肯定観の低さと比例しているのです。(反比例?)子どもたちは、否定されないためには、自分らしさを出さなければいいということを経験的に学んでしまうのです。日本の社会では、みんなと同じなら否定されないのです。“赤信号、みんなで渡れば怖くない”です。(欧米では、みんなと同じでは低い評価になるようです。日本とは逆です。)でも、その結果日本人は自分の頭で考える能力を失ってしまったのです。(日本人は非常に情報操作されやすい国民だと思います。“みんなやっているよ”と言われると、なかなか拒否できないのです。)私が主宰している、「ポランの広場」という親子遊びのワークではからだを思いっきり動かすことを大切にしています。(毎週火曜日、午前中です。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。2才~)それは、からだを動かすことが、感情の動きをうながし、感情の動きが知性の動きを目覚めさせてくれるからです。これらはドミノのようにつながっているのです。先日も、“ポランに来るとやせるよ”とお母さん達に冗談を言ったくらいです。でも、本当に遊びを通してからだを動かすと子どももお母さんも表情が生き生きとしてくるのです。そして、落ち着いてきます。また、仲間意識も高くなります。“竹馬の友”ですから。どうかどうか、“子どもらしさ”を否定しないでください。子どもらしさを否定すると、自己肯定観が低くなります。すると鎧が厚くなります。すると、自分の人生を生きることが難しくなります。人生が楽しくなくなります。ただし、毎回書くことですが、“子どもらしさを肯定する”とは、“言いなりになる”ということとは違いますからね。
2006.02.18
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今日は、昨日までの話題をちょっとお休みします。今日のテーマは様々な子育て方法、教育方法で言われていることに対して盲信にならないためにはどうしたらいいのかということを考えてみます。世の中には色々な子育て、教育に関する考え方、方法が存在しています。本屋さんに行くと、○○教育、○○法、○○メソッド、“子どもを天才に育てる方法”、“賢い子を育てる方法”などなど子育てや教育に悩むお母さん達の気を引くような本がいっぱい並んでいます。まず、“子どもを天才に育てる方法”、“賢い子を育てる方法”などといった“ハウツー本”は無駄なことは明かです。そのような本は、天才といわれるような子を育てたお母さんやお父さんが書くのでしょうが、まずそのお母さんやお父さんとあなたの能力を比べてみてください。そのようなお母さん、お父さん達よりあなたの能力の方が勝っているのなら、その本の通りに育てれば、子どもは天才に育つかも知れません。でも、そのようなお母さん、お父さん達よりあなたの能力の方が勝っているのならあなたはそんな本を読む必要がないでしょう。そのような本を買う人は、本に書いてあるとおりに育てたらきっと天才になるかも知れない・・・と思うのでしょうが、あなたの能力がその著者より劣っているなら、書いてあるとおりにその方法を実行することは出来ません。コマ名人がコマの回し方を書いていても、コマ回しをやったこともない人がそれを読むだけでコマ名人と同じようにコマを回せるようにはならないのです。そもそも、自分の頭で考えることが出来ない人が天才を育てることなど出来ません。また、○○教育、○○法、○○メソッドというようなものはどうでしょうか。まず、子どもの一生というスパンで子育てや教育のことを考えていない方法はやめた方がよいと思います。そのようなものの多くは、単なる“能力開発”に過ぎません。確かに、子どもが思春期前で、親の指示に従っている時期なら“能書き通りに”能力が開発されることもあります。でも、人生はそこで終わりではありません。やがて、思春期が来て、自分の意志で何を学ぶか選択するようになった時に、(どんなに親にとっては嬉しい能力であっても)子ども自身がその能力に価値を見いだすことが出来なければそれまで学んできたことを子どもは未練もなく捨ててしまいます。実際、“天才”と呼ばれるような子どもたちはいっぱいいますが、でも、その子達が大人になってからも天才的な仕事をしたという話しはあまり聞きません。その逆に、大人になってから天才と呼ばれた人たちでも、子ども時代はおちこぼれだった人たちもいます。エジソンやアインシュタインもその仲間です。天才は“生まれる”ものであって、“作る”ことはできないのです。大人が出来るのは“生まれる手伝い”だけです。また、一生というスパンで子育てや教育を考えているからといって、それだけでそのまま信じてはいけません。私は、“効能書きが立派な薬”、“病気を治す薬”が良い薬なのではなく、“体を健康にしてくれる薬”こそが良い薬だと考えています。病気を治すだけの薬は時としてからだを弱くします。そういう意味で、子どもの場合は、時としてお母さんの優しい笑顔が一番の薬だったりするのです。特に、教育ではこのような考え方が非常に重要です。それと同じで、理論ばかり、また“こうすれば、こうなる”的な結果主義の子育て、教育方法を私は信じていません。私の考える子育てや教育の目的は、子どもたちを“生まれてきて良かった”と親や自然や仲間に感謝し、“生きているって楽しい”と生き生きと生きることが出来る人間に育てることです。成績など、それ以外のことは“おまけ”です。また、教育現場で“○○をしてはいけない”、“○○をしなさい”というような指示、命令が多い場合は、親もその意味をしっかりと知っている必要があります。そして、その指示命令を守っている子と、守っていない子の間に意味のあるレベルで違いが存在する必要があります。その違いが確認できないのなら何かがおかしいのです。何かが見落とされているのです。“理論”ばかり見ていて、その理論を現実に適合させていないことも考えられます。学校では“水は100°cで沸騰する”と習います。でも、“だから水は100°cで沸騰しなければならない”と考えると間違ってしまいます。私達がお湯を沸かしても、現実にはちょうど100°cで沸騰することは滅多にないのです。(水の中の不純物、気圧などが関係してくるからです。)また、先生がどんなに立派なことを語っていても、実際にそこの子どもたちが生き生きとしていないのなら、その語っている言葉に現実性はありません。その先生には子どもの現実を見る目がないということです。さらに、教育者はその教育方法が目指す人物像を明確に語るべきです。なぜなら、どのような人物像を目指すのかで教育方法も、その方法の解釈も全く異なってしまうからです。ですから、その理想とする人物像を知らないままその教育方法を取り入れるのはやめた方が無難です。なぜなら、先生の言うこと、やることと、お母さんが言うこと、やることに矛盾が生じるからです。それでは子どもが混乱します。また、その教育方法がどんなに素晴らしいとしても、その指導者が素晴らしいとは限りません。その指導者がその教育方法を単なるマニアルとして理解していたとしたら、その教育方法の理念通りには子どもは育たないでしょう。また、その教育者にその人が考える実在の理想の人物を聞いてみて下さい。(たとえば、ヘレンケラーとか、ナイチンゲールとかいったような人たちです。もっと身近な人でもかまいません。)そして、その人物の生い立ちを調べてみて下さい。そして、その人物が、幼い時にその指導者の言っているのと同じような子育てを受けていたのなら納得できますが、全然異なっていれば話しが矛盾しています。(そうですよね)○○教育というようなものを創始した人が、その○○教育のような教育を受けて育ったのか、また先生達がその教育法で育ったのかどうかも興味があります。“こうじゃなきゃいけません”、“そんなことしてはいけません”と立派なことを言ってる先生自身が、幼い時にそのような教育を受けていないのならそれをどのように解釈したらいいのでしょうか。それは、少なくともそれを守らなくても、子どもはその先生程度にはなれるということを意味するのではないでしょうか。私達は、頭で考えた方法や理屈や観念に囚われずに、子どもたちとの実際の響き合いを通して、子どもとの関わり方を学ぶべきなのではないかと思うのです。その時に、手助けとなるような考え方こそが本当に子どもを育てる方法なのではないかと思っています。
2006.02.17
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昨日は失礼しました。でも、ちょっと疲れただけみたいで、風邪は進行していません。ご心配をおかけしました。ということで、昨日の続きです。まず。goo辞書によると“表現”という言葉は明治に入ってから出来た言葉だそうです。多分、欧米の文章を訳す過程で作られた言葉なんだろうと思います。ということは、それ以前の日本には“表現”という観念はなかったのだろうと思います。もちろん、“自己表現”などという発想は全くなかっただろうと思います。そして、言葉は確かに生まれましたがでも、その実際はどのようなものかは今に至るまであまり知られていないのではないかと思います。確かに、辞書に書いてあるような解釈は知っているかも知れません。でも、それは解釈であって実際とは違います。その実際を知るためには、その言葉が生活の中で生きている文化の人との触れ合いや、関わり合いが必要になるのだろうと思います。私は、大学で英会話を学んだ時に初めて外人の人(先生)と関わりました。そして、びっくりしました。まるで毎回の授業が演劇のようでした。ちなみにその先生はカソリックのシスターで、演劇関係の人ではありません。それでも、毎回大げさな身振り、大げさな表情、大げさな反応、大げさな感情表現に“ああ、こうやって自分の感情を出してしまっていいんだ”と、新鮮に驚いたわけです。そして、その時自分の中の何かが開放された気がしたのです。でも、もちろん外人を見たのはそれが初めてではありません。私が子どもの頃は毎日アメリカのホームドラマをやっていましたから、そのような大げさな表現はテレビの中では知っていたわけです。でも、テレビの中と、実物とは大違いでした。テレビの中では自分とは関係のないところでやりとりが交わされますが、授業ではまさに私の関わりの中でその表現を体験するわけです。私が何か言うと、それに“Oh・・・”と感情豊かに応えてくれる“実物”が目の前にいるわけです。すると、当然、私の方も“Oh・・・”という表現が自然に出てくるのです。そして、先生はそれをまた感情豊かに肯定してくれます。そして、“今日の先生は奇麗だね”とか今まで女の人に言ったことのないような言葉が自然に出るようになるのです。これは、テレビや映画を見ていても絶対に体験できないことです。自分が表現して、相手がまた自分の表現で返してくれる、その繰り返しの中で、“表現”というものを学んでいくのです。それは言葉の学習と似ています。ですから、明治時代になって“表現”という言葉が作られたのにもかかわらず、そのような体験の乏しい日本人のコミニケーションは未だに言葉だけなのです。でも、そんな日本の中でも“表現”(特に身体的な表現)が得意な人たちがいます。