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総勢20名の出雲ツアー(二泊三日)では、古代出雲の濃厚な時空を共有し、午後6時頃に出雲空港で名残惜しくも解散。そして空港の駐車場に停車していた車に乗り、予約していた”日本三大美人の湯”で有名な「湯の川温泉」の旅館へ・・・。地場産の美味しい料理に舌鼓、心地良き温泉も存分に堪能した。翌日は宿泊した温泉旅館からも近く、「大国主命」に縁の深い山と伝わる「大黒山(だいこくさん/標高315m)」に登った。そこで冒頭の画像は、この「大黒山」の山頂から宍道湖、そして出雲半島の中部方面を展望したものである。次に上の画像は、同じく「大黒山」の山頂から平野部を経て、島根半島の西部方面を撮影したものである。(※左端に小さく映る白い建物は「出雲ドーム」)画像の手前に伸びる山麓のどこかには、大国主命が活躍した「荒神谷遺跡」が写り込んでいるはずだ。上の画像の解説版にあるように、この大黒山の山上は神代の昔、大国主命と少彦名神が(冒頭画像のような)平野や内海を眺めつつ、葦原中国(あしはらのなかつくに)の「国造り」を相談された聖地と伝えられている。現在頂上には、上記の二神を祀る兵主神社(ひょうずじんじゃ)が鎮座しており、この下の画像に映る岩は、この二神が腰かけて国内を展望されたところと伝わる。さてここで、このシリーズでも何度か引用した書籍(以下の参考文献)から、大国主命の誕生地であり領土であったとされる「西出雲」に関する文章を抜粋しておこう。※参考文献・・・書名『 卑弥呼の宮殿ここにあり 』 田村倫子 著・現代書林(1994年初版)西出雲は大国主命の領土であり、宮殿とされたところは、出雲市斐川町の仏経山の麓の谷あいであった。当時は宍道湖の水が、荘原の目の前から沖洲あたりまで入り込んでいて、地形が今よりも違っていた。大国主命の大切な生命線とも言われ、シンボルでもあった斐伊川が湾曲して流れていて、この斐伊川によって抱きかかえられるようなかたちで、大国主命の領地が守られていた。領地内には、仏経山(神名火山)、高瀬山、大黒山と連なっており、仏経山の麓の谷あいの三絡・武部など、特に三絡(みつがね)には、大国主命の住居(宮殿)があった。銅剣が出土した高瀬山の丘陵の麓、神庭西谷(荒神谷遺跡)は、神祭(かみまつり)をする大切な場所で、ここは神聖な神の庭でもあった。この峰つづきに大黒山があり、その麓の谷、宇屋谷で大国主命は誕生された。大黒山は、大国主命の持ち山であって、大国主命のシンボルである。これら三つの山(仏経山・高瀬山・大黒山)と、その山麓の一角に、大国主命の出生の谷と、神祭の谷と、宮殿の谷がそろっていて、身近であるため、何をするにも無駄がはぶけた。大国主命の領地内、その谷沿いに流れている川が、湖にそそぐ本流とつながっていたので、湖まで行くにも、この川を伝っていけば楽であった。この水路を利用しての食料や、他のものの運搬が容易にできるため、この地は栄えていた。山に囲まれて冬は寒く、土地柄は良くなかったが、平地は上流から水が運んでくれる土が、よく肥えていて、作物の育ちが良かった。仏経山、高瀬山、大黒山と、三つの山の根っこの谷で生まれた出雲の神 大国主命は、「岩根底ツ国(いわねそこつくに)」から誕生した神でもある。豊かな国造りを目指して人を動かし、神を動かして統治していった大国主命は、多くの豊かな土地を所有した、当時としては珍しく人の上に立つにふさわしい政治家であった。豊かな自然も、限りあるものと大切にし、人間をいたわり、生あるものは宇宙の運行に従って生きる、という考え方をした大国主命は、偉大な宗教家でもあった。(※以上の文章は上記書籍より抜粋)大黒山を下山した後、上に記した紹介書籍からの抜粋文章にある・・・大国主命の誕生地と書かれた大黒山の麓の「宇屋谷」・・・という地名が気になっていたので、現地を訪ねてみることにした。その場所の近辺を車で通りがかると、今回の出雲行脚における初日、「荒神谷遺跡」を訪ねる際に目に入っていた、上の画像の看板に導かれた。その解説版に書かれた「宇夜都弁命(うやつべのみこと)」とは、『出雲国風土記』にしか登場しない謎の女神とされ、上の画像に映る参道の奥に鎮座する『延喜式神名帳』記載の郷社「神代神社(かむしろじんじゃ)」の主祭神である。地元の伝承によると「宇夜都弁命」は、神代の時代にこの地に天降り、荒れ地を開拓されたありがたい女神ということで、この女神が降臨されたことが地名由来となり、この辺りを「宇夜の里」から「宇屋谷(うやだに)」と呼ぶようになったと伝わる。