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きょうは大晦日。泣いても笑っても、きょう1日で、もう2度と巡り来ない2005年は終わる。皆さんにとっては、どういう1年だったのだろうか。僕にとっては、ブログ2年目の年で、ブログを通じた出逢いもさらに広がり、充実した1年だったと思う。 「今年はどんな年だったかを、漢字1文字で表せば」というテーマで以前、ブログの友人のまつもとちあきさん、ステラビアさんがそれぞれ記した際、僕は、「転回の『転』か、あるいは展開の『展』かなぁ」と書き込んだ。「転」は文字通り、新たな「転回」の意味。また、「展」には漢和辞典をひくと、「のびる」「ひろがる」「かなう」という字義がある。 この文字を選んだ理由は至極、明解。コメントで書き込んだ内容をもう一度繰り返すことになり申し訳ないけれど…(写真=うらんかんろ in Bar・C )。 4つの理由を挙げれば--。1.ブログを通じて友人の輪が国内だけでなく、海外にも広がったこと 2.社内で仕事(担当)が変わり、これまでほとんど接することのなかった職場の人たちとの交流が広がったこと 3.北海道から沖縄まで、1年の間に日本列島のすべてに足を踏み入れることができたこと(イタリア初訪問も!) 4.イタリア(イタリア語)、シェリー、アリシア・キーズ、畠山美由紀…等々。新たな出逢いがあり、世界が広がった(これは、ブログの友人によるインスピレーションの力が大きい)。 1人の人間が生涯に出逢える人間の数や、得られる知識なんてたかがしれている。しかし、ブログの舞台は違う。実生活ではまずあり得ないような出逢いが、決して夢ではない。ブログを通じて得られる知識や情報も然り。僕はこの1年で、何年分の出逢いをし、新たな知識を通じてどれほど「世界」が広がっただろうか。 人間はいつかは死ぬ。これは誰にでも避けられない定め。「だからこそ人生を有意義に生きたい」と誰しもが思う。若い頃は、死とか寿命について考えることなんて、ほとんどなかった。しかし、僕のように人生の折り返し点を過ぎてしまった人間は、残りの時間をいかに大切に、有意義に過ごすかを真剣に考えてしまう。 来年はどうする? まずは健康が第一。健康でなければ何もできない。美味しいお酒も飲めないし、弾き語りもできない。体をもっといたわろう。もちろん新しい仕事ももっと熟知したい。そして、ブログもとりあえずは今の3日に1回のペースで頑張りたい。いろんな目標がある。 そして、近い将来の新たな「夢」(今はまだ具体的には言えないけれど)の実現のための、土台づくりもしたい。「夢」にどれだけ近づけるかは分からないけれど、努力はするつもりだ。皆さんも温かく見守ってください。 皆さまにとっても、巡り来る2006年が限りなく素晴らしい年となりますように!人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/12/31
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社会人になりたての頃、行きたいと思ってもなかなか行けない、敷居の高いBARがあった。日本を代表するバーテンダー。世界カクテルコンテストでの優勝という輝かしい経歴の持ち主が営むBARとあれば、若造にはその敷居をまたぐ勇気はなかった。 神戸を代表するBARと言えば、いくつかあるだろうが、三宮のBAR「Savoy」(写真左)をその1店に選ぶことに異論のある人はほとんどないだろう。1967年のオープン。年が明ければ40年目を迎える。 その「Savoy」のオーナー・バーテンダーであり、白髪の紳士・Kさんは、店を日本を代表するBARに築きあげるとともに、数多くの弟子をも育てた。弟子は全国に巣立って活躍している。 僕はKさんには、昔からとても親切にしていただいた。その第一の魅力は、もちろん、素晴らしい技術に裏打ちされたカクテルだが、僕はそれよりも、気さくで、温かい人柄により魅力を感じる。ソフトな物腰、冗談好きなトークといい、実に心地よい(写真右=成田一徹氏の切り絵に描かれたKさん ( C )成田一徹 )。 たまにしか行かない僕でも、訪れるとまるで常連の客のように、「お帰りなさーい」と笑顔で迎えてくれる。常連とそうでない客とを分け隔てしない、気配りあふれる接客(最近、BARではそうではない店もあるので、いささか残念だ。Kさんの接客を見習ってほしいと思う)。 順風だった「Savoy」にも、大きな試練があった。それは、あの阪神大震災。店は震度7のエリアのど真ん中にあった。店にあったボトルはすべて割れて、休業を余儀なくされた。「旨い酒はみな、床のじゅうたんが飲んでしもたよ」と今ではジョークのネタにするKさんだが、おそらく震災直後は途方に暮れたこともあったに違いない。 しばらくして仮店舗で再開したけれど、今度は震災後の不景気が店を悩ませた。神戸に人が戻ってくるまでは、 10年余の時間がかかった(先日、神戸市の人口はようやく震災前を上回った、と新聞が伝えていた)。店は2年ほど前、仮店舗からさらにすぐ近くの別の場所に移った。 場所は変わっても、Kさんは北野のような山手ではなく、三宮の駅に近い、盛り場のど真ん中にこだわり続ける。きっと何よりも神戸が、三宮が好きなKさんなんだろうが、そんなこだわりに、「震災なんかに負けてなるものか」という心地よい意地も感じさせる(写真左=Kさんはマティーニの名人でもある。この「Martini Book」にもKさんのこだわりのドライ・マティーニが紹介されている)。 ご無沙汰して訪れても、いつも温かい笑顔で迎えてくれるKさん。来年、確か(?)74歳(間違っていたらすみません)になるはずだが、白いジャケットを着た姿は、そんな歳にはとても見えず、若々しい(生涯現役。これからも体が続く限り元気でカウンターに立ってほしいなぁ…)。 もし神戸に来られる機会があれば、ぜひ「Savoy」の扉を開けてほしい。たとえ、貴方が遠くから来た一見の客でも、Kさんは心温まる接客をしてくれるはずだから…。【Bar・Savoy】神戸市中央区北長狭通2-1-11 玉廣ビル4F 電話078-331-2615 午後6時~0時 日祝休人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/12/28
