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2025.07.29
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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8~10ページ


(よしッ、製茶貿易をやろう!昔から英雄豪傑とたたえられている人は、必ず一生のうちにいく度かは、すべてをうるか、失うか?というような運命との格闘をして、美事にこれにうち勝った人である。いま製茶貿易の成功者とうたわれている人でも、知恵や頭の働きで、とても自分の手の届かない程のところにいる人ばかりとも思われない。ひょっとして運命が、どんなに温かい手を、自分にさし伸ばしていてくれるかも分らない。それは、やって見るよりほかに知りようはない。万一失敗しても、一生を駄菓子屋で終るよりは良いではないか!)

幾日か考え詰めたあとで、そう決心がついた。心が決まったら直ぐそれを実行に移す、だれがなんといおうとやり通す、これが、やはり藤三郎の生涯を貫いての性癖であった。彼はすぐに養父に自分の考えを話して、許してくれるように頼んだ。しかし、穏かな宿場町の菓子商として、別に不足らしい心を起したこともなく年老いてきた養父に、彼の気持が分ろうはずはなかった。

「製茶の思惑などというものは、もうけて喜んでいる一人の裏に、損して泣いている百人があるのを知らないのか。お前のように無経験な若い者が、そんなものに手を出したら損するは目に見えている。結局は、本業までも立ちゆかなくしてしまうのが落ちだ。飛んでもないことを考える奴だ。」

と藤三郎の申し出は、たちまち養父にひと蹴りにされてしまった。しかし、その位のことでヘコタレる彼でもない。毎日毎日、根気よく彼一流の理屈をたてて、養父を説き伏せようとする。養父はまた、若い者の屁理屈と、耳に入れようともしない。こうしたことがたび重なると、ときには大きな声を出しあうようにもなる。今までまことに平穏であった家庭の中が、烈風に吹き巻くられる砂漠のようになったばかりでなく、血気一図に思いこんだ志望を実現することのできない藤三郎は、不満の情に堪えかねて、今まで働き手と評判をとった家業までも顧みないようになってきた。
 父と子のこの争いの間にはさまって、いちばん苦労しのは養母のやすである。やすは、どっちかといえば、お人好しの夫伊三郎とは違って、なかなか男まさりの気性であった。それだけに、藤三郎の強い性格に対しても、夫よりは理解があった。
(このままでは、もらい当てたと隣近所からうらやましがられている養子の一生を、狂わしてしまうかも知れない。それはまた、自分たちの晩年を路頭に迷わせる結果にもなる。結局、同じことなら、今のうちに本業にさわりを生じない範囲で、やらせて見るほうが利口である。やって見たら、若い者の一本気で思いつめている養子の気も、冷静に考え直す余裕もできてくるであろう。)
 と思案した。そこで、極力夫を説いて、藤三郎の申し出に同意させた。そして、菓子屋のほうは、もと通り養父が受け持って、彼には1年ほど、知り合いの製茶貿易をしている人につけて見習わした上で、よそからささやかな資本を借りてやって、その範囲で、その商売に従事することを許した。