それが昨日書いた子どもたちと、そして障害のある人たちなんです。(子どもというものは、世界中で同じような自己表現をします。それは年齢が低ければ低いほど似ています。それを読みとって、子育てに生かそうと考えた人もいて、ベビーサインという名前で紹介されています。)どうして、子どもや障害を持った人たちが表現が得意なのかというと言葉を使いこなせない彼らにとっては、様々な身体的な表現が親や他の人たちとの非常に有力なコミニケーション手段だからです。(でも、それを読みとれない大人が増えてきてしまいました。そして、子どもにすぐに説明を求めます。)また、それは両者とも“むき出しの魂”で生きているからです。だから、彼らは魂で起きていることを隠すことが出来ないわけです。だから、傷つきやすいのです。そして、私は子どもたちや障害を持っている人たちといるのがすごく楽なんです。感じたままを表現してOKだからです。でも、正確に言うと彼らの“表現”は大人の“表現”とは違います。大人の魂は理性の奥に隠れてしまっているので、魂の動きがそのまま外に出ていくことはないのです。たとえ、上に書いたような表現力豊かな欧米の人でも、魂の動きをそのまま表現することはしません。表現するものと表現しないものをちゃんとフィルターにかけて、さらに表現するものを相手に通じやすいように加工しています。それが大人の表現力なんです。でも、大人の“表現”も子どもの“表現”も根っこは同じ“魂”から出ています。“魂”の動きが表現の源なのです。日本人はその魂の動きを、自分の内側だけに留め、外に現しません。それが日本人の美徳だったわけです。あまり、自己表現が多いと“はしたない”と言われました。かすかに漏れてくる程度が美しかったのです。でも、それでは隣に住んでいる人の名前も分からない現代社会では生きていくことはできません。子育ての助け合いも、子どもの仲間作りも出来ません。自己表現の場合、相手に通じるかどうかをあまり気にする必要はないのです。通じない人には通じないし、通じる人には通じます。それはしょうがないのです。無理に通じさせようとあれこれ考えてしまうと、説明になってしまって素直な表現ではなくなってしまいます。また、押しつけになってしまうこともあります。すると、自己表現ではなく、自己主張になってしまいます。大丈夫、その“通じる人たち”があなたにとっての仲間なのです。自己表現は仲間作りの方法でもあるのです。お互いに相手に合わせるだけのつながりでまとまっているグループは誤解が生じやすく、ちょっとしたきっかけで崩壊します。自己表現は花が咲くように、肩の力を抜いて“内側から押し上げてくる何か”に“ポン”と形を与えてあげるだけでいいのです。ここで大切なことは、自分の内側の魂の動きに敏感になることです。自分の魂をしっかりと感じてください。それがないと、ただの演技にしかなりません。そして、その自己表現の方法は子どもたちに学んでみてください。大人のやり方を押しつけるのではなく、子どものやり方を学んでみてください。子どもの魂がどのように動いているのかを感じてみてください。あなたの側に外人はいないかも知れませんが“子ども”という異邦人はいるわけですから、その異邦人に学べば、あなたの自己表現能力も育つと思いますよ。
2006.02.16
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昨日、“自己表現”について書きましたが、今日はそれと似た言葉“自己主張”について少し書いておきます。この両者がどうも混同されているように感じるからです。私は、日本人は自己表現は苦手ですが、自己主張は結構きついように感じています。ちなみに、「主張」と「表現」という言葉を辞書で調べてみました。(以下、いずれもgoo辞書から)「主張」(1)いつも持ち続けている強い意見・考え。持論。「―が通る」「―を曲げる」(2)自分の意見を言い張ること。「強硬論を―する」「表現」(1)内面的・精神的・主体的な思想や感情などを、外面的・客観的な形あるものとして表すこと。また、その表れた形である表情・身振り・記号・言語など。特に、芸術的形象たる文学作品(詩・小説など)・音楽・絵画・造形など。「適切な言葉で―する」「―力」「―方法」(2)外にあらわれること。外にあらわすこと。〔明治時代に作られた語〕これを読めば一目瞭然。両者は全く異なったものです。簡単に言えば、“主張”は自分の内面とは関係のないことに関する意見、考えであり、“表現”は自分の内面にある“何か”に言葉やからだを通してに具体的な形を与えることです。(日本では、表現という言葉、考え方が明治になってようやく生まれたということを覚えておいて下さい。)ですから、いつもいっぱい話す人、自分の意見をはっきりという人が自己表現が得意というわけではないのです。それは“主張”に属するのです。時には、かえってそういう人は自分と向き合うことが苦手で、自分を表現することは苦手なものです。また、無口な人が自己表現が下手だというわけでもありません。言葉では語らなくても、行動やしぐさや表情で表現していることもあるからです。そして、子どもたちはいつでも自己表現をしています。ただし、それは言葉でではありません。だから、なかなか読みとれないのです。それに対して、大人は子どもに対して自己主張しています。自分のことは語らず、理想、空論を話しています。でも、この両者はかみ合いません。****************ごめんなさい。どうもちょっと風邪の引きはじめのようです。眠いので、中途半端ですがここでやめておきます。
2006.02.15
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今日は、以下の“ガキ大将”さんの問い合わせにお答えする形で書いてみます。“ガキ大将”さん、毎回有り難うございます。他の方もご質問などあれば、お気軽にお書き込み下さい。ここの部分難しくて大変ですが、心のどこかでどーせ私の本当のところは、みんなには、わかってもらえない。と、周りを信用できません。でも、これは、自分を素直に表現する事が苦手で誤解ばかり受けていた経験からのトラウマかも知れません。表現する事は、いろんな場面で必要です。どんなトレーニングをするといいのでしょう?トレーニングは、必要でしょうか?自分と向き合わねばならないでしょう。ここの部分も苦手だと感じています。まず、“心のどこかでどーせ私の本当のところは、みんなには、わかってもらえない。と、周りを信用できません。”の部分ですが、これはガキ大将さんだけでなく、実はみんな同じように感じているのです。実は私もそういう感じを持っています。でも、分かってもらえないから辛いこともありますが、分かってもらえないから楽な部分もあるのではないですか。みんなが人の心を分かるようになったら、かえって困るでしょ。(思春期の子どもは“大人は何にも分かっちゃくれない”と言って自分を正当化します。“じゃあ、分かるように言ってごらん”と言ってもそれを語ることはできません。自分でも自分の気持ちが分からない時に、そのもどかしさ故に“誰も分かっちゃくれない”と言うのではないでしょうか。自分で自分の気持ちが分かっている子はちゃんと行動で表現しようとします。)日本では自己表現を求められませんから、“みんな分かってくれない”といって、人に合わせるだけで生活することも可能ですが、でも、だからといってみんなが自分を表現することをやめてしまったらどうなるでしょうか。だれも自分を表現しない社会を想像できますか。そういう生き方が好きですか。そういう生き方が出来ますか。確かに、昔の日本ではそのような生き方が美徳だったのかも知れません。でも、今の日本ではそれでは生きていくことが出来ません。そもそも、自分の生き方を自分で選ぶことが出来る自由な社会では、“私の生き方”そのものが、私の自己表現なんですから、誰だって自己表現はしているのです。ただ、“これが私の生き方です”と言い切ることが出来ないだけです。それは、自分で自分の生き方を選ぶのではなく、ただ期待に応えるだけの生き方しかしてこなかったからなのかも知れません。だから、自分でさえも、自分の本当の心が分からなくなってしまっているのではないでしょうか。もしかしたら、“みんな分かってくれない”という想いは、“誰か私に私の生き方を教えて”という想いとつながっているのかも知れません。これはガキ大将さんがということではなく、思春期の若者達を見ていてそう思うのです。ワークで輪になって同じ質問に何回も何回も答えていくということをやります。例えば、“やってみたいこと”という質問に答えてもらいます。一周回ったら、“それが叶ったら次に何がやりたい”と、ずっと同じ質問を回していきます。それを何回も繰り返していきます。すると、面白いことにタマネギの皮をむくように次々と新しい“やってみたいこと”が湧いてくるのです。時には、本人が思いもよらなかった“やってみたいこと”が出てくることもあります。自分でも忘れていた子どもの頃の夢だったりもします。そうやって自分を発見するのです。多くの場合“今やりたいこと”と“本当にやりたいこと”は違うのです。でも、ほとんどの人が“今やりたいこと”だけが頭の中にあります。その他の“やりたいこと”はその、目の前の“今やりたいこと”に隠れてしまっているのです。そして、“今やりたいこと”の中に自分の姿を映して、それが自分の心だと思いこんでいます。でも、人の心は何層にも重なっているのです。そして、自分で意識することができる心は一番表面の心だけなんです。その他の大部分は無意識の中に隠れています。でも、ここで面白いことがあるのです。その表面の心を何らかの形で表現してみると、その表面がはがれて、その下に隠れていた心が顔を現すのです。自分を表現することの意味は、他の人に自分を分かってもらうということだけではないのです。自分を表現することで、自分で自分が分かるようになるのです。そして、このことは他の人に分かってもらうことよりずっと大切なことなのではないかと思うのです。ですから、自分を表現することをためらう人は自分で自分のことも分かっていない可能性が高いのです。このような理由から、気質の勉強会では表現すると言うことを非常に大切に考えています。表現することで、自分と出会うのです。自分と出会うことで自分の気質に目覚めていくのです。すると、自分の人生を自分の意志で生きることが出来るようになります。分かってもらえなくったっていいのです。でも、分かってもらえなくてもいいといって自分を表現することをやめたら、自分のことも分からなくなってしまうのです。そうしたら自分の人生を自信を持って生きることが出来なくなります。でも、そんな人生虚しいでしょ。自分のことを知るために、自分を表現してみませんか。そして、自分の足で自分の人生を生きてみましょうよ。次に、簡単にどんなトレーニングをするといいのでしょう?トレーニングは、必要でしょうか?自分と向き合わねばならないでしょう。という質問に答えておきます。まず、具体的に考える癖を付けてください。よく、“総論賛成、各論反対”というような言葉を聞きますが、漠然と考えている時には本当の自分の心が見えてきません。