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昨日はクリスマス・イブ。街は活気づいて、クリスマス・ソングで溢れていた(街だけではなく、車のラジオのFMもクリスマス・ソングばかりが目立っていた)。 考えてみれば、クリスマス・ソングほど古今東西の名曲が数多くあるジャンルも珍しい。「ホワイト・クリスマス」(写真左=この曲はやはりビング・クロスビーのが定番かな)「赤鼻のトナカイ」「ジングルベル」「きよしこの夜」「サンタが街にやって来る」等々。 すでに人々の間に定着し、長い年月歌い継がれている曲もあるのに、毎年、毎年また新たなクリスマス・ソングが、たくさんのアーチストによって生み出されていく。 新しく次々と誕生していく曲のなかで、30年後、50年後何曲が果たして生き残っているだろうか。僕も、クリスマスの季節はクリスマス・ソングが好きだ。聴くのも歌うのも好きだ。みなさんはどんなクリスマス・ソングが好きなんだろうか? ちなみにインターネット上で、クリスマス・ソング・人気投票ランキングをやっているサイトをいくつか見てみたが、複数のサイトで1位に輝いていたのは、B‘Zの「いつかのメリークリスマス」(写真右=この曲が入っているアルバム「Friends」)。これは僕も好きな曲で、ほんとに稀にお遊びでピアノで弾き語りする(音域が広くて、ほんとに難曲です。稲葉!お前はは歌うますぎるぞー!)。 ついでに、ほか上位に入っていた曲を紹介すると、クリスマス・イブ(山下達郎=写真左下=クリスマス・イブ収録のアルバム「メロディーズ」)、白い恋人達(桑田佳祐)、雪の華(中島美嘉)、ラスト・クリスマス(ワム=写真右下)、Winter Bells(倉木麻衣)、恋人たちのクリスマス(マライア・キャリー)、クリスマスキャロルの頃には(稲垣潤一)、恋人がサンタクロース(松任谷由実)、Happy Christmas(ジョン・レノン)等々。 松田聖子の「Pearl-White Eve」やドリカムの「Winter Song」が上位にないのは、個人的には若干不満だし、ランキングに名前が見えない曲でも、杏里の「Christmas Calendar」なんて名曲があるのだけれど…。 で、僕が一番好きなクリスマス・ソングは何かと言えば、これが今はもう普通では手に入らない名曲。1986年12月24日夜に日テレ系で放送された「メリー・クリスマス・ショー」という3時間近い特番の中で歌われたとても素敵な曲。 主な出演アーチストはKUWATA BAND、松任谷由実、鈴木雅之、アン・ルイス、チェッカーズ、アルフィー、忌野清志郎、吉川晃司等のメンバー。その番組のラスト(フィナーレ)に、この番組だけのクリスマス・ソングが披露された。桑田佳祐作曲、松任谷由実作詞。ボーカルはこの2人をメインにして、その他の出演者がバック・ボーカルをつとめるという豪華な1曲。 その曲が実は僕が一番好きなクリスマス・ソング。曲名は「Kissing Christmas」という。だが、この曲は市販はされず、唯一許可されたのは有線放送で流すこと(7分というめちゃ長い曲だったからかなぁ…)。 僕はこの曲が好きで好きで、サザンオールスターズが所属する事務所(アミューズ)に手紙を書いてぜひCDにして市販してほしいとお願いした。返信用封筒を同封したら、いちおう返事が返ってきたが、その中身は「残念ながら市販の予定はございません」という1行だけの素っ気ないものだった。 僕は仕方なく、知り合いを通じて有線放送会社の人に頼んで、非売品のシングル・レコードからカセットテープに録音してもらったのが唯一の音源。これほんとに、めちゃくちゃ素晴らしい曲なんだけど、誰かがCMか何かで使ってくれて、ブレークしてくれないかなぁ…。 せっかくだから歌詞を紹介しておくと(著作権の関係で一部ですが)――。 Kissin’ Christmas道行く人の吐息が星屑に消え 気づいたら君がそっと手をつないだ忘れちゃいたくないよね今夜の瞳 泣きそうな街じゅうよりキラキラしてクリスマスだから 言うわけじゃないけど 何か特別なことしてあげる※誰も見ていないから I'll kiss you alright? so slightいつも照れてるままに過ぎる You gotta be right in this holy night今年の思い出にすべて君がいるこれから何処に向かって進んでるのか 時々分からなくて悲しいけどきっと大丈夫だね今夜の瞳 新しい日を夢で描いてるクリスマスだから 言うわけじゃないけど 何か大切なことができるような誰かが振り向いても I kiss you alright in snowing nightいつも立ち止まると逃げていく You gotta feel right in this holy night今年の出来事がすべて好きになる ※印くりかえしもういくつ寝ると お正月 有線の入ってるバーかスナックで、電話でリクエストしたらかけてくれるのでみなさん機会があれば、ぜひ、ぜひリクエストして聴いてみてほしい。ところで、皆さんの一番好きなクリスマス・ソングって何ですかー? ぜひ曲名だけでも教えてくださーい。 最後になりましたが、皆さんにメリー・クリスマス! 素敵な夜でありますように!人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/12/25