上の画像は、参道脇の土手に咲き誇る彼岸花(曼殊沙華)を撮影したものだ。まるで「宇夜都弁命」の遺徳をあらわすかのように、陽光に映え美しく輝いていた。そして、当社の神体山「権現山」の峯にあって、「宇夜都弁命」が降臨したと伝わる「磐座」を撮影したものが、この上下の画像である。上の画像の上方に映る山が「大黒山」(向かって左側の峰)であり、この「磐座」の佇まいから「大黒山」と響き合っていると感じられ、またそれは「大国主命」と「宇夜都弁命」の関係性を物語っているとも感じられた。実は、この神社から磐座に向かう道中の一角に、丸い大きな石が置かれていたのだが、帰宅して改めてこの「神代神社」を調べてみると、その石には《 神代社旧跡 大巳貴命 》と刻まれていることが分かった。この「大巳貴命(おおなむちのみこと)」とは「大国主命」のことだが、下の由来書を見れば分かるように、確かに当社には「大巳貴命」も配祀されており・・・もしかすると旧社地には「大巳貴命(大国主命)」が主祭神として祀られていたのかもしれない・・・という直感が私の脳裏を過ぎった。それと同時に、上記の紹介書籍から抜粋した内容の類推から、この「宇屋谷」に鎮座する「神代神社」の境内で、かの「大国主命(大巳貴命)」は誕生したのではないかという想いを強くするのであった。また、この「神代神社」が鎮座する地名「宇屋谷(うやだに)」の、その「うや」という発音を含む周辺の資料を考察すると、この地域に鍛冶集団がいた可能性があるとする歴史研究があり、それによると「荒神谷遺跡」から出土した銅剣の工房の存在を推測することができるということである。この度の「出雲行脚」の最後は、在りし日の「大国主命」が、出雲国の大王として権勢を誇っていた時期に、(荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡に埋納されていた)大量の銅剣・銅矛・銅鐸を呪具として大切に活用し、盛大なる火祭を斎行する風情を、あたかも「大黒山」の山上より垣間見るようなかたちで、古代出雲の国振りを感じつつ帰路についたのであった。(了)
2019年10月19日

日本最古の神社建築様式の一つ「大社造(たいしゃづくり)」の代表例は「出雲大社」であるが、本日の冒頭画像は、現存する「大社造」の最古の遺構として、国宝に指定されている「神魂(かもす)神社」(松江市大庭町)の本殿を撮影したものだ。その「大社造」の特徴は、切り妻・妻入りの構造で、平面では九本の柱が、田の字型に配置された正方形の間取りとなっている。今回の約20名からなる出雲ツアーには、とある神社の神主が案内人として付き添ってくださり、巡拝するここかしこの神社境内にて、地元ならではのエピソードを交えた奥深い解説を聞くことができた。なかでも印象に残ったのは、冒頭画像に映る神魂神社での「大社造」にまつわる解説であった。その解説を要約すると・・・「よく御神座の向きが取り沙汰されますが、出雲では九本柱の中心にある「心御柱(しんのみはしら)」が御神体であり、これに向かって神主は祈っているのです。」・・・という話であった。その話を聞いて私は・・・そうだったのか…深い話だな・・・と思ったと同時に、上の画像に映る造形が心中に浮かんだのであった。後日、昼食後の休憩時に、いま一度この「心御柱」が神主を囲んで話題になったとき、私は胸ポケットに携帯していた自作の「綿棒工作キット」を取り出し、神主の目前でこの上の画像の造形を作ってみせた。☆関連記事・・・根源的構造『軸立て』の公開その出来上がった造形を披露しつつ、「大社造」の田の字型に配置された九本柱との関連性を語り、この造形を支える中心の軸(画像では赤色で強調)が「心御柱」に見立てられるとの解説を試みた。すると宮司は・・・そのように立体的に説明できると分かりやすいね・・・と言われ、またその場で作った造形を通して共感することができ、とても嬉しかったことを憶えている。さて上述の「大社造」にも関連するのだが、この上の画像は出雲大社の千家国造家に伝わる「金輪御造営差図」という古代御本殿の平面図を撮影したものである。(島根県立「古代出雲博物館」にて撮影)参拝する人誰もが目を見張る出雲大社の御本殿だが、現在の御本殿は江戸時代の延享元年(1744年)に立て替えられたものを基盤とし、高さ八丈(約24m)ある。しかし、古伝によると昔は高さ十六丈(約48m)、さらに上古は高さ三十二丈(約96m)もあったとされてきた。