“世界が平和になるように”と願う人はいっぱいいます。一部の人を除いて、ほとんどの人がそう思っているでしょう。でも、そのような漠然とした考えの中に浸っているだけでは自分の心は見えてきません。また、どうして戦争がなくならないのかも理解できません。戦争をしている人の気持ちも理解できません。具体的に考えてみてください。あなたが考える“世界の平和”とはどのようなものですか。ここで、“みんなが幸せに生きることが出来る世界”などと言わないで下さいね。これは“世界が平和になるように”という言葉と同じくらい漠然としていますから。あなたにとっての幸せと、私にとっての幸せは同じではありません。あなたが幸せになることが私の幸せを奪うかも知れません。私が幸せになることがあなたの幸せを奪うかも知れません。そういうことまで含めて、具体的に“平和な世界”を考えてみて下さい。そのように、具体的に、具体的にと考えていった時、その過程で人は自分と出会います。他人に向けて何かすることだけが自己表現ではないのです。意識と意志の働きによって、“自分の中の何かに具体的な形を与えることの全て”が、そのまま自己表現なのです。行動する時にも、人に何かを語る時にも、具体的に考えて、具体的に行動して見て下さい。でも、そうすると人とぶつかりやすくなります。総論だけで済ませていれば、みんな仲良くつき合うことが出来ますが、具体的な話しをし始めると、意見の違いが出てきます。特に、具体的に考えたくない人たちが反感をぶつけてくるでしょう。(日本人はそういう傾向が強いのです。)でも、最終的には具体的なイメージを持った人だけが先に進むことが出来ます。戦う必要はありません。とにかく具体的に話し合うことです。そこに勝ち負けはありません。また、“自分と向き合わねばならないでしょう”という点ですが、“自分と向き合う”というと、“辛い過去と向き合う”というようなイメージを持っている人がいますが、そんな必要はありません。人は具体的に考えようとするだけで、自分と向き合うことになるのです。癒しのワークショップなどでは、“自分の中の、向き合いたくないもう一人の自分”と向き合うことを求められることもありますが、私の考えではあれはあまり意味がありません。ただ、タマネギの皮が一枚むけるだけです。あんなに無理矢理に皮を剥ぎ取らなくても、具体的に自分の想いを表現していこうとするだけで、自然に皮はむけていくのです。
2006.02.14
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普段、私達は“論理”ということをあまり意識しませんが、全ての存在には固有の論理というものが内包されていて、その論理を理解することでそのものと関わることが出来ます。簡単な例では“言葉”です。言葉を学ぶと言うことは単に単語を覚えることではありません。言葉の論理を自分の論理として使えるようにならないと言葉は理解できないのです。ですから、子どもをテレビ漬けにしても言葉を学ぶことはできません。論理は体験を通して学ぶものだからです。物にも論理は含まれています。石には石の論理があり、木には木の論理があります。それが分からなければ石や木を刻む彫刻家にはなれません。大工や庭師にもなれません。整体師はからだの論理をよく知っています。だからからだを治すことが出来ます。エンジニアは機械や電気の論理をよく知っています。だから機械を設計することも、作ることも、直すこともできます。人間が使う機械には物の論理だけでなく、人間の論理も含まれています。まず、その機械が必要な背景も論理を含んでいます。また、機械を使いやすく設計するという思想の中にも論理が含まれています。ですから、共産主義の国ではあまり外国の品物が自由に入ってくることを歓迎しません。人や本ではなく、物そのものが自由主義経済の論理を持ち込んでしまうからです。そして、人間は大きく分けて“心の論理”と“物の論理”という二つの論理を使い分けて物事を理解しています。でも、その“心の論理”もまた“感覚の論理”、“感情の論理”、“体験の論理”、“からだの論理”など様々な論理を含んでいます。でも、ここではそのようなものをまとめて“心の論理”という風に扱ってしまいます。なぜなら、それらは全て人間の心に映った論理だからです。“物の論理”については昨日お話しした、1+1=2というような抽象化された論理のことです。これは現実とは切り離された論理で、現実の世界の中で確認することはできません。ただ、その論理に従ってロケットを作ったら、ちゃんと飛んだという事実から、その論理が正しいことを知るだけです。学校では、“ミカン一つとミカン一つを足すと”と教えるのかも知れませんが、それは1+1と似てはいますが、同じではありません。数学的には左側の1と、右側の1は100%同じでなければなりませんが、そんな物は現実世界には存在しないのです。あるとしたら、素粒子の世界においてだけです。でも、素粒子の世界では1+1=2にはなりません。そして、学校ではその現実世界で確認することが出来ない論理を子どもたちに教えています。だから、子どもたちは算数が苦手なんです。どうしてだか分かりますか。思春期前の子どもたちは、直接自分の感覚で感じることが出来る世界しか認識できないからです。子どもたちが実際に生きているのは心の論理の世界です。芸術はその心の論理の結晶です。絵画や音楽は心の論理に従って作られています。そして、その心の論理の世界には正解はありません。これは昨日書いたとおりです。さらに、心の論理では“量”より“質”が重要な意味を持ちます。というより、“心の論理”は“質の論理”なのです。そして、それが芸術の論理になってきます。芸術で問われるのは量ではなく、質なんです。昨日、“算数の答えではなく、考え方を評価すべきだ”と書きましたが、これも質です。でも、日本の学校には“質の論理”を学ぶカリキュラムがありません。内申書は子どもの質を評価していますが、どのようにその質を客観的に評価するのかという方法を先生達も学んでいません。だから先生との相性が悪いだけで悲惨なことになってしまうのです。心の論理、質の論理は実際に他の人との様々な“心の表現のやりとり”をすることで学ぶことが出来ます。教科書では学ぶことが出来ません。また、ペーパーテストで試験することもできません。でも、これは学び直すことができます。大人になってからでも外国語を学ぶことが出来るのと同じです。多様な“心の表現のやりとり”をいっぱい体験することで、人は心の論理を学びなおすことが出来るのです。すると、芸術的な感覚も目覚めてきます。自分を表現することから逃げなければ、救いはあるのです。
2006.02.13
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昨日のブログに対して、“ガキ大将”さんから>そして芸術的な方法での他者との関わり方を学べないまま他の人と関係を持とうとすれば“支配と服従”という形でしか自分の居場所を作ることが出来ないのです。>逆に言えば、支配と服従が中心の社会では芸術的な学びは価値がないのです。>>ここの部分が良くわかりません。というコメントを頂きました。ということで、今日はここから始めます。芸術的な世界では答えは一つではありません。そうですよね。同じ風景を見て描いた絵でも人によって全く違った表現になります。また、同じ作家が同じ風景を描いても同じ絵になるとは限りません。つまり、芸術的な世界には正解はないのです。と言うより、人間の生活の中で正解が一つだけしかないなどということはめったにないことなんです。夕食を何にするか、挨拶をどうするか、失敗した時どう謝るかなどなどということに正解はないのです。人間と人間の関係、人間と自然の関係には正解などないのです。正解があるのは抽象化された“物と物の間”にだけです。例えば、1+1=2は物と物の関係で考える時にだけ正解になります。しかも時間の流れを考えない時です。人と人なら、“男性1人+女性1人=2人以上の可能性あり”という計算式しか成り立ちません。時間の流れまで考えると、“ミカン1個+ミカン1個+1年=腐って0になっている可能性あり”ということになります。そうですよね。この計算式間違っていますか。これが人間が生きている現実の世界です。このような考え方が出来ないと、現実世界では生活していけません。実は、私が言うところの“芸術的”という言葉の意味は、人が人や自然との関わりの中で自由に生きて、自由に生活するために必要な考え方、感じ方、方法のことに過ぎないのです。ですから、この言葉から連想されるような高尚なものではありません。でも、それがなければ芸術は生まれようがないのです。その“自由”に形を与えたものが“芸術”だからです。学校で教わる“1+1=2”の世界は物の世界の論理です。物の世界には正解があります。だからロケットが飛ぶのです。でも、客観性の育っていない子どもたちは生活や感情から“物”を分離できません。算数では全てのミカンが等価です。でも、子どもにとっては全てのミカンが異なります。だって、色も大きさも味も違うのですから。大きなミカン1個+大きなミカン1個=小さなミカン2個だったら子どもたちは納得しません。それが子どもの論理であり、芸術的な感情なんです。学校で教えていることは“物の論理”です。ですから、そこにはたった一つの正解しかありません。芸術であろうとなんであろうと、学校では“物の論理”に変換して教えています。だから、正解を一つに決められるのです。心の論理まで含めたら正解など決めようがなくなってしまいます。ですから、子どもたちはまずそのことが理解できません。芸術的な感覚の中に生きている子どもたちにとって、正解が一つしかないということが理解できないのです。でも、長い間学校に通っているうちに、今度は“正解があるのが当たり前、正解があった方が安心する”という感覚に変わっていきます。物の世界の論理でしか考えられなくなってしまうからです。それで、絵画や音楽、はては子育てといった本来正解など存在しないはずのものにまで正解を求め始めます。そして、自分の感情や感覚を語ることが出来なくなります。正解のないものを語る方法を知らないのです。(芸術は正解のないものを扱う方法でもあります。ですから、子育ての場では非常に有効なんです。それなのに、子育てまで物の論理で行おうとしているのですから、トラブルが起きて当然です。)教育の場では本当は、“正解かどうか”ではなく、“どのように考えたのか”ということの方が大切なはずなのですが、日本では鉛筆を転がして出た答えであっても、正解ならOKなんです。先生が教えることを絶対的な正解として覚えなければならないのなら、そのような学びは必然的に先生と生徒との間に支配と服従という関係を生み出します。教科書に「円周率=3」と書いてあったら、テストで“3. 1415”と書いたらバツになります。また、“この作家の気持ちを書きなさい”という問題で、どこかで本当にその作家の書いた気持ちを読んで、それを書いても、先生の持っている答えと違えばバツになります。そして、子どもたちは自分で自由に考えたり、感じたりしなくなります。教わったことを覚えるという方法でないと正解にたどり着けないからです。すると、子どもたちの心の中から芸術的な感覚が消えていきます。芸術的であるということは、自由に学び、自由に感じ、自由に考え、自由に表現するということでもあるのです。そして、芸術的な世界では決して答えは一つではありません。むしろ逆に多様な答えをいっぱい持っていることの方が大切なんです。ただし、以前も書きましたが“自由”は“デタラメ”とは違いますからね。デタラメな方法しかできない人は多様な表現はできないのです。学校で、このように自分で考えることを否定されて、正解を与えられてきた子どもたちもやがて社会に出ていきます。でも、皮肉なことに実社会には正解は存在しません。(仕事の現場では正解が必要なこともありますけど。)自分で考え、感じることが出来ないと生きていくことが出来ません。子育ても出来ません。どこにも“正誤表”はないのです。それでみんな迷子になってしまっています。そのような状態から抜け出すためには大人たちも子どものような芸術的な感覚を取り戻すことが必要なのです。昨日書いた“詩を書くワーク”はそのための一つの方法です。
