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「心」が「今」「ここ」としっかりとつながるためには、「心」や「感情」が、自分の意思の働きの結果としての「からだの動き」や「からだの感覚」などとしっかりとつながる体験が必要になります。「からだ」は常に「今」「ここ」に生きているので、その「からだ」に意識を向けることで、「心」も「今」「ここ」に戻ってくることが出来るのです。子どもたちは、走り回ったり、高い所に登ったり、遊具で遊ぶようなハラハラ、ドキドキ、ワクワクする遊びが大好きですが、そのような遊びも、成長期の子どもたちの「心」と「からだ」をしっかりとつなげる働きをしています。ただし、ゲームをやったり映画を見ている時に感じるようなハラハラ、ドキドキは、主に「脳の興奮」によるものなので、からだとの結びつきを育てる助けにはなりません。そのため、「心」を「今」「ここ」とつながる助けにはなりません。むしろ、「今」「ここ」から逃避する手段として使われているくらいです。もちろん、現代人もからだを使って生活をしています。でも、でも実際には、「からだの感覚」に従ってではなく、「脳の判断」に従ってからだを動かしているだけなので、からだが存在している「今」「ここ」と出会う手助けにはなっていません。そしてだから、「心」も「からだ」も苦しくなってしまっているのです。そのような状態から抜け出すためには、大人も「からだの感覚」に従った活動や遊びをすればいいのですが、実際にはどうしたらいいのかがよく分かりません。また、太極拳やダンスや茶道などを習いに行っても、「上手にできているか」とか「いかに形を覚えるか」ということばかりが気になってしまって、「からだの感覚」に意識を向けるところまでは行きません。そのため、「からだ」と出会うことも出来ません。ということで、中途半端ですが、続きにさせて頂きます。*************今朝、ニュースを見ていたら以下のような記事が目に留まりました。以下は抜粋です。朝日新聞デジタル昨日か一昨日は、「鬱が増えてきている」という記事も読みました。でも、からだに意識を向けることで、その状態を変えることが出来るのです。 新たに不登校となる小中学生が増えている。比較できる文部科学省の調査を元に朝日新聞が分析すると、1993年度の約3万3千人に対し、2014年度は約6万5千人だった。全小中学生に占める割合は過去最高で、専門家は、従来の「不登校後」に加え、未然に防ぐ支援の必要性を訴えている。
2016.01.31
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昨日は、過去の呪縛にとらわれている人は、投げられたボールが途中からコースを変えることが出来ないように、ただそのまま飛んでいくだけです。 でも、「自分の未来は自分が作るのだ」と自覚し、様々な学びをし、自分の意思で行動しようとする人は、鳥のように、自分の意思で自分の進む方向を決めることが出来るようになります。と書きましたが、その時に重要になるのが「感覚に意識を向ける」ということなんです。人は、「感覚」に意識を向けることで、心が「今」、「ここ」に戻ってくるからです。逆に言うと、「過去」に縛られている人は心が「今」「ここ」にないため、「からだ」の機能としては見えいても、「心」には見えないのです。同じように、聞こえても聞こえず、感じていても感じず、という状態になります。幼児虐待をしている人も、子どもが目の前で泣いているとか、苦しんでいるという状態は、視覚的には見えているのですが、「心」が過去や、別のどこかに行ってしまっているので、「心」には何にも感じることがないのです。「やめたい」と思っていても、子どもを怒鳴ったり、叱ったり、叩いたり、けなしたり、追い立てたりしてしまう人も同じです。そのような人も、「心」が「今」「ここ」にないのです。そしてだから、自分を抑えることが出来ないのです。そのような状態の人はいくら自分を責めても無駄です。かえって逆効果にしかなりません。じゃあ、どうしたらいいのかと言うと、意識的に「感覚」に意識を向けるようにするのです。ただ「見えた」ではなく、見えることで「心」は何を感じたのか、「からだ」は何を感じたのかを自分自身に問いかけるのです。からだのワークで「自分のからだを感じてみよう」ということをすると、「自分のからだ」を感じることが出来ない人が時々います。横になって目を閉じて、「自分の足を感じてみて下さい」と言うと、「足がありません」と言う人も、さらには「首から下がありません」という人までいました。身体機能的な感覚には異常がなくても、自分で自分を感じようとする時にはそういうことが起きるのです。いつも頭で考えてばかりいて、「感じる」ということを大切にしていない人は、そのような状態になりやすいです。それでも日常生活的にはなんら問題なく生活することは出来ます。でも、自分で自分を感じることが出来ないのですから、自分で自分をコントロールすることは出来ません。自分の欲望や衝動を抑えることも出来ません。そして、これは子どもたちでも同じです。小手先だけで遊ぶおもちゃや、カードでばかり遊んでいて、「からだを使った遊び」をしなかったり、バーチャルな空間の中だけで遊んでいると、「意識」と自分自身の「心」や「からだ」との対話回路が育たなくなり、自分の欲望や衝動を抑える能力が育たなくなってしまうのです。そのように育った子は「今」「ここ」を感じる能力が育たなくなってしまうのです。そのため、大人になっても苦しみから抜け出しにくくなってしまいます。
2016.01.30
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昨日は、じゃあ、一流大学に合格したり、一流会社に就職すれば、「失われた子ども時代」「子どもの時に体験すべきこと」「子どもの時に学ぶべきこと」「子どもの時に育てるべきこと」を取り戻すことが出来るのかというと、当然のことながら、そんなことは出来ません。 「失われたもの」はいつまでも失われたままなのです。と書いたので、絶望を感じた方もいらっしゃるかもしれませんが、だからといって救いがないわけではありません。「過去」を取り戻すことは出来ませんが、「過去」に束縛されない「新しい未来」を創ることは今からでも可能だからです。なぜなら、「未来」を作っているのは「過去」ではなく、「現在」だからです。だからこそ、自覚と、学びと、自分の意思に基づく行動で、「新しい未来」を創り出すことが出来るのです。ただし、過去にこだわっていたら、いつまでたっても過去の呪縛から抜け出すことは出来ません。過去の呪縛にとらわれている人は、投げられたボールが途中からコースを変えることが出来ないように、ただそのまま飛んでいくだけです。でも、「自分の未来は自分が作るのだ」と自覚し、様々な学びをし、自分の意思で行動しようとする人は、鳥のように、自分の意思で自分の進む方向を決めることが出来るようになります。皆さんは、「ボール」のように「投げた人の意思」のままに最後まで飛んでいくのと、「鳥」のように自分の意思で自由に飛んでいくのとどちらがいいですか。そして、人間はどちらも選ぶことが出来るのです。ですから、「過去」は人のせいにすることが出来ますが、「未来」は人のせいには出来ないのです。また、現代の状況に嫌気がさしても、「他の人に合わせないことには子どもの友達も、自分の仲間も出来ないから」といって、苦しみながらも社会の流れに合わせている人も、他に出来ないことがないわけではありません。そういう状況の中でもいっぱい出来ることはあるからです。先日は大阪の方で「自然と触れ合う」というようなテーマの遊びをしてきたのですが、その際、何人かのおお母さんが、「うちの周りにはあまり自然がないので、なかなかこんな遊びは出来ません」とおっしゃっていました。確かに、都会の中ではなかなか「自然」を感じる機会は少ないかも知れません。でも、「自然」がないわけではありません。単に、都会の中では、意識が「自然」ではなく「人工物」の方に向きやすくなってしまっているだけです。そして、公園のように「管理された自然」は肯定されていますが、水たまりや、ドロンコや、落ち葉のように「管理されていない自然」は否定されています。だから、都会の中では子どもたちも否定されてしまうのです。子どもは、「管理」を拒否する「意志を持った自然」だからです。でも、よく見てみると都会の中にも自然はいっぱいあるのです。なぜなら、人間がどんなに人工的で、巨大な都市を作っても、それはさらに大きな「自然」の中に存在しているからです。毎日の天気だって、「自然」の働きの結果です。この地球も、宇宙も、そして人間も、「自然」そのものなので、この地球上には「自然がない」という環境は存在していないのです。「人工のもの」ばかりに意識が向いてしまっているから、「自然」が見えなくなってしまっているだけのことです。実際、私たちはちょっと意識を変えるだけで、どこにいても「自然」を感じることは出来るのです。音に意識を向ける、光や風に意識を向ける、色に意識を向ける、動きに意識を向ける、動くもの、動かないものに意識を向ける。見える世界と見えない世界に意識を向ける。自分のからだの中で起きていることに意識を向ける。子どもの中の自然に意識を向ける。空を見上げる、足元を見る。「昔話」のような「昔から語り継がれてきた物語」には、そのような世界に気づくための入り口がいっぱい隠されています。また、「造形」のような行為を通して自然と触れることも出来ます。「絵本」や「物語」の中で仲間と出会うことも出来ます。それに、「ゲームがないから友達が出来ない」というのは、大体4年生、5年生ぐらいまでに過ぎません。その頃から子どもたちの意識が変わり始めるので、バーチャルな世界の中ではなく、この現実の世界の中で実際に何かが出来る子がみんなの注目を集め始めるのです。そして、そのような子の周りに仲間が集まり始めます。
2016.01.29