上載の図面に加え解説にもあるように、高い御本殿を支える柱は、三本の巨木を鉄輪で束ねて一本の柱としたという伝承があるのだが、実はこれを証明する驚きの発見こそ、平成12年に出雲大社境内で発掘された「三本の柱」であった。※関連記事・・・三本一組の「御柱」ちなみに、その後の科学的な調査の結果、この発掘された「三本の柱」は、鎌倉時代の宝治二年(1248年)に再建された際の御柱であろうということになっている。そこで上掲画像の「古代本殿の設計図」に触発され、出雲の神主の前で作った造形に、「三本の柱」を三本の綿棒を束ねて一柱に見立て、本殿を支える九本の柱として構成したものが、角度を変えて一つの作品を撮影した上下二枚の画像に映る造形だ。なお、全部で九本の柱のうち、中心の「心御柱」を見立てた軸が区別できるよう、造形の中心軸を金色に着色した。手前味噌だが、なかなか醍醐味のある出来栄えである。ここで思い出したのは、冒頭でも記した「大社造」の特徴とされる「九本柱」に関して・・・《この「九本柱」という建築様式の原点は「田和山遺跡」です。》・・・という出雲の神主の解説であった。この弥生時代前期末から中期後半にかけて(紀元前2~1世紀)の遺跡とされる「田和山(たわやま)遺跡」(松江市乃白町)では、その遺跡の山頂部において九本柱の遺構等が発見されており、おそらくこの「九本柱遺構」が「大社造」の原点と考えられるということだ。実は私自身、この「田和山遺跡」には深い思い入れがある。というのも、長年にわたって何度も「出雲行脚」を続けてきたことで、私の心中に浮き彫りになってきた古代出雲国における【東・西・南・北】の四つの聖地があった。そしてある時、その【東】と【西】を結ぶ東西線に【南】と【北】を結ぶ南北線を交差することで、【中央】としての「田和山遺跡」が見出せたことから、その計五ヵ所(下に記載)となる聖地を改めて現地探訪すべく、2016年8月中に一泊二日の出雲行脚を敢行したのであった。【東】… 揖夜神社(松江市出雲町)・【西】… 日御碕神社(出雲市大社町)・【南】… 八雲山(松江市八雲町/須我神社の神体山)・【北】… 加賀の潜戸(松江市島根町/島根半島の景勝地)・【中央】… 田和山遺跡(松江市乃白町)以下にリンクした八編の記事は、古代出雲国における上記【東・西・南・北・中央】の、五つの聖地を巡った軌跡を連載したものである。☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(1)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(2)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(3)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(4)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(5)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(6)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(7)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(8)
2019年10月17日

実は今回の「出雲行脚」は、この地域を巡る約20名の団体旅行(二泊三日)に参加することが、当初からの計画であった。つまり、そのツアーに合流するため、前日から出雲地域に入っていたということだ。ツアー初日の待合せ場所であった出雲空港で合流した後、一台の貸切バスに全員が乗り合わせて、まず最初に向かったのは島根県立「古代出雲歴史博物館」であった。当博物館では、古代出雲の歴史・文化に関して、展示物を通した地元ボランティアの丁寧な解説があり、とても参考になった。ここでは島根の歴史の全体像を把握できるので、出雲に最寄りの際は見学をお勧めする。その後、博物館に隣接する「出雲大社」の参拝を経て一行が向かったのは、島根半島の西端に鎮座する「日御碕神社」であった。当社については2018年、図らずも年間で最大の祭事である例大祭(8月7日)に参拝した経緯から、以下の関連記事では祭神の「素盞嗚尊」にまつわる奥深い記事を取り上げている。