イベント・ショー 0
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<ダンナと出会って、結婚して、その後>小学校に就職して、ダンナと出会った。うちのダンナは歌が好きで、教室でも子どもたちにいろんな歌を教えていたし、放課後も歌っている声をよく聴いた。ダンナが好きだったのは、デュークエイセスの「にほんのうた」の中の、福岡県の「ぼた山」という曲。「いい湯だな」や「女ひとり」などはヒットして、紅白でも歌っていたけれど、これはマイナー過ぎてyoutubeにも出てこない。子どもたちにも教えていたので、印象に残っているのか、同窓会があると、いつも「先生、ぼた山歌って」と言われ、一緒に口ずさんでいる。古いレコードの画像があった。「ぼた山」俺たちが、俺たちが、学校へ行く前の話さ。ぼた山で働いていたおふくろに、親父はどこにいるんだと、聞いたことがあったけ。俺たちは、俺たちは、親父の思い出が無いのさ。ぼた山で働いていたおふくろは、親父はこの山の底で、眠っていると言ったけ。まだ九州に炭鉱のいっぱいあった時代、採掘でできた廃棄物を積んでいたのがぼた山。その中でまだ使える石炭を探す仕事もあったという。でも、地滑りがあったり、自然発火があったり危険な仕事。ぼた山の下に眠っている父親を思い出して、そんな貧しく苦しい生活の中でも逞しく生きていくような歌だった。労働歌のような感じの曲だった。ダンナにはいろんな歌を教えてもらったし、一緒にハモって歌ったりもした。ダンナは、カントリーミュージックや民謡、労働歌など、いろんな曲を知っていた。それまで民謡はあまり歌ったことが無かったけれど、「刈り干し切り唄」や「南部牛追い歌」などいい曲もあるなあと思った。結婚してからも、うちの家はいつも歌声が響いていたと思う。子どもたちが小さい頃は、保育園で新しい歌を習うと、お風呂の中で、いつも一緒に歌っていた。フォークソングのヒット集のカセットテープのセットや、グレープのカセットテープを買って、長い休みになると、敦賀へ行ったり、旅行へ行く車の中では、いつもテープをかけて、みんなで歌っていた。レコードかカセットテープの時代だった。25年ほど前、「ロングバケーション」と「スマスマ」でSMAPにはまって、歌番組をいっぱい見るようになった。学校でも、高学年の子たちが思いっきり声を出すように、音楽専科の先生が子どもたちに好きな曲(レパートリー曲)を選ばせて、毎朝歌を歌い、全員で声が揃っていれば次の曲に進めるというような取り組みをしていて、子どもたちが歌詞を書いて教えてくれるので、いろんな曲を歌っていた。スピッツやミスチル、PUFFY、安室奈美恵、SPEED・・・etc。1996年から2002年ぐらいまで、その頃のヒット曲をいっぱい知ってるなあと思う。今は、ほとんど歌番組を見ない。たくさんある女性グループも、AKBぐらいまで。〇〇坂は歌も名前もわからない。ジャニーズグループも、歌を知っているのは嵐ぐらいまで。今は、Amazonミュージックやネットで曲を聴くことの方が多い。最近、ネットで見て歌が上手いなあと思ったのは、東亜紀という中学三年生の子。ヨーデルを歌っているのもあって、抜群に上手い。今に、出てくるんじゃないかなあと思っている。藤井風もそうだけれど、自分の予想が当たると、ちょっと嬉しい。
2023.03.20
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また続きを。<大学時代>相変わらず、私は深夜ラジオをよく聴いていた。テレビでは、「時間ですよ」や「太陽にほえろ」が流行り、1972年の冬季札幌オリンピックのテーマソングを歌うトワ・エ・モアも流行っていた。その頃の音楽で思い出すのは、吉田拓郎や井上陽水、浅川マキなど。結婚して使わなくなった姉に油絵の道具をもらって、私が入っていたのは美術部。部室で、よくレコードを掛けながら絵を描いていた。美術クラブの合宿で、野尻湖に泊まった時は、夜ボート乗り場で、井上陽水の「能古島の片思い」を友だちと歌っていたし、東京へ行った時は地下鉄に乗りながら、吉田拓郎の作曲の「地下鉄に乗って」と同じように「今赤坂見附を過ぎたばかり、新宿まではまだまだだね」と口遊んだのを記憶している。名古屋の大学に行ってた次兄が、帰ってきた。兄は、ジャズが好きで、いろいろなレコードを持っていた。マイルス・ディヴィスやジョン・コルトレーンなどの演奏だけのものもあったけれど、私が好きだったのはジャニス・ジョプリンの「summertime」やヘレン・メリルの「You'd Be So Nice To Come Home To」。かすれた声をまねて歌ってみたりもした。友だちと行くのも背伸びして、ジャズ喫茶が多かった。天王寺駅の歩道橋の横にエバンスという喫茶店があって、ビル・エバンスの曲がいつもかかっていたんだけれど、今はもうない。どこかへ移転したのかな?
2023.02.19
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<高校時代>高校1年生の時に姉が結婚し、二人の兄は大学生になって家を出て、兄弟から刺激を受けることが少なくなった高校時代。私はハンドボールクラブで、帰ってくるのも遅く、あまり家の中での記憶がない。高校時代の出来事と言えば、大阪万博は高2の春の遠足で行った。「こんにちは、こんにちは」という三波春夫の「世界の国からこんにちは」誰でも知っているテーマソング。高度成長時代で、歓迎ムードだった。大学では学生紛争が続いていて、三島由紀夫の自殺も衝撃だった。ベトナム戦争が続いていて、反戦フォークソングもたくさん作られていた。学校の中には、フォークソング同好会もあって、休み時間やホームルームの時間などは、ギターを弾く人がいて、よくみんなで歌を歌った。「友よ」「若者たち」「この広い野原いっぱい」「イムジン川」「青年は荒野をめざす」「戦争を知らない子どもたち」など、数えたらきりがないくらい。50年経っても、クラス会や同窓会ではみんなで歌を歌う。みんなが知ってて、みんなが歌える歌が多かった。
2023.02.07
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先日からの続きで、音楽に関する懐かしい思い出など。<中学生の頃>姉が持っていた、歌声喫茶の小さな冊子の中の曲を、夜道を歩きながら姉と一緒に歌っていたのを覚えている。習い事の帰り道かなあ。「夏が来れば思い出す♪」という「夏の思い出」や「ミカンの花咲くころ」などの唱歌や、「トロイカ」「赤いサラファアン」「一週間」などのロシア民謡もあった。シャンソンや映画音楽のレコードがあったけれど、それは誰が買ったんだろう。シャンソンの「ラメール」や「アデュー」などは、日本語で今も歌えるけど、その頃覚えたもの。淀川長春の「日曜洋画劇場」があったのもその頃で、「禁じられた遊び」や「自転車泥棒」なども見たように思う。姉が、「ウエストサイド物語」や「マイ・フェア・レディ」の映画に連れて行ってくれたけれど、家でも、「ベン・ケーシー」や「逃亡者」などの海外のドラマを観ることが多かった。それで、映画音楽のレコードなども買っていたのかもしれない。中学2年生の頃、友だちが「サウンドオブミュージック」の映画を観て、すごく良かったと言っていた。私も観たかったけれど連れて行ってもらえなかった。友だちが「サウンドオブミュージック」のレコードを買ってもらって、聴かせてくれた。歌詞カードを見て、「エーデルワイス」や「ドレミの歌」などの英語の歌を一緒になって覚えた。ラジオの深夜放送が始まりだして、ABCヤングリクエスト(ヤンリク)やMBSヤングタウン(ヤンタン)を兄たちが聴いていた。ヤンタンは、桂三枝が司会をしだして人気があった。ザ・フォーク・クルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」もそこからヒットしたんじゃないかな。ヤンタンの公開収録があって、観覧することができた。うちの下の兄が高校の時に出たことがあったので、多分私が中3の時だろうな。斎藤アナウンサーと一緒に兄のしゃべってる声も聞こえて、うちにあったオープンリールのテープレコーダーで聴かせてもらった。下の兄は、ギターを始め、フォークソングをよく歌っていた。ボブディランの「風に吹かれて」やピーター・ポール&マリーの「500マイル」「花はどこへ行った」などの反戦フォークに私も興味を持った。下の兄からはすごい影響を受けて、立原道造の詩がいいなあと思ったのも中学の頃。「夢みたものは、ひとつの幸福、願ったものは ひとつの愛」と「夢みたものは・・・」の詩を覚えた。ブログ仲間のnikさんも好きだそうで、ブログの中に立原道造の名前が出てきたときは嬉しかった。夜のヒットスタジオが始まったのは、中学校の終わりごろかな?前田武彦と吉村真理の司会で、生放送で出演者が泣いてしまうなどよくハプニングが起きて、次の日には教室で話題になった。グループサウンズが流行りだしたのもこの頃かな?中学校の卒業の時に友だちに書いてもらったサイン帳に、ザ・タイガースの「廃墟の鳩」の歌詞を書いてくれた人がいる。「花の首飾り」や「モナリザの微笑」は覚えているけれど、この歌は全く記憶がない。
2023.02.05
