仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.02.20
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カテゴリ: 東北
岩手と製鉄は深い縁がある。近代の地域開発における鉄の位置づけも、広い意義があった。

仙人製鉄所は、我が国の近代製鉄をリードするものだった。

和賀郡岩崎村及び湯田村に介在する仙人山鉄山は、日清戦争の頃に、実業界の異才雨宮敬次郎が所有するところとなった。雨宮は、木炭銑鉄のため、原野を開拓し、事務所や飯場を建設。木炭高炉が完成して操業を開始したのは、1900年(明治33年)11月である。地形を有効に利用し、捲揚機械を使わずに運搬を可能にした。1903年には内国勧業博覧会で2等賞、翌年にはセントルイス万国博覧会で2等賞、陸海軍に納入を始めている。

官営八幡製鉄所の火入れは1901年であり、技術が確立されたのは1904年以降であるから、仙人と釜石鉱山が、高炉部門の先駆的な役割を果たしたのである。

1907年、仙人鉄山は資本金50万円の株式会社仙人製鉄所を改め、雨宮が社長となり、事業の拡張を図るた。一般交通の利便も考え、地元資本と協同して、和賀軌道株式会社を興し、黒沢尻と仙人の間に開通させた。また、仙人の鉄鉱石は、雲母鉄鉱が主体で、リン分の少ない良質の鉱石だが、採鉱の際に大部分が粉鉱となる問題があった。このため、野呂景義博士の指導を仰ぎ、粉鉱の集結技術を確立したが、これは日本の粉鉱処理の先駆けとして歴史的に評価されるべき事である。

そもそも仙人鉄山が脚光を浴び始めたのは、1892年(明治25年)に、官営製鉄所の設立をめざして製鋼事業調査委員会が、当時の農商務省内に設けられた際に、釜石、仙人、赤谷、北海道砂鉄の4カ所が挙げられたことである。鉄鋼材の需要に応えて近代製鉄業の確立が求められていた。

工部省による官営釜石鉄山の失敗の後、大島高任式の小型木炭高炉により田中長兵衛が1887年(明治20年)に釜石鉱山田中製鉄所を設立したのが、突破口となる。釜石は、大高炉と呼ばれた工部省時代の英国式25トン高炉の改造と復活を計画し、1894年火入れ。同時に、新設コークス炉(骸炭製造竈)で、夕張炭を用いて我が国最初のコークス高炉法を成功させる。

田中長兵衛に次いで近代製鉄に情熱を傾けた実業家が、雨宮敬次郎だ。山梨県奥野田村に生まれ、生糸の仲買から身を起こし、東京市水道鉄管疑獄事件で必ずしも高く評価されていないが、甲武鉄道(今の中央線)を起こし、北海道炭礦鉄道を興して室蘭製鉄所の基礎を築くなど、鉄鋼界の恩人である。雨宮は、製鉄と鉄道が国の大本と考え、地域の産業開発を一貫させて考えていたのである。

雨宮は、仙人製鉄所を中核に東北の経済発展を企図し、盛岡や東京の財界人や学者と協同で東北鉄山組合を結び、また、農商務大臣榎本武揚を会長に据えて大船渡開港鉄道を構想した。



■参考
 新日本製鐵(株)秘書部広報企画室編『鉄の文化史』東洋経済新報社、1984年
 (飯田賢一「明治期東北地方鉄鋼業の再評価」、加世田譲一「反射炉と釜石鉄山の高炉」)





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最終更新日  2010.02.20 20:57:44
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