※関連記事・・・出雲行脚の総集編(7)※関連記事・・・出雲行脚の総集編(8)さて冒頭の画像は、天体「おうし座」の星々が出雲地域に投影され、各地に鎮座する神社との関係を示した地図を、以下に紹介する書籍より引用したものである。◎参考書籍・・・書名『 星空の卑弥呼(上)』 榊 晶一郎 著・星雲社(初版2004年)ここで興味深いのは、今回の出雲ツアーで巡拝する神社のほとんどが、冒頭画像の地図に記載されていたことだ。この冒頭画像のカラーコピーを持参していたので、早速初日の夕食会において、今回のツアーの先導者に地図を示して確認する機会を得た。すると、どうだろう・・・その先導者は、この「おうし座」を構成する星々と出雲地域に配置された各神社との関係を、いとも簡単にあっさりと認められ、これらの天体が地上に投影された時期も、(ここでは書けないが)明確に指摘されたのであった・・・。ちなみにこの「おうし座」は、神仏習合の神として「牛頭天王(ごずてんのう)」とも称された「素盞嗚尊」を象徴するとの捉え方もある。そうしてみれば、天体「おうし座」の形状は、立派な角の生えた「牛の頭」に観えてくるというわけだ。それはさておき、上記の島根県出雲市に鎮座する「日御碕神社」と三重県熊野市に鎮座する「花窟神社(はなのいわやじんじゃ)」を結ぶ方位線である「夏至の日没線=冬至の日の出線」をご存じだろうか。その二つの神社を結ぶ方位線が地図上に描かれたものを、以下の参考書籍より引用した画像が上である。◎参考書籍の紹介・・・書名『 古事記のコード 』 池田 潤 著・戎光祥出版(2011年初版)この書籍の著者は、出雲神話において須佐之男命が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時に使用したとされる「韓鋤剣(からさひのつるぎ)/別名「十握剣(とつかのつるぎ)」と神社等を関連付けて、日沈宮である「日御碕神社」から天日隅宮と記される「出雲大社」を結ぶ「冬至の日の出方向」の先に向かっていくと、須佐之男命が天降った鳥髪山(船通山)を通り、吉備地方の「十握剣」を御神体として祀る「石上布都魂神社」に向かうと指摘する。(上の画像の方位線を参照)筆者はさらに、その方位線を「冬至の日の出方向」に辿っていくと、和歌山市に鎮座し「伊勢神宮」と共に神階を贈られない特別な神社とされてきた紀伊国一之宮「日前・国懸(ひのくまくにかかす)神宮」を通り、さらに熊野の方向へ辿ると、この方位線の東の端にして太平洋に面した熊野市有馬に鎮座し、『日本書紀』に伊邪那美命が葬られていると書かれた「花窟(はなのいわや)神社」に至るということで、古くから「出雲」と「紀伊(熊野)」は、太陽の出没に関わる特別な方位関係で結びついていることを指摘している。(以上は上記の紹介書籍より抜粋・校正)そして、前々回の日記を読まれた方は既にお気付きのように、この上の画像に描かれた方位線と本日の末尾画像の地図に描かれた方位線(大量の青銅器が出土した二つの遺跡を結ぶ軸線)は、ほぼ同じ方位を示す軸線、つまり「夏至の日没線=冬至の日の出線」ということになるわけだ。さて、合流した今回の出雲ツアー(二泊三日)において最も印象的で、最大のイベントだったと思われたのは、初めて訪れた三つの巨大磐座からなる「立石(たていわ)」(出雲市坂浦町)での出来事であった。不思議なことに、現地に辿り着く前は小雨模様だったのだが、到着して先導者の解説がありクリスタルボールが特別な音域で鳴り響き始めると、(上の画像のように)にわかに二つの巨石の間から太陽が輝き始めるのであった。それはあたかも、我々に太陽の方向性を示しているかのような感じがしてきたので、思わず方位磁石を取り出し方位を確認してみた。すると何と!下の画像の方位線の如く、荒神谷遺跡の位置が我々の今いる場所だとして、大黒山と高瀬山が眼前の左右二つの巨石に見立てられ、その狭間から昇る太陽の方向が加茂岩倉遺跡のある方向と重なることが分かり、そこに集った我々は出雲の「大国主命」のもとで、古代祭祀を体験しているかのような感覚となり、思わず身震いしたことを憶えている。
2019年10月14日