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この間の続き。<小学校3年から6年まで>小学校3年生の夏休み、父親の転勤で福井県から大阪府へ。姉は高校1年で、上の兄は中学2年、下の兄は小学6年だった。舟木一夫の高校3年生などが流行っていたけれど、シャボン玉ホリデーなどを観ていたので、ザ・ピーナツの歌や、弘田三枝子の「バケーション」などの歌の方が好きだった。「バケーション」もそうだけれど、外国の歌手のカバー曲が流行っていた。「シェリー」を歌っていたのはパラダイスキングだったかな?飼っていたスピッツ犬の子どもの名前になった。小学校5年生の時、東京オリンピック(1964年)があった。三波春夫の「オリンピック音頭」が前の年から、盆踊りや運動会などいろんなところで流れていた。私が通っていた小学校は、大阪の貝塚市にあって、優勝した東洋の魔女、ニチボー貝塚の選手たちが学校に来てくれて、バレーボールの試合や金メダルを見せてくれた。小学校4年の秋、ケネディが暗殺された。号外が出て、驚いたのを覚えている。姉が、ケネディの演説の入った「星影のビギン」を買ったのも5年生ぐらいの時かな?「Together、Together、Together」と繰り返す節を覚えている。うちの家は、毎年クリスマスに山で採ってきたもみの木に、いろいろ飾り付けをして飾っていた。小学校6年の時のクリスマスの印象が強い。その年、家族でお互いにプレゼントを贈ろうと言うことになって、私は高2でアルバイトをした上の兄から、欲しかったリカちゃん人形をもらった。自分は誰に渡したか、他の人が出どんなプレゼントをもらったのか全く覚えていない。ケーキを食べながら、ビング・クロスビーのクリスマスのレコードを聴いていい曲だなあと思った。「きよしこの夜 Silent Night」と「ホワイトクリスマス White Christmas」を英語で覚えたいと思った。6年の時、姉は、大学生になり時々歌声喫茶に行ってたみたいで、赤と黄色の小さな歌の冊子を持っていた。「学生時代」や「心の窓にともしびを」など、いろいろな歌を教えてもらった。私も行ってみたいと思っていたのに、私が大学生の時は、歌声喫茶って見つけられなかった。音楽だけでなく、私はいろいろなことに興味津々で、上の兄が暗記しようと部屋に貼ってあった室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」や島崎藤村の「あだあげそめし前髪の」と言う「初恋」の詩も兄と一緒になって覚えた。このころは記憶力が良かったのか、日々物忘れがひどいのに、今でも覚えているのが不思議だ。
2023.01.26
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先日、馬頭琴のコンサートに行った時、モンゴルの歌手の「月の砂漠」の歌を聞いて、小学校1年生の時に初めて買ってもらったソノシートの中の一曲だったことを、そのシートブックに描かれた絵と共に思い出して懐かしくなった。私は4人兄弟の末っ子で、7才上の姉と5才上の兄、そして3才上の兄がいるけれど、父も母も歌が好きで、生活の中にいつも歌があった。姉や兄の影響もあって、小さい頃からいろんなジャンルの色んな歌を一緒に覚えて歌っていた。歌っていた場面やテレビの映像、レコードのジャケットなどいろんなことを断片的に思い出すけれど、覚えているうちに書いて残しておきたいなあと思った。<6才まで>うちの家には、昔レコードがたくさんあった。「青い山脈」や「丘を越えて」などの流行歌や「麦と兵隊」などの軍歌もあった。SP版よりはちょっと大きいEP版だったけれど、蓄音機はどんなものだったのか記憶はない。でも、曲が流れてくると一緒に歌っていた記憶がある。父親とバス旅行に行って「若いおまわりさん」を歌って、周りの人に褒められたそうだ。私は、記憶がないけれど、父と一緒に撮った写真があるけれど、3才ぐらいだと思う。着物を着せてもらった時、「野崎まいり~を、屋形船でまいろう」と歌って踊ると母が喜んだ。うちの家はテレビを買うのが早く、物心ついた時からテレビがあった。大村崑CMで覚えて「ミゼット、ミゼット」と言いながら手を広げていたのは5才くらいの時かなあ。<幼稚園から小学校3年まで>福井県に住んでいた。県庁のすぐそばの福井市の中心部で、私は栄冠幼稚園と言うキリスト教の幼稚園に通っていたので、賛美歌を色々教えてもらった。姉は中学生で、歌謡番組をよく見た。シャボン玉ホリデーも始まって、お客さんが来ると「スーダラ節」を歌って踊ったりしていたので、割とひょうきんな子だったんだろうなあ。小学校1年生の時に、初めてソノシートを買ってもらった。うちには小さなプレーヤーがあって、それは自分でも操作できた。一番最初の曲が「かわいいさかなやさん」で、「りんごのひとりごと」「はまちどり」や「月の砂漠」最後のページが「かなりや」で、よく聴いたのかそれぞれのページの絵も記憶に残っている」同じ時に、上の兄が買ってもらったのが、校歌や寮歌のソノシート。「嗚呼玉杯に花受けて」や「都の西北」「琵琶湖周航の歌」など、一緒になって歌っていた。私が、小学校2年生の時、姉は中学校3年生で、色んなことを教えてくれた。「モーツアルトの子守歌」と「ブラームスの子守歌」と「シューベルトの子守歌」の違いとか、「サンタルチア」や「オーソレミオ」などイタリアの曲をカンツォーネと言うこととか。2階の部屋で、姉と話をしながら歌うのが大好きだった。と、今日はここまで。かなり早熟な子だったんだなあと思う。
2023.01.19
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昨日は途中で下書き保存しないでアップしたけれど、ネイルをしてくれているのは、昔の教え子。早いもので、仕事を辞めてもう15年になる。2006年、足が痛くて歩けなくなって、4月から、私は勤めていた小学校を休職した。病院とプール以外どこにも行けず、その年の5月からこのブログを始めて、情報の少ない私の病状などを書いていくことにしたけれど、手術しても一向に良くならず、結局翌年の3月に退職をした。15年も経つのに、仕事をしている夢をよく見る。夢の中の私は、階段を駆け下りていたり、子どもと走り回っていたり、とっても元気だ。歩けなくなった最後の子どもたちは4年生で、途中から歩けなくなった私に、荷物を運んでくれたり、自分たちで体育の授業を進めてくれたりと、とても親切にしてくれた。33年務めて、大変なこともあったはずなのに、今思い出すのは楽しかったことばかり。それで、こんな夢を見るのかな。コンピュータが、全国の小学校に入った2000年ごろ、私は4年ほど、コンピュータTT(ティームティーチング)をしていて、全学年のコンピュータの授業を持っていた。ネイルをしてくれているのは、その時の生徒で、その頃の話をするのがとっても楽しい。彼女の担任は、私のコンピュータのお師匠さん。その頃のコンピュータの授業は、カリキュラムが全くなく、毎週の授業を計画して、他の人も使えるようにカリキュラムを作っていった。コンピュータに関しては初心者だけれど、1年から6年までの教材がわかっているのが私の強み。お師匠さんに教えてもらいながら、色んなことを試せるのが楽しくて、趣味が仕事か、仕事が趣味かというような生活をしていた。ネイルをしてくれる彼女は、韓国が好きで、早く行けるようになって欲しいと言う。4年生の授業で、ローマ字を覚えた子どもたちに、「ハングルもローマ字と同じだよ」とインターネットでハングルの表と読み方を見た後、自分の名前をハングルで書いたりした話をすると、いいなあと言っていた。導入部分に、その頃始まったばかりの、草彅剛の「チョナンカン」のビデオを入れて興味付けをしたり、半分楽しみながらしていたような気もする。彼女の担任は、情報教育のエキスパートで、今は大学の教授。彼に、「20才の理解力」とおだてられながら教えてもらって、TTを引き継いだ。久しぶりに、電話をかけてみようかなあ。ところで、教え子と言えば、5月の始めに、40年近く前の教え子のMさんからLINEが来た。十年ぐらい前に、近所のスーパーで働いていて声をかけられ、それ以来時々LINEのやり取りをしている。彼女はある宗教の信者で、その宗教の集まりでWさんに会い、6年生の時の担任が私だったと言うことを知ったと言う。Mさんも5.6年を担任したのだけれど、その数年後に私は違う市に転勤したので、MさんとWさんは、市も違うし学校も違うけれど、卒業した学校の名前を聞いて、私のことを知ってるか聞いたのだそう。6年生の時の担任だったと、Wさんが卒業アルバムの写真を送ってくれたそうで、懐かしい写真もLINEで送ってくれた。Wさんのこともよく覚えている。Mさんを担任したとき、彼女の宗教は、校歌を歌わないとか、クリスマス会をしないとか、いろいろ制約があるので、いろいろな行事を彼女と相談しながら進めていた。それで、数年後に担任したWさんのことも記憶に残っている。そういうわけで、WさんともLINEが繋がった。Wさんは、今42才。自分も年を取るはずだ。
2022.05.11
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お気に入りのにととらさんのブログで、 姫路城や明石の天文科学館のことが出てきて、 昔、ホリデー切符を使って、息子と娘と3人で出かけた時のことを思い出した。 ちょうど、姫路城でシロトピアと言うのをしていたなあと思ったので、 調べてみたら、1989年の3月から12月まであった記念行事。 JRで休日乗り放題のホリデー切符と言うのを見つけて、 息子に自由に行きたい場所を考えさせた。 ホリデー切符は、当時、大人2000円、子ども1000円。 息子が小学校を卒業して、子供料金で行ける最後だからと、 こんなことを考えたんだと思う。 息子が時刻表を見ながら計画を立てて、 家を6時過ぎに出発して、まず行ったのが姫路城。 姫路城では2時間ぐらいしか時間を取ってなくて、 シロトピアの記憶は全くない。 人が多くて混雑していて、 そんな中で持って行ったおにぎりだけ食べた記憶がある。 お昼前に姫路を出発して、次に行ったのが明石。 明石で、天文科学館で子午線だけ確認し、 午後0時を過ごした記憶がある。 次に行ったのが京都の嵯峨嵐山。 京都まで直通の新快速があって、 そこから山陰線に乗りかえた。 嵐山に着いたのは4時近かったと思う。 当時、「たけしの元気が出るテレビ」と言う人気番組があって、 そこから「元気が出るハウス」と言うグッズを売る店が、 関西では京都の嵐山にできていて、ちょっと覗いた。 横には、北野印度カレーと言うお店もあって、入りたかったけれど混雑していた。 レンタル自転車を借りて、化野念仏時までサイクリング。 嵯峨野には、芸能人のお店がたくさんあって、 梅宮辰夫のコロッケのお店や、五木ひろしの五木茶屋もあった。 その他にも、いろいろなタレントショップがあって、 その頃が全盛期だったんだろうなあ。 誰かのお店で夕飯を食べたんだと思うけれど、思い出せない。 嵯峨野を7時ごろ出て、次に行ったのは大阪。 駅ビルの中で、ABC放送のサテライトスタジオがあり、 観客が周りから見ている中で収録が行われていた。 何という番組だったのかわからないが、 ゲストに渡辺徹が出ていて、トークが面白かった記憶がある。 大阪から地元の駅に戻ってきたのは9時過ぎ。 もうぐったりなのに、息子は、 今から和歌山のおばちゃんとこへ行って、帰って来れると言う。 もう今からやめようと、家に帰った。 でもとっても面白く、息子が頼もしく思えた。 その後、学校の保護者懇談会で、 思い出に残る夏休みの過ごし方のアイデアを聞かれたとき、 何度か勧めたことがある。
2014.10.07