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現代社会は、「子どもの成長」とか「生命の働き」という視点から見たら、全くおかしなことになってしまっています。幼稚園時代は小学校の準備期間と考えられ、小学校は中学校の、中学校は高校の、高校は大学の、大学は就職の準備期間として考えられています。幼稚園受験をする子は、2,3才頃から、下手をすると生まれた直後から、子どもには全く理解も想像も出来ない未来のために、「今やりたいこと」や「命の働きによる自然な欲求」を否定されて生活しています。じゃあ、一流大学に合格したり、一流会社に就職すれば、「失われた子ども時代」「子どもの時に体験すべきこと」「子どもの時に学ぶべきこと」「子どもの時に育てるべきこと」を取り戻すことが出来るのかというと、当然のことながら、そんなことは出来ません。「失われたもの」はいつまでも失われたままなのです。そのため、そのように大人になった人には「自分の意思で自分を生きる能力」がありません。「自分」を育てる機会も、時間も、場も、またそれを支えてくれる人もいない状態で育ってしまったからです。小さい時から、「大人の都合」や「大人の価値観」ばかりを押し付けられ、「自分らしさ」を否定され続けてきたので、自分を肯定し、他者を肯定し、世界を肯定することも出来ません。当然、我が子のことも肯定することが出来ません。そして、学校の言いなりになったり、周囲の目を気にした子育てをするようになります。さらに問題は、そのような状態になってしまっているお母さんたちは、「被害者」であって、自分は全く悪くないのに、自分で自分を責めて苦しんでいます。でも、どうしていいのか分かりません。自分で自分を責めても、「失われたもの」が戻ってくるわけではないからです。確かに、そのような社会や子育てのあり方に対して違和感を感じ、「私は私」という生き方をしたいと思っているお母さんもいっぱいいます。でも、その流れに乗らないと、子どもも自分も仲間づくりをすることが出来なくなってしまうので、ある程度の所で妥協せざるおえません。また、学校も周囲も、お母さんが「子どもの子どもらしさ」を守ろうとすることを、「お母さんのワガママ」だとか、「お母さんの価値観の押し付け」だとか、「現実を見ていない」とか、「甘やかしだ」と言って否定してきます。ある人が、子どもにテレビを見せないようにしていたら、周囲から「それは虐待だよ」と言われたそうです。同じようなことを、祖父母から言われた人もいます。公園などで我が子が、裸足になって、ドロンコで遊んでいると、「近くに寄らないように」、「一緒に遊ばないように」と子どもに言いつけているお母さんもいると聞きます。実際に、はっきりと「うちの子が真似をすると困るのでやめさせて下さい」と言われたお母さんもいます。理由は幼稚園受験にさしさわりがあるからだそうです。子どもが子どもらしいことをして遊んでいると、子どもはすぐに真似をし始めます。「お母さんがやらせたいこと」は真似しないのに、「困ったこと」はすぐに真似をするのです。それは、そのような遊びが「子どもの本能」に響くからに他なりません。それは、それが「子どもが求めている遊び」であり、「子どもの育ちに必要な遊び」であることの表れでもあるのですが、でも、「大人のミニチュア」のような「子ども」を求めている人にとっては、子どもの本能を刺激するような遊びは困るのです。では、子ども時代を失ったまま育ったお母さんや、周囲からの圧力に苦しんでいるお母さんはどうしたらいいのかということです。
2016.01.28
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「子育て」は個人のプライバシーに属するものだと考えている人も多いですが、同時にまた、社会全体、さらには人類全体に属するものでもあります。なぜなら、人類は「子育て」を通して、生命を伝え、知性を伝え、文化や文明を伝えて来たからです。これは、人類発生以来一度も途切れることなく、続けられてきた営みです。ですから、たとえ勉強を教えてくれる「学校」があっても、「子育」てが失われてしまったら、生命はもちろんのこと、文化も文明も途絶えてしまうのです。逆に、「学校」などなくても「子育て」さえしっかりとしているのなら、社会も、文化も文明もちゃんと受け継がれていくのです。実際、人類はそうやってつい最近までやって来たのですから。「子育て」が狂ってしまったら「人類の未来」も狂ってしまうのです。でも、私たちにはそんな自覚はありません。そして、そんなことを考えなくても、ちゃんと子育てを通して生命や、文化や文明を伝えることが出来てきました。本当はそれでいいのだと思います。でも、政治や経済の力が強くなって、「家族」とか「子育て」という分野まで破壊し始めた現代社会では、もう一度はっきりと「子育ての意味と役割」を考え直した方がいいのではないかと思います。「生命」という視点からその重要性を論じたら、明らかに、「政治」や「経済」よりも、「家族」とか「子育て」の方が重要なんですから。「政治」や「経済」が未来を創るのではなく、「家族」や「子育て」のあり方が未来を創るのです。だからこそ、「政治」や「経済」には、「家族」や「子育て」を支える義務があるのです。それなのに、現代社会では逆に、「家族」や「子育て」の方が、「政治や経済を支えるためのもの」として利用されるようになってしまいました。だからおかしなことになってしまっているのです。「お父さん」が「お金を稼いで来るだけの人」になってしまっている家族はいっぱいあります。そのようなお父さんは、「会社」の一員であっても、「家族」の一員ではないのです。「お母さんと子どもたちで構成された家族」のためのATMのようなものです。子どもはゲーム機を持っていないと仲間を作ることが出来なくなってしまいました。お母さんも、他の大人も、メールや、FBや、LINEをやっていないと仲間を作ることも、そのつながりを維持することも出来なくなってしまいました。手やからだを使って遊ぶことよりも、お金を出して遊ぶことの方が一般的になり、手やからだを使って遊ぶ遊びは絶滅しかかっています。「子育て」も、「我が子のことを知っている身近な人」ではなく、ネット上の「匿名の人」に教えてもらうようになりました。でも、その「匿名の人」は手助けはしてくれません。また、その言葉に責任も持ってくれません。それと同時に、人と人との「心のつながり」も希薄になってきました。そのような生活をしている人が、子どもが産まれたからといって、いきなり、子どもとの間に強いつながりを必要とする子育てが出来るわけがないのです。大人と大人の付き合いならば、メールや、FBや、LINEでも出来ますが、そんなもので子育ては100%出来ないのです。でも、「じゃあどうしたらいいのか」が全く分かりません。子どものことを愛してはいるのですが、どうしたらいいのかが分からないのです。そして、自分を責めます。
2016.01.27
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緑の鈴風さんから、以下のような質問を頂きました。(改行は私が勝手にしました)私は、娘としっかりとした信頼関係が築けているのか自信がありません。今でも時々、娘と向かい合うと緊張でドキドキします。下の子にはそういうのはありません。同じ私の子どもなのに、娘に悪くてかわいそうな気持ちになります。うまくいかないことがあると、娘が生まれて不安で過呼吸になった時のことやしっかり抱きしめてあげられなかったことを思い出してしまって。。。思い出して理由にしても仕方がないとわかっているのに。娘の体に触ると肩にすごく力が入っていて体も固く感じます。彼女を抱きしめながら私も緊張してしまいます。それでもいいのでしょうか?緑の鈴風さんだけでなく、このようなことで苦しんでいるお母さんは多いのではないかと思います。結論から言いますと、これは勘違いです。緑の鈴風さんが「お子さんの心」として感じているのは、実際の「お子さんの心」ではなく、緑の鈴風さん自身の心です。お子さんは、緑の鈴風さんの心を写しているだけに過ぎません。子どもはお母さんやお父さんの心やからだの状態に非常に敏感です。そして、無意識的にその状態に反応してしまいます。お母さんが緊張した状態で子どもに近づけば、子どもも緊張します。お母さんが無口になれば、子どもも無口になります。お母さんが笑わなければ、子どもも笑わなくなります。お母さんがイライラしていると、子どももイライラし始めます。それだけのことです。もしかしたら、緑の鈴風さんは、娘さんに「子どもの頃の自分」を感じているのかもしれません。娘さんを見ることで、「自分の子どもの頃の緊張や苦しさ」を思い出してしまうのかも知れません。娘さんは、その緑の鈴風さんの「子どもの頃の緊張や苦しみ」を感じて、同じように緊張し、苦しんでいるのだと思います。緑の鈴風さんが子どもの頃に感じた緊張や苦しみは、もしかしたら緑の鈴風さんのお母さんの緊張と苦しみだったのかも知れません。そしてそれはまた、緑の鈴風さんのお母さんのお母さんの緊張と苦しみだったのかも知れません。その連鎖を解くためには、緑の鈴風さんが自分にOKを出し、心とからだを緩め、自分を愛することをから始める必要があると思います。お母さんが緩めば、子どもも緩みます。お母さんが笑えば、子どもも笑います。お母さんが歌えば、子どもも歌います。お母さんが踊れば、子どもも踊ります。そうやって楽しい時間を共有しているうちに、愛情は自然に育っていくものです。もっと自由に生きて下さい。
2016.01.26
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昨日は、兵庫県一庫公園近辺も大寒波で、非常に寒かったですが晴天に恵まれ楽しく遊ぶことが出来ました。寒い中、大勢の方に参加していただき感謝しています。ということで、22日からの続きになります。**********************よく「子育ての方法が分からない」という人の話を聞きます。先日も、 東海地方に住むEさんは30代後半。 子育てのイメージなんて、何もないですよ。普通が分からない。親にほめられたこともないから、ほめ方も分からないし……。という記事をネットで見ました。(以下の記事からの抜粋です。)(Web新書 「虐待連鎖を断てるか、ある家族の物語 ほめ方も叱り方も分からない」)この人は、虐待された育ったことを理由に、「普通が分からない」「子育ての方法が分からない」と言っているのですが、実は、あからさまま虐待など受けていなくて一見普通の子育てを受けて育った人でも、「普通が分からない」「子育ての方法が分からない」という人はいっぱいいます。それで、色々と本を読んだり、講座に出たりして「子育て」を勉強しようとするのでしょうが、本を読んでも、子育て講座に出ても「我が子」のことは教えてくれません。また、学んだことをそのままやろうとしても、子どもは思い通りになど反応してくれません。みんな勘違いしているのです。なぜなら、「子育ての方法」など、どこにも存在していないからです。「食事の作り方」、「洗濯の仕方」、「掃除の仕方」、「仕事の仕方」というようなものは存在しています。実際、そのようなものはマニュアル化することも出来ます。ですからその延長で、「子どもの育て方」もあるのだろうと考えてしまうのでしょうが、それが「子育て」の落とし穴なんです。それは例えば、「道」のない野原を「道」を探して歩いているようなものです。そんなことをしていたら迷子になってしまって当然なんですが、そのような人は、「自分が迷子になってしまっているのは、道を見つけることが出来ないからだ」と思い込んで、さらに一生懸命に「道」を探そうとするのです。そして、「道」を探すことだけが子育ての目的になってしまい、肝心の「目の前にいる子ども」のことを忘れてしまいます。子どもはそんなお母さんを見て、「私はここだよ」と叫ぶのですが、「道」を探すことに一生懸命なお母さんにはその声は聞こえません。自分で「子育てに成功した」と感じた人が、人に「子育ての方法」を説くことがあります。そのような人が書いた本もいっぱい出ています。そのような人は、自分がたどってきた足跡を振り返って、それを「道」として「道」を探している人に提示しようとするのですが、人は一人一人みんな違う場所を歩いているので、成功した人がたどった道を探して歩こうとしても無駄なんです。そんなことをしたら迷子になるか、引き返せなくなって行き倒れてしまうだけです。「じゃあどうしたらいいのか」ということですが、まず、ありもしない「道」を探すことをやめることです。「道」は自分で創るものであって、探しても存在していないのです。じゃあ、どうやって「道」を創るのかと言うと、自分が行きたい(生きたい)方向を見つけ、歩き出すだけです。「行きたいところ」が見つかっていないのに、「道」を探しても意味がないのです。問題は、その「自分が行きたい方向」が分からないお母さんが多いということです。
