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最初に一言説明しておきます。私の文章の中で使われている“子育て”という言葉は、“親による育て”だけを指しているわけではありません。そうではなく、全く言葉通りに“子どもを育てること全般”を通して、私は“子育て”という言葉を使っています。生き物の中には“子育て”を行わない生き物もいっぱいいます。卵を産んでそれっきり子どもの生命力と、遺伝子の働きと、運命にまかせるのです。そのような生き物は子育てを通して伝えるものがないので、子育てを受けなくてもまた本能に従って子どもを産み、子孫を残すことが出来ます。でも、哺乳類は未熟な状態で生まれてくるので何らかの保護を必要とします。また、母乳がないと生きていけないのでそれなりの“子育て”が必要になります。でも、ウサギやネコなどの群れを作らない哺乳類の場合は基本的に“子育て”は母親だけの仕事です。そして、母親からだけの子育てで“一人前の個体”に成長することができます。さらに、イヌや猿や象のように群れで生活している哺乳類の場合は子どもがオッパイから離れるような年頃になると群れによる“子育て”が始まります。そこには二つの意味があって、一つは自分が所属する群れのルールを知り、群れの一員としての資格を得るためということと、そしてもう一つは自分が大人になった時に子どもたちにその群れのルールを教えることが出来るようになるためにです。よく、“人は自分が育てられたように子育てをする”といいますが、それが群れで生活をする動物たちの基本なんです。ただし、人間だけが大人になってからでも本を読んだり、講習会などに出たりして子育てを学び直すことが出来ますが、人間以外の動物たちにはそのようなことはできません。実際に自分が子育てを受けることでしか子育ての方法を学ぶことが出来ないのです。でも、私が常々面白いなと思っているのは、人間に育てられた猿が子育てが出来ないということなんです。人間に育てられたのですから、それを学習して人間のように子育てをしてもいいように思うのですが、そうではないのです。基本的に猿は猿の親からしか子育ての方法を学ぶことが出来ないのです。だから、人間に育てられた動物を野性に返すのが難しいのです。猿は、自転車に乗ることも、竹馬に乗ることもできます。でも、猿は自分の子どもにそれらを教えることはしません。あんなにも知能が高くて、色々な芸を覚えることが出来ても、人間から学んだものを自分の子どもに伝えることはしないのです。それは、多分猿がそれをやりたくてやっている訳ではないからなのでしょう。猿でも、象でも、イルカでも餌が欲しくて芸を覚えているだけなのです。だとすると、自分の子どもに教えても餌がもらえないわけですから子どもに教えるわけがないのです。ですから、子どもたちにはまた最初から人間が芸を仕込む必要が出てくるわけです。そして、彼らはどんなにすごい芸が出来ても自然の中では生きていくことが出来ません。自然の中では自分の力で餌をとらなければならないのですが、その方法を学んでいないからです。結局、彼らは一生人間に依存しないと生きていけないのです。そして、人間も基本的には猿と同じだろうと思います。現代の子どもたちは餌を与えられて調教ばかりさせられています。でも、親の保護から離れて一人で生きていくための学びはほとんどしていません。ですから、なかなか社会に出ていけません。そして、自分で配偶者を見つけて結婚することも、収入を得ることも、子どもを育てることも困難な子どもたちも増えています。親は、他の子より早くわが子を成長させようとします。子どもは一人一人成長のペースは違うし、また大人の期待通りに育つわけでもありません。でも、その現実を受け入れることが出来ない人は、餌をちらつかせたり、時にはムチを使ったりして子どもを優秀に育てようと必死になっています。でも、その結果得た能力はたとえ東大に入れたとしても、その子が自分の人生を生きる時の役に立たないのならそれは“猿の曲芸”と同じです。そういう子どもは、常に誰かに依存しないと生きていくことが出来ないでしょう。それと、“人間だけが大人になってからでも本を読んだり、講習会などに出たりして子育てを学び直すことが出来ます”と書きましたが、実際にはこのような方法では見かけだけの子育てしか学ぶことが出来ません。学びというものは、“いつ”、“誰から”、“どのように”学んだかということが非常に大きな意味を持つのです。同じことでも、子どもの時に学ぶのと大人になってから学ぶのとではその人の心とからだに全く異なった働きかけをするのです。また、自分の親から実際にやってもらって学ぶのと、本で学ぶのとも全く異なった働きかけをします。例えば、“子どもを抱きしめる”ということで考えてみてください。お母さんにいっぱい抱きしめてもらいながら育った人と、全く抱きしめてもらった体験のない人では、子どもを抱きしめる時に明らかに違いが出ます。お母さんにいっぱい抱いてもらって育った人は、自分の子どもを抱く時に、無意識のうちにでも自分が抱かれた時の気持ちよさを想い出すでしょう。つまり、“抱く”ことが、“抱かれる”ことになるのです。そのようにして、自分が抱かれたように、わが子を抱くのです。ここで、“自分が育てられたように子どもを育てる”という現象が現れるのです。人間の記憶や能力というものは面白いもので受動と能動が反転するのです。つまり、“小さい子どもにおはよう”と言い続けていると、子どもは“おはよう”と言うようになります。でも、子どもは“おはよう”という言葉を聞いていただけです。喉をどんなふうにして“お・は・よ・う”という音を出していたのかなどと言うことは分かりません。でも、聞いているだけで喉の使いたかが分かるのです。なぜ、そんなことが起きるのかというとそれは親と子が共鳴するからなのです。そして、共鳴することで理屈抜きで伝わるのです。つまり、人間が猿を育てても猿が人間のように育たないのは共鳴しないからなのです。“子育て”を本で学ぶということは、この例でいうと喉の使い方、息の出し方の説明書を読むことで“おはよう”という言葉を学ぶのと同じことなんです。確かに、訓練を繰り返すことでそれは可能になるかも知れません。でも、お母さんに笑顔とともに“おはよう”と言われた時の心地よさは得ることが出来ません。そこにあるのはただの“音”だけで、“想い”や“想い出”とはつながっていないのです。つまり、本で学んだ知識は形だけなんです。でも、子育てで大切なことは形ではなく、そこに親の想いが込められるかどうかということなのです。なぜなら“形”ではなく、“親の想い”が子どもを育てるからなのです。言い方を変えるなら、“子どもと共鳴することだけが子どもの中に伝わっていく”ということなんです。そして、共鳴してしまったものはそれは喜びであろうと、悲しみであろうと、怒りであろうと子どもの中に伝わっていきます。そして、その子が親になった時、その共鳴した振動をまた子どもに伝えようとします。その人がどんなに理想的な子育てをやったとしても、子どもは親の想い、本音だけに共鳴します。他の部分は、曲芸のように学ぶだけです。ですから、ご自分が充分な子育てを受けてこなくて、子育ての方法が分からない人はかえって子育ての形にはこだわらない方が無難です。育児書を読むのではなく、自分の想いを子どもと共有するような関わりをすればいいのです。すると、子どもはお母さんと共鳴してちゃんと大切なことを受け止めてくれます。そして、その子が親になった時それがその子の子育ての方法になるのです。子どもに子育ての方法を伝えるというのはそのようなことです。ハウツーは大人になってからでも学べます。でも、この“想い”が込められていないハウツーでは子どもは育ちません。でも、親の子育てはそのように取り戻すこともできますが、群れによる子育ては群れが存在しない限り取り戻すことはできません。(ここでいう“群れ”とは大人も含みます。)すると、子どもは大人になっても群れの中に出ていくことが出来なくなります。当然、結婚することも、自分の子どもを育てる子も難しくなるでしょう。本来、人は猿と同じで子育ても群れの中でする生き物だからです。“子どもに子育ての方法を伝える”ということは、ここまでの広がりの中で考える必要があるのです。
2006.01.31
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子育ての中には人間の全てが含まれています。現代人が忘れてしまったものも、また未来へと命をつなぐために必要なものも全てです。男性論理にはそのような視点がありません。ただ、“今”を繁栄させることしか男性の頭の中にはないのです。ですから、それが破滅への道だとしても、“今”を豊かにするためになら男性達は頑張ります。簡単に言うとそれが男性の役割だからです。子どもや女性を危険から守り、食料を充分に届けるのが男性の役割なのです。実際に、生命や言葉や生活文化を伝える役割をしているのは女性達なのです。その証拠に家庭の中では多くの男性は役に立ちません。でも、男性達は文明の進歩とともに、その男性本来の「子どもや女性を危険から守り、食料を充分に届ける」という役割を忘れ、ただ男性同士の競争にのみ自分たちの存在価値を見いだすようになってきました。その結果必要以上に富を蓄え、必要以上に経済を発展させ、消費するばかりの子どもや女性を価値の低い生き物だと錯覚するようになってきました。また、今少子化対策なるものが大きな問題になっています。でも、なぜ子どもが減ると問題になるのかというと、その大きな理由は経済的に破綻するからです。それ以外に理由は見あたりません。つまり困るのは目的を失う男性であって、女性ではないのです。もっとも、経済的に破綻してしまったら女性も困りますが、人口が減ることが明らかに予測されてきたのにもかかわらず、目先の繁栄ばかり追いかけてきたのは男性達です。今の社会システムのまま子どもが減れば確実に経済は破綻します。でも、子育てが破綻することはありません。子どもが少なければ少ないなりの子育て方法があるからです。生活も同じです。それは知恵を出し合えば解決出来る問題なのです。でも、ここで少子化問題が解決してまた子どもが増え続けたらどうなりますか。確かにしばらくは経済は繁栄するでしょう。でも、人口増加は世界中で起きている現象です。中国でもインドでもものすごい勢いで人口が増えています。そうすると、結末はあきらかですよね。経済的な破綻だけでは済まない、もっと全人類的な問題が確実に起きてきます。第二次世界大戦は資源を巡るいざこざから始まりました。そして、今度は食料を巡る戦いが始まるでしょう。人口が増えるということは当然、相対的に一人あたりの食料が減るということです。ということは、富や権力を持つものに食料が集中すると言うことです。また、人口が増えすぎると精神やからだに不調をきたすものが増えてきます。生き物には最初から適正な個体密度というものがあって、それ以下だと種を保存できないし、それ以上だともっと個体数を減らすような生命システムが働き出します。つまり、殺し合ったり、自殺したり、性的能力がなかったりする個体が増えてくるのです。今、日本は究極の選択の岐路に立っています。人口が減ることを覚悟して、経済ではなく精神的な豊かさによって支えられる国を目指すか、人口を増やし経済を繁栄させ、豊かな物質に囲まれながら餓死と戦争で滅亡するか。ちなみに人口が減り経済が破綻しても、餓死はしません。ただ、贅沢が出来なくなるだけです。もっとも国が無策なら餓死する人も出るかもしれませんが、それは政策の問題であって、人口が減ることから来る必然ではありません。でも、後者なら間違いなく世界規模で餓死者が続出し、戦争が起きます。これは簡単な算数の論理でわかる事実です。私は、贅沢が出来なくても、便利でなくても精神的に豊かで、人々が幸せに生きることが出来る社会を望んでいます。ですから、今ここで安易に少子化対策を推し進め、人口を増やすような考え方には反対です。(お母さんの子育てをサポートするというような目的の子育て支援なら賛成ですけど。)でも、単に人口が減れば精神的に豊かで、幸せな社会になるわけではありません。人々が今まで作り上げてきた、物質や権力やお金といった価値に相当するような新しい価値を見つけ出さないことには、ただみすぼらし、惨めな状態にしかならないでしょう。人口が減り、経済が停滞することが、時間を逆行させるだけなら意味がないのです。そうではなく、ここで新しい価値を得、人類が新しい進化、新しい進歩を歩み始めることが必要なのです。そして、その新しい価値のヒントが“子育て”、“子どもとの関わり方”の中に隠されているのです。人類は子どもを生み、育てることでここまでやってきました。どんなに成績が優秀でも、次世代につながる生命を生み、育てることが出来ない子どもばかりになった時人類は破滅します。でも、問題は“そんなこと関係ないわ”というような考え方のお母さん達が増えてきたことです。男性論理に洗脳されてしまっているのでしょうか。(学校では男性論理しか教えてくれませんから。)子育て競争に熱心なお母さんもいっぱいいます。自分の子どもが親になった時のことを考えないのでしょうか。
2006.01.30
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“親になった時に幸せな子どもたちを育てることが出来る、幸せな子どもたちを育てること”が、私にとっての反戦活動です。と昨日のブログは始まりましたが、今日もまた、昨日と同じ言葉で始めます。実は、このように子どもが親になった時のことまで考えに含めて子どもを育てるというような考え方には深い深い意味があるのです。なぜなら、この考え方には“循環”が含まれているからです。このような考え方をしないから悲惨な歴史は繰り返されてしまうのです。お母さん達から、“結婚する時は主人と価値観が合っていたはずなのに、今では全く価値観が違ってしまっているのです。どうしてあの人を選んだのか分からなくなりました。”という言葉を聞くことがよくあります。それは、お母さん達は子どもを産み、育てていく過程で生命と向き合い、食や健康や環境と向き合って来たからです。お母さん達は子どもを産み、育てることで人類の生命の原点に強制的に引き戻されるのです。それ故に、あまりに文明の中にどっぷり浸かっていた人ほど苦しいことになります。電車のつり革さえも“不潔”だといって、触ることが出来ない人でも赤ちゃんのウンコも、握りつぶした食べ物も、よだれだらけの洋服も処理しなければなりません。また、赤ちゃんが泣いていてもスイッチ一つでボリュームを下げることもできません。子育てをリセットすることもできません。でも、そのような苦しみを通して、お母さん達は生命というものと向き合い、知らない内に価値観が変わってしまうのです。でも、男の人は子どもが産まれても、そのような価値観の変化を体験することがありません。そのため、男の人の社会ではそのようなものはあまり価値を持ちません。そして、そのようなものにあまり価値を感じない男性達がこの社会を運営しています。ですから、ますます子育てが難しい社会になってしまっています。男性の作った社会ではお金に換算できないものは価値がないのです。でも、子育てはお金に換算できません。子どもの笑顔も喜びもお金に換算できません。そして、その結果お母さんや子どもたちにしわ寄せがいきます。でも、中には価値観が変わらないまま子育てをしている人もいます。そういう人はものすごく苦しむか、子どもをペットのように支配する子育ての方法しか思いつかないでしょう。****************ごめんなさい。中途半端ですが、あとは明日に続きます。
2006.01.29
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昨日の話を簡単に言ってしまうと、“親になった時に幸せな子どもたちを育てることが出来る、幸せな子どもたちを育てること”が、私にとっての反戦活動だということです。ちなみに、お母さん達に“どういうお子さんに育てたいですか”と聞くと、“優しい子”とか“賢い子”などと答えが返ってきますが、私はちょっとそれだけでは不充分な気がしています。“優しい子を育てることが出来る優しい子”とか、“賢い子を育てることが出来る賢い子”という風に、その子どもたちが親になった時のことまで考えないことにはその願いも、一代限りで終わってしまうからです。特に、平和と言うことを考える時にはそのような考え方は非常に重要です。平和を愛する人が子どもたちに平和の大切さを伝えられるとは限らないからです。戦争の悲惨さを知っている人は平和を望むでしょう。でも、戦争の悲惨さを知らない子どもに自分と同じ体験を通して平和の大切さを伝えることは出来ません。その場合は、自分が平和の大切さに気付いたのとは全く違う体験、学びが子どもたちに必要になるのです。私は、そのような子どもたちを育てるためには・自分の頭で考え、自分の肌で感じ、自分の意志と責任で行動することができる能力・言葉だけでなく様々なレベルでの他者とのコミニケーション能力・自己表現能力などというようなことが必要なのではないかと考えています。そして、私はそのような能力を持った人を“自由な人間”と呼んでいます。そして、自由な人間は自由な子どもを育てることが出来ます。それは日本語を話す親は、日本語を話すことが出来る子どもを育てることが出来るのと同じ仕組みです。能力というものはその能力を持った人との関わりを通して伝達されるのです。悲惨さの体験を通して得た、平和のありがたさは一代しか続かないのです。それが今の日本の状態です。“単に戦争は嫌だ”という感情論から平和の大切さを説くのではなく、“平和を創造し、その平和を何百年、何千年と継続させるためには何が必要なのか”というもっと本質的な議論が私達には必要なのではないでしょうか。それと、多くの日本人が勘違いしていることがあります。それは、“日本は戦争がないから平和だ”と思っていることです。子どもたちは毎日塾に追われ、受験戦争に苦しんでいます。そして集団自殺する若者、社会に出たくない、家から出たくない若者がどんどん増えている日本のどこが平和なんですか、どこに平和があるんですか。赤ちゃんの笑顔を見ていると、“ここに平和がある”と思います。子ども達が大勢で走り回り、仲間達と無心に遊んでいる姿を見る時“ここに平和がある”と思います。でも、日本ではせいぜい、幼稚園までの子どもの中にしか平和を見つけることが出来ません。小学生の子どもの平和はどこにありますか。思春期の子どもたちの平和はどこにありますか。大人の平和はどこにありますか。町の中で平和そうに遊んでいる子どもたちがいない日本という国は、本当に平和な国なんですか。私は、大人も子どももみんなが笑顔で生き生きと暮らすことが出来る社会が平和な社会だと思っているのですが、違っていますか。不満を抱えた人たちが戦争を欲しがるのです。それは、教室の中の“いじめ”という小さな戦争でも同じです。そして、今の日本には不満を抱えた人がいっぱいいます。どうして、子どもたちはこんなにも不満を抱えているのですか。心当たりはありませんか。私達は戦争で毎日人が死んでいるニュースを見て、“日本は幸せだね”と言います。私は、インドで路上にあふれるほどの路上生活者を見てきました。彼らは路上で生まれ、路上で生活し、路上で死んでいきます。ある時、私の目の前で一人の老人が倒れました。あの様子ではそのまま死んでしまったでしょう。周囲には大勢の人がいました。でも、誰も大騒ぎはしません。長くその場にいなかったのでその後のことは分かりませんがインドはそういう国でした。親によってカタワにされた子どもの乞食達が群がってきます。ある時は、雑踏の中で両手、両足を切断されて路上に転がっている乞食を見ました。お腹の上に空き缶が乗っていました。誰かが世話をしているのでしょう。(カタワの方が乞食として収入がいいので、子どもが産まれた時自分の子どもの腕を折ったり、切ったりしてカタワにするのです。)そんな悲惨な生活の中でも子どもたちの目はキラキラしていて、生き生きしていました。私はそういう子どもたちと関わるのが好きでした。ちなみに私は、乞食のような格好をして歩いていたので、乞食もあんまりしつこく寄ってきませんでした。でも、そんな子どもたちの中にあってドンヨリした目の子どもたちもいました。それは“靴”を履いている子どもたち、つまり上流の子どもたちです。そして、その子どもたちは日本の子どもを想い出させました。それと、私は主義主張で人を分類しません。右翼か左翼か、戦争反対者か、戦争賛成者か、有名な人か、無名な人かなどということも関係ありません。私は、単純にその人が自由か、自由でないかで人を分けます。そして、その人が自由か、自由でないかは“他の人の言葉に耳を傾けているか”、“自分の意見を相手に理解できるように言えるか”、“自分の責任で行動できるか”というポイントで判断しています。たとえ、戦争反対を叫び、人権運動に熱心な人でも人の言葉に耳を傾けない、対話をしようとしない人の言葉は信じません。その人が大臣でも、偉い学者でも、宗教家でも同じです。(洗脳されている人もこれらができません。なぜか、先生達もできません。)逆に、戦争が必要、体罰が必要という意見の人でも、人の言葉に耳を傾け、きちんと対話に答えてくれる人の話には耳を傾けます。その人がホームレスでも、犯罪者でもです。人の話を聞くことが出来る人、相手に分かるように自分を表現できる人の心は開かれています。ですから、そういう人はなかなか洗脳されません。また、付和雷同的に動きません。ですから、そういう人の言葉には何らかの真実があるのです。でも、自分のことばっかり考えている人、つまり心が閉じている人はすぐに洗脳されます。そして、そのような人は戦争反対を唱えながら、実際には平和を壊すようなことばかりやります。知ってますか、人を洗脳するのはとっても簡単なんですよ。(どうも私はホームレスの人に好かれるようで、時々話しかけられます。仲間の雰囲気を感じるのでしょう。若い頃博多でホームレスのおばちゃんから、“あんたは将来偉くなるよ”と予言されたのですが・・・・)***********************どうも、一体何が言いたいのか分かりにくいですね。でも、言いたいことはすごく簡単です。子どもたちが、みんな目の前の人ときちんと対話が出来て、目の前の人の苦しみに手をさしのべることが出来るようになれば、その子どもたちが大人になる頃には戦争反対などと騒がなくても、戦争は起きないのではないか、ということに過ぎません。逆に、いくら戦争反対を叫んでも、自分の子どもを目の前の人ときちんと対話が出来て、目の前の人の苦しみに手をさしのべることが出来るように育てることが出来なければ戦争の危険は高くなるでしょう。そのためには親子の間の平和から始める必要があるでしょうね。家庭の中から世界平和が始まると言うことです。「ホテル・ルワンダ」という映画を知っていますか。この映画の主人公ポールのような人を私は“自由な人間”と呼んでいます。