2006.02.12
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昨日は“子育ては総合芸術だ”と書きました。でも、それは子どもと一緒に歌ったり絵を描いたりと言うことだけを指しているわけではありません。大人はどうしても“芸術”というジャンルにこだわりますが、子育てや幼児教育で大切なことは“芸術”そのものではなく、“芸術的であること”の方なのです。それはどういうことかというと、“共感的であること”ということです。芸術は共感の働きの結晶だからです。だからこそ、昨日書いたように芸術が人と人を結び、人と自然を結び、人と神を結ぶことが出来るのです。名画も、名曲も共感の結晶なんです。ですから、頭でっかちで共感の働きが弱い人は芸術にも感応しません。シュタイナー教育で否定されるところの“知的な関わり”ということは、“共感的でない関わり方”ということです。それはつまり、“芸術的ではない関わり”ということでもあります。多くの、シュタイナーを勉強しているお母さんがそこの所を勘違いしています。文字を教えていなくても、テレビを見せていなくても、お母さんが子どもと共感的な関わり方をしていなければ、子どもはファンタジーの世界に生きることが出来なくなり、知的に早産してしまうのです。でも、共感的な関わり方をしているなら生活の全てが“芸術的”になってきます。お散歩も、お話しも、食事も全てです。ちなみに、共感的ということは子どもの言いなりになることではありませんからね。逆にそれは共感の拒否です。時には叱ることが共感になることもあるのです。だから、子どもは叱ってもらいたくていたずらをすることがあるのです。また、表面的に“良いお母さん”を演じるのも“共感の拒否”になります。第三者にはどんなに立派なお母さんに見えても、子どもは不安定になります。つまり、教科書通りのシュタイナー教育をやっていても、子どもとの間に共感のつながりがなければ、それはシュタイナー教育ではないということです。また、共感的な関わり方をしていなければ絵を描いても、歌を歌っても、手仕事をしても芸術にはなりません。では、じゃあそれは具体的にどのような状態なのかと言うことなんですが、それは説明できません。そこから先は感覚世界に属することなので、言葉では説明できないのです。でも、それではそこで話しが終わってしまいます。ですから、ここでは少しでもその感覚を感じて頂くためのエクササイズを書いてみます。と言っても、それはそんなに目新しいことではありません。詩を書いてみてください。但し、自分の視点からではありません。子どもの視点、木の視点、水の視点、足の視点、悲しみの視点などなど、自分と強い関わりのある“何か”の視点に立って詩を書いてみてください。梅の花を見たら、梅の花の気持ちになって詩を書いてみてください。腰が痛かったら、腰の気持ちになって詩を書いてみてください。子どもが泣いていたら、子どもの気持ちになって詩を書いてみてください。すると、私の言うところの“共感的”ということの意味も少しお分かりになって頂けると思います。ちなみに、そのものの気持ちを説明するのではありませんからね。そのものの視点に立って、一人称で書いてみてください。(工藤直子さんの詩のように)その共感的な響き合いが現実化する時、“芸術的な関わり”が生まれます。目と目を見合わせて“ニコッ”とするだけで、そこに芸術が生まれるのです。拈華微笑です。(何のことでしょうかね・・・)補足)今日はちょっとシュタイナー関係者を意識して書いてしまいました。シュタイナー教育をご存じない方には失礼しました。
2006.02.11
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実は、私は自己紹介を求められるのがすごく苦手です。自宅では14年前から造形教室をやっています。ここが私の出発点です。その後、12年くらい前から“親子遊び”の教室を始めました。そして、お母さん向けの様々な子育てや、心とからだのワークショップも始めました。現在では、気質講座もやっています。また、子ども向けには“からだ遊び”、“劇遊び”などのワークショップもやっています。今、色々な公民館で乳幼児学級の講師もよくやっていますが、その学級のプログラムを見ると、ほとんど全部の講座を私一人で出来てしまうのではないかと思うことすらあります。てな具合で、色々なことをやりすぎているので簡単には自己紹介ができないのです。私は、子ども時代は造形少年でした。その結果、美大を出ているわけでもないのですが造形教室を始めてしまいました。私は物理出身です。卒業研究のテーマは「物理教育」でした。そのせいか、うちの卒業生の男の子達は理科系に進む子が非常に多いようです。また、高校の時から油絵を描いていたのですが、大学に入ってから始めたデッサンが面白くて面白くてなぜか絵描きになりたいと血迷ってしまいました。本当に、デッサンを始めた時、“世の中にこんなにも面白いものがあったのか”というくらい面白かったのです。それで、単純に“こりゃ、絵描きになるしかない”と思いこんでしまったというわけです。また、それと並行して私は少年の頃から人間に興味を持っていました。それで中学生の頃から自然人類学関係の本など読んでいました。ちなみに、中学の頃は「地学天文部」というマイナーな部でした。地球や宇宙のことにも興味があったのです。大学に入って、宗教学で色々な宗教と出会うと、今度は心のことにも興味を持つようになりました。それで宗教や心理学関係の本も読みました。すると、子育てや教育にも興味が出てきました。“ヒト”がなぜ“人間”になってきたのかということを知りたかったからです。それで、なんだかんだで、大学を出てからそのまま大学の職員として残り、絵を描き続け、お金を貯め30才の頃に、単身、リュック一つでヨーロッパとインドの旅に出たわけです。ヨーロッパでは絵の勉強を、そしてインドでは人間の勉強をするつもりでした。そして、約1年後、ガリガリにやせて、乞食のような風体で日本に帰ってきました。その後、全くの偶然から太極拳を始めることになりました。私はそれまで文化系一筋でしたからからだと向き合ったことがありませんでした。自分のからだをコントロールするのは昔から得意だったのですが、ちゃんと何かを学んだことはありません。そこで、からだと向き合うことの面白さを知ってしまいました。その後、野口体操、繰体法、野口整体、フェルデンクライスメソッドと色々と手を出しました。(ちゃんと先生について何年もやったものから、数回程度しかやっていないものもあります。フェルデンクライスはワークに3回出た程度です。)また、様々な心とからだのワークショップにも参加しました。そんな経歴があったので、造形教室を始めた時、子どもたちの様々な問題点を見た時、ものすごく興味を引かれたのです。そして、すぐに“これはからだの問題だ”と理解しました。そして、そのからだの問題を追っていったら、自然に子育てや教育の領域にまで足を踏み込むことになってしまったのです。でも、5年前くらいまでは興味が多すぎて自分が本当は何をやりたいのかが自分でも分かりませんでした。ですから、色々なことをバラバラにやっていたのです。ところが、ある日突然気付いたのです。私の興味の全ては“子育ての中にあるじゃないか”ということにです。考えてみたら、人類学も、造形も、演劇も、心理学も、心のことも、からだのことも、芸術もすべて子育ての中にあったのです。その時、“子育ては総合芸術”なんだと気付いたのです。子どもを育てるということは生物学的なヒトを人間という社会的な存在に育てるということです。それはつまり、子どもに“人間の社会の全てを受け継ぎ、豊かに育て、また次世代につないでいくことが出来る能力”を身につけさせるということでもあります。ということは、当然子育てを通して、子どもたちはそのようなものと触れ合う必要があるわけです。子どもの時に絵を描いたことも見たこともなければ、その子どもが大人になったとしても、絵というものを次世代に伝えていくことはできないでしょう。子どもの時に楽しく歌を歌った想い出がなければ子どもたちが大人になっても、自分の子どもたちに歌を伝えないでしょう。考えてみれば当たり前のことなんですが、そのことに多くの人が気付いていません。そして、“子どもの育て方”などというものを一生懸命に探しています。でも、私の考えでは“子どもの育て方”などというものは存在しません。必要なことは、親が“伝えられてきたもの、自分が大切にしていることをどのように子どもに伝えるか”という事だけです。それをちゃんとやろうとすれば、子育てはなんとかなっちゃうのです。その“子どもに伝えるべき事”が分からなくなってしまっているから、子育てが分からなくなってしまっているのです。教育も同じ状況です。自分たちが受け継いだもの、自分たちが大切にしているものを伝えないでただ試験にしか役に立たないようなことばかり教えているからおかしな事になるのです。でも、この場合も自分たちが何を受け継いできたのか、人として生きていくためには何が大切なのかということを大人たちが忘れてしまっているのが一番の原因なのだろうと思います。そもそも現代では“自分たち”という発想自体が希薄です。現代人は“たち”を付けないで、“自分にとって”としか考えないようです。でも、“自分たち”の中にしか、“自分”は生きていくことが出来ません。ですから、“自分たち”を否定してしまったら、自分が生きる場もなくなってしまうのです。そして、どんどん不自由になるばかりです。また、子育てや教育の意味も目的も必要なくなってしまいます。“自分たち”を否定するのではなく、“自分たち”の中で、どうやって“自分を見失わないで生きていくことが出来るのか”、そのような発想がこれからの子育てや教育には必要なのではないかと思います。そのためにはまず、“知・情・意・身体”の全てのレベルで、自分を表現し、他者の表現を受け入れる能力を育てることが必要になるでしょう。そこに、芸術の意味と、必要性が出てくるわけです。なぜなら、人と人、人と自然、人と神をつなぐのが芸術の働きだからです。だから、芸術を持たない民族は存在しないのです。そして芸術的な方法での他者との関わり方を学べないまま他の人と関係を持とうとすれば“支配と服従”という形でしか自分の居場所を作ることが出来ないのです。逆に言えば、支配と服従が中心の社会では芸術的な学びは価値がないのです。そのような方向性で考えていく時、私が今までに学んできたこと、考えてきたことの全てがつながるのです。みなさんは、どうお思いですか。