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家で深夜、独りで静かに飲みたい時は誰にでもある。夜はすべての苦しみを癒し、酒はすべての悩みを一瞬忘れさせてくれる。そんな夜に、貴方は何を飲みながら、どんな音楽を聴くのだろうか? 僕なら、まず迷わずジャズを聴く。それもジャズ・ピアノの演奏が多い。できればトリオで、そしてバラードのような、スローなゆったりとした演奏がいい。ピアノ・トリオの次には、サックスの入ったクァルテットも、好きで、よく聴いている。 ピアノ・バラードが一番好きな僕は、ジャズと言えば、昔はほとんどピアノ・トリオばかりを聴いてきた。管楽器をやっている人には申し訳ないのだが、トランペットの、あの甲高い音をメインにしたジャズは苦手だ。だから、ファンには怒られるかもしれないが、マイルスのレコードはほとんど持っていない。 そんな僕だけれど、管楽器でもサキソフォーンの入ったはジャズも、結構聴く。レコードも何枚か持っている。有名なソニー・ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」などは愛聴盤だ。でも、僕が一番好きなのはやはり、ジョン・コルトレーン(写真左上=コルトレーンのアルバムで最も人気があり、僕もやはり一番好きなのは1962年発表の、この「バラード」。聴けば心がとろけます)。 コルトレーンと言えば、わずか12年間のプロ活動の間に、創造的なジャズを作り上げ、歴史に残る数々の名盤を残した巨人。ジャズを志したミュージシャンで、自分の演奏する楽器が何であれ、コルトレーンに畏敬の念を払わない人はいないだろう。 1926年9月、米国ノース・カロライナ州ハムレットに生まれた彼は、高校時代からバンドを始め、後にフィラデルフィアに移住後、プロ楽団のサックス奏者になる。その後50年代半ばにマイルス・デイビスに認められ、彼のクインテットのメンバーになった。 マイルスのバンドで音楽的にも大きく成長したコルトレーンは、バンドの脱退・再加入を繰り返しながら、基本的にはソロ活動の中で、自ら理想とするジャズを築きあげていく。コルトレーンの革新性は、独特の音階(スケール)によるアドリブ・フレーズ、そして、まるで神が乗り移ったようなテンポの演奏(写真左下=コルトレーンのもう一つの代表作「Blue Train」=57年発表)。 それまでのジャズでは、どちらかと言えば、脇役っぽい感じだったサキソフォーンという楽器を、一躍主役に立たせた功績は計り知れない。加えて言えば、ソプラノ・サックスという、それまでジャズ奏者がほとんど使わなかった楽器を積極的に取りあげたことも特筆されるだろう。 アルバム「バラード」の1曲目で、テナーで吹いた代表曲「Say It」はもう、涙が出るほど美しいが、ミュージカルの名曲をアレンジした「My Favorite Things」も、彼のソプラノ・サックスなくしてはあり得ない素晴らしい演奏だ(写真右上=「My Favorite Things」の収録されている同名タイトルのアルバム=60年発表)。 残念ながら、コルトレーンは1967年7月、肝臓病のため40歳の若さで世を去った。晩年(?)の彼は、インド音楽に興味を示したり、即興演奏中心のフリー・ジャズにも傾倒するなど、常に時代の一歩先を行ったミュージシャンだった(写真右下=ジョニー・ハートマンのボーカルとのコラボで録音した「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ」は、その後、ジャズの歴史に残る演奏となった=63年発表)。 コルトレーンのことを「20年か30年くらい、早く生まれ過ぎた天才」と評した音楽評論家がいたが、全力で走り過ぎて、そして早く逝きすぎてしまった天才だと、僕も思う。悔やまれぬのは生前の彼の生演奏が聴けなかったこと(今さら言ってもどうしようもないが…)。 僕が大人になった頃、コルトレーンはもうこの世にいなかった。21世紀の今、僕は、彼の残した素晴らしい伝説(演奏)を聴き、その音楽的な革新性に驚き、ただ至上の幸福を感じるしかない。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/12/22
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先週末(16-17日)、たぶん今年最後となるだろう出張があった。行き先はいつもの東京ではなく、今回は北九州・小倉&博多だが、どちらも訪ねるのはおそらく10数年ぶりだろう。とても懐かしいという感じ。 札幌、東京、名古屋、大阪と4カ所から会議のメンバーは集まる。ある人は飛行機で、それ以外は当然、新幹線で。大阪からは僕以外に2人のメンバーが参加するが、道中は別々。他の2人は「のぞみ」に乗って小倉へやって来たが、僕は山陽新幹線限定の「ひかりレールスター」に乗った。 「ひかりレールスター」は、所要時間は「のぞみ」より20分ほど余計にかかるが、普通車の座席がグリーンと同じ2列、2列で、値段も「のぞみ」の普通車と同じ。スペースが「のぞみ」の普通車(ご存じのように2列、3列)よりゆったりしているのがいい(写真左=小倉駅前は結構立派です)。 午後1時過ぎに小倉に到着。会議の開始は2時。うちの会社の小倉のオフィスまでは徒歩10分ほどだから、若干時間もあるので、早速、お昼ご飯にとんこつラーメンの店にお邪魔(駅前からオフィスに行く途中にあった「めん吉」という店)。450円という、信じられないお値段が嬉しーい!(写真右=「めん吉」のラーメン) 会議は2時から6時近くまで、計11人のメンバーで短い休憩を挟んで4時間近くたっぷりと。会議が終われば、さぁ今年最後の懇親会。この時期に北九州と言えば、何を食べるかはもう決まりという感じで、地元の方がセッティングしてくれた門司のふぐ専門店「はなのつゆ」へ。 てっさ(写真左=九州では「てっさ」と言わず、「ふぐ刺し」というのが一般的らしいです)、湯引き、唐揚げ、白子の吸い物、揚げ出し、ふぐちり、雑炊というフルコースを堪能しながら、ひれ酒も堪能。さらに地元のオフィスの方が持ち込んでくれた焼酎「百年の孤独」と泡盛「幻滴」まで頂いて(写真右下)、もうお腹いっぱいで、「やっぱ、本場のふぐはよかー!」。 さて、今夜の我々のお宿は、小倉ではなく博多なのだが、メンバーはここで小倉でもう1軒はしご組と、博多への移動組に分かれた。僕はもちろん後者に入って、小倉駅へ戻って、ガラガラの新幹線の自由席に乗って博多へ。博多までは20分弱。宴会の余韻でわいわい話をしている間に着いてしまった。 博多到着は午後10時過ぎ。僕は他のメンバーとは別れて、まずホテルにチェック・イン。ホテルは博多駅から歩いて6、7分。博多最大の盛り場、中洲へも徒歩10分以内の位置という絶好のロケーションである。僕は不要な荷物だけを部屋に残して、早速再び、夜の街へ。 まず最初に訪れたのは、博多きっての老舗BARとして知られる「七島」(写真左下)。昭和33年(1958)のオープン以来、博多だけでなく全国のBAR好きに愛されてきたBARだ。 金曜の夜とあって、店はほぼ満席。