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大阪で雪が積もるのは珍しい。二週連続の雪で、今週は日中も積もっていたけれど、先週は、朝雪があっても、お昼には解けてしまっていた。3年ほど前に降った雪もそんな感じ。その前20年間ぐらいは、降っても積もると言うことはほとんどなかった。それで、スキーが趣味とか、うちのように実家が雪国とか、そんな人以外は、スタッドレスタイヤを入れている人は少ない。プリウスの前、私はカローラに10年乗っていて、11月頃にはいつも車屋さんでスタッドレスタイヤに交換してもらっていた。そして、夏用のタイヤを預かってもらう。今、ダンナのタントもそうしてもらっている。雪の降り積もる中を敦賀に行くことも何度かあるけれど、スタッドレスで不安を感じた事は無かったので、昔大変だった時の事を忘れてしまっていた。その前のカローラライムの頃からかなあ。いつごろからスタッドレスタイヤにしたのか忘れたけれど、結婚したころは、タイヤにチェーンを巻いていた。大阪ではチェーンは要らなくても、滋賀の山間部に入って、雪道になると、チェーンが必要になってくる。道を片側に寄せてチェーンを巻いて、雪のない道に出たら、またチェーンを外してと繰り返して乗っていた。結婚して数年後、初めて新車で買ったカローラハードトップで、お正月に敦賀に行って、なんか変な音がしているなあと思ったら、チェーンが切れて、ボディーに当たって傷をつけていた。雪がなくてもまあいいかと、チェーンを付けたまま走ったら、えらいことになるとその時初めて知った。そんなことでうちの車のトランクには、いつもタイヤチェーンがのっていた。大阪で雪が降って、タイヤチェーンを巻いたことは2回ぐらい。25年ほど前、日中に雪が降って積もったことがある。車を置いて帰ろうと言っている人が多かったけれど、私がタイヤにチェーンを巻いたらびっくりしていた。今、すっかり巻き方を忘れてしまっているけれど。ところで、昨日から、また蟹を食べに行こうと、レイクフォレストリゾートへ行ってきた。先月行ったときは、いいお天気で、次は車で行こうと思っていたけれど、京都と奈良の県境は大雪警報が出ていたところ。電話をかけると、山道は雪が深く、スタッドレスタイヤを付けた、四駆の車でしか登れないと言うことだった。西名阪や南阪奈道路も通行止めになっているので、今回もやっぱり電車で。娘のムコのSちゃんは海外出張中なので、今回もダンナと娘と3人で。2月10日が娘の誕生日なので、ちょうどいいプレゼント。雪がいっぱいだけれど、今日はこんないいお天気だった。
2014.02.16
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ダンナの腸閉塞は、5年半の間に10回以上。腸が詰まると、お腹がパンパンに張ってきて、レントゲンを撮ると、半月型のガスの影がいっぱいお腹にできる。そうなると絶対入院。鼻から管を通して胃液や腸液を抜きながら絶食。2日程で腸が通ったら、重湯からお粥、そして普通食へと食事治療。鼻の管が取れると、入院しながら職場へ向かうこともある。あまり腸閉塞を繰り返すので、胃を切ったところを再度切って、腸と腹壁をはがす手術もした。ものすごく運気が悪い気がした。その時のうちのトイレは、家の北東にあって、鬼門にトイレがあるから悪いことが起きるんじゃないかと思い、家を何とかしたくて仕方なかった。胃の手術の後腸閉塞を繰り返したダンナは、結局、3回お腹を切った。3回目は、父が亡くなった次の年1996年の始め。近くの病院に入院していたけれど、いつもは数日で治まる腸閉塞が全然通らず、らちがあかないので、大きな病院に転院をお願いした。調べてみると、2ヶ所が腸閉塞を起こしていて、腸詰ウインナーのように真ん中が膨れ上がり、破裂する寸前。結局腸を30cm切り取って、難を逃れた。切り取った腸は、真ん中が直径10cmぐらいまで膨らんでいた。お医者さんが、もう腸閉塞を起こさないように、2リットルの水でお腹の中を洗いましたと言っていた。その年の春、私は別の職場に転勤した。ダンナも、病気休業から開けて、4月から復帰。それ以降、腸閉塞はピタッと無くなった。次の年、ダンナの体の調子は嘘のように良くなり、ローンが組めそうなので、家を捜しだした。その頃、うちの庭に南天の木があるけれど、どういうわけかトイレの前の狭い土の部分に、実が飛んだのか、南天の木が生えてきた。ちょうど、ドクターコパの風水が流行りだしたころで、西側のカーテンを黄色に変えたら、それまで西日が強くて夕方になったら閉めるので部屋が真っ暗だったのに、黄色のカーテンは、西日が和らいで入ってくることがわかって、気持ちまで明るくなっていくような感じだった。仕事の方も余裕ができて、夕方には帰れるようになり、私がSMAPのテレビなどを見だしたり、パソコンを始めだしたのもこの頃。1997年の5月頃、新築の建売住宅を見に行ったら、その業者が、うちの家を買い取ってくれると言う。駅から遠いし、間取りや周辺の環境には不満もあるけれど、どうにもできなかったうちの家を買い取ってくれるのは魅力だった。来週は契約、と言うとき、朝刊に高島易断のチラシが入っているのが目についた。「引っ越ししてから体調が悪く、鑑定を受けて・・・・・」という投書にびっくりして、不安になった。折角よくなったダンナの体調が、また悪くなったらどうしよう。鑑定は1件3000円とある。こういう鑑定は初めてで、不安だったけど、買う予定の家の図面と、今の家の図面と2枚持って、恐る恐る、チラシに書いてある出張鑑定のホテルに行ってみた。二つの図面を見せて、この家に、引っ越してもいいかどうかだけ教えてください、と言うと、鑑定をしてくれた女性は、図面を見るなり、「この家は駄目です。全然良くない。」今の家の図面を見て、「この家はいいですよ。近いうちに、隣も手に入るから待ちなさい。」と、言った。はっきり言われて、妙にすっきり。その2か月後、「本当に建て替えができないか見てもらったら?」と言って、姉が知り合いの一級建築士の人を連れてきた。「法面を補強してまっすぐにしたら、建て替えもできるけれど、 隣の人に売ってくれないか交渉してあげようか?」と言ってくれた。どうせ、買い替えてローンを組む予定だったので、その金額の範囲内で、隣を買ってリフォームをお願いした。ちょうど土地の値段が下がり始めたころ。最初は、高い値段を言われたそうだけど、「今売っておかないともっと値段が下がるし、 お宅も2戸1では今後処分に困りますよ」と、値段をすり合してくれたようで、とんとん拍子に話が進み、10月頃に契約。11月頃から工事が始まった。阪神大震災の後、少し隙間ができて不安だった石垣を補強し、まっすぐに立ち上げてくれたので、法面が無くなり、思ってた以上に土地が広くなり、2台置ける駐車場ができて、隣を買ったことでうちは角地になり、日当たりも良くなった。今までのところに住んでいる間に隣のリフォームをし、一応出来上がったところで、家具の移動。隣の部分に住みながら、今までのところのリフォームと言うように、引っ越しの費用も節約できた。2つあった階段は、場所をずらして一つにし、隣の部分のトイレをなくして書庫にし、2階にも一つ作ってくれたので、工事中も不便を感じることがなかった。一級建築士の人は、風水も取り入れて間取りを考え、とても気持ちの良い作りにしてくれた。もともと駅から2分と近くて便利だし、近所は気心の知れた人たちで申し分ない。隣を買えたことで、二重三重に運気が良くなった気がした。こんな風に、長年の望みがかなった1997年は、細木さんの占いで、達成の年。運気が悪いと感じた、前の職場の6年間、最初の3年は私の大殺界で、後の3年はダンナの大殺界。そんなこともあって、私は細木さんの占いを信じるようになった。因みに、私が買おうとした新築の家は、新婚さんが買ったけれど、泥棒に入られたり、境界線の問題が起こったり、トラブル続きだったらしい。駅から20分ぐらいもかかるところで、横にワンルームマンションが建って、学生たちのバイクが並んでいる。
2013.02.27
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昨日の日記に書いたように、私が今の家に住んだのは、今から33年前。共働きの私たちは、4才の息子のことが気がかりだった。保育所の間はいいけれど、小学校に入るとお昼に帰る。子どもが学校から帰ったら、実家に歩いて行ける距離に、20代の薄給の私たちが買ったのは、2戸1の小さな家。うちの周辺は、第一種住居専用の風致地区。隣の家との境界線から1m以上空けて、建ぺい率(敷地面積に対する建築面積の割合)60%の条件を満たすように、凹型にして、一間の風呂の壁だけを共有するように建てられた家だった。くっついた隣の家には、息子と同じ年の男の子と、4歳上の女の子がいて、仲良くさせてもらった。でも2年後に転勤。「うちの家、買う?」と聞かれたけれど、とてもそんな余裕はなかった。隣の家は、食品会社が買い取り、社宅になった。最初は、若い夫婦が住んでいたけれど、1年ぐらいで転勤し、その後男性社員が住んだけれど、私たちの勤めているし、交流はなかった。その後バブルの時代が来て、関空ができる前の大阪南部の不動産は異常な高値になった。そのうち、隣は誰も住まなくなり、時々、神戸に家があると言う社長さんが泊まるぐらい。だんだん子どもたちも大きくなってきて、男の子と女の子なので個室を欲しがるし、3DKの家では、狭くなってきた。隣の家は、ほとんど留守で、庭の草も伸び放題。不用心なので、ついでに隣の庭も掃除するようになった。バブルがはじけ、価格も落ち着いてきたので、何度か、時々来る社長さんに、売ってくれないか聞いてみた。でも、いつもとんでもない金額を言われる。時々来るとき、奥さんじゃない女の人と連れてきて、逢引のための家にしているような感じだった。40坪弱の土地だけれど、山地を削っているので、斜面の法面があり、実質は30坪ほどの土地で、建て直すことは難しいし、2戸1で、売って買い替えるのも難しい。私が、隣の市に転勤した1990年。忙しい学校で、毎日私の帰りが遅くなり、夕飯も不規則に。その年の7月、ダンナは胃潰瘍から胃穿孔を起こし、胃の3分の2を切除する手術をした。手術後、腸が癒着し、何度も腸閉塞を起こし、その後5年間は、最悪の日々。そして、1995年、3月、父も亡くなった。
2013.02.26
