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今回の連載・・・列島中央の「縄文ヒスイ紀行」は如何だったであろうか・・・。手前味噌ではあるが、自分でも書き進めるうちに新たな発見や確認があり、なかなか醍醐味のあるシリーズになったと感じている。この連載を記している過程の6月18日、大阪で震度6弱の地震があった。この場を借りて、この地震によって被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げる。実は、この地震が起きたことで書くことにした以下の事情があった。それは、今回の旅路の「きっかけ」についてである。その「きっかけ」とは、今年5月末に長野県域で起きていた群発地震であった。震度2クラスだったと思うが、この群発地震が契機となり・・・願わくば大難を小難へ・・・という想いで、思い切って列島の西端から列島中央の長野へ羽ばたくことになったのである。加えて、6月17日にも群馬で震度5弱の地震があり翌18日は大阪で地震と、強い地震が連続して起きたわけだが、列島に生活する現在の日本人に対して、自然界から「今こそ、自身で目覚めよ!」との“気づき”を促すメッセージが、おそらくは「小難」の規模だったと思われる二日連続の地震というかたちで届けられたものと感じる。さてそこで、長らく関わってきた私なりの「数と形の関係」を基盤とする立体的世界観の立場から、いったい今の日本人は何に気付けば良いかということを、ここで端的に示してみたいと思う。それは、この上と下の掲載画像に映る「十角形」の重要性、もっといえば立体的かつ動態的な「十角形」の大切さに気付くべき時を迎えているのではないかということである。それでは、なぜ「十角形」が重要なのか・・・それは遺伝子DNAの構造に深く関わる形だからである。この地球上に数千万種あるとされる多種多様な生命体のほとんど全てに共通する「しくみ」こそ、(これを分かりやすい図形の表現でいえば)「十角形」だということを、この日記では何度も唱えてきた。つまり、DNAの二重らせんを構成している塩基対は一回転当たり十個であり、その円環状に並ぶ基本的な十個の塩基対が、「十角形」の重要性を謳う根拠となっているというわけだ。★関連記事・・・「十」の不思議・・・(DNAのラセン構造について)★関連記事・・・『統合の象徴』が律動する!★関連記事・・・そして「十」の世界へ・・・★関連記事・・・真理探究36年目の確認★関連記事・・・「十」の再確認ところで、今回の連載(6)でも取り上げたが、「ぎょしゃ座」と「さそり座」の二つの星座は、「北極星」を挟んでほぼ対極の位置にある星座であり、「記紀神話」において「ぎょしゃ座」に天津神を代表する武神として「タケミカツチ」という神名が与えられ、また「さそり座」に国津神を代表する武神として「タケミナカタ」という神名が与えられて、出雲の「国譲り神話」の最終局面で、双方の武神を戦わせて勝敗を決するという物語が編まれたようである。そこで、この上と下に掲載した地図は、上の画像が天体の「ぎょしゃ座」が地上の「九州地域」に投影された地図、そして下の画像は天体の「さそり座」が地上の「長野地域」に投影された地図を、それぞれこの連載で紹介した書籍から引用したものである。実は今より4年位前から紹介書籍の内容を参考に、「ぎょしゃ座」を形成する星々が地上投影されたと思しき「九州地域」の5つのポイント地点を基本として、実際に現地を訪れ巡り歩いてきたという経緯があった。☆関連記事・・・「九州」における天体の地上投影より・・・あれから4年が経過し、もうこれ以上「九州地域」を「ぎょしゃ座」の投影地として巡る必要はないだろうと自分の中で反芻していた時に、今回の・・・列島中央の「縄文ヒスイ紀行」・・・と名付けた旅路が決定したのであった。そして、その旅路が決まった後に、訪れる予定の「長野地域」が「さそり座」の投影地とされていたことを、久しぶりに再読した紹介書籍で確認したということである。興味深いことに、この紹介書籍の著者は、これらの星座が地上投影された時期が、紀元前3,000年頃かそれ以前になると指摘している。今から5,000年以上も前の、われわれ日本民族の大先祖となる縄文人が、これほどの広範囲にわたって日本列島に天体の地上絵を完成させていたことが事実だとすれば、それは一般的には驚嘆に値する話ではあるが、歴史の現場を巡り歩いてきた今の私にとっては、もはや疑念を越えた「真実味」を感じているところである。ここで今回の旅路を俯瞰してみると、九州から飛行機で飛び立ち、まるで中央構造線をなぞるようにして長野に到着、一泊二日の初日は長野地域における「さそり座」の投影地や縄文遺跡を巡り、二日目は北アルプス連峰を横目に安曇野から日本海に向かって走り、縄文人が生み出した玉文化の華である「ヒスイ」の原石が採れる現地を訪ねることができた。そこで観えてきたのは、〔 縄文人⇒タケミナカタ⇒阿曇(安曇)族⇒蘇我氏 〕という系譜であり、その系譜が連綿と担ってきたであろう「ヒスイの玉文化」であった。さらにはこの系譜の「阿曇海人族」が、実際に九州と長野を交易を通して結んできた氏族だということが、図らずも浮き彫りになってきたのであった。この連載の最後に、いつものように暗示的なメッセージとなるが・・・すでに時代は今、いわゆる「八角形」の呪縛を越えて、それこそ「八九(破竹)」の勢いで「十(自由)」となる時勢を迎えている。この大きな転機を迎えた時代に、改めて輝く象徴があるとすれば、地球上に生きとし活きる全ての生命の安寧に関わる、立体的かつ動態的な「十角形」であろう。・・・とは、この旅路を通して私なりに再認識したことである。