2006.01.28
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今日は、私がなぜ“自由”ということにこだわっているのかということをお話しします。私には忘れられない映画があります。それは1958年にテレビドラマとして放映され、1959年に東宝によって映画化された「私は貝になりたい」という映画です。主演はフランキー・堺というドラマー(タイコのドラムです)で役者さんだった人です。彼は名前を清水豊松といい、町で床屋を営む普通の人でした。その彼が徴兵され兵隊さんになりました。当時はB29というアメリカの戦闘機が日本中を空爆していました。もう、戦争も終わりの頃の話しです。そんなある日、日本軍に撃墜されたヒコーキから脱出したアメリカ人パイロットが二人捕らえられました。二人は木にくくりつけられていました。そして、上官は豊松ともう一人に“突撃訓練”と称して、その捕虜を殺すように命令します。二人は泣きながらアメリカ兵を銃剣で刺し殺します。当時の日本軍の中では上官の命令は絶対です。従わなければ自分が殺されても文句は言えません。さらには家族にまで類が及びます。やがて、終戦を迎え、彼は床屋に戻りました。そして、進駐軍による東京裁判が始まりました。戦争は昔の話しとなり、また元のような生活が始まったのです。そんなある日、進駐軍とともに警察がやってきて豊松をつかまえてしまいます。そして、東京裁判に引き出されました。以下は、その時の会話です。裁判で、アメリカ人の裁判長に豊松は訴えた。「上官の命令は、天皇陛下の命令です。絶対服従しなければ・・・」日系の通訳は事務的な冷えた口調で裁判長の言葉を伝えた。「上官の命令といえども不当と思えば拒否できた筈ではないか?」「・・・そんなことしたら銃殺だよ・・・」「軍法会議に掛けることもできた筈である。被告がそれをしなかったのは、捕虜を殺す意志があったからではないか」「・・・どこの話をしてるんですか、あのねぇ、日本の二等兵は・・・牛や馬と同じなんです、牛や馬と・・・」豊松の気持ちは容易には伝わっていないようであった。そして、豊松は絞首刑を宣告されます。でも、彼に命令を下した曹長、上等兵は20年、15年の重労働だけでした。映画の最後は死刑台の上で彼が“どうしても生まれ変わらなければならないなら、私は貝になりたい・・・”というシーンで終わります。この映画を見たのは小学校2,3年生の頃だろうと思います。でも、今でも映画のシーンの所々を覚えています。銃剣で捕虜を刺すところ、最後に死刑台に登っていくところ・・・・。私は直接戦争を知りません。でも、私が子どもの頃は町には傷痍軍人がいっぱいいてアコーディオンを弾いていたり、乞食もいっぱいいました。(ホームレスとは違いますからね)まだ、戦争の傷跡が残っている時代に私は生まれ育ちました。そして、私の親の世代は直接戦争に行っています。(私の父親は特攻隊でした。幸いに生き残りましたけど。)父方の祖母、そして伯母は東京大空襲で亡くなりました。私は戦争が嫌いです。もう、二度と戦争はして欲しくありません。でも、私は反戦を叫びません。黄色いリボンも付けません。なぜなら、国が本気で戦争をする気になったらそのようなものは全く無力だということを知っているからです。反戦活動も、黄色いリボンも今の日本が平和な社会だからこそ初めて可能な活動なんです。本当に戦争が始まったらそのような活動はすぐにつぶされます。(でも、そのような活動を非難しているわけでも、否定しているわけでもありませんからね。ただ、そのような活動の限界を言っているだけです。)子どもたちに“戦争が起きたらどうする”と聞くと、ほとんどの子が“逃げるから大丈夫”と答えます。でも、逃げても、どこまでも追いかけてきます。さらには、万が一逃げおおせても一族郎党みな社会から排除されます。子どもたちは石を投げられ、結婚出来なくなります。父親は会社を首になります。さらに、抵抗するものは捕まり拷問を受けます。時には殺されます。これが先の戦争の時に起きた現実です。それでも逃げたり、反戦を叫ぶことができる人がどれだけいるのでしょうか。私は、反戦を叫ぶより、黄色いリボンを付けるより、子どもたち一人一人を“自分で考え、自分の肌で感じ、自分の意志と責任で行動することが出来る自由な人間”として育てることの方が遥かに戦争の抑止力になるのではないかと思っているのです。子どもたちを塾に追いやり、受験競争に追い立てながら戦争反対を叫ぶのは矛盾しています。そのように育てられた子どもたちが平和のために戦うとは思えないからです。今の子どもたちは戦争に反対できません。客観的に思考し、自分の意志で判断する力がないからです。感覚としては“戦争は嫌だ”というでしょう。でも、“なぜ戦争がいけないのか”ということを体験を通して知らない子どもたちは、すぐに洗脳されるでしょう。実際、先の戦争でも子どもたちが一番最初に洗脳されました。そんな中でも洗脳されない子がいるとしたら、体験的に平和の素晴らしさ、みんなと助け合い、仲良くする素晴らしさを知っている子どもたちだけだろうと思います。でも、今の日本にそういう体験をいっぱいしている子がどれだけいるのか、それが不安です。今では戦争に興味を持っている子さえけっこういます。そういう子達は、戦争の悲惨さを証言する写真や映像にむしろ興味を覚えます。人が死んでいる写真を面白がって見る子もいます。「死」というものに対してリアリティーがないからです。戦争の悲惨さを訴えても、その訴えに共感してくれる人は戦争の悲惨さを知っている人です。悲惨であると言うことにリアリティーを持っていない相手には悲惨さは伝えられないのです。それに、戦争の体験を語ることが出来る人が消えてしまったらどうやって戦争の悲惨さを伝えることが出来るのでしょう。平和はずっと続いてほしいと思います。誰も昔戦争があったなどということを覚えていなくなるほどずっと続いていて欲しいと思います。そのためには、悲惨さを訴えるのではなく、現実に平和な社会を創り出し、運営、維持できる人たちを育てるしか道がないのです。それはどういう人たちかというと、上に書いたように“自分の肌で感じ、自分の頭で考え、自分の意志と責任で行動できる”人たちです。そういう人を私は“自由な人間”と考えています。戦争が一番嫌うのは“自由”です。ですから、戦争が始まったらあらゆる面で国は国民から自由を奪おうとします。その時、国から与えられていた自由は奪われてしまうでしょう。でも、“自由に感じ、自由に考えることが出来る心”までは奪うことが出来ません。ですから、子どもたちを自由に感じ、自由に考えることが出来るように育てることが一番確実な平和への道なのではないかと思うのです。私はそう思っています。
2006.01.27
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昨日、みんなが同じ言葉を共有しているから言葉が通じます。みんなが同じ自由を享有しているから民主主義が成り立っているのです。みんながデタラメな言葉を使っていたら社会は崩壊します。と言うことを書きました。そして、25日には牧野さんから昨日、「自由な表現」と「デタラメな表現」と言うのがどうもよく分からなくて、次のようなことを考えていました。というコメントも頂きました。それで、今日はその“自由”と“デタラメ”の違いを少し説明するところから始めます。これは“言葉”に例えると分かりやすいと思います。人は言葉を使って自由に自分の考えや感情や感覚を表現することができます。言葉が使えなかったらどんなにか不自由でしょう。でも、言葉はちゃんとした規則に基づいて使われないことには理解してもらえません。自分で言葉を作っても相手は理解してくれないのです。また、文法的には正しくても、相手が理解できるように話さないことには理解してもらえません。当たり前のことですよね。つまり、言葉というものは一つの決めごとなんです。ですから、自分勝手には使うことが出来ません。そういう意味では不自由です。でも、その不自由を学習によって克服することで、言葉を使って他の人と自由にコミニケーションをとることができるようになるわけです。つまり、自分勝手な言葉を話したり、相手に理解できない表現を使うのが“デタラメな表現”であり、相手に理解できる形で自分の考えや感覚や感情を伝えるのが“自由な表現”だというわけです。ということは、“自由な表現”は不自由な学習によって得るものだと言うことでもあるわけです。それは皆さんが外国語を学ぶ時のことを考えれば分かることです。つまり、“自由”は与えられるものではなく、学習によって身につけるものなのです。それは言葉だけでなく、踊りでも、歌でも、絵画でも、文章でもみな同じです。自由を得るためには不自由な学習が必要になるのです。でも、日本の家庭や学校や社会ではその自由を得るための学習をさせないまま、いきなり“君たちは自由だ”とやってしまっているのです。それで、子育てでも“子どもを自由に育てたい”と言って、“子どもの好き勝手”にさせているお母さんがいます。幼稚園を選ぶ時も、塾や教室を選ぶ時も、“自主性を大切にする”といって、子どもに選ばせているお母さんもいっぱいいます。でも、そのように育てられた子は社会の中で自由に生きるための学習が出来ないので、自分一人で社会の中に入っていくことが出来ません。そして、親や他の人を支配することで自由を得ようとするのです。実際、そういう子がいっぱいいるのです。どうしてこうなってしまったのかというと、(昨日書いたように)もともと日本には“社会的な責任を伴う自由”という概念がなかった上に、戦争中軍部によって統括されていた政治、経済、学校、生活が終戦とともに一度リセットされてしまったからです。戦争中には個人の自由はありませんでした。みんな生活の隅々まで監視され、管理されていたのです。それが終戦とともに軍部が解体され、監視され、管理されることがなくなりました。そして、当時の日本人にとってはその状態こそが“自由”だったのです。つまり、“束縛からの解放イコール自由”だったのです。それはすごく分かりやすい自由でした。そしてそれは戦争に負けたことによって“棚ぼた式”に“与えられた自由”でした。自由を得るために戦って得た自由ではないのです。そのように、日本人にとって“自由とは与えられるもの”として始まったのです。ですから、主体的に自分たちの力で自由な社会を維持するために必要なものがなんなのかということが分からないのです。そして、今でも多くの人が自由は与えられるものだと思いこんでいます。そして、その根拠に“人権”を引っ張り出します。だから、先生が何か言ったりすると“おれには自由に行動する権利があるのだ”などという子どもが出てくるのです。でも、“人権”は自由を保障はしてくれますが、自由を与えてはくれないのです。勘違いしてはいけません。人が自由になりたいと思ったら自由を得るために様々な学びと努力が必要なのです。他人任せでは自由にはなれないのです。では、人が自由になるために学ぶべきものは何かというと、それは“コミニケーション能力”と“自己表現能力”の二つです。その二つを学ぶことで、人は人の中で自由に生きることが出来るようになるのです。但し、ここでいう“コミニケーション能力”と“自己表現能力”は、言葉によるものだけでなく、知性、感覚、感情、身体の全てのレベルにおいての“コミニケーション能力”と“自己表現能力”のことです。そして、現代の日本の子どもたちの育ちにはこれらが決定的に不足しています。家族の間でさえ深いコミニケーションをしていない子どもたちがいっぱいいます。コミニケーションを必要としていない生活をしているわけですから、自己表現能力が育つわけありません。それと、昨日その一つの理由として考えられるのは、日本の社会は“家族”をモデルとして考えられていたからでしょう。家族というモデルの中では対等な個人という考え方は存在していないのです。と書きましたが、ヨーロッパの社会も同じように、家族をモデルにしています。但し、ヨーロッパというよりキリスト教国では、「神」を父親とする家族です。ですから、人間はみんな対等な兄弟になってしまうのです。欧米の「個人」という考え方の背景にはこのようにキリスト教の影響も含まれています。それが組織ごとに家族的な上下関係を作る日本とは違うのです。そして、対等な個人と個人だからこそ様々な表現方法が発達したのです。それらは、日本のようにお上の命令に従うだけの人間関係の中では必要ないのです。
2006.01.26
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日本人にとって“自由”の話しはなかなか難しいのです。なぜなら、“自由”というのは“他者から自立した個人”にとっての概念だからです。ですから、個人が他者から自立してない社会では“自由”は意味がないのです。多くの日本人は“自分で自由に考えていいよ”、“自分の責任で自由に行動していいよ”などと、なまじ自由を与えられると不安になってしまいます。それは、子どもたちの状態にも見ることが出来ます。勉強でも、造形でも“自由課題”になると、みんな戸惑ってしまうのです。もちろん大人でも同じです。先生達も、自由にやっていい“総合学習”にはとまどってしまったようです。そして、今の日本では“自由”という言葉は“勝手にさせてくれ”と同じような意味で使われています。電車の中でお化粧するのも床に座るのも自由、授業中にフラフラするのも自由、授業参観の時にペチャクチャお話ししたり、わが子の写真を一生懸命に撮るのも自由、目上の人を“お前”と呼ぶのも自由などなど・・・・。ヨーロッパでは自由を勝ち取るために多くの血が流れました。それだけヨーロッパ人にとっては自由が大切なのです。ですから、その自由を守るために社会が一致団結しています。分かりますか。“自由を守るために一致団結している”ということは、“自由を守るためには自分勝手は許されない”ということなんです。“自分勝手”では一致団結ができないからです。自由は個人では守れないのです。個人の自由が保障されるためには、その自由を受け入れる社会システムが必要なのです。だから、自由を守ることは常にその社会を支配する権力者との戦いになるのです。でも、多くの日本人が自由を“与えてもらうもの”だと考えています。自由を“社会的なもの”とは考えずに、“個人的”なものだと考えています。さらに若者達はそれもうざったくて、“誰にも遠慮しないこと”が自由だと考えています。でも、“自由”とはもともと個人に属するものであると同時に、非常に社会的な価値観なんです。個人と個人、個人と社会をつないでいるのが“自由”なんです。そして、力による権力によらず、自由を通してつながり合うことを決めたのが民主主義なんです。ですから、当然民主主義の社会にあっては“自由”は社会的な制約、決まり事のなかにあります。“自由”は権利であると同時に義務でもあるわけです。それは“言葉”と似ています。“言葉”は個人的なものであると同時に社会的なものです。自由もそれと同じです。みんなが同じ言葉を共有しているから言葉が通じます。みんなが同じ自由を享有しているから民主主義が成り立っているのです。みんながデタラメな言葉を使っていたら社会は崩壊します。でも、日本にはこのような意味での“自由”は存在していないようです。そして、多くの人が“自由”を個人的なものだと理解しています。だから、学校で“自由”の教育はしていません。“自由”が民主主義を支える根幹だと言うことを知っているなら、民主主義を守るために学校教育の中できちんと自由について教えるはずだからです。(これは自由についての授業をするということではなく、自由が尊重される授業をするということですからね。そして、ここで大切になるのが“芸術”と自分を表現するための様々な方法です。このことは明日書きます。)もちろん、この場合の“自由”は自分勝手とは違います。みんなとつながり合い、理解し合い、助け合うための自由です。どうしてこんなことになってしまったのかというと、実はもともと日本語にはfreedomとlibertyに対応する言葉がなかったのです。つまり、日本人は“自由”ということを考えたことがない民族なんです。その一つの理由として考えられるのは、日本の社会は“家族”をモデルとして考えられていたからでしょう。家族というモデルの中では対等な個人という考え方は存在していないのです。それは日本の会社の“終身雇用”という考え方にも見ることが出来ます。また、“大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然”などという言葉もあります。それで、明治になって外国の文献が入ってきた時、これらを訳すことが出来なくて比較的意味が似ているかなと思われる仏教用語の中から“自由”という言葉をあてたのです。でも、この言葉の本来の意味は“自(おのずからに)由(よる)”ということであって、簡単に言うと“なるようになる”ということです。そして、この言葉は仏教的な悟りの世界観から出てきた言葉ですから、当然その意味に社会とのつながりはありません。そして、そのまま現代に至っています。
2006.01.25