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昨日から、下水道工事が始まった。昨日私は、習字講座と、和歌山の写真講座があり、習字講座は新年会もあったので休めず、留守をダンナに頼んで、朝から晩まで出かけさせてもらった。姉が、昨日の日記を見て、うちの家には、ソノシートを買う前に、手で回す蓄音機と、レコードがいっぱいあったの知らんの?と言う。うっすらと記憶にあるような・・・でも、倉庫の中に、SP版なのかEP版なのか、30cm弱のレコードがいっぱいあった記憶がある。ところで、福井県から大阪に引っ越ししてきたのは、私が小3、下の兄が小6、上の兄が中2、姉が高1の時。上の兄が高校に入ると、クリスマスに「ホワイトクリスマス」や「きよしこの夜」の英語のレコードを買ってきて、英語を知らないのに、一緒に歌っていた覚えがある。小学校高学年の頃は、ベンチャーズやビートルズ、ドーナツ盤のレコードで、映画の音楽もよく聞いた。フランク・シナトラやペリー・コモを知ってたから、今から考えると、かなりませた子。上の兄と一緒に、室生犀星の詩や白秋の「初恋」を必死に覚えたのもこのころ。私が中学1年の時に、姉は大学2回生。姉は、アルバイトをしていて、「ウエストサイド物語」や「マイ・フェア・レディ」などの映画に連れて行ってくれたのもこの頃だ。その頃、姉がうたごえ喫茶に行ってきたと、小さな歌集で、「心の窓にともしびを」などの歌を教えてくれた。うたごえ喫茶の、ロシア民謡も教えてもらった。私が中学校の頃は、下の兄も高校生。深夜ラジオが面白いと言うので、中2の頃から、ヤンリクやヤンタンをよく聴いた。よく考えたら、私の短時間睡眠は、この頃から。仁鶴や三枝の司会に笑い、フォークに嵌った。そういえば、下の兄がヤンタンの観覧に行き、いろいろしゃべったのを、オープンリールのレコーダーに録音していたこともあった。下の兄からは、いっぱい影響を受けた。立原道造の詩がいいと聞いてはいろいろ覚え、柴田翔や五木寛之の本が好きになったのも兄の影響。中学の頃、「風に吹かれて」や「500マイル」「花はどこへ行った」などの歌を必死で覚えていたように思う。高1の時、姉は結婚し、兄二人も、大学で家を出た。高校の時、学校の中はフォークブーム。私たちの高校は、岸和田城と隣接していて、ホームルームなどにお城へみんなで行って、よくフォークソングを歌った。尾崎紀世彦や前川清などの歌を歌うこともあって、高校の同窓会では、いつもカラオケであの頃の歌を歌う。下の兄が、体を壊し、中退して帰ってきて、家で、よくジャズのレコードを聴いていた。大学生になった私も、ジャニス・ジョプリンのレコードなどをよく聴いた。日本の歌手では、浅川マキや吉田拓郎、小椋桂など。先日、敦賀に行くときに借りた吉田拓郎のアルバムに、「地下鉄に乗って」と言うのがあった。大学2年の時、友だちと東京へ行って、地下鉄に乗りながら、「今、赤坂見附を過ぎた~ばか~り。新宿まではまだまだ~だね。」と歌いながら乗っていたのを思い出した。
2013.02.22
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勤めていた頃、職場の人とカラオケに行くと、レパートリーが広いねえとよく言われた。ジャニーズ好きのミーハーなので、最近の歌番組もよく見ると言うこともあるけれど、昔の歌も良く知っているからだろう。小さい頃から、私の育ってきた家は、歌にあふれていたように思う。父も母も、歌が好きだった。2・3才の頃、父と一緒に町内のバス旅行に行って、バスの中で「若いお巡りさん」を歌ったらしい。嬉しかったのか、父は喜んで、その時のことをよく話した。幼稚園に入る前までに住んでいた岸和田の家で、「野崎まいり」を踊りながら歌っていた記憶がある。テレビを買うのが早かったので、テレビを見て、すぐ真似をするような子だった。幼稚園から小学校3年まで、福井県に住んでいたが、その頃、レコードプレーヤーを買って、私は、童謡のソノシートを買ってもらった。「魚屋さん」「月の砂漠」「歌を忘れたカナリヤ」「浜千鳥」赤いペラペラのレコードだったけれど、よく聞いた。姉は、私と7才違いで、私が小学校1年の時に中学2年生。音楽の教科書に出てきた、「ブラームスの子守唄」や、「シューベルトの子守唄」「サンタルチア」や「オーソレミオ」「フニクリフニクラ」などのイタリア民謡を教えてもらったのは、2年生ぐらいの時だったかな。上の兄は、私と5才違い。小学校高学年の時、隼や零戦のプラモデルをよく作っていた。兄が買ってもらったのは、軍歌や寮歌などのソノシート。「戦友」や「嗚呼玉杯に花うけて」など、そんな歌も一緒に歌っていた。テレビでは、シャボン玉ホリデーなどをしていて、家族でよく見た。ザ・ピーナツの歌や、弘田三枝子、飯田久彦の曲などもよく歌った。福井県に住んでいた頃、家に来るお客さんの前で、「スーダラ節」を、ふりつきで歌ったのが記憶に残っている。小さい時から、お調子者だったみたいだ。
2013.02.20
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自分の子どもの小学校の運動会に、一度も行けなかったのは、本当に辛かった。毎年、年間行事が出ると、運動会の日を調べて、子どもの学校とずれないかと思った。子どもが小学生の頃、私が住んでいる大阪南部は、10月の10日・11日がお祭りで、その前の日曜日に運動会が設定されていて、それはほぼ全市共通だった。私が勤めていた学校は、運動会の日、子ども達は保護者と一緒に、運動場でお弁当を食べていたけれど、うちの子どもたちが通う学校は、運動会の日も、教室で給食を食べていた。息子が1年生の時、敦賀の義母に来てもらった。その頃幼稚園だった娘と一緒に食べてもらおうと、お弁当を持って行ってもらったけれど、お昼休みに運動場で食べている人はほとんどいなかったらしい。愛想なかったような感じだったのと、義父が病気になったのと重なって、それ以降頼めなかった。私の実家の両親も見に行ってるからいいかと思ったけど、実家の従弟たちも同じ小学校だったので、「ぼくと違う、従弟たちを見に来てる」と息子が言ったことがあった。息子が4年、娘が2年の時、一度だけ、運動会の日程がずれたことがある。私が勤めていた学校が、校舎の建て替えで、運動会が春になった。今年は行ける、と喜んでいたのに、直前に台風接近のニュース。子ども達が通う学校は、給食が無駄になってはいけないので、直前の金曜日に、運動会の中止を決めた。結局台風が逸れて、他の学校は運動会の放送が流れているのに、子ども達の学校だけは、普通授業。延期になった火曜日は、その年、私が担任していた6年生の、中学校区の連合運動会があって、参加できず。日曜日に練習風景だけ見に行かせてもらったけれど、本当に悔しかった。ダンナは、その年に1回だけ、子どもの運動会を見ることができた。給食でなく、保護者と一緒に食べてはどうかと、学校に何度も要求を出した。それなら、敦賀の親にも頼めるのに、お弁当を実家のおじいちゃんおばあちゃんと一緒に食べたら、自分のために来てくれてると思うだろうなあと思った。でも、参加できない保護者が多いからと否決された。うちほど参加できない親はいないでしょう。と思ったけれど、うちは実家の両親が来るのでましな方と言われた。それなら、給食をやめて、お弁当を持ってくるようにしてはどうかとも意見を出した。運動会ぐらい、子どもの好きなものを入れて、ガンバレ!とか書いたおにぎりを持たせたいなあと思った。でも、それも余裕がないという保護者が多くて却下。一度も行けなかったけれど、子どもの様子を教えてくれる人は多かった。子どもの学校の先生たちの中にも私の友だちがいて、見ていないけれど、活躍をほめてあげられる。そういう点は、恵まれていたと思う。息子が中学1年の時、仕事を休んで、中学校の運動会を見に行った。見に来ている保護者は少なかった。照れくさそうに、横の子に、「来んでもいいのになあ」と言っていた息子が、帰ってきた時、嬉しそうだったのが印象に残っている。息子が中3で、娘が中1の時、もう一度、見に行くことができた。
2012.09.30
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北海道3日目は、白老のアイヌコタンなどを回って、両親が住んでいた室蘭で、海を見ながらお茶をして、洞爺湖で泊まった。4日目は、長万部を通って函館へ。夕方大沼公園のボートに乗って、湯の川温泉へ。他は国民宿舎や共済の保養所などを利用したけれど、湯の川温泉だけは、ちょっといいホテルだった。夜は、函館山に車を走らせて夜景を見に行き、次の朝早く、函館の朝市まで車を走らせた。父も私も好奇心旺盛で、そういう話はすぐ決まった。5日目は五稜郭などを見学して、また長万部を通って、ルスツ高原を通って、定山渓温泉で泊まった。最終日は、札幌で時計台などを見て小樽へ。そこから、また日本海フェリーで。行きは、お盆のすぐ後だったので、混んでいるかもしれないと2等寝台をとっていたけれど、帰りは2等の大部屋。でも、ものすごくゆったりとしたスペースがあった。母はちょっと不満そうだったけれど、父は、いろいろな人と話をしながら機嫌がよかった。そんな、北海道5泊、船中3泊、8泊9日の北海道旅行だった。ところで大きなクーラーボックスを積んでいったのは、フェリーの中で30時間も過ごすので、飲み物などを持っていくためだった。でも、父が用意したのは、長さ1m位の大きなクーラーボックス。船が遭難した時の用心のためだという。クーラーボックスは、絶対浮くし、頑丈なベルトがあるので子どもでも持ちやすい。中に飲み物が入っていても浮くから、海の中でものどを潤してくれる。おかげで、北海道で買った新巻き鮭なども入れられた。父は、それほど学歴は高くなかったけれど、いろいろなことに知恵を働かせる人だった。父から学んだことはとても多い。私は1回目の手術の時、全身麻酔で、気道の確保をするのが実習生だったこともあり、もしかしたらそのまま逝くかもと考えたりした。でも、向こうには父がいるんだと思うと、死ぬことに対しても、それほど怖れを感じないのが不思議だった。母が、亡くなった時、私がその日の朝、父の墓参りをしていたので、「ああお父ちゃんが、迎えに来たんやなあ。 お母ちゃんが恐がれへんように、連れて行ってくれたんやろなあ」と思った。きっと、向こうで二人仲良く過ごしているに違いない。
2012.08.19
