2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
全27件 (27件中 1-27件目)
1
昭和51年、対阪神戦。末次利光(現巨人編成部長)が打った一撃。0-2で敗色濃厚な場面、2死満塁、投手山本和行から打った一撃。さすがにこの一打自体も歴史になっていますが。長嶋監督の満面の笑みで両手を広げてホームに迎える姿が有名で、数年前ジャイアンツカードの長嶋監督の名シーンにもなっていました。当時は地上波のみ、G+なんて便利なものはありません。テレビの中継が終わった後、ラジオ(と言っても、東京から名古屋に辿り着いた電波なので雑音まじり)で結末を聞いていた様な記憶が。これまでに、巨人の逆転サヨナラ満塁弾は、川上、樋笠(代打)、広野(代打)、そしてこの末次と4人しかいない(と思う)。ちなみに、樋笠さんの逆転弾は日本初の代打逆転満塁サヨナラ弾、中日のエースだった杉下さんから(元巨人コーチ)。もうただただドラマですね。考えてみれば、サヨナラ試合だって、年に数試合。その中でサヨナラ本塁打、ましてや逆転満塁なんて20年に1本の確率。それはそう考えると、一昨年の原俊介のサヨナラ死球というのもすごい確率(観戦していた我々はお笑いサヨナラと言っていました)。2000年の翌年に、渡辺オーナー(当時)が言っていました。「ドラマのない位(強い)シーズンの方が良い」と言っていましたが、それはそれで多少のドラマもないと、寂しい。なかなか、複雑です。やっぱり、サヨナラ慎ちゃんかな。去年、ライトスタンドで見たサヨナラ弾を再び!
2005.02.27
コメント(7)
本日、ドームの開幕戦(広島)及び次週(中日)の発売日。今週は疲れたので起きれるかなあ、最悪e+かなと思いながら早めにベッドへ。身体は疲れていても、精神が反応しました(笑い)。ズムサタを見ながら、用意をして出発。○○(発売場所)に着くと、見た顔や観戦のお友達が。ああ、春もすぐそこ。予備抽選の列に並んでいると、カウンターの中のお姉さんが手を振ってくれて(後述)。「あれ、覚えていてくれたのかな」と思いながら、こちらも。当たりでもなく外れでもない番号。。まあ、運はシーズン後半に取っておこう。どこの席になったのかは別の機会に。店員のお姉さんの話というのは、昨年。そこでは、ジャイアンツグッヅも売っていて、チケットの予備抽選をしたあと、清原の2000本安打のパネルが売っていて。その横には、ミスターのパネルが。私「ミスターのパネルはいくら」店「それは売り物じゃあなくて」私「え~っ、欲しい×5」店「ちょっと奥で」そこには、ミスターの生写真(といってもサービス版ではなく4ツ切、A4サイズの)が。私「いくらなんですか」店「××」私「今日は手持ちが少ないので、買えるだけ買って帰ります。また来ますのでその時は」数週間後の、次回のチケット発売日私「お願いします。全部、各2枚」店「冷静になってください???」私「冷静になっているから、買いに来たので。ちゃんと銀行でお金もおろしてきたし」とは言え、小旅行をすればかかる位の程度。友人の分は実費をもらったし(マージンは抜いていません、念の為)。今日の会話は、私「手を振ってくれたでしょ、抽選の時(もちろん返しました)」店「だって長嶋ファンの、いつも清原ファンのお兄さんと一緒にチケットを買いに来ている」あまりにもあれはインパクトが大きかったのか。。チケット購入後、友人と昼食を取った後、何か新しいグッヅはないかなと再度来店、別の店員さんとの会話。店「長嶋ファンですか。置いてあるのだけれど、みんな気づかないものが一つあるんですよね」と言われて、視線を移すとその先には定本(定説?)・長嶋茂雄(厚い本です)。何気なく手にとろうとすると、店「ちょっと待って」と奪い取られて、大切にカバーを外し。店「長嶋さんが引退した(昭和49年)の翌年に出た限定の」私「知っています。何部限定かは忘れたけど、通番がついていて、1番は天皇家にあって(天皇ご用達)、3番は長嶋さんが持っていて」店「お客さん良く知っていますね(当時私は小学生)。これは当時の金額で4万円(現在なら10万円位?)。限定1000部で、長嶋さん本人のサインが織り込まれていて、毛筆で書くのに1週間かかったとか」また、ミスターのトリビア(本当にトリビアだ)が一つ増えました。
2005.02.26
コメント(4)