(完)〔 追 伸 〕日本古来の星座に詳しい書籍(『 灘の國の星 』真鍋大覚 著)には、「さそり座」に関して以下のように記されていた。「蜻蛉星(あきつぼし)」とは、「さそり座」の主星たる「アンタレス」の倭名である。赤とんぼが夕日に映えて飛ぶ頃の星座である。「とんぼ」は「あきつ」と言う。日本書紀巻三 神武紀三十一年の条に「蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)の如くあるかな」とのたまふ。是に由りて、始めて秋津洲(あきづしま)の号(な)有り。「あきつしま」は日本の古名である。記紀万葉を通じて「蜻蛉」と書くときは「天皇の御詞」、「秋津」は「臣下百姓」と書き分けられている。以上が抜粋した文章だが、その中の「蜻蛉の臀呫の如く…」という和文の一般的解釈は・・・(国見をされた神武天皇は)「蜻蛉が交尾して繋がっているように山々が連なっている」とおっしゃった。これにより日本の国を初めて秋津州と号した。・・・である。この解釈を元に検索を試みると、以下に掲載した「蜻蛉の交尾」の画像が目に飛び込んできた。すると、どうだろう・・・すぐ上の画像の長野地域に投影された「さそり座」の姿と、実に見事に重なってくるではないか。もしかすると、日本國の「建国の理念」の背景に、「蜻蛉星」=「アンタレス」があったのではないかと、そのように感じ始めた今日この頃である。
2018年06月22日

さていよいよ、今回の旅路のクライマックスとなる「小滝川ヒスイ峡」へ向かった。この連載の(序章)にも書いたが、この通称「小滝川ヒスイ峡」の正式名は「小滝川硬玉産地」(国指定天然記念物)である。そのヒスイの硬玉産地を散策する前に、岩壁の崩落によりヒスイが産出したとされる「明星山(標高1,188m)」の全体像を見てみたいということで訪れたのが、白馬山麓国民休養地であった。そこで冒頭の画像は、その休養地内にあって「高浪の池」を眼下に望む展望台から、そそり立つ独立峰の「明星山」を撮影したものだ。(※下の画像は展望台にあった解説版)ちなみにこの「明星山」は、約3億年前の珊瑚礁が移動してできた石灰岩の山だそうである。曲がりくねった細い道を気を付けながら運転して、「明星山」の大岩盤の下方にある「小滝川ヒスイ峡」に到着。石灰質の岩肌が剥き出しの大岩盤を含めて、「小滝川硬玉産地」の全体像を撮影した画像が上だ。もちろん安全な場所が硬玉産地として指定されたのであろうが、この画像を見ていると今にも上から大きな岩石が落ちてきそうな圧倒的な迫力だ。現地ではヒスイ原石との響き合いがよほど嬉しかったのであろう・・・例えば落石の不安などは微塵も感じなかったのは、当時を振り返ると不思議なくらいである。上の画像の解説版に映る写真の、矢印で示されたヒスイ原石の数々に、現地では少し近づいて映したものが下の画像である。解説版の画像と実物を見比べつつ、深くて水量の多い川に阻まれ直接触れることのできない原石群を展望するのであった。次に下の画像は、指定された国の天然記念物の範囲の上流から、ヒスイ原石の数々を含む下流域を撮影したものである。童心に帰り、岩と岩の間をピョンピョンと飛びながら移動したりして、剥き出しの自然と戯れることができ、とても充実した一時であった。名残惜しくも「小滝川硬玉産地(小滝川ヒスイ峡)」を後にして車を走らせていると、とんでもなく尖った山岳が目に入った。そう・・・冒頭の掲載画像に映る、あの大岩壁を孕む「明星山」である。しばらくすると、この大岩壁を近場で展望できる施設があることがわかり、その展望台から撮影した画像が下である。これは私が今まで見た岩山のなかで、おそらく一番大きな「尖り」である。この地を訪れた私の感想は・・・日本の国石「翡翠(ヒスイ)」が産出する現場は、言語を絶する秘境にあった・・・である。ヒスイ峡で原石群と触れ合った後は、この機会に是非訪れたいと思っていた「島道鉱泉」(糸魚川市島道)の泉質を体感すべく、日帰り入浴も可能な湯治場に向かった。自噴する天然ガスを使った源泉掛け流しの泉質を、ただただ実感してみたいという想いが動機であった。その地は、ヒスイの女神と詠われる「ヌナカワヒメ」の伝承が色濃く残った、山奥の侘びた温泉施設(大正12年・創業)であった。大人四人が一緒に入れるかどうかの小さな湯船であったが、有り難いことにその時間帯は貸切状態で湯浴みを楽しむことができた。大自然に磨かれた冷たい源泉水を何度も口に含み、湧き出る「水」の質がおそらく極限にまで昇華した「湯」を心身に浸透させるべく、これでもかと体全身で浴びたことを憶えている。お陰さまで、その贅沢な湯浴みによって、自分の内外に滞留していたものが静かに排出されていく爽快感があり、その余韻は帰宅後も数日間続いたので、この知る人ぞ知る秘境の名湯はお勧めである。さて、最後の締めくくりの道程は、島道鉱泉に近い能生ICから高速に乗って塩尻ICまでの遠距離であった。果たして飛行機に間に合うかな・・・と内心ヒヤヒヤしながらも安全運転を心がけ、ついにJR塩尻駅でレンタカーを返却、そしてタクシーで松本空港へ急いだ。するとフライト前の集合時間に、ギリギリ間に合うのであった。(つづく)
2018年06月21日