2016.01.25
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昨日は、横浜の「Umiの家」というところで、「子育て」についてお話をさせて頂きました。その流れで、今日からしばらく「子育て」というテーマで書かせていただきます。ただ、明日、明後日と、兵庫県川西市で仕事なので、もしかしたらお休みさせていただきます。書けたとしてもスマホからなので、短くなります。ご了承ください。(寒波が来ているのと山の中なのですごく寒そうです。しっかり防寒対策をしなければ・・・)************幼い子どもの子育てで、一番大切なことは子どもとの間にしっかりとした「信頼関係」を育てることです。手を洗わせることでも、食事の時にはちゃんとお椅子に座らせることでも、大きな声を出さないようにすることでも、お勉強させることでも、ちゃんと片付けさせることでも、言いつけを守らせることでも、ケンカをしないようにさせることでもありません。そんなことは、みんな後からだってどうにでもなるのです。でも幼児期に、子どもを追い回すばかりで信頼関係を育てることが出来ないと、あとから信頼関係を築こうと思っても、非常に困難になります。それは、幼い子どもは100%お母さんを信じていますが、お母さんがその信頼に応えていないと、成長とともに次第にお母さんを信じなくなってしまうからです。そして、当然のことながら、自分を信じてくれない相手と信頼関係を育てるのは非常に困難なことになります。でも、多くの人が、「後からでも取り戻せること」ばかりに夢中になり、「今しかできないこと」を忘れてしまっています。それに、子どもが幼いうちは親の権力で子どもの行動を管理することが出来ますが、成長とともに、子どもは次第に親の目の届かないところで活動することが多くなります。そして、親との信頼関係が築けていない子ほど、親の目を盗んで行動するようになります。さらには、成長とともに自我も強くなるので、親の言うことも平気で無視するようになります。そして、親の目の届かないところで「困ったこと」を始めます。でも、親との信頼関係が築けている子は、幼児期には「困ったちゃん」でも、9才10才頃から急に落ち着いていきます。人は「信頼している人」の言葉には耳を傾けますが、「信頼していない人」の言葉になど耳を傾けないのです。だからこそ、幼児期には「仕付け」よりも「子どもとの信頼関係」を育てることの方を大切にすべきなんです。ただし、だからといって「仕付けなんかどうでもいい」ということではありません。本当の意味での「仕付け」は子どもの育ちにとって非常に大切なことです。でもそれは、「お母さんのため」のものではなく「子どものため」のものだということです。お母さんのメンツやプライドのために仕付けをするのではありません。社会の常識を教えるため、人に笑われないため、人に叱られないために仕付けをするのでもありません。お母さんの価値観で子どもを束縛することでもありません。子どもの育ちにとって一番大切な「仕付け」は、ちゃんと人の話を聞くことが出来るように育てることです。ここがすべての始まりです。そして、そのためには、言葉が理解できない赤ちゃんの頃からいっぱい話かけ、子どもが話し始めたら子どもの言葉に耳を傾け、子どもとの会話を楽しむ生活をすることです。また、「共通の話題」をいっぱい作ることも大切です。「共通の話題」があるから会話を楽しむことも出来るわけです。それは、絵本を読んであげたり、一緒に遊んだり、一緒にお料理を作ったり、お散歩のときに子どもがしゃがんだらお母さんも一緒にしゃがみ、子どもが見ているものを見、子どもが感じているものを感じるというようなことです。お母さんが「面白い」とか「きれい」と感じたものがあったら、「ねえねえ、これ見て」と子どもを呼んで一緒に見るのもいいです。子どもにテレビを見せることに罪悪感を感じている人も多いですが、お母さんも一緒に見て、共通の話題にしてしまえば、おもちゃを与え、一人ぽっちで遊ばせているだけよりは、ずーっと子どもの育ちによい影響があります。また、お母さんとの間に共通の話題も生まれ、信頼関係も育ちます。などというようなことを言うと、「そんなことをしたら家事が出来ない」と言う人も多いのですが、家事も一緒にやってもらえばいいのです。ちなみに、「ちゃんと話を聞きなさい」と押し付けていると、「話を聞くことが出来ない子ども」に育ちます。聞いてくれる人がいるから、「聞く」ということを学ぶことが出来るのですから。***********************「子育て」や「気質」などに関する講演会やワークの企画や、ご質問や、ご相談をなさりたい方は、「こちら」をご覧になって下さい。連絡先や、内容に関して詳しく書いてあります。幼稚園や、お母さんの仲間などで呼んでください。10人程度以上集まればOKです。
2016.01.22
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ここまで、色々な「出会い」について取り上げてきましたが、いずれの場合でも、基本的に重要になるのは「目に見える部分」ではなく「目に見えない部分」に意識を向けることです。「子ども」と出会うためには、目に見える「子どもの行動」ばかりに意識を向けるのではなく、「子どもの感覚」や「子どもの心」といった「目には見えないもの」に意識を向ける必要があります。「石」や「花」と出会うためには、目に見える「色」や「形」ばかりではなく、目には見えない「匂い」や「触覚や」さらには、それらを支えている「目には見えない働き」にも意識を向ける必要があります。「自分」と出会うためには、「目に見える自分」だけでなく、「自分」を支えてくれている「目には見えない自分」や、さらにはその「目には見えない自分」を支えてくれているもっと大きな働きにも意識を向ける必要があります。実は、「目に見える世界」では、バラバラに見えたり、バラバラに存在しているものでも「目に見えない世界」ではみんなつながっているのです。お母さんは「子どもと自分は違う」と思い込んでいますが、それは「肉体」という「物質の世界」だけでの話です。見えない世界の中では、「お母さん」と「子ども」は分離できない関係で密接につながっているのです。だからお母さんは、我が子に「自分の姿」を見てしまい苦しくなるのです。お母さんと子どもが全く別の存在なら、「子どもは子ども、自分は自分」と割り切れるのですが、密接につながっている存在だからこそ、そんな単純に割り切れないのです。その「目には見えない世界」を知るために「物語」というものが存在しています。「目に見える世界」のことを知るためには「科学」が必要なのですが、「目に見えない世界」のことを知るためには「物語」が必要なのです。実は、「物語」とは「目には見えない世界」と出会い、その世界のことを知るための道具でもあるのです。そこで描かれているのは、現実にはあり得ないような荒唐無稽なことかもしれませんが、目には見えない世界ではそういうことが普通に起きているのです。だからこそ、子どもたちにいっぱい「お話し」や「物語」を語ってあげる必要があるのです。
2016.01.21
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(先日来からの続きです)でも、もしかしたら一番、出会うのが難しいのは「自分自身」かも知れません。人は、「身近なもの」ほど見えなくなってしまうものだからです。富士山を遠くから見れば、その形はよく分かります。でも、登り始めたら富士山の形は見えにくくなります。そして、頂上に立った時が一番見えません。頂上から見えるのは、周囲の景色であり、火口であり、石や砂利や観光客ばかりです。「富士山」は見えないのです。ですから、生まれた時から富士山の頂上で暮らしていて、一度も下山したことも、「遠くからどのように見えるのか」という情報も得ることがない人は、富士山の頂上で暮らしていながらも「富士山」の形を知りません。さらに、霧が出ていたり、雲海などあったら周囲も分かりません。見えるのはただ足元の石ころだけです。ですから、自分がどこにいるのかなど全く分かりません。知る術(すべ)がないからです。これは「自分」という山でも同じです。ちなみに、人間の場合、その「霧」や「雲海」に相当するのが「悩み」や「苦しみ」になります。人は生まれた時から「自分」という山の頂上で暮らしています。そして、その頂上から「他の山」(他の人)を見て、「あの山の形はおかしい」とか、「あの山の形は素敵だ」などと言っています。でも、「自分」という山の形は知りません。知らないまま、「自分は美しい山だ」と思い込んでいる人もいれば、「醜い山だ」と思い込んでいる人もいます。さらに、「悩み」や「苦しみ」という「霧」を抱えて生きている人は、周囲すら見ることが出来ません。見えるのは、ただただ「悩み」や「苦しみ」ばかりです。また、人間は山と違って動けますが、でも、どんなに動いても「自分」という山の頂上から移動することは出来ません。だから、いつまで「自分探し」をしても「自分」と出会えないのです。じゃあ、どのようにしたら「自分」と出会えるのかというと、「自分を支えてくれている自分」と出会うことで、「自分」と出会うことが出来るのです。人間には「自分」という自我や意識の主体があります。そして、現代人はそれこそが「自分」だと思い込んでいます。でも、実際にはその自我や意識を支えてくれている「自分」もあります。山の頂上を支えている「山体」があるから、山は「山」でいることができるのです。「頂上しかない山」など存在しないのです。そして、その「山体」は地球とつながっています。全ての山は地球でつながっていて、地球に支えられているのです。人間の場合、この「山体」に相当するのが、「無意識」であり、「からだ」と呼ばれるものになります。そして、その「無意識」や「からだ」は、天の働き、地の働き、宇宙の働き、自然の働き、生命の働きによって支えられています。それは、自分だけでなくすべての人を支えている働きでもあります。
2016.01.20