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昨日は、自由とは自分の感覚に素直になることであって、頭で考えたことや、欲望に任せたことは“自由”ではないのです。ということを書いて終わりにしました。ということは、豊かな感覚を持っている人はそれだけ自由だということです。なぜなら、豊かな感覚を持っている人は、豊かな思考が可能だからです。思考は感覚によって引き起こされるからです。ですから、一流の科学者や哲学者が絵画や音楽においても素晴らしい才能を示すのは偶然ではないのです。また、同様に一流の芸術家が素晴らしい哲学を語るのも偶然ではありません。また、豊かな感覚を持っている人は、豊かな感情も持っていると思います。感情も感覚の働きかけを強く受けているからです。さらには、豊かな感覚を持っている人は豊かな言葉を持っていると思います。言葉の一つ一つは感覚の働きとつながっているからです。それが、“豊かな感覚を持っている人はそれだけ自由です”ということの根拠です。でも、実はそれだけではまだ本当の自由ではありません。豊かな感覚を持ち、豊かな思考を持ち、豊かな感情を持ち、豊かな言葉を持っていても、それらを表現するための“豊かな表現方法”を身につけていなければ、よけいに不自由になってしまうからです。表現したいことがいっぱいあるからこそ、それを表現する手段を持っていなければよけいに苦しくなってしまうのです。ということは、人が自由になるためには“豊かな感覚”と“豊かな表現方法”の二つを身につけることが必要だということです。そしてこれは欧米の個人や個性を大切にする考え方とつながっています。欧米では、“表現する主体”として個人が存在し、“表現”によって個性が存在しているからです。(日本では“個性”の定義はあいまいです。“その人らしさ”などという説明は、単純に“個性”の言い換えに過ぎません。)つまり、何にも表現しない人は個性も認められないし、個人としても尊重されないと言うことです。(異文化、異人種が混ざり合った社会では、自己表現をしない人は不気味なだけです。)そして、欧米で生まれた民主主義もこのような“個人”を前提にして考えられているシステムです。全ての国民が自分の意志を表現することで民主主義は支えられているのです。つまり、民主主義においては政治は自分を表現する人たちのためにあるのです。そして、そのように“表現”を大切にする社会だからこそ“芸術”というものも大切にされているのです。日本においては芸術は“高尚な趣味”に過ぎませんが、欧米、特にヨーロッパでは生活と一つになっているのだろうと思います。先日のブログで、“日本の学校では音楽や絵画にすら点数をつける”と書いたところ、ドイツの友人から「ところで、お正月、フランス人のお友達が6日程 我が家に滞在していたのですが、日本の学校には、音楽、体育、図工、家庭科の授業があると言ったらとても驚いていて、フランスの学校ではそれらの授業はないというのです。(彼女は50代で子どもがいないので、この情報が最新のものか確認したいと思っています)」との感想メールが届きました。ご存じの通り、フランスは芸術の都として有名です。その芸術の都の小学校では芸術の授業がないらしいのです。(少なくともその50代の女性が子どもの頃は・・・。)じゃあ、芸術はどこで伝えられているのかというと、生活の中で伝えているとしか考えられないのです。なぜなら、それが絵であろうと、音楽であろうと、言葉であろうと、踊りであろうと、表現することで人と人がつながり合っている社会では、子どもたちは幼い時から親や大人とのコミニケーションを通して自然にそのようなものを学ぶ必要があるからです。また、そのような社会では“何をどのように表現するか”ということは、プライバシーに属することであり、“絵はこう書きなさい”、“歌はこう歌いなさい”などと押しつけられることには耐えられないでしょう。ただし、ここで書いたことの多くは状況証拠に基づく推測です。ですから、この件に関して何かしら詳しい情報をお持ちの方は是非、お知らせ下さい。それに対して、日本は“表現することで人と人がつながり合っている社会”ではありません。むしろその逆に、自分を表現しないことで和の中に受け入れてもらっているように感じます。ですから、その表現を育ててくれる芸術は生活の中には必要ありません。生きていくのにも必要ありません。ただの教養や趣味でOKなわけです。日本は生活の中に芸術が必要のない国だったのです。(ちなみにここで言う“芸術”とは、“表現の技法としての芸術”という意味です。日本人は美へのこだわりは非常に強いのですが、自己表現にはあまり興味がないのです。)でも、高度経済成長、競争社会の発展とともに、その“和の社会”は崩れてきてしまいました。何も表現しなくても、自分を受け入れてくれていた社会は消滅しました。そして、人々は“心と心を通わせることができるコミニケーション”の手段を持たないまま、新しい社会に放り出されました。その結果、お金や物といった“目に見えるもの”にすがり、それらを媒介にしてつながるようになってきました。その象徴が今世間をにぎわせているホリエモンでしょう。今や物とお金だけでようやくつながっている家族も珍しくありません。今、子どもたちが一人の人間として生きていくために伝えなければならないことは自分を表現する能力です。もはや、黙っていては生きていくことが出来ない社会になってしまったのです。どんなに知識をため込んでも、それを自分の考えや、感覚や、感情の表現として使うことが出来なければ、何の意味もありません。そのためには、子どもたちの豊かな感性を育て、自分を表現する技術を子どもたちに伝える必要があります。しかも、それらを日々の学びの中で実現する必要があります。ただし、勘違いしないでくださいね。“表現の授業”をやるのではありません。算数、国語、社会の全てが子どもの感覚を育て、子どもの表現能力を育てるために使われる必要があるということです。でも、ここで重大な問題があります。先生達に自分を表現する能力がないのです。自分の考え、感覚、感情を自分の言葉や行動で表現する能力がないのです。でも、これは先生だけではありません。日本ではそれが普通の大人なのです。だから問題の根が深いのです。どうしましょうか。
2006.01.24
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おとといからの続きです。今日はちょっと明日への軽い予告編程度に手短に済ませます。日本の学校では常に答えは一つに決まっていますが、どうもその理由は先生達が“自由な表現”を扱うことができないからなのではないでしょうか。子どもたちの自由な表現を扱うためには、先生達にも自由な表現能力が求められます。そうでないと、子どもたちの自由な表現を育てることも、評価することも出来ないからです。でも、それは先生だけでなく日本人にとって一番苦手なことです。自由な表現には、必ず“個人の責任”が付いてきます。でも、日本人は“個人で責任を負う”という感覚が希薄です。また、多くの日本人が“自由”と“自分勝手”の明確な違いを理解できていません。“自由な表現”は“デタラメな表現”とは全く違います。子どものデタラメな表現を、“これも個性だ”と言ってしまうのは全くの勘違いです。名画や名曲は自由な表現の上に成り立っています。でも、そこには普遍性があり、決してデタラメではありません。“自由”は一つの可能性なんです。開かれた可能性として自分の感覚や考えを表現する時、それが“自由”なんです。ですから、自由に描かれた絵、自由に表現された動きに人は引きつけられるのです。私が里見勝蔵先生に油絵を習っていた時、彼の絵を真似てひん曲がった絵を描いていったことがあります。ちなみに、彼は“フォービズム”(野獣派)というジャンルの絵描きで、厚塗りの絵の具に、感情のままにゆがんだ表現が特徴でした。でも、こっぴどく叱られました。“これはデタラメだ”というのです。“そうじゃない、自分の頭で描くのではなく、対象の言葉に耳を傾ける結果勝手に絵が動いていくのだ”というのです。“ここにあるものと、これが出会った時、ここに事件が起きるだろ。この事件が動きを作っていくんだ。対象の言葉を無視して面白半分に形をゆがめたのは奇形だ。”と言われました。分かりますか。自由とは自分の感覚に素直になることであって、頭で考えたことや、欲望に任せたことは“自由”ではないのです。ましてや単純に“束縛のない状態”なんかじゃありません。その自由がないから私達は自由に表現したり、自由に生きることが出来ないのです。ちなみにこれは“自分の感覚に支配される”ということでもありませんからね。子どもたちは自由を学ぶことで自分を知り、そして可能性を学んでいくのです。自由は大人からそして自分から学ぶものなんです。それに対して、“自分勝手”や“デタラメ”は学ぶ必要がありません。そして可能性もありません。<以下、明日に続きます>
2006.01.23
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今日はいつものお話しはちょっと休憩させて頂きます。最初にワークショップのお知らせです。親子での「からだ遊び」と「羊毛」のワークショップで、いずれも横浜の都筑区で行います。日程は1月29日(日)と2月11日(土)です。詳しくは、親子での「からだ遊び」と「羊毛のワークショップ」でご覧になって下さい。今日は、隔月でやっている「冒険クラブ」でした。内容は「ばばばーちゃんのおもちつき」と「羽子板を作ろう」でした。でも、昨日は大雪。案の定今朝のメールには欠席メールがいくつも入っていました。雪のせいだけでなく、この時期インフルエンザも流行っているのでそれでお休みの人もいっぱいいました。げげげ、どうしよう!!!それでも欠席の連絡が来ていない人もいましたが、外は冷蔵庫のような寒さ。河原はきっと雪だらけ。餅米は水の中・・・・。とその時、友人のMさんから“今日やるよね”と、当然のごとくの確認の電話。Mさん家族は数に入っていなかったので大助かり。とにかく子ども4人の6人家族ですから。そして、もう一家族。現地に着いたら、以下のように案の定雪だらけ。(向こうに見えるのは大山です。)うちのチビ達は人の気も知らないで、のんきに雪だるま作り。でも、嬉しいことに欠席の連絡がなかった人たちはちゃんと来てくれました。総勢5家族+独身男性1名でした。“ばばばーちゃん流”は、お釜で餅米を炊いて、ボールに入れてスリコギでゴンゴンやってお餅にしてしまいます。たき火をボンボン焚いて、お餅もゴンゴンやって、お日様も応援してくれて次第に心も、からだもゆるんできました。お料理も美味しく、楽しい一日を過ごすことが出来ました。みなさん、有り難うございました。それと、お風邪を引いているみなさんも早く治して、雪が残っている内に雪遊びをして下さいね。お大事に。今日は、火の周りが大人気でした。
2006.01.22
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私が、かねがねおかしいなと感じているのは、子どもの成績が悪いと先生は“それは○○くんが勉強しないからだ”と子どものせいにしてしまうことです。このような先生は、“勉強は子どもが自分でやって、先生の仕事はチェックするだけ”だと思いこんでいるのではないでしょうか。学校が、“勉強を教える所”なら、成績が悪いのは子どものせいではありません。先生達は子どもに勉強を教える目的で雇われ、お給料をもらっているわけですから、当然子どもの成績が悪いのは先生の責任です。例えば、イヌの調教師が調教をまかされたのに調教できなくて、“それはこのイヌがいうことを聞かないからだ”と言ったとしたら“金返せ”と言われても文句は言えません。“言うことを聞かないイヌを言うことを聞かせるようにしつけるのが調教師の仕事”だからです。サラリーマンが営業成績が悪い時、“だって相手が話を聞いてくれないんですから、私のせいじゃありませんよ”と言ったらどうなるでしょうか。もちろん相手にされませんよね。でも、学校の先生は平気でそういうことを言い、親はあわてて子どもを塾に追いやっています。それは親自身も“自分の子育て能力”に対して先生から悪い評価をつけられることを恐れているからかも知れません。また、うちの子どもの話からすると授業でやっていないことを平気で出す先生もいるようです。“このくらい塾でやっているだろう”という思いこみもあるかも知れませんが、市販のテストを使っていることも影響しているかも知れません。先生が自分で問題を作っていれば、当然、自分が教えたこと、自分が説明したことは覚えているはずです。ですから、それ以外のことを試験で出すということは考えられません。でも、市販のテスト問題はそのような先生の都合には合わせてくれないようです。先生が市販のテスト問題を使うのには主に二つの理由があるように思います。一つは時間と労力の削減です。確かに問題を考えるのには非常に努力と時間が必要だろうと思います。もう一つは、子どもたちの成績を客観的な視点で評価できることです。これは推測ですが、そのテストは色々な学校、色々な地域で使われているはずですから、その点数を比較することで自分のクラスの子どもたちのレベルを知ることが出来ます。もっとも、これは試験問題会社がそのテストを行った学校から成績をフィードバックしてもらい、さらにそのデータを学校に公表している時の話しですけど。まあ、これは推測ですからはっきりとしたことはいえませんが、ただ、先生達も評価を非常に気にしているということは事実のようです。親からの評価、校長からの評価、そして仲間からの評価です。一番気にしていないのが子どもからの評価かも知れません。考えてみれば、先生達も、子どもの時からずっと学校で評価され続けて、自分の価値を評価されることでしか知ることが出来ないまま、学校の先生になってしまった人が多いのですよね。でも、ということはいつでも“評価する側の価値観”に合わせて考えたり、活動して来たということですよね。当然、自分で考えたり工夫したりということは苦手でしょうね。だから総合学習にとまどった先生が多いのでしょう。(学校では先生の知っている答えだけが唯一の正解です。専門の学者がそうじゃないよと言っても、間違っているのはその学者の方なのです。ですから、先生の価値観に合わせないことには、本当は正しくても正解はもらえないのです。)そういう人が先生になれば、当然校長の価値観に合わせようとするだろうし、“子どもの価値観”は無視されるでしょうね。自分がされてきたように。社会がこれだけ変化してきたのにずっと学校が変わらないのは、先生達が学校の中だけでしか通用しない価値観に縛られているからかも知れません。学校を出て、社会の変化を知らないまま学校の先生になってしまっている人が、自分が学校で学んだ価値観をそのまま子どもたちに伝えようとしているのですから、変わらないわけです。そこで、一つ提案です。学校など出ていなくても、子どもに何か教えることが出来る技術、能力、知識がある人は3年ぐらいの研修を受ければ誰でも正規の学校の先生になれるようなシステムは不可能なんでしょうか。(もしかしたら今でもそのようなシステムがあるのかも知れません。どなたかこの辺の事情に詳しい人はいませんか。)小学校しか出ていなくても、中学校しか出ていなくてもOKです。もちろん、その研修費用は国が負担します。大学で受けた教職課程の勉強はほとんど役に立っていないようですから、大学を出ている必要はないでしょうね。また知り合いの先生は、もともと社会を教えていたのに、今は体育の先生になっているそうです。日本の学校では専門性は全く考慮されていないようです。だったら、学校を出ていなくても子どもの心が分かる人、子どもへの教え方が上手な人がそれだけの理由で先生になっても問題ないと思います。でも、もし“教師をなめるな!素人が3年くらい勉強しただけで簡単に出来るほど教師の仕事は簡単じゃないぞ”と胸を張って言うことができる先生がいらっしゃいましたら、どしどし反論を下さいね。(本当はそのように反論してくれる先生がいっぱいいるとうれしいのです。)そんな風に、“誰でも学校の先生になれるシステム”があったら、学校も随分と変わるでしょうね。最後に、これは日本の“学校教育システム”、“教員養成システム”を非難しているだけで、先生達を非難しているわけではありませんからね。ご了承下さい。
2006.01.21
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今日は、家内が膀胱炎になって(時々出てきます)、病院に連れて行ったりなんだかんだで、あんまり長い文章を書く時間がなくなってしまいました。ということで、今日は簡潔にいきますね。(私は早寝早起きなので)昨日は、それはつまり、常に発見の喜びに満たされた学びということです。という言葉で終わりました。でも、今の日本の教育システムでは子どもが発見する余地はほとんどありません。なぜかというと、もう最初から結論が決まってしまっているからです。子どもはその“決まってしまっている答え”を覚えるだけです。日本で“お勉強”と言ったら、それだけのことです。そもそも、“100満点”という試験システム自体がおかしいのです。上限が決まってしまっているわけですから、あとはそこから引いていくだけの作業になります。つまり、日本の先生の仕事は“何ができたか”ではなく、“何ができていないか”をチェックするだけになってしまっているのです。これでは子どもは常に自分の欠点ばかり意識するようになってしまいます。また、先生も子どもを見守るというより、監視するというまなざしになってしまうでしょう。例えば子どもがイスを作ったとしましょう。子どもは子どもなりに頑張って作りました。ノコギリは真っ直ぐにはなりませんでしたが、最後まであきらめずに頑張りました。クギはちょっと曲がっていますが、ちゃんと間違わずに打つことができました。色もデザインはあまりよくありませんが、丁寧に塗ってありました。こんな時、“ノコギリが真っ直ぐ切れていないから10点減点”、“クギが曲がっているから5点減点”、“デザインが悪いから10点減点”とやっていったら、子どもはもうイスなど作りたくなくなってしまうでしょうね。でも、これを“ノコギリは真っ直ぐじゃないけどよく頑張ったから10点”、“クギはちょっと曲がっているけど、ちゃんと間違えずに打てたから10点”、“デザインは良くないけど、丁寧に濡れたから10点”と、出来なかったところだけでなく、頑張ったところも同時に評価してもらえれば、子どもはもっともっと頑張るでしょうし、すぐにそれまでの欠点など克服してしまうでしょう。 そのような評価をする目的で問題を作るとしたら、“□□□の中に当てはまる数字(言葉)を書きなさい”などというような安直な問題はありえません。また、教材やさんから買ってきた市販のテストでは自分のクラスの子どもたちの状態は分からないでしょう。子どもたちは、減点法で評価されたら、だんだん自信がなくなっていきます。成績のよい子でもそれは同じです。当然、自己肯定観も低くなります。また、減点法の場合は最初から結果は一つに決まっています。自分で考えたり、工夫したりする余裕はそこにはありません。なまじ自分で考えた答えを書いたりしたら、バツになります。そして、自分で考えたり工夫したりする余裕がなければつまらなくなります。それは当然のことです。以前、テレビで“日本では1+3=□ですが、イギリスでは□+□=4です”というようなCMが流れていました。前者は答えが一つですが、後者は答えは複数です。答えが一つなら採点がしやすいですが、答えが複数では採点が難しくなります。日本の試験問題は非常に採点がしやすくできているのです。正解表を持っていれば、子どもでも採点できます。100点満点から引いていく減点法の利点は、“採点がしやすい”、“市販のテストが使える”という以外に私には思いつきません。もし、このブログをお読み頂いている方の中に先生がいらっしゃいましたら、その他の理由をお聞きしたいと思います。でも、こんな試験では子どもが今勉強に対してどのような努力をしているのか、どこが分かって、どこが分からないのかということが全く見えてきません。それでは、その子に合った指導など出来ないと思うのです。もっとも、“その子に合った指導”などする余裕は日本の学校にはないのが現実ですけど・・・。それでみんな塾に流れて行ってしまうのでしょうね。でも、そのあげくに学校の授業を塾や予備校に委託するなどという事態にまでなって(東京都)、先生達は恥ずかしくないのでしょうか。<またまた続きます>
2006.01.20