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私の両親は、昭和18年の6月に結婚した。式を挙げてすぐに、父は北海道の部隊に行き、母は、和歌山の父の実家で暮らしていた。父が、乗っていた船が沈み、助けられてから、父は、室蘭の部隊で事務の仕事をしていた。終戦の年、和歌山に一度帰ってきて、母も一緒に北海道へついていくことになった。室蘭では、Uさんのお宅に間借りさせてもらった。昭和20年の4月から9月までの半年間だけだったそうだが、まだ17才で遠くから来た母のことを、娘のようにかわいがってくれたのだろう。その後も、年賀状やお中元、お歳暮などのやり取りが続き、3人の子供がスケートで国体に出たことなど、近況もよく知っていた。そのUさんたちが、今は苫小牧に住んでいた。襟裳岬から東岸を通り、苫小牧に着いたのはもう夕方近かった。地図を見ると、Uさんのお宅が近くみたいで、母が電話をかけてみた。近くだから来て来てと言われて、行ってみると、老夫婦が迎えてくれた。ご主人はもうその頃90歳ぐらいだったと思う。実に四十数年ぶりの再会で、長生きするものだと涙を流して喜んでくれた。元スケート選手だったというご主人は、ゲートボールクラブの役員をしていると元気そうだった。その後も、交流は続き、数年後、ご主人が亡くなってから、90才を過ぎた奥さんが、お孫さんと一緒に大阪に来て、うちの実家に泊まったこともあった。母は、また苫小牧に行って会いたいとよく言っていた。奥さんが97才ぐらいで亡くなったのは、母が病気になったころだったと思う。そんな風に、中身の濃い北海道2日目は過ぎて行った。泊まったのはどこだったのかなあ。苫小牧だったか、登別だったか、思い出せない。
2012.08.17
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私の父は、農家の四男で、高等小学校を出た後、家の農業を手伝っていた。二十歳になると、体格が良かったので、甲種合格で軍隊に入り、職業軍人になった。ナイロや樺太、コレヒドールなど僻地を回り、昭和18年ごろ、准尉として帯広の部隊にいた。伝令か何かを頼まれて、北千島へ行ったらしい。その帰り、○○丸という戦艦にのっていて撃沈された。大勢の人が亡くなったそうだ。いくつかボートは積んでいたそうだが、父は乗れるはずもなく、潮の流れを見ながら、船が沈む直前に板を持って海に飛び込んだそうだ。襟裳岬の西岸のどこかの砂浜に打ち上げられ、近くの住民に助けられたそうだ。九死に一生を得たこの体験のことを、父は多く語りたがらなかった。私が父のことをいろいろ知っているのは、数年前に母に聞き取りをしたからでもある。でも、この旅行の少し前、○○丸の慰霊碑が北海道のどこかのお寺にできた、とニュースで見たらしい。じゃあ探してみようということで、襟裳岬から東海岸の市役所や町役場で尋ねることにした。襟裳町役場から順番に聞いて行って、5か所ぐらい尋ねたところで見つかったと思う。教えてもらったお寺に行ってみると、○○丸慰霊碑という大きな碑がたっていて、父が感慨深げに眺めながら、ずっと手を合わせていた。住職にお話を聞こうかと言っていたけれど、しばらくすると、何人かの人がその碑の周りに集まってきて、懐かしそうに話をしながら、本堂に入っていった。生き残った人たちが集まっているみたいだ。「お父ちゃんも、中に入ったら?」と言ったのに、父はさっと、その場を離れ、「もう帰ろう」と促した。車の中で、「来れて良かった」と何度も言っていた。何故父が、その人たちの中に入らなかったのか、その時はわからなかった。でも、今は想像がつく。多分助かったのは、上官ばかりだったのだろう。船が沈んだ後、浜辺に打ち上げられた死体は、手首から先がなかったものがたくさんあったという。沢山の人が、船にのろうとしがみつき、父は地獄のような光景を見たのだろう。インターネットで調べても、○○丸のことが見つけられない。そして、夕方苫小牧へ。ここでも、思い出深い出来事があった。
2012.08.16
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今日は67回目の終戦記念日。そして、母の初盆でもあり、両親のことを懐かしく思い出した日でもあった。この写真の日付は、1989年8月18日。父母と息子と娘と私の5人で北海道へ行ったときのものだ。前日、舞鶴から新日本海フェリーで北海道に向かい、早朝小樽に着いた。多分その時に写した写真だろうと思う。とても印象に残る旅行だった。父73才、母63才、息子は中1で、娘が小学校5年、私もまだ36才で若かった。その頃私が乗っていたカローラライムにルーフキャリアを付けて、大きなクーラーボックスを積んで、父と運転を交替しながら旅行した。両親はその3年前にツアーで、私たち家族は、その2年前に車で北海道を旅行し、知床や富良野、阿寒湖・摩周湖など、主だったところを回っていたので、その時と違うコースで、計画を立てていた。小樽についてまず三角市場に向かい、市場の中で朝食を食べた。焼き鮭の脂がのって、とてもおいしかった。そこから日高峠を通り、十勝川温泉でその日は泊まった。次の日、帯広に戻り廃線になった広尾線に沿って南下、話題になっていた幸福駅、愛国駅を通って襟裳岬へ。襟裳岬の先端部分は、太平洋に突き出ていて、周りがぐるっと海だった。嬉しくなって、運転しながら、森進一の「襟裳岬」を歌っていた記憶がある。そこから岬の西側を通って苫小牧の方へ。その辺りで、探したかったものがあったのだ。
2012.08.15
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あわらの駅前にあった、観光案内所で、「今晩大人6人と子ども2人泊まれるところないでしょうか。 予約していたところが思ったより悪くて・・・」と私は、悲壮な感じで聞いていたと思う。観光案内所の人は、いろいろ探しながら、しばらくしてから、「予約していたのはどこですか?」と聞いてきた。名前を出すのは悪いなあと思いながら、旅館の名前を言ったら、「あ~そこは場所が変わって、新しく建て直してますよ」というのを聞いて、え~とびっくり。観光案内所の人に聞いた道を行ってみると、真新しいきれいな旅館でほっとした。旅館の対応もすごく良くて、「他の旅館に直接行かんと、 観光案内所に行って良かったなあ。」と、みんなが満足した。あの旅館がどこだったのか、思い出せない。来週月曜日に泊まる旅館がそうだったような気もするのだが・・・
2012.03.23
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福井県立医大で、甲状腺の切除手術をした後、ヨードを禁止する期間があり、その後、アイソトープと言う放射線治療をするよう言われた。福井市内にはその治療ができるところはなく、金沢大学か京大の病院しかないと言う。私たちが行けるところで、と京大を希望し、救急車で義父は移動した。他から隔離された、アイソトープでの治療は1週間ぐらい。使っていた寝具や寝間着などは、後使えなかった。京大病院に入院中の義父は、癌が脳に移転したんだろうかと思うくらい変だった。トイレに行っても、部屋がどこかわからず帰ってこれない。ブドウをおはしで食べようとして、つまめないと怒ったりした。でも、しばらくして敦賀に戻り、敦賀病院で入院している間に徐々に病状は改善し、その年(昭和59年)の終わりぐらいに自宅に戻ることができた。それで、次の年の春休み、敦賀の両親と、うちの両親を連れて、あわらに泊まりに行く計画を立てた。敦賀の家まで2台の車で行き、うちの父の車に息子と娘を乗せ、私たちの車に、義父と義母を乗せた。私たちが、両方の両親を旅行に招待してあげるのは初めてで、4人とも大喜び。義母も母もおしゃれして、病気から治った義父も、真新しい洋服を着ていた。旅館は、家族4人分の教職員互助会の補助の使える、あまり高くない旅館を選んでいたと思う。でも、本に載っていたその旅館について血の気が引いた。こんな旅館があるんだろうかというくらいボロボロ。窓ガラスにはひびが入り、壁ははげている。それまで楽しそうにしゃべっていた義母が黙ってしまった。ダンナに、ここに泊まるのはやめようと言って、観光案内所に行って、他の旅館を紹介してもらうことにした。
2012.03.22
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孫の事故に関しては、まだヨメから連絡がないので、進展していないのかもしれない。今回、警察に私たちが抗議に行ったけれど、私たちが行かなければと思ったのは、昔、私がバイクで事故した時、父が警察に抗議してくれたことを思い出したからでもある。今から30年以上前、私は、車の免許を取るために、先にバイクの免許を取り、仕事が終わってから自動車学校に通っていた。その帰りのこと、渋滞で止まっている普通自動車の左側をバイクで走っていると、止まっている車の間から軽自動車が急に出てきて、私はブレーキをかけたけれど、止まることができずに追突した。乗っていた原付バイクは、自転車のようなホンダのラッタッタ。ハンドルがゆがみ、私は顎を打って、手足を擦りむいた。多分、軽自動車の横にも傷がついたと思う。場所は警察の前、向かい側は病院と言うようなところだった。私の出血が多いので、すぐ病院に行って、軽自動車に乗っていた夫婦も付いて行ってくれた。傷は顔を5針くらい縫うケガだった。病院に警察の人も来て、一緒に事情を聞いてくれた。その車は、対向車線から右折してきたのだが、渋滞で止まっていた車が、前を開けて、行けと合図したのだという。助手席に乗っていた奥さんが、「うちの車も、傷つけられた」とまくし立てた。病院の人が、「行けと言った人が悪くて、どちらも悪くないですよねえ。 五分五分と言うことで、お互い自分の費用は出すようにしましょうか。」と言うので、病院費用は自分で払うことに。警察の人も、病院の人の言うままに事故報告書を作っていた。事故は保険が効かないということで病院代も高く、こんなことなら、転んで怪我をしたと言って行く方が良かったなあと思った。帰ってきて、2・3日経っていたかなあ。父に話すと、「そんなバカな話はない」と急に怒りだした。「その警察官は、交通法規を知らんのか。 他の車が行けと言ったのなんか関係ない。 おまえは全く悪くない。警察に行こう。」と言いだした。織物の織機や部品を販売する仕事をしていた父は、とても運転歴が長かった。戦後すぐに運転免許を取って、オート三輪に乗った時期もあったけれど、私が小学校1年か2年の時には普通車を運転していた。記憶にあるのは、テレビで名前を一般公募して、トヨタから発売されたばかりのパブリカに乗っていたこと。優良運転者表彰を何度か受けたような人だった。「右折車両の前方不注意でしょう。」と抗議すると、全面的に相手側が悪く、私は被害者とひっくり返った。警察から連絡してくれて、そのご夫婦が菓子折を持って来てくれた。自賠責から病院代と、バイクの修繕費を保証してくれることに。奥さんは、不満そうで、うちの車も修理が必要だし、罰金も来る。病院も、警察も五分五分でって言ったのにと愚痴るので、「自賠責から被害者に出る慰謝料は要らないから、車を治す費用にしてください」と言ったら、納得して帰っていた。後で、父親から、そんなこと言わんでいいのにと怒られたけど・・・