大正力とは初代オーナーの正力松太郎氏のこと。この人がベーブルースを日本に呼び、巨人軍を創設した、プロ野球の父です。「巨人軍は紳士たれ、巨人軍は強くあれ、巨人軍はアメリカ野球に追いつき追い越せ」というのが球団・選手に向けた言葉。故水原茂さん(元監督)が以下の内容の発言しています(巨人軍栄光の40年より)。「巨人軍はなんといっても球界のリーダーであり、先駆者だ。技術、品格とも一級でなければいかん。ただ、正力さんの言葉をはきちがえてはいけない。正力さんはあくまで勝てとはいわなかった。「巨人軍は強くあれ」といったのだ。これはプロ野球を大きく発展させるためにいったことで、巨人軍ばかり勝っていては発展しない。(中略)『勝敗はどうあろうと最大の努力でいいプレー、いいゲームをみせるのが巨人軍だ(昭和30年、日本選手権で南海に1勝3敗と追い詰められた時、3連勝で逆転、日本一に)』といったが、この精神だけはいつまでも忘れないでほしい。」この精神で行けば、きっと勝利につながるはず。
2005.02.25
コメント(10)
記憶に残るシーズンってありますよね。ファン一人一人に思いがあると思いますが、私にとっては1976年、1994年、2000年。みんな長嶋監督の年。1976年(昭和51年)は、(第一次)長嶋政権2年目。監督初年度は球団史上初の最下位(この年の投手陣が、最下位と再開をかけて、「さいかい」という集まりを行っているとか)。トレードでは、張本外野手(あの「活!」の方です)と加藤初投手を獲得して快進撃。高田選手の三塁へのコンバートなんてのもありました。130試合目の広島球場、小林繁(前近鉄コーチ)-吉田のバッテリー、最後のバッターを三邪飛に抑えて、ウイニングボールは山本和生が捕球。広島球場でのミスターの胴上げが秋色に染まって美しかった。この年は、筋書きのないドラマがいくつもあったのですが、それは明日にでも。ミスターのエピソードといいながら、結局お前の思い出と言われてもくじけません(汗)。日記ですから。。。
2005.02.24
コメント(4)
あの有名な引退試合、昭和49年10月14日(月)。後楽園球場での対中日ダブルヘッダー。前日の試合が雨で流れたため、月曜日に。私は見ていました。小学校から帰って、テレビで。あの有名な台詞、「私は今日ここに引退いたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です。」も聞いて涙した記憶があります。あの落合さん(現中日監督)も、会社(当時、東芝府中)をサボって後楽園球場の外野席に駆けつけたとか。以前、テレビの番組で外野にいる落合さんの映像を引き伸ばしていたのを見た記憶があります(ぼけぼけでしたが)。ビデオで見ると当時、私設応援団はベンチ上。応援は手拍子。長嶋選手が打席に入ると手拍子は最高潮に。8回裏、最後の打席はダブルプレー。一塁ベースを駆け抜けた長嶋選手はゆっくりとスピードを緩め。。。ゲッツーのチョーさん、というのもミスターのあだなだったのですね。
2005.02.23
コメント(5)
2001年9月30日(日)東京ドーム。この日付で分かります。長嶋監督、斎藤・槙原の両エース、そして村田捕手の勇退試合、ドームでの最終試合(翌火曜日には甲子園でのシーズン最終試合)。この数日前に、長嶋監督が勇退記者会見を行ってから、異常な雰囲気でした。優勝も(ほぼ)決まった消化試合、でも(サッカーワールドカップの2002年まで監督を続けると思われた)長嶋監督が勇退発表をしてから、周りは狂乱状態。私の友人は、「いくらでもいい、とにかくチケットを。ミスターのドームでの最後の姿を!」「いくらって、本当の上限は?」「20万(!!!)」(新橋のチケット屋さんでも、C指定が5万円の値段がついていた。。(通常は開幕のライトでも2~3万、当時)なんて次第。最終試合のチケットを持っていた友人に頼み込んで席(C指定)を定価で確保しましたが。私は現実逃避モードで、眼の前で起きている事(勇退試合)を受け入れない。友人は友人で、通常のコンタクトを外してメガネにしてわんわん泣いているし。試合の開始前、真剣に悩みました。この人、2階から飛び降り様としたらどうしよう(日露戦争の乃木大将が、明治天皇が崩御された時に殉死されたという事ですが、そんな気分)。2日程考えた末に結論が。「ミスターは来年も新生原ジャイアンツを応援してくれる事が一番嬉しいはず」、これならきっと。試合終了後は、呆然自失やら、泣く人やらで、いつもと違う雰囲気のドーム。友人は泣き続けていましたが、とりあえず意識はある様。ドームホテルの入り口が見える処まで行って、ここまでくれば大丈夫(宿泊客だし、さすがに泣き続けていたらホテルの人が来てくれるだろう)。それから、JR水道橋から四谷まで出て、地下鉄に。でもふと思って、友人の自宅へ電話をかけました(思わず)。「わんわん泣いていました(失礼)が、意識はありました。ドームホテルの入り口が見える処まで行ったので大丈夫だと思います」。当然の事ながら、私以上に家族は心配していた様です。後で大変感謝されました。でも、一番心配したのは私、一体どうなっちゃうんだろう、この人って真剣に心配しましたから。こんなファンが一杯いるミスター、元気な姿をみんなで待っています!