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「出会う」というのは本当に難しいです。人はいつも「幸せ」を探していますが、もしかしたらズーット探し続けてきた「幸せ」は、いつもあなたの傍にあったのかもしれません。でも、それに気づき、それに出会える人はあまりいません。道端の花は、「永遠の真理」と「絶体の美」を示していますが、私たちは「高いお金を出して買ったもの」の方に美と価値を求めようとしています。毎日子どもと一緒に暮らしているのに、子どもの笑顔や悲しみに気づかない人もいっぱいいます。そういうことはみんな「当たり前」のことだからです。私たちは全員、常に「重力」に引っ張られているのに、滅多なことがない限りその「重力」には気づきません。それと同じです。でも、幼い子どもたちはまだその「当たり前」が当たり前ではありません。だから、「そのこと」と出会い、不思議を感じ、「なぜ?」「どうして?」と聞いてくるのです。でも、知識と常識で世界を見ている大人達には、子ども達が出会う「そのこと」が見えません。だから、「不思議」の感覚を共有することなく、単に大人の知識と価値観で、その「なぜ?」「どうして?」を説明しようとします。そして、その知識と価値観を理解できない子どもを「無知」と断定してしまいます。そんな時、子どもと一緒に、その視点と感覚を共有できれば、大人でも、長い間忘れていた「そのこと」と出会うことが出来るのですが、なかなかそういうことが出来る人はいません。道端の石ころを拾ってきて、手の上に載せ、転がし、色や形を見、重さを感じ、その石の歴史を想像してみて下さい。道端の一輪の花の傍らに座って、色を楽しみ、形を楽しみ、匂いを楽しみ、その花を支えている天の働き、地の働き、宇宙の働き、生命の働きを想像してみて下さい。ちなみに、土はミミズや細菌が作っています。ミミズや細菌がいなければ、土は存在せず、植物も存在せず、動物も存在しません。名前もわからない目の前の一輪の花でさえ、天の働き、地の働き、宇宙の働き、自然の働き、生命の働きがお互いに助け合い、支え合うことで咲いているのです。それが「不思議」なんです。DNAの仕組みが分かっても、その「不思議」の答えにはならないのです。「一つのもの」と出会うことが出来ると、その「一つのもの」を支えている「多くのもの」とも出会うことが出来ます。春になったら、それまでは枯れ木のように見えた木々や、枯れ野原などが、一面、緑や花々に覆われます。これって不思議ですよね。私は大人で、しかも理工系ですから、もちろん知識では原理を知っています。でも、春になるたびに「不思議」を感じるのです。世の中には知識では説明できない「なぜ?」「どうして?」もあるのです。そして、子どもたちが感じている「なぜ?」「どうして?」も知識では満たされないのです。
2016.01.19
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人は、自分の考えや、知識や、価値観や、悩みや、悲しみや、苦しみや、怒りなどにとらわれていると、目の前にあるものが見えなくなったり、周囲に起きていることに気づかなくなったり、感覚に感じているのに、それを意識できなくなったりします。そのため、「現実」に対応できなくなります。そんな時は、色々とやってみることです。やってみることで、「思い込み」と「現実」のずれを知ることが出来るからです。ボーっとして歩いている時には小さな小石に躓いたり、家具の角にぶつかったり、木の枝に頭をぶつけたりします。人は「気づいていないこと」は「存在していないこと」として処理してしまいますが、現実の世界では、人間の意識とは無関係に「存在しているもの」は存在しているのです。だから気づいていなくてもぶつかってしまうのです。そんな「現実の世界」と出会うためには、あれこれと頭の中で考えるのを一時止めて、実際に行動してみるのが一番近道です。先日、多くの親子とプレイパークで遊びました。今年初めての会だったので、コマやけん玉も持っていきました。それをブルーシートの上において、お母さんや子どもたちに遊んでもらっていたのですが、会の子ではない、小学校2年生ぐらいの男の子も興味をもった様子で見ていました。それで、「やってもいいよ、やったことある、回せる?」と聞いたら、「多分回せる」という返事でした。それで黙って見ていたのですが、彼はヒモをコマの周りにただクルクルとかけるだけで、ちゃんと巻くことが出来ていませんでした。楽に指が入ってしまうくらいユルユルなんです。そんな巻き方ではコマは回りません。おそらく彼は一回もコマの回し方を学んだこともないのでしょう。そして、投げたのですが、当然コマは回りません。そうしたら、たった一回やったきりであきらめて他の所に行ってしまいました。彼も最初は、見ているつもり、知っているつもり、出来るつもりだったのでしょう。でも、実際にやってみたら、「思い込み」と「現実」は異なっていたのです。知識だけで知っている子、ゲームの中だけで体験した子はそのように思い込んでしまうことが多いような気がします。「みんなが私を嫌っている」と思い込んでいる人が、実際に話しかけたら全くそんなことはなかった、などというようなことはよくあることです。「子どもに嫌われている」と思い込んでいる人もいますが、それは100%勘違いです。そんな時は、お母さんが心を閉ざしているので、子どもとしてはどう接していいのか分からずに、近寄ることが出来ないだけです。ですから、お母さんが心を開けば子どもは寄ってきます。相手が人でも、物であっても、そのものとしっかりと出会うためには、色々と工夫して、あれこれとやってみるしかないのです。そんな時、知識やハウツーに頼っても何にも解決しません。
2016.01.18
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(続きです。ここのところ忙しくて、長い文章を書く時間がありません。今日も、短めで失礼します。)「人と人が出会う」というのは本当に難しいです。お母さんでも、「良いお母さん」になろうとした途端、「子どものこと」ではなく「自分のこと」ばかりを考えるようになってしまい、目の前の「子ども」と出会うことが出来なくなります。そもそも、お母さんが考える「良いお母さん」と、子どもが求めている「良いお母さん」は、ほとんどの場合全く異なっているものです。また、子どもに「良い子」を求めても、「子ども」と出会うことが出来なくなります。お母さんが、自分自身の価値観に縛られている時も、子どもと出会うことが出来なくなります。昨日、一昨日と悟ったようなことを書いた私自身も、ちょっと「かっこいい所」を見せようとしたり、「失敗しないように」などというような意識が強くなると、今でも参加してくださった方と出会うことなくワークをしてしまうことがあります。それでも、大人はそんな私に合わせてくれますが、子どもたちはありのままの心でまっすぐに私に向かってくるので、私もありのままの自分にならざるおえません。子どもに育てられています。
2016.01.17
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(昨日からの続きです)子どもとの遊びでも同じようなことがありました。私は保育の専門の学校を出たわけではありません。我が子との遊びを通して「遊び」に目覚め、わらべ歌や様々な学びをしました。また、それまでに様々な「からだのワーク」を体験していたので、その「からだのワーク」を親子で一緒に体験できるような場を作りたいと思って、「ポランの広場」という親子で遊ぶ教室を始めました。大阪の方で活動している松井洋子さんの影響も受けました。私は、「遊び」や「ワーク」の内容を考えるのは好きなので、それまでの学びを糸口に、色々な遊びやワークを工夫して考えました。ですから、内容的には十分なものはあったのですが、でも、実際に我が子以外の子どもたちと関わって遊ぶのは初めてだったので、ちゃんとプログラムを作って、時間配分も考え、「授業」のようなまじめさで遊ぼうとしていました。我が子と遊ぶ時には、もっと自由に遊んでいたのですが、遊びが「お仕事」になったとたんに、その自由さを失ってしまったのです。でもある時、途中の休憩時間に一人の子どもが寄ってきて、「遊んでもいい?」と聞いてきたのです。その言葉に私はショックを受けました。だって、私としてはそれまでもズーッ遊んでいたつもりだったからです。そこで気づいたのが、「私は子どもを遊ばせよう、楽しませようとしていただけで、子どもたちの目線に立って、子どもたちと一緒に遊んでいなかった」ということです。実際子どもたちは、私の指導で遊んでいる時よりも、休み時間に自分の意思に従って仲間と走り回っている時の嬉しそうだったのです。そこで初めて私は「子ども達」と出会ったのです。それ以来私は、「指導する」のではなく「きっかけを与える」ことの方を大切にするようになりました。
2016.01.16
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昨日は、山のように「人との関わり方」という本を読んでも、実際に人との関わり合いの中で学ばないことにはその知識は役に立たないどころか自己満足や思い込みを育てるばかりで、逆にその人の成長を妨げてしまうこともあります。 その、「自己満足」や「思い込み」に気づくためには、実際に「他者」との関わりの中で、自分を試してみるしかありません。ということを書きましたが、それで私は(基本的には)「講演会」という形ではなく実際に体験してみる「ワークショップ」という形で活動しているのです。そして、その「ワークショップ」は私にとっての「ワークショップ」でもあります。それはどういうことかというと、私は「ワークショップ」を主導するファシリテータであると同時に、参加者たちによって「ファシリテータとしてのワークショップ」を受ける立場でもある、ということです。もちろん、「ワークショップ」のテーマは最初から決まっています。でも、参加者が何人か、どんな人が来るのかまではみんなが集まってからでないと分かりません。見知った顔が多くいる場合もありますが、「全員が初対面」ということもよくあります。何回もやっているテーマの時もあれば、その日が初めてのテーマの時もあります。(以下、「ワークショップ」ではなく「ワーク」に統一します。)呼ばれて行くワークの場合は、会場の様子すら分かりません。でも、ワークの流れは、部屋の広さや、明るさや、床の材質などによっても大きな影響を受けます。そういう未知数ばかりの状況の中でワークをするのですから、思い通りになんか行きません。細かいプログラムを立てておいても役に立ちません。もちろん、大きなテーマと、大きな流れと、「こんなことやろう」「こんな話をしよう」などというようなことはざっくりと決めておきますが、そんな状況なので、実際にワークが始まってしまうと、そんなことみんな忘れてしまいます。というか、「考えてきたこと」にこだわっていたら「今」に対応できなくなってしまうのです。そのため、用意したこととは全く違う内容になってしまうこともあります。でも、「ワーク」というものを始めた頃にはそんな(肯定的な意味での)いい加減なことなど出来ませんでした。ですから、綿密にプログラムを構成してその通りにワークをしようとしていました。それでうまく行く場合もありましたが、時には、上に書いたようにワークでは不確定要素が非常に多いので、なかなか思い通りに行かなくて冷や汗を流しながらワークをしたこともあります。ある時、全然想定通りに流れが作れなくて本当にどうしていいのか分からなくなってしまったことがありました。想定していた流れと全く違う方に流れが動いてしまっていたのでどうにも出来なくなってしまったのです。それでも、ファシリテーターとしては何とかしなければなりません。その時、腹をくくったのです。参加者に任せてみようと思ったのです。そして、私が一方的にワークを作って、参加者を「お客さん」にするのではなく、参加者に手助けしてもらいながら一緒にワークをしたのです。それは私としては「失敗したワーク」だったのですが、なぜか書いてもらった感想を読むと、みんな「すごく良かった」と喜んでくれていたのです。思い通りにならない状態に追い詰められて、ようやく目の前にいる人と出会うことが出来たのです。