2011.10.14
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一昨日・昨日と岸和田祭りだったが、9月の敬老の日(9月第3月曜日)の直前の土・日曜日に行われる、このだんじり祭りは、岸和田市内の南海線を挟んだ海側の地区だけで行われる。秋からNHKの朝のドラマのにもなる、コシノ三姉妹の実家があり、芸能人が見に来たりしてニュースでも取り上げられて、全国的に有名になっている。岸和田の山手地区と、そのほかの近隣の市では、10月。大阪南部一帯のだんじり祭りで、昔は、10月10・11日だったが、今は、体育の日(10月第2月曜日)の直前の土・日曜日に統一されている。私が生まれたのは岸和田市の海側で、5才まで住んでいた。だんじり祭りの法被を着た、赤ちゃんの頃の写真があるが、だんじりを引いた記憶はあまりない。その後、父の仕事の関係で福井県に住み、再び大阪に住んだのは、小学校3年生の時。でも、私の実家がある地域は、新興住宅地でだんじりがなく、全くお祭りとは縁のない生活を送ってきた。だんじりを持つ地域では、昔から、祭りは大事な行事になっている。だんじりは危険も伴うので、青年団などが連日集まって練習するし、祭りには、お盆や正月以上に、親戚が集まるという家庭が多く、祭りを中心に一年が回るほど、楽しみにしている人が多い。私は、岸和田高校の出身で、岸和田市内に住む人が多く、黒板の片隅にはいつも、「岸和田祭りまであと何日」というカウントダウンが書かれていた。男子には、机を太鼓替わりに練習する子もいて、祭り命という子が多かったし、近づくと血が騒ぐそうだ。昔は、9月、14・15日と決まっていて、15日は敬老の日で休みだったが、14日は平日で学校があった。でも、祭りのある地域に住む子はほとんど休み、授業にならない。先生が出席をとる時、「○○君」「引いてます」「○○君」「ハイ」「○○君」「引いてます」と言っても、先生も怒らない和やかムード。高校のすぐ隣りに、だんじりが宮入りする神社があり、だんじりがそばまでやってきたときは、教室の窓がからみんなで見たりした。高校2年の時、同じクラスの岸和田の子が、私と、もう一人の友だちを、だんじりに誘ってくれた。五軒屋町という商店街の中にあるお店の子で、五軒屋町のだんじりの法被を貸してくれて、一緒にその地域のだんじりを引かせてくれると言う。だんじりの前には2本の長いロープがあり、笛や太鼓のチキチン・ドンドコドンという音に合わせて、「ソーリャー・ソーリャー」と掛け声をかけて引いて周る。交差点などに来ると、ゆっくりになったかと思うと、急に鐘の音や掛け声も早くなり、一気に駆けて通る。だんじりの上に乗っている大工方も、屋根の上を跳んで踊る。お昼になって、その子のうちに戻ると、私たちだけでなく、お客さんが次から次へと来るのに、お寿司や蟹など、昼食の、ごちそうが並んだ。午後から、まただんじりを引いた。だんじりは、やり回しと言って、曲がり角が特に難しく事故も多い。みんなが力を合わせないといけないと言う感じで、一日中だんじりを引いて走り回り、足は棒のようになって痛かったけど、だんじりってこんなに面白いのかと思った。「ソーリャー・ソーリャー」と一日中言ってたので、みんなが、何日もガラガラ声だった。高校を卒業してからは、ほとんど岸和田祭りに行くことはなくなった。ダンナと結婚してから1回、子どもたちが小さい頃に2回ぐらい連れて行ってあげたことがある。でも、交通規制が多くて車では行けないし、すごい人で、肝心のだんじりはあまり見られないし、10月のお祭りは、いろいろなところでだんじりが見られるので、どんどん行く機会はなくなった。それが、今年は、久しぶりに行ってみたいなあと思った。10月から始まる、NHKの「カーネーション」コシノ三姉妹のお母さんがモデルだが、そのドラマの中でもだんじりが出てくると言う。このだんじりが、私が引かせてもらった五軒屋町のだんじり。懐かしくなって、丁度東京から友だちが来るし、行ってみようと言うことになった。ちなみに、コシノヒロコとコシノジュンコは高校の先輩でもある。コシノジュンコは私が高校の時には、すでに有名で、美術の先生が、「これはコシノジュンコさんが描いたんですよ」と岸高祭のポスターを見せてくれたのを覚えている。黒地の中に白と赤で踊る人を描いたポスターで、お洒落で、すごい才能だなあと感心した記憶がある。
2011.09.19
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先日、スーパーのレジを打つ女性から声をかけられた。一瞬分からなかったけど、名前を教えてくれたら、うんうん面影がある。実に25年ぶりに、教え子との再会。でも、レジに他にも並んでいる人がいて、話ができなくて残念だった。その教え子から、手紙が来た。5年と6年を持ったその子も、もう37歳。今も独身だそうだが、とても若々しく見えた。彼女の学年は、以前書いた、私がサッカーをしていて捻挫をした学年。若かったから、子どもと一緒に、走り回っていた。他の子はどうしているだろう。また、懐かしい人たちの情報が聞けそうで嬉しい。
2011.09.08
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昨日、メールをくれたのは、7月23日の同窓会の時、携帯の電話番号を交換した教え子。SMSメールで送ってくれた。今は、タクシーの運転手をしている。昨日は、駅で銀行に入る私を見かけて、声をかけようとしたら、お客さんが来たのだと言う。その子たちと出会ったのは、昭和49年。(1994年)学生紛争もあって、大学にちょっと長くいたダンナと、短大を卒業したばかりの私たちは、同期の新任で、ダンナは5年生を担任し、私は5・6年付きの担任外で、5年生4クラスの図工を受け持っていた。広大を卒業して、校区のアパートに住んだダンナのところには、しょっちゅう子どもたちが出入りしていた。「先生、ご飯作りに行っちゃってよ」とか、「汚いから、先生も一緒に掃除しに行こうよ」とか子どもたちがよく言っていた。男女2人ずつの新任4人は仲が良く、もう二人も、私たちの1年後には結婚したけれど、私たちが付き合いだしたのも、子どもたちにすぐばれてしまった。今から考えると、何を考えてるのと呆れてしまうけれど、結局、次の年の3月30日に私たちは結婚し、ダンナは1年で転勤した。最後のクラスのお別れ会には、私も呼んでくれて、お小遣いを出し合って、夫婦茶碗のセットを贈ってくれた。みんなが大泣きしたけれど、6年生になって担任が替わってからも、放課後私のクラスによく話をしに来たし、家にも何度か遊びに来た。中学生になってから、うちの子供におもちゃを持って来てくれたこともあった。20歳の時に、家族4人をクラス会に呼んでくれたことがある。「5年の時のクラス会しようと言ったら、みんな集まった」と言う。子どもの時、とってもやんちゃだったH君が、ホストをしてると言っていた。「先生よりずっと給料いいから、先生の子供に小遣いやってもええか~」と聞くので、「ありがとう、でもそれは止めて」と断った覚えがある。でも、今回彼に会うのも楽しみだったのに、10年ほど前に亡くなったそうだ。その時に、トヨタに勤めている子がいて、数年後から、彼に車を買うようになった。今回は、学年同窓会。6年の担任2人と、私たちを呼んでくれた。ダンナが担任していたクラスは25人ほど、他のクラスは、10人ずつぐらいの参加者だった。「先生、『ぼた山』歌ってよ。」と子どもたちが言う。デューク・エイセスの、「日本の歌シリーズ」の中の1曲。うちのダンナは、歌が好きで、子どもたちにいろいろな歌を教えていた。あれから36年もたっているのに、何人か一緒に歌っていた。今回初めて聞いたこと。「クラスのみんな、私たちがキューピットやと思ってるよ」「私たちにとっては、永遠に百恵と友和なんやから」気を良くして、他の担任は帰ったのに、2次会3次会も一緒にお付き合いしてしまった。今を知ってる人には、「え~?」と呆れられそうなので、その当時の写真を。彼ら、近いうちにまた声をかけてくれるそうだ。
2011.08.26
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ネットで注文した外付けのフロッピーディスクドライブが届いた。机の中にあった、1枚のFDがどうしても見たかったんだあ。それは、1999年頃の日記。前の年の12月、ボーナスで自分用のノートパソコンを買った。息子のパソコン(NECのキャンビー)に興味を持って、インターネットに繋げたのが、その前の年。どうしても、自分用が欲しくて、ボーナスで、4GBのノートパソコン(NECのLavie)を買った。日記によると、価格は27万円。(高い!)それまで、仕事にはワープロを使っていて、ひらがな打ちをしていたけれど、ローマ字打ちの練習をしなければと、日記をパソコンで書き始めた。1999年、今から12年前。母が股関節が痛くなって、一緒にプールに行き始めたのがこの年。同じように股関節を痛めていて、プールのことを聞いたのが、今一緒に習字を習ったりしているYさん。彼女は昔の同僚で、何年かぶりで研究会で出会ったら、足が痛いからプールへ行ってると言っていた。嵐のコンサートに連れて行ってくれるもえぎさんや、九州からメーリングリストを出してくれていた麦子さんと知り合ったのもこの年。その頃よく見ていた雑誌の編集者のHPが閉鎖しそうなので、メーリングリストを作ってくれたのがきっかけだった。私がSMAPのファンクラブに入ったのもこの年。ニコの夫だったブジュがうちに来たのが、この年の夏。私は、この年の4月から、コンピュータのTTをしている。全国の学校にパソコンが導入される数年前で、情報教育推進の、研究校に指定されていた。その学校にパソコンを導入し、私のお師匠さんだった先生が、次の年には転勤しそうなので、いる間に引き継いで欲しいということだった。パソコンのことはまだ初心者で、わからないことだらけなのに、「わー、二十歳の理解力ですねえ」と言うおだてに乗ってしまった。引き受けたけれど、教科書も無いし、カリキュラムも無い。でも、子どもと一緒に担任にもパソコンを覚えてもらわないといけない。パソコンって楽しいから、私と一緒に覚えましょというスタンス。全国の、コンピュータの担当は、若い男性が多かったけれど、1年から6年までの教材は、よく知っていると言うことだけは私の強み。日記を書きながら、授業の流れを考えていることも多い。ものすごく仕事をした年だと思うけれど、趣味が仕事になって、ますます仕事の楽しさを感じた年でもあった。日記を読むと、職場のたくさんの人にパソコンを買うように勧め、一緒に買いに行ったり、パソコンの設定をしてあげたりしている。わからないことをメールで聞いてくるので、職場の人たちにもたくさんメールを出している。だから、個人的な付き合いもすごく多かった。私は、細木数子さんの占いを割合信じているんだけれど、今年、私は、「再会」の年で、「再会」は、新しく事をしかけるチャンスの年で、人との出会いに幸運の鍵がある年だと言う。この頃は、まだ知らなかったけれど、12年前の1999年も「再会」の年。本当に新しい出会いが多かった年だ。まさに、人生のターニングポイントの年だったんだなあ。