2005.02.22
コメント(7)
以前ある雑誌で「日本人に最も愛された男」とありました。これ以上の説明はない様な人です。巨人監督復帰(第2期)以前の浪人中はシーズンオフ毎にどこの(球団の)監督になるかを騒がせ続けたし、年に一度は雑誌で特集号が出ました。売れるんだな、これが(私はもちろん、持っていますよ)。私の友人(テレビ東京系の福岡局)から聞いた話なのですが。2003年のホークス(王監督)×タイガース(星野監督)の日本シリーズ。お互いに本拠地で白星をあげる内弁慶シリーズで、もつれて第7戦に。福岡ドームで行われた放送席のブースは解説:若菜嘉晴、江夏豊(結構迫力ありそうだ)ゲスト:川相昌弘という面々。試合開始前の緊張漂う中、何か違う雰囲気が、そして「う~ん、みなさん頑張って下さいね」。振り返るとあの人が。そして風の様に去っていった。シリーズの翌週から、アテネ五輪へ向けた長嶋ジャパンの練習が始まるという事で福岡(別名とんこつ)ドームにいたのですね。でも、その関係の友人に言わせるとプロ野球OBの中でも長嶋さんは超別格(王さんは現役の監督なのでちょっと違うのでしょう)、そして西鉄ライオンズOBでは稲尾さん。スーパースターの中の超スーパーなのでしょう。ミスターのサイン入りグッヅ、一体どこまで上がるかと思っていたのですが(期待と心配)。「額に飾ります」と言う様なファンの手に入って、人事(ひとごと)ながら嬉しい。
2005.02.21
コメント(6)
ミスターの近況 脳梗塞(こうそく)からの社会復帰を目指してリハビリ中の長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が20日、69歳の誕生日を迎え、都内で家族が開いたお祝いのパーティーに出席した。 球団関係者によると、巨人軍監督を勇退後も毎年この時期はキャンプ視察などで忙しく、家族そろっての誕生祝いはまれ。長嶋氏は長男の一茂氏(巨人軍球団代表特別補佐)がともしたケーキのろうそくの火を元気に吹き消し、宮崎で行われたチャリティー・オークションで自らのサイン入りグッズが高値で落札されたことについては「本当?」と驚いた様子を見せていたという。 既につえなしで歩けるまでに回復している長嶋氏だが、最近は倒れた直後にマヒの残っていた右足の機能回復が進んで歩幅も大きくなり、先月初めの散歩の際に5000歩かかっていた距離を今は4000歩程度で歩いているという。(読売新聞より) よかったよかった。次は元気な姿が見えそうですね。-ここまでを追加-本日2月20日は、私の回り(友人)では記念日。ミスターこと長嶋茂雄さんの誕生日です。もともと、ニックネームの多い方ですが、仲間内でも、勝手に自分の世界が作り上げられて、御方(おんかた)、茂雄(しげお、親愛の情を込めて)、お上(おかみ)等々。一体なんやねん。長嶋ジャパンドリームプロジェクトでは、すぐ後ろに並んでいた(見知らぬ)人がテレビ局のインタビューで、(再度のネタですが)テレビ:「誰を見に」その人:「長嶋」思わず反応、殺気を飛ばす我々。一言も言葉は発しないものの。その人は、数秒たったあと、何にも言われないのにその人:「長嶋監督」と言い直しました。一昨年の札幌ドームでのアテネ五輪予選では、長嶋監督の背番号3のユニフォーム(まだ、JAPANのユニフォームは売っていなかったので、ジャイアンツの)が3人揃って。。。(台湾戦はライト、韓国戦にはレフトにいました。週ベにも米粒位ですが載って)あまり知られていない長嶋茂雄のトリビア。ジャイアンツ入団後の明石(兵庫県)でのキャンプで初めてキャッチボールをした相手は馬場正平さん(あのプロレスに転向したジャイアント馬場さん)。開幕戦の国鉄、金田投手に4打席4三振に抑え込まれたのは有名な話ですが。実はその前に。3月の後楽園(現東京ドーム)での西鉄(現西武)とのオープン戦(前年の日本シリーズの対戦カード、春の日本シリーズと呼ばれていたらしい)、中西太選手の打った打球が物凄い速度で長嶋三塁手の股間(脇?)を抜けて行ったとか。キャンプ、オープン戦を通じて、順調に行っていた長嶋選手がプロの凄さを感じた最初の経験だそうです。早く、元気な姿を見たい。一体、何人の日本人が待っているやら。
2005.02.20
コメント(12)
