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「命あるもの」はみな、機械では計測することが出来ない「音」を出しています。「機械では計測出来ない」などと言うと、オカルト的な感じになってしまいますが、そういうものは私たちの周りにいっぱいあります。というか、私たちが日常的に感じていることのほとんど全てが、機械には計測出来ないのです。なぜなら、機械には「感じる」という能力がないからです。機械はただ入力された情報を分析しているだけです。糖分を分析する機械がありますが、あれも、成分を分析しているだけで「甘さ」を味わっているわけではありません。機械に絵を見せても、音楽を聴かせても、機械は何も感じません。「どんな色が使われているか」、「構図はどうなっているか」、「この音楽は誰の音楽か」ということの判断は出来ても、人間にとってはもっとも単純な「味わう」ということが出来ないのです。機械には「客観的な情報を計測する能力」はあっても、「主観的な情報を計測する能力」はないのです。「主観」の母体となる「自分」というものを持っていないからです。そもそも、「主観的な情報」を得るためだけだったら機械は必要がないのです。そして、人間の日常生活を支えているのは「客観的な情報」ではなく「主観的な情報」の方です。機械と関わったり、公の場でやりとりする場合には「客観的な情報」が必要ですが、私たちの日常生活を支えているのは「主観的な情報」の方なんです。ですから、人間にとって本当に大切なことは機械ではなく人間が判断するしかないのです。人間が判断すべきことを機械に任せていたら、人間が住みにくい世の中になってしまうのです。で、話しを戻しますが、「命あるもの」はみな「命の音」を発しています。「気質」はその音色のようなものです。そして、その音色は「色」に変換することも出来ます。「黄色い声援」という言葉がありますが、実は私たちは「音」にも「色」を感じることが出来るのです。そういうことを研究した芸術家達もいました。でも、ほとんどの人が「そんなこと言われても、そんな音私には聞こえません」とおっしゃると思います。それはその通りです。その「音」は耳で聞く音ではないからです。「色」もまた、目で見る色ではありません。それは、自分の命の感覚に響かせることで始めて聞こえてくる音であり、見えてくる色なんです。内側に聞く音であり、内側に見る色なんです。そして人は無意識的にそういうことを普通にやっているのです。皆さんは「今日の気分」に合わせて、今日着る洋服の色やデザインを決めますよね。「気分」という「目には見えないもの」と「色」を合わせますよね。冷静に考えたら、これって不思議だとは思いませんか。洋服をコーディネートするときには、「下がこの色だから上はこの色で、靴はこの色で」と色の組み合わせで考えますよね。それと同じように、人は「自分の気分」と「色」を組み合わせたりしているのです。ということは、実は「気分」には「色」があるのです。ただしその「色」は「自分の命の状態の色」なので、目で見ることは出来ません。だから、その「色」に対する自覚はないのですが、その「命の状態の色」が、実際の生活の中で「色」を選ぶときに影響してくるのです。また、上に書いたように「好みの色」が「気分」によって変わることもありますが、「いつも紫が好き」という人もいます。「いつも赤が好き」、「いつも黒が好き」という人もいます。(好きな色が固定している人の気質は分かりやすいです。)その色も、その人の「命の状態」と関係している色です。同じようなことが「音」や「音楽」にも言えます。私が他の人の気質を見るときには、その人の「命の状態」を感じるようにしています。そこで感じた「色」や「音」を基にして、「この人は○○質かな」という判断をしています。でもだから、分かりやすい人もいますが、「色」や「音」は見えていても、色々な「色」や「音」が混ざっていて、単純な「気質分類」に当てはめることが難しい人もいるわけです。
2019.01.31
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昨日は「気質は音に似ている」ということを書きました。その「音」はその人の生命エネルギーが発する音です。ですから、感情やからだの変化に伴い生命エネルギーの状態が変化すると、その「音」(気質)も変化します。で、面白いのは、人はその「自分の音」と共鳴するような音楽や、場所や、人といると居心地が良くなるのです。生命エネルギーが高揚してハッピーな気分のときには、ハッピーな音楽が聴きたくなります。この「気分」という言葉にも「気」という言葉が使われています。「気分」は「気の状態」を表す言葉だからです。ですから、明るく楽しい音楽と共鳴するような気分の時には多血質が強くなっているのです。でも、失恋などして悲しい気分の時には心にしみるような音楽を聴きたくなります。そんな時は憂鬱質が強くなっています。また、若いときは「明るく楽しく激しい音楽」が好きでも、年を取ってくるとスローテンポの音楽の方が落ち着くようになってきます。若いときには興味がなかった演歌が好きになる人も多いです。生命エネルギーの状態が活発な活動性を失い安定してくると、粘液的な気質が強くなってくるからです。でも、粘液質が強い人は若いときからスローテンポの曲も好きです。多血質が強い人は、年を取ってもハイテンポの曲が好きです。年令と共に好みの音楽も変わりますが、それはその人の生命エネルギーの状態が変化するからです。そしてそれに合わせて気質の方も変化するのです。どの気質の人でも、子どもの頃は多血質が強いです。ですから、一般的に子どもは明るくて、リズミカルで、楽しい音楽が好きです。思春期頃になると、胆汁質が強くなるため、もっと活動的で刺激の強い音楽を好む子も出てきます。また、希望とか夢とか愛というようなものを語る音楽が好きになる子もいます。中年になると、憂鬱的な気質が強くなり、自分の心に向き合うのに合った音楽が好きになったりします。ジャズやロックのような深みのある大人の音楽もそのようなものだと思います。クラッシックのような歌詞のない音楽は心の中に素直に入って来ます。歌謡曲でも歌詞を聴かせるようなものが好きになったりします。もう少し年を取って60代以降になると粘液質が強くなるので、演歌のようなテンポが心地よくなってきます。ジャズでもスローなジャズが好きになってきたりします。もちろん、個人差はあります。その個人差がその人の気質なんです。***************今年で三年目になりますが、4月からまた新しい気質の講座を始めます。一年間通しの連続講座です。開催日は土日、もしくは休日です。大人だけです。(1才未満の幼児は同伴OKです。)会場はJR茅ヶ崎駅の隣のビルです。月1回、年11回(8月はお休み)10:00~12:00参加費 2000円(参加したときにお支払い頂きます)ご興味のある方はお問い合わせ下さい。
2019.01.30
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「気」というのは生命を支えているエネルギーのことです。そして、「気」と「気」は共鳴するので、「気」を持つもの同士はお互いに作用し合っています。「気」を共鳴させることで、意識的に他者に働きかけることも出来ます。でも、「気」は「生命を支えているエネルギー」なので、「命」を持っていない物に働きかけることは出来ません。そのため機械に働きかけることも出来ません。計測も出来ません。スターウォーズでは、「フォース」という「気」に似たものを使って、物を動かしていますが、ああいうことは「気」には出来ません。あれは、テレキネス(念力)です。以前、「気は色に似ている」と書きましたが、実は「気」は「音」にも似ているのです。というか、「音」の方が気質の実体に近いような気がします。その場合「気質」は「音色」や「音楽」のようなものだと理解して下さい。「からだ」は、その「音」(気)を出す楽器のようなものです。ですから、「からだ」が変わると「気質」も変わります。また、生命エネルギーもまた「音」のようなものです。子どもは親からその「音」を受け継ぐのですが、からだが違うので親とは異なる音を奏でるのです。ギターの側で太鼓を鳴らせば、ギターも鳴り出しますが、ギターは太鼓の音ではなく、ギターの音しか奏でませんよね。それと同じです。それと同じようなことが、日常的に人と人の間でも起きています。その時重要になるのは「相手との関係性」であって、「個々の音」ではありません。「素敵な音」と「素敵な音」が出会ったからと言って、お互いに素敵な影響を受けるとは限らないと言うことです。それは、きれいな色ばかり使ってもきれいな絵が描けるわけではないのと同じです。ですから「私はどんな色(音)でしょうか」という質問には意味がないのです。また、「相手の音」(気質)に耳を澄まそうとすると、「自分の音」と「相手の音」がうまく調和して素敵な音楽になります。その時必要なのは「合わせようとすること」ではなく、「ただ素直に耳を傾けること」です。あとは、自分のからだがなんとかしてくれます。そして実際、その人の気質は、その人が好きな音とつながっています。楽器にも色々なものがありますが、どんな楽器が好きなのか、またどんな音色、旋律、リズムが好きなのかということも、その人の気質と関係しているのです。民族性の違いも音に現れています。気質のワークで「アフリカの太鼓」と「ネイティブアメリカンのドラム」を聞き比べることがありますが、同じ「太鼓」でも両者の音は全く異なっています。そこに、アフリカの人の気質と、ネイティブアメリカンの人の気質の違いがあるのです。ちなみに私は、「ネイティブアメリカンのドラム」の方が合っているようです。***************今年で三年目になりますが、4月からまた新しい気質の講座を始めます。一年間通しの連続講座です。開催日は土日、もしくは休日です。大人だけです。(1才未満の幼児は同伴OKです。)会場はJR茅ヶ崎駅の隣のビルです。月1回、年11回(8月はお休み)10:00~12:00参加費 2000円(参加したときにお支払い頂きます)ご興味のある方はお問い合わせ下さい。
2019.01.29
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26日に、 でも、憂鬱質の人の世界観は「理想論」で、胆汁質の人の世界観は「現実論」です。 だから、お互いに相容れず、ぶつかるのです。 と書きましたが、人は立場によっても気質が変わるので、憂鬱質のお母さんでも、子どもに対しては胆汁的に対応しようとします。 子どもをまとめる「主婦」という仕事をちゃんとこなすためには、行動のエネルギーを与えてくれる胆汁的な気質が必要だからです。 そのため、自分は現実を見ずに理想論で生きようとしているのに、自分の子どもに対しては「そんなこと言っていたら落ちこぼれるよ」と現実論を押しつけるのです。 憂鬱質の人は「私は理想論など持っていません」と言うかも知れませんが、自己肯定感が低いというのもその現れなんです。 自分の今の状態をそのまま肯定すればいいのに、心の中に「現実の自分」以外に「理想の私」を創り上げているから自己肯定感が低くなるのです。 胆汁質の人は、「今の自分はまだ未熟だ」と認め、「だからもっと努力しなければ」と考えますが、憂鬱質の人は「これは本当の私ではない」と考えてしまうので、「努力」という方向に向かわない傾向があるのです。 そのため「ガンバレ」と言われると余計に苦しくなります。 それで誰かに助けて貰おうとしたりするのです。 ちなみに「ガンバレ」と言われて喜び、頑張ることが出来るのは、もうすでに頑張っている「胆汁質が強い人」だけです。 自己肯定感が低かったり、自分に自信がない状態の人は努力すること自体が困難なんです。 「自分に対する自信」という土台があるからこそ、その上に「努力」を積み上げていくことが出来るからです。 胆汁質の人は、なぜか生まれつきその「自分に対する自信」が強いのです。多分それは、胆汁質の子が一番強い「生命エネルギー」を持っているからなのではないかと思います。 胆汁質の子にとっては、努力することが喜びでもあるのです。 それが胆汁質の特徴でもあります。 でも、「生命エネルギー」が強い胆汁質の子は、ジーッとしていることが苦手です。 エネルギーを発散するような活動がしたくてしょうがないのです。 また、自分の意思を否定するような大人の言葉は平気で無視したり、反発したりします。時には殴りかかってきます。 そんな胆汁質の子に対して、親が「自分勝手なことをするな」「乱暴なことをするな」「大人しくしなさい」「言うことを聞きなさい」などと力尽くで子どもの「活発な活動」を押さえ込んでいると、次第に「能動的な活動に向かっていた生命エネルギー」が、心の内側に入り込み「怒りのエネルギー」へと変換されて行きます。 それで表面的には大人しくなるのですが、多くの場合、思春期頃にその「怒りのエネルギー」が爆発してしまいます。 するともう親には手が着けられません。 我が子がそういう状態になってから相談に来られる人もいますが、もうそうなると親に出来ることは限られてしまうのです。 そんな、胆汁質の子に対して、一番生命エネルギーが低い状態で生まれてくるのが憂鬱質の子どもです。 だから、自信がなく、活動的でもなく、閉じこもって自分を守ろうとするのです。 でも、そんな憂鬱質の子でも、安心を与えられ、自分らしさを肯定され、ゆっくりと待って貰いながら育った子は、からだを固めていたエネルギーが解放されるのと、からだの成長と共に生命エネルギーも強くなるので、活動的にもなるし、努力することも出来るようになってきます。 実は、「気質」は、その人の「生命エネルギー」の状態のことでもあるのです。「気質」が扱っているのは「性格」ではなく「生命エネルギーの状態」なんです。 物理学科を出た私にとって、「気質論」は「エネルギー論」なんです。 ちなみに、胆汁質の人は「成功したこと」はよく覚えていますが、「失敗したこと」はあまりよく覚えていません。 その事を指摘しても「あれはまぐれだ」というようなことを言います。 逆に、憂鬱質の人は「失敗したこと」はよく覚えていますが「成功したこと」はあまりよく覚えていません。 その事を指摘しても「あれはまぐれだ」と言います。
2019.01.28
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憂鬱質の子の考えや行動を理解するのはなかなか難しいですが、でも、胆汁質の子の考えや行動を理解するのは簡単です。胆汁質の子は、思った通りの行動をし、行動しているとおりに考えているからです。「心の中」と「行動」が一致しているのです。だから分かりやすいのです。でも、分かりやすいからといって「子育てがしやすい」ということではありません。自分のやりたいことに反するような大人の指示や命令に対しては、ダイレクトに反抗してくるからです。憂鬱質の子は自分の殻に閉じこもって自分を守ろうとするのに対して、胆汁質の子は戦うことで自分を守ろうとするのです。そのため、お母さんが憂鬱質や多血質や粘液質の場合、つまり、胆汁質が強くない場合は「手に負えない」という状態になります。子どもが「憂鬱+胆汁」のような場合、胆汁が強くないお母さんは子どもに太刀打ち出来ないので、奴隷のようになることで、子どものご機嫌を取ろうとしてしまいます。すると子どもは王様や王女様のようになります。でもそれで満足しているのかというとそういうわけではないのです。お母さんが「お母さん」としての姿を見せてくれないので、子どもは不安を感じるし、寂しくもあるのです。だからその状態が更にエスカレートしてしまったりするのです。*******昨日は寒風吹きすさぶ中(北国の人から見たら大したことはないでしょうが)、河原で毎年恒例の「ばばばーちゃんのおもちつき」をしました。こんな天気で、途中、雪がチラチラ舞っていました。何かを大声で叫んでいます。豚汁が大好評ばばばあちゃんのおもちつき (ばばばあちゃんの絵本) [ さとうわきこ ]価格:972円(税込、送料無料) (2019/1/27時点)楽天で購入
2019.01.27