2011.08.23
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不要品を処分しようかなあと思って、でも、折角だから写真を撮って残しておこうと思った。私が持っている唯一のトロフィー。「パズラー1987年2月号 超難解セブンスターパズル正解記念 優秀頭脳賞 ○○○○殿」元々私はクイズマニア。パズラーと言う月刊のパズル雑誌をよく買った。その中に、毎号、超難解セブンスターパズルと言うのがあった。この時は、四字熟語のスケルトン問題だったと思う。名前まで刻印してるってことは、トロフィーをもらえたのは、この問題で一人だけだったのかな。そう考えたら、捨てるのがもったいなくなってきた。パズラーでは、Tシャツももらった。パズラーのキャラクターがプリントされたTシャツで、全く着てなかったのに、数ヶ月前に、切り刻んで雑巾にしてしまった。あー、あれも写真を撮ってから処分すれば良かった。
2010.09.07
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結婚してすぐの頃、私たちは小さな賃貸マンションに住んでいた。玄関を入ると3畳ぐらいのキッチンがあり、4畳半と6畳の和室、それにバス・トイレ。キッチンのコンロの向こうは、木のパネルが張ってあった。結婚して半年ぐらい経った頃のこと、敦賀から送ってきたのか、行った時にもらってきたのか、私は、コンロのグリルでハタハタを焼いていた。ハタハタは脂がのって、ぽたぽたと油が落ちていた。その時のコンロはグリルの上にふたがあったが、焼けているかどうか見ようとふたを開けたままにした。しばらくすると、魚の油に火が引火して、そこからバッと火が吹いた。コンロの前が、木のパネルだったので、燃え移らないかと、私はちょっとパニックになった。その前の年、学校の火災訓練で、消火器を使わせてもらったこともあって、台所の隅にあった消火器をあわててそこに噴射した。火はすぐに消えたけど、ひえ~~~~消火器が途中で止まらない。10秒後、台所から和室から、真っ白になった。白い粒子は小さな隙間から入り込み、食器棚の中の棚はすべて真っ白、コンロの炎の出る穴もすべて粉が詰まっていた。驚いたことに、隣の四畳半の和室の押し入れの中まで入り込んでいた。今から考えると、コンロの火を消して、濡れた雑巾一枚グリルの上に乗せれば済んでたようなこと。まだ新しかったガスコンロは、グリル部分が掃除ができずボツになった。でも、消火器の力ってすごいのを実感。やっぱり、新しい消火器を買わないと。
2008.12.10
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今日のにととらさんのブログは、消防訓練の話題。学校では毎年火災訓練があるが、本当に訓練は大事なんだと思う。中学二年の終わり近く、1月の末に、実際に私の通っていた学校が火事になった。午後の授業が始まってすぐ、私たちは美術室にいた。美術の先生が、何かにおいがすると言って落ち着かなかった。そうこうしているうちに、連絡が来て、私たちは教室に荷物を取りに戻った。運動場へ出て、点呼。その後、運動場を出て、近くの池の堤に避難した。小高い堤から、学校を見ていた。3階建ての木造校舎が、ものすごい火柱をあげ、ごうごうと火を吹いて、柱だけになって崩れ落ちた。古い校舎で、原因は漏電。漏電が起こった場所の両隣りの教室は、体育の授業で、全員運動場に出ていた。今だと火災訓練は、何も持たずに大急ぎで非難するが、体育の授業をしていた3年生の2クラス以外は、みんな荷物を持って出ることができた。それなのに誰一人怪我もなくてきぱきとできたのは、その一週間ほど前に、火災訓練をしたばかりだったからだろう。木造校舎が一つなくなって、教室には受験を控えた3年生が入り、体育館は、小さく区切られ教室になった。バラック校舎ができるまで、私たち2年生は、順番に青空教室を体験した。その年の卒業式は、テントの中だった。制服も教科書もすべてなくした3年生もいて、参加していた私たち2年生も、涙、涙の卒業式だった。中学3年生の教室は、職員室を区切った場所。ベニヤ板を挟んだ隣に先生たちがたくさんいるので、最初はみんな割と緊張して授業を受けていた。そして、11月。新しい校舎が完成し、3年生が優先的に入らせてもらった。中学時代、私は演劇クラブで、新校舎完成の記念式典で、火事のことを盛り込んだ寸劇と、シュピレヒコールをした。詳しい内容は忘れたけれど、みんな感情が高揚していて、終わったときすごく感動した覚えがある。その時の演劇クラブから、2人がプロの道に進んだけれど、そんなことも影響しているのかもしれない。そんなわけで、火を見ると怖くて仕方がない。消火器では大失敗した経験があるんだけれど、そろそろ新しいのを買わなくては。MIYATA 家庭用消火器 キッチンアイ
2008.12.09
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昨日は七夕で、お気に入りのわからんtinさんが、七夕の短冊に付けるこよりのことを書かれていた。こよりには、ちょっと思い出がある。父が、こよりでよく動物を作っていたのだ。トイレに入ると、隅っこに小さい動物が置いてある。犬や馬やキリンやウサギなど、耳を長くしたり、首を長くしたり・・・小さい頃の私は、よく作って作ってとねだったものだ。自分も作りたくて、教えてもらっても、かっちり丈夫なこよりが作れない。ねじっている間にぐさぐさになってきて、どうしても立たせることができない。でも、こよりを作るのは上手になったのか、仕事で七夕行事の時に、保護者に頼んだり、糸やヒモを使う先生もいたが、大量のこよりをよく作った。久しぶりに作ったらぐさぐさだ。ティッシュペーパーはやわらかすぎる。昔のトイレのちり紙って、もっとかたかったなあ。
2008.07.08
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今日は、私たちの結婚記念日。結婚した時、「フランシーヌの場合」という曲が流行っていて、「3月30日の日曜日~」とよく歌ったものだ。朝ダンナに言ったら、「結婚記念日なんか、どうでも良いんちゃうん」と、味気ない言葉。25年目の時は、二人で沖縄旅行をし、26年目は、四国へ行った。後は、勤めていた頃は忙しい時なので、忘れて過ぎてしまっていることが多かった。思い出すのが、息子が小学校6年の時。2月に、息子は日中友好使節団の一員として上海に行った。残留孤児の方の子どもを受け入れたことで、我が市と上海市が友好都市になり、その人が住む校区の小学校と中学校から代表3人ずつ選ばれた。抽選方法は希望者の中からくじ。費用が5万円くらい必要だったので、希望者も少なかったらしいが、こんな機会は滅多にないから勧めたら、運良く選ばれた。持っていって良い小遣いは3万円。その少し前に修学旅行で広島へ行った時の小遣いは3000円だったが、息子は、もみじまんじゅうの小さな箱と、自分と妹とおばあちゃんに小さなおみやげを買ってきただけで、1600円も残してきた。買いたい物がなかったと言う。この子はあまり買い物ができないんだろうなと思って、上海のガイドブックを見ながら、せっかく学校の代表で行かせてもらうんだから、クラスの子や学校の先生にもおみやげを買ってくるように、これをいくつ、これをいくつと、メモを書いて持たせた。まだ関空ができる前で、3泊4日の旅行から帰って来る時、私は伊丹まで迎えに行った。息子は、飛行機に酔って青い顔をしていたが、そのおみやげの量に驚いた。自分とおじいちゃんに、耳あて付きの毛皮の帽子。おばあちゃんに、紅水晶のネックレス。私に、毛筆の筆2本ときれいな絵の付いた墨1ダースぐらい。(この筆は、すごく書きやすくて、高級品。)お父さんに、毛皮の置物。妹と、その友だちに、ビーズの付いた靴。学校のクラスの友だち35人ぐらいに、人民帽。女の先生たちに、(10本ぐらい)白檀の扇子。先生たちに、(20個ぐらい)ウーロン茶の箱。それ以外にも、紫檀の置物やお菓子の箱。従兄弟たちやおじさんおばさんにも何か買ってきていた。そして、交流した学校の人たちから、掛け軸や置物や、手作りの品々。おまけに、使節団の団長だった校長先生に持ってもらって老酒2本。今から20年前の中国は、まだ平均月収が6000円ぐらい。その上、使節団は国賓級の扱いで、ホテルや食事も豪華だったらしく、おみやげを買うところも一般の観光客とは違うところだったようだ。おみやげを買う時間は短くて、他の人たちは、少ししか買えなかったそうだが、息子一人が、どんどん選んでいくのでみんなびっくりしたそうだ。その頃の中国は、観光客用の兌換券と国内の人が使う人民元と、2種類の通過があったけれど、息子たちは人民元だったのかも知れない。ガイドブックで先に決めていたので、選びやすかったのだろうが、本に載っていた値段より、段違いに安く、買わないと損と思ったのだろう。当時の3万円は、中国では30万円以上の値打ちがあったかも知れないが、息子は、ほとんど全部使って帰ってきた。おみやげをもらったいろいろな人から、すごいねえと言われて、私も感心して、1か月以上たった結婚記念日、息子が、プレゼントと言って指輪のケースを出してきた。中味がこれ。金属の部分はあまり良いものではないだろうが、翡翠の指輪。1か月以上も黙っていたことに驚いてしまって、あまり素直に喜べなくて、本当にあの時買ったの?とか疑ってしまった。今考えたら、喜んでもらおうと、必死で隠していたんだろうなあ。それ以降、結婚記念日に息子からのプレゼントは無くなってしまった。
2008.03.30