梅雨入り前(6月3日)の「北アルプス」の山々は、ほどよい残雪と山肌のコントラストが美しく映えていた。安曇野から日本海に向かって北上していく道すがら、西方に見え隠れする素敵な山並みに心を奪われ、何度も何度も車を停めてしまうのであった。本日の掲載画像(7枚)は、一貫して北アルプス連峰の東麓から展望した、中部から北部にかけての素晴らしい景色を撮影したものである。最後の上下2枚の画像は、「白馬三山(しろうまさんざん)」と謳われる「白馬鑓ヶ岳(標高2903m)」・「杓子岳(標高2812m)」・「白馬岳(標高2932m)」を含む連峰北部の峰々を、たまたま通りがかった「白馬大橋」(白馬村北城)の橋上から撮影した絶景である。それにしても絶好のタイミングで、これほど素晴らしい景観に遭遇できるとは・・・。特にすぐ上の画像は、上記の「白馬三山」をクローズアップしたもので、山並みの中央から向って左側の尖った頂が「白馬鑓ヶ岳」、中央部の扁平に見える山が「杓子岳」、そして「杓子岳」から少し離れて右側に見える頂が「白馬岳」である。ちなみに橋の下を流れる松川は、北安曇郡白馬村を流れる姫川水系の河川であり、これから向おうとしていたヒスイの産地がある「小滝川」も姫川の支流なので、その繋がりから自ずと導かれたともいえよう。
2018年06月20日

一泊二日という限られた時間ということもあり、二日目の出発は早朝5時にした。ホテルを出てまず向かったのは、展望抜群と謳われる「高ボッチ高原」であった。山頂部の広い高原地帯にある駐車場に車を停め、山頂に到着したのは午前6時頃だったと思う。山頂に立った当初は諏訪湖方面が少し見えていたのだが、すぐに朝霞で景色は掻き消された。しかし結果として、冒頭画像のように遠方の雲間に見えるなだらかな山稜に添うよう、まるで光のカーテンが引かれたような素晴らしい景色を堪能することができた。この高ボッチ高原は、長野県塩尻市に位置する「高ボッチ山(標高1665m)」のなだらかな斜面に位置する高原である。この高ボッチの名前の由来は、日本各地の伝説に登場する巨人「ダイダラボッチ」が、腰を下ろして一休みしたという言い伝えからその名がついたそうだ。そこで実は今朝、「さそり座」について調べていると、アジア地域の例えば中国では、「さそり座」を「空に立つ巨人」ととらえられていたそうである。毎年の7月頃に、「さそり座」の長大な星の列が東南の地平線から中空に直立した姿は、だれの目にも何か大きな人間がつっ立っているように見えることから、これを「空に立つ巨人」ととらえたと推測できるし、また日本では伝説の巨人「ダイダラボッチ」と自ずと重なってくるわけである。加えて、この連載では何度か取り上げたように、諏訪湖近辺が「さそり座」の尻尾を形成する星々の投影地と考えられることから、おそらくその諏訪湖に近い「高ボッチ山」は、「さそり座」の尻尾にある重要部分(毒針?)を担う星の投影地とも感じられてきて、なぜこの旅路の限られた時間に「高ボッチ山」に登ることになったのか、その理由がじわじわと身に沁みてくるのであった。この高原地帯では、北アルプス・南アルプス・中央アルプス・八ヶ岳連峰・富士山などが見え、とても美しい景色が広がることから、「日本一のシャッターポイント」ともいわれ、全国から多くのカメラマンが写真撮影にやってくるとのことだ。上の画像は、訪れた「高ボッチ山」の山頂にあった標を映したものである。展望の良い時間帯であれば前方の柵の向こうには、大展望が広がっていたことであろう。この山頂の標のすぐ近くには昨夜からテントを張り、おそらく日の出の景色を待っていたマニアックな東洋人もいて、絶景スポットの噂は世界レベルだと感じた次第である。そして、旅路の二日目に訪れる目的地の要は、日本海に向かって流れる姫川の上流にあるヒスイの原石産地「小滝川ヒスイ峡」(新潟県糸魚川市)だったので、松本市から糸魚川市に向かって南北に走る国道146~147号線を、現地までひたすら北方に車を走らせていく予定であった。ところが走り始めてすぐに、西方に連なる北アルプスの美しい山並みに心を奪われてしまい、気が付くと左にハンドルを切ってビューポイントを探し始めていた。そうこうするうちに、いつの間にか辿り着いたところが、長野県安曇野市に鎮座する穂高神社であった。そこで参拝の折に、当社の御由緒を映した画像が上である。ウィキペディアを参考にすると、この御由緒に書かれた安曇族(あづみぞく・阿曇族)とは、古代日本を代表する海人族として知られる有力氏族で、発祥地は北部九州の福岡市東部(筑前国糟屋郡阿曇郷)とされるが、後に最初の本拠地である志賀島(福岡市東区)の一帯から離れて全国に移住したとある。この移住の原因として、磐井の乱(527年)や白村江の戦い(663年)での阿曇比羅夫の戦死が関係しているとの説があり、志賀島から全国に散った後の一族の本拠地は、長野県安曇野市(信濃国安曇郡)とされる。この標高3190mの奥穂高岳山頂に嶺宮のある穂高神社は、この地の安曇族が祖神「穂高見命」を主祭神として祀った古社で、内陸にあるにもかかわらず例大祭(御船神事)は大きな船形の山車が登場する。そして上の画像は、当社境内に建立されていた上記の「阿曇比羅夫(あづみのひらふ)」を顕彰する銅像を撮影したものである。阿曇比羅夫は、大和朝廷の朝鮮半島経営に活躍した水軍の将で、662年に百済復興のため水軍170隻(兵5000)を率いて赴いたが、翌年、唐・新羅連合軍と白村江で戦い、敗死したと歴史は記す。この阿曇族(安曇族)の最初の本拠地たる志賀島には私も何度か訪れており、同島に鎮座する志賀海神社は阿曇氏の中心地であったと考えられている。その私も、まさか今回の旅路の過程で、安曇野にたたずむ「阿曇比羅夫之像」に出会うとは思わなかった。前回の日記には「タケミナカタ」と蘇我氏の関係を直感的に書いたが、実は本日、蘇我氏は武内宿禰をルーツとする阿曇氏の一派とする捉え方があることを知り、我が意を得たりの心境となるのであった。(つづく)
2018年06月19日