2016.01.15
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(おととい、昨日、今日と話が続いていますのでそのつもりでお読みください。)ということで、私が12日に書いた専門家向けのワークでやったことは、「関わり合いを楽しむ」ということでした。一人だけで武術の稽古をしても、実際に相手と関わるような稽古もしていなければ、それだけでは強くなることが出来ません。それはつまり、武術書を山のように読んでも、実際にそれを相手との関係性の中で実践してみる学びがなければ無意味だということです。いくら一人で鏡と向き合ってスピーチの練習をしても、それだけではスピーチは上手になりません。実際に人の前で話しながら、相手の反応を感じながら工夫をする練習をしなければ上手にはならないのです。お茶の稽古でも同じです。実際に「客」をもてなすことの中で上手になっていくのです。人と人との関わり方も同じです。山のように「人との関わり方」という本を読んでも、実際に人との関わり合いの中で学ばないことにはその知識は役に立たないどころか自己満足や思い込みを育てるばかりで、逆にその人の成長を妨げてしまうこともあります。その、「自己満足」や「思い込み」に気づくためには、実際に「他者」との関わりの中で、自分を試してみるしかありません。その時、その「他者」は必ずしも人である必要はありません。山であったり、棒であったり、石であってもOKです。ただその時に重要なのは、相手を支配しようとするのでも、相手に支配されるのでもなく、ただ「出会いに従って動いてみる」ということです。子どもと遊ぶ時には、「子どもとの出会い」に従って遊びます。その「出会い」とは、「拍手」において「右手と左手が出会った時の音」のようなものです。右手だけでは音を出すことが出来ません。左手だけでも同じです。右手と左手が出会わないことには「音」は出ないのです。その「音」に耳を澄まして、「音」に従って動いてみるのです。それは支配することでも、支配されることでもありません。と偉そうなことを言っていますが、これがなかなか難しい。
2016.01.14
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現代人のコミュニケーションはあまりに「文字」に頼りすぎています。話し言葉による会話でも、そこで必要とされているのは「文字化された内容」と同じものです。つまり、「何を言ったか」だけが重視され、どのような声で、どのような仕草で、どのような状況で、どのような表情で言ったのかということは重視されていないのです。そのため、人の話を聞いている時にも、耳だけ働かせていれば、相手の顔や姿を見る必要がありません。メールなどでコミュニケーションするときには目だけを働かせています。いずれにしても、現代人が他者との関わり合いで大切にしているのは「文字化することが出来る情報」だけであって、文字化することが出来ない、心や感覚やからだを持った「生身の人間」ではありません。そのため、現代人は「他の人とまっすぐに向き合う」ということが困難になってしまっています。でも本当は、その「文字化することが出来ない情報」とセットにしないと、「文字化された情報」は「本当の意味」を持つことが出来ないのです。お互いにしっかりと向き合っている場では、「嫌い」が、その仕草や声によっては「好き」という意味になってしまうことすらあるのですから。でも、文字だけではこのような変換は起きません。だから、「文字」だけに頼ったコミュニケーションでは誤解を生じやすいのです。ネットでイジメについて色々と見ていたら、共感を伝えるつもりで「かわいくない(日常会話では語尾を上げる)」と書いたメールが、「可愛くない(語尾を下げる)」という否定に取られて、それが原因で「あいつは生意気だ」という話になりイジメに発展した例が書かれていました。「言葉」を、声や表情や仕草と切り離して、「意味」だけで使おうとするとこのような危険性が生まれてしまうのです。でも、現代人は幼いころからこのようなコミュニケーションばかりを行っています。お母さんは子どもに「ああしなさい」「こうしなさい」「あれはだめ」「これはだめ」という言葉による指示ばかりを出しています。その際、多くのお母さんが、子どもに触れることもなければ、子どもの目を見ることもありません。子どもの仕草や、表情や、声の状態から子どもの心を感じ取ろうともしません。ただ、言葉だけを発するのです。そして、「お母さんはちゃんと言ったからね。あとはあんたの責任だからね」と突っぱねています。(もちろん、そうでないお母さんもいますが、このようなお母さんを多く見かけるということです。)でも、幼い子どもたちはまだ「言葉の能力」が未熟なため、お手伝いのような場で、実際に一緒にやりながら色々と伝えてもらえば、子どもは理解することが出来るのですが、言葉だけで説明されても理解することが出来ないのです。それなのにお母さんは「何べん言ったら分かるの」と子どもを叱ります。このような状態で生活している子どもたちは、「人と人との関わり方」を学ぶことが出来なくなってしまっています。そのため、子ども達同士でも、お互いに相手の目を見て話し合い、肌を触れあって遊ぶことが出来ません。そして、隣に座っているのに、みんな一人ひとり画面をのぞき込みながら、ネット経由で遊んだりしています。LINEで文字のやり取りをしているだけの友達はいっぱいいても、目を見て話し合うことが出来る友達はどれくらいいるのでしょうか。それに、文字だけの関係では、すぐに「言った、言わない」というような些細なことで諍いを起こします。普段から肌を触れあって遊んでいる仲間なら、ケンカしてもしばらくすれば自然と仲直りが出来るのですが、言葉だけでの付き合いしかない相手とは、一度言葉でこじれるとなかなか仲直りが出来ません。
2016.01.13
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先日、横浜の「Umiの家」というところで、セラピストや整体など、人の心やからだを癒す専門家を対象にワークをさせて頂きました。午前は主にからだを動かし、午後は気質の勉強などをしました。実は、人の心やからだを癒す仕事をなさっている方は、そのようなことを教えてくれる学校やら場に通って、そのような技術を身に着けるのですが、でも、そのような学びでは決して学ぶことが出来ない学びもあるのです。それは、「クライアントとの人間関係の作り方」です。そしてこれは、医者でも、教師でも、子育てでも同じです。医者は学校で「人を治療する方法」を学んできますが、患者さんとの人間関係の作り方は学んできていません。だから時々、腹が立つような医者がいるのです。教師も「勉強の教え方」は学んできていますが、「生徒との人間関係の作り方」は学んできていません。だから、イジメが起きたり、学級が崩壊してしまったり、先生自身がノイローゼになってしまうのです。お母さんたちも様々な子育て書を読んだり、子育て講座に参加して、仕付けや子育てのノウハウを学んでいますが、でも、肝心の「我が子との人間関係の作り方」を教えてくれるところはどこにもありません。そして、それが分からないために、肝心の「学んだこと」が全く役に立たないこともあります。時には逆効果にしかならない場合もあります。「教え方」を学んだだけの先生が、子どもに「学び方」を押し付けることで、子どもを「学ぶこと」が嫌いにしてしまったら、それは逆効果なんです。セラピストと呼ばれる人は、クライアントとの人間関係が作れなければ全く無力です。でも、そのような能力は、セラピストや医者や教師になる資格には含まれていません。なぜならば、そういうことは教えようがないし、試験のしようもないからです。クライアントの性格や心の状態は一人一人違います。セラピストや医者や教師の性格や心の状態も一人一人違います。同じクライアントでも抱えている問題によって対応の仕方も異なります。また、お互いの相性も大きく影響します。相性が合うクライアントには効果的でも、相性が合わないクライアントには逆効果になってしまうこともあるでしょう。子育てでも全く同じことが言えます。ある人の成功例を真似て同じことをしても、余計に状態が悪くなってしまうこともあるのです。時には何もしないでただ見守るだけの方が、良い結果につながることもあるのです。時には褒めた方が、時には叱った方が良い結果につながることもあります。だから、それほど重要なことなのにマニュアル化することもできないし、学校などでも学ぶことが出来ないのです。(というか、本当に大事なことはマニュアル化できないのです。文字でも書くことが出来ません。)「今どうしたらいいのか」ということは、その場その場で自分で感じ取るしかないのです。ミヒャエル・エンデという人が書いた「モモ」という、一人の女の子を主人公にしたお話があります。このモモには人を癒す力があるのですが、でも、モモはただ話を聞くだけで、特別なことはしません。何もしないのですが、モモに自分の考えや苦しみや悩みを話していると、自分で自分の問題が整理できてしまうのです。モモはそういう聞き方が出来る子なんです。そして、このようなことは実際にカウンセリングの現場でも行われているので、お話の中だけのフィクションではありません。現実の世界には「何もしないという方法」もあるのです。人の苦しみや悩みの大部分は、「人と人の関わり合い」の中から生まれています。それは関係性の問題なので、万人に共通の答えなどないのです。そして、昔の子どもたちはその「人と人との関わり合いの方法」を、毎日の「仲間との遊び」や「大人たちとの関わり合い」を通して学んでいました。でも、現代社会ではそのようなつながりが希薄になり、子どもたちは「人と人との関わり合いの方法」を学ぶことが出来ないまま大人になるようになってしまいました。そしてそれが、苦しみの原因にもなっているのです。
2016.01.12