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憂鬱質の人は「自分の心の価値観」に従って行動する傾向があります。大人になれば社会の常識も分かるようになってくるので、適当に折り合いをつけながら行動するようになりますが、「社会の常識」が理解出来ない子どもの頃は、「自分の心の価値観」だけに従って行動しようとします。そのため、社会の常識に従って生きている大人には、「社会の常識」に合わせようとしない憂鬱質の子の考え方や行動が理解出来ません。確かに、憂鬱質の子でなくても、子どもには大人が従っている「社会の常識」など分かりません。だから子どもは大人には理解出来ない行動をするのですが、それでも、憂鬱質以外の子は大体「大人」のやっていることを見て真似をしようとしたり、大人に褒められるように、叱られないように行動しようとするのですが、憂鬱質の子はそういうことが苦手なんです。そして、自分で発見したことしか信じようとしません。そういう意味で、非常に頑固です。親や先生が手を焼くのはそのためです。大人になっても、「先生が言っているから」「テレビで言っていたから」「偉い先生が言っていたから」というような理由だけで、その言葉を信じたりはしません。そのような「頑固」という点で、憂鬱質と似ているのが胆汁質です。一見、憂鬱質と胆汁質は正反対なんですが、似ているところもあるのです。「刺激に対して不安定」という点では憂鬱質と多血質は似ています。でも、「自分の信念へのこだわり」という点では、憂鬱質とは胆汁質は似ているのです。両者とも自分なりの世界観を持っています。でも、憂鬱質の人の世界観は「理想論」で、胆汁質の人の世界観は「現実論」です。だから、お互いに相容れず、ぶつかるのです。でも、憂鬱質は力ではパワフルな胆汁質には勝てないので、胆汁質が強く責めてくると、ヤドカリのように殻の中に隠れて身を守ろうとします。でも、言いなりにはなりません。それに対して、粘液質の人も、多血質の人も「自分の信念」に対するこだわりはありません。多血質の人は信念すらも曖昧です。粘液質の人は自分の生理的な感覚にこだわります。多血質の人は自分の感情にこだわります。これらのこだわりは「言うことを聞かない」という形で現れることはありますが、誰かと対立するような形で現れることはありません。というかむしろ対立を避けるような反応をします。殻に閉じこもるのではなく対立を避けることが出来る違う居場所を探すのです。でも、憂鬱質の人は、そのままの居場所で殻の中に閉じこもることで身を守ろうとするのです。
2019.01.26
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いつも何かを考え込んでいて人付き合いが苦手な憂鬱質と、活発でおしゃべりで人付き合いが上手な多血質は、一見正反対のように思えますが、実は似ているのです。というか、図形で思い浮かべてみてもらえば分かりやすいのですが、「正反対」ということは、「向きや裏表や明暗をひっくり返せば似ている」ということでもあるのです。じゃあ、どんなところが似ているのかということです。まず、両者とも不安定です。すぐに、外部からの刺激に対して反応してしまいます。そのため、「自分」というものを保持するのが苦手で、周囲の状況に振り回されやすいのです。でも、憂鬱質の人と多血質の人とでは、反応の仕方が逆なんです。憂鬱質の人は否定的、批判的な反応をし、多血質の人は肯定的、同調的な反応をする傾向があるのです。例えば、憂鬱質の人も多血質の人も「人の目」には敏感です。でも、憂鬱質の人は「人の目」を感じたとき、「見られている、監視されている、覗かれている、批判されている」的に感じる傾向があります。「自分が知っている自分の欠点」、「自分がいつも向き合っている自分の欠点」を、その人にも見られているのではないかと思ってしまうのです。ですから、見られることを嫌がります。人からあまり見られないような場所や服装を選ぶことも多いです。人と目を合わせることも避けます。人の目を見ると、自分の心の中を見られているような気がしてしまうからです。それに対して、多血質の人は自分の外見は気にしますが、あまり心の中のことは気にしません。だから他の人が自分を見ていることに気付いても、「ファッションや、スタイルや、お化粧を見られている」とは感じても、心の中を見られているとは感じません。そして、「今日は決まった」と自分で思っているときは、人に見られると嬉しくなります。これはどの気質の人でも同じなんですが、人は、自分がいつも見ているものを他の人も見ていると思い込む傾向があるのです。また、憂鬱質と多血質はパターンが似ているので、状況によっては憂鬱質の人が多血質のようになり、多血質の人が憂鬱質の人のようになったりします。安心出来る状況の中で、安心出来る仲間に囲まれているときには、憂鬱質の人でも多血質の人のように、明るく楽しくなります。多血質の人ほどではないですがいつもよりは社交的になったりもします。でも、多血質ぽくなるだけで本質的な気質そのものが変わるわけではないので、ちょっとしたきっかけでまた元に戻ります。多血質の人は、自由が奪われると、憂鬱質に似た状態になります。多血質の人はいつも自分を表現したいと思っています。でもそのためには「表現が許される自由」と「表現を受け止めてくれる他者」が必要になります。結婚して友達のいないところに引っ越し、子どもが生まれて、言葉も分からない赤ちゃんとばかり向き合い、外に行くときは買い物などの用事のためだけで、少しも遊ぶ余裕がない状況の中では、多血質の人は外見すら気にする余裕がなくなります。すると、「なんで?」「どうして?」と自分に問いかけることばかり行うようになります。憂鬱質の人のように、意識が外側の世界ではなく、自分の心に向かうようになってしまうのです。すると、身動きが取れなくなります。そして苦しくなり、「私は憂鬱質だと思います」と言ってきます。それが、憂鬱質や多血質といった素材の特徴でもあるのです。憂鬱質と多血質の間には、というような関係があるので、多血に偏りすぎた社会は憂鬱も強くなりやすいです。今の日本がそのような状態だと思います。マスコミやテレビでは多血的なことばかり流しています。日本人は、「じっくりと考える」ということをしなくなってしまったようです。
2019.01.25
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憂鬱質の人は「心」で世界を見ようとします。「現実の世界」をそのまま見るのではなく、一度心の中に取り入れてから、その「心の中に取り入れたもの」を通して、心の外の世界のことを知ろうとするのです。でも、心の中に取り入れるときに、その人が持っている固有のフィルターによって変換が起きてしまうため、なかなか、ありのままの現実を見ることが出来ません。また、憂鬱質の人の心の中には、「無限に広がる時間と空間」があります。そして、憂鬱質の人は、その「自分の心の中の時間と空間」の中で、自由に自分の心と遊ぶことが出来ます。それに対して、多血質の人は「感情」で世界を見ようとします。「目の前の世界」と「自分の感情」を響き合わせることで、世界を認識しようとするのです。自分の感情をセンサーのように使って世界を認識しようとするのです。ですから、反応が早いです。憂鬱質の人が見ているのは自分の心の中の出来事ですから、現実のからだで反応することが困難なんですが、多血質の人は心を通さないでそのまま感情で反応するので、からだもパッパと動けるのです。でもだから、自分の信念を持つことが出来ず、周囲の出来事に振り回されやすいのです。また、憂鬱質の人も多血質の人も、色々と空想することが好きなんですが、憂鬱質の人の空想の舞台は自分の心の中のマイワールドなのに対して、多血質の人の空想の舞台は現実の世界です。それは例えば、テレビで見ているアイドルの世界にあこがれるような感じです。「いつか白馬の王子様が・・・」というのもそのようなものです。でも、憂鬱質の人の空想は「もし世界が滅亡したら」とか、「もし戦争が起きたら」というような「アナザーワールド」が舞台になります。それは憂鬱質の人の心の中にしか存在しない世界です。そのため、なかなか他の気質の人には理解してもらえません。よく、「若者よ夢を語ろう」というような企画がありますが、そのような企画は多血質や胆汁質の人には響きますが、憂鬱質や粘液質の人の心にはそんなことどうでもいいことです。「どうして自分の夢をみんなの前で語らなければならないのか」ということ自体が理解出来ません。<続きます>
2019.01.24
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多くの人が、私のブログなどで「四つの気質」についての特徴を読むと、我が子や自分にその特徴を探して「うちの子(私)は○○質だ」という判断をしようとしますが、「気質」はその子(人)の「目に見える状態」を分類したものではないので、そのような考え方では「子ども(私)本来の気質」は分かりません。一般的な性格分類ではその人の今の状態を分類したものですから、その人の状態をよく観察すればその人のタイプを分類出来るのですが、「気質」はそういうものではないからです。私がブログに書いている四つの気質の特徴は、「それぞれの気質はそのような状態になりやすいですよ」ということだけであって、「それぞれの気質の人はそういう状態ですよ」ということではないのです。ですから、多血質にも色々な多血質の人がいます。それは、憂鬱質でも、胆汁質でも、粘液質でも同じです。どういう子育てを受けたのかと言うことでも、気質の現れ方は変わってきます。否定されて育った憂鬱質の子はさらに憂鬱質ぽくなるでしょうが、温かく見守られながら育った憂鬱質の子は、多血的な要素が強くなりあまり憂鬱質ぽくなくなります。「じゃあ、気質って何なのか」ということですが、「気質」が扱っているのは「素材」であって、「今の状態」ではないということです。それは、人が生まれ持った特性ということでもあります。水は、ある時は液体ですが、ある時は気体で、ある時は固体です。温暖なところでは液体ですが、熱いところでは気体になり、零度以下の気温の所では固体になります。同じ素材なんですが、置かれた場所で状態が変化します。そしてその「変化の仕方」に「水としての特徴」があるわけです。ですから、「水は液体の状態を取ることが多いですよ」ということは言えますが、「これは液体だから水だ」ということも「これは固体だから水ではない」ということも言えないのです。本当のことを知るためには、今の状態だけで判断するのではなく、変化の中で動的に見ていく必要があるのです。現代人は物事を社会的な意味と価値で分類したがります。目に見える状態で分類しようとします。それは固定された見方です。それは例えば、「これはイスです」、「これはお茶碗です」、「これは笛です」などというような分類です。でもイスにも「木で出来たイス」もあれば、「石や金属で出来たイス」も「ぷらすちっくで出来たイス」もあります。もしかしたら「氷で出来たイス」もあるかもしれません。一般的なイスは「木」で出来ていることが多いですが、だからといって「イスだから木だ」ということは言えないですよね。そこを決めているのが「環境」と「育ち」なんです。生まれたときは同じ素材でも、「環境と」「育ち」が異なっていると、異なった形に育っていくのです。石がイスになることもあるのです。お茶碗でも、お箸でも、笛でも同じです。私は今「インディアンフルート」(ネイティブアメリカンのフルート)を作ろうと、色々と調べているのですが、木を削って作るので、手間さえかければ作れそうです。でも、私には金属や石の笛は作れません。また、金属や石でそっくりなものを作ったとしても、インディアンフルートのあの柔らかくて深い音は出ないでしょう。ただ、素材が木なので、湿気には弱いようです。ネットで調べたら、「長く吹き続けると木が湿気を吸い込みすぎて割れてしまったり、カビが生えてしまったりするので、あまり長く吹かないように。吹いた後はちゃんと手入れするように」と書かれていました。見かけは同じでも、素材が異なれば、扱い方も、音色も違うのです。紙でも笛は作れますが、すぐに壊れてしまうでしょう。「かちかち山」のお話のように泥でも舟は作れますが、これもすぐに壊れてしまうでしょう。だからこそ、「素材(気質)に合わせた育て方」が必要になるわけです。その「素材」に気付くためには、社会的な意味や価値や機能という側面で分類するのではなく、触れてみる、座ってみる、持って見る、匂いを嗅いでみる、軽く叩いてみるという関わり方が必要になります。「頭」で判断するのではなく、「からだの感覚」で判断するのです。気質の本には「胆汁質の人はリーダーに向いている」と書かれています。確かに、リーダーを張ることが出来ている人は一様に胆汁質は強いですが、それにプラス別の気質も混ざっていることが多いです。気質は「原色」ですから、一般的には色々な気質が混ざって存在しているからです。ですから、そう単純に「あの人はリーダーをやっているから胆汁質だ」とは言えないのです。それを判断するためにはその人が「どういうリーダーなのか」ということをよく観察する必要があります。威張り散らして、力で部下を支配しようとするリーダーは憂鬱質も強いです。みんなの話をよく聞いて、ゆっくり考えて決断するようなリーダーは粘液質も強いです。おしゃべりで活動的で人気者でも、みんなをまとめる力が弱ければ多血質も強いです。そういう別の気質の要素が弱い胆汁質のリーダーはビジョンを語ります。人のことはあまり気にしません。決断は早いです。自分の活動を邪魔しようとする人とは戦いますが、自分の目的を達成することだけが大切なので、無駄な戦いはしません。他にことに興味もありません。ただ、欧米ではこのようなリーダーが好まれると思いますが、日本では、みんなの話を聞いてゆっくり考えて決断する「粘液型(調整型)のリーダー」の方が好まれると思います。サークル活動などでは「多血型のリーダー」が好まれるでしょう。ストイックな伝統芸能の世界をまとめていくようなリーダーには憂鬱質が必要かも知れません。
2019.01.23
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憂鬱質が強い人は「社会的な意味とか価値」よりも、「自分にとっての意味とか価値」の方を大事にします。そのため、「非社会的な行動」が多いです。「目の前の現実」よりも「自分の心」の方を大切にしたりします。挨拶や、幼稚園に行くとか、みんなと仲良くするなどの「社会的な行動」は苦手です。そして、他の人には理解出来ないような「マイルール」にこだわります。その「マイルール」は、他の人にはどうでもいいようなことなんですが、その本人にとっては非常に大事なことなので、それを他の人に邪魔されると泣きます。そうなると手に負えません。何を言っても、やっても納得しません。そもそも、周囲の大人には「なんで泣いているのか」という理由もよく分かりません。理由は分かっても「何でそんなことで泣くのか」が分かりません。またいつも自分の心と向き合っているので、他の人を見るときもその人の容姿や行動よりも、その人の心を見ようとします。お母さんの心の中を覗くようなこともします。ありのままの自分を肯定してくれるような人は受け入れますが、価値観や、考え方や、行動を押しつけて来るような人には近づきません。そして、色々なことにおいて「本当のこと」を知りたがります。子育ての相談で一番多いのが「憂鬱質の子ども」に関してです。その理由は「理解不能」「非社会的」などというようなことです。次に多いのが「憂鬱質のお母さん」からの相談です。憂鬱質のお母さんからの相談メールにはいくつかの特徴があります。まず、非常に長いです。メールを開けた途端、その文字の多さに「ウッ」という感じになります。そして、子どものこと、自分のことを深く分析しています。でも、色々なことを考えすぎて迷路にはまってしまい、身動きが取れなくなってしまっています。また考えるばかりで行動しようとはしません。というか、考えてばかりいるのでからだが動かないのです。で結局、「私はどうしたらいいんでしょうか?」と聞いてきます。そんな時はとにかく行動すればいいのですが、それを言うと「でも・・・」という反応が返ってきます。そのような人は、問題を解決したいのではなく、自分が納得したいだけなんです。ですから、問題を解決する方法を答えても反応がありません。でも、今自分がやっていることに納得出来るような視点を与えてあげると、それで落ち着きます。子どもの場合は、追い立てず、その子らしさを肯定し、話を聞いてあげてゆっくりと見守っていれば、小学校5年生ぐらいから次第に活動的になっていきます。よく、その社会性のなさとこだわりの強さから、発達障害の子と間違われたりもしますが、発達障害の子は他の人の心に対する感受性は低いです。それと、憂鬱質の子は、自分が受け入れた人とはちゃんとお話も出来るし、遊ぶことも、関わり合うことも出来ますが、発達障害の子は誰に対しても、どういう状況でも、基本的にいつも同じ状態です。憂鬱質の子の状態は心が創り出しているのに対して、発達障害の子の状態は脳が創り出しているので、叱っても、怒鳴っても、脅かしても通用しません。でも、憂鬱質の子にはそれが通用してしまうのです。だから、「この子は脅かさないと、追い立てないと動かない」と、それを使おうとする大人がいるのですが、それを使うと子どもは自分の心を閉ざすようになります。ちなみに発達障害の子も、多くの場合、追い立てず、その子らしさを受け入れ、温かく見守っていれば、小学校5年生ぐらいからぐっと落ち着いてきます。