八ヶ岳は南西麓の井戸尻遺跡を出て次に向かったのは、当日の日没までに行く最終目的地としていた「皆神山(みなかみやま・標高659m)」である。下の画像の地図のごとく、信濃地方に投影された「さそり座」の星々を、「さそり」の尻尾の星から辿っていくような流れで、八ヶ岳連峰の東麓を南北に走る国道141号を、雄々しき峰々を横目に、ひたすら北上していくのであった。気持ちも高ぶっていたのであろう・・・その長いようで短かった道中の佐久市内で、いよいよ八ヶ岳連峰が、降り注ぐ陽光に輝きはじめた一瞬をとらえた画像が冒頭である。ちなみに、画像中央にひときわ高く聳える山岳は、連峰 最北端の「蓼科山(たてしなやま・標高2,531m)」だ。おそらくその日時が、最も美しい姿で私を魅了してくれた「八ヶ岳」であった。上の画像は、この連載の「二」で掲載した地図と同じく、地上の信濃地域における天体「さそり座」の投影図である。諏訪湖から始まった今回の「縄文ヒスイ紀行」は、八ヶ岳の麓を西から左回りで東麓を北上していき、上越自動車道の佐久ICから高速に乗り、「さそり座」の主星「アンタレス」の投影地たる「皆神山」の山頂へ向かって、意気揚々と車を走らせるのであった。そこで、その「皆神山」の全体像が映った画像が上である。ここで以下、連載(三)の冒頭で紹介した書籍から、この「皆神山」に関する記述を掲載してみよう。・信濃の「さそり座」では、赤色巨星アンタレスの位置は長野市松代町付近にあたる。この地は真田十万石の城下町として栄えた町であり、近くには古戦場の川中島がある。また幕末の思想家 佐久間象山の生地として知られている。・このあたりは千曲川の川床が広々とし、のどかな田園地帯となっている。その平地が山並みに接するところに、驚くべき山がそびえているのである。日本のピラミッドが語られる時に必ずあげられる皆神山である。皆神という名の通り、すべての神の集まるところ、神々の山として信仰を集めてきた山である。・この山は、頂上が陥没したかのように扁平で、全体が台形のような形をしている。現在、頂上は標高679mと642mの二つがあり、ラクダの背のようになっている。したがってこの形状から、未完成のピラミッドとも言われてきた。山頂には熊野出速雄神社が鎮座し、中腹には横穴式の墳墓が築かれている。・この山の概要は、山裾から頂上まで約250m、裾野の最大長径は1450mで、ピラミッドとしてはずば抜けた大きさである。ちなみにエジプトの大ピラミッドは高さ146m、基底部の一辺の長さは230mであり、皆神山の基底部はその六倍以上である。これまで人工の山と言われながらも、まともに論じられなかったのは、一つにこの巨大さにあった。・皆神山がピラミッドだと言われる根拠は二つある。一つはこの山の頂上や山麓を掘ってみると、石ころだらけだったということである。この山の頂は、現在は熊野出速雄神社が鎮座する他、ミニゴルフ場が設けられている。このゴルフ場の経営者が以前に井戸を掘ろうとして山頂の一部をボーリングしたところ、地中は小砂利ばかりで、ボーリングの刃が何度も空回りしたという。通常の山であればすぐに岩盤に行き当たるのが、この山はそうではなかったのである。そして同様のことは頂上だけではなく麓でも起きていた。・日本が敗色濃厚となった昭和19年、陸軍参謀本部は本土決戦に備え、皇居や政府・軍の基幹を松代に移そうと計画し、皆神山や近くの山に地下壕を掘った。ところが皆神山だけが崩れやすくて幾らも掘れず、そのため小さな食料貯蔵庫に計画変更された。このようなことから皆神山は、瓦礫や小砂利の積み重なった山と見られ、人工の山、つまりピラミッドではないかと言われたのである。・もう一つは、この山の近くで昔から発光現象が起こるということが言われていたことにある。これについて、山の内部に巨大な空洞があり、それが崩落したことによって頂上が陥没して、現在の扁平な形となった。そして一部残る空洞内の空気が圧縮され、それが原因で放電を起こして発光現象となったと説かれている。・皆神山は信濃の「さそり座」において、まさしくアンタレスの位置にそびえている。皆神山は千曲川の西方にあり、アンタレスもまた天の川の西にある。皆神山は千曲川を天の川として、アンタレスを地上に写した世界最大のピラミッドだろう。さて上の画像は、なんとか夕暮れに間に合った皆神山の山頂から、夕映えに佇む美しき北方の山並みを撮影したものである。山頂での滞在時間は短かったが、今回で四度目となる「アンタレス」の投影地たる「皆神山」を訪れることができ、地上の「さそり座」を巡ってきた達成感とともに、感慨無量のひとときであった。そして、当山の麓にある「コトリの湯」という日帰り温泉施設に入浴し、この「皆神山」から湧出する有り難い天然温泉に浸って、長距離運転の疲れを癒すことができた。この温泉施設はまだ新しく、すこぶる泉質も良いのでお勧めである。その後は、当日の宿泊地が松本市内だったので、高速道路を長野ICから松本ICまで走ったが、その道中のサービスエリアで車を降りフト夜空を見上げると、そこに「赤い星」が輝いているではないか!!!期待を胸に星座図等で確認を急ぐと、やはり「アンタレス」であった。その投影地たる「皆神山」に先ほどまで滞在していただけに、そこはかとなく深い感動が込み上げてくるのであった。ところで、今回の連載で取り上げてきた「ぎょしゃ座」と「さそり座」の二つの星座は、実は「北極星」を挟んでほぼ対極の位置にある星座である。どうやら「日本神話」を綴った編集長は、「ぎょしゃ座」に天津神(日向系)を代表する武神として「タケミカツチ」という神名を与え、また「さそり座」に国津神(出雲系)を代表する武神として「タケミナカタ」という神名を与えて、出雲の「国譲り神話」の最終局面で、双方の武神を戦わせて勝敗を決するというシナリオの物語を編むよう指示した模様である。