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子どもの頃には不思議だったことも、大人になると「当たり前」になってしまいます。だからといって、それが「当たり前である理由」が分かった訳ではありません。ほとんどの場合、ただ「そういうものなんだ」という知識を学んだり、慣れたりしてしまったりして考えることをやめてしまっているだけです。幼い子どもは「どうしてリンゴが落ちてくるのだろう」と不思議に感じ、色々と考え、「どうして?」と大人にも聞いてきます。すると大人は、「重力があるからよ」とか、「熟したからよ」とか、「風が吹いたからよ」などとその「原因」を語ります。そこで子どもは「重力ってなあに」、「熟すってなあに」、「風はどうして吹くの」などと、さらにその原因を聞きたくなるのですが、多くの大人はそこから先の答えを知りません。多少知識がある人でも、「どうして? どうして?」を繰り返されたら、言葉に詰まるところまで追い込まれてしまいます。それは科学者だって同じです。科学者だって子どもの「なぜ?」には勝てないのです。私はそういう子だったようで、世話をしてくれていたおばあちゃんを散々悩ませたそうです。(私が幼い頃、父親が結核で寝込んでいたため母親が忙しくて、おばあちゃんが私の世話をしてくれていたのです。)大人だって知らないことだらけなのに、みんななぜか大人になると「なぜ?」「どうして?」と考えなくなるのです。そして、「そんなの当たり前じゃないか」の一言ですべてを片付けるようになります。それは「知りたい」という欲求が消えてしまうからなのでしょうか。また、「そんなこと考えて無駄だ」と思うようになるからでしょうか。でも、だから苦しみから抜けられなくなってしまうのです。そんな風に「なぜ?」「どうして?」と感じなくなってしまっている人が生きている世界は、自分の中の「常識」や「観念」という城壁で囲まれた閉ざされた世界です。その中では「自分らしさ」は肯定されません。「本当のこと」も肯定されません。だから、自由はないし苦しいのですが、だからといって、その城壁を壊そうとも、その城壁から外に出ていこうともしません。なぜならば、その「城壁」は「自分を束縛するもの」であると同時に、その中にいさえすれば、非難も否定もされず、最低限の安全と生活は確保されるからです。でも、子どもたちはそんな城壁とは無関係な世界に生きています。だから、平気で城壁の外へ出て行ってしまいます。そんな時、子どもと一緒に外に出て行ってしまえば自由になることが出来るのですが、でもそんなことをしたら今度は自分が周囲から非難されたり、白い目で見られたりしてしまうので、多くの大人は子どもを叱り、叩き、外に出ていかないように仕付けようとしています。また、ほとんどの大人が、城壁の外の世界での生き方を忘れてしまっています。「自分が生きているのは城壁の中だ」ということすら忘れてしまっています。だから簡単に「子どもがやっていること」を非難することが出来るのです。そして、すべてが分かっている気になって、「なぜ?」と問いかけることをやめてしまっています。「なぜ?」と問いかけると、そこから城壁が壊れてしまうことを無意識的に感じてしまうからかもしれません。でも、「なぜ?」と問いかけないことにはこの世界の「本当の姿」を見ることは出来ないのです。なぜ、私は生まれてきたのか?なぜ、私はここにいるのか?なぜ、苦しみが消えないのか?なぜ、・・・・そんな「なぜ?」をみなさんも考えてみませんか。いっぱい「なぜ?」を発見すると、何かが変わると思いますよ。
2016.01.11
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色々なことを想像してみましょう。するとそこに「物語」が現れます。道端に落ちている石ころでさえ、「どこから来たのか」、「なぜそこにあるのか」と想像することで「物語」を語り始めるのです。それは、「確定された事実」ではないかもしれませんが「可能性としての事実」ではあります。子どもが泣いている時、転んだのかもしれません、迷子になったのかもしれません、お母さんに叱られたのかもしれません、大切なおもちゃを失くしたのかもしれません。その中から「確定された事実」を選び出すためには、直接子どもに話を聞いたり、子どもの状態を観察すればいいのですが、でも、直接子どもに話を聞くことが出来ない状態の時は「可能性としての事実」を想像するところから始めるしかありません。科学もまた同じような方法を使って、色々なことを調べています。ちなみに科学ではその「可能性としての事実」を「仮説」といいます。「科学」とは、その「可能性としての事実」(仮説)の中から、「確定された事実」を探していくための方法です。ですから、いくらテストの成績が良くても、いくら一ぱい知識を持っていても、「自由に想像する力」がないと科学者にはなることが出来ないのです。まだ「科学」が未成熟であった時代には、「可能性としての事実」の中から「確定された事実」を選び出す知識も技術もなかったので、人々はその可能性の中から、自分の価値観に合ったものを選び、それを「確定された事実」として信じていました。だからいっぱい「事実」があったのです。ちなみに、科学者が発見した「科学知識」を使って、ロケットやロボットや様々な機械などを作るのは「技術者」と呼ばれる人たちです。その際、「すでにあるものと同じ物」を作るだけなら「可能性としての事実」を想像する必要はありませんが、「まだない新しいもの」を作る時には「可能性としての事実」を想像しながらでないと、新しい技術を開発することは出来ません。そしてこの、「可能性としての事実」を想像する能力こそが、「人間の心の自由」を支えているのです。「可能性」がない所には「自由」もないのです。人が何かを決める時に悩むのは、心の中で「可能性としての事実」を観ることが出来るからです。それはつまり、「自由だから悩むことが出来る」ということです。だから、「悩める」とか「悩む」というのは実は素敵なことなんです。自由がない人は苦しむばかりで悩むことが出来ないのですから。でも、多くの人が「悩むこと」をあきらめて、ただ苦しんでいます。
2016.01.10
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人間には「自分」を変え、「世界」を変える能力があります。そして、その能力を支えているのが「想像する力(イメージする力)」です。「物語」も、この「想像する力」によって生まれています。科学も、芸術も、宗教も、愛も、勇気も、希望もみんなこの「想像する力」によって生まれています。残念なことに戦争もです。「想像する力」には人間や他の生き物たちを幸せに導く力もあれば、破滅へと導く力もあるのです。そして、その「想像する力」は、幼いころからの「言葉による学び」と「からだによる学び(体験)」によって育っていきます。「からだによる学び」は過去を作り、「言葉による学び」は「未来」を作るからです。実は、人が「未来」のことをイメージすることが出来るのは、「言葉」を持っているからなのです。そして、「からだによる学び」(過去)がそのイメージの内容に大きく影響を与えるのです。人は、「自分の体験」の延長に未来をイメージしようとする傾向があるからです。この際、「知識を覚えるだけの学び」や「映像で見るだけの学び」はあまり役に立ちません。そういう学びは心の内側に入ってこないからです。この「想像する力」は、ある程度は自分の意思と意識でコントロールすることが出来ます。「明日のことをイメージしてみて」とか、「宝くじで10億円当たったらどうする」と聞かれれば、自分の意思で意識的にイメージすることも出来るのです。ですから、きのう書いたように「思い通りにならないこと」を「限界」ではなく、「可能性」として考えてみることも可能です。ただしこれは「大人の能力」であって、子どもにはこのような能力はありません。というか、様々な学びを通して子どもはその能力を育てている最中なんです。確かに子どもたちはいつも不思議な想像ばかりしています。不思議なお話を作って楽しそうに話してくれることもあります。でも、その「子どもの想像」と「大人の想像」とは、ちょっと質が違うのです。「大人の想像」は「言葉による学び」と「からだによる学び」の結果ですが、「子どもの想像」は、「生命の感性」そのものが創り出しているものだからです。だから、「大人の想像」は人それぞれなのに、「子どもの想像」には人種や時代を超えたある種の共通性があるのです。異なった生活様式、風土、文化の中で育ってきた人は、異なった想像をするものです。実際、大人たちは「平和」に対しても、「自由」に対しても、「自然」に対しても、「宗教」に対しても異なった想像をしています。キリスト教徒は「最後の審判」を心配し、科学者は「温暖化による滅亡」を心配しています。でも、幼い子どもたちは世界中で同じようなことを想像するのです。だから、自分の国の昔話でなくても、子どもたちは楽しむことが出来るのです。そして、世界中の子どもが素直にサンタクロースや神様を信じることが出来るのです。シュタイナー教育では、この「生命の感性」が創り出す物語を「ファンタジー」と呼んで、大人が「大人の感性」で作り出した「物語」と区別しています。7才頃までは、子どもたちはこの「ファンタジーの世界」の住人なんです。そしてそれはまた、「神話」を信じていた「古代の人たち」が生きていた世界でもあります。
2016.01.09
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兵庫県の川西市というところで1月24日に出張ワークをします。詳細はhttps://www.facebook.com/events/727297550705426/でご覧になって下さい。***************人間はちょっと視点や考え方を変えるだけで、「地獄」を「極楽」に変えることも、「極楽」を「地獄」に変えることも出来ます。客観的な状況は何にも変わっていなくても、意識のあり方を変えるだけで、世界は全く別のものになってしまうのです。なぜなら、人は「物語の世界」に生きている生き物だからです。そして、「物質的な世界」はそんな急には変わりませんが、「物語」は一瞬で書き換えられてしまうこともあるのです。テレビでもう70才・・・だと思っていたでも、まだ70才だったというCMを見ました。「もう70才・・・」と考えたら、残りの人生は消化試合になってしまいます。そして、意味も輝きも望みも希望も無くなってしまいます。でも、「まだ70才」と考えると、「70才」という年齢そのものは同じなのに、自分の未来の明るさや希望が全く変わってしまうのです。よく言われる「コップ半分の水」のたとえ話も同じです。「もう半分」と考えるか「まだ半分」と考えるかだけで、世界は全く変わってしまうのです。きのう書いた「思い通りにならないこと」も、それを「自分の限界」と考えることも出来れば、「自分の可能性」と考えることも出来ます。「思い通りにならないこと」を「自分には出来ない」とあきらめてしまえば、それは「限界」になりますが、「自分の人生の課題」と考えれば「可能性」になるのです。そして、実際、そう考える人はその課題を乗り越えることが出来るのです。なぜなら、問題を解決するために、色々と考え、色々と工夫するからです。そしてその過程で人間として成長することも出来ます。でも、あきらめてしまう人は、考えないし工夫もしないので、それを乗り越えることができません。人間としての成長も望めません。また、ただ対立するばかりの人も、その状況を社会や他の人のせいにする人も同じです。そのような人もまた、考えないし、工夫もしないからです。相手を変えようとすると対立が発生します。それは親子関係でも、夫婦関係でも、国際関係でも同じです。そして、その対立にこだわれば、ただずーっと膠着状態が続き、両者とも少しも前に進むことが出来ず、お互いに疲弊していくだけです。でも、実際には両者ともそんなこと望んでいないのです。お母さんと戦いたいと思っている子どもはいないし、子どもと戦いたいと思っているお母さんもいないのです。子どもはお母さんと仲良くしたいと思っています。お母さんも子どもと仲良くしたいと思っています。だったら、大人であるお母さんが「自分のやり方」を押し付けるだけでなく、もっと相手の気持ちに寄り添ったやり方を模索すべきなんです。子どもには「自分で自分の意識を変える」という能力はありませんが、大人にはその能力があるからです。中には、それを「妥協」とか「子どもに負けること」と感じてしまう人もいるかもしれませんが、それは「自分の可能性を広げる行為」であって、決して「妥協」でも「負ける」ことでもないのです。
