仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2021.05.04
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カテゴリ: 宮城
気仙沼市の大谷鉱山歴史資料館を訪れた。国道45号から山間に入る道沿いは、初夏の緑に染められていたが、往時は職員住宅などが立ち並び、さぞ賑わっただろう。













■大谷鉱山の沿革
地域の産金の歴史は遠く前九年の役(1050頃)以前に遡ると言われ、また平泉の黄金文化の源泉であったと伝えられる。大谷鉱山は明治38年唐桑町鈴木哲郎氏が試掘鉱区を設定、露頭部、旧坑の開発を試みて以来、福山久吉氏、三原経国氏、十時精一氏及び久原鉱業株式会社等鉱主の変遷があったが、昭和4年日本鉱業株式会社の経営となり我が国有数の金山として盛名を馳せるに至った。昭和37年大谷鉱山株式会社が鉱業権を継承したが、数十年にわたって地域経済に貢献した業績は誠に甚大であった。
その沿革概要は次のとおりである。
昭和3 この頃までは手掘り手選鉱であったが、はじめてさく岩機を導入する。
昭和6 岩尻坑操業開始(翌々8年さく岩機31台入る)
昭和9 浮遊選鉱場完成(鉱石処理能力月3000トン)
昭和11 赤牛、萱刈坑を日満鉱業(株)より買収
昭和13 浮遊選鉱場拡張。岩尻、赤牛、津谷、新月、矢越の各坑を操業。昭和17年には従業員1303名(鉱山居住580通勤723)坑道総延長55km、立坑深さ450m、年間1トン余りの産金量を誇る。

昭和25 再開。26年以後には、産金年間400から450kgを記録
昭和26 青化製錬場完成(36年拡張、処理能力月1500トン)
昭和36 青化製錬場わきに浮遊選鉱場完成(処理能力月1500トン)
昭和37 日本鉱業(株)より分離、大谷鉱山(株)設立。この頃坑道延長90km
昭和39 興北鉱業(株)を吸収合併、大谷及び興北の2鉱業所となった。
昭和40 青化製錬場の設備増強、鉱染部採掘が進み、坑内スレイム充填開始
昭和46 大谷鉱業所は興北の浮選操業を残して休山
昭和51 興北鉱業所も埋蔵鉱量枯渇により操業休止、全面閉鎖するに至った

■平泉黄金文化と大谷の金山
平泉藤原氏の黄金文化を支えたのは海道の北上山地からの「本良金」「気仙金」によるところが大きい。
本吉地方の産金は12世紀の前半と考えられ、その一部が本良荘(東北にあった荘園の一つ)の年貢として中央に貢進されたと思われる。

当時の金の採取方法は表面採取で、鉱石ならこれを粉にし、泥や砂に混ざったものはそのままで、これを筵の上に水とともに流し、比重の重い金が下にたまり、筵の網目に沈下する。それを取り外して乾かし、火で焼くと灰とともに金が残るという方法であったという。そこで、金を採取するのに多くの水を必要として、その水を引くために水路が造られたという。金の採掘がそのような表面採取ではあきたらなく、次第に坑道を掘って多量の金を採取するようになっていった。

■金鉱山を偲ぶエリアとして!
大谷鉱山の歴史を地域・近隣市町村の子供たちに学習の場としての機会を与えるとともに、大谷鉱山資料収集保存会・地域振興会を中心とした地域住民がこの歴史資料館を拠点に金鉱山を偲ぶエリアとして積極的にPRし、気仙沼市の観光スポットのひとつとして位置づけ、地域の活性化を図ることを目的としています。

事業紹介 平成16年度魅力ある地域づくり事業
補助対象事業 20,000千円 床面積168.51m2(51.06坪)


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最終更新日  2021.05.04 09:12:39
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