2019.01.22
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実は、「気質の違い」は「役割の違い」なんです。そして、「役割の違い」は、「能力の違い」でもあります。でも、その「能力の違い」がなかなか分からないのです。我が子と他の子の能力の違いも、自分と他の人の能力との違いも分かりません。なぜなら、現代社会においては「能力」は「競争」によって計られているからです。勉強の能力も、スポーツの能力も「競争」によって計られています。でも、そんな「競争によって計ることが出来る能力」は、「競争社会を勝ち抜いていく能力」「お金を稼ぐ能力」に過ぎません。それらの能力は、文明的な社会でしか価値を持つことが出来ない「文明によって作られた能力」に過ぎないのです。「みんなと幸せに生きるための能力」や、「多様性を支える能力」は競争では計ることも、育てることも出来ません。野に咲く草木や、自然界を支えているミミズや昆虫や様々な生き物たちの能力も、競争では計ることが出来ません。そもそも、それらの生き物は競争などしていません。競争が好きなのは文明社会に生きている人間だけです。弱肉強食などという言葉は嘘です。自然界では、「弱者」と「強者」が固定されていないからです。陸の上では強いライオンでも、水の中では魚にすら食べられてしまうのです。世界中の全ての生き物は、「競争するための能力」ではなく、「生き延びるための能力」を持っています。人間にとっては「競争するための能力」は非常に大切なものですが、自然界に生きている生き物たちにとっては「競争するための能力」など全く意味がないのです。強さを武器にして獲物を捕っているライオンは、必ずネズミやウサギのような弱い動物を仕留め、食べることが出来るのかというとそんなことはありません。ネズミやウサギにはライオンのような強さはありませんが、危険を察知するための能力や、穴の中や狭いところに身を隠す能力や、小回りがきくからだを持っているからです。つまり、ライオンにとっては「強さ」が武器ですが、ネズミやウサギにとっては「臆病さ」こそが武器なんです。人間は、「逃げるなんて卑怯だ」、「隠れるなんて卑怯だ」、「臆病はみっともない」などと言いますが、自然界ではそれもまた立派な「生き延びるための能力」なんです。それは決して恥ずかしいことではないのです。実際、人間もまたその能力で今まで生き延びてきたのですから。「逃げるなんて卑怯だ」、「隠れるなんて卑怯だ」、「臆病はみっともない」などという論理は、人間が作った社会の中だけでしか通用しない論理なんです。自然界では逃げてもいいんです。隠れてもいいんです。臆病でもいいんです。それもまた立派な能力なんですから。実際、人間の中にもネズミやウサギのような「臆病さで身を守る能力」はしっかりと残っています。その能力に優れた人を「憂鬱質」と呼んでいます。ですから、一般的に憂鬱質の人は華奢なからだを持っています。力も強くありません。戦うのも、対立するのも苦手です。また、強い刺激や、強さを武器にしている人も苦手です。かすかな刺激や、かすかな変化も敏感に感じることが出来る感性を持っています。また、いつも未来のことを予測しようとしています。予測することで安全と安心を確保しようとするのです。よく分かっている場には行きますが、よく知らない場にはあまり行きません。よく知っている相手とは遊びますが、知らない相手とは遊びません。寂しがり屋ではあるのですが、相手が寄ってきてくれるのを待つだけで、自分から積極的に寄っていくようなことはしません。心と心の交流を求めます。美しいものが好きです。「美」には「人を安心させる働き」があるからなのでしょう。物語の世界の中で遊ぶのが好きです。自分の心と対話するのも好きです。実際にやるのではなく、心の中であれこれ想像して遊ぶだけで満足します。ただし、生まれつき憂鬱質の人でなくても、体が弱ってきたり、何かを守らなければならなくなったような人も、「憂鬱質」は強くなります。憂鬱質になるわけではないのですが、憂鬱質的な要素が強くなるのです。妊娠、出産、子育て中のお母さんもそのような状態です。でもその場合は、憂鬱質の豊かな感性は現れずに「不安」と「臆病さ」だけが強くなります。病気になったり、老人になったりして身体能力が衰えた人も、憂鬱質的になります。逆に、憂鬱質の子でも、様々な体験を通して安心と自信が育っていけば、多血的、胆汁的な要素が育っていきます。一番良くないのは、憂鬱質の子の憂鬱的な状態を否定することです。それをすると、穴の中に閉じこもって外の世界に出てこなくなります。
2019.01.21
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簡単に言ってしまえば「気質の違い」は「役割の違い」です。ですからそこに上下も優劣もありません。エンジンとブレーキは全く正反対の仕事をしていますが、どちらの方が偉いなんてことはないですよね。エンジンだけでブレーキのない自動車に乗っていたら、広い道路を自由に走っているときはいいですが、道がちょっとカーブになったり、狭くなったり、下り坂になったり、他にも走っている車がいたりしたら非常に危険ですよね。そもそも止まる方法がないので、ガソリンが切れるまで走り続けなければなりません。でも、ブレーキだけでエンジンがないものは自動車とは言えません。ただの鉄の箱です。エンジンとブレーキは正反対の働きを持ったものですが、この両者がお互いに助け合わないことには危険なことになってしまうのです。でも、一般的にエンジン的な人は過剰な自信を持っているので、その危険性を認識出来ないのです。エンジン的な人は「風を切って走るって気持ちがいいぜ」「どこへだって行けるんだぜ」「ブレーキなんて必要がない、俺の華麗なテクニックがあれば危険なことなんかないのさ」というようなことを言います。それに対してブレーキ的な人は「でも、でも」「怖い、怖い」「どうしてそんなにスピードを出すの」「どうしてこんな危ない道を走るの」「なんでそんな所に行こうとするの」と、エンジンがやっていることを否定するようなことしか言いません。でも、冷静に考えれば分かることなんですが、ブレーキの言うようにエンジンだけの自動車に乗っていたら、命の保証がないのです。だからこそ「ブレーキ」という仕組みが生まれたのですから。エンジンとブレーキはその働きは正反対ですが、実は「セット」として存在していないと危険なんです。ちなみに「文明」は前に進むことしか考えません。政治家も、経営者も、科学者も前に進むことしか考えません。それに対して「文化」は「循環」によって成り立っているので、大きな変化を好みません。遠くへなんか行かなくても、新しい世界を作らなくても、日々の生活の中に変化を起こして楽しむ方法を知っています。私たちの社会において、「文明」はエンジン的な働きをしていて、「文化」はブレーキ的な働きをしているのです。今でもジャングルの中で生活している人達がいますが、そのような人達をそのような状態に留めているのも、その人達の「文化」です。でも、現代社会で大切にされているのは「文明」の方です。「文化」は商品価値があるものは大切にされていますが、「文化」として大切にされているのではなく「商品」として大切にされているだけです。生活の場で、親から子へと受け継ぐのが本来の「文化」だからです。学校の授業でしか出会えないようなものは「過去の文化」であって、「今の文化」ではありません。そして、胆汁的な人は直線的な「文明」の方を好みます。直線的な世界で競争するのが好きなんです。多血的な人は、自分では変化は起こせないのですが、そんな胆汁的な人が創り出す変化が大好きです。そして、胆汁が創り出したものに多様性を与えます。憂鬱的な人は大きな変化がなく、循環で成り立っている「文化」の方を好みます。安心があるからです。ただ、「家元」や「流派」といったようなものにこだわり、自分を閉ざす傾向があります。粘液的な人にはそういうこだわりがあまりありません。自然とつながりながらノンビリと生活出来ていれば、他にあまり大きな欲がありません。こだわりがないので文明を否定することもないですが、文明に執着することもありません。高度な文明や文化がなくても、豊かな日々の生活があればそれ以上望みません。ちなみに、政治家でも、経営者でも、科学者でも、競争に偏らずにバランスが取れた発想をすることが出来る人もいます。そのような人は文化的なことにも造詣が深いような気がします。大切なのは、「どっちが」ではなく「バランス」なんです。でも、現代社会は「文明」に偏りすぎています。
2019.01.20
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昨日は「気質の特徴は色の特徴と似ている」という事を書きました。私たちはこの世界には色々な「色」があることを知っています。そしてその「色」に色々な名前をつけています。虹は「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」の七色だと言われています。ただし、虹の色を五色とする文化もあります。三色とする文化もあるそうです。でも、実際の虹の中には無数の色があります。でも、なぜか人間はその中の七つや、五つや、三つの色だけに名前を与えて、特別扱いしているのです。その違いを生み出してが「文化」と呼ばれるものです。それは虹自体の特性ではありません。だから、人によっても見え方が違ったりするのです。文化が違えば見える色も違うのです。そして、人の性格を分類する時にも同じようなことが起きます。実際の「人の性格」は、指紋のように一人一人違っていて同じものは一つとして存在していないのですが、でも人は、その中から共通する要素を見つけて分類しようとするのです。その分類の仕方も、文化や、分類する人の価値観によって異なってきます。ですから、精神科医が精神科医の視点で分類した性格分類と、教師が教師の視点で分類した性格分類では、同じように人の性格を分類したものでも異なったものになります。でも、色の世界には「文化に依存しない色」もあります。それがいわゆる「三原色」と呼ばれる「赤・青・黄」の色です。それに「明暗」を加えた四つの要素だけで世界中にある、無数の色が生まれています。光の場合は、「赤・青・緑」の三色です。ちなみに「明暗」は色の強さ(エネルギーレベル)を表すものであって「色」ではありません。ですから、正確に言うと「白」も「黒」も「色」ではありません。この三つの色は文化に依存しません。観測する人の価値観にも影響されません。そして、絵の具の場合は、三原色を全部足すと(論理的には)「黒」になります。光の場合は「無色」になります。それはみなさんご存じの通りです。それは「0(ゼロ)」という概念と同じです。元々は「無」なんです。その「無」を構成しているのが「赤・青・黄(緑)」だということです。ちなみに「無」は「何もない」という状態ではなく、逆に「全てがある」という状態です。「+」も「-」も、「上」も「下」も、「未来」も「過去」も、「善」も「悪」も、全てが同時に存在している世界です。宇宙はその「無」から生まれました。私は、「気質」もまた同じようなものだと思っています。それはつまり、「多血質」「胆汁質」「憂鬱質」「粘液質」という四つの要素を全部足すと「無(ゼロ)」になってしまうということです。それは、「動き」が全く存在しない静寂の世界です。でも、実際に私たちが生きている世界は「動き」によって支えられています。自然界も、人の世界も「動き」によって支えられています。その「動き」は異なるものが出会うことに生まれています。しかもその「動き」は直線的ではなく循環しています。海の水は太陽の熱で熱せられて、水蒸気として空へと上がっていきます。(胆汁的働き)その水蒸気は風によって拡散され世界中に広がって行きます。(多血的働き)でも、山や冷たい空気とぶつかって固まり、雲になったり、雪になったりして、また地上に降りてきます。(憂鬱的働き)そして、川に流れ込み拡散していた水は合流し、また海へと流れていきます。(粘液的働き)「朝・昼・晩」も、「春・夏・秋・冬」も循環しています。朝昇った太陽は夕方に沈みます。そしてまた朝昇ります。それを何十億年と繰り返しています。四季も同じようなものです。そして、その循環はお互いに補い合うような働きの組み合わせによって成り立っています。昇らせる働きは、下らせる働きとセットになっています。両者がやっていることは一見正反対なんですが、実際には、写真のネガとポジの関係のようなもので、似たもの同士なんです。風邪をひいた時には熱が出ますが、それは熱を上げることでからだの中に入った菌をやっつけようとするからだの働きです。でも、菌が減ってくれば、熱を上げている必要がなくなるので、今度は熱を下げようとします。このどっちの働きが壊れても、人間は死にます。拡散させる働き(多血的働き)は、それをまた元の状態に集めてくれる働き(粘液的な働き)とセットになっています。でも、拡散させる働きには熱(胆汁的働き)が必要です。熱がないと動きが生じないため、拡散も発生しないからです。憂鬱的な働きで雨や雪にならなければ、その水を集める川も生まれません。自然界の循環は、そうやって四つの気質的な働きによって支えられているのです。そしてこれと同じ働きが「人と人のつながりの中にもある」ということです。それが人間の気質になります。ですから、その人の「気質」は、「その人が自分以外の他者とどのような関係性を創っているのか」ということの中に現れるのです。だから、自分のことばかりを考えても分からないのです。**************茅ヶ崎で毎月1回のペースで「気質の勉強会」をしています。この3月で2018年度のタームが一応一区切りになるので、4月からまた新しく「気質の勉強会」を始めます。開催日は会場の都合によって固定していませんが、一応、土・日などの休日に行っています。時間は10:00~12:00です。参加費は2000円/回です。会場はJR茅ヶ崎駅の近くの公共施設です。<参加者募集中>です。お問い合わせは「ここ」までお願いします。
2019.01.19