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昨日は、“子どもたちが学校を必要としなくなってきた”と書きました。実際、今の子どもたちが学校に行く理由は“友達がいるから”に過ぎません。“勉強が好きだから”とか、“どうしても行かなければならないところだから”などと考えている子はそれほど多くないと思います。塾ですら、“塾に行かないと友達がいないから”という理由だけで、塾に通っている子がいっぱいいます。もはや、子どもたちにとって“勉強”の価値はほとんどないのが現実です。子どもたちは友達と遊ぶために学校や塾に行くのです。ですから、“学級が崩壊して異常事態だ”と考えているのは大人だけで、子どもたちは、こんな当たり前のことを大人がどうして大騒ぎするのかということの方が理解できないと思います。ですから、友達とうまく関係を作ることが苦手な子は、ちょっとしたきっかけで学校に行けなくなります。行く理由がなくなってしまうからです。じゃあ、どうしたらいいのか。それはそんなに難しいことではありません。でも、現在の学習指導要領を守ろうとする限り、かなり困難です。ですから、一つの仮説としてお聞き下さい。昔は学校の価値は社会によって認められていました。でも、今では学校の価値は友達と遊ぶ場を提供してくれて、学歴を与えてくれるだけです。勉強は塾でやってしまっているので、学校には期待していません。そもそも学校の授業は塾に追いつけないのですから。それに、先生達は忙しい忙しいというばかりで子どもの相手も満足に出来ません。授業も塾に負け、子どもの相手も出来ないとなると“いったい学校の役割って何だろう”と疑問に思うばかりです。単純な発想ですが、法律で塾を全面的に禁止して、先生達が子どもたちと触れ合う時間をもっと増やしたら、学級崩壊も自然に消えてしまうのではないかと思っています。でも、これが私の考える解決策ではありませんからね。今、子どもたちにとって学校に行く意味が無くなってしまっているとしたら、新しくその意味を作ればいいのです。でも、“将来のために”という発想は今の子どもたちには通じません。今の子どもたちにとっては、“今”、“ここで”楽しくないと意味がないのです。それなら、“今”、“ここで”楽しいようにしてあげればいいのです。また、友達と遊ぶのが大好きなら、友達と一緒に活動できるようにしてあげればいいのです。“それでは勉強なんかできないじゃないか。”“そんな都合の良い方法なんかあるわけないじゃないか。”とお思いでしょうね。でも、子どもを信じてみて下さい。子どもは学びたがっています。これは真実です。子どもたちと話しをしていても、子どもたちは色々なことを知り、学ぶことが大好きです。学ぶことが嫌いなのではなく、ただ、学校の勉強がつまらないだけなのです。昔の子どもたちは、そんなつまらない授業でも試験のために勉強しました。でも、今の子どもたちには楽しくないことを頑張らなくてはならない理由が分かりません。実際、授業参観の話しを色々と聞いていても、どうして楽しいはずの勉強をこんなにもわざとつまらなくして教えているんだ、というような授業の話ししか聞こえてきません。ということは、授業を楽しくすればいいのです。それで塾の先生達は勉強が楽しくなるような工夫を色々としているみたいです。学校の先生でも、ゲーム形式で楽しく授業をやっている先生もいるようです。そして、実際そういう授業なら一定の成果を上げているようです。でも、私の考えている“楽しい”ということはそういうことではありません。私には“学ぶということそのものが、本来非常に楽しいものなんだ”という確信があるのです。ですから、ゲーム仕立てなどにする必要はないのです。“子どもたちは学びたがっている”ということ。そして、“学ぶことは楽しい”ということ。この二つが事実でなかったら、人類はここまで文化や文明を発展させてくることは出来なかったはずだからです。“でも、今の子どもたちは違うんじゃないですか”と思われるでしょうね。いえ、違いません。なぜなら、今学校で子どもたちに与えているのは“学び”ではないからです。その証拠に子どもたちは何にも学んでいません。ただ、知識をため込んでいるだけです。だから、授業が嫌いなんです。知識をため込むだけなら機械にだって出来ます。でも、機械は学ぶことはできません。“学ぶ”ということは“成長すること”と対になっていなければ、それは“学び”ではないからです。現代の学校には、その視点が全く欠落してしまっています。以前、“子どもたちには成長欲がある”とどこかで書きました。その欲があるから、教えなくても歩くこと、話すことを学んでしまうわけです。ですから、実際に自分の成長を実感できるような学びなら、子どもたちは喜んで学ぶのです。そのような学びなら、親が、“もうやめなさい”と言ってもやめません。親に隠れても勉強するのです。実際、昔はそういう人たちがいっぱいいたのです。親が商売をしていたり、職人などで、家業を継がせたい場合には、なまじ勉強が出来てしまっては困るのです。それで、親が“もう学校など行かないで家を手伝え”という今とは正反対の状況もいっぱいあったのです。それで、泣く泣く学校をやめたと言う子もいっぱいいるのです。私の母親も、“女に学問は必要ない”と言われて、上に上がれなかったそうです。また、今でもタイやビルマの田舎の方の子どもたちは学びたくて、学びたくてウズウズしています。それが人間の本能なんです。でも、ここで大切なことは、そのような子どもたちの求めている学びとは、点数で評価されるお勉強ではないということです。そうではなくて、自分で自分の成長を実感できる学びだということです。“学ぶことで見えてくる、学ぶことで聞こえてくる、学ぶことで感じることが出来るようになる、学ぶことで出来るようになる、学ぶことで広がっていく、学ぶことで深まっていく”、そういう学びを子どもたちは求めているのです。それはつまり、常に発見の喜びに満たされた学びということです。さあ、それがどのようなものか想像できますか。
2006.01.19
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道を見失うところでした。どうしてこういう話しになったのかなと過去のブログのテーマを見直したら、そうそう“幼稚園の義務教育化”からでしたね。それで、また話しを戻しますね。高度経済成長時代に子どもたちが急激に変わってきたというお話しをしました。今、30人学級でも生徒数が多すぎるという先生がいますが、私が小学生だった頃はどのクラスも50人はいました。でも、それでも崩壊しているクラスなどありませんでした。また、そんな話しも聞いたことがありませんでした。でも、それは先生の能力が高かったせいではないと思います。実際、どうしようもない先生はいっぱいいたからです。それでもクラスは崩壊しませんでした。私が子どもの頃、つまり高度経済成長の頃は学歴が非常に重要視された時代です。受験戦争も非常に過激な状態になっていました。当時は、そのような社会状況が背景にあったので、子どもも親も学校に期待していました。つまり、学校に権威があったのです。さらに、その頃のお母さん達は大学を出ていない人がいっぱいいました。私の母親も高卒です。当時はそれが普通だったのです。ですから余計に母親は学校を頼りにしていました。でも、学校の権威が昔と今とでは全く変わってしまいました。そして、その違いは、当然子どもと学校や先生の関係にも現れてきました。昔は、先生が子どもを叱れば、子どもは泣いて謝りました。でも、今ではそのまま学校に来なくなったり、親に怒鳴り込まれたりしてしまうこともあると聞きます。ですから、今では先生は怒ることすらなかなか出来なくなってしまいました。また、子どもたちは群れ遊びが消失した頃から、集団の中での他の人との関わり方が分からなくなってしまいました。(これは地域の崩壊や核家族が増えてきた事とも関係していると思います。これらは同じ時期に起きているのです。というか、同じ原因が背景にあります。)さらには、群れ遊びの消失がからだ遊びを絶滅させてしまいました。からだ遊びはみんなでやるから楽しいので、一人だったらおもちゃやゲームで遊んでいた方が楽しいからです。からだ遊びの消滅は、子どもが“自分と向き合い”、“自分を励まし”、“自分をコントロールする能力”が育つ機会を奪ってしまいました。そういうものはすべてからだで学ぶことだからです。また、嘘をつかない、仲間を大切にするなどという道徳観も群れ遊びとともに消えていきました。なぜなら、もともと道徳というものは集団を維持するために必要なものだからです。(ということは、つまり集団の体験がない子には道徳の意味が分からないということです。)また、“子どもによる子どもの時間”が消えてしまったことで、子どもが子どもでいることで癒されることもなくなってしまいました。人間は社会的な動物だと言われますが、それは人間は社会を体験することで人間として成長するという意味でもあります。ですから、その“社会”を体験する機会を失ってしまった現代の子どもたちはなかなか人間に成長することができなくなってしまったのです。それを道徳教育の強化で何とかしようなどと考えるのは全くナンセンスです。そんなことを考える人がいるから、余計に子どもたちがおかしくなってしまうのです。そういう人たちが、今度は幼稚園を義務教育化しようとしています。申し訳ありませんが、私はそのような人たちを信用していません。私が言いたいことは、“義務教育化の是非”ではなく、義務教育を押し進めようとしている人たちが信用できないということです。実際、今の文科省は言い訳ばかり多くて、私達を納得させてくれるだけの実績が全くありません。そして、そう感じているのは私だけではないと思います。私達は、学校というシステムが出来て以来初めての事態に遭遇しています。子どもたちが学校を必要としなくなってしまったのです。必要としていない場に無理矢理押し込められて、必要としていない勉強を無理矢理強制されていたら、子どもたちが荒れるのも当然のことです。社会はもう学歴を必要としていません。それは経済界の人がはっきりと言っています。でも、今の日本の学校は学歴を作るところです。学校から学歴を取ったら何にも残りません。学校は社会の状況を無視して、学歴を付けさせるために子どもたちに勉強を強制します。その結果、“子どもたちのために学校がある”ではなく、“学校のために子どもたちがいる”という状況になってしまっています。その証拠に、日本の教育システムでは“学校の中でしか価値がないようなこと”しか子どもたちに伝えることが出来ません。今、学校に求められているのは“個の自覚と意志と責任で、社会とつながり合うことができる人間”の教育です。それは強制ではできません。知識を詰め込んでもできません。道徳教育でもできません。強制は従順で無気力な子どもを育てるだけです。体験とつながらない知識は魂の働きを弱くします。道徳教育の押しつけは、道徳の価値を否定します。では、どのような学校教育が子どもたちを救うのでしょうか。
2006.01.18
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私には不思議なことがいっぱいあります。ちなみに、“どのようにして”は科学で説明できるかも知れませんが、“なぜ?”には科学では答えられません。まず、“人にはなぜ心というものが生まれたのか”という不思議。感情はイヌにも猿にもあります。そして、確かに感情も心の一部です。でも、感情は心に力を与えてくれたり、心を萎えさせたりはしますが、心そのものではありません。心が池だとすると、感情は波のようなものです。その心はどうして人間にだけあるのでしょうか。他の動物たちはこれから心を持つのでしょうか。不思議です。“どうして人間は生き方を求めるのか”という不思議。どうして、人は生き方にまで正解を求めるのでしょうか。不思議です。“どうして人間には真善美が大切なのか”という不思議。真善美は何の役にも立ちません。でも、人はその真善美がないと苦しくなります。どうしてなんでしょうか。不思議です。“どうして、人間は人間の赤ちゃんだけでなく、他の動物の赤ちゃんも可愛いと感じるのか”という不思議。人間が、人間の赤ちゃんを可愛いと感じるだけなら理解できます。同じ種だからです。でも、どうしてイヌや猫はもちろんのこと、さらにはヘビやワニの赤ちゃんまで“可愛い”と感じる人がいるのはなぜなんでしょうか。さらには、わが子のようにそれらの動物を可愛がる人がいます。不思議です。“どうして、人間以外の動物でも、人間になつくのか”という不思議。もっと不思議なのは、そのように可愛がられると自分の親でもないのに、動物たちが人間になつくのはどうしてなのでしょうか。不思議です。“どうして宇宙が生まれたのか”という不思議。宇宙は無からうまれたと言われています。宇宙は一つだけではなく無数にあるという学説もあります。宇宙には大きさはあるのに、果てはないと言います。不思議です。“どうして人間は見えない世界のことを考えることができるのか”という不思議。人間は心の中に現実世界のコピーを持つことができます。そして、そのコピーを神のごとくに自由にいじくり回すことができます。それはまるでCGの世界のようです。どうしてそんなことができるのでしょう、不思議です。もう少しすると、毎年出会う不思議があります。枯れ野原に一面の草が萌え、葉のない木々に突然花が咲きます。あっという間に世界の色が変わります。これは何回体験しても不思議が消えません。私にはもっともっといっぱいの不思議があります。そして、私はその一つ一つが気になってしょうがないのです。それで、その“なぜ?”を解き明かしたいと考えます。毎日毎日考えています。どうして、私はそんなにもいっぱい不思議を感じるのでしょうか。それも不思議です。皆さんにも不思議はいっぱいあるのでしょうね。よかったら教えてくれませんか。
2006.01.17
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こんな事ばっかり書いていると読者が減りそうなのでここいらでやめておきますが、最後にちょっとだけ。昨日は、ブログを書いているうちに子どもに本を読む時間になってしまい、あまり考えずに最後をまとめてしまいました。(長女が2才くらいからの時からの習慣ですから、もう17年間ぐらい毎日続けています。ここのところ一週間ぐらいは毎日グリムを読んでいます。読み聞かせは楽しいですよ。)昨日の最後は、“適応”は心を決まった反応パターンの中に押し込めようとします。でも、“魂”はその固定した反応パターンを壊そうとします。その際、心は苦悩します。人の心の中には、全く相反する働きの“心”が同居しているのです。それが人間特有の苦悩を生み出すのでしょう。とまとめました。まず、“魂”はその固定した反応パターンを壊そうとします。というところです。こう書くと、“壊す”のが魂の働きのように聞こえてしまいますが、そういうことではありません。適応の状態は環境に左右されます。日本人でも生まれた時からアメリカ人に、アメリカで育てられればアメリカ人の感性になってしまいます。(実際にはアメリカ人にも色々いて、アメリカ人らしくないアメリカ人もいっぱいいるのがアメリカですから、そんな簡単な話ではありませんが、ここではそういう現実的な話しは脇に置いておいて下さい。)また、北国に育てば北国に、南国で育てば南国に適応した感性が育ちます。大家族の中で育った子と、核家族で育った子も異なった感性を持っています。そう考えていくと、そのようなことは身近に見ることができる現象です。そのような感性の違いが心の違いにも影響を与えています。でも、人間にはなぜか環境に作用されないもっと普遍的な心の働きもあるようなのです。その証拠に、自分の育った文化とは全く異なった文化を持った国や部族や地域の英雄、偉人、聖人の話しにも私達は心を動かされます。先日、「キング・アーサー」というビデオを見ました。円卓の騎士で有名なアーサー王の物語です。アーサー王は5世紀頃のブリテン(今のイギリス)の人です。外国で作られた、イギリスの昔の英雄の話です。でも、アーサー王の人間としての素晴らしさは私にも伝わってきました。また、ネイティブアメリカンの人たちの話も同じです。彼らの語る、彼らの英雄の姿には私達も心を打たれます。以下の文はアメリカインディアンのシアトル酋長が部族会議で語った言葉です。シアトル酋長のメッセージ ネットワーク「地球村」代表 高木善之訳1854年のことである。スカミッシュ族の酋長は、部族会議でこう語った・・・・・・大統領から、我々の土地を買いたいとの申し入れがあった。 ありがたいことだ。 なぜなら大統領には我々の同意など本当は必要無いのだから。しかし我々には分からない。 土地や空気や水は誰の物でもないのに、どうして売り買いができるのだろう。 土地は地球の一部であり、我々は地球の一部であり、地球は我々の一部なのだ。この土地を流れる水は祖父の血であり、水のさざめきは祖父の声なのだ。 川は兄弟であり、我々の渇きを癒し、カヌーを運び、食べ物を与えてくれる。もしもこの土地を売ったとしても、 水の語る一つ一つが我が民の物語であることを記憶に留めなければいけない。 川は我々の兄弟であると共に、あなた方の兄弟なのだ。白人の土地には静かな場所がない。 若葉がそよぐ音も、虫の羽音も聞こえない。 生き物の声が聞こえない人生など、生きる価値があるのだろうか。我々にとって、空気はかけがえがない。 なぜなら生き物、木々、人間、すべてが同じ空気を分かち合っているからだ。 もしもこの土地があなたのものになったとしたら、このことを記憶に留めよ。無数のバッファローが面白半分に殺された。 全ての生き物を殺し去ったとき、人間が死ぬだろう。他にふりかかったことは自分にも降りかかる。 すべてはつながっているのだから。すべての生命は一つの織物である。 それを織ったのは人間ではない。 人間も一本の織り糸に過ぎない。 生命の織物に対してすることは、自分自身に対してすることなのだ。大統領は我々に「居留地に行け」という。 我々には、自分の残り少ない人生をどこで過ごそうがもはや問題ではない。 子ども達は、父親が殺され、母親が辱められるのを見てきた。まのなく、かつての栄光の者たちは地上から姿を消すことだろう。 そしてその民の死を痛む者たちもいなくなるだろう。 しかし、それを悲しむ必要があるだろうか。 人は誰でも生まれては死ぬのだから。白人さえ、この運命には逆らえぬ。 白人と我々は兄弟なのかもしれない。 白人にも分かるときが来るだろう。 我らの神と白人の神が同一だということを。土地の所有を望むように、白人は神さえも所有しているつもりかも知れないが、 それは不可能なこと。神はすべてのものの神。 そのいつくしみはすべてに等しく注がれている。大地を害すれば、必ずその者は滅びるだろう。 なぜならそれは神を侮辱することに他ならない。 大地を害すれば、白人もまた死に絶えるだろう。 もしかすると、他のあらゆる部族よりも先に・・・・・森はどこに行ってしまったのか? 消えてしまった。 鷹はどこに行ってしまったのか? 消えてしまった。生き物に別れを告げることは何を意味する? それは“真に生きる”ことの終わり、“死んでいない”ことの始まりなのだ。この申し入れに同意するとしたら、 それは最後のひと時を過ごす場所を手に入れるためなのだ。この地上から我々が消えても、この大地はわが民の魂を抱いていてくれるだろう。 なぜなら私たちが、この母なる大地を深く愛しているからだ。この土地を売ったとしても、この土地を我々が愛したように愛してほしい。 我々が手塩にかけたように愛して欲しい。 この土地を手に入れたときそのままに、その土地の思い出を心に刻んでほしい。力の限り、知恵の限り、情熱の限り、子ども達のためにこの土地を守ってほしい。 神が我々を守るように・・・・・。我々は知っている。 我々の神はあなた方の神と同一である。 白人といえども、この共通の運命から逃れることはできない。 我々は兄弟なのかもしれない。 いずれ分かるだろう。この言葉に、私は心を打たれます。どうしてなんでしょうか。私の心は、時代や文化を越えて貫いているこの真理に共鳴するのです。そして、心の中でその真理に共鳴するものを私は“魂”と呼んでいます。適応は違いを生み出します。でも、この“魂”という真理に共鳴する心の働きは、統合を生み出します。人間の心はこの二つの働きによって支えられているのです。そして、適応の方が優位になれば、違いが戦いを生み出すでしょう。多くの世俗の宗教もまた適応を促し、違いを生み出します。なぜなら宗教の多くも、もともとは部族の特異性を誇示し、部族を団結させるために生まれたからです。ちなみにキリスト教の前身の“ユダヤ教”もそのようにして生まれました。ユダヤ教に適応した者がユダヤ教徒として認められたのです。でも、特定の民族のためではなく魂の救済のために生まれた宗教もあります。それがキリストの説いた教えであり、お釈迦様の説いた教えなのです。でも、それらも長い歴史の中で“その宗教に適応した者だけを味方として認める”というように、特定の部族や、国や、民族やイデオロギーの踏み絵と化してしまいました。その結果が古くは十字軍であり、最近ではオームなのです。適応の働きは仲間や家族、そして欲望や快楽という現実とつながっているため常に魂を飲み込もうとするのです。でも、魂は適応の働きに飲み込まれそうになると、多くの魂に共鳴波を飛ばして、仲間を集めるのです。そして、魂を救い出そうとする戦いが始まります。ファンタジーの世界はそのような魂の世界の話しです。ファンタジーはただの空想の世界ではないのです。文明社会では“魂”は大切にされません。適応は現実的ですが、魂は現実的ではないからでしょうか。適応は近代化を受け入れますが、魂は素朴を愛するからでしょうか。社会がどんな状態になっても適応はそれを受け入れます。でも、魂は生命の働きを大切にしない社会は受け入れません。適応は欲望とつながっているが故に経済的な価値がありますが、魂には経済的な価値がないからでしょうか。それが現代人の苦悩の源なのでしょうか。今日も、難しい話しになってしまいました。ごめんなさい。