「人の心は金で買える」(本日の日経)「(楽天とプロ野球に新規参入に手を挙げていた時)ファンは年に数回来させればいい」現在をときめくライブドアの社長、ホリエモンこと堀江社長の言葉(だそうです)。ライブドアが手を挙げた事で、プロ野球は今シーズンも12球団体制が維持されました。そう言う点では、野球界の大功労者。それは私も認めます、十分に。でもね、(仮に心の中はそう思っていても)お客様は神様ですって言っておけばいいのですよ。きっと、パの球団の親会社は球団経営を止める訳にもいかないし。社会やファンの反発もあるしと思っているのは明らかだし。だから、ライブドアが球団を持っても、ファンにはならないだろうなあ、絶対に。まあ、もっともライブドアにとってもこんなファンが一人どうこうなろうと構わないだろうけど。
2005.02.19
コメント(8)
ちょっと、いや大変感動しました。119番 声が出せない急患「受話器たたいて答えて」 東京消防庁ナイスプレー 内容は脳梗塞が発症した人が119番したものの声が出ない、異変を感じた東京消防庁の職員さんが順番に住所を呼び上げ、患者さんは無事救助されたそうです。110番、119番には毎日何万件ものコールがあるそうです。その中にはいたずら電話もかなりの数があるそうな。(掛けた事のない人にはその気分も分からない)ファインプレーの東京消防庁の職員さんには、ただただ拍手です。機転を利かす事、相手を思いやる心の難しさ、でもそれが生かされた時のすばらしさなのでしょうね。さてさて、キャンプ真っ最中の野球界。併殺、中継の時の相手の受けやすい処、捕球してから投げやすい処に投げる事もそうなのでしょう。オープン戦まであと1週間。しつこい様だけれど、最高のファンサービスはグランドでの素晴らしいプレーです!
2005.02.18
コメント(5)
同級生(巨人軍)の寂しい変身豊田泰光氏(元西鉄、国鉄)が本日の日経新聞に書いていました。豊田氏は昭和10年2月生まれ、東京巨人軍は昭和9年12月誕生の同級生です。「この”同級生”たる球団の宮崎キャンプはというと、さして見るべきものはなかった。ただ一つ、積極的にサイン会を開いているのが目を引いていた。野球の変革期を迎えて球界の老舗も変わろうとしているのだろう。だか昔は「会」を開かなくても行列ができたし、逆にいえば巨人はファンにへつらうようなまねをしなかった。(中略)巨人のままでいればいいのに。」私はそんな事はないと思います。時代が変わるにつれて、ジャイアンツも変わるのは良いこと。ましてやファンサービスにつながることがどうして悪いのでしょう。もちろん、最高のファンサービスは試合での最高のプレーと勝利ですが。そのジャイアンツの努力を、ファンは信じよう。蛇足ですが、豊田氏は西鉄黄金期の主力打者、そして歯切れの良いコメントでファンも多い解説者です。一方で、10年選手(現在のFA制度に相当)で、西鉄を出た人(もちろん、事情は我々には伺いしれないものがあるのでしょうが)。中西、稲尾と黄金時期を形成した選手が監督として苦労したのとは対照的に。。。あと、知り合いから聞いた話ですが、西鉄OBとして年に数度ホークス(注:西鉄は福岡が本拠地)にやってくるとか。でも、なんとなく敬遠されているのだそうな。稲尾さんは別格だそうな、なんとなく納得(といのは軽率かな)。
2005.02.17
コメント(6)
ず~っと、不思議に思っていました。三澤(現ヤクルト)の決め球は、落ちないフォーク。冗談だと。だって、変化しなければ某球、絶好のホームランボール。でも、一流の打者にとっては変化球が変化しない場合には、チェンジアップの効果がある。同様に、曲がらないカーブが世界の王を悩ませた。江夏投手(阪神)と相対した時、王さん(巨人)はうちに行く寸前、<カーブだ>と分かっていたらしい。真っ直ぐに比べて、スピードが極端に落ちるから余計にわかるという。ところが、それで実際にカーブが来ても、曲がらないためにタイミングが合わなくなる。曲がる感覚で打ちにいったところが、ファ~と抜けてくる。王さんにとっては、カーブではなくチェンジアップに近かったようである。ゆえにストライクゾーンに来ても手が出ない。だから、すっぽ抜けた球を打つのは二流の打者?それとも、現在のイチロー、松井クラスは、すっぽ抜けた球をすっぽ抜けた球と認識して、ヒット、ホームランを打つのだろうか。。。
2005.02.16
コメント(8)
清原が参加するという報道を聞いて、嬉しく思うと共に懐かしく思いました。プロフィールにも書いてありますが、私のファン暦はV9の後半。オールスターでも、日米野球でもONが公式戦と同じ様に、3・4番を打っていた時代(毎試合とは言わないが)。かすかな記憶ですが。1996年の日米野球では、ちょうど清原がFA宣言した時点。何と言われ様が、3・4番を清原・松井(まだ清原の巨人入りは決まっていませんでしたが)を占めた事をひそかに?嬉しく思ったものです。ジャパン・ドリームの巨人の野手は清原だけなのですね。キヨ~、存在感に加えて、プレーでも見せてくれ~!