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世の中には様々な「人の性格を分類する方法」があります。科学的な根拠はないし、現実と合ってもいないのですが、「血液型」によって性格を分類する方法は有名です。(分かりやすさが人気の秘密なんでしょう。)他にも、ユングとかクレッチマーというような精神科医が考え出したものや、社会学者や、医者などが考え出した様々な性格分類もあります。そんな有名なものでなくても、大勢の人と関わる仕事をしている人は、自分の体験から何となく「人にはいくつかのタイプがある」と感じ、人を分類するようになったりするものです。ユングやクレッチマーも、心の病を抱えた大勢の人との関わりを通して、「人の心はいくつかのタイプに分類出来る」ということを発見したのでしょう。そして、多くの人が「気質もそのようなものだ」と思い込んでいます。そのため、気質の講座などをしても、みんなすぐに「私は何質でしょうか」と聞いてきます。でも、「気質」は「人の性格を分類するための方法」ではないのです。なぜなら「気質」は、「個」としての特性ではなく、「他者との関係性」の中で現れるものだからです。ですから、同じ人でも、「Aさんと会っているときには多血質になり、Bさんと会っているときには憂鬱質になる」ということもあるのです。また、日本では胆汁質だった人が、アメリカに行ったら多血質のようになることもあります。日本では粘液質の人が、ドイツでは憂鬱質の人として扱われることもあります。実際、あるグループでは憂鬱質のように消極的でも、別のグループでは胆汁質のように積極的になることもありますよね。このように、人の性格や感情は、自分が関わっている相手や、その場の状況でコロコロと変わってしまうものなのですから、人の性格を固定的に分類することなど出来ないのです。人間は他者との関係性によって、自分の状態が変化してしまう生き物なんです。そんな「気質」は「色」に例えられることがあります。実際、「色」もまた周囲の状況に応じて「感じる印象」が変わってしまいます。黄色い地の上のオレンジは赤っぽく見え、赤い地の上のオレンジは黄色っぽく見えますよね。同じオレンジなのに、どのような地の上に置かれるかで、色の印象が変わってしまうのです。そして、黄色い地の上のオレンジは赤のような働きをし、赤い地の上のオレンジは黄色のような働きをします。白い紙の上に置かれた赤い紙は黒っぽく見えますが、黒い紙の上に置かれた赤は、真っ赤に見えます。モネのような印象派の人の絵は非常に美しいですが、だからといって美しい色を使っているわけではありません。アップした写真を見れば分かりますが、原色のまま使われている色はほとんどありません。みんな適当にくすんでいます。でも、アップでは「くすんだ青」でも、絵全体を見たときには、その周囲との響き合いで「美しい青」に見えるのです。でも、同じ色が別の所では緑に見えたり、黄色に見えたりすることもあります。機械にはそうは見えないのでしょうが、人間の感覚にはそう見えるのです。「色」とはそういうものだし、「気質」もまたそういうものなんです。だから、その色単体を取り出して「この色は何色です」と説明しても「絵」としては意味がないのです。「気質」以外の性格分類では、その「色」単体を取り出して、「これは○色だ」と分類します。でも、「気質」の考えで大切にしているのは、「その色が、それが置かれた周囲との関係性の中でどう見えるのか」ということなんです。そして、「それが何色か」を判別することよりも、「その色が生かされる使い方をするためにはどうしたらいいのか」ということを考えようとするのです。だから教育現場では非常に大切な意味を持った考え方なんです。どんなにくすんだように見える色でも、生き生きと見えてくるような使い方をすることも出来るし、その逆に、どんなに明るくて鮮やかな色でも、場違いな使われ方をされてしまうこともあるのです。ですから、「自分の気質について考える」ということは、「自分は周囲との関係性の中でどういう役割を果たしているのか」ということを考えることもでもあるのです。それが、その人が今置かれた状況の中でのその人の色であり、気質なんです。役に立っていなければ「自分の中の憂鬱質」を感じやすくなっているでしょう。そして、「自分は憂鬱質だ」と思い込んでいるかも知れません。ちなみに、多血質は「黄色」、胆汁質は「赤」、憂鬱質は「青」、粘液質は「緑」に対応されています。**************茅ヶ崎で毎月1回のペースで「気質の勉強会」をしています。この3月で2018年度のタームが一応一区切りになるので、4月からまた新しく「気質の勉強会」を始めます。開催日は会場の都合によって固定していませんが、一応、土・日などの休日に行っています。時間は10:00~12:00です。参加費は2000円/回です。会場はJR茅ヶ崎駅の近くの公共施設です。<参加者募集中>です。お問い合わせは「ここ」までお願いします。
2019.01.18
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人は誰でも、「自分のことは自分が一番よく知っている」と思い込んでいます。でも、その「自分がよく知っている自分」は「自分から見た自分」であって「他者から見た自分」ではありません。また、その「自分の状態」を判断する基準もまた「自分自身」ですから、そこには何の客観性もありません。ですから、「自分が知っている自分」は、もしかしたら全て自分の思い込みに過ぎないかも知れません。実際、お互いによく知っている仲間同士で呼んで貰ったときなどに、「私はこういう人間です」と自己紹介をして貰うと、あまりに周囲が知っているその人の状態と、その人自身が語る自分が異なっていて、周囲から「えー」という反応が出ることもあります。今まで色々な人の相談を受けてきましたが、中には、美人で、高学歴で、お金にも不自由していなくて、家族間のトラブルもないのに、「自己肯定感が低くて苦しいんです」と訴えてくる人もいました。客観的には自己肯定感が低くなるような要素は全くないのに、なぜか、自己肯定感が低くて苦しいというのです。今の自分をそのまま肯定出来ないのです。(その人は小さい時から、親の期待に応えることばかりを考えて生きてきたそうです。)そして、「すでに持っているもの」には目を向けず、「まだ持っていないもの」や、「どこか他の場所」ばかりを求めています。でも、その「まだ持っていないもの」に具体性はありません。そのような人は、自分でも「自分が何を求めているのか」よく分からないからです。だから、「それ」を手に入れようがないのです。「手に入れた」と思っても、実際に「それ」を手にしてみると、何か違うのです。それでまた他の「何か」を探し始めます。その繰り返しで、いつまで経っても「これだ」に出会えないのです。どうしてそういうことになってしまうのかというと、その「求めているもの」が、実は「子どもの頃の心の飢餓感」の残像に過ぎないからです。これは本当の食べ物においても同じなんですが、子どもの頃に飢餓の記憶があると、大人になっていっぱい食べることが出来るようになっても、なぜか食べることにおいて満たされなくなってしまうのです。「幸せ」も同じです。客観的には充分幸せな状態なのに、なぜか「幸せ」を感じることが出来ない人は、大人になっても「子どもの頃の幸せ」を求めているのです。そのような、「自分のことを肯定出来ない人が知っていいる自分」が、「本当の自分」であるわけがないのです。「本当の自分」のことを知らないから、「自分」を受け入れることが出来ないのです。その「本当の自分」とは、「自分が知っている自分」ではなく、「ありのままの自分」のことです。その「ありのままの自分」は頭の中には存在していません。自分は何を見ようとしているのか、何を聞こうとしているのか、そして、何を感じて、何を考えて、どう判断し、どう行動し、どう自分を表現し、どのように人と関わり、どのように歩き、どのように話し、どのように笑い、どのように泣き、何が出来て、何が出来なくて、何が嬉しくて、何が悲しくて、何に怒り、何に喜ぶのか、そういうことの中に「自分らしさ」も「ありのままの自分」も存在しているのです。自分のことばかりを考えている人にはこれが一番分からないのです。でも、他の人はあなたのこういう所を見ているのです。他の人には「あなたが見ているあなた」は見えません。他の人は「あなたには見えないあなた」を見ているのです。そして、「気質」はその「他の人から見たあなたらしさ」を表すものなんです。ですから、「自分にしか見えない自分」の中をいくら調べても、「自分の気質」は見えてこないのです。そのため、私は気質の自己申告はあまり信用していません。自己肯定感が低い人はみんな「自分は憂鬱質だ」と思い込んでいますから。でも、子どもの頃から「自分らしさ」や「子どもらしさ」を肯定されながら育てば、どの気質の人だって自己肯定感は低くなるのです。実際、どう見ても多血的な人が「私は憂鬱質だと思うんですけど」と言ってくることがよくあるのです。でも、ワークなどでそのような人に様々な表現活動をしてもらうと、その「自分らしさ」が現れて来ます。「頭の中の自分」では表現活動が出来ないからです。画用紙に線を一本描いて貰うだけでも、その線の中に「自分らしさ」が現れるのです。**************茅ヶ崎で毎月1回のペースで「気質の勉強会」をしています。この3月で2018年度のタームが一応一区切りになるので、4月からまた新しく「気質の勉強会」を始めます。開催日は会場の都合によって固定していませんが、一応、土・日などの休日に行っています。時間は10:00~12:00です。参加費は2000円/回です。会場はJR茅ヶ崎駅の近くの公共施設です。<参加者募集中>です。お問い合わせは「ここ」までお願いします。
2019.01.17
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物事を認識し、理解していく方法には「部分から見ていく」という方法と、「全体から見ていく」という二種類の方法があります。科学は「部分から見ていく」という方法を使っています。部分について調べて、その部分を組み合わせることで「全体」を理解しようとしているのです。例えば、西洋医学では、胃や、腸や、神経や、骨格と言った「部分」を研究することで、その複合体(全体)としての「人間」を理解しようとしています。ただその方法は、道具や、機械や、ビルなどといったような、「1+1」が必ず「2」になるような素材を使って、無機的な構造体を作る時などには非常に効力を発揮しますが、部分同士が相互に影響し合って「1+1」が「2」に確定されないような対象には応用出来ません。20kgを持ち上げることが出来るロープを二本使えば40kgのものを持ち上げることが出来ます。でも、20kgを持ち上げることが出来る人が二人協力すれば40kgのものを持ち上げることが出来るかというと、話はそう簡単ではありません。一方が、「おまえとなんか一緒にやりたくない」と言えば、それで終わりですから。そしてそれが現実の世界です。そして、生き物の世界はそのように出来ています。生き物の世界では「部分」を集めても、「全体」にはならないのです。そのような西洋医学に対して、東洋医学は、まず「人間」という「全体」から入っていきます。「頭の理論」よりも「感覚的な現実」を優先するのです。そして、からだの具合が悪いときには「部分が故障している」とは考えずに、「他の部分とのつながりがうまく行っていない」と考えます。会社に例えると、「社員の能力が低いから営業成績が上がらない」と考えるのではなく、「社員の協力体制がうまく行っていないから営業成績が上がらない」と考えるのです。命の働きにおいては、もともと個々の能力にそれほど大きな差はないのですから。ただし、これは「どちらの考え方の方が正しい」ということではありません。本当のことを知るためには、両方の見方が必要だと言うことです。で、ここからが「気質」の話です。どうして、「気質」の話のはずなのに、そういう「部分」とか「全体」という考え方について書いているのかというと、この「全体」という視点を持たないことには「気質」のことが理解出来ないからです。気質には「多血質」(たけつしつ)、「胆汁質」(たんじゅうしつ)、「憂鬱質」(ゆううつしつ)、「粘液質」(ねんえきしつ)の四つの気質があるといわれていますが、この四つは別々のものではなく、「人の命の状態を現す四つの側面」に過ぎません。その四つの気質の関係は、紙の「裏」と「表」の関係と似ています。それが別々のものに思えるのは脳の錯覚に過ぎません。ですから、人は誰でもこの四つの気質全てを持っています。人には「喜・怒・哀・楽」という感情があると言われていますが、それぞれに対応した心があるわけではないですよね。たった一つしかない心が、状況に応じて変化して、そのような状態になるのですよね。「気質」も同じです。だから、同じ人でも状況に応じて多血が強くなったり、胆汁が強くなったり、憂鬱が強くなったり、粘液が強くなったりします。そうやって、「気質の働き」を通して命の状態のバランスを整えようとしているのです。そして、それが気質の役割なんです。それでも、「喜・怒・哀・楽」の中の「喜」の働きが強い人もいれば、「怒」の働きが強い人もいます。「哀」の働きが強い人もいれば「楽」の働きが強い人もいますよね。それと同じように、「多血」が強い人も、「胆汁」が強い人も、「憂鬱」が強い人も、「粘液」が強い人もいるのです。そのような特徴を捉えて「あの人は○○質だ」と言っているだけです。因みに、多血質の人は「楽」に感応しやすいです。胆汁質の人は「怒」に、憂鬱質の人は「哀」に、粘液質の人は「喜」に感応しやすいです。「感情」もまた命の状態の現れですから。ただ気質は感情よりももっと深いところにあるものです。
2019.01.16
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茅ヶ崎で毎月1回のペースで「気質の勉強会」をしています。この3月で2018年度のタームが一応一区切りになるので、4月からまた新しく「気質の勉強会」を始めます。開催日は会場の都合によって固定していませんが、一応、土・日などの休日に行っています。時間は10:00~12:00です。参加費は2000円/回です。会場はJR茅ヶ崎駅の近くの公共施設です。<参加者募集中>です。お問い合わせは「ここ」までお願いします。*****************ということで、しばらく「気質」とか、「自分らしさ」とか、「自分を知る」とか、「自分を変える」というテーマで書いてみたいと思います。「気質」という言葉は聞き慣れない人もいると思いますが、簡単に言ってしまえば「生まれつきの自分らしさ」ということです。子どもが一人しかいない人にはよく分からないかも知れませんが、子どもは産まれたときから、一人一人個性的です。もっと言えば、お腹の中にいる時や、産まれ方すらも個性的です。お腹の中にいる時の状態も、産まれ方も一人一人みんな違うのです。生まれてからの泣き方も、笑い方も、オッパイの吸い方も、寝方も、動き方も、一人一人違います。視覚や、聴覚や、触覚や、味覚や、嗅覚に対する感受性も一人一人違います。小さな音にも敏感ですぐ泣く子もいれば、多少大きな音がしても気にしないでよく寝る子もいます。食が細い子もいれば、食べてばかりいる子もいます。よく寝る子もいれば、「大丈夫かしら?」と思うほど寝ない子もいます。このように、子どもは生まれつき一人一人異なった心と、からだと、感覚の個性を持って生まれて来ます。その違いが極端な場合は「障害」が疑われたりもしますが、でも、「普通」と言われる子の間にも、ものすごく大きな違いがあるものです。それを平均したような「普通の子」をイメージすることは簡単ですが、実際にはそんな「普通の子」はあまりいないものです。みんなどこかしら偏っているのです。というか、多少偏っているのが自然なんです。本来、「自然」とはそういうものなんです。だから多様性が生まれるのですから。問題はその「偏り」を「短所」と見るか「長所」と見るかです。子育てに悩んでいる人の話を聞くと、その子どもの「偏り」を「短所」として捉え、なんとか直そうとしている人が多いです。また、その「偏り」を「自分の育て方のせい」だと思い込み、自分を責めている人も多いです。現代人は、「人は違っていて当たり前なんだ」という当たり前のことが分からなくなってしまっているのです。これは子どもに対してだけでなく、自分自身に対しても同じです。私から見たら素敵な個性を持っているのに、自分で自分の個性を否定して「こんな自分嫌いです」と悩んでいる人もいっぱいいます。でも、その「違い」にはちゃんと意味があるのです。自然界には色々な生き物がいます。同じネコや犬でも、それぞれに個性があります。でもだから、全体が分裂せず、うまく支え合い、調和を整えることが出来るのです。人はリーダー的な素質にあこがれますが、リーダー的な子ばかり集まっても、主導権争いばかりが起きて何も出来ないと思います。大事なのは、お互いにその違いを認め合い、お互いに自分に足りないところは支えて貰い、自分が出来ることは他の人を助けるようにすることなんです。何でも一人で出来る人なんて、この世界に一人もいないのですから。
2019.01.15