僕はカウンターの開いていた1席に、運良くすぐ座ることができた。カウンター内には美人の女性バーテンダーが3人。マスターの七島さんは、カウンターの端で客と談笑中。僕はいつものように、BAR巡りのスターター、ジン・リッキーを頼む。 女性バーテンダーの仕事ぶりがきちっとしていて気持ちがいい。仕事中も、客への笑顔を忘れないのでとても気持ちがいい。よほどマスターの教育がいいのだろうなぁと感心していたら、後ほど3人のうち2人(主に僕の接客をしてくれた2人)は、七島さんの娘さんだと知ってびっくり。なるほど、出来のいい姉妹であるはずと納得。 2軒目に訪ねたのは「七島」からも程近い、BAR「H」(写真右下)。オーナー・バーテンダーのHさんは「七島」の出身。大阪のあるバーテンダーからも「博多へ行くなら、ぜひHへも」と言われていた。ここも満員の盛況。ここでもカウンターに空いたばかりの席に案内される。 「H」ではスコッチのハイボールを頂く。オープン3年で、黒を基調とした内装はモダンで、見るからにおしゃれなBARだが、Hさんの所作や、従業員へのてきぱきとした「さばき」を見ていると、老舗の風格すら感じさせる。しばらくすると隣の席が空き、男性の1人客が座った。どこかで見覚えがあるなぁと思って尋ねてみたら、やはり先ほど、「七島」でも隣に座った男性だった。 聞けば、昔、仕事で博多に3年ほど暮らして、現在は名古屋に住むという30代(たぶん)のサラリーマン、Tさん。僕と同じようにBAR好きで、きょうは名古屋から遊びに来て、昔の馴染みのBARを回っているんだという。僕と似たような人はやはりいるもんだ。 旅先のBARで、2軒続けて隣同士の席に座るなんて、「ほんとに奇遇ですねー」とお互い驚いて、これも何かのご縁と名詞を交換した。「大阪のBARはほとんど知らないんですよ」とTさん。「大阪へ来たらぜひ連絡を。BARをご案内しますよー」と僕は応えて、次なる予定のBARを目指すため、お先に失礼した。 さて、3軒目は「H」から歩いて5分ほどのところにある、「G」というレストランBAR。ここには、「A」という大阪のBARでバーテンダーをしていたK君が、故郷の博多に戻って、この店のBARコーナーにいると聞いていた。博多に来たからには、ぜひとも顔を見て帰りたいと思った(写真左上=バック・バーを背にK君を1枚。バック・バーの壁には滝のように水が流れてます。なんて個性的!)。 K君とは3年ぶりくらいだったので、一瞬戸惑った顔をしていたが、博多での再会を歓迎してくれた。「せっかくだから、おすすめカクテルを」とお願いして作ってもらったのが、イチゴのシャンパン・カクテル「レオナルド」(写真右=美味しかったよー!)。まだ30歳のK君。「いずれ博多で自分のBARを持ちたい」と熱く語ってくれた。元気そうな姿を見て、ひと安心。独立の折にはぜひ再訪したい。 さて、この夜、最後に訪れたのはBAR「O」(写真左)。中洲からタクシーで5分ほど行った大名(だいみょう)というところにある。BAR「O」と言えば、銀座のと言うより、日本を代表するバーテンダーUさんの愛弟子のNさんが9年前、故郷に帰って開いたBAR。そして、今や博多と言えば「O」とまで言われる、押しも押されぬ人気のBARとなった。 僕は、10数年前、今はもうない銀座の「ロオジエ」というBARで、Uさんの下で働いていた頃のNさんとお会いした。店には友人と一緒に行ったが、もちろんそんな昔のことをNさんが覚えているはずもない。でも、「いやー、その節は有難うございました」と本当に気さくで、礼儀正しい人柄に改めて、この「O」の人気もNさんの人柄に負うところが大きいと感じる。 僕は、ここでも「せっかくだから」と師匠のUさん譲りのハード・シェイクのショート・カクテルが飲みたくて、1杯目はギムレットを注文。ハード・シェイクで削られた細かい氷が表面に美しく浮かび、味わいもさすがに引き締まって、美味い! 2杯目は、Nさんのオリジナル「M-30レイン」というカクテル(写真右)を頼む。 「M-30レイン」は、あの坂本龍一氏に捧げたカクテル。「レイン」は映画「ラスト・エンペラー」のサントラの30曲目に入っている曲という。「30番目のMUSIC」ということで「M-30」なんだとか。 ウオッカ・ベースで、パンペルムーゼ(グレープ・フルーツのリキュール)、ブルー・キュラソー、ライム・ジュースが加わる。爽やかでキリッとして、博多の夜を締めるにはちょうどいい。至福の一瞬とはこんな瞬間を言うのかなぁ…(写真左=今回の博多土産。とんこつラーメン、ふぐの明太子和え、ダイダイ、カボス)。 今年は、北海道(余市、小樽、函館)、本州=東京、四国=徳島、九州=博多&小倉、沖縄(那覇)と、1年間で日本列島を全制覇した。こんな年って、もうおそらく死ぬまでないだろうなぁ…、そういう意味(って、どういう意味?)でも、今年は忘れられない年になりそうだ。なんて考えながら、ホテルへたどり着いた。博多の夜はほんとに、よか、よかー。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/12/19
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「ブログのネタ探しに最近困っていてねー」という話を、あちこちのBARでしているから、最近はバーテンダーの皆さん(もちろん僕がブログをしていることを知ってる人だが)が、「こんなんどうですかー?」といろいろとネタをくれる。ホントに感謝感激! という訳で、今回は先日訪れた2軒のBAR(大阪&徳島)で教えてもらったモルト・ウイスキーの話題。僕の大好きなモルト、ボウモアがオフィシャルの新製品2種を出した。「ボウモア・エニグマ」(写真左)と「ボウモア16年・ノンチルフィルタード(無濾過)」(写真右下)。 前者「エニグマ」はこの秋発売されたばかりで、シェリー樽熟成がウリ。味わった印象では、これまでボウモア・オフィシャルの、シェリー樽熟成の定番となっていた「ボウモア・ダーケスト」よりも、マイルドで、シェリー香はダーケストよりも強い。でも喉越しはソフトだから飲みやすい。女性向きかもしれない。 色もダーケストよりはやや赤みがかっている。気になる中身だが、噂では12年熟成のものがメインになっているという。