おそらく「ぎょしゃ座」を「天津神」とした背景には、天頂に近くて白色に強く輝く「ぎょしゃ座」の一等星「カペラ」があったからであろうし、「さそり座」を「国津神」とした背景には、天頂や北極星からも遠く南方の大地を這うかのごとく移動し、「カペラ」の白色と対峙するかのように赤色に強く輝く「さそり座」の一等星「アンタレス」があったからであろう。そして、さらにこの「国譲り神話」の物語の背景には、夏の季節の夜間において、いよいよ東方から天頂近くに「ぎょしゃ座」が昇りつめる時に、西方の大地(海原)に「さそり座」が沈んでいくという天体運行があったと思われる。つまり、東方より天頂に向かって昇る「ぎょしゃ座」が《優位》にあるとされ、南方の低位置から西方の大地に沈む「さそり座」が《劣位》にあるとされたことから、「ぎょしゃ座」たる天津神系の武神「タケミカツチ」が勝ち、「さそり座」たる国津神系の武神「タケミナカタ」が敗けて「国譲り」が成立したとする筋書きになったことが考えられるというわけである。以上のことを記しているうちに感じてきたのは、国津神系の武神とされた「タケミナカタ」が、「記紀(古事記と日本書紀)」の編纂者によって悪しざまに脚色されて記された「蘇我氏」に、見事に重なってみえてくるということであった。前回の日記にも書いたように、蘇我氏は縄文系譜の「ヒスイの玉文化」を継承しようとした氏族であった。この名族と共に歴史から葬り去ろうと意図されたのが、列島文化の御柱たる「縄文文化」であったと考えられるのだ。記紀神話に描かれた例えば「トヨタマヒメ」や「イワナガヒメ」などの〔悲しい物語〕が組み込まれた背景には、その縄文系の海人族を象徴する神名「トヨタマヒメ」や縄文系の磐座祭祀を暗示する神名「イワナガヒメ」、さらには「女性の鋭い感性」を封印するための呪的記述だったようにも思えてくるのは、おそらく私だけではないであろう。そういえば昨日の未明、今回の旅路にまつわる面白い夢を見た。以下にその内容を掻い摘んで記しておこう。・ある時、私は「ぎょしゃ座」と「さそり座」のそれぞれの役割等について、専門家から詳しい講義を受ける機会があった。・その後、双方の洞察力(物事の本質を見極める能力)のどちらが勝っているか、その優劣を比べることになり、結果として「さそり座」の洞察力の方が「ぎょしゃ座」よりも優れていることが分かった。・そして次に、美しい天然色の景観が眼前に広がり、そこには凹型の白いゲートを乗り越えていく具象的な「さそり座」の姿があった。・その姿は女性のようで、地面すれすれに両手を前方に伸ばし、まるでサソリのように大地を這うかの如く歩んでいた。・印象的だったのは、両腕の手先から両肘までは見えるのだが、両肘から両肩までの上腕部分が透明で見えないことであった。以上が今朝見た夢の粗筋だが、その夢から覚めると、その「さそり座」の女性が漂わせていた両腕の摩訶不思議な姿に、思い当たる節があったのには自分でも驚いた。それは、南米はペルーのシカン遺跡で発掘された王の埋葬姿にあった・・・。「さそり座」の姿に似せて埋葬された遺体の側に、大きな金色の二つの腕(作り物)が平行に置かれているという、今まで見たことのない印象深い写真を思い出したのであった。その写真は、なんと! この旅路の連載「三」でも紹介した、以下の書籍に掲載されていたのである。★参考書籍・・・『 世界で誰も知らなかった衝撃の事実! マヤ・ナスカ・モアイ・聖徳太子 』 榊 晶一郎 著・星雲社(2016年・初版)平成30年の夏至は6月21日(木)、本日より5日後となった。今の季節に輝く「夏の星座」のなかでも、やはり「さそり座」の一等星にして、赤く強い光の「アンタレス」の存在は別格である。今宵は南方の夜空に「さそり座」を探し、煌々と輝く魅惑的な赤色巨星「アンタレス」を眺めてみようではないか・・・。(つづく)
2018年06月16日

さて信濃(長野県)に投影された「さそり座」の星々を、諏訪湖から尖石遺跡と縫うようにして次に訪れたのは、八ヶ岳の西南麓にある史跡「井戸尻縄文遺跡」に隣接する「井戸尻考古館」であった。現地の駐車場で車を降りると、周囲は奥深い山々の景観が広がり、中でも一際目を引く南アルプスの名峰「甲斐 駒ケ岳山(標高2,967m)」を中央にして撮影した画像が冒頭である。上の画像に映る縄文土器「水煙渦巻文深鉢」(曽利遺跡 出土・約4500年前)は、当館を代表する資料の一つとされている。この芸術性豊かな土器は、昭和38年にパリで開催された「日本古美術展」に出展され、日本の古代文化の素晴らしさを多くの人に伝えた、学術的にも非常に価値の高い資料とされている。この表現力に富んだ土器を眺めつつ・・・なんだか馴染みがあるな・・・と思っていると、画像の左側に映る解説に、昭和47年に郵便はがき(10円)の意匠として採用され、昭和51年の料金改定まで全国で使用されていたことが書かれていた。次に上の画像に映る土器は、「人体絵画土器」と称される資料で、黒色の顔料で女性が出産する様子が描かれている。この下の画像は、上の画像と同じ土器の、その下方にある人体絵画を拡大して映したもので、このように具象的な絵画が描かれた土器は、他に類例がないとのことだ。素朴な表現でありながら、その写実的な筆使いに目を見張るひとときであった。さて上の画像は、井戸尻遺跡のある地域で出土した糸魚川(姫川)産の「ヒスイ製の玉類」を映したものである。古代人の装いに「ヒスイの玉」は欠かせなかったのであろう・・・その玉類の装飾文化は、縄文時代から弥生・古墳時代と継承され、蘇我氏は5世紀後半から6世紀前半、奈良県樫原市の蘇我遺跡に大規模な勾玉の官営工房をもっていたことが分かっている。★関連記事・・・縄文の華ここで注目したいのは、上のリンクでも取り上げたように、その勾玉の官営工房は他地域のそれと同じく六世紀前半には、縄文系譜の装飾文化たる「ヒスイの玉造り」が突如廃止されたということ・・・。なぜ、そうなったのか?