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西洋文明の根底には「自然の働きの否定」があります。それは、「神様がこの世界を創った」という宗教のせいかも知れません。その宗教では、人も、世界も、自然も「神様によって創られたもの」です。ただ、その「神様に創られたもの」の中にも上下があって、「神様に似せて創られた人間が一番偉く、この世界や自然に対する支配権が与えられている」と考えられて来ました。人間は神様によって、この世界の生き物の生殺与奪権が与えられているのです。だから、「牛や豚は神様が人間の食料として与えてくれたものだから殺してもOKだが、クジラやイルカなどは、食料として与えられたものではないし、知能も高いので可哀想だから殺してはいけない」という考え方が成り立つのです。そして、現代文明の価値観も、この考え方に従っています。この価値観に基づかなければ、人間の都合だけで自然を破壊して人工的な世界を作ることが出来ないからです。学校教育でもこのような価値観を教えています。だから「命を大切にしよう」と言いながらもお肉を食べることは肯定しているのです。また、自然界の生き物でも、日本に昔から住んでいる生き物や植物は「在来種」として大切にしようとしていますが、最近になってやって来たものは「外来種」として「駆除(殺す)すべきもの」と考えています。命の選択をしているのです。欧米の人が「クジラやイルカを殺すのはやめよう」というと、「あんた達だって牛や豚は平気で殺しているじゃないか」と言い返したりしますが、今では日本人だって、牛や豚を平気で殺して食べているのですから、それを言うのは矛盾しています。「在来種は殺してはいけないけど、外来種は殺して当然」というように、現代社会では「殺していいか、いけないか」は社会が決めることなんですから、クジラもイルカも、世界的に新しいルールを作ればいいだけのことであって、「日本古来の食文化を守れ」という主張は少し変です。「日本古来の食文化を守れ」と言うのなら、同時に、「江戸時代の人のように、牛や豚を食べるのもやめよう」という主張もすべきなんですが、でも、なぜかそれは言いません。守りたいのは「産業」であって「食文化」ではないからです。最初にも書いたように、西洋では、ただ一人の神様がこの世界も、人間も、全ての生き物も、自然も創ったことになっています。でも、東洋や日本の考えでは、そういうものは「創られたもの」ではなく「産まれてきたもの」になっています。神様もまた「産まれてきたもの」として扱われています。西洋では、神様が天と地を創ったのですが、日本では、天と地が産まれたときに神様も産まれてきたのです。つまり日本では、最初にあったのは「自然」なんです。最初の神様もその「自然」の働きによって産まれてきたのです。(その後は、神様が神様を産んでいきます。)そして、その自然の中の「命を産み出す働き」そのものも神様として奉るようになりました。日本には、人から産まれた「人格を持った神様」と、命の働きと直接つながった「人格を持たない神様」の二種類の神様がいるのです。明治神宮で祭っているのは前者です。伊勢神宮で祭っているのは後者です。ちなみに、この「神様よりも先に自然があった」という考え方は、日本だけでなく、日本以外のアジアの国々でも一般的なようです。ですから、日本も含めた東洋の国々では「命の働き」に畏怖を感じ、神様化したり、大切なものとして扱ってきました。性欲も、性の営みも肯定されていました。そして、赤ちゃんはお母さんのお腹から産まれてくるものでした。でも、西洋では性欲は悪魔が作り出すものでした。出産の苦しみは、人間が神様に逆らったから与えられた罰(原罪)として考えられました。子どもはお母さんが産むものではなく、コウノトリが運んできました。出産を扱ったり、薬草などで命の働きに関与する人達は「魔女」として扱われました。そのため、「子どもは未熟で取るに足らない存在」なので、大人が厳しく仕付けないとすぐに悪魔の誘惑に引き込まれてしまう」とも考えられました。子どもの中の「命の働き」も「成長本能」も、お母さんの「からだの働き」も信じていなかったのです。その延長に西洋文明があり、そして、現代文明があります。私たちは西洋の科学文明を取り入れたときに、西洋の価値観も取り入れたのです。その時から「性」は「恥ずかしいもの」になり、「子どもは未熟な存在」になってしまいました。神様は取り入れませんでしたが、「便利な生活」と引き替えに、「命の働きに対する畏れと尊敬」を失ってしまったのです。そして、教育は「子どものため」や「家のため」ではなく、「お国のため」になってしまいました。そんな欧米の人達が江戸時代の末期に大勢日本にやってきて驚いたことがあります。なぜか日本の子どもたちは、欧米の子どもたちのように鞭で叩かれることもなく、怒鳴られ追い立てられることもなく、自由に放って置かれているだけなのに、欧米の子どもたちよりも礼儀正しく、大人しいのです。このことに関しては、欧米の人が驚きと共に書いた多くの証言が多く残っています。否定からは何も産まれません。子どもに素敵な人間に育って欲しいと願うのなら、子どもの命の働きや、成長したいという欲求を信じ、子どもを尊敬すべきだと思います。否定されて育った子が素敵な人間に育つとは思えないからです。そしてそれがまた、大人が「自分を大切にする心」とつながってくるのです。「子どもを大切に出来ないような人」は自分のことも大切に出来ないのです。「ただしこれは子どものために犠牲になりなさい」とか「言いなりになりなさい」と言うことではありませんからね。「尊敬する」ということと、「言いなりになる」とか「犠牲になる」ということは違いますからね。****************逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー) [ 渡辺京二 ]価格:2052円(税込、送料無料) (2019/1/14時点)楽天で購入日本その日その日 (講談社学術文庫) [ エドワード・シルヴェスター・モース ]価格:1080円(税込、送料無料) (2019/1/14時点)楽天で購入
2019.01.14
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昨日は、じゃあ、我が子を「子どもは親の所有物ではなく、別の人格を持ち、別の人生を歩む、別の人間だと認識出来ない人はどうしたらいいのか」ということですが、そのような認識を得るためには「学び」が必要になるのです。「子どもとはどういう生き物なのか」「成長とはどういう現象なのか」という学びです。それはまた、自分のことについての学びでもあります。という事を書きましたが、このことを観念としてではなく、リアルな現実として感じたのは、二女(三番目)の出産に立ち会ったときです。うちには四人の子どもがいます。上の二人は普通に、普通の病院で産まれました。ただ、色々な状態がうまく行っていたので、二人とも人工的な処置をすることなく予定日前に自然に産まれてきました。で、少し空いて三番目を妊娠したとき、「これが最後だろうからお産を楽しんでみよう」という話しになって、図書館で色々とお産の本を見ていたら「水中出産」というギョッとするようなタイトルの本が目に付きました。手に取ってみると、赤ちゃんを水の中に入ったまま産むというお産についての本でした。写真もいっぱいありました。それで「へー、こんなお産あるんだ」と興味を持って、その病院の住所を見てみたら、なんとうちからそれほど遠くないところ(海老名、うちから車で30、40分)にあるではありませんか。名前は「片桐助産院」。(片桐さんが亡くなり、いまはありません。)水中出産の草分け的な助産院でした。それで、「面白そうだからここで産んでみよう」ということになって、そこを訪ねました。で、あれこれあって、私には非常に大切な場所になったのですが、それは割愛します。そこでのお産は完全に赤ちゃんペースで進む「待ちのお産」でした。いよいよという時にはプールにぬるま湯を張り、私も水着になって中にはいり、お産の補助をしました。私は家内の背中を支えていたので、完全に出きるまでは私からは見えなかったのですが「産まれた!」という声と共に、赤ちゃんが水の中にユラユラとたゆたっていました。すごく不思議な光景です。まだヘソの緒がつながっていますから、まるで宇宙遊泳をしているかのようでした。それで静かに抱き上げて水から出しました。すると、水から出た途端に鼻と口から水を吹き出しました。泣きません。おだやかな顔をして家内の胸の上で静かにしています。ヘソの緒もどくどくしています。しばらくすると、ヘソの緒の脈動が弱くなってきました。それと共に、酸欠になってきたのか赤ちゃんが泣き始めました。いわゆる「産声」です。脈動が完全に止まったら、クリップのようなもので押さえて、ハサミで切りました。ゴムのようで非常に固かったです。また更に待っていると、胎盤が自然に出てきました。引っ張り出したりなんかしません。だから、出血も少なく、水が少しピンク色になった程度です。この過程に立ち会って強く感じたのは、赤ちゃんには「産まれて来ようとする意思、成長しようとする意思」がちゃんと備わっているということでした。また、母親のからだにもちゃんと「命をはぐくみ、命を産み出す知恵と働きが」備わっているということも実感しました。赤ちゃんも、母親も偉大です。また、「子育て」は赤ちゃんが産まれてから始まるのではなく、赤ちゃんを妊娠し、出産するところから始まっている」と言うことも強く感じました。「赤ちゃん」をどういう存在として受け入れるのか、赤ちゃんの「産まれてこようとする意思」、「成長していこうとする意思」を肯定しようとするところから「子育て」が始まっているということです。でも、現代の近代的な病院でのお産では、この「赤ちゃんと母親の命の働き」、赤ちゃんの「産まれてこようとする意思」、「成長していこうとする意思」を信じていません。先日、お母さん達の勉強会でこの水中出産の話をしたら、「待っていたら自然に胎盤が出てきた」という下りで、数人のお母さんが「えー」と声を上げました。その人達は、胎盤は自然には出てこないと思っていたようです。今では、「生まれてくる日」を医者が決めるのは当たり前になっています。「星占い」の「星」を医者が決めているのです。陣痛も薬でコントロールしています。お母さん達の意識も変わってきていて、今では、特に医者が必要と感じないような状態でも、無痛分娩や、帝王切開を選ぶ人も増えてきています。現代の「子育て」は、「子どもと自分のからだの命の働き」を否定する所から始まっているのです。「コントロールしないと、ちゃんと赤ちゃんは産まれてこない」という意識の延長に、「コントロールしないと子どもはちゃんと育たない」という意識が目覚めているのでしょう。このような意識を持ってしまったら、「子どもは親の所有物ではなく、別の人格を持ち、別の人生を歩む、一人の人間だ」という意識を持つのは難しいでしょうね。ちなみに、四番目は助産婦さんに来て貰って自宅で水中出産でした。(片桐さんは亡くなっていたので、茅ヶ崎の名物助産婦の斉藤さんです。)胎盤は庭に埋めました。
2019.01.13
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一般的に、子どもが好きな人は子どもを見ていても見飽きません。子どもと遊ぶのも大好きです。でも、子どもが嫌いな人は子どもを見ていたいとは思いません。子どもと遊びたいとも思わないし、「遊んでみたら」と言われても遊べません。ただし、子どものことが好きでも、興味や関心をもって目の前にいる我が子を見るのではなく、管理・監視するような意識でしか子どもを見ることが出来ない人もいます。どうしてそういう矛盾した状態になってしまっているのかと言うと、そのような人が好きなのは、目の前にいる「自分とは別の人格としての子ども」ではなく、「自分の分身としての子ども」「自分自身を投影した子ども」に過ぎないからです。自分の心の中のインナーチャイルドを我が子に投影してしているのです。そのような人は、「ありのままの自分」を受け入れません。そして常に「大好きな自分」と「大嫌いな自分」の間で戦っています。自傷する人は自傷するくらいだから自分のことが嫌いなのかというと、そうではなく、大好きな自分を確認するために自分に傷をつけているのです。子どもにもそれをやってしまうと虐待になります。中には「子どものことが嫌いだから」という人もいると思いますが、実際には、子どものことが大好きでも同じような行為をしてしまう人の方が多いと思います。虐待のニュースがあると、人は「鬼母だ」とか、「我が子が可愛くないのか」と言いますが、そういうことではないのです。子育てをするときに大切なことは、「子どもは親の所有物ではなく、別の人格を持ち、別の人生を歩む、自分と対等な別の人間だ」ということをしっかりと認識することです。そして、親が知っておくべき「親の役割」は、「まだ未熟な状態の我が子が、やがて独り立ち出来るように手助けをする」ことです。これは動物界全ての原則です。このことをちゃんと理解せず、子どもに「自分」を投影したりして過剰に子どもを支配・管理しようとしてしまうと、子どもは「独り立ち出来ない人間」に育ってしまうのです。その「独り立ち出来ない人間」は「他者と一対一で向き合えない人間」でもあります。そのような人は、他の人との間に「支配する」か、「支配される」か、「無関心か」という関係しか作れないのです。「対等な関係」というのがよく分からないからです。我が子との関係においても同じです。当然そのような人は子どもとも、仲間とも遊ぶことが出来ません。一緒にディスニーランドのような所に行って、同じ乗り物に乗って、同じものを見て、一緒にはしゃぐことは出来ても、それは「一緒の体験をした」ということであって、「仲間として一緒に遊んだ」ということではありません。でも、「一緒に遊ぶ」ということをそのようにしか考えることが出来ない人が増えてきています。子どもの時からそのような遊び方しかしてこなかったからなのでしょう。実は、遊びの世界というのは、実に平等な世界なんです。支配する人も、支配される人もいません。上下の関係もありません。「鬼ごっこ」だって「鬼」は持ち回りです。「強い子や成績がいい子は鬼をしなくてもいい」等ということは絶対にありません。そんなことしたら楽しくなくなってしまうからです。これはネコと遊ぶときだって同じです。ネコ目線に立って、ネコの気持ちを大切にしないことにはネコと遊ぶことは出来ないのですから。子どもたちは楽しく遊びながら、「平等の体験」をしているのです。というか、していたのです。民主主義の原点は子どもたちの遊びの世界の中にこそあったのです。でも、一人遊びの世界では子どもは常に支配者であり、王様です。だから、一人遊びしかしてこなかった子が数人集まると支配権争いを始めるのです。じゃあ、我が子を「子どもは親の所有物ではなく、別の人格を持ち、別の人生を歩む、別の人間だと認識出来ない人はどうしたらいいのか」ということですが、そのような認識を得るためには「学び」が必要になるのです。「子どもとはどういう生き物なのか」「成長とはどういう現象なのか」という学びです。それはまた、自分のことについての学びでもあります。学ぶことで、子どもに興味を持つことも出来るようになるし、観察するポイントも分かって来るのです。すると、「自分」を投影しなくなるのです。
2019.01.12