2006.01.16
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昨日は、牧野さんから長文のコメントを頂きました。そのフォロウの意味も込めて昨日の話の補足を少しします。おととい、“成長”という言葉の意味について“成長”という言葉の意味が私達が普通使う“成長”という言葉の意味とは違うかも知れません。私達が、“あの子も成長したね”と言うような場合は、“大人の価値観に合ってきたね”というような意味合いが込められています。つまり、大人の基準を“成長”の物差しにしているわけです。ですから、大人の価値観に合っていなければ、“成長が止まってしまった”とか、“成長が遅れている”と表現します。でも、本来子どもの成長は大人の価値観とは関係のないところで進んでいます。これは生命のプログラムの働きであって、社会の価値観とは無縁の働きだからです。というように書きました。ですから、私の文章の中の“成長”という言葉は、世間で使われている“成長”という言葉の意味とは少し違います。同様に、“適応”という言葉も世間的な意味とは同じではありません。ちょっと堅苦しくなりますが、私の“適応”の定義を書いてみます。それは、「生後獲得される、外的な刺激に対応する反応パターンの獲得」という感じです。普通は、“あいつも適応してきたな”といえば、“違和感がなくなる”、“慣れてくる”、“なじんでくる”というような意味が含まれていると思います。言葉を変えれば“順応”ということです。でも、なぜそういうことが起きるのかというと、“新しい外的な刺激に対する反応パターンが形成されてきた”からなのです。一般的には、その“反応パターン”が、肯定的な場合に“適応してきた”と表現しているのだろうと思います。でも、私はその反応パターンが肯定的ではなくても、繰り返しによってその人独自の反応パターンが形成されるなら、それも同じ“適応”なのではないかと考えています。なぜなら、その両者の脳の中で起きていることは同じだからです。幼い子どもはイヌと猫の区別がつきません。でも、繰り返し“これはイヌだよ”、“これは猫だよ”と言われ続けることで、脳の中にイヌのイメージ、猫のイメージが形成され、そのイメージと言葉がつながるようになります。これは、脳が外部からの刺激に対して適応していくということでもあります。適応していくことで、外部からの刺激を処理しやすくなるからです。人間が学習すると言うことは、脳のレベルで見ると情報処理回路の構築にほかならないのです。そのレベルで見た時、人間や社会の価値観は意味を持ちません。脳のレベルでの適応とは、情報処理回路がちゃんと作られることに他ならないのです。ですから、みんなと仲良く遊ぶことができるようになるのも、ヘビを見て“きゃー”と悲鳴をあげるようになるのも神経細胞レベルでは同じことなんです。心というものも、基本的にはこの情報処理回路の産物です。ですから、心の形成には時間がかかるし、また一度自分の考え方、感じ方などの“心の反応パターン”が作られてしまうと、なかなか変えることができないのです。心の反応には脳の中にちゃんとそれに対応する情報処理回路があるのです。心に関して、このような説明をすると“唯物的”で、違和感を感じる人もいるかも知れません。でも、なぜ私がこのようなものの考え方をするのかというと、“人間”というものを考える時に、人間の価値観から自由な視点を持たないことには、人間の本質を知ることができないのではないかと思うからなんです。日本のことをちゃんと知ろうと思ったら、日本から出てみなくてはなりません。一度外から眺めて、また中に入り、そしてまた外に出て、という繰り返しを通して、本当の日本の姿が見えてくるのです。それは、多分ご理解頂けると思います。それと同じように、人間というものをちゃんと理解しようと思ったら、一度、人間の主観的な価値観から離れて唯物的な視点を持ってみることが必要になるのではないかと思うのです。実際、人間の脳もからだもものすごく機械的にできているのは事実なんです。脳の中に電極を差し込むだけで、食欲や性欲や怒りといった感情を引き起こすことができるのです。(これはサルの実験で確かめられています。)また、人間でも事故などで脳に損傷を負った人たちの心の変化を通して同様なことが確認されています。脳に損傷を負うと、人格が変わってしまうこともあるのです。私はそれを認めた上で、さらにそれだけではない人間を見極めていきたいのです。実は生命というものはもっともっと不思議なんです。遺伝子操作で、動物の未受精卵から遺伝子の含まれた核を取り除き、別の個体から得た核、もしくは遺伝子に手を加えた核を挿入します。すると、その細胞は新しく得た設計図通りに細胞分裂を始めます。(実際にはもっと複雑ですけど・・・。)ここで行われていることは遺伝子の入れ替え、つまり設計図の入れ替えです。では、その遺伝子を解読して、設計図からちゃんとからだを作っているのは誰でしょう。遺伝子はただの物質です。だから人が手を加えることができます。将来は100%人工の遺伝子も作ることができるかも知れません。でも、遺伝子だけでは生命は作れないのです。その細胞核を包んでいるただの栄養分にしか見えない部分がないと細胞は分裂しないのです。そして、そんな単純なものが人工的には作れないのです。だから、本物の動物の卵子を使っているのです。面白い実験があります。細胞分裂している初期の状態で、細胞をいじくって将来手になる部分と足になる部分を入れ替えても、手が足になって、足が手になることはないというのです。まだ神経回路も何にもできていない状態で、もうすでにこれから出来上がる形の場が分裂を導いているらしいのです。これは何の働きなのでしょうか。また、話しを心に戻しますが、宗教の場では“悟り”ということが起きます。これは苦悩の後、瞬間的に起きます。そして突然に心の状態が変わってしまいます。何十年とかけて作られてきた反応パターンが一瞬にして変わってしまうのです。脳の中の情報処理回路に革命が起きるのです。これは、上に書いてきたような“適応”では説明できません。私はその働きをもたらすものを“魂”と呼んでいます。“適応”は心を決まった反応パターンの中に押し込めようとします。でも、“魂”はその固定した反応パターンを壊そうとします。その際、心は苦悩します。人の心の中には、全く相反する働きの“心”が同居しているのです。それが人間特有の苦悩を生み出すのでしょう。********************今日は、思いっきり面倒くさい話しで失礼しました。明日はもっと気楽な話しにします。
2006.01.15
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昨日は、その生命のプログラムによる成長とは、ずばり“適応能力”の成長です。子どもが歩くことや話すことを学ぶのも適応です。つまり、自分が育っている風土、自分を育ててくれる人、環境、生活など適応していくことが子どもの成長なんです。と書きました。皆さんもご存じのように、進化というものは“適応”によって引き起こされてきました。そして、子どもの成長は進化を繰り返すと言われています。いわゆる、“個体発生は系統発生を繰り返す”という考え方です。ですから、子どもの成長が自分が生まれた世界への適応の過程であることは当然のことなんです。ジャングルの中で生活していればジャングルに適応するように成長するし、都会の中で生活して入れば都会に適応するように成長します。その適応能力の高さがまた人間の能力でもあるわけです。ですから、育ってしまった子ども(つまり大人)を見れば、その人がどのような環境の中で育ってきたのかが分かります。その人が、日本語しか話せないのなら、日本語しか話せない人たちによって育てられて来たということです。つまり、人は“育てられたように育つ”ということです。その点では人間も動物も同じです。ですから、犬の調教と同じで育て方次第でどんな風にも育てることができるという考え方も成り立つわけです。実際、そのような教育方法を提唱している人もいます。でも、ここで不思議なことがあるのです。確かに、動物たちは育てられたようにしか育ちません。つまり、飼い主に適応するという形でしか成長しないのです。でも、なぜか人間は自分の意志で自分の成長をコントロールし始めることがあるのです。単純に適応するだけの成長から脱却して、自分の成長の方向を自分で選び始める子どもたちがいるのです。実際、善人ばかりの中で育っても悪人になる人もいれば、その逆に悪人ばっかりの中で育っても、善人に育つ人もいます。育ててくれた人に似る人もいれば、その人を反面教師にして育つ人もいます。どうやら、そういう子ども達は肉体の進化には刻まれていない成長(進化)をたどり始めているようです。ただし、この成長は肉体の進化に刻まれていないが故に、誰にでも起きるというものではないようです。また、同じようにも起きません。非常に個人差が大きいのです。単純に“育てられたように育ってしまう”子どもたちだっていっぱいいます。そして、割合としてはそのような子どもたちの方が多いように感じます。でも、確かに自分の成長を自分で選び取る子どもたちもいるのです。これは全く不思議なことです。どうしてこんなことが起きるのでしょうか。脳の進化なのでしょうか、それとももっと別の意味があるのでしょうか。もしかしたら、それが“魂の成長”なのでしょうか。そして、自分の生き方に目覚め始めると精神が目覚め、肉体に拘束されにくくなります。肉体の中に存在している“わたし”なのに、肉体から自由になるのです。その結果、正義や美や真理のために死ぬようなことだってできてしまう人も出てくるわけです。全く、不思議なことです。でも、話しはここで終わらないのです。確かに、魂の成長に目覚めずに、単純に“育てられたように育ってしまう”子どもたちがいっぱいいます。でも、どうも彼らはどこかに“忘れ物”をしてきたような不安感を常に持っているような気がしてならないのです。そして、その不安感を埋めるために物欲や金銭欲や性欲や権力欲を求めてしまうような気がするのです。なぜ、そう思うかというと、子どもたちと接していて感じるのは、子どもたちが真・善・美というものに、素直に感応する力を持っているように思えるからです。それは子どもたちが真・善・美に満たされたお話しを好んで聞くことからもうかがい知れます。子ども向けのお話しが、真・善・美に満たされているのは、大人の教育的な配慮だけではないように感じるのです。それ故に、幼い子どもたちが神様に近い存在のように扱われたりもしたのでしょう。異年齢の子ども達を大勢森の中に連れていって、勝手に遊ばせているとちゃんと助け合いのつながりが生まれてきます。(但し、高学年の子は難しいですけど。)また、子どもは綺麗なものが好きです。自分では散らかすくせに、散らかった状態と、きちんとした状態ではきちんとした方を好みます。(じゃあ、片づけろよ!)河原に行って、“きれいな石を探そう”というと、みんな喜んで探します。でも、その真・善・美の感覚が満たされないまま大人の都合ばかり押しつけられていると、魂の成長が抑えられ、適応するだけの成長しかできなくなってしまうのではないでしょうか。それが、“何か忘れ物をしたような感覚”を生み出しているのではないか、私にはそうとしか思えないのです。でも、この成長は肉体の進化とつながっていない故にか、大人になってからでも、老人になってからでも突然目覚めることがあるのです。肉体の成長と違って、年齢に制限されないのです。そして、一度目覚めると死ぬまで成長し続けます。不思議です。
2006.01.14
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おととい、子どもたちの仕事は“成長すること”です。子どもたちの心とからだは成長するために全てが調整されています。と書きました。実際、どの子どもでも子ども時代には色々なものを学び成長します。その流れは止められないのです。子どもは一日過ごせば一日分学んでしまいます。丸一日寝て過ごしても、その一日分を学んでしまいます。そして、その一日分成長します。ただ、この“成長”という言葉の意味が私達が普通使う“成長”という言葉の意味とは違うかも知れません。私達が、“あの子も成長したね”と言うような場合は、“大人の価値観に合ってきたね”というような意味合いが込められています。つまり、大人の基準を“成長”の物差しにしているわけです。ですから、大人の価値観に合っていなければ、“成長が止まってしまった”とか、“成長が遅れている”と表現します。でも、本来子どもの成長は大人の価値観とは関係のないところで進んでいます。これは生命のプログラムの働きであって、社会の価値観とは無縁の働きだからです。その生命のプログラムによる成長とは、ずばり“適応能力”の成長です。子どもが歩くことや話すことを学ぶのも適応です。つまり、自分が育っている風土、自分を育ててくれる人、環境、生活など適応していくことが子どもの成長なんです。ですから、手を使う生活をしている家族の中で育てば、その家族のやり方に適応するために、子どもは手を使うことを学んでいきます。言葉を使う人たちに育てられていれば、言葉を自分のコミニケーション手段として使えるように適応していきます。知的な会話が多い家庭環境で育てば、子どもは家族とコミニケーションするために知的な会話能力を学んでいきます。テレビばかり見ている生活をしていれば、テレビばかり見ていれば済むように適応していきます。ゴロゴロばかりしていれば、ゴロゴロばかりしていることができるように適応していきます。会話がない家庭で育てば、会話を必要としないように適応をしていきます。そして、これらもみんな成長なんです。ですから、オオカミに育てられればオオカミの生活に適応するために、オオカミのように成長します。ずっと外で遊んだことのない子どもを9才を過ぎて外に連れ出してもあまり喜びません。大人は、外で遊ぶ楽しさを知らないからだと思うのかも知れませんが、その子は他の子が外で遊ぶことに適応している間に、家の中でゲームをしているように心とからだが適応してしまっているのです。つまり、外遊びの楽しさを知らないのではなく内遊びの楽しさを学んでしまっているのです。言葉でも、技術でも学ぶべき適切な時期と言うものがあって、そしてその時期を逃すと、その言葉や技術を必要としないように適応してしまうのです。すると、後から取り戻せなません。それが臨界期なんです。何にもしていなくても、その何にもしていない状況に適応してしまいます。(そのように育てられたと思われるカスパー・ハウザーという青年が実際にいました。)何にも教育してなかったのだから、あらためて教育を始めればすぐに元に戻るだろうなどということはないのです。子どもの成長は止められないのです。だから子どもたちは取り返しの付かない時間を過ごしているというのです。もっとも、人間は可塑性の高い生き物ですから、他の生き物ほど臨界期に縛られていませんからご安心を。ただし、3才で学んだことと10才で学んだこととは表面的には同じでも、脳の中の状態は違います。つまり、3才までに学んだ言葉は母国語になりますが、10才になってから学んだ言葉は外国語になると同じです。ハサミの使い方でも3才までに学んだ子はハサミを母国語のように使いますが、もっと成長してから学んだ子は外国語のように使うでしょう。大きくなってからでもハサミの使い方は学ぶことができますが、そういう違いは出てきます。“ああしろ、こうしろ”と指示ばかり受けて育っている子は、指示を受けることに適応します。いつも怒られている子は、怒られることに適応します。評価ばかり受けている子は、評価を受けることに適応します。歩かない子は歩かないことに適応していきます。あなたのお子さんはどんなことに適応していますか。それは、子どもを普段とは違う状況、環境に連れ出してみればすぐ分かります。子どもたちは自分が適応してきた能力が役に立たない世界に連れ出されると不安になります。(大人もです。)今、多くの子どもたちがバーチャル世界に適応しています。そういう子どもにとっては、現実世界よりバーチャル世界の方がリアリティーがあるのではないかと思います。ということは、現実社会に生きることそのものがそういう子どもたちにとっては不安なのかも知れません。
2006.01.13
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昨日、牧野さんとガキ大将さんから、似たようなコメントを頂きました。その内容は、以下の通りです。親の背中を見て育つ時代って、昔の事かもしれないですね。サラリーマンが多いこの社会で、子供の会社訪問を企業全体で考えてくれたなら、子供は、もっと父親が身近になるではないでしょうか?ということで、今日はこの辺りから話しを始めます。日本の社会が今のような形になったのは、戦後の高度経済成長の頃からではないかと思います。ちなみに高度経済成長は1950年代後半から始まったようですが、私の体験としては私が中学、高校の頃が一番急激に変わってきたように感じています。それは、大体1965年前後です。それ以前は鎌倉駅の近くの道以外ほとんどが無舗装でした。高校に通っている頃、それまで無舗装だった道が急に舗装され始めました。それで、その時は“車も通っていない道を舗装してどうするのかな”と思いました。それは細い道ではありませんよ。今では充分に二車線あって歩道もあるような広い道です。(大町の通りです)でも、当時はみんな道の真ん中を歩いていたのです。舗装され、車道ができると同時に歩道ができて、人間は歩道を歩かなければならなくなりました。その時、すごく違和感を感じたことを覚えています。人間は道の真ん中を歩くものだと思っていたからです。でも、不思議だったのは道路が舗装されるとすぐ自動車がいっぱい走り出したことです。これは今でも不思議に思います。あっという間に車が増えたのです。ちなみに、私は今でも道路は歩行者のものだと思っています。だから、車が威張っている今の交通事情にはなじめません。この頃、社会はものすごい勢いで変化していました。テレビではいつでも“集団就職”のニュースを流していました。1958年には東京タワーができ、1964年には東京オリンピック、1968年には日本で一番高い霞ヶ関ビルができました。当時は日本中が希望に燃えていたのです。私はその興奮を覚えています。そもそもテレビのアナウンサーが興奮してニュースを流していましたから。当時は、“頑張れば夢は叶う”みんなそう思っていました。当時は、カラーテレビ・クーラー・カーの“3C”が“三種の神器”と呼ばれ、その三つを揃えることが人々の願いでした。そして、もっと上へ、もっと上へと人々は願い、子どもたちに高学歴を付けさせようと受験競争が始まりました。子どもたちもまた、受験競争に勝てば社会で成功できると素直に信じていました。この頃は、社会全体が熱に浮かれたように国をあげて高度経済成長を押し進めていました。国民全体の願いが一つになっていたのです。そして、この頃の学校教育は成功していました。それは学校が与えたいものと、子どもたちが欲しいものが一致していたからです。ですから、一クラス50人でも崩壊などしなかったのです。(それは、明治維新の時も、戦争中も同じです。情報操作されていたこともありますが、当時は学校が与えたいことと、子どもが求めていることが一致していたのです。でも、その関係はバブルとともに崩壊してしまいました。)今、“昔の先生は子どもを叩いていたから崩壊しなかったんだ”などと言う人がいますが、それはとんでもない勘違いです。今の子は叩いたら学校に来なくなってしまいます。最初から学校に期待していないのですから。その頃から子どもたちの社会も、大人たちの社会も大きく変わってきました。私がまだ小学生の頃は、道路は子どもたちの遊び場でした。自転車を持っている友達もいませんでした。当時は、子供用の自転車など見たことがありません。高学年の子が大人の自転車にサドルにまたがらないで、斜めに乗ってこいでいるくらいでした。子どもたちは毎日のように山や海で遊んでいました。うちは裏がすぐ山なんですがいつでも子どもたちの遊ぶ声がしていました。そして、道に迷うと“通らせて下さい”とゾロゾロと子どもたちが庭を通っていきました。特に、夏は毎日のように海に行って遊びました。