・・・この日記の読者には、その経緯がお分かりであろう。上の画像は、前回の日記に続いて、当館で確認できた数々の「みづち紋様」の一つを紹介しておきたい。そして下の画像は、縄文時代前期の「渦巻文朝顔形土器」を映したもので、洗練された気品さえ感じられる造形美に心を打たれた逸品である。縄文時代前期の古代人が、これほど卓越した立体的表現力を持っていたことを思うと、もはや感動を通り越して唖然としてしまうのであった。実はこの「井戸尻縄文遺跡」については、2013年の秋に新潟県の【火焔土器ミュージアム「馬高縄文館」】を見学(以下のリンク)した折に、館内の特別展示コーナーで井戸尻遺跡から出土した縄文土器の数点を見て知ることとなり、これほど素晴らしい資料が出土した遺跡には、機会があれば是非訪ねてみたいと感じたことがあった。◎関連記事・・・「秋」の旅日記(5)「井戸尻考古館」には、もちろん今回取り上げた土器類の他にも、芸術性の高い数多くの資料が展示してあるのだが、これは素晴らしい!と感じる資料の多くが残念ながら撮影禁止となっていたので、「縄文文化」に関心のある方は「土器あたり」(笑)になることを覚悟で、現地へ足を運んでみてはいかがだろう。さて本日の最後に掲載する下の画像は、当館の駐車場から「富士山」を映したものである。画像では見えにくいと思うが、前方に連なる森林の中央部遠方に、かすかに富士山のシルエットが確認できるはずだ。当地から「富士山」が見えることを知ったのは、当館の学芸員の方に遺跡周辺の環境について尋ねたときであった。その際に、冒頭画像の南アルプスの連峰や八ヶ岳をはじめ、東南方面には「富士山」が見えることを教わり、館内を出て該当方位を展望した際に視認することができ、その感動たるや・・・であった。なるほど・・・近辺の地質構造が世界に類を見ないほどに複雑に交じり合った場所にあって、その周囲は「富士山」まで展望できる抜群の環境を生活の拠点とした縄文人であったからこそ、これほど別格の芸術性に優れた意匠の土器を制作することができたのであろう・・・などと、ひとり合点がいくのであった。
2018年06月14日

さて「諏訪湖」を展望した後、次に訪れたのは「尖石縄文考古館」であった。そこで冒頭の画像は、この地域で多量の縄文土器や石器が発掘され、「尖石遺跡」という名前の由来となった「尖石(とがりいし)」を撮影したものだ。古くから村人の信仰の対象とされていたものらしく、この岩石の先端が尖っているところから「とがりいしさま」と呼ばれていたそうである。この渦巻くような躍動感のある石面は、はたして意図的に刻まれたのかどうかは定かではないが、独特の威厳さえ漂わせていたので、信仰の対象になったとしても不思議ではないと感じられた。次に以下、館内に展示された「国宝」の数々を紹介。二点の「土偶」に関しては、同館のリーフレットの解説を抜粋した。◎国宝『 土 偶 』(縄文のビーナス)棚畑遺跡出土集落の中央広場の小さな穴から、完全な形のまま埋納された状態で出土しました。八ヶ岳山麓の縄文時代中期の土偶の特徴をよく表しています。造形的にも優れており、発掘調査による出土状態が明らかである点などから、平成7年に国宝に指定されました。小さく縁どられた顔、横に広げた腕、妊娠を表す腹部、大きく安定感のある腰と尻、太い足でしっかり立つ、人間味あふれる表情豊かな姿が特徴的です。◎国宝『 土 偶 』(仮面の女神)中ツ原遺跡出土縄文時代後期の仮面表現をもつ土偶です。文様は丁寧につけられ、造形的にも優れています。また、墓と考えられる穴から副葬された状態で出土した数少ない土偶で、平成26年に国宝に指定されました。大地にどっしりと立つ太く大きな足、張り出した腹部、逆三角形の仮面を被ったような姿が大きな特徴で、神秘的な雰囲気を醸し出しています。◎国宝『 浅鉢形土器 』・・・上に挙げた三点の土器は、同じ「浅鉢形土器」という名称の縄文土器で、国宝の「仮面の女神」と共に出土した縄文時代後期のものだ。興味を惹かれたのは、円形の器を基盤に、上から「三角形」・「四角形」・「五角形」と、それぞれ意識したかのような造りになっているところだ。 「数と形の関係」を基本に造形制作に携わってきた者として、これらの土器の繊細かつ大胆なデザインを具現化した縄文人の表現力に、大いに触発され感銘を受けたところである。上の画像は、同じ館内に展示したあった縄文時代中期の、主にヒスイ製の玉類を撮影したものである。ヒスイ製の「勾玉(まがたま)」とくれば、弥生時代から古墳時代にかけて出土する、あの三日月状に曲がった形態を想像してしまうが、縄文時代における装身具としてのヒスイ製玉類は、上の画像に映る数々の展示物のように、原石を扁平に加工処理して美しく磨いた玉に、丸い穴を空けたものが主流となる。ちなみに、上記の「勾玉」の祖型も、すでに縄文時代に存在していたということである。そして下の画像は、前回の日記でも取り上げた「みづち紋様」が象られた縄文土器を映したものだ。この土器は同館に展示されたもので、他にも類似する「みづち紋様」のある土器類が多数見受けられ、当時この地域に生活する縄文人にとって、いかにこの紋様に対して強い「こだわり」があったかということが感じられた。(つづく)
2018年06月13日