2005.02.15
コメント(11)
セコムのマウスパッドを手に入れました。もちろん、長嶋さんの。東京ドームのライトスタンドの上にある姿。そう、清原が特大アーチを看板にぶち当てた時に、試合後のインタビューで「不肖(ふしょう)長島茂雄の、えへへ」と言っていたあの姿です。だから、気分はライトスタンド。(PCの前においてあるので、見上げなくても眼に入る)シーズンも、ミスターの元気な姿も、清原の勇姿も待ち遠しい(暦の上では)春です。
2005.02.14
コメント(9)
日米野球があると毎回話題に上がるこの試合。昨年の様な、「選抜」ではなく、3番ベーブ・ルース、4番ルー・ゲーリックの正真正銘の全米軍との戦いです。澤村投手はオールスター軍を5安打に抑えたものの、ゲーリックの一発に敗れました。昭和9年11月20日日米野球第10戦 静岡・草薙球場全日本軍 000 000 000 全米軍 000 000 10Xとは言え、こんなエピソードも。全米軍の打者は、「どうも強い日光が真正面から眼に入ってくるので、白い球が光ってよく見えない。。」(その後、草薙球場は改装により、ホームプレートの位置も変わったそうです)また、ゲーリックの本塁打も、「な~に、フェンスぎりぎりに入ったのさ」(たしか水原さん)とか。試合後、コニー・マック全米監督が、澤村をアメリカに送らないか?という提案に、鈴木惣太郎氏が本人に聞くと「わし言ってみたいが、こわいわ。。」あれから70年、日本野球も変わったものです。でも、この試合があったこそ現在の日本野球があるのには違いありません。天国の澤村さんは、上原問題をどんな思いで見ているのでしょうか。。。
2005.02.13
コメント(6)
本日はドームのオープン戦チケット発売日でした。10時発売開始で、首尾良くインターネットでつながるも、手続きをしようとした時点の10:03では既にライトスタンドは完売。一瞬(1秒)考えて、ログオフ。まあ、財力と体力と気力?はシーズンに取っておこう。2000年頃に比べてチケットが取りやすくなったのは確かなので、ライトスタンドなら平日でも行くのが、最近の観戦パターン(熱心なのか、そうでないのか自分でも良く分からない)。もう公式戦では、レフトには2年位行っていない。ドームのチケットは、S指定(内野)とライトが最初に売り切れ、以降A指定→B指定→C指定と売れていきます。最後に残るのはレフトスタンド。ただ、阪神戦は、虎ファンが並ぶので一番早く売り切れるのはレフトスタンド。チケット売り場では、レフトスタンドが売り切れた時点で整理券を他のファンに渡す虎党もいたりして、それでたまにライトが買えたりする(苦笑)。開幕戦(公式戦)のファンクラブの申込は明日から。それ自体は嬉しいことだけど、レフトスタンドも申し込めるってどういう事?ドームで巨人ベンチ(一塁)を見たいと思って、三塁側(ビジター)の内野S指定をわざわざ取るファンはいますが。レフトスタンドはないでしょ。それならライトの枠を増やして欲しいなあ、10席でもいいから。
2005.02.12
コメント(12)
藤本投手と言えば、日本初の完全試合、スライダーの元祖、巨人軍の日本シリーズ初戦(昭和27年)の初先発・初勝利・初完封。はたまた、明治大学時代は、ブルペンでキャッチャーがマスクをつけなければいけなかった唯二の人(もう一人は、海草中学(旧制)の嶋清一投手。甲子園の大会史上初めて5試合連続完封の全国制覇を果たし、しかも甲子園史上唯一となる、準決勝・決勝の2試合連続ノーヒットノーランを達成)。藤本投手のデビューは戦争たけなわの昭和17年9月17日の後楽園。異例の予告登板。観客は16,924人にのぼり、これが戦前の後楽園の最高入場者数。とは言え、藤本投手は1ヶ月程ボールを触っていない状態。