(当時は海の家などちょっとしかありませんでした。その代わり、射的とか、弓矢とか、ボール投げなどがありました。鬼のお腹に当てるやつです。知ってますか?)家の中で遊んでいた記憶はほとんどありません。今でも海や山は昔と同じようにあります。でも、子どもたちが子どもたちだけで遊んでいる声を聞くこともないし、姿を見ることもありません。今、海で遊んでいるのは家族と一緒に来ている低学年以下の子ばかりです。子どもの群れが消えてしまったのです。また、人々が裕福になるにつれて家を建てる人が増えてきました。あこがれの一戸建てです。そして、あこがれの個室をいっぱい作りました。そして、家族のつながりが希薄になってきました。今では、一緒の家にいながらほとんど顔を合わすことのない家族もめずらしくありません。子どもは一人一人携帯を持ち、子ども部屋には一つずつテレビがあります。食事の時も、テレビを見ながら食べるので会話がありません。食べ終わったら、すぐに子ども部屋に閉じこもります。また、一戸建てを建てるに当たって都心では不動産が高いので、郊外に家を建てる人が増えてきました。当然、通勤時間は長くなります。さらには、仕事は忙しくなり、家に帰る時間はますます少なくなります。そして、お父さんはますます疲れます。それでも、ローンを抱えるので必死で働かなければなりません。当然、お休みの日はぐたっとして、テレビの前でゴロゴロしているしかありません。そして、子どもはそういうお父さんを見て育ちます。でも、子どもを会社に連れて行ったとしても、お父さんの仕事場が“物を作ったり、売ったりしている現場”ならお父さんの仕事が分かりますが、ただパソコンの前で仕事をしているだけなら、ゲームをやっている自分との違いが分かりません。(実際、うちの子どもたちも私がパソコンの前で必死になって原稿を書いていても、“お父さん暇なんでしょ”と言ってきますから・・・)昔は、個人商店も町工場もいっぱいありました。家からそんなに遠くないところに仕事場があったのです。それは農家でも同じです。ですから、子どもは生活の中で父親が働いている姿を自然に見ていることが出来ました。また、自分の父親でなくても多くの大人が汗水垂らして働いている姿を身近に見ることが出来ました。若い人は知らないでしょうけど、昔は金魚やさん、ラオ屋さん、豆腐屋さん、氷やさん、おわいや(知らないでしょう)、富山の薬売り、山のように大きな荷物をしょった行商のおばさんなどが家の近くや、時には家にまでやってきました。でも、その個人商店も、町工場も、行商のおばさんも、絶滅しかかっています。(最近、行商のおばさんは見たことがありません。)農家は農業自体が崩壊しかかっているので、希望がありません。今や、農家を嗣ぎたいという若者は貴重品です。今子どもたちが日常的に見ることが出来るのはお金目当てのアルバイトの若者や、パートのお母さん達ばかりです。彼らにプライドやあこがれを感じることはあまりありません。また、企業の中でも作業がどんどん分業化されたり、複雑になったりして自分の仕事に誇りを持つことがなかなか難しい状況になっています。チャップリンの「モダンタイムス」ではありませんが、ネジを締めるだけの仕事にプライドを持つのは困難です。また、ネジを締めているだけの父親を誇りに思うのも困難です。だから、今の時代“大工”にあこがれる子どもが増えているのかも知れません。
2006.01.12
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昨日は、その“何でもできる能力”を支えているのが、この“からだで学ぶ能力”なのです。そして、その能力が人間の知的な能力を支えているのです。と言うところで終わりました。その後、“ガキ大将”さんから、喜びに満ちた子供時代とは、どんなものなのでしょうか?という書き込みがありましたの、今日はこの問いにお答えしながら話しを続けますね。普通は、このようなことを考える時に“愛されている時?”、“いっぱい遊んでいる時?”、“仲間がいる時?”、“受け入れられている時?”という風に“子どもを取り巻く状況”から推測していくのでしょうが、私はもっと別の側面から考えます。なぜなら、例えば“愛されている時”と考えても、では「子どもを愛するってどういう事なんだろう。親は愛していても、子どもが愛されているって実感がなければ、子どもは生き生きしないよな。」などと不確定な要素がいっぱい出てきてしまうからです。また、大勢で遊んでいる時に生き生きとしている子がいるのも事実ですが、でも、一人で遊んでいる方が好きな子もいるのも事実です。でも、視点を変えてしまえばこれは単純なことなんです。実は、人間にはその年齢に合わせた“仕事”があるのです。その“仕事”が充実している時にその年齢の人は生き生きとしてくるのです。そのように人の心とからだ、そして一生は設計されているのです。だから人の一生には“その時にしかできない”、“その時にしか楽しめない”、“その時にしか感じない”旬があるのです。木に例えると、種の時には“種の仕事”があります。芽が出た時には“芽の仕事”があります。成木になれば“成木の仕事”があります。また、春の木には“春の木の仕事”があります。夏の木には“夏の木の仕事”があります。秋も冬も同じです。生命というものはそのようにできているのです。そして、子どもたちの仕事は“成長すること”です。思春期の子どもたちは恋をし、自立し、自分の目標を見つけることです。(この後はご自分でお考え下さい。)実際、子どもたちの心とからだは成長するために全てが調整されています。思春期の子どもたちの心とからだは、恋をし、自立し、目標を見つけるために調整されています。でも、何らかの状況でこれらの“仕事”が充分にできない時、心やからだのバランスが崩れていきます。そして、“次の仕事”に取りかかることができなくなります。子どもたちの仕事が“成長すること”だとすると、子どもの成長を支えてくれるような環境、状況、大人、仲間に囲まれている時、子どもたちは生き生きとしています。でも、それが具体的にどのような情況かは、子どもの気質によっても異なりますから一概には言えません。ちなみに、ここで言う“子どもの成長”とは、とりもなおさず子どもの“心とからだの成長”のことです。成績のことではありません。ですから、勉強も子どもの心とからだの育ちを支えてくれるような形で与えられるなら、子どもたちは勉強することで生き生きとしてきます。でも、子どもの心とからだの育ちを阻害するような勉強なら、子どもたちは無気力になっていきます。今の子どもたちの状況を見ていると、現代の学校教育はどうやら後者のようです。子どもが仲間と遊ぶのが好きなのも、お母さんやお父さんに愛されたいのも、ご飯をいっぱい食べたいのも、みんな自分の心とからだを成長させるために必要だからです。でも、大人たちにその成長を支えてもらえない時、子どもたちは空想世界の中で擬似的に成長する喜びを得ようとします。子どもは空想の中で何でもできるスーパーマンになるのです。でも、一度その世界に取り込まれてしまうと、みすぼらしい現実の自分自身と向き合えなくなってしまいます。そして、現実の世界から逃避するようになります。それがテレビゲームの世界です。(昔は、それが文学を生み出す力になったりもしたのでしょうが、現代ではお手軽に疑似成長を体験できてしまうので、文学にはつながりにくいのです。)ですから、そうなってしまった子の場合、テレビゲームを取り上げるだけでは問題は解決しません。別の逃避の方法を見つけてそこに逃げ込むだけです。もし、あなたのお子さんがそのような状態なら、無理矢理にゲームを取り上げないでください。よけいに話がこじれます。そうではなく、それと同時並行して子どもが自信を付けられるような、心とからだが成長するような体験、学びを工夫してあげて下さい。現実世界の中でも成長できる自分を発見すれば、子どもは少しずつでも、空想世界から抜け出ていけると思います。ただ、“逃避”としてではなく、普通の遊びの一つとしてテレビゲームをやっている子もいるのでゲームをやっている子が全て逃避しているということではありません。問題は、ゲーム以外のことには興味を示さなくなってしまった子の場合です。<続く>
2006.01.11
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最初にお断りしておきますが、これは「幼稚園の義務教育化」の反対のために書いているのではありませんからね。基本的に私はあまり肯定的には受け止めてはいませんが、でもまだ詳細も決まっていない段階で是非を云々しても意味がありません。そうではなく、私が大切だと思っていることは、賛成とか反対とか言うことではなく、どっちにしろちゃんと自分の考えを持っているかどうかということなのです。“反対”を唱えても、ただ先入観で反対を言っているだけでは本質的な問題は解決しません。また、“賛成”の人も、ただ“月謝が無料になるから賛成”というような論理では“子どもを売り渡す”のと同じです。私が、今このブログで書いているのは、この機会に“幼稚園の義務教育化”の話しの背景を、もう一度見つめ直してみませんか”ということなのです。ですから、私と違う考え方、視点をお持ちの方もどんどん投稿なさってください。一緒に考えましょう。よろしいでしょうか。ということで今日の話しです。昨日、今の子どもたちの問題点を色々と書き連ねました。でも、あのようなことを書くと“でも、今時の子どもたちも捨てたもんじゃないよ”とか、“話しが一方的だ”と感じる人もいます。でも、そのような考え方は私にしてみればコップに半分の水を見て“まだ、半分も残っている”というような楽観論に思えます。確かに、このようなプラス思考は大切なことです。それは否定しません。でも、最初はいっぱいだった水が少しずつ減っているのなら、どうしてその水が減ってきたのかも考えないことには半分の水が、やがて1/3になり、さらには1/4になってしまうでしょう。そして、気付いた時には取り返しの付かない状態になってしまうことだって充分に考えられます。私は、毎日多くのお母さん達と接していますが、ほとんどのお母さん達が子ども本来の能力を知りません。ちなみに、ここで言う“子どもの能力”とは主に“からだで学ぶ能力”のことです。7才から9才頃までの子どもにとってはその能力がそのまま脳の能力になっているからです。そして、その“からだで学ぶ力”が“見て学ぶ”、“聞いて学ぶ力”の基礎になっていくのです。だからといって、“からだで学ぶ能力”が高い子が、そのまま成績がいいとは限りません。7才から14、5才頃(思春期)までの間に、その脳の能力とお勉強がつながらないとその能力をお勉強で生かすことが難しくなってしまうからです。(14才頃に急激に成績が伸びる子がいます。)本当は幼い子どもの能力は、大人の想像を超えてもっともっとすごいのです。能力によっては大人よりも高いレベルのものもあります。たった三年間ぐらいで、言葉を不自由なく使えるようになってしまうなんて、大人にはなかなかできないでしょ。うちの子どもたちは大体3,4才頃にはナイフもノコギリも普通に使えました。大きなケガをしたこともありません。ですから、勝手に使わせていました。でも、一般的にはこの年頃ではハサミさえ満足に使えない子どもたちもいっぱいいます。現代では子どもたちが“その能力を育てる場”、“きっかけ”に恵まれないためにその能力が使えなくなってしまっているのです。お母さん達は、“もっと大きくなってからやらせよう”と思うのかも知れませんが、小さい時でないとできないこともあるのです。子どもの能力の成長には“臨界期”があるからです。私の見た感じでは、子ども本来の能力を100だとすると、今の子どもたちの能力は大体30から40程度です。下手をすると20程度の子も結構います。私が子どもの頃の子どもたちの能力は、大体40から50程度でした。鎌倉という町中でしたからそんなもんでしょう。それでも、毎日何時間も平気で歩き回っていました。歩くしか交通手段がなかったからです。ナイフ(肥後の守)もみんな持っていて、普通に使っていました。木登りは当たり前です。そして、毎日のように相撲をとって遊んでいました。いつの頃からか忘れましたが、“今の子どもたちはナイフで鉛筆も削れない”ということが話題になった時期がありました。私が子どもの頃には鉛筆削りなどなく、みんな肥後の守や“ボンナイフ”という小さなナイフで鉛筆を削っていましたから、ナイフで鉛筆も削れないということが当時の大人たちにとっては驚きだったのです。今ではそんなこと当たり前になってしまいましたけど・・・。山育ちの友人は、みんなで木に登って、枝から枝に移って他の木に移動し、一日中木の上で遊んでいたと言っていました。また、高い崖の所で藤のツルにつかまり、崖に飛び出す遊びをしていたと言っていた人もいます。でも、誰も大けがはしたことがないそうです。今、小学生でもコマを回せる子は少数です。大体が、ひもをまけません。巻き方を知らないだけでなく、教えても指先が不器用で巻けないのです。そして、指先に神経を集中させようとするとすぐに疲れてしまいます。竹馬に乗れる子もほとんどいません。ナイフもノコギリも全く下手くそです。そういうことを言うと、“不器用だって個性だ”と言いたい人もいるかも知れません。確かに、大人の場合は“不器用”も個性です。でも、子どもの場合は“からだで学ぶ能力”の低下は、そのまま脳の神経回路の成長の遅れを意味します。子どもの脳は、からだで学ぶことで成長するようにできているからです。人間の脳はそのようにして進化してきたのです。ちなみに、人間と他の動物の違いは色々とありますが、この“からだで学ぶ能力”の違いがもっとも大きいように感じます。進化の方向性に、大きく分けて“特殊化”と“汎化”の二種類あります。そして、人間だけが“汎化”の道を進んできました。他の生き物たちは、特定の能力に優れるように進化してきました。馬は速く走るように、鳥は空を飛ぶようにです。でも、人間は何でもできるように進化してきたのです。走る、泳ぐといった一つ一つの能力は馬や魚にはかないません。でも、人間ほど色々なことができる生き物はこの地球上に存在していないのです。その“何でもできる能力”を支えているのが、この“からだで学ぶ能力”なのです。そして、その能力が人間の知的な能力を支えているのです。<続く>
2006.01.10
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今日は昨日の続きです。まだ、決まってしまった話ではないのですが、この問題を追うことで日本の教育、子どもたち、社会の今が見えてきますから。先ず、“学級崩壊”について考えていきましょうね。お子さんがまだ小学校に上がられていない方はあまりご存じないでしょうが、今“学級崩壊”は特別な学校だけの問題ではありません。基本的に、程度の差はあってもどの学校でも似たような状態のクラスがいくつかはあるようです。うちの教室のお母さん達からも色々な情報が寄せられています。全く授業にならず、あまりにひどいので教育委員会の人が見に来たのですが、それでも子どもたちは相変わらず騒ぎまくっていたというクラスもあります。そのクラスでは、業を煮やした親がクラスに入り、生徒を監督するようになったそうです。でも、今度はその親が先生を監視したり、教室で見たことを他のお母さん達に話しまくって、また別の問題が発生しました。小学校1年生のクラスでははしゃぎ回る子が多く、担任になりたがる先生があまりいないという話しも聞いたことがあります。また、最近では幼稚園も崩壊し始めています。先生の言うことを聞かないばかりか、先生に向かって“テメー”、“バカ”、“死ね”、“殺すぞ”と平気で言う子どもも少なからずいるようです。うちの教室にも小学生で、私を“テメー”とか“お前”と呼ぶ子がいます。また、幼稚園では男の子が数人集まると必ず戦いが起きる、という話しも聞いたことがあります。今の子どもたちは人の話を聞くことが苦手です。じっとしているのが苦手です。他の人のやっていることを観察することが苦手です。自分の感覚や考えを説明するのが苦手です。論理的に考えることが苦手です。集中することが苦手です。自由課題が苦手です。状況判断が苦手です。道徳感覚があまりありません。(人の物を取ったり、壊して平気でいます。注意すると、どうしていけないの?と聞かれます。)リーダーシップが取れない。もちろん、全部の子がそうだというわけではありません。でも、このような傾向の子がかなりの割合でいるのは確かです。そして、下手に真面目なことを言う子はいじめられたりする可能性が高くなります。こういう子どもたちが30~40人も集まれば、ちょっとしたきっかけで簡単にクラスは崩壊します。でも、問題は子どもたちだけではありません。ものすごく荒れたクラスでも、担任が替わることでウソみたいに落ち着いてしまうこともあるからです。それと、このような子どもたちに勉強を教えるのですから、昔の先生と、今の先生とでは求められる技量が大分違うと思います。昔は、ただ“淡々と”授業していても、子どもたちは大人しくしていましたが、今では子どもたちの気を引くような仕掛けをいっぱい用意していないと子どもたちの気持ちを引きつけておくことができません。(集中できないので、すぐに飽きてしまうのです。)また、今の子どもたちは大人を平気でバカにしますから、教師から自信のない雰囲気を感じると、子どもたちはそこに付け入ってきます。そして、言うことを聞かなくなります。そんな時、力ずくで押さえ込もうとすると、余計に荒れるか生徒が学校に来なくなってしまいます。それと、先生達は昔と違って“聖職”という意識はありません。また、子どもたちに手本を見せようという気もありません。道徳も、上からの指示で教えているだけで、先生達自身がその道徳を積極的に守っているかどうかは問題にされません。自分で考え、自分の責任で行動できる先生はあまりいません。教育に関して自分の意見をしっかりと持っている先生はあまりいません。でも、問題は子どもと教師だけではありません。親もなかなかの問題を抱えています。授業参観の時に授業中に平気で友人と話しまくっているお母さんはいまやもう普通のお母さんです。授業中に携帯で子どもの写真を撮っている親も普通です。自分の子どものことしか考えていない。教師の悪口を平気で言う。子どもを成績でしか評価しない。子どもを管理、支配したがる。もしくは、子どもの言いなりになっている。被害者意識が強い。勉強する時間以外は、好きなだけテレビやゲームを平気でやらしている。ただ世話をするだけで、できるだけ子どもと関わりを持たないで済ませようとする。そういう親がいっぱいます。まあ、あんまりこんなことばかり書いていってもキリがないのでこのくらいでやめておきます。この手のことを書いている本はいまやゴマンとありますから、もっと詳しい情報が欲しい方は、本屋さんを覗いてみてください。ねえ、だんだん“学級崩壊”が起きても不思議じゃなくなってきたでしょ。明日は、どうしてこんなことになってしまったのか、ということを考えてみます。
2006.01.09