2016.01.08
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人生は思い通りにならないことの連続です。特に、自然相手、子ども相手の場合は、「思い通りにならない事」ばかりです。それでもみんな何とかしよう、思い通りにしようとその相手と戦います。でも、そのすべてが、小手先のことだけであったり、一時しのぎにしかなっていません。人間は、暑い夏を快適に過ごすために、扇風機やエアコンを発明しました。でも、「暑い夏」が暑くなくなったわけではありません。むしろ、厳しい自然の中で快適に過ごすための様々な発明と、その発明品の生産に伴う人間活動が自然界を破壊し、さらに厳しい自然環境を作り出してしまっています。子どもの場合は、ある程度は力づくで思い通りにすることが出来ますが、でも、やがて子どもが成長して力関係が対等になったり、逆転したりする時点で「しっぺ返し」がやって来ます。皆さんが年をとって子どもの世話を受けなければならなくなった時、「自分がどのような子育てをして来たのか」ということを子どもが教えてくれるのです。子どもにいつも「なんでこんなことも出来ないんだ」「何べん言ったら分かるんだ」と言っている人は、自分自身が年を取って体が動かなくなったり、物忘れがひどくなった時、子どもから同じことを言われる可能性は高いです。逆に、「ゆっくり待つ子育て」をしている人は、子どももゆっくりと待ってくれる可能性は高いと思います。じゃあ、「思い通りにならないこと」に突き当たった時にはどうしたらいいのか、ということなんですが、そこで発想を変えてみるのです。「思い通りにならないこと」を、「自分を成長させ、自分の可能性を育ててくれる存在」として考え、受け止めてみるのです。実際、幼い子どもたちはあらゆることにおいて「思い通り」にはならない状況の中で生きています。思い通りに歩けません、思い通りにからだを動かすことも、話すことも、コミュニケーションを取ることも、作ることも出来ません。また、知識も体験もないので、身の回りに起きるすべての事象や現象の意味や仕組みが分からず、そういうものに対応することも出来ません。でも、幼い子どもたちは、そういう「思い通りにならないもの」から逃げずにちゃんと向き合っているからこそ、ちゃんと成長することが出来るわけです。「僕は歩けないからいつも抱っこして」、「いつもベビーカーに乗せて」などと要求する子はいないのです。また、そんなことをしていたら、成長できなくなってしまいます。(ただし、自分で歩こうとする成長の時期を逃すと、歩こうとしない子になります。)そして、この原理は大人でも同じなんです。でも、大人は「思い通りにならないこと」を避けようとします。楽をしようとします。避けられない場合は、「相手」の方を変えようとします。「子育て」でも自分を変える気のない人は、子どもに自分に合わせるように要求します。でも、子どもは自分に素直にしか生きることが出来ないので、お母さんに合わせることは出来ません。何べん言われても、叩かれても、出来ないものは出来ないのです。「約束よ、分かった!!」と言われれば「分かった」とは言いますが、それは「分かった」と言わないとお母さんの怒りが収まらないからに過ぎません。そんな状態の子に対してお母さんは「この子は反抗的だ」と言います。その結果、相手はゆがみ、自分は成長できなくなります。
2016.01.07
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昨日はただ、そうはいっても、今までの考え方やからだの癖があるので、「何が出来るのか」はなかなか分からないものです。 でも、探し続けていると、少しずつでも見えてきます。とはいっても、ただ探しているだけでは、自分なりの考え方、感じ方の癖がついてしまっているので、なかなか「新しいこと」には気づかないものです。そこで、そういう時に私がやっているのは「視点を変えてみる」ということです。子育てだったら、「子どもからはどう見えているか」「子どもはどう感じているのか」ということを、相手の言葉や反応を通してイメージしてみるのです。大人は自分に嘘をつくことができますが、子どもは自分に嘘をつけないので、「子どもの様子」はそのまま「子どもの心」だからです。先日、かずうさんから4歳の息子は絵本好きだと思います。ただ何回も何回も同じ本を読んでいると、慣れてくるのか新鮮さが無くなるのか、「ほら、ぞうさんだよ」「ライオンさんだね」など読んでいる最中に口を出してきます。新しい本はとても真剣に聞いているので、本は好きなはず…やっぱり話を覚えてしまうと子どもでもつまらないんですかね?それとも違う楽しみ方をしているんですか?という質問が来たので、楽しそうならば楽しんでいるのです。難しく考えない方がいいですよ。と返事を出したのですが、これもまた同じことです。「楽しんでいるのだろうか」などということは、頭で考えてもわかりませんが、子どもの様子を観察してみればすぐにわかることなんです。でも、かずうさんだけでなく、非常に多くの人が子どもの様子を観察することなく、自分の頭だけで答えを探そうとしてしています。でも、それではいつまでたっても「自分を束縛している自分」から外に出ることは出来ないのです。子どもが転んだ時、子ども本人は平気な顔をしているのに、いつまでも「大丈夫?、痛くなかった?」と聞き続けているお母さんがいますが、これはお母さん自身が「自分の不安」を子どもに投影しているだけです。肝心の子どもの心には意識を向けていないのです。子どもが大丈夫そうにしているのなら、大丈夫なんです。また、「自分が子どもだった頃」のことを思い出すことで、忘れていた「子どもの視点」を思い出し、目の前の我が子の心も理解しやすくなります。もっともっと想像力を働かせれば、パートナーからはどう見えるか、外国の人からはどう見えるか、昔の人からはどう見えるのか、宇宙人からはどう見えるのか、ということをイメージすることも出来ます。そのようなイメージ遊びを通して、「出来ないこと」ではなく「出来ること」が見えるようになるのです。「自分を束縛している自分」から自由になるためには、一度、「自分を束縛している物語」を解体する必要があるのですが、「他者の視点」に立つことで「自分の物語」の中に「他者の物語」が入り込むので、必然的に「自分だけの物語」が崩れていくのです。そして、「新しい物語」が目覚め始めるのです。「学ぶ」ということの意味もそこにあります。人は、「自分以外の視点」と出会うために学ぶ必要があるのです。そのような学びが人を自由にしてくれるのです。素直な気持ちで読むならば、絵本を読むだけでも、「新しい物語」を取り入れることが出来ます。でも、「ハウツー」を知るためだけの学びは、束縛を強化するばかりです。でも、そんな学びばかりしている人がいっぱいいます。
2016.01.06
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私自身の人生というか、生き方というか、そういうものの目標は「自由になること」です。競争に勝つことや、お金持ちになることではありません。武術なども学んでいますが、それは「強くなるため」ではなく、「他者からも自分自身からも自由になるため」です。子育てや教育のことを考える時も、「子どもが自由になる、大人が自由になるためにはどうしたらいいのか」という視点で考えています。気質のワークや、心やからだのワークをする時も、「心やからだが自由になること」を一つの目標にしています。物語の大切さを語るのも、物語には人を自由にする働きがあるからです。苦しい生き方をしている人は、自分で「苦しい物語」を作って、自分自身をその中に閉じ込めて生きているのです。「苦しみ」を創り出しているのは自分自身なんです。でも人は、その苦しみの原因を親や、我が子や、パートナーや、社会に求めます。そしてそれらを非難、否定します。でもそれをやっている限り、苦しみは消えません。「束縛すること」は「束縛されること」であり、「否定すること」は「否定されること」であり、「嫌うこと」は「嫌われること」であり、「奪うこと」は「奪われること」であり、「殺すこと」は「殺されること」だからです。そのように物事は連鎖しているのです。また、「苦しみの原因」を自分自身に求め、自分で自分を否定している人もいっぱいいます。自分で自分を否定していたら苦しくて当然なんですが、なぜかそういうことをしている人がいっぱいいるのです。そして、そういう人はセラピストのような「苦しみを取り除いてくれる人」を求めます。でも、セラピストは「苦しみ」を取り除くことは出来ません。これは「医者」も同じです。実は、セラピストは苦しみを取り除くことが出来ず、医者は病気を治すことが出来ないのです。ただ、その本人が自分で自分の苦しみを消す手伝いをしたり、自分で自分を治す手伝いをすることが出来るだけです。ですから、「癒してください」「治してください」とセラピストや医者に依存する人ほど、いつまでも癒されないし、治らないのです。じゃあどうしたらいいのかと言うと、「自分自身を束縛している自分自身」から自由になればいいのです。人は本来みんな自由なんですから。確かに、「重力」という束縛、「寿命」という束縛、「社会」という束縛、「家族」という束縛、「病気」という束縛、「肉体」という束縛、「物理法則」という束縛はあります。でもそれらは「束縛」と考えれば「束縛」ですが、「自分を支えるもの」と考えれば「束縛」ではなくなるのです。そして、むしろそれらがあるからこそ「自由」を得ることが出来るということが分かってきます。肉体は「わたし」の自由を奪うものであると同時に、「わたし」を自由にしてくれるものでもあるのです。ではどうして、そういうものが「わたしを束縛するもの」になってしまうのかというと、「それがあることで出来ないこと」ばかりを考え、求めてしまうからです。「親がいることで出来ること」を考えずに、「親がいることで出来ないこと」を考えるから「親」が「自由を束縛するもの」になってしまうのです。「子どもがいることで出来ること」を考えずに、「子どもがいることで出来ないこと」を考えるから「子ども」が「自由を束縛するもの」になってしまうのです。どんなに恵まれた状況の中にいても、「出来ないこと探し」ばかりをしていれば不自由にもなるし、苦しくもなるのです。逆に、他の人の目には苦しい状況の中にいても、「出来ること探し」をしている人は、自由です。そして、そのような人は生き生きとしています。ただ、そうはいっても、今までの考え方やからだの癖があるので、「何が出来るのか」はなかなか分からないものです。でも、探し続けていると、少しずつでも見えてきます。そして、それが見つかると、またちょっと自由になったことが実感できて嬉しいものです。