こんな新製品を世に出すのは、たぶん世界的なシェリー樽熟成ブームを睨んだオーナーの、日本のS社の戦略かな? ちなみに「エニグマ」とは、スペイン語で「謎」という意味らしい。第二次世界大戦中は、ドイツ軍の暗号機の名だったことでも有名だ。それに関係あるのかどうかは知らないが、このエニグマはドイツの免税店向けに製品化(1リッター瓶のみ)されたという。 ところが、このエニグマのことを教えてくれたバーテンダーは、イタリアに行った帰りにロンドンのヒースロー空港の免税店で買ったと話していたから、「ドイツの免税店オンリー」というのは、若干怪しい。 もう一つの新製品、「16年・ノンチルフィルタード」の方は、先日訪れた徳島のBAR「鴻(kohno)」で初めて頂いた(「エニグマ」と出合った大阪のBAR「C」にも置いていたが…)。オフィシャルだけれど、12年でも17年でもない、「16年」というのが微妙なコンセプトだ。 「無濾過ボトリング」というのも、最近、世界的に流行りになっているが、無濾過という割にはクリアな味わいだったりして、飲んでがっかりすることも多い。このボウモア16年もはっきり言って、無濾過というには若干上品過ぎて僕には物足らなかった。 そう言えば、国産で「無濾過」をウリにしているウイスキーもあるけれど、クリア過ぎてせっかくの無濾過というキャッチフレーズが看板倒れになっているものが多い。「無濾過」というからには、もっと荒々しい、素朴な味わいがほしい(樽由来のオリが入っててもいいじゃないか)。 ボウモアの話に戻れば、今後はどういう方向を目指すのだろうか。オフィシャルのクオリティをさらに高めていってほしいのはもちろんだし、「変化球ラインナップ」を増やしていってくれるのもいい。でも中途半端は嫌いだ。どうせ、商品化するなら「変化球」に徹してほしい。 ところで、この「ボウモア・エニグマ」。日本のボウモア愛好家が簡単に飲めるのか心配だが、ネットで検索すると、通信販売で取り扱っている酒屋さんもあるようで、ひとまず安心。あの手この手で愛好家心理をくすぐるボウモア蒸留所の戦略には目が離せない。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/12/16
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ここ数日、日本列島は本格的な寒波到来。関西も例外ではなく、きょう13日の神戸の最高気温は6.6度、最低気温0.7度と、この冬一番の冷え込みとなった(風がもの凄く強かったので体感温度はもっと低く感じた)。 そんな寒さもあって、「夜、寝る前に家で飲むのは、そろそろホットがいいかもしれないねー」なんて、連れ合いと話していた。ホットはホットでも、ホット・アルコール飲料である。ただし、我が家はあまり焼酎のお湯割りは飲まないので、ウイスキーかダークラムが主役だ。 10年くらい前から、冬の夜は、ホット・ウイスキーが我が家の定番になってきた。ウイスキーのお湯割りに、丁字(クローブ)とレモンピールを浮かべる飲み方。しかし去年は、ホット・アルコール飲料のバリエーションをもう少し増やそうということで、本なども参考にしながら、あれこれ試した。 去年、我が家で一番人気だったのは、なんと言っても「ホット・ダークラム」(写真左上)。丁字やレモンピールを入れるのはウイスキーと同じだが、これにさらにシナモン・スティックやナツメグ・パウダー、ハチミツなども用意して、お好みで加え、複雑な味わいを楽しむ(写真右=ホット・カクテルを引き立てる脇役たち)。 ホット・カクテルには、当たり前だが持ち手の付いたグラスが一番いいと思う。それに加えて、「電子レンジ可」のグラスならば、なおさらいい。冷めてもまた温め直すこともできるし、何かと重宝する。 以前は、大手ウイスキー・メーカーがこんなホット用グラスを販促の「おまけ」にしていて、僕もグラス欲しさによくそのメーカーのウイスキーを買ったのだけれど、最近はとんと、そんなキャンペーンは聞かない。 「ウイスキーが売れない」なんて言ってるんだから、ホットで飲もうキャンペーンでもまたやればいいと思う。丁字やシナモンを加えホットで飲むと、まるで高級ウイスキーのように感じるし、ね!(そう思いこむことも大事!)(写真左=ホット・ダークラムを作る際、我が家ではもっぱらこの「キャプテン・モルガン」を使う。濃厚、芳醇な味わいで、コストパフォーマンスもいい)。 去年は本だけではなく、いろんなBARのバーテンダーの人たちに無理難題な注文をあれこれ出して、さまざまなオリジナルなホット・カクテルも作ってもらってきた(とくに、大阪キタのBar「C」のHさんには大変お世話になりました。感謝!)。 スタンダードなホット・カクテルに、バーテンダー・オリジナルも加えて、メモった僕の資料は、今ではA4判で5枚分、計65種類にもなった。今年もまたバリエーション(レシピ)を増やしていこうと思っているから、バーテンダーの皆さんよろしくねー。PS.ブログの友人、na_geanna_mさんが美味しそうなホット・カクテルをいろいろ作ってくれました。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/12/13
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今回は限りなくプライベート・ネタです。すみませーん。お時間がある方だけ読んでいただければ…。 年末になると、あちこちから喪中欠礼の葉書を頂く。この歳になると当たり前だが、祖父母はもちろんのこと、父母が亡くなる方も目立つ。生あるもの必ず死は避けられない定めだとしても、やはり、友人たちが悲しむ姿を想像するのは切ない。そういう僕も、ことしは連れ合いの父が11月に亡くなったため、喪中欠礼の挨拶を出した。 そんなこの頃、数日前にアメリカから1通の手紙が届いた。差出人は僕が大学生の時(70年代)にホーム・ステイしていた家族の「お母さん」、ロザン(Rosanne=ファースト・ネームです)から。ホーム・ステイ先は東部のコネチカット州のトランブルという小さな町。ニューヨークからは電車で2時間弱の距離だった(写真左=うらんかんろのホスト・ファミリー。当時の写真です)。 「お父さん」はビル(Bill)と言い、元軍人。朝鮮戦争時に日本に駐留し、神戸にいた。