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1月1日の読売新聞の朝刊に、「幼稚園の義務教育化」の話しがでていました。まだご存じない方はYOMIURI ONLINEをお読み下さい。それで、その理由としては、 幼稚園―小学校の区分による環境の変化が学力のばらつきを招いているため、幼稚園を義務教育に含め、一貫した学習体系を構築するのが狙いだ。 義務教育をめぐっては、近年、小学校低学年で、集団生活になじめない児童が騒いで授業が混乱する「小1問題」が起きている。幼稚園―小学校―中学校と進学するにつれ、指導の内容、難易度などが大きく変わり、成績格差が拡大する問題も指摘されている。ということのようです。つまり、これは“入学時に学力に差があった時、子どもたちが集団になじめない時”などに、小学校では問題を処理できないということを告白しているようにもとれます。今、子どもたちの学力低下の問題が話題になっていますから、話しがここから始まるとするならば、幼稚園が義務教育化されれば当然“お勉強”が強化されることになるでしょう。でも、その“学力低下”の原因がはっきりとつかめていない段階で、単純に“早くから始めれば何とかなるだろう”と考えるのは、子どもの発達段階を知らない人の馬鹿げた考えです。それは、“勉強に興味がない子は易しく教えれば興味を持つはずだ”という論理と同じレベルです。そういう発想が円周率を3にしてしまい、算数をつまらないものにしてしまったのです。7才までの子どもと、7才を過ぎた子どもとでは学習方法も、学習内容も、考え方も、感じ方も全く違います。そこの所をちゃんと理解して、幼稚園を義務教育化するならば問題はないのですが、多分それはほとんど無理だと思います。なぜなら、現在の小学校の教育でさえ、子どもたちの理解の仕方、考え方に合わせた授業ができていないのですから。それと、小学校低学年で、集団生活になじめない児童が騒いで授業が混乱する「小1問題」という記述がありますが、これは幼稚園のせいだけではありません。今や、幼稚園も崩壊し始めているのです。じゃあ、家庭が問題なのかというと、その家庭でさえ崩壊し始めています。家庭教育の重要性をいくら訴えても、崩壊寸前の家庭にそれを要求するのは無意味です。“じゃあ、何が原因なのか”、そういう議論を国民をあげて真剣に議論すべきなんです。でも、どうも政治家もマスコミも、週刊誌的なレベルで犯人探しをするばかりで、客観的な議論はいっこうにでてきません。それと、この“集団になじめない”という表現が気になります。集団で活動しない幼稚園はありません。そして、今時幼稚園に行かない子はほとんどいません。どの幼稚園に通っている子でも、幼稚園に行けば集団に入るのです。でも、ここであえて“集団になじめない”と書いてあるということは、この意味は“規律を守らない子”ということを言いたいのだと思います。ということは、自由保育の幼稚園がねらわれているということだろうと思います。でも、私は色々な幼稚園を出た子を生徒として預かっていますが、決して自由保育の子が学級崩壊の原因だとは思えません。確かに、一斉保育の幼稚園の子は扱いやすいです。でも、その素直さが危険なんです。どういうことかというと、自由に表現させようとしたり、自分で考えて行動させようとすると、どうして良いのか分からず戸惑ってしまう子が多いからです。つまり自分で判断する力が育っていないのです。それと、確かに保育園や自由保育の子は低学年のうちは多動がちです。でも、4年生頃になると急に落ち着いてくる子が多いのです。それに反して、一斉保育の子は4年生頃になると無気力になっていく子が多いように感じます。もちろん、自由保育の幼稚園でも、自由と放任をはき違えている幼稚園もあるようですし、一斉保育でも子どもたちと先生が信頼でつながった幼稚園もあるでしょうから一概に言えることではありませんが、その一概に言えないことを、政治家は一概に考えているように感じるのです。私は、問題解決を幼稚園に求める前に、まず今の学校を何とかしてもらいたいと思っています。それができないのに、幼稚園を義務教育化しても問題がこじれるばかりです。幼稚園は色々あっていいのです。色々な幼稚園があって、色々な子どもが小学校に入ってくる。そして、その多様性を生かす教育を考えればいいのです。それをみんな画一的に同じにしようとするからおかしくなるのです。学校が先生に扱いやすい子どもたちばかりになった時、日本の未来は終わります。「幼稚園の義務教育化」には、他にも、色々疑問点、問題点を感じるのですが、今日はここまでにしておきます。
2006.01.08
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1月1日の読売新聞の朝刊に、「幼稚園の義務教育化」の話しがでていました。まだご存じない方はYOMIURI ONLINEをお読み下さい。それで、その理由としては、 幼稚園―小学校の区分による環境の変化が学力のばらつきを招いているため、幼稚園を義務教育に含め、一貫した学習体系を構築するのが狙いだ。 義務教育をめぐっては、近年、小学校低学年で、集団生活になじめない児童が騒いで授業が混乱する「小1問題」が起きている。幼稚園―小学校―中学校と進学するにつれ、指導の内容、難易度などが大きく変わり、成績格差が拡大する問題も指摘されている。ということのようです。つまり、これは“入学時に学力に差があった時、子どもたちが集団になじめない時”などに、小学校では問題を処理できないということを告白しているようにもとれます。今、子どもたちの学力低下の問題が話題になっていますから、話しがここから始まるとするならば、幼稚園が義務教育化されれば当然“お勉強”が強化されることになるでしょう。でも、その“学力低下”の原因がはっきりとつかめていない段階で、単純に“早くから始めれば何とかなるだろう”と考えるのは、子どもの発達段階を知らない人の馬鹿げた考えです。それは、“勉強に興味がない子は易しく教えれば興味を持つはずだ”という論理と同じレベルです。そういう発想が円周率を3にしてしまい、算数をつまらないものにしてしまったのです。7才までの子どもと、7才を過ぎた子どもとでは学習方法も、学習内容も、考え方も、感じ方も全く違います。そこの所をちゃんと理解して、幼稚園を義務教育化するならば問題はないのですが、多分それはほとんど無理だと思います。なぜなら、現在の小学校の教育でさえ、子どもたちの理解の仕方、考え方に合わせた授業ができていないのですから。それと、小学校低学年で、集団生活になじめない児童が騒いで授業が混乱する「小1問題」という記述がありますが、これは幼稚園のせいだけではありません。今や、幼稚園も崩壊し始めているのです。じゃあ、家庭が問題なのかというと、その家庭でさえ崩壊し始めています。家庭教育の重要性をいくら訴えても、崩壊寸前の家庭にそれを要求するのは無意味です。“じゃあ、何が原因なのか”、そういう議論を国民をあげて真剣に議論すべきなんです。でも、どうも政治家もマスコミも、週刊誌的なレベルで犯人探しをするばかりで、客観的な議論はいっこうにでてきません。それと、この“集団になじめない”という表現が気になります。集団で活動しない幼稚園はありません。そして、今時幼稚園に行かない子はほとんどいません。どの幼稚園に通っている子でも、幼稚園に行けば集団に入るのです。でも、ここであえて“集団になじめない”と書いてあるということは、この意味は“規律を守らない子”ということを言いたいのだと思います。ということは、自由保育の幼稚園がねらわれているということだろうと思います。でも、私は色々な幼稚園を出た子を生徒として預かっていますが、決して自由保育の子が学級崩壊の原因だとは思えません。確かに、一斉保育の幼稚園の子は扱いやすいです。でも、その素直さが危険なんです。どういうことかというと、自由に表現させようとしたり、自分で考えて行動させようとすると、どうして良いのか分からず戸惑ってしまう子が多いからです。つまり自分で判断する力が育っていないのです。それと、確かに保育園や自由保育の子は低学年のうちは多動がちです。でも、4年生頃になると急に落ち着いてくる子が多いのです。それに反して、一斉保育の子は4年生頃になると無気力になっていく子が多いように感じます。もちろん、自由保育の幼稚園でも、自由と放任をはき違えている幼稚園もあるようですし、一斉保育でも子どもたちと先生が信頼でつながった幼稚園もあるでしょうから一概に言えることではありませんが、その一概に言えないことを、政治家は一概に考えているように感じるのです。私は、問題解決を幼稚園に求める前に、まず今の学校を何とかしてもらいたいと思っています。それができないのに、幼稚園を義務教育化しても問題がこじれるばかりです。幼稚園は色々あっていいのです。色々な幼稚園があって、色々な子どもが小学校に入ってくる。そして、その多様性を生かす教育を考えればいいのです。それをみんな画一的に同じにしようとするからおかしくなるのです。学校が先生に扱いやすい子どもたちばかりになった時、日本の未来は終わります。「幼稚園の義務教育化」には、他にも、色々疑問点、問題点を感じるのですが、今日はここまでにしておきます。
2006.01.08
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昨日は、「師匠を持とう」というテーマで書きました。それは、昨日書いたような理由だけではなく、他にももっと深い理由があるのです。今日は、その他の理由を書いてみます。まず、結論から書いてしまいますね。今日、言いたいことは言葉や知識や技術は“誰から”、“どのような状況”、“どのような方法”で受け取ったのかということで、異なった意味を持ち、あなたの生き方に異なった働きかけをします。ということです。つまり、言葉や知識や技術というものはそれ自体が非常に人間的なものだということです。それは「1+1=2」というような客観的と思われている知識に関してさえ同じです。太郎くんにとって、A先生が教えてくれた「1+1=2」とB先生が教えてくれた「1+1=2」は同じものではありません。コンピュータに入力するのなら、どんなコンピュータに入力しても「1+1=2」は同じ意味を持ちますが、人間の場合は同じにならないのです。何が違うのか、その内容を詳しく言葉で書くことはできませんが、「1+1=2」と教えてくれた時の先生の声、表情、身振り、表現の違い、そしてその先生と太郎くんの人間関係の違いが「1+1=2」を違ったものにしてしまうのです。例えば、どのように違ってくるのかというと、A先生に教わった時には“当たり前じゃんか”と感じたのに、B先生に教わった時には“そうか、この世界には誰も変えることができない不変の真理というものがあるんだ”と感じるかも知れません。はっきりと記憶していないのですが、どなたかの本にでていたエピソードがあります。(多分、林竹二です)戦争中のことです。算数に「三角形の三つの内角の和は180°になる」という有名な定理がありますよね。それを子どもたちに教えるために子どもたちに色々な形の三角形をいっぱい描かせたそうです。そして、その後でその三角形を切り抜いて、さらに三つの角を切り分けて頂点を合わせて並べさせたそうです。すると、当然のことながら、誰が描いた三角形でも、どんな形の三角形でも、その三つの角が一直線に並んでしまったのです。子どもたちはすごく驚いたそうです。そして、ある子どもが手を上げて“先生、これは天皇陛下様がなさっても同じになるのでしょうか”と聞いたそうです。子どもたちがどれだけ驚いたのか目に見えるようです。この子どもたちと、黒板にただ“三角形の三つの内角の和は180°になる”と書いて、“よく覚えておいて下さいね”と教えられた子どもたちとでは、この定理の持つ意味は全く異なってしまいます。そして、両者の子どもたちは算数や数学に対して全く異なった世界観を持つことになるでしょう。それだけではなく、人生観や世界観にまで違いがでる可能性もあります。そして、それは“教える技術”の問題ではなく、“教える人の人間性”と深く関係しているのです。その知識やら、技術やらをその人が実際にどのように生きているのかということが、その知識の意味や働きを変えてしまうのです。お分かりでしょうか、本来知識というものはそういうものなんです。もちろん“技術”でも同じです。だから“誰から、どのように学ぶか”ということが非常に大切になってくるわけです。でも、学校教育ではそのような要素を完璧に無視した形でシステムが作られています。そこにあるのは、“誰がどのように教えても「1+1=2」という真実は変わらない”という考え方です。そして、それをどのように受け取るのかは受け取り手である子どもの問題とされています。だから成績の悪いのは一方的に子どもの責任になってしまうのです。つまり、学習に関して“子どもの個性”は認めているのに、教える側の“先生の個性”はほとんど考慮されていません。でも、最近ではあまりにひどい教師が多いので、教師の教え方もマスコミで話題になったりしていますが、でも、そこで話題になっているのは“知識の意味”や“質”ではなく、“知識の量”に過ぎません。つまり、“知識をいっぱい子どもに詰め込ませることができる先生がいい先生だ”ということに過ぎません。ですから、ゲーム的にしたり、競争させてみたりと授業を楽しくするように色々と工夫しているようですが、子どもが社会に出た後、その知識が子どもを支えてくれる力になるかどうかということは全く考慮されていません。日本の学校では、それは“一教師”が考えることではないのです。そして、今では日本中がその学校と同じ価値観で言葉や、知識や技術というものが扱われています。そうでないと“マスメディア”が成り立たないからです。マスメディアが成り立たないと、日本の経済は成り立ちません。日本の社会はそういう構造になっているのです。人を育てることより経済の方が大切な社会なのです。それは、野菜を大規模な流通に乗せるために形や色を奇麗にしたため、味も栄養も昔の野菜本来のものと違ってしまったのとよく似ています。例えばトマトですが、形と大きさが揃っていなければ箱にピシッと詰めることができません。でも、自然に育ったトマトの形は“へちゃむくれ”です。多分、今の人はそのトマト本来の形をもう知らないかも知れません。私がスペインで暮らしていた時、市場に行ってビックリしたくらいですから。そこには私の知っている“トマト”の形はありませんでした。思わず“丸いトマト”を探してしまったくらいです。日本人は、“自然の恵みのトマト”を“人工的に管理できる商品”に変えてしまったのです。そのため栄養が減ったり、偏ったりして、生命に働きかける力が弱くなってしまいました。それと同じことを“知識”にもやっているのです。また、今の教育システムの中には“学び方を伝える”という発想がありません。知識や技術は教えてくれますが、自分で知識や技術を学ぶ方法は教えてくれないのです。例えば、“何かを知りたい”、“何かに疑問を持った”ような時、どうしたらいいのかを教えてくれません。“生命”という言葉の意味は教えてくれても、その教えてくれる人がいない時、自分一人でその言葉の意味を調べる方法を教えてくれないのです。私達の時代には、辞書の引き方というものをしっかりと教わりました。でも、今うちの子どもたちに聞いてもそれを知りません。英語でも単語の発音は教えてくれますが、その教えてくれる人がいない時、自分一人で発音を調べる方法を知りません。昔は「発音記号」を教えてもらいましたから、全く初見の単語でも辞書を引けば発音の仕方が分かったのです。それはどんな学問についてでも同じです。算数でも、国語でも、社会でも自分の知識や考えが本当に正しいことなのかを自分で検証する方法までちゃんと教えて初めて“まともな学問”なんです。(からだで学ぶことはそれが確認しやすいのです。ですから、低学年のうちはからだで学んだ方がいいのです。)そうでなければ、それは“知識信仰”に過ぎません。日本の子どもたちは知識は学んでも“学問”を学んではいません。そんな日本の社会の中にあっても、“まともな学問”、“まともな技術”を身につけたいと思うのなら、“師匠”を見つけることです。一生懸命にアンテナを張っていれば必ず出会うことができます。それは、有名な先生ではないかも知れません。職場の同僚かも知れません、仲間かも知れません、学校の先生かも知れません、友人かも知れません。そして、“あ、この人が私の師匠だ”と感じた人がいたら、絶対に信頼することです。(信仰とは違いますからね。)そうすると、ちゃんと自分にとって必要なことを学ぶことができるように人間はできているのです。
2006.01.07
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昨日は、私が深く影響を受けた先生や友人のことを書きました。それでつくづく思うのですが、私の場合ただ本を読んだり、ただ講演を聞いたりしただけの人はその中には含まれていないのです。最近は色々な情報が簡単に手に入ります。様々な講演会もしょっちゅう行われているし、様々な本もいっぱい出ています。わたしも色々な講演会にも行き、いっぱい本も読みました。そして素敵な気付きを得たり、新しい発見をしたりもしています。でも、私の人生を支えてくれるところまで深い影響を与えてくれたのは講演会や本の中で出会った人たちではなく、もっと人間的な関わりが深かった人ばかりなのです。言い方は古いのですが、“師匠”と“弟子”というような関係を持つことができた人たちばかりなのです。講演会や本などで出会った人たちとの関わりは一方的です。つまり、その人をどのように理解し、解釈することも可能だということです。そして相手は、“あなたの理解は間違っているよ”とは言いません。つまり、そのような人たちから得られるのは“自分以外の事に関する情報”だけであって、“あなた自身に関する情報”を得ることはできないのです。それに対して、師弟関係をむすんでしまうと、褒められることより、叱られたり、直されることの方が多くなります。(私の体験ではですけど・・・)できているつもりでいい気になっていても“バサッ”切られてしまいます。なぜなら、師匠は弟子の成長に責任を持とうとするからです。ですから、“あなたが知らないあなた自身に関する情報”をあなたに突きつけます。例えば、お茶の稽古の時も(井上京子先生に宗編流を学びました)、自分では“格好いい”と思ってお椀を置いても、即座に“引く手が汚い”と声が飛んできます。“出す手”は意識できますが、“引く手”は無意識になってしまうのです。その無意識になっている部分は先生に見てもらわないことには自分で知ることは不可能です。でも、そのことに気付かない限り“独りよがり”の練習しかできないのです。中川先生に太極拳を学んでいる時はもっと悲惨でした。基本的に“だめだ!”というばかりで説明してくれないのですから。でも、だから一生懸命考えました。同じ動きなのに、ある時は“ちゃんと止めろ”と言い、別の時には“止めるな”と言われます。そんな矛盾したこともよく言われました。でも、基本的に質問も反論もできません。ただ、自分でやって見せてはくれますが、質問しても“自分で考えろ”と言われるばかりです。でも、その時は先生の言っていることが全く理解できなくても、一生懸命考えながら工夫して練習していると、“パッ”と分かる時が来るのです。そして、ちゃんと止めながら止めない動きができるようになります。すると、先生はそれを見て“よし”と言うだけです。そんなことがいっぱいありました。そのときにもらった宿題がまだいっぱい残っています。ちなみにシュタイナー教育の先生もあまり教えないようです。シュタイナー教育でも生徒と先生の関係が、ただ知識を教えるだけの関係ではなく、弟子と師匠という関係に近いのかも知れません。でも、普通の講座などでこのような教え方をしたら生徒は集まらないでしょうね。実際、カルチャーで太極拳の先生をやっている友人も“丁寧に説明しないと生徒はやめてしまう”と言っていました。造形教室でも、他の教室でもみんな教えてもらうために月謝を払ってやってきます。そして、生徒はお客さんです。みんな“教えてもらって当たり前”という感覚でいます。でも、絵画などは本質的に教えることはできません。(工作は教えられます)デッサンは技術ですから教えられますが、心に属する表現の部分は教えることができないのです。それを教えてしまっては、逆に“その子らしい表現”をつぶすことになってしまいます。(お母さん達は上手に見える絵が描けるようになれば喜びますけど・・・)とくに子どもの絵画の場合は教えることができません。(ただし、大人は表現も技術として学ぶことができます。)昔は、絵画なども師弟関係の中で厳しい修行を通して学んだものですが、今ではそんな風にして絵画を学ぶ子はいません。それは絵画だけでなく、以前は師弟関係の中でしか学ぶことができなかったことまで全てがカルチャーのような形か、一時的な講演会やワークショップのような形で学ぶようになってしまっています。でも、師弟関係の中で伝えられることと、金銭関係によって学ぶことには大きな違いがあるのです。それは、師弟関係の間では師匠は“自らの生き方”を通して茶道でも、絵画でも、武術でも伝えようとするのに対して、一般的な講座ではただ情報を提供するに過ぎないということです。(昔は学問もそのように伝えられたのです。だから子どもたちは血の通った学問を学ぶことができました。いまでは全ての学びが“生き方”と切り離されて、ただの“情報”に還元されてしまっています。)もっとも、あなたが求めているものがただの“情報”で構わないのならそれでもOKですが、どんなに情報をいっぱい集めても、あなたの生きる力にはなりませんから、そこの所は理解しておいた方がよいでしょう。
2006.01.06