2006.02.10
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ここのところわけの分からないような話しばかりで申し訳ありません。でも、人間の社会には“芸術”というものが存在していて、それは文明以前の太古の昔から存在していて、どんな未開の人たちの中にも存在しているという事実の持つ意味を皆さんも一緒に考えてもらいたいのです。機械文明を持たない文化は存在しますが、宗教と芸術を持たない文化は存在しないのです。唯一、世界中で現代の日本だけがその状態に一番近い状態になっていますが、それでも宗教も、芸術もないわけではありません。そもそも、文化というもの自体がもともと宗教と芸術の産物なんですからそれは当然のことです。ここでで急に“宗教”という言葉が出てきましたが、実は、宗教と芸術は同じ起源を持っているのです。昔の人は、芸術の中に生命の働きを感じました。そして、生命の働きを芸術で表現しようとしました。そのため、昔の人は芸術を呪術的なものとして考えていたのです。現代人には理解できないかも知れませんが、昔々は歌や踊りも神様へのささげものだったのです。古事記に書かれた「天の岩戸」の物語を覚えていらっしゃいますか。岩戸に隠れたアマテラスを引っ張り出すために、その岩戸の前でアメノウズメが踊りまくったという神話です。また、偉い人が死んだ時に生きた人間の身代わりに埴輪を埋めたのも同じです。埴輪はただの泥人形ではないのです。現代でも、自然の中で素朴な生活をしている人たちはそのような感覚をいまだに受け継いでいます。そして、こんな日本でも子どもたちは今でもそのような感覚を持っています。子どもたちは古代人のように芸術が自分の生命に働きかける力を感じることが出来るのです。つまり、子どもたちは芸術に呪術的な働きを感じるのです。どうしてだと思いますか。それは、子どもたちは何万年も昔から同じ状態で生まれてくるからなのです。例えば、現代の赤ちゃんを1万年前に連れて行っても、1万年前の赤ちゃんを現代に連れてきても、まったくその時代の子どもたちと同じです。つまり、子どもたちの感覚は1万年前の子どもたちの感覚と同じなんです。そして、その感覚、考え方が宗教や芸術を生みだしてきたのです。(ちなみに、なぜ1万年かというと人類が文明を持ち始めたのがおおよそ1万年前くらいからだと言われているからです。)でも、現代の大人と、1万年前の大人とでは全く感覚も、考え方も異なっています。それは、現代でも、ジャングルの中で自然とともに生きている人たちの考え方が私達とは根本的に異なっていることからも想像できます。つまり、現代の子どもたちは生まれてから思春期までの間に、1万年の旅をしていることになるのです。子育てでも、教育でもこの1万年を常に意識している必要があります。お母さんの感覚と幼い子どもの感覚の間には1万年の開きがあるのです。小学校低学年くらいなら5000年前くらいかも知れません。つまり、天動説の時代の感覚です。ですから、低学年の子は地動説が理解できません。知識として覚えることは出来ても、概念として理解できないのです。ちなみに、幼児は時間と空間が理解できません。これは、教えても理解できません。脳の神経回路が1万年前だからです。そして、幼い子どもたちは宗教的な世界を全く普通に受け入れます。そして、宗教的な世界に包まれていると安心します。心も1万年前のままだからです。ただ、ここでいっているのは「○○教」という世俗の宗教のことではありません。世俗の宗教は現代のものだからです。子どもたちはもっとアニミズム的で、プリミティブな宗教的な感覚の中にいます。それは見えない世界が存在している世界です。そして、子どもたちは自由にその見えない世界に出入りすることが出来ます。1万年前には大人たちもそのようなことが出来たのだろうと思います。そして、その体験から宗教が生まれてきたのだろうと思います。そのような理解がないと、子どもの言葉が理解できないし、子どもの心に言葉を届けることが出来ません。幼児教育はその1万年とどう向き合うかという所から考えていく必要があるのです。
2006.02.09
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昨日は何回も“芸術”という言葉を使いましたが、今日はその言葉の意味を考えて見ます。ちなみに国語辞典では、「芸術」(gooのネット辞書から)(1)特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現しようとする人間活動、およびその作品。建築・彫刻などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・舞踊・映画などの総合芸術に分けられる。(2)芸・技芸。わざ。「凡(およそ)―は、…切差琢磨の功を積まざれば、その極に至りがたし/読本・弓張月(前)」英和辞典では「Art」芸術, 美術; 技術, 技能; ((集合的)) 芸術作品; (pl.) 学芸 (liberal arts), 人文科学; 人工; 技巧, 熟練; (時にpl.) 術策; 〔古〕 学問.と出ていました。この両者を比べてみると「芸術=Art」ではないことに気付きます。日本語の“芸術”という言葉は“美を表現するための方法・活動”というような意味で使われていますが、英語のArtの方はもっと生活に即したレベルのもののようです。英語では、料理人や大工まで熟練するとArtになるのですから。どうも日本人は“美”にこだわる民族のようです。そして、私の印象では一般的に“美”という言葉は、“俗”という言葉とは対立したイメージを持っているようです。日本人は、“美”に“聖”なるものの匂いを感じるのかも知れません。武士道、茶道といった“道”のつくものも一つの“美学”によって支えられています。そこで語られる美学は“俗”と対立した論理、概念で語られています。そのような日本人にとって芸術は特別なものなんです。そして、実際多くの人が芸術は美術館や劇場にしかないと思いこんでいます。でも、欧米におけるアートは必ずしも“美”を目的としたものではありません。日常生活における自己表現も、歩き方も、話し方も“技術”と言う視点で見れば全てアートなのです。つまり、日本人が考えるような“芸術”は、欧米人から見たら“美を目的としたアート”と表現するしかない、狭い領域のことなのです。(つまり、欧米には美を目的としないアートもあるということです。)この違いは受動的に生きてきた日本人と、能動的に生きようとしてきた欧米人の感覚の違いかも知れません。日本人は芸術を“感覚に響くもの”として捉え、欧米人は“行動によって表現するもの”として捉えているのだろうと思います。もしかしたら欧米人は、“行動すること”、“表現すること”の中にこそ、“美”を感じているのかも知れません。そして、私が“芸術”という言葉を使う時には実はこの英語の“Art”に近い意味で使っています。多分、シュタイナー教育の中で“芸術”と訳されている言葉も、本来の意味はこの“Art”に近いものだろうと思います。つまり、私から見たらけん玉も、コマ回しも、竹馬も、お絵描きも、ダンスもみんな“芸術”(アート)なんです。普通は、子どもの歌や絵は“芸術”としては扱われていませんが、私から見たらそれらも立派な“芸術”です。私は、子どもの生命活動から生まれたもの、また子どもの生命活動と共鳴するものを“芸術”と言う言葉で表しています。そして、それは大人の芸術とは異なります。なぜなら、大人の芸術は自由意志の現れですが、子どもの芸術は生命活動の現れだからです。でも、その子どもの芸術の中には大人の芸術の全てが含まれています。絵画も、歌も、踊りも、文学も、演劇も、技術も、学問も、「Art」のところに書いてあった全ての要素が、子どもの芸術の中には入っているのです。大人の芸術と子どもの芸術は異なりますが、大人の芸術は子どもの芸術の延長にしか存在できないのです。大人は幼い時に直感で得たものを意識を使って再現しているだけなのです。それが大人の芸術なんです。人々がまだ自然の中で素朴な生活をしていた頃には、大人の芸術も子どもの芸術と似たようなものでした。でも、、文明や文化の進歩とともに、大人の概念世界が複雑になり、それにともなって大人の芸術が芸術本来の生命活動からどんどん離れ、知的で難しくなってきてしまったのです。だから、大人たちは子どもの芸術を幼稚なものとしてしか理解できなくなってしまっているのです。でも、私は原点に立ち返って、子どものそのような活動をあえて“芸術”と呼んでいます。大人たちは意識によって芸術を作りますが、子どもたちは生命活動によって芸術として生きているのです。ですから、子どもたちを芸術として関わろうとする時、子どもたちは生き生きとしてきます。子どもたちが幼い時に、意識的にそのような子どもの芸術的な活動を支援することは、子どもの生命活動を支えるだけでなく、子どもが大人になった時の可能性を大きく広げることにもつながるのです。子どもが大人になった時に花を開かせるための種は、すべてこの時期の芸術的な活動の中で生まれるのですから。
2006.02.08