藤本定義監督(当時)によれば、もし藤本英雄がコンディションを整え万全で登板したら、戦争で質の落ちた当時のプロの打線ではとうてい打てるはずがない。完璧に抑え込まれるのは目に見えている。しかしそれでは、「なんだプロは、六大学より弱いのか」と世間から見られてしまう。ここはなんとしてもプロの強さを見せておかないとメシの食い上げにもなりかねない。そこで本人には悪いが、まだ調子の上がらぬうちにデビューさせた。(現在なら、新人だから打線の弱いチームに登板させようという事はあっても、こんな事はありません)こんな状態でも3失点、味方の援護もあり初勝利。そこからシーズン10勝無敗、防御率0.81!さて、現在キャンプで頑張っている2年目の内海、新人の野間口、三木の活躍を期待しましょう。
2005.02.11
コメント(2)
成績の悪い時は外野席がうるさいのは世の常。長嶋政権第一期(昭和50年)は球団史上初の最下位。巨人軍OB会の席上で会長の鈴木惣太郎さんがのっけから私案を披露。「OB会が手をこまねいているのは申し訳ない。一つの案として聞いてほしい。OB会が今の巨人軍に対し、もう少し自分の方から進んで語らうことが必要だと思う。ただ一年に一回集まるだけでは物足りない。何かと相談しあって激励というと言葉が強すぎるが、現役組と仲良く話し合う機会を作りたい」OB会のムードをがらりと変えたのが乾杯の音頭を取った水原さん(草創期の名三塁手、巨人軍監督昭和25年~35年)。「勝負の世界に浮き沈みはつきもの。鈴木惣太郎会長、正力オーナー、長嶋監督のあいさつには悲壮感を感じたが、今さら歴史を汚したとか、死んだ子の年を数えるような事は本意ではない。それは愚か者のやることだ。私の21年の監督生活(注:巨人-東映―中日)から言いたい。他人がとやかく言うよりサイ配をふるった長嶋監督自身が一番よく知っている。失敗した時こそ男は今度こそやってやろうと思うものだ。我々は静かに見守ってやろう。それだけで十分だ。来年がダメなら再来年がある」翌昭和51年、見事長嶋巨人はリーグ制覇。日本シリーズでは3勝4敗で惜しくも日本一には届かなかったものの、第6戦では0-7の劣勢から追いつき、最後はサヨナラ勝ちというシリーズに残る名勝負を見せてくれました。堀内巨人は、今年男の意地を見せて、くれることを信じています。そして、ファンは大きな声援を送りましょう!
2005.02.10
コメント(6)
トリビアはお休みです。(好評かどうかは分かりませんが)サッカーの日本対北朝鮮(埼玉スタジアム2002)をTVで見ていて。。。あの劇的な試合を見た人は感動だと思う一方で、帰るのは大変だろうなぁ。家に着く頃には日が変わっているかも。それに明日は平日。遠かったし、寒かったなあ。その試合は、1994年日本シリーズ巨人×西武の第5戦(西武球場)。斎藤雅樹が先発、1点ビハインドの9回表2死無走者でデーブ大久保が代打ホームラン。延長11回裏、救援の木田(現メジャーリーガー)が打たれてサヨナラ負けをしたものの、西武の救援陣を使わせて、第6戦は日本テレビの「全員野球の長嶋巨人は、ついに天下を取りました」。その試合は、また別の機会に譲るとして、当時は西武沿線に住んでいたのですが、延長になり午後11時になった事に加えて、帰りの電車(西武)には閉口しました。普通なら最寄の西武球場前(終点)から、ターミナル駅まで急行とか快速で一気に行くのかなと思うのですが、何故か各駅でとことこ。何の為に西武球場駅に列車を待たせているのか分かりません。それ以来、蓋ドーム(西武ドームの愛称!)には行っていないのですが、このアクセスが変わっていなければ平日は行けないなあ、日本シリーズでもない限り。やっぱり、球場へのアクセスは大切です。あらためて、新幹線や飛行機に乗って観戦に友人に感嘆!