今回の日記では、前回の日記で取り上げた「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」において、大量に出土した「青銅器(銅剣・銅矛・銅鐸)」を撮影した画像をお届けしよう。(撮影場所:島根県立「古代出雲 歴史博物館」)まず冒頭の画像は、「荒神谷遺跡」で出土した「358本の銅剣(実物)」が、すべて整然と並べて展示してあるコーナーを撮影したものだ。展示スペースが広すぎて全体の撮影は叶わなかったが、画像下方の三段に置かれた緑色系の展示物が出土銅剣の数々である。次に上に掲げた二つの画像は、同じく「荒神谷遺跡」で出土した「16本の銅矛(実物)」と「6個の銅鐸(実物)」を、それぞれの解説を含め撮影したものである。そして、上の画像に映る数々の青銅器は、解説文にあるように「加茂岩倉遺跡」から出土した「39個の銅鐸(実物)」を撮影したものだ。これらの展示物を拝観しつつ改めて感じたのは、出土した実物の文化財(国宝)が放つひびきは、やはり圧倒的に迫力が違うということであった。ここで上の画像は、取り上げた二つの遺跡の関係性が記された解説版を映したものだ。この大量の青銅器を誰が所有し、なぜ埋めらたのかについて、ご参考かたがた前回の日記と同じ参考文献(以下に記載)より抜粋しておこう。※参考文献『 卑弥呼の宮殿ここにあり 』 田村倫子 著・現代書林(1994年初版)大国主命は大和の権力者から、まず屋外でくりひろげられていた、大々的な火祭(ひまつり)を禁止させられた。火を焚き、ゆらめく炎によって邪悪を祓(はら)い、身も心も浄化していく祭祀(さいし)である。神祭(かみまつり)の神具「七本の剣」は、「宇宙大神 七柱」の象徴である。この「七本の剣」は、宇宙大神に捧げるため、別の宮殿に祀られて、残る三百五十八本の銅剣は、火祭をする時に使われた。一年の日数三百六十五日を「七柱の神」に守られて、邪悪な魔に惑わされることなく、剣の力で魔を切った。火祭には大きな火を焚き、ゆらめく炎のまわりを整然と囲んで、三百五十八本の銅剣をかざし、一年の安泰と正義を祈り、誓った。銅鐸は、大小さまざまな音の力をかりて揺り動かし、叩いて神々に依(よ)りつきを願い、依りつかれた神の力によって、悪を追い祓ってもらった。銅鐸の音は、悪気を祓うと思われた。矛(ほこ)は、正しき神に、邪悪な心をもって近づこうとする魔を、矛の力によって退散させた。矛は、邪悪なものと戦うための、神が使われる武器であった。祭祀に使われた銅剣(三百五十八本)、銅鐸、銅矛と、神への御神宝(七本)は、大国主命が王権を譲られた日からのち、祭祀の趣旨が変わり、必要でなくなってしまった。祭祀を執り行う時の大切な宝は、神のものであるので、かつては大国主命と祭典を執り行った神聖な神苑、大国主命の山である大黒山の麓の土中に、三百五十八本の銅剣を葬った。銅鐸もそうである。祭祀を執り行った広場へ、銅鐸は帰って行ったのである。銅剣の埋まっていた所も、銅鐸の埋まった所も、塚なのである。銅剣塚、銅鐸塚なのである。埋葬ののち、掘り起こす機会もないため、神聖な神の御神具である剣に、魔がとりつくことのないように、埋葬の地上で清めの火を焚き、剣の浄化をはかって、大切に守っていったのである。大国主命 六十七歳の時、出雲国は完全に政権を大和政権へ任せることになり、大国主命は王として、政治家としての座をお下がりになったのである。(※以上、上記の参考文献より抜粋。)
2019年10月13日

午後4時頃に「加茂岩倉遺跡」を出発し、出雲行脚初日の最後に向かった先は、これまで何度か訪れたことのある「荒神谷遺跡」であった。ご存知の方も多いように、この二つの遺跡は「青銅器」が大量に出土したことで全国的に有名である。全国最多39個の銅鐸が出土した「加茂岩倉遺跡」、そして全国最多358本の銅剣(どうけん)と16本の銅矛(どうほこ)、6個の銅鐸(どうたく)が出土した「荒神谷遺跡」。この大量の青銅器が埋納されていた二つの遺跡は、山々を挟んで直線距離約3.3kmという近い距離に位置している。実は今回の出雲行脚に出かける直前、この二つの遺跡で発見された大量の青銅器は、同時期に埋納されたのではないかという直感が走り、思わずその地域の地図上に描いた図形を映した画像が冒頭である。お分かりのように、この菱形の図形の右下鋭角の頂点が「加茂岩倉遺跡」、左上鋭角の頂点が「荒神谷遺跡」。そして残る二つの鈍角の頂点のうち、右側上方が「大黒山」の山頂、左側下方が「高瀬山」の山頂となっている。この菱形図形を地図上に見出し、実際に線を引いて図形を完成させたとき・・・《 これだ!》・・・と、私の脳裏に戦慄が走ったことを憶えている。大量の青銅器が出土した二ヵ所の埋納地は、この二並びの山を基準とする徹底した地文測量により選定されているのではないか・・・という私なりの想定は、二つの遺跡を結ぶ軸線がおよそ「夏至の日没線=冬至の日の出線」を示すものと分かったとき、ゆるぎなき「確信」に変わったのであった。