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人間は「視覚」を奪われると、思考が停止します。それは、自然界でとにかく安全に危険を回避するための「からだの仕組み」です。急に猛獣が現れたり、崖が崩れてきたり、敵が襲ってきたときに、ゆっくりと考えていたら間に合わないからです。皆さんが何か考えながら道を歩いているときでも、目の前に急に自転車が表れたら、思考は停止しますよね。そんな時の頭の中は「え!」「なに!」「ばかな!」という感じですよね。子どもたちが簡単にスマホやゲームなどに夢中になってしまうのも、この「からだの仕組み」によります。大人よりも子どもの方が「動くもの」や、「光の変化」や、「音の変化」に対する感受性が高いからです。だから、スマホやゲームでなくても、子どものオモチャには、動いて、チカチカ(キラキラ)光って、音が出るものが多いのです。ゼンマイ仕掛けや、電気仕掛けのオモチャが現れるまでは、そんなおもちゃ存在していなかったのですが、オモチャが自分自身のエネルギーを持つようになったら、チョウチンアンコウのようにそのエネルギーを使って子どもを釣るようになってきたのです。この「からだの仕組み」は自然界で、とっさの危険から自分の命を守るために必要な能力です。その「仕組み」の背景には「不安への予感」があります。視覚や、音や、嗅覚などの感覚に対する急な変化は、人に不安を与えるのです。子どもの方が視覚的、聴覚的な変化に敏感なのは、周囲の環境への高い適応能力も関係していますが、子どもの方が身体的な能力が低いからということもあるのです。老人になると様々なレベルでの変化を好まなくなったり、小さな変化にも敏感になるのは、老人になると危険に対応する能力が低下するからです。子どもの甲高い声が耐えられなくなるのも、その声が不安を連想させるからだと思います。(だからゲームが変化への対応力を促し、リハビリに対して効果的に働いたりするのです。)スマホやゲームでは実際の「危険」は発生していませんが、「からだの仕組み」は「社会の変化」とは無関係な仕組みですから、現代人でも太古の人と同じように反応してしまうのです。でも、実際の危険にはつながっていないため、単なる視覚的、感覚的な変化だけだとすぐに慣れが生じて飽きてしまいます。そこで「音」と「成果」と「物語」という別の要素が登場します。視覚的な変化に音が着くことでよりリアルになります。赤ちゃんに音付きの動画を見せると、ジーッと見入ります。ただし、それは面白いからではありません。不安を感じて目を離せなくなってしまうからです。その段階を通り過ぎると、今度は好奇心で見続けます。ただ、4,5才頃になると「自分の心」というものが目覚め始めてくるので、視覚的な変化と音だけでは、視覚を奪えなくなってきます。そこで何かしら人間的な欲求を満たしてあげる必要が生まれてきます。そこで「成績や成果を競う」とか、「物語で遊ぶ」という別の要素が入ってきます。すると、友達と一緒に遊ぶことが出来るようになったり、物語の世界の中で一人で遊ぶことが出来るようになります。でも、あくまでもそのインターフェイスは「視覚」です。その内容に関係なく、ゲームでは画面を見続けることでしか遊びが成り立たないのです。「音」も、「成績」も、「物語」も、「視覚」を画面(ゲーム機)に釘付けにするための補助に過ぎません。ゲーム機は子どもの視覚を画面から離さないように作られているのです。そして、ゲームをやっているときは視覚を奪われているので思考は停止しています。だから何時間でも夢中になることが出来るのです。問題は、脳とからだがそのような状態に慣れてしまうと、今度は、変化に乏しい現実世界に違和感を感じるようになってしまうということです。強制的に「大きな音を出して激しく動くもの」ばかり見つめさせられていると、「動かないもの」や「ゆっくりしか動かないもの」や「音を出さないもの」に対して意識を集中することが困難になってしまうのです。そのため他の感覚に対して受動的にもなります。自分の意思で見たり、聞いたり、感じたり、集中したりすることが難しくなるのです。すると、当然のことながら観察力が低下します。観察力が低下すると、無心になることが出来なくなります。すると遊ぶ能力が低下します。体験から学ぶ能力も、お勉強の能力も低下します。でも、そのことで成績が下がったり大人から叱られると、ゲームには、パチンコと同じように視覚を奪い目の前の現実を忘れさせてくれる効果も高いので、そのために使われたりもします。ただ、映画を見たり、パチンコをしたりするように、それが一時的なことなら感覚はすぐに元に戻るのですが、幼児期からそのような遊びしか体験していないと、脳が視覚からの強い刺激に適応したまま成長してしまうので、なかなか元に戻らなくなってしまうのです。それは麻薬中毒者の脳と同じです。一見、「観察力」と「遊ぶ能力」とは関係がないように思えますが、実際には観察力がないと無心で遊ぶことは出来ないのです。子どもと遊べない人は、子どもをよく観察していない人でもあるのです。まただから、子どもは大人が気付かないようなことにもすぐに気付くのです。「森」の中には不思議がいっぱいありますが、その「不思議」に気付くのも観察力の結果です。観察力があれば石ころだって面白いのです。でも、観察力のない子には「森」は不思議でも何でもありません。石ころに面白さを感じることもありません。それよりも、ロボットや自動車の方が面白いのです。
2019.01.11
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昨日は「対話が自分の活動を遊びに変えてくれるのです」と書きましたが、実はこの「対話」がなかなか難しいのです。というか本当は子どもでも出来るくらい簡単なんですが、何でも頭で考えて行動する癖が付いてしまっている大人には難しいのです。基本的に、「対話」は無心で行うものだからです。子どもは無心になるのが得意です。というかそれが普通の状態です。だから、泥ダンゴとも、草木とも、水とも、仲間とも、無心で遊ぶことが出来るのです。夜の闇や黒色を怖がったり、お絵描きの時に赤やピンクや緑という特定の色にこだわって、一色だけで描こうとするのも無心だからです。緑が好きな子は、緑の紙に上に、緑のクレヨンで絵を描こうとします。だから絵がよく見えません。大人からしたら「何をバカなことをやっているんだ」ということになるのですが、無心にお絵描きしているだけの子どもはそんなこと感じません。遊び上手な大人も、この「無心」が得意です。波乗りが好きな人は無心で波に乗ります。それが楽しいのです。絵を描いたり、何かを作るのが好きな人も同じです。子どもと一緒になって思いっきり遊ぶことが出来る人は、子どもと遊んでいる時は無心です。それに対して、子どもと遊ぶのが楽しくない人は、子どもと遊びながら他のことを考えています。家事でも同じです。家事を楽しむことが出来る人は、無心で家事をしています。でも、家事を楽しむことが出来ない人は、次の仕事や、子どものことや、ご主人のことや、色々なことを考えながら家事をしています。みんながスマホで動画を見ていたり、ゲームをしているときに夢中になることが出来るのは、スマホやゲームをしているときには他のことを考えなくなるからです。というか、ゲームはそのように作られているのです。遊ぶのが得意でない子でも遊ぶことが出来るように工夫してあるのです。また、見逃せないものに目を奪われているときも人は他のことを考えることが出来なくなります。スマホやゲームでは、スマホやゲームの側に人を無心にする働きがあるのです。逆に言うと、だから、スマホやゲームでばかり遊んでいると、石や、葉っぱや、泥んこで遊べなくなってしまうのです。石や、葉っぱや、泥んこに夢中になることが出来なくなるのです。だから、「子育て」を遊びたいと思うのなら、子どもも大人もスマホやゲームは遠ざけた方がいいです。
2019.01.10
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世の中には様々な「遊び」があります。鬼ごっこ、木登り、泥ダンゴ、ゲーム、お手玉、羽子板、スケボー、何かをコレクションするなどの、一般的な「遊び」だけでなく、道ばたの小石で遊ぶ子もいれば、スキップして遊ぶ子もいます。宮沢賢治の童話には雲を見上げて遊ぶカエルの話もあります。ですから遊びの数は無限です。では、鬼ごっこをしたくないのに「鬼ごっこをしろ」と言われた子どもがする鬼ごっこは「遊び」でしょうか。確かに、見かけ的には「鬼ごっこという遊び」で遊んでいても、「言われたからやっている」だけの鬼ごっこは全く楽しくないですよね。そして、楽しくなければそれは、「やらなければいけないお仕事」であって「遊び」ではないですよね。同じ行動でも、自分の意思でやっている子には「遊び」になって、「やらされている子」にとっては「お仕事」になってしまうのです。「お手伝い」なども同じです。「私もやりたい」と言って手伝ってくれる子にとっては「お手伝い」も「遊び」ですが、「ゲームなんかしていないで手伝いなさい」と強制されて嫌々やる「お手伝い」は「お仕事」です。確かに社会的に決められた「遊び」というジャンルはありますが、実際に「何が遊びで、何が遊びではないのか」を決めているのは、その本人なんです。ですから、歩くだけ、呼吸をするだけでも遊ぶことが出来る人もいます。昔、「ぼのぼの」というマンガがありました。ご存じの人もいらっしゃると思いますが、ぼのぼのはなかなかシュールで面白かったです。その中に、ぼのぼのが、左右交互に目を閉じて景色の変化を楽しむ遊びをしているシーンが出ていました。それを見たとき「いがらしみきお(作者)は分かっている」と思いました。もし、「それが遊びであるかどうか」を決めているのがその「行為の内容」ではなく、「その行為をしている人の意識の持ち方」であるとしたら、「子育て」だって立派な「遊び」にすることも出来るのです。実際「子育ては楽しい」と「子育て」を遊んでいる人だっているのですから。私もそうでした。でも、多くのお母さんが「子育ては辛い労働だ」感じています。それでも、義務感と責任感で頑張っています。じゃあ、同じ行為なのにそれを「遊び」にすることが出来る人と「お仕事」にする人を分けているのは何なんだ、ということです。私はそれを「対話の有無」だと考えています。その行為の中に対話があると、楽しくなって、それが遊びになるのです。対話がないと、孤独な作業になってしまうのです。自分のからだと対話が出来る人は、ちょっと手を動かしたり、からだを動かしたりするだけで遊ぶことが出来ます。ゲームが楽しいのもそこに「対話」があるからです。だから孤独な子ほどはまりやすいのです。泥ダンゴを作って遊んでいる子は、泥ダンゴと対話しているのです。草木を育てるのが好きな人は草木と対話が出来る人です。波乗りが好きな人は波と対話出来る人です。ただし、その場合の「対話」とは「言葉によるコミュニケーション」のことではありません。感覚を通した対話です。ですから、言葉を全く話すことが出来ない赤ちゃんとだって対話を楽しむことが出来ます。そして、赤ちゃんと対話が出来る人は赤ちゃんとの関わり合いを楽しむことが出来ます。赤ちゃんと遊ぶことも出来ます。でも、それが出来ない人にとっては赤ちゃんは単なる「お世話をする対象」にしか過ぎません。赤ちゃんとの関わり合いは「お仕事」に過ぎません。これでは辛くなって当然です。でも、そのような人はどうやって対話したらいいのかが分からないのです。「対話」というものがどういうものであるのかすら分からない人もいます。そのような人でも「コミュニケーション」は分かります。でも、一般的なコミュニケーションは大人と大人とかいうような対等な関係の間でしか成り立ちません。ですから、人間は泥ダンゴとコミュニケーションをすることは出来ないのです。でも、対話は出来ます。幼い子どもたちは自由に遊びますが、子どもが遊んでいるところを見ていると、ブツブツ言いながら遊んでいることが多いです。何かと対話しながら遊んでいるのです。まただから、虫さんの声やお花さんの声を聞くことが出来たりすることもあるのでしょう。子どもたちは、「遊び」を通してその「対話能力」を育てています。そしてそれが「人生を楽しむ力」にもなっていくのです。
2019.01.09
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テレビなどで欧米の人の夏休みの過ごし方を見ていると、向こうの人は遊ぶのが好きだし、また上手だなと感じます。でも、マジメが取り柄だけの日本人は遊ぶのがあまり好きではありません。遊んでばかりいると罪悪感を感じてしまうのでしょうか。また、遊び方を工夫したりもしません。休日があると、海外旅行や、温泉や、ディズニーランドなどには行きますが、自分達で遊びを工夫して遊ぶということはしません。(私の周囲には真冬でも家族でキャンプに行く人が数人いますが、でも、一般的ではないですよね。)また、おかしなことにマジメで仕事ばかりしているのに、一人あたりの労働生産性は非常に低いのです。日本人は個を主張せず、和を大切にする民族ですから、言われたこと、やるべきことはマジメに忠実にやるのですが、自分の頭で考え、自分の感性で判断して、自分の意思と責任に従って行動するのは苦手です。みんなの顔色を見ながら仕事をしています。だから一人あたりの生産性が低くなってしまうのかも知れません。まただから、遊ぶのが苦手なのかも知れません。古来から、「遊び」は自分で発見するものでした。ディズニーランドのような場所に行って遊ぶような遊びは昔は存在しませんでした。娯楽産業といったもの自体が存在しなかったからです。子どもも大人も、人類発生以来何十万年と「遊び」は自分たちで発見していたのです。それが崩れたのは、子どもや大人をターゲットにしたオモチャや娯楽産業が生まれてからです。それはつい数十年前のことです。簡単に遊べる公園や、遊園地や、オモチャや、スマホや、ゲーム機があるので、自分で遊びを発見しなくてもよくなったのです。結果、子どもたちは「自分で遊びを発見する機会」を失ってしまいました。それに伴い、工夫する能力、発見する能力、仲間とつながり合う能力、自分の意思と責任で行動する能力、野山を走り回る能力を育てる環境を失ってしまいました。ゲームの中にもそういうものはあるかも知れませんが、それはゲームのスキルとして表れるだけであって、現実の生活とは何の関係もありません。私が子どもの頃でさえ、「遊び」は自分たちで発見していたのです。スマホや、ゲーム機は存在していなかったし、公園や、遊園地や、オモチャなども一般的ではなかったからです。ちなみに、私が育った環境の中にあったのは、山(裏が山でした)と、海(歩いて5分)と、遊び仲間と、遊び空間としての町だけでした。それでも遊びに困った事などありませんでした。その中で遊びを発見して遊んでいたのです。ですから、遊びが自由でした。遊びに決まった形なんかありませんでした。というか、自由があったからこそ、自由に遊びを発見して遊ぶことが出来たのです。いろんなことをしましたよ。それは「時間の自由」、「素材の自由」(自然の中には自由になる素材がいっぱいあります)、「遊び空間の自由」(昔の子の行動範囲は非常に広かったですよ)、「大人からの自由」、「道具の自由」(男の子はみんなナイフを持っていました)、「仲間を選ぶ自由」(大人によって集められたグループにはこの自由がありません)などなどです。また、自分で発見した遊びですから、遊びの中に「その子らしさ」も表れていました。言い換えると、「自分らしさ」の延長に「遊び」があったのです。子どもたちは自分たちで発見した遊びを通して、「自分らしさ」を確認していたのです。実は「自分らしさ」と「遊び」には密接な関係があるのです。「自分らしさ」とつながらない遊びは楽しくないからです。お母さん達の相談を受けていて、「趣味は何ですか」「どんなことをやっている時が楽しいですか」と聞くと、子育ての悩みが深い人ほど、まじめなばかりで「遊び」がないのです。楽しむことが下手なんです。ちなみに、すぐにスマホに逃避する人は遊べない人です。「子育ての極意」は「子育てを楽しんじゃうこと」です。難しい知識や技術は必要がありません。子どもとの関わり合いや毎日の生活を楽しんでしまえば、子どもは自分らしさを大切にしながら生き生きと生きていくことが出来るのです。でも、子どもの頃から「自由な遊び」を奪われ、「マジメ」を求められて育ってきた人にはそれが難しいのです。
2019.01.08
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昨日、箱根駅伝の振り返りニュースを見ていたら、「監督のために」「仲間のために」という言葉が出てきました。これは、スポーツ関係の番組ではよく聞かれる言葉です。「お母さん、お父さんのために」という言葉もよく聞かれます。日本人は誰かのために自分を犠牲にして頑張ることに美徳を感じる民族です。昔は「殿様のために」、「お国のために」、「会社のために」という言葉もよく聞かれたようです。そして、殿様のため、お国のため、会社のために自分を犠牲にすると、みんなから賞賛されました。お母さんは「子どものために」と頑張り、お父さんは「家族のために」と頑張っています。その「他の人のために自分を犠牲にする」という精神が、日本人の高いモラルの根底にあるのでしょう。まただから「自分が 自分が」と、自分のことばかり主張してくる中国や韓国の人に違和感を感じるのでしょう。ただ、それを自分自身の生き方として自分に課しているだけならいいのですが、他の人に「会社のためにガンバレ」とか、「お国のためにガンバレ」、「泣き言を言うな」と要求するのはなんか違うような気がするのです。お母さん達に対しても「もっと子どものためにガンバレ」と言う人も多いです。その言葉に多くのお母さんが追い詰められています。日本人は、どうも自分のことを大切にしてはいけない民族のようです。そうやってお互いに縛り合っています。子どもが学校に行きたくないときも、子ども本人の意思を無視して、母さんやお父さんや先生の気持ちを押しつけています。そして、「行きたくない」という言葉はそのまま「ワガママ」として処理されてしまいます。「みんな自分を犠牲にして頑張っているんだから、おまえもガンバレ」ということです。また、自分を大切にしてはいけないので、自分の意見を持つことも、自分の意見を言うこととしません。お母さん達に「どう思いますか?」と意見を求めてもちゃんとした意見が返ってくることはまれです。偉い人や世の中の流れには逆らってはいけないのです。日本では「みんな同じ」が理想なんです。だから、先生や親に自分の意見を言ったら、「ワガママだ」「生意気だ」と言われてしまうのです。欧米では考えられないことですが、このようなことは日本では日常的に起きています。「自分を大切にする」というのはそんなにも悪いことなんでしょうか。ワガママなんでしょうか。じゃあ、そんな風に生きている日本人は、みんな幸せなのか、文句などないのかというとそれも違うような気がするのです。本音と建て前を使い分けるのも日本人の得意技ですから。自分を犠牲にしているだけのお母さんに、生き生きとした、楽しい子育てが出来るわけがないのです。会社や軍隊のように無個性でいることを求められる世界では、「自分を犠牲にする精神」は有効なんでしょうが、子育てや教育の現場では、それは有害になってしまうのです。お母さんや先生がしっかりとした「自分の考え」を持っていなければ、子どももまた「自分の考え」を持つことが出来なくなります。自分の考えや気持ちを人に伝える能力も育たなくなります。じゃあ、「自分勝手」の方がいいのか、お母さんが自分を優先して、子どもには我慢を強いてもいいのかというとそれも違います。どっちを優先にすると言うことではなく、しっかりとした自分の考えを持ちながらみんなと助け合って生きていくのです。個を犠牲にして和を維持するのではなく、しっかりとした個が助け合って、話し合って、和を維持するのです。また、それが出来なければ国際協調も出来ません。本来、民主主義とはそういうものなんですが、「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」的な感性が強い日本人は、依存心も強いので、なかなかそれが分からないのです。今求められているのは、「子どもに犠牲を強いる大人のための子育てや教育」ではなく、「子どもが喜ぶ子どものための子育てや教育」なんです。ただしそれはお母さんが犠牲になって子どものために尽くす子育てではありません。お母さんと子どもが一緒に、毎日の生活や子どもの成長を楽しみ、喜んでいればいいのです。自分を犠牲にして良い母さんを演じなくても、毎日色々なことをお話しして、子どもの言葉にも耳を傾け、ニコニコしていれば、それだけで子どもはちゃんと育っていくのです。そしてそれが結局、みんなが幸せに生きることが出来る社会へとつながっていくのです。ただ、日本人はこの「楽しむ」ということが苦手です。そして何でも求道的に「お仕事」にしてしまいます。だから遊べないし、遊びを否定するのでしょう。