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最初に、またまたワークのお知らせです。今度は三重県です。3/1~2と三重県の津で「子どもの心が見えてくるワークショップ」というものをやります。二日連続の講座です。お近くの人は遊びに来ませんか。詳細は“ココ”で見て下さい。「劇遊び」(in茅ヶ崎)も引き続き募集中です。 **********************昨日は“大人にとっての美”と“子どもにとっての美”は違うということを書きました。大人は“美”を鑑賞しますが、子どもはからだ丸ごとで“美”を体験するのです。ですから、“美”に浸っていながら、その自覚がありません。夢中になっている時には、夢中になっているということに気付かないのと同じです。そして、“子どもは素材の美を直接体験する”とも書きました。子どもは色や形をそのまま体験するのです。でも、昔々には大人も子どもと同じ感覚を持っていたようです。その名残が様々な宗教に中に残っています。密教の曼陀羅や真言(マントラ)もその一つでしょう。また、薬物などでトリップ状態になったときにもそのような体験ができるようです。子どもの頃に見た“ビー玉のきらめき”、“水たまりの上のゆらめき”を想い出してみてください。急に、どこか別の世界にトリップしたような感覚に囚われませんか。子どもはそういう感覚で“美”の中に入り込んでしまうのです。ですから子どもは“美”というものを認識できません。ただ、“心地よい感覚”として体験するだけです。大人である皆さんも、様々な色を見ていると幸せな気分になりませんか。私は時々オガクズを色々な色に染めるのですが、乾かすため部屋中に新聞紙を広げて赤、青、黄、緑などのオガクズを広げていると、幸せな気分になります。様々な色の羊毛を見ている時も同じです。色とりどりのお花を見ている時も同じです。でも、考えてみたら不思議ではありませんか。なんで色を見ていると幸せな気分になるのでしょうか。また、気分によって見たい色、見たくない色があるのはなぜでしょうか。形も同じです。ちょっと以下の図を見て下さい。この二つの図にはそれぞれ名前があります。一つは“ブーバー”と言う名前で、もう一つは“キキ”という名前です。さあ、どちらがブーバーで、どちらがキキか分かりますか。私は今まで多くの大人や、子どもにこの図を見せて同じ質問をしてきました。でも、いつでも答えは同じです。もう皆さんにもお分かりですよね。ちなみにこれは世界中の国で同じ答えが返ってくるそうです。どんな文化、どんな言語を使っている国でも同じだそうです。ただし、脳に障害を持っている人の場合だけは分からない場合があるそうです。面白いでしょ。形には音があるのです。そして、色もあります。この両者を好きな色で塗らせたら、みんなかなり似た色を選ぶと思います。どうしてこういうことが起きるのかというと、それは生命活動には“色や形(さらに動きや音)と共鳴する”という性質があるからなのです。そして、人は、色や形の変化を自分自身の生命活動の変化(具体的には感覚や感情の変化)として感じ取るのです。そして、色や形や動きや音は、生命活動を通してみんなつながっているのです。子どもの場合は意識というフィルターがない分、大人よりももっと直接的に色や形、さらに動きや音といったものが生命活動に響いていきます。また、こんなこともあります。ある人を見て“この人を色に例えたら何色かな”と考えて見て下さい。私のワークでは時々そういうことをやります。すると面白いことに、みんな比較的似た色を選ぶのです。つまり、みんなそれなりに客観的に判断しているようなのです。なんで人間を色に例えることが出来るのでしょうか。また、同じように形にも例えることができます。自分の心を色と形で表現してみるワークをやるとみんなそれなりに自分らしさを色と形で表現することが出来ます。子どもでもできます。不思議じゃありませんか。どうしてそのようなことが起きるのかというと、私達は実は無意識のレベルでは、自分や他人の生命活動を直接感じているのです。ですから、“この人は色に例えると”などと問いかけられると、その人の生命活動と自分自身の生命活動を響き合わせることで、それが色や形、動きや音といった美的な要素に還元されて認識されるのです。まただから、言葉というものが成り立つのです。言葉は人と人の間での生命活動の響き合いによって伝わっていくのです。“暑いね”、“うん、暑いね”という会話は響き合いなんです。“バカ!”と言われて腹が立つのもそのせいです。そして、その会話には“色”も“形”もあります。これは、“人は生命活動を一つの芸術のように感じている”ということでもあります。だから、人は芸術を生み出すことが出来、また芸術は人を感動させることができるのです。その状態を、“生命活動は芸術と共鳴する”と表現することもできるかも知れません。だとすると、子どもの生命活動をサポートするために芸術を使うことができるのではないでしょうか。芸術は、その色や形や動きや音を調和させ、さらに複雑な構造にまで仕上げます。そのような体験がそのまま子どもの生命活動の調和と成長を促す可能性は考えられませんでしょうか。実際、大人でも様々な芸術的な手段で人の心やからだを癒すセラピーが存在しています。不思議なことに色や形や音で人は癒されるのです。それは芸術的な手段が直接生命活動にアクセスして、ゆがみや偏りを矯正するからなのです。そして子どもの場合は、その働きが子どもの心とからだ、そして魂の育ちを大きく支えてくれます。当然、知性の育ちも支えてくれます。実は、大人の役割は、生き生きとした子どもの生命活動を支えてあげるだけでいいのではないかと思うのです。そうすれば子どもは知・情・意・体の全てに渡って自分の力で成長していくのです。そのように人間はプログラミングされているのです。そして、その時“芸術的な関わり”ということが非常に大きな力を持つように感じています。そして、その時はじめて、“放任”でも“管理”でもない子育てや教育が可能になるのです。
2006.02.07
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では、子どもにとって“美とは何か”ということを今日は考えてみますね。まず、“子どもの美”と“大人の美”は同じではありません。大人の人が美しいと思っても、子どもには美しくないこともいっぱいあります。例えば、“風景の美”は子どもにはなかなか理解できません。夕焼けが奇麗、紅葉が奇麗ということは感じても、木や山や雲などの複合体としての風景は感じることが出来ません。ですから、子どもを紅葉の山に連れて行っても退屈します。子どもが理解できるのは葉っぱ一枚一枚の美しさまでです。ですから、静物画は理解できません。どうしてかというと、関係性によって作られた構造や調和が見えないからです。シュタイナー的に言うと、それらは知的な感覚に響く快感なので、知的な感覚が未発達な子どもたちには見えないのです。子どもたちに見えるのは“葉っぱ”、“木”、“山”といった“具体物”だけで、それらの関係性を見ることはできないのです。そして、それは子どもの客観性、論理能力とも関係しています。また、同じようなことが音楽にもいえます。子どもは交響曲を楽しみません。私がクラシックなどをかけていると、子どもたちは嫌がります。長女もそうでしたが、思春期の訪れとともに交響曲を楽しむようになりました。簡単に言うと、子どもはたくさんの音を同時に聴くことが出来ないのです。静物画も、ビン、花、布、リンゴなどを同時に見ることが出来ないのです。当然、“静物画としての美”を感じることも出来ないわけです。ですから、子どもたちに何かを見せる、聞かせる、やらせる時にはなるべくシンプルな形で提示する必要があります。そうでないと脳が混乱してしまうのです。但し、シンプルと幼稚は違いますからね。交響曲は分からなくても、フルートやバイオリンといった単体の音なら複雑でも楽しむことができるのですから。実は、子ども達が感じることが出来る“美”とは、“素材の美”なのです。意識の働きによって人工的に作り上げられた美しさ、完成品、製品としての美しさではなく、それらを構成している一つ一つの要素としてのもっと素朴なものが持つ美なのです。その素朴さが子どもの生命感覚に響くのです。それはつまり、赤や青や黄色と言った色の美しさ、動きや形の面白さ、メロディーやリズムの楽しさといったようなものです。それらは直接子どもの生命に響くのです。同じ色を見ていても、子どもの目に映っているものと、大人の目に映っているものは違うのです。だから、子どもは色にこだわるのです。大人は「色」を“物の属性”として見ています。でも、子どもは色そのものを見ているのです。音も同じです。大人は音を“意味”として聞きます、子どもは音そのものを聞くのです。つまり、大人は色や音を五感だけでとらえ知識や体験で処理していますが、子どもたちはそれらを直接“魂”(生命体)で体験しているのです。だから、そのようなものを表現しようとする子どもたちの絵は大人から見たらただの混乱にしか見えないのです。子どもは色や形や動きに感応しながら、その誘惑に導かれるように絵筆を動かすのです。結果や仕上がりのことなど考えてはいません。でも、大人が結果を要求すると、子どもは大人好みの結果を作り上げるようになります。すると、子どもは“素材の美”を感じることが出来なくなります。そして、自分の感覚ではなく、大人の顔色を見て絵を描くようになります。先生やお母さん達はそれで喜びますが、子どもは魂の喜びから遠ざかります。素材の美を感じることが出来ないまま成長すると、ブランドに振り回されるようになります。絵の上手下手を“似ているか似ていないか”だけでしか判別できなくなります。
2006.02.06
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今日は、朝下の二人と茅ヶ崎市の北側にある里山公園に行って来ました。小2の息子はタニシ取り、小6の娘は自分が紙粘土で作った作品の写真撮りが目的でした。朝は道路がバンバンに凍るほど寒かったのですが、自転車で頑張って行ってきました。以下がその時の娘の写真です。セッティングも、撮影もすべて娘が一人でやりました。私はただ、風景写真を撮ったり、ひなたぼっこをしていました。ちなみに紙粘土で作ってあるキャラクターは彼女のオリジナル“おまめくん”、“キノコくん”と“天使ちゃん”です。これが天使ちゃん。以下は、おまめちゃんとキノコくん。この写真の話しと、以下の話しは無関係のようですが、つながっています。昨日、“真・善・美”のお話しをしました。でも、ここで大切なことがあります。普通、この三つは一緒くたに扱われますが、質的には全く異なったものです。でも、異なったものでありながら共通したものでもあります。それはこの三つの関係に大きく関係しているのですが、そのことを考えながらそれが子育てや教育とどのように関係しているのかと言うことを見ていきましょう。最初に、少し結論的なことを書いておきますが、この三つの要素を見ていく時に気付くことがあります。それは、“美”は“個人的”なものであり、“善”は社会的なものであり、“真”は宇宙的なものだということです。そして、またこの三つは人間の成長ともつながっています。“美”は幼児期に目覚め、“善”は少年期に目覚め、“真”は思春期に目覚めます。ただし、誰でもがこの三つの要素が目覚めるわけではありません。だからこそ、どのようにしたらその要素が目覚めるのかをここで書こうとしているわけです。この三つが目覚めたら“道徳教育”など必要ありません。そして、幼児期に目覚めた“美”を、人とのつながりの中で実現しようとする時“善”が現れます。さらに、その“美”を客観性や宇宙とのつながりの中で求めようとする時“真”が現れます。よろしいでしょうか、だから違っていながら一つのものとして扱われているわけです。“美”は身体的、感覚的な要素です。ですからあなたの“美”と私の“美”は同じではありません。私はモネやゴッホが好きです。でも、ルノアールはあまり好きではありません。でも、モネやゴッホよりルノアールの方が好きな人もいるでしょう。そのように、どのようなものを“美”と感じるのかは人それぞれです。それ故に、“美”は“個人的”であると言えます。でも、いま“ルノアールはあまり好きではありません”と書きましたが、ルノアールの素晴らしさは分かります。ただ、私の“好み”ではないということです。ここが大切なポイントです。質屋や古物商は目利きが得意です。