★参考書籍・・・『 星空の卑弥呼(上)』 榊 晶一郎 著・星雲社(2004年・初版)★参考書籍・・・『 かいま見た闇の世界 』 榊 晶一郎 著・星雲社(2006年 初版)★参考書籍・・・『 世界で誰も知らなかった衝撃の事実! マヤ・ナスカ・モアイ・聖徳太子 』 榊 晶一郎 著・星雲社(2016年・初版)上に紹介した三冊の書籍の著者である榊氏は、日本神話とギリシャ神話の比較などから、冒頭画像(書籍より転載)のように、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」の本質を「さそり座」、また「建御雷神(たけみかづちのかみ)」の本質を「ぎょしゃ座」と洞察し、古代の神々と天空の星々との関係を見事に紐解かれている。そこで今回は、出雲の国譲り神話で最終決着となる「建御雷神」と「建御名方神」の勝負に関して、私の知る限り最も普遍的と思われる氏の洞察力に溢れる文章を、以下に転載させていただくことにした。◎『古事記』の「国譲り神話」の中に、こんな話がある。大国主神らが地上の平定を終えた後、高天原から「建御雷神」らが出雲の浜に降りてきた。そして「十束の剣」を抜き、逆さまに差し立て、その切っ先にあぐらをかいて座り、大国主神に国を譲れと強要した。このとき、大国主神の子の「建御名方神」が「千引の石」を手の先に持ってやってきて、「建御雷神」に力比べを挑んだ。◎「建御雷神」が「建御名方神」の手を掴むと氷柱(つらら)のようになり、また剣の刃になった。また、葦の若葉を掴むように握りつぶして放り投げると「建御名方神」はすぐに逃げ去ってしまった。「建御雷神」は「建御名方神」を追いかけて、信濃の諏訪の湖に追い詰めて殺そうとした。すると「建御名方神」は「参りました。私を殺さないでください。この地以外にどこにも行きません。また私の父、大国主神の命令にも背きません。この葦原中国は、天津神の御子の命令のままに差し上げましょう。」と言い、国を譲ることを誓った。◎この物語は大和朝廷が土地の豪族を征服し、信濃に追いやった史実とも言われるが、実は【「星」物語 】なのである。「建御雷神」が剣の切っ先に座ったというのは、「おうし座」の角の先の「ぎょしゃ座」のことを言っているのであり、「建御名方神」が「千引の石」を手の先に持って現れたというのは、「さそり座」の光景から言っているのである。◎「建御名方神」は諏訪湖に追い詰められ、そこからどこにも行かないと言って命乞いをしたが、それは「建御名方神」がそのままずっとそこにいるということであり、つまりは信濃が「さそり座」の地であると言っているのである。そして上の画像は、信濃地域で出土する縄文土器に象られた、この地域特有とされる「みづち紋様」の二種を掲載したものだ。そこで諏訪大社の祭礼を例に挙げ、「みづち紋様」と「さそり座」、そして「信濃」との深い関連性に詳しい文章を、冒頭に紹介した書籍から以下に引用した。ちなみに、次回の日記で紹介する考古館にて、展示された数種類の「みづち紋様」を実際に見たのだが、今まで見たことのないその特異な形態は、やはり私にも「さそり座」に観えるのであった。☆信濃は古くから人の住み着いた地で、中でも諏訪湖の東方、八ヶ岳や蓼科山山麓は、前4000年頃からの縄文遺跡が散在している。住居跡や祭祀跡などから、多数の土器や土偶などが発掘されているが、その中で信濃特有の模様をつけた土器がある。☆小さな爬虫類が躍動するような姿を描いたもので、その模様は「みづち紋様」と呼ばれている。地元では正体不明の爬虫類を「みづち」と呼んでいたからこう名付けたという。☆この「みづち紋様」は、諏訪大社の祭礼に際し、神木に打ち込まれる「薙鎌(なぎかま)」とそっくりである。「薙鎌」・「御左口神(ミシャグチ神)」・「みづち紋様」の源は同じもので、原形は「さそり座」と考えられる。☆信濃の縄文土器に限って「みづち紋様」が描かれているということは、「みづち」を土地の神としていたのであり、既に前3000年頃には信濃が「さそり座」の地とされていたのである。☆諏訪大社の主祭神は、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」や「八坂刀売命(やさかとめのみこと)」だが、実際の祭祀は「ミシャグチ神」という樹や笹や石や生神・大祝に降りてくる精霊を中心にいとなまれる。☆諏訪では12月22日から翌3月末日(旧暦)までの約百日間の冬籠りをする「御室神事(おむろしんじ)」が行なわれる。「ミシャグチ神」は茅で作った小蛇のような神で、「諏訪神社縁起」などによると、この神事は穴に籠って冬眠をするかのようである。☆おそらく諏訪大社の神は、小蛇のような「ミシャグチ神」だが、その起源は「さそり座」であろう。その「さそり座」の毒針のところに当たる地に、神祭りを行っていたのが、後に諏訪大社に発展していったことが考えられる。☆なぜなら、「さそり座」は夏の星座で、冬になると約百日間は夜空から完全に姿を消す。それを古代の諏訪人はサソリの籠りとして、それに合わせて神事を行った。それが「御室神事」の起こりではないか。
2018年06月11日

松本空港に到着後、バスと電車を乗り継ぎJR塩尻駅にて予約のレンタカーに乗車、塩尻ICから高速に乗ってすぐの諏訪湖SAより、北西方面の「諏訪湖」を展望した画像が上である。ちなみに、画像の湖の向こうに映る山並みの中央にあって、山上が少し薄らいで見える山が、明朝に訪れることになった絶景スポットとうたわれる「高ボッチ山(標高1,665m)」だ。次に下の画像は、同じく諏訪湖SAから見て東方に聳える「八ヶ岳連峰」を撮影したものである。そのSAを出た後は、2カ所の縄文遺跡(尖石遺跡・井戸尻遺跡)やそれぞれに隣接する考古館を見学し、八ヶ岳の南麓を経由して南北に連なる連峰の東麓の国道を北上していくことになるのだが、その走行ルートの背景には一番下の掲載画像に映る地図に描かれた「天体の地上投影図」があった。つまり下の画像は、信州は現在の長野県域の地図に投影された、一等星「アンタレス」を主星とする「さそり座」の投影図というわけだ。