実はこの「夏至の日没線=冬至の日の出線」は、古代出雲地域を貫く代表的な軸線であり、とある神話解読の世界においては、さらに中国地方から近畿地方にまで伸びていくことを、続く後日の記事で紹介する予定だが、この「軸線」が今回の出雲行脚では最後まで光り輝くことになるのである。「荒神谷遺跡」のある一帯は史跡公園になっており、その一角に当遺跡から出土した青銅器(レプリカ)の数々を展示・解説する博物館があるので、まずは館内をじっくりと見学した後に遺跡に向かった。そこで上の画像は、埋納されていた大量の青銅器(銅剣・銅矛・銅鐸)が出土した「荒神谷遺跡」の全体像を撮影したものである。画像左の階段上の左側が、358本の「銅剣」が出土した場所、そして画像右の階段上の左側が、16本の「銅矛」と6個の「銅鐸」が出土した場所で、それぞれ青銅器が埋められていた様子がレプリカで再現されている。次に上の画像は、当遺跡の入口に掲げられた解説版、そして下に続く二枚の画像は、遺跡を展望する場所の二ヵ所に設置された解説版を、それぞれ撮影したものである。果たして、これら大量の青銅器が、どのように利用されていたかに関して定説はないのだが、私が今まで知り得た限りにおいて最も信頼性のおける使用法や思想的背景を、以下の参考文献より抜粋しておこう。※参考文献『 卑弥呼の宮殿ここにあり 』 田村倫子 著・現代書林(1994年初版)《 大宗教家「大国主命 」》出雲の国は、日本海に面していて、海から吹く風は強く、穀物の採り入れの終わったあとの冬期になると、日の落ちるのも早く、夜長であった。このような地形的な条件が備わっていたので、出雲には、じっくりとした思考型の人が多く、人々は勤勉であった。「大国主命」の祖も、渡来民族として一番古く、大陸づたいに中国を経て、出雲に入ってきた人々である。この人々は、渡来以前は、インドやイランなど、同じ大陸の地続きの人々との交わりもあって、大陸の宗教的思想を持っていた。渡来の人々と共に入ってきた大陸の宗教、それは「ゾロアスター教」である。「拝火教」とも言われ、火を崇め、神の火として重要視された。ゾロアスター教は、原始の時代にあってこそ、人々の心にかなった。聖なる火を焚き、邪悪を祓い、善なるものを呼び込む、燃え盛る炎のエネルギーは、人の心を不思議な活力の世界に駆り立てていった。ゾロアスター教は、この出雲国にきて、日本の風土に合わせながら、出雲の宗教として根付いていった。イランのザラスシュトラ(ゾロアスター)によって宣布された古代宗教は、鳥葬や近親婚などの風習と、善・悪の二元論を唱え、遠くインドや中国にまで伝わっていた。三千五百年もの歴史をもった、このゾロアスター教の教義を、出雲の風土に合わせて、分かりやすく宗教的な祭祀に使ったのが「大国主命」である。「大国主命」は、すでに暦を使っていた。ゾロアスター教の暦を知っていたからである。当時は、一年を三百六十日として暦を決めていたが、この三百六十日は、大陸の季節に合わせての日数であって、日本の気候と作物のでき具合いから考えると、この暦は日本の風土に当てはまらないことが多く、日本は日本の風土に合わせやすい中国の暦を取り入れて、一年の合計を三百六十五日とした。ゾロアスター教とも中国とも違う出雲流の暦は、一週間を「月・火・水・木・金・土・総宇宙」の七日間とし、この七日の数を、三百六十五日の日数から差し引いた日数を、一年間の暦の日数とした。これが出雲国で使われていた、一年間の暦である。三百五十八というこの数が、出雲(斐川町)の荒神谷から出土した、銅剣三百五十八本と結びつく数である。本来なら銅剣は三百六十五本出土しなければならないところであるが、月・火・水・木・金・土・日と、今の一週間の曜日として使われている七日間は、出雲においては宗教上の考え方から、宇宙創造の七柱の神の象徴として、先の三百五十八日とは区別して考えられていた。
2019年10月12日