優秀な商人なら別に“誰々作”ということを知らなくてもその作品の質は分かります。私も少しは分かります。陶器や絵などを見て、誰の作か分からなくても、また立派な入れ物(額)に入っていなくても、それが高価なものかどうかぐらいはおおよそ見当が付きます。なぜ分かるのかと聞かれると答えられないのですが、“何か”が違うのです。しいて言えば、意識にではなく心とからだに響く何かが違うのです。そして、その“何か”はある程度客観的に判断できるもののようです。そうでなければ古物商は作者が分かっているものか、自分の好みの物にしか値をつけることが出来なくなってしまうからです。また、客観的な判断が出来なければ客に騙されてしまうでしょう。ここで“美”には二種類あることが分かります。それは“個人的好みとしての美”と、“普遍性を持った美”の二種類です。そして、“普遍性を持った美”は時代を超えて残っていきますが、“個人的好みとしての美”はその個人の中にしか存在することが出来ません。ちなみに“あばたもえくぼ”も、個人的な好みとしての美です。個人的な好みとしての美は気分に作用されるのです。(但し、その境界はそれほど明確ではありません。)そして、“個人的好みとしての美”は誰でも感じることが出来ますが、“普遍性を持った美”を感じることが出来るようになるためには、質屋の丁稚のようにある程度の学習を必要とします。そして、その感覚を得ることで普遍的な世界を感じる力を得ることが出来ます。そして、その感覚があるから他の人とのコミニケーションがスムーズにいくようになります。自分が奇麗だと思うものしか認めない人は、他の人と“心の対話”ができないのです。ちなみに、ここでいう“普遍性を持った美”とは、視覚的なものだけに限りません。人間の感覚の全てに“美”は存在するのです。だからこそ“名曲”というものが存在しているのです。そして、“美”は感覚に依存するものであるがゆえに幼児期に目覚めるのです。(大人になってからでも目覚めることは可能ですが、“真・善・美”の中では、一番早くに目覚めるということです。)ちなみに子どもは綺麗なものが大好きです。クレヨンしんちゃんじゃありませんが幼稚園児でも男の子は奇麗な女の人が好きです。
2006.02.05
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最初にちょっと宣伝。「劇遊びワークショップ」(2/19in茅ヶ崎)まだまだ募集中です。是非是非、遊びに来てください。 *******************昨日は、じゃあ、どうしたらいいのかというと“強制”という形ではない方法で子どもたちに自分たちの心とからだをコントロールさせる方法を身につけさせる必要があるのです。そして、そのためには、“そのこと自体の中に子どもたちが喜びを見いだせる”、“自分の成長することがそのまま喜びとなる”ような活動が必要なんです。ということを書きました。それで、今日からしばらく“ではどうしたらいいのか”というテーマで書いていきます。最初に言っておきますが、子育てでも、教育でも一番大切なことは、子どもとの信頼関係です。この信頼関係が築けていなければしつけも教育も成り立ちません。信頼関係のない状態で何かをやらそうとすれば、たとえそれがどんなに素晴らしいことであったとしても子どもはそれを“強制”と受け取ります。強制は不満を生みます。不満は、親(大人)の想いとは逆の方へ子どもを導きます。その結果“こんなはずでは・・・”ということになります。じゃあ、その信頼関係とはどのようなものかというと、簡単に言ってしまえば“子どもが嘘をつく必要がない関係”というようなものです。時々、“子どもが嘘をついて困るのです”という相談が来ますが、それは子どもの問題ではありません。有名なジョージ・ワシントンと桜の木の話しがあります。幼いジョージがお父さんが大切にしている桜の木を傷つけたが、正直に“ボクがやりました”と答えてお父さんが、「お前の正直な答えは、1000本の桜の木より値打ちがある」と答えたというあれです。(この話自体は作り話のようですがそれはここでは気にしないで下さい。)これは、お父さんがいつもジョージを信じていたからジョージはその想いに応えたのです。信じられていたから正直に言うことが出来たのです。お分かりですか。ですから、実はこの話は“正直なジョージ・ワシントン”の話しではないのです。子どもには“正直”も“嘘”もありません。子どもはただ、大人の鏡として行動しているだけなのです。子どもは、このように“正直であることの嬉しさ”を体験しながら“正直な人間”に育っていくのです。だから、嘘をつくと心が苦しくなるのです。正直であることの嬉しさを体験しないで育った人は、平気で嘘をつきます。うちの教室では最後にアメを一つずつあげています。それが片づけと、教室の終わりの合図です。でも、子どもですからアメが一つではもの足りません。それで、さっと二つポケットにねじ込んだ子がいました。ちらっと見えたのです。それで私はその子の側に行って、顔をじっとのぞき込みました。怒ってはいません。何にも言いません。ただ、ニコニコと子どもの目を見ただけです。そうしたら、ポケットからアメを一つ戻しました。この子どもの行動には“アメを二つ取った”という悪と、“アメを返した”という善という二種類の要素が含まれています。問題は大人がどちらを大切な要素として対応するのかということです。“アメを返すのは当たり前だ”“取ったのは悪い”と言ってしまうのは簡単です。でも、子どもがポケットからアメを返すのには勇気が必要だったはずです。その勇気はまちがいなく“善”です。私は“よく返してくれたね。ありがとう”と言って子どもの“善”を肯定しました。ここで叱っても子どもは“悪いことをしたから叱られた”とは思いません。子どもの論理能力では“見つかってしまったから叱られた”と思うのです。子どもには“悪”の概念がないからです。(善と悪の概念は非常に社会的なものなので子どもになかなか分からないのです。)実は、大人でも悪いことをする人は子どもと同じようにその事が悪いことだと感じられない人なんです。ですから、“それは悪いことだからやめなさい”といっても無駄です。どうしてそれが悪いことなのかが分からないのですから。その証拠に、そのような人にその事を言うと“でも”、“だって”という反応が返ってくるでしょう。子どもは褒められることで“善”を知ります。そして、“善”を知ることで“悪”というものを知ります。分かりますか、“光”の体験が“闇”を意識できるようにするのです。そして、“善”の気持ちよさを知ることで、“悪”に嫌悪感を感じるようになるのです。それが子どもの“成長欲求”を支えてくれるのです。“光の体験”、“善の体験”がない子は、成長する方向が分かりません。それではみんな迷子になってしまいます。そうではなく“この光に照らされた道を歩きなさい”と大人が道を照らしてあげればいいのです。すると子どもは自信を持って歩き始めます。実はこのようなことは、「真・善・美」と言われるものに対して共通の原理なんです。よく、質屋では丁稚に“良い物”しか見せないといいます。人間の目というものは不思議なもので“良い物”ばかり見ていると“悪い物”は自然に分かるようになるのです。でも、“悪い物”をいくら見ていても“良い物”を見分けることが出来るようにはなりません。料理も同じです。美味しいものばかり食べていると、まずい料理はすぐ分かります。でも、まずい料理ばかり食べていると美味しい料理が分かりません。絵や彫刻、音楽演劇などといった芸術も同じです。名画ばかり見ていると、駄作はすぐに分かります。でも、駄作ばかり見ていると名画が分からなくなります。悪い絵ばかりを見せて、“これが悪い絵なんだよ”と何枚見せても、何百枚見せても絶対に“良い絵”というものがどういうものなのか分かるようにはならないのです。面白いですよね。人間の感覚というものは“真・善・美”に感応するように出来ているのです。それは、人間の脳が言葉というものに感応するように出来ているのと同じです。それが私が“性善説”を信じている理由の一つでもあるのですが、人間は“悪”は分別できないのです。そして、またその“分別が出来ない状態”こそが“悪”でもあるわけです。“悪人”は“悪”が好きなのではなく、ただ“善”と“悪”の区別が付かないだけなのです。そのような人に“これは悪なんだよ”と教えても、それは水の中で暮らしている魚に“これが水なんだよ”と言っているようなもので、何のことか理解できないでしょう。でも、実際には多くの人が“これは悪だ、これも悪だ”と“悪”ばかり子どもたちに教えています。ですから、子どもたちが“善”と“悪”の区別が付きません。“善”を知ることで、自然に何が“悪”なのか分かるようになるのです。ただし、道徳の時間に言葉だけで教えても無駄ですから。念のため。このような考え方はこれからの話しに非常に大切なことですから忘れないようにしてください。<補足です>これは子どもが悪いことをしても放って置いていいということではありませんからね。ただ、子ども時代は善悪を学んでいる時期なので、“善悪の基準が分からなくてもそのことで子どもを責めないでください”ということです。そして、その時は“悪”ではなく“善”を教えてあげて下さい。“なんてことしてくれたんだ、警察に連れてってやる”ではなく、“一緒に謝りに行こうね”と言えばいいのです。
2006.02.04
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最初にお聞きします。あなたはあなたを信じていないでいつも監視し、指示、命令する人のことを信じることが出来ますか。その人のために考えたり、行動することができますか。その人の側にいたいと思いますか。たとえその人が“あなたのことが大好きだからやっていることだからね”と言っていたとしても・・・・。そう言われれば言われるほどその人の前では自分以外の自分を演じていないと不安になりませんか。もしかしたらその人は“あなたそのもの”を愛しているのではなく、“自分の思い通りに行動してくれるあなた”を愛しているのかも知れません。もしかしたら、実際に“言うことを聞いてくれないあなたは嫌いよ”ということを言っているかも知れません。でも、あなたはその人以外に他の誰にも頼ることが出来ない世界に生きています。ですから、その人に嫌われてしまったら生きていくことが出来ません。あなたがそういう状況に置かれたら、自分の本音を出すことが出来ず、自分の価値観で動くことが出来ず、自分の感情を押し殺し、その人の喜ぶことを先回りして考えるようになるでしょう。そして、その人の目の届かないところでは羽根を伸ばしたくはなりませんか。ちなみにサラリーマンの世界もこれに近いですね。会社で働いた経験のおありになる方は考えてみて下さい。あなたの理想の上司とはどのような人でしたか。どのような人のためになら一生懸命頑張れると思いますか。是非、ご自分のこととして考えてみてください。今の子どもたちの多くはこのような状況に置かれています。ただ、“じゃあどうしたらいいのか”という点になるとそう簡単にはいきません。