2019.01.07
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町の中から、子どもの遊び声が消えてしまいました。私の近所で、子どもの遊び声が聞こえるのは学童の前を通るときだけです。土日の公園に行っても子どもが仲間と遊びに来ている姿を見ません。たまに見かけたと思ったら、みんな手にエアーガンを持っていました。何かを撃って遊んでいたのでしょう。私が子どもの頃は、みんな学校から帰ったら薄暗くなるまで外で遊んでいましたが、今、そういう子はあまり見かけません。みんな、習い事や、○○教室や、ゲームで忙しくて、仲間だけで自由に外で遊ぶことなんかしなくなったのです。それに、外で遊びたくても遊ぶ場がなくなりました。公園はありますが、小学生にとって冒険が出来ないような公園は退屈な場です。小学生頃の男の子達はとにかく冒険がしたいのです。何かにチャレンジしたいのです。そして大人の管理を嫌います。昔は子どもたちだけで、屋外で自由に遊んでいましたから、大人に隠れて危険なことや叱られるようなこともいっぱい出来たし、何かにチャレンジすることも出来ました。でも、最近の子どもたちは大人の管理下でしか遊ぶことが出来ません。そうなると当然、静かに、大人しく、安全に、ルールを守って遊ぶことを求められます。生き物を殺してしまうような遊び(蛙や蛇の解剖のようなこと)も肯定されません。刃物や火薬で遊ぶことも許されません。その結果、ゲームの世界の中だけが「子どもの欲求を満たしてくれる自由な空間」になりました。ゲームの世界は現実の世界ではありませんが、脳内空間で自由に「遊びごっこ」はできるからです。ただ、その遊びは脳の中だけで行われているので、ゲームの中で走ったり木登りをしたりしても、からだが元気になるわけではありません。ゲームの中の仲間とは、ゲームをしているときにしか出会うことが出来ません。またその世界には、匂いや、触覚や、味や、温もりや、命はありません。それは夢の中の世界よりももっと無機的な世界です。ですから、ゲームの世界での体験は、リアルな世界に生きている子どもの心とからだの成長を支えてはくれません。それでも、子どもは自由を求めてゲームの世界で遊ぼうとするのです。子どもをそこまで追い詰めてしまったのは大人達です。子どもは、大人達から自分を守るためにゲームの世界の中で遊ぼうとしているだけなんです。子どもたちの成長本能は、昔からなんら変わってはいません。子どもは昔のままです。でも、大人がその子どもらしさを否定するようになったので、子どもは大人の目の届かない空間に逃げ込んで遊ぼうとしているのです。でも、大人達は、その最後の砦であるゲームですら、子どもから取り上げようとしています。ゲームに夢中になっている子は大人の言うことを聞かないからです。でも、色々と話を聞いていると、最近は、そのゲームでさえ、面倒くさくなってしまっている子どももいるようです。ゲームで遊ぶときには、判断と反応が求められます。それが面倒くさいのだと思います。それに対して、youtube等の動画は、判断も反応も求めてきません。ただ見ているだけでいいのです。ただ見ているだけで、面白くて楽しい世界を見ることが出来るのです。子どもの遊びも省エネ化しているのです。でも、ただ「見ているだけ」というのも飽きます。子どもの本能に反します。もしかしたら、その次の段階として、子どもたちはまたリアルな世界を求め始めるかも知れません。10年後、20年後にはまた外で遊び回っている子どもを見ることが出来るようになるかも知れません。その時は、子どものそのような要求や状態を否定しないで下さい。可能な範囲で、「危ないからやめなさい」とか、「可哀想だからやめなさい」とか、「みんなに迷惑がかかるからやめなさい」とか言わないで見守ってあげて下さい。ちなみに、プレイパークではそのような関わりをしています。ですから、地域の中にプレイパークのような場所が増えるといいと思っています。あと、上にも書いたように、子どもがゲームに夢中になるのにはそれなりにちゃんとした理由があるのです。そして、その理由を作ってきたのは大人達です。だから、もしお子さんがゲームに夢中になっていたとしても、無理に取り上げないで下さい。そこだけが「最後の遊び場」なんですから。無理矢理子どもからゲームを取り上げなくても、大人の生き方や、生活や、価値観が変わってくれば子どもの遊びも変わってくるのです。子どもだけ何とかしようとしても無理なんです。
2019.01.06
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私は「ゲーム」の問題に関しては非常に強い危機感と恐れを持っています。ただしそれは「ゲーム」そのものへの危機感や恐れではありません。「ゲーム」が自分で意思を持って子どもや人間を襲ってくるわけではないからです。「ゲーム」(ゲーム機のハードとソフトを一体にしてこの言葉を使っています)は単なる機械であり、道具に過ぎません。単なる機械であり道具ですから、正しく使えば、人間のためになります。必要があるから発明されたのですから。でも、正しく使わないとき、災害をもたらし、人を不幸にします。これは機械や道具といったものが、普遍的に持っている特性でもあります。自動車だって、原子力だって、傘だって、包丁だって、鉛筆だって同じです。お母さんがお料理するときには包丁は絶対的に必要です。そして、正しく使っていれば安全なものでもあります。でも、1,2才の赤ちゃんに包丁を持たせたら大変なことになります。その機械や道具が高い能力を持っていればいるほど「正しい使い方」が求められるのです。ナイフの使い方を間違っても、自分がケガをしたり、数人が死んだりする程度です。でも、原子力の使い方を間違うと、何万人とか、何十万人とか、下手をすると人類全体が危険になります。科学のおかげで、私たちはそれほど強力な機械や道具を手に入れたのです。だからこそそれを使う人間は、それの使い方をしっかりと考えなければならないのです。ただ、原子力のような特別なものの脅威や危険性は分かりやすいですが、ゲームやスマホのように身近にあるものの脅威や危険性は分かりにくいです。でも、どんなに分かりにくくても、ゲームやスマホは非常に大きな危険性をはらんでいるのは事実なんです。機械や道具といったものは、それを使う人の意識を変成させます。からだも変えてしまいます。箸を使って食事をする文化の人と、フォークやナイフで食事をする文化の人とでは、意識やからだの使い方にも違いがあるのです。ただ、箸やフォーク、傘や包丁といった昔ながらの道具は、人間が手を使って扱う道具です。人間が主人になって使う道具です。人間の意思や思考に従って使われる道具です。これは自動車や飛行機といった道具でも同じです。原子力でも同じです。これらの機械や道具においては、人間との間で自他が分離しているのです。でも、スマホやゲームなどの道具は、視覚を通して使う人の意識や、心や、感情の中に直接入ってきます。視覚を通して脳の中に入り込み脳を支配することだって出来るのです。その働きは麻薬と似ています。だから、脳機能に対する治療効果もあるわけですが、中毒にもなりやすいのです。そして、よっぽど気をつけていないと、意識や、心や、感情を支配されてしまうのです。このような、人の内側にダイレクトに入ってくるような「道具」は人類史上初めてだと思います。よく、「時代が変われば子どもの遊びも変わってくるのが当たり前なんだから、古い価値観で新しい子どもの遊びに文句を言うべきではない」というような意見を言う人もいますが、でも、スマホやゲームは人類史上初めての「遊び」なんです。というか、先日も書いたように、正確に言えばこれは「遊び」ではないのです。子どもが実際にやっているのは、小さな機械の小さな画面を見つめて指を動かしているだけですから。公園のベンチに座って下を向いて、何かモゾモゾやっている子が遊んでいるように見えますか。心の中ではどんなに壮大な物語が進行していても、本人は遊んでいるつもりになっていても、実際にやっているのは「小さな機械の小さな画面を見つめて指を動かしている」だけなんです。それは「夢」と似ています。人は「夢」の中でも色々な体験や冒険が出来ます。でも、「夢」を「遊び」とはいわないですよね。子どもたちはコントローラーを操作しながら「機械が創り出した夢」の中で遊んでいるだけなんです。ゲームは子どもを「機械が作り出した夢の世界」の中に取り込む働きをしているのです。そして、ゲームしか遊びを知らない子は、その「夢の世界」から外に出てくることが出来なくなってしまいます。現実の世界の中で遊ぶ楽しさを知らないからです。また、スマホやゲームなどが創り出す世界は、視覚を通して使う人の意識や心や感情の中に直接入って来るので、「自分」という自我がしっかりしていない年齢の子や、そのような状態の子は、簡単にその情報に支配されてしまいます。そして、夢と現実の境界が曖昧になります。自我の働きが成長し、ゲームなどからの働きかけに支配されにくくなるのは、最低でも10才を過ぎた頃からです。10才前の子は、スマホやゲームなどの働きかけに客観的に向き合うことが出来ないので、簡単に支配されてしまうのです。「ゲームが創り出した夢」と「自分の心」を分離することが出来なくなってしまうのです。そして、自我の成長が困難になってしまいます。そのような状態の子は、ゲーム以外の存在にも簡単に支配されてしまいます。というか、自我が成長しないので、支配されないと何をしたらいいのかが分からなくなってしまうのです。だからまたすぐにゲームをしたくなるのです。ゲームやスマホはこんなにも子どもの心やからだの成長に大きな影響を与えているのに、ほとんどの人が、「これが今時の子どもの遊びだ」とか、「みんなやっているから」とか、「子どもが欲しがるから」とか、「子どもが大人しくしていてくれるから」というような安易な理由だけで、簡単に子どもに与えてしまっています。私にはその無自覚的、無思考的な行動が非常に怖いのです。********************2月3日(日)、JR茅ヶ崎駅の近くで「自分らしさに気付くためのワーク」をします。時間は10:00~16:00です。午前、午後、通しでやります。気質やからだとの対話を通して、「自分が知らない自分らしさ」に触れて見たいと思います。本来の「自分らしさ」を知らずに生きている人がいっぱいいます。そのような人は人目を気にしたり、常識に囚われて生きています。子育ても「自分らしい子育て」をすればいいだけなのに、ありもしない正解を求めて右往左往して身動きが取れなくなってしまっています。でも、人が一番分からないのも「自分らしさ」です。他の人を見るときは「自分」を基準にします。でも、「自分」を見る客観的な基準はありません。そこにあるのは「思い込みの自分」だけです。その「思い込みの自分」が自分を苦しめているのです。本来の「自分らしさ」を取り戻し、「自分を束縛している自分」から自由になりませんか。参加費は5000円です。お問い合わせ、お申し込みは<ここ>までお願いします。************お呼び頂ければ、全国どこへでも「気質のワーク」をお届けします。今、茅ヶ崎以外では川崎でやっています。愛知の春日井でも気質の連続講座をしていましたが、それは終わってしまいました。2月16日に「親子遊び」の会はします。茅ヶ崎では毎月「からだの会」と「気質の勉強会」をやっています。「からだの会」は月曜日が多いです。「気質の勉強会」は土日などの休日にやっています。両方とも午前中で参加費は2000円です。「気質の勉強会」の方は4月からまた新規参加者を募集します。「からだの会」の方はそのまま継続してやっていきます。来年の「からだの会」は1月21日、2月18日、3月18日です。内容は「心とからだのつながり」に気付くようなワークをやっています。「気質の勉強会」は1月19日(土)、2月24日(日)、3月24日(日)です。「親子遊び」も、足立区と、横浜(三沢が多いです)で毎月行っています。茅ヶ崎で毎週火曜日にやっている「ポランの広場」という「親子遊びの会」もあります。ただし、今募集しているのは4月以降も参加出来る人だけです。これは月謝制です。
2019.01.05