日本と日本人に対してとても親近感を持ち続けてきた。だから、地元の新聞に載った僕の「ホスト・ファミリーを探しています」という記事を見て、真っ先に手紙をくれた。 ロザンは今はフロリダ州のトリニティという町に住む。筆不精の僕と違ってロザンは筆まめ。ご無沙汰ばかりの僕は手紙を書く際、いつも謝ってばかり。当たり前だが、英語でのやりとりだから、向こうは母国語。僕は一応辞書で表現や単語を確認しながら書かねばならない。だから、ハンディを背負っている僕としては、「少々筆不精でも許してね」と言いたいところ。 それはともかく、この時期の手紙。クリスマス・カードにしてはちょっと早いなぁと思いつつ、読んだ。そこには、ショックなことが記されていた。実は、ロザンは90年ごろ、再婚した。前の夫のビルはコネチカットに残り、ロザンは再婚した夫とフロリダへ移り住んだ(写真右=社会人になった後、ハネムーンの際も訪れました)。 再婚した夫の名前(ファースト・ネーム)はボブ(Bob、正式には「ロバート」か)という。そして再婚して15年近く、二人は幸せに暮らしていた。そのボブが9月に肺がんで亡くなったという知らせだった。春に見つかったけれど、もう末期で、最後はホスピスであまり苦しまずに、家族にみとられて息を引き取ったという。正確な歳は聞いたことはないが、たぶん、まだ70歳くらいだったと思う。 ロザンと初めて出会ったとき、彼女は30歳だった。夫とは一回り(12歳下)も違う若いお母さんだった。当時ブレークしていたカーペンターズのカレン似の顔をしていた。 僕は、「マミー」と言うのは照れくさかったので、もっぱら「ミセス・ウォルシュ(Walsh=彼女の前の姓)」または、「ロザン」と呼んできた(写真左=ロザンと再婚した夫のボブ。冬寒くて雪も積もるコネチカットとは違い、年中温暖なフロリダを、2人はとても気に入っていた)。 ロザンは美しくて、知的で、素敵な女性だった。前の夫・ビルとの間には2人の子どもがいた。初めて出会った時、姉ケイトは10歳、弟ジャシュアは5歳だった。僕は彼らのファミリーの一員として、本当に楽しい日々(トータルで約半年)を過ごし、そして現在でもその絆は続いている。僕と8歳下のケイトとは今もメル友だし、8年前には、ジャシュアの結婚式があったので、僕は招かれて太平洋を渡った。 そんなファミリーは先ほど書いたように、90年頃の両親の離婚で瓦解した。僕にとってもショックだったが、離婚はプライベートなことだから、理由は一切尋ねなかった。ただし、憎しみ合って別れたという訳ではなかったようで、弟ジャシュアの結婚式には前の夫も、(別れても「実父」だから、当たり前かもしれないが)出席し、別れた妻とは普通に談笑していた。 再婚した夫のボブは、そんなファミリーに後から加わったメンバーだが、僕は、94年に家族3人でフロリダに行く機会があり、初めて出会う機会を持った(写真右=フロリダの自宅、自慢の温室の前で。左端がボブ。うらんかんろの左にいるのは娘でーす)。前夫のビルもジョークの好きな、気さくな人だったが、ボブも負けず劣らずとてもフレンドリーな人だった。 僕らはボブとロザンの家に2泊させてもらい、楽しい、かけがえのない時間を過ごした。彼らの自慢のランの温室を見せてもらい、マナティまで現れるという家の裏の運河に係留していたボートでメキシコ湾へのクルーズ(短時間だったけど)にも連れて行ってくれた。 ボブとはその後、前述した弟ジャシュアの結婚式で再会した。フレンドリーさは変わらず、僕はロザンとの仲の睦まじさを見ながら、「ロザンは素晴らしい伴侶を得たんだなぁ」と心から喜んだ(写真左=8年前、ジャシュアの結婚式で、ケイトと3人で)。 「ボブは生涯のヘビー・スモーカーでした。そして亡くなる直前までタバコはやめませんでした」とロザンは手紙で記していた。現在62歳のロザンは看護師の資格を持ち、2年前までパートタイムで病院に勤めてきた。だから、「春に彼の病理検査の結果(がんの進行度)を聞いたときから、徐々に心の準備はしてきた」とも書いていた。 ボブは優しい夫だった。でも、本当の優しさはロザンと再婚した際、タバコをきっぱりやめて、自分の命を大事にすることではなかったのか、とも思う(いまさら言っても仕方がないけれど…)。前の夫で、ホスト・ファミリーの「お父さん」だったビルも3年前、海岸で散歩中に心臓発作で亡くなっている。 ロザンは、フロリダで本当に独りぼっちになってしまった。手紙では、現在まだコネチカットに住む娘夫婦が、サウス・カロライナ州辺りに引っ越しして、ロザンと一緒に住もうと言っているので、近いうちにフロリダを去るかもしれない、と結んでいた。 サウス・カロライナにロザンが落ち着いたら、一度また会いに行きたい。ブッシュ以降、最近、あまりアメリカ(やアメリカ人)が好きになれない僕だが、30年以上もロザンは特別な存在だ。ホスト・ファミリーの「お母さん」は、1人しかいないから…。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/12/10
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先々週末に上京した際、15年ぶりくらいで訪れたBARがあった。東京で学生時代を送った社内の同僚に、そのBARの話をしたら、「あそこは、僕の若い頃のデートの場所だったんだよー」と懐かしそうに話していた。 単なる旅人である僕にとっては、BARは旅の途中の「止まり木」でしかないかもしれない。ただ、一期一会の出合いであっても、心地良い、かけがえのない時間と安らぎを与えてくれたBARとバーテンダーは、その後も忘れることはない。 JR中央線「御茶ノ水駅」の南側の出口を降りて、歩いて5分余。この辺りは明治大学などの大学が密集しているため、学生の姿が目立つ。ゆるい坂道の途中を右に折れ、今度は逆にゆるい坂道を登る。すると、目指す「山の上ホテル」(写真右)は昔と変わらぬ姿で僕を迎えてくれた。 今回改めて調べて驚いたのだけれど、「山の上ホテル」の設計者は、大丸百貨店・心斎橋本店や同志社、青山学院など数々の名建築を残した、あのウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)。