子どもたちに子どもたちによる子どもたちのための治外法権領域が必要だといっても、自分で自分をコントロールする能力が育っていない状態の子どもたちをいきなり治外法権領域に放したら大変なことになります。自分で自分をコントロールする能力を身につけさせながらその度合いに応じて治外法権を認めていくような方向で考えていかないと間違いなく失敗します。それほど今の子どもたちの状態は悲惨だと言うことです。すると、“だから言ったじゃないか”、“子どもを放任しているからこうなるんだ”、“子どもはもっともっと厳しくしつけなきゃいけないんだ”と言い出す人が必ず出てきます。でも、子どもはいつかは大人になります。そして、監視する大人がいなくなります。そうなった時、どうなるか・・・。監視し、厳しくするだけでは結局、問題を先送りにしているだけなのです。放任された育った子は厳しく監視されている子より早く、そして素朴な形でその状態が現れているだけのことです。結局両者は同じ結果になってしまいます。(監視され、命令されて育った子は裏で何かします。大人になっても・・・。)子どもの時に何かしたら親の責任が問われますが、大人になってからなら本人の責任で済ますことができます。また、“私は厳しく育ててきた”という言い訳も出来ます。でも、これでいいのでしょうか。じゃあ、どうしたらいいのかというと“強制”という形ではない方法で子どもたちに自分たちの心とからだをコントロールさせる方法を身につけさせる必要があるのです。そして、そのためには、“そのこと自体の中に子どもたちが喜びを見いだせる”、“自分の成長することがそのまま喜びとなる”ような活動が必要なんです。そのような子どもが喜ぶ活動を通して、子どもたちに心とからだのコントロールの仕方を伝えていくのです。もちろんそのようなものは“放任”では学びようがありません。大人が積極的に関わっていく必要があります。じゃあ、実際それはどのようなものなのかと言うことを明日お話しします。
2006.02.03
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「治外法権区域」に関して“ガキ大将”さんからコメントが入りましたのでちょっと続けます。今、色々な公園で木が切り倒されているそうです。それは見通しをよくして子どもの安全を守るためだそうです。言葉を変えれば、大人がいつでも子どもを監視できるようにするということです。それが安全のためであろうとなんであろうと、監視は監視です。ある幼稚園で板ダンボールを使った大きな迷路を作ったことがあります。箱で作るダンボールとは違い高さが120cmあり、中にはいると外からは子どもたちが見えません。さらに、屋根も作ってしまい、中を薄暗くしましたので、外からは完全に見えません。子どもたちは大喜びです。子どもは押入のような暗いところが怖いけど好きだからです。でも、その時先生が“このような遊びは普段は怖くて出来ません”とおっしゃいました。それで、“どういう意味ですか”と聞くと、“子どもを大人から見えない状態で遊ばせることが怖いので・・・”ということです。結局、“何かあったら”という不安で出来ないということのようです。また、ある保育ボランティアグループのみなさんに講演をした時、色々相談を受けたので“ダンボール箱を置いておくだけで子どもは勝手に遊んでいますよ”と言いましたら、“そんなこと怖くて出来ません”と言われました。“箱の中に子どもが二人入っただけで何か起きないか心配なんです”というのです。保育ボランティアの皆さんはもちろんそのような遊びを子どもたちが大好きなことは十分に知っています。でも、ボランティアさんの見えないところで何かあったら、大変なことになるというのです。もしろん、それはお母さん達から文句が出るということです。時には訴訟にすらなります。また、ある地区センターで起きた事件です。私のワークの時ではないのですが、親も子どもと一緒に遊ぶ会の時、子どもが走り回って転んでかなり深く唇を切ってしまった事件がありました。(自分で噛んでしまったようです。)その時、お母さんはただボーっと脇で職員の人やボランティアの人たちが処置をしている間見ていただけだそうです。でも、その後で大変な事になったのです。センターの安全管理が悪かったからうちの子がケガをしたと夫婦で怒鳴り込んできたそうです。それで、数ヶ月にも渡ってその夫婦と話し合ったらしいのですが、センターの責任を求めるばかりでなかなか決着がつかなかったそうです。その後、どういう話しになったのかまでは知らないのですが、今ではそういう事件が普通に起きるようです。お母さん達は“わが子に何かあったらどうしよう”という心配でいっぱいのようです。そして、子どもを檻の中に閉じこめるような子育てをしています。そうしていないと不安だからです。でも、そういう子どもは親の前ではいい子を演じますが、親の見ていないところでは野生動物に帰ります。親の見ていないところでの行動の仕方を学んでいないからです。あるお母さんから聞いた話しです。子どものクラスにかなりの問題児がいるそうです。みんなをいじめて、悪さして、手に負えないそうです。でも、お母さんの前ではいい子なのでお母さんはわが子の実態を全然知りません。そして、“私はきちんと子育てしているから大丈夫”と言い切るそうです。ちなみにそのお母さんは“イヌの調教”のような厳しい子育てをしているそうです。子どもを信じることが出来ない大人が増えています。子どもを管理することしか考えていない大人が増えています。子どもを監視していないと不安な大人が増えています。それは、自分の子どものことを信じていないからです。それは、自分自身のことを信じていないからです。自分に自信がないからです。そういう大人たちに囲まれて、安全に暮らしている子どもがやがて加害者にならないことを願うばかりです。
2006.02.02
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昨日、“子どもと共鳴することだけが子どもの中に伝わっていく”ということを書きました。では、今日は“子どもは何に共鳴するのか”ということから子育てについて考えてみます。ごくごく大雑把に書いてみると、0才~9才頃までは“からだと感覚”に響くものに強く共鳴します。4才~17才頃までは“感情と心”に響くものに強く共鳴します。10才~21才頃までは“知性、思考、主義、論理”といったようなものに強く共鳴します。ただし、その境目は明確ではありません。また、もっとこまかく分けることも可能だと思います。でも、今ここでは“子どもというものは年齢とともに響くものが違うのだ”ということを説明するためにこのような分類をしています。また、ここに書いた年齢は“おおよそ”という程度にご理解下さい。そして、このことから分かるのは“一人前の人間”を育てることが子育ての目的なら子育ては20才前後まで必要だということです。実際、脳細胞は20才前後まで成長を続けるそうですから。でも、親が直接子どもに強い影響を与えることが出来るのは7才頃までです。じゃあ、その後の子育てはどのようにするのかというと、仲間や群れや社会の中での体験に親が積極的に関わっていくということになります。つまり、子育てが間接的になるのです。7才を過ぎた子どもたちは親の言うことを真剣に聞きません。だからといって、子どもはまだまだ“子ども”です。それで色々と言いたいのですが、子どもが聞いてくれません。それで悩んで“どうしましょう?”と相談に来る方が多いのです。でも、7才を過ぎた子どもに対して親が直接言葉でとやかく言っても無理です。子どもはうるさがり、よけいに反発するだけです。7才を境に子どもは“親”からではなく、仲間や先輩から学ぶ段階に入ってしまったからです。それで、子どもたちに“子どもたちだけの社会”があり、子どもを見守る大人たちがいた時代には、子どもたちは仲間や先輩から学んだり、地域の大人から学ぶことで成長していました。その“子どもたちだけの社会”は、大人が介入はしませんが、大人が大人の社会の中に子どもたちの居場所を作って、その中を大人からの治外法権区域として認めていたという視点から考えると、これもまた間接的な子育てにほかなりません。それが人間が長い間かかって作り上げてきた子育てのシステムなのです。そして、多分、日本だけでなく世界中のあらゆる国が似たような状態だろうと思います。この時期の子どもたちは、大人の言葉には反発しますが、仲間や先輩の言うことには共感します。うちの教室で私が何か造形の提案をしても全く反応しなかった子が、仲間の子が“これやろうぜ”というだけで、急に“やりたい”などと言い出すのですから、面白いですよ。そして、子どもが思春期に近付いてくると、仲間や先輩だけでなく信頼する大人の言葉にも耳を傾けるようになります。親が何か言っても“うるせーな”と答えるだけの子どもが、信頼する大人の言葉なら素直に聞くのです。面白いでしょ。このように子どもたちは、親から学び、仲間から学び、そして大人から学ぶことで一人前の大人になっていくのです。そこまでを含めて“人間の子育て”なのです。つまり、人間の子育ては“親の子育て”だけでは不充分なんです。仲間や地域の子育てまで考えていかないと“一人前の人間”には育たないのです。でも、その“仲間や地域”の子育ては崩壊してしまいました。つまり、現代の人間の子育ては群れを作らないネコやウサギと同じレベルの子育てしか出来なくなってしまったのです。これでは、子どもたちが“人間”にまで成長出来ないのは当然のことです。それと、もう一つ大切なことがあります。それは、7才を過ぎた子どもたちは仲間や(親以外の)大人から学ぼうとしますが、その学びは“幼い頃に親から学んだこと”の延長にあるということなんです。つまり、7才までに親から学んだことが種になって、その種を生長させるような方向で仲間や大人から学ぶということなのです。ちなみにそれは肯定的な成長だけでなく、否定的な成長も含みます。ただし、“だから幼い時には色々な体験をさせて、色々な勉強をさせた方がいいのよ”などと短絡的に考えないでくださいね。7才までに子どもが受け取ることが出来る種とは、身体的、感覚的なものに限られるからです。たとえば、色々な教室に通わせて、色々な勉強をさせても、子どもがそれに苦痛を感じているのなら、その苦痛が種になってしまうということです。そして、肝心のお勉強の内容は成長することなくすぐに忘れてしまいます。ですから、7才までの子どもに必要な学びとは様々なからだでの学び、そして多様な感覚体験なのです。(お母さんにダッコされるのも、絵本を読んでもらうのも子どもにとっては大切な感覚体験です。ちなみに同じ絵本を読んでも7才を過ぎた子はそれを感情体験として受け取ります。)小学校に入ってから学ぶ、国語、算数、理科、社会、音楽、絵画といったようなものも、実はそのようなからだでの学び、様々な感覚体験を基礎としてなりたっているのです。この基礎がある子は説明すれば理解できますが。この基礎のない子は説明しても理解できません。
2006.02.01
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