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ゲーム機は「子どもの遊びの相手をするように作られたコンピュータ」です。でも、そのゲーム機には「からだ」がないので、「からだ」で子どもの相手をすることが出来ません。そのため、子どもの心をコンピュータの世界の中に取り込んで遊ぶようになっています。だからといって、コンピュータには「心」もないので「「心と心のやりとり」で遊ぶことも出来ません。そのため、「コンピュータらしさ」を使って子どもと遊ぶように作られています。コンピュータは子どもに合わせることが出来ないので、子どもがコンピュータに合わせて遊ぶのです。だから子どもでも理解出来るような仕組みになっています。その遊びに必要なのは、基本的に「素早い判断と反応」だけです。でも、その判断と反応の是非の基準はゲーム機が決めています。つまり、ゲーム機が「正解」を決めているのです。そのゲーム機が決めた正解を素早く判断して、素早く反応することで良い成績を上げることが出来るわけです。見方を変えるとこれは一種の訓練です。その訓練では、「ゆっくり考える」とか、「感じて味わう」とか、「自分らしく考え、自分らしく行動する」というようなことは否定されます。だからこそ、昨日書いたような能力が成長するのです。農場を作るような、のんびりしたゲームもあるようですが、その農場には、農場でありながらも、命も、匂いも、泥んこも、水もありません。コンピュータの世界は「0」と「1」の組み合わせだけで出来ているからです。あるのは、その「0」と「1」によって作られた農場と、動物と、草木を意味する「記号」だけであって、「実際に存在するもの」は何もありません。その記号を操作して遊びを創り出しているわけですが、それもまた、コンピュータ的な特性を使った遊びです。こういう、「コンピュータが作り出す遊び」で毎日遊んでいたら、子どもの脳がコンピュータの相手をするのが得意になっても当然です。幼い子どもには「自分の相手をしてくれる存在」を模倣し、それに似せようとする本能と能力があるからです。だから日本人的な感性を持った日本人に育てられた子は、日本人的な感性を身につけ、スペイン人的な感性を持ったスペイン人に育てられた子は、スペイン人的な感性を身につけるのです。それと同じように、コンピュータに育てられれば、コンピュータの特性を真似るようになるのです。その「コンピュータの世界」の中には「人間性」というものは全く含まれていません。あるのは高度な機能だけです。昨日書いた、「ゲームで遊ぶことで育つと言われている創造性」は、「子供の問題解決能力を高め、ゲーム以外の場に応用する力を促進する」と定義された創造性です。でも、この「創造性」は正確には「応用力」であって、人間本来の「創造性」とは別のものです。そして、このような「創造性」はAIでも持っています。といっても、AIは「思い込み」や「常識」に囚われることなく、論理的に判断するだけです。でも、それが「思い込み」や「常識」に囚われている人には「創造的」に見えてしまうのです。それは、「常識」がない幼い子どもが、ピカソのような絵を描き、「王様は裸だ」と叫ぶのと同じ原理です。それはそれで面白いですが、本当の意味での「創造性」ではありません。棟方志功は子どもの絵を褒めましたが、それでも子どもの絵を飾る美術館はありませんよね。また、「常識」がない状態のままで大人になったら、社会生活が困難になります。人間の集団は「常識」を共有することでまとまっているので、「他者と共有出来るような常識」が育っていない人は社会生活が困難になってしまうからです。幼い頃からゲームでばかり遊んでいるような子が持っている「常識」は「ゲームの世界の中の常識」だけです。「常識に囚われていない」のではなく、「ゲームの中での常識」に囚われているだけなんです。だから現実世界では、現実世界の常識に囚われている大人を驚かせるような発想や行動を見せたりするのですが、それは赤ちゃんのように「現実世界の常識」を知らないから生まれる現象に過ぎません。その行動は「創造的」ではあっても、その子に「創造性」があるわけではないのです。その先の展開がないからです。子どもがその「ゲームの中での常識」を現実世界の中に持ち出すとき、「人間の常識」しか持っていない大人には、それが「創造性」に見えるのです。ちなみにアスペルガーの子も、「他者と共有する常識」を持っていないので、それが逆に独自な「創造性」につながっているのです。昨日書いた他の「視覚空間推論力が増す」「反射的に注意を切り換える力が増す」は全くコンピュータの得意分野です。なぜなら、人間が持っている「人間らしい心とからだの働き」が、「視覚空間推論力」や「反射的に注意を切り換える力」を阻害しているからです。そのため、「人間らしい心とからだの働き」と「思考」や「意識の働き」を切り離せば、「視覚空間推論力」や「反射的に注意を切り換える力」は高くなるのです。人間がコンピュータに劣っているのは、人間の感覚や、感情や、からだといった非機械的な要素が、脳がコンピュータ的に働くことを阻害しているからなんです。だから人間はその欠点を補うためにコンピュータを創り出したのです。人間をコンピュータ化させても、コンピュータ的な能力においては決してコンピュータには敵わないのですから、コンピュータに得意なことはコンピュータに任せて、人間は人間にしか出来ないことをすればいいのです。コンピュータと競うようなことをしていたら、人間が人間ではなくなってしまいます。
2019.01.04
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コッカースパニエルさんが、「ゲームの問題点を考える」(普遍的な世界を基準にして考える)(01/02)のブログに関して、以下のようなコメントを書き込んで下さいました。ヤフーの記事にこんな事が書いてありました。本当なのかな?? ◆ゲームの子どもへの良い影響■創造力が増すミシガン州立大学教授リンダ・ジャクソン博士が、12歳児を対象に行った研究では、普段テレビゲームをしている子の方がそうでない子より、創造力が高かったと言います。「現代のゲームにある複雑なキャラクターやストーリー設定は、子供の問題解決能力を高め、ゲーム以外の場に応用する力を促進する」とジャクソン博士は言います。■視覚空間推論力が増すアリゾナ州立大学のクリストファー・サンチェス博士は、ゲームにより、数学やサイエンスに必要な視覚空間的な認知力や推論力が高まると報告しています。大学生に25分間ゲームをさせ、その前後をテストしたところ、スコアがアップしていたというのです。■反射的に注意を切り換える力が増す素早く視点を移して何かを見つけたり、瞬間的に切り換えることのできる注意力が高まるといいます。本を読んだり、地図を見たり、数学の問題を解くのに役立つ力です。イタリアのサンドロフランセチーニ大学の研究では、読むことに困難を抱える読字障害の子にアクションビデオゲームをさせたところ、読む力が改善されたと言います。多分、これらのことはこの調査の限りにおいては本当のことだろうと思います。でも私としては「だからなんなんですか」という感じです。このような記事を読んで「恐ろしい」と感じる人もいると思いますが、「うらやましい」「素敵」「うちの子にももっとゲームをやらせようかしら」などと感じる人の方が多いかも知れません。このような能力に魅力を感じるのが現代人の一般的な価値観だからです。でもそこに落とし穴があるのです。科学的な研究においては必ずテーマを決めます。テーマを決めないで行う実験はありません。その時扱うのは、必ず「部分」だけです。科学では「全体」は扱えないからです。でも、人間は「全体」としてしか存在していません。そのため、無理に部分だけを強化しようとすると、全体が壊れてしまうのです。早いスピードで走ることが出来る自動車を作るためには、エンジンだけ改良してもだめです。エンジンを従来の2倍、3倍のスピードで走ることが出来るように改良しても、他の部分もそれに合わせて改良しないことには、走っているうちに分解してしまいます。タイヤも高速走行に耐えることが出来るものを開発しなければ成りません。運転席も、ハンドルも、車体も、車高も、ギアも、素材も、全部、高速走行用に改良する必要があります。エンジンだけ開発しても、自動車としては完成しないのです。それどころか、エンジンだけ高性能の自動車に乗っていたら、事故を起こしてしまいます。それと、「科学的な研究をするときには必ずテーマを決めます」と書きましたが、当然、「実験結果をどう判定するのか」という結果の判定方法も決めてあります。「結果を判定する方法」がなければ実験は無意味だからです。そして、結果は数値化されます。科学では、人間の能力を数値化してその実験対象としているのです。数値化することが出来ないものは、それが人間にとってどんなに重要なことであっても、科学は最初から相手にしません。ですから、このような実験結果を参考にするのはいいですが、もし、皆さんが我が子が「素敵な人間」に育つことを望むのなら、この実験結果に基づく子育てを目指すことは止めた方がいいです。■創造力が増すでは、「創造力が増す」ということをどのように判定したのかと言うことです。まず、これを判定するためには「創造力」を「科学的に判定出来るもの」に限定する必要があります。「すごい」というような人間の直感ではダメです。人間の感覚は科学実験では判定の手段としては使われないのです。数値化出来る形で結果が出るものしか、科学では実験の対象とすることが出来ないのです。でも、「創造力」というものを、数値化出来るような形で、科学的に定義出来ると思いますか?他の要素でも同じですが、人間性につながるような要素を、科学的に数値化出来ると思いますか?■視覚空間推論力が増すこの実験では、すでに脳が出来上がっている大学生にゲームをやらせて、「脳がどれだけ活性化するのか」ということを確認しただけです。「幼いときからゲーム漬けで育てたら、賢く、素敵な人間に育ちました」という実験ではありません。確かに、ゲームには脳を活性化させる働きはあります。ですから、老人の脳のリハビリにも有効です。これは科学的にも検証されています。日本人に育てられれば日本人としての感性や能力が育ちます。欧米の人と英語で会話していると、欧米の人の見方や感覚が分かるようになります。それと同じように、コンピュータと関わっていると、コンピュータ的な能力が活性化します。それだけのことです。でも、そんなことをしても、決してAIには叶いません。人間としての感覚や感情が、脳のコンピュータ的な働きを邪魔するからです。もし、AIのような能力を望むのなら、脳みそをAIと取り替えてしまえばいいのです。でも、それを望みますか。■反射的に注意を切り換える力が増すこれも同じです。ゲームは脳の機能改善には有効です。でも、機能改善に有効だからと言って、「ゲーム漬けで子どもを育てたら素敵な脳が育つ」ということではありません。抗生物質には菌をやっつけ、病気を治す働きがあります。じゃあ、小さいときから毎日抗生物質を飲ませていたら、病気にならないのか、元気な体の子に育つのか、というとそんなことはありませんよね。かえって、免疫力の育ちが阻害され困った結果になってしまいます。「機能改善に有効」だということと、「育てる働き」とは全く別のことなんです。このような記事を読むと、現代人はフラフラしてしまうのですよね。子育てでも、子どもの能力や機能育てばかりに熱心になっている人が多いですから。でも、「人間を育てる」と言うことを「子どもの能力や機能を育てること」というように思い込んでしまうと、後で困った事になってしまう可能性が高いですよ。
2019.01.03
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昨日も書きましたが、子どもがゲームでやっているのは「(脳の中での)遊びごっこ」であって、「遊び」そのものではありません。実際に子どもが遊んでいる時は、「鬼ごっこをして遊んでいた」「泥ダンゴを作って遊んでいた」「お絵描きをして遊んでいた」「雲を見て遊んでいた」というように、その「遊び」を「行為」として説明することが出来ます。なぜなら、本来「遊び」とは、好奇心を満たしたり、楽しさを求めたりするための「行為」のことだからです。だから「遊ぶ」という動詞形が存在しているのです。でも、ゲームでの遊びの場合は、「ゲームで遊んでいた」「パズドラで遊んでいた」という表現しか出来ません。そこに具体的な行為がないからです。実際、ゲームで遊んでいる子本人は遊んでいるつもりになっていても、その姿を見ている人には、「イスに座って、小さな機械の小さな画面を見つめ、指先を細かく動かしている子ども」しか見えません。「ゲームで遊ぶ」ということは、実際には「小さな機械の小さな画面を見つめ、指先を細かく動かす行為」に過ぎないのです。遊んでいる本人は、壮大な世界の中で遊んでいるつもりになっていても、それは脳の中の出来事に過ぎません。実際には「小さな機械の小さな画面を見つめ、指先を細かく動かしている」だけなんです。育ち盛りの子どもが、実際にからだを動かすことをせずに、「小さな機械の小さな画面を見つめ、指先を細かく動かす行為」ばかりをやっていたら、困った事になるのは当然のことです。Wiiのように実際にからだを動かしながら複数の仲間と遊ぶことが出来るゲームもありますが、でも、子どもたちが日常的にやっているのは「小さな機械の小さな画面を見つめ、指先を細かく動かす行為」の方です。いつも側に一緒に遊ぶことが出来る仲間がいるわけではないからです。それに、Wiiも、半分以上は「脳内でのごっこ遊び」です。仲間と一緒に実際にからだを動かして遊ぶので、「小さな機械の小さな画面を見つめ、指先を細かく動かす行為」よりはましな気もしますが、でも、それは古来から子どもたちがやってきた本物の「ごっこ遊び」とは異なります。昔の子どもたちは、道具も自分たちで工夫し、イメージを共有し合いながら遊んでいました。でも、この現代の「ごっこ」遊びは、Wiiという機械が、遊びの道具やイメージを表示してくれないと遊べません。イメージの共有が存在していないからです。本来、子どもたちが「遊びを通して育てていた能力」を、ゲーム機がその能力がなくても遊べるようにしてくれているので誰でも簡単に遊ぶことが出来るのですが、でもそれ故に、その便利な機械が、「子どもが遊びを通して育てていた能力が育つ機会」を奪っているのです。現代の子どもたちはゲームによって、「古来から子ども達が遊びを通して育てていた能力が育つ機会」を奪われているのです。でも、そのことに気付く人は多くありません。問題を感じる人も多くありません。みんな一緒に同じ状態になってしまっているからです。都市全体の空気が、北京やインドのデリーのような状態になっても、みんなが同じ状態の中で生活している場合には、それが問題視されないのです。多様性が存在している世界では、今の自分の状態を認識することが出来るのですが、多様性が失われた世界では、みんな同じなので、自分たちの状態を客観的に把握することが出来ないのです。それに人は常に「自分」を基準にして物事を考える癖があるので、ゲームで遊んで育った人はゲームに問題を感じないのです。欧米の人は日本語のおかしな点に問題を感じることがありますが、日本で育った人は日本語に問題を感じませんよね。日本語しか知らないので、日本語のおかしな点に気付かないのです。それと同じです。だから、「命とは」、「子どもとは」、「成長とは」という普遍的な視点で「子ども」や、「遊び」や、「子育て」を見ていく必要があるのです。社会の変化と共に変化してしまうものを基準にして考えてしまうから今の状態が見えないのです。変化するものを基準にするのではなく、もっと普遍的なものを基準にして考えるのです。なぜなら、子どもも、命も、自然も、成長も、心も、からだも、その「普遍的な世界」に属している存在だからです。
2019.01.02
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開けましてお目出度うございます。今年もよろしくお願いします。(家内の手作りのしめ縄です)今日は簡単にさせて頂きます。人間は感情によって支配されて生きている動物です。思考能力も高いですが、その思考も、また感覚や行動も、感情の働きの支配下にあります。ですから、異なった感情を持った人は異なった思考をし、異なった感じ方をし、異なった行動をするのです。ですから子どもに、より良い思考や、より素敵な感覚や、より良い行動を求めるのなら、より良い感情を育ててあげる必要があるのです。そしてその肯定的な感情は、子どもの頃の「お母さんやお父さんとの関わり」や、「仲間との遊び」の中で育ちます。肯定的な感情は、仕付けや、お勉強や、習い事では決して育たないのです。「ゲーム」でも育ちません。なぜなら、正確に言えば「ゲーム」は「遊び」ではないからです。「ゲーム」は「遊びのシミュレーション」に過ぎないのです。言い換えると、「お遊びごっこ」です。「ゲーム」は、「こんなこと出来たらいいな」という「遊びのシミュレーション」を体験させてくれるだけであって、「遊び」そのものではないのです。自動車を操縦するゲームで遊べば、自動車に乗った気にはなりますが、実際の自動車の運転とは異なりますよね。ゲームでの自動車運転しか知らない状態で、実際の自動車に乗って公道を走ったら非常に危険なことになりますよね。今では、ゲームは「子どもの遊び」のように考えられていますが、元々は、兵隊の訓練や機械の操作をシミュレートするための道具として生まれたものです。仮想現実を創り出すことで状況をシミュレートするための機械として生まれたのです。「子どものオモチャ」として作られたものではありません。でも、実際に自然の中で仲間と遊ぶことが出来ない子どもたちは、「ゲームの中での遊びのシミュレーション」で「遊びごっこ」をするしかないのです。そして、「リアルな遊び」の体験がないまま、「遊びごっこ」に慣れてしまった子どもは、「本当の遊び」を嫌がるようになります。面倒くさいからです。汚れたりケガの危険性もあります。それに、ゲームの中のように自由にからだが動きません。ゲームの中では銃や剣も使えますが、現実世界ではそんなもの使えません。持っているだけで捕まってしまいます。でも、万能の能力を与えてくれる世界での遊びに慣れてしまった子は、大人になって社会に出てから「生きる」ということや「子育て」に非常に困難を感じると思います。「生きる」ということや「子育て」は、リアルな現実の世界の中にしか存在していないからです。そこに存在しているのは、万能ではない、無力な自分だけです。ただし、7~9才頃まで、自然の中で仲間とリアルな遊びを体験してきた子は、「ゲームは遊びのシミュレーションに過ぎない」と言うことを理解しながら遊ぶことが出来ます。
2019.01.01
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