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昨日の「タコライス」を買ったのは訳がある。沖縄名物と書いてあって、懐かしくなったからだ。大阪ドームそばの大正駅周辺には、沖縄料理の店が沢山並んでいる。今から5.6年前、SMAPのコンサートの後に何度かみんなで寄ったことがある。飲み物は、もちろんオリオンビール。ミミガー、海ぶどう、ジーマミー豆腐、ゴーヤチャンプル臭豆腐で台湾ビールを楽しんでいる某氏もきっと気にいるに違いないメニューだ。驚いたのが、もずくの天ぷら。沖縄のもずくは、ちょっとそこらのもずくとは太さが違う。ソーキそばも美味しかった。私がSMAPのコンサートに行きだしたのは2000年から。その頃は、私がメンバーになっているメーリングリストの交流が盛んだった。チケットを交換しあっては、いろいろな場所のコンサートに行っていた。そして、コンサートの後は決まってオフ会を兼ねた飲み会。東京のコンサートの時は、東京在住の人が企画し、名古屋ドームの時は「なごやん」が企画する。九州の福岡ドーム(当時)の時は、メーリングリストのオーナーの麦子さん。最初、大阪は、私一人だったので、どこでしようかなと思っていた。その少し前、ダンナと行った沖縄料理が懐かしくて、コンサートの前に行ってみた。ソーキそばを食べたら美味しいし、予約が入って無いというのでコンサート後に予約を入れた。SMAPのコンサートはいつも長くて終わるのは10時頃。そんな時間に団体で来て、わいわいガヤガヤ。大阪だけじゃなくて東京、九州、愛知、山口、台湾の人までいる。相当印象に残ったのだろう。次の年も予約を頼んだら、「去年も来てくれたなあ」と1年前のことを覚えてくれていた。結局、SMAPのコンサートによく行ったのも3年間ぐらい。4年前は、コンサートがなく、一昨年は足が痛かった。去年は、抽選にはずれて、行けなかったし、今年も、コンサートはなさそうだ。だんだんメーリングリストの交流も少なくなっていった。途中から、SMAPのコンサートよりも、メーリングリストの仲間と会うことの方が楽しかった私には、SMAPのコンサートも、沖縄料理も、懐かしい思い出になってしまった。
2007.11.07
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娘が昨日、買ってきてくれたケーキ。 29才の時、30才になるのを心待ちにしていた。30台って大人の女性のイメージだった。39才の時、40才になるのも嬉しかった。40台の女性って落ち着いてる感じがした。50才になった日、40台と50台の響きに愕然とした。もう私は若くないと思った。そして昨日、私は54才になった。今までになく、命のありがたさを感じて、これからの人生を楽しみながら大事に生きていこうと思った。私の誕生日が6月7日で、ダンナが6月8日。ヨメの誕生日も6月で、その前後に家族と一緒に食事したりプレゼントをもらったり、毎年楽しいけれどもあまり記憶に残っていない。けれど、ある年のことだけは鮮明に覚えている。6年前の2001年6月7日。午前0時を回ってすぐぐらいにお風呂に入った。1回目シャンプーをして、もう一度しようと思ったらポンプの中に液がない。買い置きのエッセンシャルシャンプーの徳用袋を取って、ポンプに入れ替えることにした。でも、シャンプーをした後の手はツルツル滑って、なかなか袋を切られない。そこで、歯で切ろうと、シャンプーの袋を加えた瞬間、わ~~~~~~ウソ!前歯が一本ポロンと落ちた。一瞬、あの高いお金を出したさし歯が取れたんだと思った。あわてて髪を洗い流してから、洗面所で見たら、さし歯ではなくてその隣の虫歯にもなってないと思ってた自分の歯。え~こんなことあるの?と思いながらも、きれいに根本から取れて、元の場所に挿したら、何とか見栄えはつく。「誕生日になったとたんに最悪や。」と思いながら、次の日には出張があるし、今日中に歯医者に行かんと・・・と思いながら寝た。「こんな挿しただけの歯、寝ている間に間違って飲んでしまへんやろか。」と思って、あまりよく眠られなかった。仕事には、マスクを付けて行った。子どもや他の先生たちに「どうしたん?」といっぱい聞かれ、歯の調子が・・・と何とか理由を付けながらも、しゃべっている途中で落ちそうになってくる歯を舌の先で押さえながら、自分自身笑えてきてしかたがなかった。職場の帰りに歯医者に寄って、次の日出張があるからと、急遽仮歯を作ってもらって一安心。次の日は、大阪の天満で内田洋行の主催する、情報関係の出張に行っていた。2002年から教育課程が変わることもあって、大盛況で、文部省の人が説明にも来ていた。新しい情報機器やソフトの展示会もいっぱいあって、一緒に行っていた友人と見学している時、くしゃみを一つ、あれ~~~入れたばかりの仮歯が飛んだ。あわてて、拾ってはめたものの、いつはずれるか気が気じゃない。途中、お昼の休憩があり、一緒に行ってた友人と誕生日だから美味しいものを食べようと言ってたのに、柔らかそうなものをと全く食べることを楽しむ気分じゃなかった。昼食の後、講義を一つ聴いて、休憩になったとたん会場内がざわざわし始めた。何か異様な雰囲気で、顔つきが変わり帰る人も何人かいる。何ごと?と思っていると、休憩のコーナーでテレビの映像が映し出された。ヘリコプターからの映像に映っているのは、小学校の運動場に集められる子どもたち。教育大学付属池田で起こった殺人事件だった。私自身も、あまりの衝撃に歯の心配なんか吹っ飛んでしまった。あれから後、学校現場では危機管理が強まった。文部省が、「開かれた学校」を提唱し、「地域の方でも誰でもどんどん学校に入って来てください」と言っていたが、今は玄関に警備員がおかれ、許可を得ないと入れない。避難訓練は、地震や火事の時だったが、それに加えて不審者が来た時の対処や避難の仕方も毎年訓練するようになった。8人の子どもを殺した犯人は、もう死刑が執行されたが、多くの遺族や同じところにいた子どもたちの心に今も大きな傷が残っていることだろう。
2007.06.07
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今日は、朝からマンションの大家が空き巣をしていたニュースが流れていた。お金がなくなるので、小型の隠しカメラを置いておいたら、大家が財布からお金を抜き取っているところが映っていたそうで、くっきり顔がわかるその映像が、朝から何度も流れている。「朝ズバッ!」では、みのさんが「大家が空き巣なんて考えられない!」と大きな声で叫んでいるが、実は私も同じような経験がある。息子が生後6か月の夏、それまで住んでいた2Kのアパートから、2LDKの賃貸マンションに替わった。横に6軒ぐらい並んだ3階建ての1階部分。隣には、息子と数ヶ月違いの男の子がいる管理人さん夫婦が住んでいた。大家さんは、別のところに大きな邸宅を持つ市会議員で、保育所や老人ホームも経営していて、管理人はその弟一家だった。管理人の奥さんは、同じくらいの子どもがいることもあって、よく話しかけてくれた。でも、口先ばかり愛想よく、親切にしているが、目は笑っていない。本心は違うみたいで、あまり気持ちの感じられない人だなあと思っていた。最初変だなと思ったのは、冷蔵庫の中のものから。昨日買ったと思ったハムがない。ダンナに「食べた?」と聞いたら、食べてないという。どこへ行ったんだろう、確かに冷蔵庫へ入れたのになぁ。???という感じ。数日したら、この間買った缶詰は?あれ?りんごもないよ、という具合。ダンナと二人で、「食べたん違うん」とか「買ってないんやろ」とか、言い合ったり。そのうち、タンスの中の物もなくなっていることに気がついた。まだ結婚してから2年くらいしかたっていなかったので、私のタンスの中にはまだ新品の下着も入れていたが、数枚なくなっている気がする。息子が生まれた時お祝いにもらった、ベビー服やよだれかけもなくなった物がある。そのほか、スカーフやアクセサリー、スカートなど、現金や高価な物がなくなっているわけではないが、仕事に行って、留守の間にちょっとずつ何かが違っている気がして気持ちが悪かった。留守の間に誰かが入っているのかなと、ドアに小さな紙をはさんで、帰ってきたら落ちているのを見て、やっぱり誰かが入っているんだと確信して、その頃まだ元気だった父に、留守の家で見張ってもらったりしたが、誰が入っているのかわからなかった。ある日、洗濯物を干していて、隣の管理人さんの洗濯物を見てびっくりした。外から見えにくい内側の方に、見覚えのある女性物の下着がある。ええっ!と思って、その日から、隣の洗濯物をチェックすると、お祝いにもらったよだれかけや、ベビー服も内側の方に干しているのを見つけた。ゴミ出しの日に、隣のゴミをチェックしたら、冷蔵庫からなくなった缶詰の空き缶なども見つけた。お隣の奥さんだし、警察に言った方がいいのかどうかわからず、なくなった物を書いて、ダンナと二人、大家さんに現状を話しに行った。数日後、大家さんと管理人の旦那さんの両親、老夫婦が二人で謝りに来て、「嫁は、離縁しました」と言って、20万円分の商品券を置いていった。「鍵を持ってる管理人が空き巣なんてひどすぎる。そんな少しの商品券もらったくらいですまさんと、もっと文句言って、家の頭金になるくらいの慰謝料を請求して、そのマンション出たら良かったのに」と言う人もいたが、私たちが言ったために、小さな子どもを置いて奥さんは追い出されたんだと思うと、なんかこちらが悪いことをしたような気になって、そこの子どももかわいそうに思った。それから後は、何事もなく・・・でも半年もたたないうちに、管理人さんには新しい奥さんが来て、マンションの横に大きな家をどーんと建ててそちらに移った。{ダンナさんが浮気していたから、奥さんがよその下着なんか盗んだのかな)と、すまないと思ったことを馬鹿らしく思った。それから数年、こつこつ貯金して頭金を貯め、私たちもやっと小さなマイホームを手に入れた頃、それまで何度か行ったことがあるのに気付かなかったが、ある飲食店で、あの管理人の奥さんを見た。注文をとったり、テーブルを拭いたり、下働きみたいだったが、顔を見られてはまずいと、食べずにすぐ外へ出た。それから、約二十数年後、今から5年ほど前に、その飲食店にたまたま入った。いつの間にか、その人、店の主人の奥さんになっていた。そのお店はもともと夫婦でやっていたのに、もとの奥さんを追い出したのかな。独特の狡猾そうな目つきは昔と変わらず、やっぱり、あの人すごくしたたかな人だったんだなと思った。
2007.03.06
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