熱望をようやくかなえられた藤三郎は、手綱を放されたあばれ馬のように、大もうけをするという目的のためには、あらゆる悪辣な手段も抜け目なく用いて奮闘努力した積りではあったが、もともとブローカー的なことは性格的に合わない上に、資力は少なく経験も浅かったから、なかなか思うような結果は得られなかった。
 このようにして翌明治8年(1875年)も、彼は焦燥のうちに過した。
 青年の藤三郎が、こうした焦燥的精神状態に悩まされて投機的事業に走ったということも、一面から見れば、当時の人心が激しく動揺していた風潮に、無意識のうちに影響されたのであった。それは新たに政権を得た明治政府は、その4年(1871年)に、まず徳川幕府時代の藩をやめ県をおき、封建的な割拠制度を撤廃して、わが国を中央集権的な国家に統一して、その基礎を非常に強固にした。また、これと同時に武士階級の廃止、職業・住居・契約の自治、私有財産権の確保、貨幣経済制度の確立等の社会的・経済的な大改革を、台風のように断行したのである。しかし、これ程の大改革が、短時日で完成できるものではない。そこには当然、旧制度と新制度との間に強い摩擦と過渡期の混乱が起った。そして、政治的には各地に農民の暴動や不平武士の反乱が起り、経済的には物価が異常に騰貴して、わが国民は一大社会不安に襲われたのである。
こうなると人心は、着実に真面目な産業に従事するよりも、一攫千金的な投機事業に熱中したがるものである。この明治初年にも、この傾向は顕著であった。これについては、明治12年(1879年)発行の『明治開化史』(渡辺修次郎著)に、
『投機者、正路の商業を迂(う)なりとし、万一の僥倖(ぎょうこう)を求め、物価に非常の動揺を生ずれば、人其利に迷て破産する事少なからず、明治3年の豚、5年の兎、8年の薔薇の如き是れなり。就中(なかんづく)、兎の変動を甚しとす。其売買東京に流行するや外国よりも輸入し、其価貴きは数百円に至る。愚民其本業を棄て競ひて之を買ひしに、其価忽ち下落し、産を破り道に迷ふ日々相踵(つ)ぐ、甚しきは自殺する者あるに至る。』
とあるのを見ても、当時に状況を想像することができる。若い、まだなんらかの確かな信念を持たない藤三郎が、こうした社会不安の渦の中にあって、動揺し、焦慮したのは、無理もないことであるといわなければならない。
家を外にしがちの息子には、女房でも持たせたら少しは落着くであろうかという考えは、今も昔も変らない親心であるらしい。藤三郎の養父母も、またそれを考えた。この1,2年、あれこれと捜し求めたあげくに、同じ森町の天(あま)の宮という所に住む安間両助の二女かんという気立てのよい娘を、橋渡ししてくれる人があったので、藤三郎にも勧めて嫁にもらうことになった。
明治9年(1876年)1月15日に、若い2人の結婚式は挙げられた。このとき、藤三郎は20歳、かんは15歳であった。今から見ると非常に早婚のようではあるが、当時としては数え年22と17では、決して早いほうではなかった。


ああこの人を喪う 相田良雄

君は少年の時に、鈴木家の養子となったのであるが、鈴木家は、遠州森町で駄菓子製造を業としておった。君は報徳の教えを聞きながら、駄菓子売のような一文商売は好まなかったので、製茶の仲買をしておった。19歳の時に、荷物の宰領をして横浜に行くこととなった。当時始めてできた小蒸汽船に乗って駿州清水港を出帆した。他の人達は、この船が初航であるから危険に思って乗り込むことを躊躇したが、君は人がやらぬことならば、自分は飽くまでやるという負けぬ気象7分と、始めて蒸汽船に乗るという好奇心3分で乗り込んだのである。ところが相模灘で大風雨に出会(しゅっかい)した。ひどい荒れで、船は木の葉のように翻弄される。船員は風と波とを防ぐために必死である。飲むことも食うこともできず、いずれも死を覚悟した。三日(みっか)三夜(みや)海上に漂って、辛うじて横浜に着いたので、半死半生(はんしょう)の体(てい)で上陸した。君はひとまず某氏の宅を尋ねた。某氏は「船酔いなどは山に登ればすぐなおる。食事の用意をしておくから、山まで行ってこい」と言われた。これほど疲れているのにと思ったけれども、強情な君のことであるから、言われるままに山に登ってきた。そこで粥をすすって休息した。某氏は疲れ切った人に安心させると取り返しのつかぬことになるから、気を休ませぬために山に登らせたのであった。幸いに命ひろいをした。君はこの航海で既に死を覚悟したのが助かったのであるから、この後、いかなる艱難に遭遇しても、19歳の時に死んだはずであったと思って、その艱難に打ち克って来たとのことである。






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最終更新日  2025.07.29 05:50:02


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