2016.01.05
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図書館などに行って絵本を見てみると、「くだらない」と感じる絵本もいっぱいあります。「訳が分かんない」と感じる絵本も、「暗い」と感じる絵本も、「物足りない」絵本も、「どぎつい絵本」と感じる絵本もあります。以前、気質のワークで「わたしとあそんで」(マリー・ホール・エッツ著)を読んだら、ある胆汁質がかなり強いお母さんが、「全く意味が分からない。なんでこんな絵本があるのかすら分からない」と無茶苦茶に言っていましたが、でも、この絵本は世界的にも有名で大好きな人もいっぱいいる絵本なんです。ですから、「全く意味が分からない」というのは「絵本の質の問題」ではなく「相性の問題」に過ぎません。皆さんが「くだらない」、「退屈だ」「訳が分かんない」と感じる絵本も、そういうものがちゃんと出版されているということは、そういう絵本が好きな人もいるということなんです。これは、洋服や自動車などのデザインでも同じです。「えー、こんなダサい服着る人なんか要るのか」と思う人もいれば、同じものを「これ、素敵」と思う人もいるのです。ですから、皆さんがそれらのものに対して感じる評価は、絶対的なものではなく、相対的なものに過ぎません。すべからく、「評価」とか「価値」というものはみんなそんなものです。だから、「自分はそう感じた」ということだけを根拠にして、相手そのものを否定してはいけないのです。「対人関係」や、「子育て」という場でも同じことが言えます。子どもがドロンコで遊んでいる姿を見て「こんなバカなことをして」とか「こんな不衛生なことをして」と感じる人もいれば、「素敵な遊びをしている」と感じる人もいるのです。その時、大切になるのは「その相手がそれを喜んでいるかどうか」ということです。子どもに与えるものは「大人の価値観」ではなく、それを受け取る「子どもの価値観」に合わせた方がいいのです。「大人の価値観」を押し付けてばかりいると、子どもは自分の育ちに必要なものを満たすことが出来なくなってしまうからです。ただし、だからといって「子どもが望むものばかりを与えなさい」ということではありません。時々、子どもとの対立を避けるためにそのような子育てをしている人がいますが、そういう子育てをしていると、子どもが幼稚園などに入ってから困ることになります。お菓子でも、子どもが喜ぶからと言ってチョコレートやアイスクリームのようなものばかりを与えていたら、後で困ったことになってしまいますよね。それと同じです。「絵本」や「おもちゃ」選びでも同じなんです。「じゃあどうしたらいいのか」ということですが、一番簡単な方法としては、ちょこちょこと子どもたちを図書館に連れて行ってあげて下さい。そして、好きな本を見せ、好きな絵本を選ばせて下さい。本屋さんなどに行くと、チョコレートやアイスクリームのような本もいっぱいあるし、冊数も少ないので、選ぶ範囲も狭くなってしまいます。また、内容をゆっくり見て選ぶことも出来ません。値段も高いです。でも、図書館ならばそれなりにちゃんとした本しか置いてありません。また、タダですから、色々と借りることも出来ます。それに、子どもを本がいっぱいある環境に連れていくことで、子どもの意識や好奇心も変わっていくものです。色々な本に触れることで、成長とともに、興味や好奇心が変わっていくこともあります。動物の本に興味を惹かれ動物博士になる子もいるでしょう。工作の本に興味を惹かれ、工作名人になるこもいるでしょう。そういう可能性が図書館にはあるのです。そして、お母さんも「自分に合った絵本」を探してみて下さい。子どもに伝えたいことがあったら、それに関した絵本を選び、読んであげるといいです。そうすることで、お母さんの価値観を、お母さんからの押し付けとしてではなく、一つの物語として子どもは受け取ります。子どもが「この絵本つまんない」と言っても、「一つだけお母さんの好きな絵本も読ませてね」と読んでしまえばいいのです。その時、聞いていなくてもいいです。子どもは「耳」で聞くだけでなく「からだ」でも聞いていますから。聞いていなくてもからだには入ってしまうのです。
2016.01.04
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時々、絵本の読み聞かせなどの意味を取り違えているお母さんがいます。そのようなお母さんは絵本を読んだ後、感想を聞いたり、話をちゃんと理解したかどうかを確認しようとします。また、選ぶ絵本も「くだらないもの」は避けて、なるべく教育的なものを選びます。さらには、絵本を、「文字などを教える教材」として考えている人もいるでしょう。それはまるで学校の授業のような感覚です。もしかしたら、そのようなお母さんは子どもに「自分の努力の成果」を求めているのかもしれません。でも、このような読み聞かせでは、「物語」が子どもの頭の中に残るばかりで、心やからだの中に入っていかないので、心やからだを育てる力にはならないのです。子どもはハラハラ、ワクワクしながらお話を楽しむだけでいいのです。物語の筋など覚えていなくてもいいのです。感想など言えなくてもいいのです。家庭や幼稚園で、そのような「結果を求められる読み聞かせ」ばかりを受けている子に絵本を読んであげようとすると、「この絵本、ぼく知っている」といって、話を聞かずに読み手よりも先に文字を読んだり、次はこうなるんだよと解説したりすることがあります。また、「ネコが長靴を履くなんて変だ」などと大人のような批評をする子もいます。そのような子は造形などの場でも、「今」を楽しむことが出来ずに「結果」ばかりを気にします。素直に「今やっていること」を楽しめないのです。でも、「今」を楽しむことが出来なければ、当然「次」を楽しむことも出来ないのです。大人が結果ばかりを気にした子育てをしていると、子どもも結果ばかりを気にするようになるのです。これは子どもにお手伝いをしてもらう時も、お勉強をする時も同じです。楽しくできているのなら、ちゃんと出来なくても、成績につながらなくてもいいのです。「楽しさ」を知っているなら、そういうものは成長とともに後からついてきます。でも、「楽しさ」を知らない子は逃げようとするばかりです。そのため、いつも結果を求められていると、出だしは良いのですが、思春期頃から急に失速してしまうのです。
2016.01.03
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昨日は、4人の子どもと長女の旦那さんと、久しぶりに家族全員が集まって新年会をしました。長女は結婚して家を出ているし、長男は職場も茅ヶ崎市内なのに下宿して仕事に通い、2女は大学が東京なので祖父母の家に下宿しているので、なかなか全員が集まる機会が少ないのです。普段家にいるのは高校3年生の末っ子だけです。子どもたちがまだ「子ども」の頃の、「うるさいうるさい」、「忙しい忙しい」と過ごしていた日々が懐かしいです。皆さんも今は忙しくて、重労働で大変ですが、やがて子どもたちは離れていき、寂しくなりますよ。実は、忙しくて大変な時が一番幸せな時でもあるのです。でも、多くの人が、その時にはそのことに気づかず、過ぎてしまってから気づくのですけどね。今年はその全員にめでたい話題が多かったので、非常に盛り上がりました。長女は1月末に出産予定です。名前もほぼきまり、色々な赤ちゃん用品も準備しましたが、なかなか元気な赤ちゃんのようで、くるくる動き回り、今現在「逆子」状態です。先日も逆子だったのですがその後、元に戻りほっとしていたら、また逆子になってしまいました。うちの3番目の時も同じような状態だったので、3番目と似たタイプの赤ちゃんなのかもしれませんが、みんなで「元に戻れ」とお腹をさすっていました。4番目を取り上げてくれた助産院で出産する予定なのですが、逆子が戻らないと病院での帝王切開になってしまうので、みんなで真剣に話しかけさすっていました。長男は彼女がいるのですが、噂が広まるのを恐れ、どこの誰なのかを教えてくれません。でも、それ故に様々な推測が可能で盛り上がりました。2女は家族づきあいしている幼馴染と付き合っていることが去年の暮れに発覚し、これも大騒ぎになりました。(家内と彼の母親が「あの二人怪しい」と秘密会議をしていました。)また、就職も決まりました。(横浜市のプレイパークのプレイリーダーになります。)4番目は第一志望に合格し、今は一番お気楽な状態です。もう、「子育て」は終わったようです。みんな「自分の道」を歩き始めています。「子育て」には終わりが来るのです。だからこそ、「今」を楽しんで欲しいのです。
2016.01.02
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明けまして おめでとうございます。(今朝、我が家のロフトから撮った写真です。ちょっと身を乗り出さないと撮れないんですけどね。)新しい物語がまた始まりましたね。今年もお付き合いください。ここからどんどん明るくなって、春がやって来ますよね。春には、地の中、幹の中、からだの中といった「見えない世界」に眠っていたエネルギーが外に向かって溢れ出します。そして、花や、葉や、行動や、成長といった形で「見える世界」の中に生まれてきます。眠っていた生命のエネルギーが解放されるのが「春」です。そこには「束縛からの自由」があります。ちなみに「多血質」という気質はそんな「春」に似ています。夏になると、春に生まれたものがもっとしっかりと、具体的な形を取り始めます。そしてそれぞれに「自分」を実現し始めます。自然の中は生命でいっぱいになります。光は強くなり、柔らかい色合いは消え、コントラストが強い世界が生まれます。そこには「強い意志」と、「行動の自由」があります。「胆汁質」は夏に似ています。秋は春の反対です。外に向かっていたエネルギーが、地の中、幹の中、からだの中といった「見えない世界」に帰っていきます。「見える世界」にあったエネルギーが「見えない世界」へと戻っていくのです。光も失われていきます。そこには寂莫とした寂しさと不安があります。でも、「見える世界」での活動は減りますが、そのエネルギーが「見えない世界」へと流れ込むため、「見えない世界」での活動は活発になります。「行動の自由」は減るのですが、その分「思考の自由」はより高まるのです。「憂鬱質」とはそんな感じです。冬になると見える世界での活動は最小限になります。野山もその華やかさと賑わいを失い、昆虫は姿を消し、動物たちは眠りにつくか、ただ生き延びることだけに精いっぱいになります。光は弱くなり、世界の色はくすみ無表情になります。でも、それは「見える世界」での話です。「見えない世界」では、「春」の準備を始めているのです。「冬」は「春」のための下準備をする期間なんです。ですから、「冬」は見かけは無表情ですが、「内側の世界」は豊かなんです。それが「粘液質」の特徴でもあります。
2016.01.01
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