2005.02.09
コメント(14)
少年野球でもかぶっているあのヘルメット。いつの間にか、自打球除けのスパイクに付けるカバー?(何というのだろうか正式名称は)が加わり、由伸でお馴染みの肘につけるレガース?(これも正式名称は何)が加わっている。最近は、野球カードで昔の名選手の姿を見る事も多いのですが、昭和20年代の川上選手の写真を見るとヘルメットはなく、何と帽子のみ(中にはさすがにスポンジを入れていたそうですが)。長嶋選手の頃にはヘルメットになり(ヘルメットを飛ばしている写真が多数現存!していますからね)、昭和40年代の半ば、確か田淵選手(前阪神コーチ)の頭への死球を機に以降は耳当て付きヘルメットの着用が義務付けられ、現在に至ります。ヘルメットが打者を守ってくれる一方で、甘えも出てくる様な。投手は万一当てても、打者は万一当たっても。昔は厳しいコースを突いても、当てないのが一流投手、当たらない、そして大怪我をしないのが一流打者の証拠だったとか。死球が多くなってきているのも、そんな背景がある気がしてなりません。清原、今年は無事シーズンを通して元気な姿を見せてくれ!
2005.02.08
コメント(8)
先発投手が8回とかで退いて、ヒーローインタビューの時にしているあれです。最近はすっかりお馴染みになって、普通に感じる様になりましたが。最初の頃は一瞬骨折したのかと(笑い)。でも、間近で見た事はないので(多分ゴム製?)。エース(というか当時の表現を借りれば主戦投手!)の連投は当たり前の時代。昭和11年に職業野球の最初の覇権を争った大阪タイガース(現阪神)との優勝決定戦には澤村栄治投手が三連投(洲崎球場での12月9~11日の3連戦)。当時にはアイシングの用具などなく、肩の熱を取る為に馬肉を当てて冷やしたそうです。澤村投手が、現在のドームに、人工芝にアイシングの設備を見たらどう思うのでしょうか。
2005.02.07
コメント(5)
千葉茂選手と言えば、花の13年組(川上、内海(現内海投手の祖父)と共に入団、戦前戦後の黄金時代の中核メンバーとなった)、華麗な守備とライト打ち、背番号3を長島茂雄に受け継いだ人、そして最後には、川上氏と巨人軍監督を争う形になり、自ら二軍監督、そして近鉄の監督になり「これがワシの最後の犠牲バントや」と巨人を去りました。ここまでは、だいたいどこの本にも書いてあるのですが。東京読売巨人軍50年史によると、昭和21年からの(戦争後の)公式戦再開に備え、20年12月に巨人軍の“生き残り”は多摩川・丸子橋合宿に集結、再建への道を模索した。 水原茂(戦前の名三塁手、後の監督)、中島治康(日本初の三冠王)両先輩が未役員の現在、誰を代理監督にするか、それが問題になり選手全員の投票で決めることになった。当時の中心選手と言えば、戦後初の東西対抗にも出場した藤本英雄投手(スライダーで日本初の完全試合を達成)と千葉二塁手の二人。選手間では千葉に抜群の人気があった。巨人軍再建仲間であった楠安夫(捕手)は、藤本英雄監督誕生のいきさつをこう語る。「戦後の混乱期でした。現在のように球団のフロント制があるわけではなく、代表の市岡さん、選手同士で選んでくれということで、監督選挙をやったわけです。もちろん千葉が当選した。その晩、藤本が、ボクと千葉が同室だった合宿に訪ねてきた。『ボクに監督をやらせてくれんか』という。千葉は貧乏ゆすりをしていたが、しばらくして『やりたけばやれよ』と言ったんです。千葉は役職にこだわらない太っ腹なところがありましたからね。それで千葉や私に相談しながらやる、今でいうトロイカ方式(当時、藤田監督、王助監督、牧野ヘッドのトロイカ体制)で藤本監督が決まったんです」こんな事があったなんて、つい最近まで知りませんでした。それが、千葉さんが選手やファンから愛された所以なのでしょう。
2005.02.06
コメント(6)