なるほど、「だから、僕は以前からこの石造りのホテルに、どこか郷愁のようなものを感じてきのか」と納得する。 ホテルの1階ロビーを入り、右側へ10mほど歩くと、懐かしいBAR「Non Non」(写真左)にたどり着いた。時間はまだ午後5時だが、このBARは、「飲み助」には嬉しいことに、4時からオープンしている。 僕は一番乗りの客(最近、一番乗りが多い(笑))。「1人ですが、いいですか?」。もちろんいいに決まっているんだけれど、1人でBAR巡りをすることの多い僕は、店に入る際なぜか、いつもそう言うのが口癖になってしまった。 「Non Non」は、ホテル開業の昭和12年(1937)から遅れること16年後の、同28年(1953)にオープンした。店はカウンターだけ8席ほどの小さなスペース。だが、カウンターに座ると、ちょうど籠の中に入ったような温かさと安心感が漂う(写真右=NonNonでもコースターを貰いました)。 バーテンダーさんは1人だけ。「フード・メニューもたくさんあるけど、いつも1人でやってるんですか?」と聞くと、「ええ、フードはホテルの厨房で作ってくれますから、基本的には1人で飲み物だけに対応すればいいので…」とのお答え。 「でも、年中無休で、深夜2時までやっているんでしょ? めちゃハードな勤務ですよね」とさらにたたみかける僕。「いや、9人のスタッフ(バーテンダー)でローテーション勤務してますから、大丈夫ですよ」と。なるほど9人もいれば、そりゃ出来るよね。 僕は、スターターの定番「ジン・リッキー」を頼む。さすが老舗ホテルのバーテンダーさんとあって、所作はしっかりしている。上品な酸味が際立つ、シャープな味わい。よく見れば、彼のバー・ベストの胸のところに「ソムリエ・バッチ」(写真左=Bar・NonNonの店内風景)。 最近、ソムリエ資格も持つバーテンダーも増えてきたけれど、忙しい仕事の合間に勉強して合格するのは大変と聞く。「凄いですね。ソムリエでもあるんですね」と言うと、彼は、「試験のフランス語が大変で、自信はありませんでしたが…」とちょっと照れた。 店内の造りやインテリアは、基本的に開業当初とほとんど変わっていないという。「山の上ホテル」がもう一つ有名なのは、地理的なこともあってか、作家や編集者にとても愛されているということ。僕も15年前に訪れた時は、桐島洋子さんが友人と飲んでいた。 東京のホテルのBARとしては、僕は以前に紹介した、東京ステーションホテルの「カメリア」と甲乙付けがたいくらい好きだ。御茶ノ水界隈に行かれる機会があれば、ぜひこの心地よい空間を味わってみてほしい。追記:バーテンダーさんとあれこれとたくさん会話はしたのに、今回も「NonNon」の名前の由来を聞き忘れてしまった僕。誰か知っている人がいたら、教えてくださーい。【Bar Non Non】東京都千代田区神田駿河台1-1、山の上ホテル本館1階 電話03-3993-2311 午後4時-午前2時 無休 ノーチャージで、ホテルのBARとしては驚くほど良心的な料金です。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/12/07
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以前、徳島県に約2年半暮らした僕。もう徳島を離れて5年以上の歳月が過ぎてしまったけれど、僕は、この地でかけがえのない友人をたくさん得た。僕にとっては、第二の故郷のような街。 去った後も僕は、最低年に一度は、徳島にお邪魔することにしている。さしたる用事があるわけではない。でも、懐かしい友人たちやバーテンダーや店主たちの顔を見たいがために、僕の足は自然と徳島へ向く(写真左=徳島のシンボル眉山(びざん)をバックに立つ「阿波踊り会館」。ここでは年中阿波踊りが楽しめます)。 いつも2泊3日で行くことが多いのだが、残念ながら今回の週末(3~4日)の徳島行きは1泊だけ。でも今回は、懐かしい友人たちに加えて、ブログを通じて知り合った友人「きんちゃん」も、参加してくれました。 友人らときんちゃんはお互い初対面だったが、そこは狭い徳島のこと。名前を挙げれば、出てくるわ出てくるわ、共通の知り合いが! きんちゃんのよく行くBarのマスターは、僕が徳島時代によくお邪魔したライブBarのママ(僕のジャズ・ピアノの先生でもありました)と高校の同級生だったり、ほんとに世間は狭い。 さて、今回の徳島ツアー(?)のスタートは、市内籠屋町にある「おらが大将」という比較的新しい居酒屋さん。徳島と言えば、やはり新鮮な海の幸が最高。まず、シマアジ&活けタコ、サーモンの刺身の盛り合わせを注文。サーモンはもちろん徳島近海では採れないけれど、極上の脂のノリで、いきなり幸せな気分(写真右=「おらが大将」で頂いた刺身盛り。脂が乗って美味!)。 飲み物は、生ビール&麦焼酎(長崎産、同じくブログ仲間のHNと同じ「カピタン」という名前でした)。焼酎はボトルで開けながら、白子の天ぷら、鉄火巻き&ウナきゅう巻き(この居酒屋さんはカウンターでお寿司も食べられます)、キンキの一夜干し(写真左)、カキフライ、鳥貝の酢味噌……、と次々と胃袋へ。 さて、2軒目は、最近の僕の定番コース。栄町のジャズBar「C」。嬉しいことに、僕らはこの夜の一番乗りの客。と言うことで、最初の1時間ほどは貸し切り状態で、友人のKさんや、きんちゃんと一緒に歌伴のセッション。友人はお得意の「Song For You」に加えて、「Your Song」も歌ってくれました。 きんちゃんは「Love Me Tender」「Our House」を熱唱してくれました(僕の準備不足のせいで、今回は歌伴できなかったスティービー・ワンダーの「A Place In The Sun」は、他にリクエストされた曲も含めて、練習しておきますので、次回絶対やりましょうー!)(写真右=今回の集ったメンバーでの記念写真でーす)。 「C」のマスターとは5月の友人の結婚式以来だったが、びっくりしたのが、元々ピアニストなのに、最近はウッド・ベースを熱心に練習しているマスターの上達ぶり。この日もギター&ドラムとトリオで数曲演奏してくれたが、アドリブまで結構自在にこなして、僕はただ感心することしきり。やはりピアノの才能がある人はベースも器用にこなすんだ。 「C」を後にした僕は、もう1軒の懐かしい顔を見に行くために、秋田町の「B・G」という店へ。