この「さそり座」が投影されたと思しき地図は、何度かこの日記でも紹介した下の書籍から転載したもので、今回の旅路の計画では当初、まずは「諏訪湖」を訪れることにしていたことから、その諏訪湖とくればその周囲に四社も鎮座する諏訪大社の祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」が浮かぶのであった。◎参考書籍・・・『 星空の卑弥呼(上)』 榊 晶一郎 著・星雲社(2004年・初版)古文献や伝承によると、出雲国(現在の島根県域)の「大国主(おほくにぬし)」と越後国(現在の新潟県域)の「沼河比売(ぬなかわひめ)」との間に生まれた子が「建御名方(たけみなかた)」で、後に建御名方は姫川をさかのぼって諏訪国(現在の長野県域)に入り、諏訪大社の祭神になったという。この「建御名方」の母神「沼河比売」は、越後国に産出する宝玉「ヒスイ(翡翠)」を支配する祭祀女王であったとみられ、今回の旅路のテーマにも関連することから強く意識することとなり、結果として上記の参考書籍に載せられた「天体の地上投影図」に注目することになったのであった。詳しくは次回の日記に譲るが、上記の書籍によれば「建御名方」の本質は「さそり座」であり、その天体の「さそり座(建御名方)」が、上の画像のように長野県域に地上投影されており、その主星「アンタレス」の位置に長野市松代の「皆神山(みなかみやま・標高659m)」があるとのことであった。・・・以上のように様々な要素が絡み合うかたちとなり、この度の長野での旅路の始まりは、「さそり座」の【尾】の投影地と想定される「諏訪湖」地域の展望とし、それから(冒頭にも記したように)「さそり座」の星々が描くS字形をなぞるように車を走らせ、初日の最終目的地は「さそり座」の【心臓】に例えられる赤星「アンタレス」の投影地たる「皆神山」となったのである。(つづく)
2018年06月09日

今回の「縄文ヒスイ紀行」は数年前からの構想だったが、この旅路の急な実現の背景には・・・曰く言い難し・・・の予想だにしない展開があった。それはさておき、いよいよ6月2日(土)の午前10時頃、まずは福岡空港 発・松本空港 着の飛行機で出発。離陸後しばらくして、機内の窓から下界を見ていると、どうやら諏訪湖に近い松本空港まで、「中央構造線(※)」をなぞるように飛んで行くことが予想され、期待で心身が躍動したことを憶えている。(※)九州東部から関東へ、西南日本を縦断する大断層系のこと。そこで冒頭の画像は、その中央構造線に添うような愛媛県の「佐田岬半島」を映したものである。☆関連記事・・・佐賀関から豊後水道を渡り四国へ・・・次に、上の画像の中央部に映る島が、兵庫県南あわじ市の「沼島(ぬしま)」で、右下に映る島影が「淡路島」である。上記の中央構造線は、四国と紀伊半島の間では、画像のように淡路島南岸と沼島の間を通っている。また画像に映る淡路島の南側には、かつて2015年のゴールデンウィーク中に訪ねた「論鶴羽山」が映り込んでいて、同時期に訪ねた「沼島」と共に懐かしい想いが込み上げてくるのであった。☆関連記事・・・四国~淡路島への旅(沼島 編)☆関連記事・・・四国~淡路島への旅(論鶴羽山 編)近畿以東からは眼下に雲が広がっていたので、果たして「富士山」は見えるかな・・・と案じていたが、想定された時間と場所の辺りで窓に目を遣ると、雲間から雪解け間近の富士山が秀麗な姿を見せてくれたのだった。その展望は諦めかけていただけに、感動もひとしおであった。そして下の画像は、松本空港に着陸する間際に映した、「諏訪湖」と「富士山」の2ショットである。その素晴らしい景観に息を飲みつつ、今回の「諏訪湖」から始まる旅路【列島中央の「縄文ヒスイ紀行」】への期待に、胸を膨らますのであった。(つづく)
2018年06月08日

この6月の始め、信州は長野県に行く機会を得た。今回の旅路、題して「列島中央の縄文ヒスイ紀行(一泊二日)」が決まったのは、実に出発の一週間前であった。・・・にもかかわらず、航空便・ホテル・レンタカー等の予約はすぐに確定し、現地では約700Kmとなった車の移動距離もものともせず、とても濃厚で充実した時空を満喫することができ、有り難き幸せを噛み締める今日この頃である。そこで、本日の記事を序章として、今回の旅路で特別に印象に残った三枚の画像を掲載し、これから数回に分けて書いていこうと考えている。まず冒頭の画像は、搭乗した飛行機が松本空港に着陸する前に機内から映したもので、手前右側の大きな湖が「諏訪湖」、そして左上の雲間から顔を出している山が「富士山」である。旅路の冒頭から、こんな素晴らしい景観を堪能することができ、感慨無量であった。次に上の画像は、今回の旅路で最高のビューポイントだった北アルプスは白馬連峰の山並みを映したものである。雪解けの季節を迎えた残雪と山肌のコントラストが実に美しく、まさに限られた期間でなければ見ることのできない貴重な景観であった。そして下の画像は、標高540mの白馬山麓国民休養地内にある「高浪の池」を眼下に望む展望台から、そそり立つ独立峰「明星山」の大岩壁を撮影したもので、今回の旅路で訪ねた最も重要な地域の展望といえよう。この明星山の大岩壁が落ち込んだ姫川の支流・小滝川の河原一帯が「小滝川硬玉産地」(国指定天然記念物)であり、一般に「小滝川ヒスイ峡」と呼ばれ、ヒスイのふるさと糸魚川を象徴する日本随一のヒスイ産地とされている。(つづく) ※ここで耳寄り情報・・・これまでは「水晶」が日本の「国石」だったのだが、2016年9月に【翡翠(ヒスイ)】が日本の「国石」に正式決定したとのことだ。ちなみに国石(こくせき)とは、その国家を代表・象徴する石(宝石)のことである。・・・
2018年06月07日
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