昭和9年に大日本東京野球倶楽部が設立、その時点ではジャイアンツ(巨人軍)という名前はありませんでした。翌年の米国遠征に備えて、渡米した鈴木惣太郎氏がフランク・オドーウル氏と話している際に、大日本。。。では長すぎる、何かニックネームをという事で生まれたそうです。当時は国際電話もほとんど使えず、電報だったので文字数も多くなり、経費節減の意図もあったとか。当時、日本で人気のあるチームがニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ)とニューヨーク・ヤンキース。ではトーキョー・ジャイアンツという事でどうだ、日本語で東京巨人軍。これがぴったりはまった事から使われました。興味深いのは、「人気のあるチームは」との質問に、「ニューヨーク・ジャイアンツ(1チーム)」と書いてある本が多い。当然の事ながら、ルース、ゲーリックがいたヤンキースは日本でも人気がありました(ヤンキースは米国人の俗称なので、早い時点で対象外になった様ですが)。松井秀喜がヤンキースに行ったのも何かの縁の様な気もします。あと、米国遠征中に仮の名前でトーキョー・ジャイアンツと言って、正式承認は得ていませんでした。帰国して諮ったら、それいいじゃないと正式承認になった経緯があります。もし、他の名前になっていたら、今頃どうなっていたのでしょうか。
2005.02.05
コメント(6)
奥歯の詰め物が取れました。詰めてからかなり(10年以上)経ったのと、虫歯になっていたので、取れた様です。麻酔をして治療したので、いてての部分も取り合えずなんとか我慢できる程度。何十年も治療してもらって感じていたのですが、下あごの奥歯は、歯が相対的に(より)固いので麻酔の効きが良くなくて、痛みを感じるのだそうな。なんとなく実感。王選手(現ダイエー監督)は、ホームランを打つたびに奥歯に物凄い力が加わって、歯はぼろぼろになっていたとか。来たるシーズンに備えるべく、シーズンオフには集中的に治療していたそうです。さすが王さん!デーブ大久保氏は、歯の治療がいやでシーズンオフにまとめて全身麻酔(汗)をして集中治療をしていたとか。来たるべくシーズンに備えて、歯の治療は現在の内にしておこう。。。
2005.02.04
コメント(6)
毎日、通勤途中で松井(秀喜)選手をCMに起用している会社の前を通るのでポスターが否応にも眼に入ります。(松井の活躍は嬉しいのだけれど、日本にいないのは複雑な気分)松井の凄いのは、もちろんあのホームラン、ファンを大切にする心、チャリティーの精神。それに加えて頑強な身体(プレーで骨折した事がないとか)。世代交代を迎えていくジャイアンツも、プレーに加えて、連続出場記録を達成する様な新星が飛び出てきて欲しいものです。
2005.02.03
コメント(6)
ここ数日は友人との話題もキャンプではなく、サッカーワールドカップ予選。来たる2月9日の北朝鮮戦。という事で、久しぶりにサッカーダイジェストを買いました。(代表の記事が多いので、個人的にはマガジンよりダイジェストが好き)その中で記事を見ていると、フランスワールドカップ2次予選の第1戦のウズベキスタン戦(1997.9.7)の記事が。懐かしいなあと思う一方で、初めて日本が世界を目指して戦う事になったと共に国立競技場が真のホームと思えて来た事を思い出しました。というのも、それまでのサポーターは、Aマッチであれ、クラブチームであれ、相手が有名なチームだと相手の有名選手への拍手の方が大きい始末(自分も含めてですが)。でも、この試合は違いました。大量の紙吹雪で日本チームを勇気付け、相手チームには大きなブーイング(というか殺気さえ感じました、初めて)。初めて国立球技場が日本の真の意味でのホームになった(純粋に日本を応援するという意味で)気がしました。この予選、日本は苦戦したものの、最終的にはジョホールバルでのイランとの決戦に勝ち、フランス行きを決めました。さて、今年の東京ドームは、ジャイアンツにとっての真のホームになるでしょうか。う~む、阪神戦ではニュートラルかなあ。
2005.02.02
コメント(4)
今週の週刊ベースボールで、松井(もちろん秀喜):-上原選手や井川選手がポスティング希望でもめていますが。「あれはおかしいですね。ポスティングに関しては、球団がいいというのなら別だけど、ダメならそこで終わりにしないと」「(ジャイアンツは)個人的には生え抜きの後輩に頑張ってほしいんですよ。(中略)彼らがチームを引っ張るという面で、もっと前に出てほしい」イチロー:-イチロー選手はそういう(ワールド・シリーズに進んで勝つこと)ことをあえて口にしない。これは何故なのでしょう。「それは選手としての当たり前の感情で、口にするまでもないことだから」何のコメントもいらないでしょう、プロ中のプロですね、この2人は。あとは二岡の打撃の連続写真、巨人阪神通産1000試合の長嶋・村山2ショット(もちろん解説者)ともりだくさん。(私は週刊ベースボールの回し者ではありません、念の為)
2005.02.01
コメント(10)
全27件 (27件中 1-27件目)
1