島根県の出雲地域には、毎年のように訪れていたにもかかわらず、何故か一度も現地に行けていなかった場所が、全国最多の39個もの銅鐸が一ヵ所から出土した「加茂岩倉遺跡」(雲南市加茂町岩倉)であった。その高台にある遺跡の登り口を撮影した画像が上である。思い返せば、その銅鐸が出土したという報道をラジオで聞いた場所が、豊前国一之宮「宇佐神宮」の神体山である「御許山」の七合目辺りで車を停め、夕暮れ時に一休みしていた時だったことを明確に憶えている。そこで改めて、その大量の銅鐸が出土した報道を聞いた日時を調べてみると、1996年10月14日の午後6時頃であった。次に上の画像は、遺跡の登り口にあった解説版を映したものだ。この分かりやすく書かれた内容を読めば、出土した大量の銅鐸の歴史的背景を含む全体像を把握することができる。ワクワクしながら階段を上っていき、銅鐸が発見された当時の状況が復元された場所を映した画像が上である。 画像のように、なぜこの出土した銅鐸の数々が散乱した状態なのかといえば、1996年の農道整備工事で偶然に発見された当時、パワーショベルのバケットの中に入っていた多くの銅鐸を、工事の担当者が無造作に置いたものだったからだそうだ。このことは考古学的にみても、この出土物が全く想定外の場所で発見された事例と解釈できよう。そして、大小二つの銅鐸を入れ子状にし、整然と配列して埋納されたと推定できる銅鐸群の、専門家による復元例を映した画像が上である。この画像を見ていると、これらの銅鐸を一ヵ所に埋納した(埋納せざるを得なかった)古代人の想いが、静かに重く伝わってくるかのようであった。上の画像は、39個もの銅鐸が出土した丘陵地を、ほぼ同じ高さの遠方より撮影したものである。周囲を散策してみたが、この丘陵のある一帯は、なかなか人が踏み込めないような凹凸の入り組んだ地形なので、埋めた銅鐸が発掘されないような場所を特別に選んで埋納されたことがうかがえた。上述したように、工事現場で銅鐸が出土した当初、現地では数々の銅鐸が散乱した状態だったわけだが、上の画像の「発見までの経緯」に記された内容に、銅鐸発見に至るまでの生々しい状況が綴られている。平成15年、この遺跡を紹介する施設「加茂岩倉遺跡ガイダンス」が、遺跡全体を見渡せる場所に建設され、銅鐸のレプリカや各種資料が展示してあり、当時の様子を詳しくうかがい知ることができる。さて、上の画像に映る大きな岩塊は、「加茂岩倉遺跡」という遺跡名にもある、当地の「岩倉」という地名の由来である「大岩」(当遺跡入口の駐車場近く)を映したものだ。(下の画像は、その「大岩」の解説版を撮影。)今の私の心中には、一年に一度の大きな祭事の夕刻に、この大岩の前に多くの人々が集い、盛大な祭りが行われるなか、木々に吊り下げられた数々の銅鐸が鳴らされて、今年の収穫を喜ぶとともに翌年の豊作を祈願する人々の姿が浮かぶ。
2019年10月10日

次に向かったのは、かねてより気になっていた「神原神社古墳」(島根県雲南市加茂町)であった。そこで冒頭画像は、「出雲国風土記」に記載された式内社で、旧社地にこの古墳が所在した「神原神社」の本殿を撮影したものである。次に上の画像は、元は社殿の裏手にあった前期古墳(1辺約30m の大型方墳)に内蔵された「竪穴式石室」(昭和49年に河川改修工事のため隣接地に移築)を撮影したものである。この石室から出土した数々の文化財のなかで特に注目された出土品は、下の画像の解説版にあるように、景初三年(西暦239年)の銘がある「三角縁神獣鏡」(一面)であった。同古墳のパンフレットには・・・中国三国時代の「魏志倭人伝」によると、邪馬台国の女王「卑弥呼」は、この年(西暦239年)に魏王より各種の賜物とともに銅鏡100枚を貰い受けたと記されているが、この鏡はその時の一枚であった可能性が強い。・・・と書かれていた。そこで下の画像は後日、出雲大社の近くにある島根県立「古代出雲歴史博物館」を見学した折に、上記の「神原神社古墳」から出土した銅鏡「三角縁神獣鏡」の現物を撮影したものである。さてここで以下、ある卓越した能力者が感受した、この銅鏡にまつわる洞察を記しておきたい。その文章内容は、この日記でも何度か紹介した書籍(以下に記載)より抜粋したものである。◎「神原神社古墳と三角縁神獣鏡」について・中国では、鏡は身を守るために、早くから作られていました。模様の中に、呪いや願望、魔力と、いろいろの気持ちを秘めて作られ、王や貴族が持ちました。・はじめは、権力の象徴でもあったのですが、次第に外交的な意味合いが含まれてきて、贈答の目的にも使われるようになってきました。その頃の日本は、中国の鏡を権力の証のように思っている時代であって、鏡は大変な宝物であったのです。・他国で喜ばれる鏡を、中国では国外向けとして作らせていたのです。鏡作りも、今のように大量に早くできないので、先を見込んで作っていたのです。景初の年号が合わなくなったのは、中国での予想外の出来事によって年号が変わり、鏡の年号と時代の年号とが合わなくなってしまったが、外交上、鏡が必要でもあり、贈答品であることを目的として、時代の年号に合わない鏡も使用したのです。