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昨日「みけ猫」さんが、コメントに他のメルマガにも同じような話がでていました。シンクロかなぁ???と、書き込んでくださいましたが、このような事に気付く人は多いのだろうと思います。実際、このような考え方は昔からあります。私自身、現在の自分を振り返ってみて、“この人がいたから今の自分があるのだ”としか思えない人が何人もいます。その時には分からないのですが、数年、数十年経つとその人との出会いが私の人生にとっていかに大切だったのかが分かるのです。私の場合は友人の影響というより、先生や様々な学びの師匠の影響を強く受けています。一番最初に大きな影響を与えてくれたのは小学校3年生の時の担任の先生です。私は、生まれてから年中まで鎌倉にいたのですが、年長から小2までは東京の葛飾にいました。そして、小3にまた鎌倉のもとの家に戻ったのですが、学校を転校したため友人がいませんでした。そのため、私は毎日休み時間の多くを図書室で過ごしました。私はもともとシャイな性格なので(今でも)あんまり友達作りには熱心ではなかったのです。それで、毎日“児童文学”と言われるものに浸りきっていたのですが、ある時図書委員の人が教室に来て“本が一冊戻っていない”というのです。私は確かに返したので、“返しました”と答えたのですが、相手が信用しません。そして、“取ったんじゃないか”とまで言うのです。その時、その担任の先生が“この子はそんなことする子じゃありません”ときっぱり言ってくれたのです。それで、その図書委員は帰っていきました。私の学校の先生の記憶はここから始まっています。小1、小2の時の先生の記憶は全くありません。この先生はもうお亡くなりになりましたが、私は一生を通してこの先生の信頼に応えていかなければならないという想いを持っています。次に私に大きな影響を与えてくれた先生は大学の時の井上先生(故人)です。人間学と宗教学の先生で、学びの面でも遊びの面でも非常に多くの出会いを私に与えてくれました。「禅キ懇」という禅宗(仏教)の人とキリスト教の人たちが交流する会があったのですが、その会の合宿に連れて行って頂いたりもしました。ちなみに、その会のメンバーは当時(30年前)NHKテレビの「宗教の時間」にいつもでていたような有名な先生ばかりでした。(いつも甚平を着ていた押田成人神父がものすごく面白かったです。お終いにネットにでていた押田先生の紹介文を載せておきます。ちなみに有名な無着成恭先生もメンバーでした。)あとは、若い頃から油絵をやっていて、その油絵を学んだ里美勝蔵先生も私に非常に大きな影響を与えてくれました。(「二人の野獣-里美勝蔵と三岸好太郎」というHPに彼の紹介がでています。)鎌倉山のご自宅にお伺いしていた頃は、もうかなりお年を召していられましたがまだまだ元気で毎日制作に励んでおられました。夏に行くと、なぜだかアトリエの中で裸になっていて、“ここは裸族の部屋だ、お前も裸になれ”などと言われ、裸にさせられたりもしました。私がスペインに行くことになったのも里美先生の影響からです。あと、宗教などの学びに関しては紀野一義先生から非常に大きな影響を受けました。若い頃は追っかけのようにして彼の講演会を回っていました。他には、太極拳を学んだ中川二十三生先生、人生の知恵を学んだ鈴木豊寿先生、友人の三上賀世(舞踏家、野口体操を学びました)、小川安夫(故人・“数寄屋橋のお地蔵さん”などと呼ばれていました)、などブログには書ききれないほどの人たちの影響を受けて今の私が存在しています。それともちろん家内の影響も大きいです。実際にはもっともっと数えきれない数の人たちと出会っているのですが、“今の私に強く影響を与えている人”というフィルターで思い返してみると、かなり数が制限されてきます。そして、その先生や友人達の中に今の私につながる一つの流れを見いだすことができます。私は、お母さん達のワークで子どもの頃のことを想い出してもらいます。でも、人間の記憶って面白いですよね。30年間生きていれば30年分の体験があり、30年分の連続した記憶があってもおかしくないのに、想い出せる記憶はいつでも“点”なんです。お父さんと夕焼け空の下を手をつないで歩いたことととか、お母さんが台所に立っている姿であったり、レンゲ畑で花摘みをした時のことであったり、その時のその瞬間のことだけが、パッと想い出されるのです。私が不思議なのは、“どうしてその瞬間が選ばれて残っているのか”ということなんです。特別な出来事が心に残っているのは分かります。でも、さりげない日常の一こま、そのシーンだけが残っているのはどうしてなんでしょうか。上に紹介した人たちも同じです。思い返すと、この人達の顔がパーッと浮かんでくるのです。“なぜ、この人達が私の心に選ばれたのか”、それが不思議なんです。あなたも、子どもの頃からのことを想い出してみてください。覚えている出来事、シーン、そして人たち。そして、なぜあなたの心がその出来事、シーン、人たちの記憶を大切に保存しているのか考えてみてください。そのあなたの記憶の中に、“あなたの人生を特徴づける何か”を見いだすことができると思います。補足)昔の人ですが、宮沢賢治、ゴッホ(画家)、良寛さん、アッシジのフランチェスコ、などからも影響を受けています。もちろん、イエス・キリスト、お釈迦様からも大きな影響を受けています。<押田成人神父>昨年11月6日に帰天された押田神父は、信濃境で四十数年間、農耕をしながら闘病、貧しき者の友として、庵る生活をしておりました。この地の古代からの水と土をこよなく愛し、ひたすら人々の声を聴きながら、抗し難い御声に導かれ一切を捨て、時を計らず、金銭も苦しみも断ち、単純に御手にゆだねる行の道行きでした。無一物の行でした。志を同じくする者が集い、高森草庵が生まれました。世界中から、宗派を問わず、大いなる方の呼びかけにゆだねる者が集うようになりました。田圃での農作業と沈黙と座りを通して、御手の働きと存在の深みとの出会いの行を求めてです。押田神父は生前、「キリストに出会った仏教徒」と言っておりました。 平和運動、環境問題にかかわり、ユダヤ-キリスト教伝承と仏教の伝承の深みで生きることに努めておりました。御手の働きへ自我を捨ててゆだねることに徹する普遍的な地下水を掘り当てるような観想の営みです。両手をポケットに口笛を吹いて、飄々と歩む生き方。それはこれからも継承されていきます。
2006.01.05
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今日は、朝から家内の実家に行ってしまうので、早めに、そして手短に書いておきます。“人は何のために生きているのか”、“人は何のために生まれてくるのか”、“自分に与えられた課題は何なのか”ということを一生懸命に見つけようとしている人がいます。そんなこと気にしないで生きるのもまた一つの生き方で、それはそれでOKです。でも、このことに答えを見つけることができないために先に進むことができない人たちもいます。今日はそんな人たちのために“宝探し”のヒントを差し上げます。今までの数十年の人生を振り返ってみて、今の自分に強い影響を与えた人を探してみてください。母親かも知れません、教師や友人かも知れません。もしかしたら、本で読んだ昔の人かも知れません。必ずいるはずです。なぜなら、人は人の影響を受けることで人になるのですから。良い影響を与えてくれた人もいれば、あなたに苦しみをもたらした人もいるかも知れません。自分をいじめた人、自分を救ってくれた人、自分を愛してくれた人、自分が愛した人、色んな人がいたはずです。その人達の全てがあなたにとっての“キーパーソン”です。つまり、この人生にあなたが生まれてきた意味を教えてくれる役割を担った“鍵”です。その全ての人があなたの“師匠”です。その人達と出会うことで、あなたはそれ以前には知らなかった“何か”と出会えたはずです。つまり、その人達はあなたに新しい道を教えるための鍵(キー)だったのです。もしかしたらそれは“苦しみの扉”をあける鍵だったかもしれません。でも、その鍵はあなたのために用意されたものなんです。すべてはあなたのために用意されているのです。さあ、思い返してください。あなたはいままでどんな人と出会い、どんな扉を開いてきましたか。その連なりの向こうにあなたの歩むべき道が見えるはずです。補足)もうちょっとヒント。伝える/聞く/行動する/考える/育てる/愛するこの言葉の中で自分の心に響く言葉はどれですか。(複数選択可)
2006.01.04
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皆さんは、“過去・現在・未来のうちで変えることができるのはどれだと思いますか”と聞かれたらどのように答えますか。普通は“未来”でしょうかね。実際“未来を変えよう”的なフレーズは時々見かけますから。“現在”は“変える”とはあまり言わないかも知れません。そして、“過去は変えられない”ということになるのでしょう。まあ、常識的に考えても、タイムマシンにでも乗って過去に行かない限り、過去は変えられないですよね。(あまり常識的な考え方ではないか・・・)でも、人の心や生き方にもっとも強く影響を与えているのは間違いなく“過去”ですよね。“過去の記憶”が、“現在”のあなたの考え方や生き方を決めているのですから。ということは、その過去が変えられないとしたら、“現在”を変えるのもなかなか難しいですよね。川の流れを、ある地点で急に変えるようなものですから。せいぜい、小石を投げ込んでさざ波を起こす程度のことしかできません。そんなレベルでは当然“未来”が大きく変わることは期待できません。でも、皆さんが勘違いしていることがいくつかあります。“未来を変える”といいますが、未来は変えられません。存在していないものを変えることはできないのです。ただ、“現在の流れの延長に予想される未来”が、現在の流れを変えることで変わってしまうことはあります。でも、それは“未来を変えた”のではなく、“現在を変えた結果未来も変わってしまった”だけのことです。(でも、そのことが確認できるのは、その“未来”が“過去”になった時点です。つまり、結局変わったのは“過去”ということになります。)でも、“現在”は“過去”からの流れの延長に存在しているのでそう簡単に変えることはできません。だからこそ、“子どもを愛してください”と言われても、“はい、そうですか”という訳にはいかないのです。あなたが子どもの顔を見ると笑ってしまうのも、イライラしてしまうのも、子どもと楽しく遊べるのも、遊べないのもそこには過去からの必然があるのです。それを無視して、理想的な子育て論を押しつけられても、お母さん達は苦しむばかりです。実際問題として、今現在の状況を肯定して、それにプラスα程度の変化を加える程度のことはできますが、今の状況を否定されてしまったら何にもできません。そして、ほとんどの場合お母さん達はその“プラスα”で頑張っています。色々な講座に出たり、色々な本を読んだりして、“今の自分でもできること”を探しています。でももし、“過去”を変えることができたら、もっと話は早いかも知れません。“えー、そんなこと無理でしょ”とお思いでしょうね。私は先ほど、“存在していない未来を変えることはできません”と書きました。では、“過去”は存在しているのでしょうか、存在していないのでしょうか。物理的には“過去”はどこにも存在していません。“過去の結果の現在”があるばかりです。では、私達が“過去の話しをする時の過去”、“私達を縛っている過去”はどこにあるのでしょうか。それは“心の中”にあります。あなたを縛っている過去は“あなたの心の中”にしか存在していないのです。なぜなら、あなたの心の中にあるものしか、あなたを縛ることはできないからです。(人は学校や規則に縛られるのではありません。学校や規則を意識している自分の心に縛られているのです。)でも、これってラッキーですよね。“過去”がどこか遠くにあったら手が出せませんが、自分の中にあるんですから、もしかしたら何とかできるかもしれません。でも、いくら“心の中にある過去”だといっても、当然変えることができない過去もあります。例えば、“お母さんのおでこにホクロがあった”とか、“兄弟は3人だった”とか、“家は二階建てだった”などという客観的な事実は変えられません。それを変えるためにはタイムマシンが必要です。でも、“あなたの今”を支配している過去はそのような“客観的な事実”ではないですよね。“お母さんのおでこにホクロがあって恥ずかしかった”とか、“兄弟が三人で私は真ん中でいつも相手にされなくて淋しかった”とか、“家が二階建てで階段でよく遊んだ”などというような、その“客観的な事実にまつわる感情の記憶”が今のあなたに影響を与えているのでしょう。(他にも、お母さんに愛されなくて辛かった、成績が悪くて恥ずかしかった、人に裏切られて苦しかった、病気をして苦しかったなどというようなこともあるでしょうね。)まず、それを確認してみて下さい。つまり、“あなたを縛っている過去”とは客観的な事実ではないということです。“事実にまつわる想い”があなたにとっての過去なのです。よかったですね。客観的事実なら変えられませんが、これらはあなたの感情ですから、あなたに変えることが可能かも知れません。まず、自分が囚われている過去の記憶を整理してみて下さい。そして、その記憶と今の自分の状態、感情とのつながりを確認してみて下さい。“お母さんのホクロが恥ずかしかった”、この感情が今の自分にどのように影響しているのかを客観的に検証してみるのです。心の中の過去を変えると言うことは、過去と現在のつながりを変えるということに他なりません。“辛かった”のに“辛くなかった”と変えてしまうことではありません。その“辛かった”ことが、今の自分とどのようにつながっているのか、という“配線”を変えてしまうのです。ですから、一度その配線状態をしっかりと確認しておく必要があります。多分、長い年月でその配線はこんがらがってしまっていて、そう簡単にほぐせないかも知れません。でも、その原因となった出来事の時点から心の中で自分の育ちをさかのぼって、その最初の感情が今の自分の感情、行動、感覚、考え方とどのようにつながっているのかを静かに“内省”(内観)してみるのです。それが見えてきたら、次にやることは“なりたい自分”をイメージすることです。そして、“私は私の主人だ。私の意志は私を変えることができる。私は記憶の奴隷にはならない。”と念じます。そして、配線の付け替えをします。“苦しかったから○○ができない”とつながっていた回路を、“苦しかったから○○をしたい”という風に配線を変えていくのです。よく、感情そのものを変えようとしてしまう人がいます。“好きになろうと努力したんだけどできなかった”とか、“理解しようと努力したんだけど”というようにです。でも、それはできません。それに、そんなことする必要はないのです。その感情を肯定してあげていいのです。ただ、その感情と現在のあなたとの関係を変えてしまえばいいのです。この作業はあなたの過去を変えてしまうでしょう。“○○だから嫌い”だったことが、“○○だから感謝している”という風にです。是非、自分が楽しく、生き生きとするように配線をつなげて下さいね。あなたにはそれができるのです。だって、あなたはあなたの主人公なんですから。決して、記憶の奴隷になんてならないで下さいね。
2006.01.03
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お正月も二日目ですね。これで気付いたらあっという間に3月になって新学期が始まるのでしょうね。我が家では3番目が今年中学生になります。でも、身長が学年で前から2番目という可愛いサイズなので、お姉ちゃんのお下がりが使えません。それより、小学4年生くらいにしか見えない子が、中学の制服を着て中学に通っている姿が想像できません。でも、これもあっという間に想い出になってしまうのでしょうね。我が家には4人子どもがいて、上から大学1年(女)、高校2年(男)、小六(女)、小2(男)という順になっているのですが、もう上の二人はお正月も家族とはほとんど別行動です。長男は年末から三日間、寒川神社のアルバイトです。(大晦日は徹夜です。)長女はお正月の朝までは一緒でしたが、お昼から友達と出かけました。私にまとわりついて、離れなかった頃がうそのようです。長女は大学4年になったら一年イタリアに留学するという目標ができたようです。(大学の単位として認められるらしいです。)長男は来年受験ですが、彼は早く家を出たくて、もう綿密な計画を立てています。つまり、下宿しなければ通えない大学をわざと選んでいるのです。彼は自分で計画を立てて、ちゃんと実行してしまう几帳面さと、能力と、自信があるので親の言うことはあまり聞きません。まあ、上の二人の子育ては終わりましたが(資金援助だけ残っていますけど)、まだ下の二人がまとわりついてきてくれるので、楽しく遊んでいます。でも、下の二人も飛び立ってしまったら今は騒々しい限りの我が家でもシーンとしてしまうのでしょうね。初めてのお子さんがまだ小学生くらいの方は、まだ実感がないかも知れませんが、時の過ぎるのはあっという間ですよ。時々、下のチビ達が古いアルバムを出してきて、お兄ちゃん、お姉ちゃん達の子どもの時の写真を見て面白がっていますが、あっという間にこの遊びも“想い出”になってしまうのです。そんなことを色々と考えていると、時々“私は今、子どもたちの過去にいるんだな”と強く感じるのです。そして、“子育ては子どもの過去を作ること”なんだなと思うのです。一般的には子育てや教育の役割は“子どもの未来を育てる”と表現されているのではないかと思います。でも、へそ曲がりの私は“過去を作る”という言い方にこだわるのです。それは、幼児期や子ども時代の育ちがあまりにもその人の一生に大きな影響を与えているからなのです。実際、75~85年という長い人生の中で、たったの10年くらいの子どもの時の出来事が、その人の一生に非常に大きな影響を与えています。なぜなら、その10年の間に、“人間としての基礎”が形成されてしまうからなのです。そして、その基礎の上に人は自分の人生を築いていきます。子育てもその基礎の上になされます。そして、母親は子育てを通して、幼かった自分自身と出会うのです。つまり、自分の過去と出会うのです。私は、仕事柄お母さん達の子育ての相談をいっぱい受けています。すると、“子どもが他の子とよく喧嘩する”“子どもが、他の子と遊ばない”“子どもが言うことを聞かない”“子どものかんしゃくがひどい”“子どもが勉強しない”“子どもがすぐ泣く”などなど子どもの様々な状態をあげて“どうしたらいいんでしょうか”と聞いてきます。でも、それだけでは状況がよく見えないので色々と質問をしていきます。“喧嘩をする時の具体的な状況を話して下さい”“他の子と遊んでいない時子どもは淋しそうですか”“子どもに言うことを聞かせたい事ってなんですか”“どんなときに、どんなふうにかんしゃくを起こすのですか”“勉強しないで何をしていますか”“どんな時に泣きますか”などなどです。そして、“その子どもの行為に対してお母さんはどのように対応していますか”ということを聞きます。さらに、“お子さんのそのような行為に対して、どんな感情を持っていますか”ということも聞きます。たとえば、“お子さんが泣いている時、自分の中にどんな感情が引き起こされるのですか”というようなことを聞くわけです。そして、“どうしてそう感じる(思う)のですか”と聞きます。たいていの場合、そう聞かれると“だって当たり前じゃないですか”という答えが返ってきますが、さらに“どうして当たり前だと思うのですか”と聞いていくと、多くの場合自然と話しが自分の子ども時代の話しになってきます。そして、自分自身が親や周囲からそのように言われ続けてきたとを話してくれます。そこで、“それはあなた自身の価値観なんですか、それともあなたのお母さんの価値観なんですか?”と聞いていきます。すると、面白いことに“うちの子がこんなにひどいんです”という所から話しが始まったのに、自分の子ども時代を想い出すと、“自分の子どもの頃とよく似ていた”というようなことに気付くこともよくあるのです。でも、そういう話しをいっぱい聞いていると、教室でも、私自身の子育てでも、“私は今、この子達の過去に立ち会っているんだな”ということを深く感じるのです。<続く>
2006.01.02
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今日は元旦でアクセス数も減っているようなので、臨時休業します。ごめんなさい。ちなみに年賀状はhttp://www.geocities.jp/nenemu2001/nenga/nenga.htmです。
2006.01.01
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