・神原神社古墳の三角縁神獣鏡は、福岡の博多の港から入ってきた鏡なのです。鏡は、中国の魏の王様から、卑弥呼に百枚つかわされた後にも、船によって大陸から沢山入ってきたのです。この鏡のことで、神原神社古墳の主は・・・騙されたのだ・・・と嘆きました。・古墳の主が申しますには・・・自分の父親がこの鏡を持って、奴国(博多・邪馬台国の本部)から出雲へくだってきました。この鏡(景初三年銘「三角縁神獣鏡」)は、卑弥呼亡き後に分けられた鏡だとされて賜ったものですが、これはその鏡ではなく、後に中国から別なルートで入ってきた鏡です。卑弥呼の鏡とされているのは、大和の方へ移動しているのです。・が、自分はこの鏡のお陰で、この地域の村長のような役割をしました。この鏡の価値は、禄高を示すような意味合いもあり、大和の勢力者から優遇されて参りました。その分を農家の人々に還元できて、自分は人々から尊敬の念を持たれました。自分も農耕に励む生涯で暮らしました。・今ここに、風雨にさらされる自分の曲がりし遺骸を、恥じる思いで眺め、寒々とした日々である・・・と古墳の主は語りました。☆引用書籍の紹介・・・書名「 卑弥呼の宮殿ここにあり 」 田村倫子 著 / 現代書林(1994年初版)
2019年10月09日

今年の9月末、前回までのシリーズ記事の流れを受けて出雲地域に向かい、「富士山」と「出雲」を結ぶ《東西線》の〔西の起点〕と想定した「八雲山(やくもやま/標高426m)」(島根県雲南市大東町須賀)に登った。そこで冒頭画像は、その「八雲山」の山頂から東北方面を撮影したものである。八合目まで車道があることから、これまで何度も山頂に登ってきたが、当日は快晴に恵まれ誠に素晴らしい展望であった。とりわけ感動したのは、東方に聳える「大山(標高 1,729m)」が展望できたことである。そこで上の画像は、冒頭画像の右側に映る「大山」を拡大したものだ。その見事な山容は、実に美しい。※関連記事・・・伯耆大山の初登拝そしてここ「八雲山」の山頂から見て、伯耆富士たる「大山」の少し右側となるのだが、まさしく真東の方位となる遠く彼方に、日本最高峰「富士山」の「剣ヶ峰(標高 3,776m)」が存在しているのである。次に上の画像は、冒頭画像の左側に映る島根半島の東側を拡大したもので、画像中央部の半島東端が島根県松江市の「美保関」となる。そして前方に広がる「中海」と遠方の日本海を隔てる細長い海浜が、鳥取県米子市の「弓ヶ浜半島」だ。加えて今回の登拝で驚いたのは、山頂部の西南方位が展望できるよう切り開かれていたことだ。上の画像中央部に映る遠方の山は「三瓶山」である。 思い返せば今年の5月19日、「三瓶山(標高 1,126 m)」に初めて登ったことが契機となり、5月30日の「富士山(五合目)」行きが具現化したのであった。※関連記事・・・「三瓶山」への初登拝出雲国風土記の「国引き神話」に登場する「佐比売山 (三瓶山)」と「火神岳(大山)」の主要二峰を、共に遥拝できる位置にあるこの「八雲山」の山上は、まさしく日本列島の要たる「富士山」の真西にあって「出雲国」を代表する御山であると、見晴らしの良い現地において再認識した次第である。※関連記事・・・出雲行脚の総集編(1) …「八雲山」の山頂にて…今回の令和元年「出雲行脚」の初日、「八雲山」の山頂に持参した自作の立体造形があった。それは、この日記の中で呪文のように唱えてきた「破竹(八九)の勢いで自由(十)の世界へ」の十全を示す「立体十角形」である。ここ出雲国「八雲山」の山頂にて、東方に聳える「伯耆大山」へ向かい、さらには真東の遠方に存在する日本最高峰「富士山」へ向かい、この造形を掲げて映した画像が上だ。この「立体十角形」は、日本的な数解釈では「11」を意味する。つまり、10角形の頂点数「10」と中心を「1」として数に入れて「11」というわけである。ここで抽象的な表現となるが、実はこの「八雲山」の山頂には、日本的な数解釈において「10」を象徴する「九角形」が置かれていた。そしてこの度、「11」を象徴する「立体十角形」を持参することになったその心とは・・・一見すると相反すると思われがちな象徴言語の「 オホクニヌシ( 火 ≒ 五芒星 )」と「 スサノヲ( 水 ≒ 六芒星 )」の和合(和解)を、出雲国の中心たる「八雲山」で宣明することにあった・・・と、今さらのように感じ始めた今日この頃である。
2019年10月08日
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