ここは以前、同じ秋田町で「S」というジャズのライブハウスをやっていたママが去年、新しく開いたライブBar。Barと言っても、カラオケもできるカジュアルなBarで、ピアニストの生演奏での歌伴もOK(写真左=「C」のマスター=中央=は今やベーシストでも有名!)。 ママは20年もやっていた「S」をこの夏、突然閉めてしまった。「あんなにはやっていたのに、なぜ?」と理由が分からず(すぐ電話したけれど、ママはあまり詳しい事情は語らなかったし、僕も突っ込んでは尋ねなかった)、悩んだ僕だったが、この夜、来年の1月にまた別の場所で、「S」を再開させるという話を聞かされて、とても嬉しかった。突然の閉店の理由は「ビルの配管設備をめぐる問題」ということで、安心した。 さて、「B・G」に着いたばかりの僕らだったが、ビールを一杯飲んだ後、小腹もすいていたので、徳島ラーメンを味わいに行こうという展開になった。僕は、「B・G」で、僕のピアノの先生だったTさんと再会するつもりだったので、大きな荷物だけ置いて、「後でまた戻ってくるから」とママに言い残して、いったん店を出た。 きんちゃんが案内してくれたのは歩いて数分のところにある、「東大」という変わった名前のラーメン屋さん(写真右)。人気店らしく、すでに5人ほどが並んでいる。この日は全国的に冷え込んだので、徳島でも夜は寒~い。しかし、美味しいラーメンにたどり着くには、ここは待つしかない。寒風の中、店の前で待つこと10数分。ようやく店内へ。 僕らは、とりあえず定番の「中華そば」(500円=写真右)を頼む。そしてビール2本も忘れずに。味は徳島ラーメン独特の濃厚な味わい。生タマゴを1個入れるのが通の食べ方らしいので、僕も真似をする。確かに、生タマゴを入れて混ぜた方がスープがマイルドになってより美味しくなる。でも、カロリーは高そう! さて、ラーメン屋さんを最後に、Kさん、Oさん、きんちゃんとはお別れし、僕はカピタンさんと一緒にもう1軒、彼のおすすめというBar「N」へ。最近オープンしたBarだが、徳島の本格Barの1軒、「Long Bar」出身のFさんの所作はしっかりしている。ビルの9階とあって、夜景も綺麗に見える。僕はボウモアのストレートを、彼はジュラのロックを頼んで、この夜、最後の乾杯!(写真左=カピタンさんから自家製の魚の干物をお土産に頂きました。ありがとー!) 「N」の後、カピタンさんともお別れし、僕は1人で先ほど中座した「B・G」へ戻る。すると、すでに僕のピアノの先生だったTさんが来てくれていた。5月に来た際は、あまり話もできなかったので、久しぶりの再会が嬉しい。 「何か1曲歌ってよー」と言われて、Tさんの伴奏で歌ったのは、「ハナミズキ」と「少年時代」。当たり前だけれど、プロのTさんは、こちらの呼吸にうまく合わせてくれて、とても歌いやすい。この後、「お客さんでビリー・ジョエルが好きな人がいるので…」とリクエストされて、僕が1人で「New York State Of Mind」を弾き語り。 そんなこんなで夜も更けていき、もう午前2時。自転車のTさんを途中まで送って、お互いまたの再会を約束してお別れ。これでホテルにまっすぐ帰ればいいものを、帰り道のビルに「Bar鴻(こうの)」(写真右)の看板の電気がまだ付いていることを発見。久しぶりにオーナーの鴻野さんの顔を見たくなり、閉店(一応、午前3時だそうです)まで1時間ほどお邪魔した。 鴻野さんとは、この夏の阿波踊りの際、大阪のバーテンダーで、僕も仲のいいMさん、Hさん、Sさんらを招いて飲み歩いた話で盛り上がる。昔からそうだったが、実に爽やかで、気さくな人柄。 おそらくは今後、徳島のバーテンダーの世界で中心的な存在になっていくのだろうと僕は確信する(写真左=鳴門の糸ワカメ、スダチ、小松島の竹ちくわ。僕の「定番・お土産3点セット」は今回も買って帰りました)。 ホテルにたどり着くと3時を過ぎていた。すぐに死んだように眠りに陥ってしまった僕。今回も楽しい、素敵な思い出をいっぱい作ってくれた徳島の夜。いつ来てもあったかいこの街に、もう一度「ありがとう」を言おう。次回は、いつ来られるかなぁ…。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/12/04
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今年もあと、1カ月を残すばかりになった。行く年を振り返り、来る年を思うにはまだ早いかもしれないけれど、先週末、再び出張で上京した際、帰途につく前、僕は、大都会のど真ん中にある墓地を訪れた。 東京にお住まいの方はよくご存じの「青山霊園(墓地)」(港区=写真左)。都営で、明治7年の開設。霊園には約12万人余の人が埋葬され、明治維新以降の歴史上の有名人も数多く眠る。だから、以前からずっと機会があれば一度訪ねてみたかった場所。 地下鉄銀座線・外苑前駅で降り、南へ歩いて5分ほど。そこには、都心とは思えない静かで落ち着いた、広大な空間が広がっていた。霊園事務所でもらったパンフレットによれば、面積は約26万平方m。ということは、甲子園球場(約3万9600平方m)の約6.6個分の広さということになる。 僕のブログの友人の久里風さんによれば、ここは都心の桜や紅葉の名所なのだという。そんなことはまったく知らない僕は、盛りは過ぎたけれどなお美しい紅葉の空間に、感心することしきり。でも、霊園周辺のイチョウ並木(写真右)は、まさに黄色く色づき、例えようもなく美しかった。 さて、霊園事務所作成の「霊園案内」なるパンフレットだが、これが不親切極まりない地図。区画(例えば「イー7」とか)は記してあるのだけれど、僕が訪れたい著名人の墓がどこにあるのかはまったく記されていない。 もちろん墓地内でも、「**さんの墓はこちら」なんて案内はほとんどない。見て回った限りでは、乃木希典墓所、緒方家(洪庵?)墓所という石碑くらいしか見かけなかった(この点は戦国の有名な武将の墓が数多くある和歌山の高野山・奥の院の方が、案内表示は親切だったような記憶がある)(写真左=明治の元勲、大久保利通の墓。で、でかーい。墓石を亀が支えるという面白い意匠)。 事前にインターネットでだいたいの場所は確認してきたつもりだったが、実際に来てみると、広大な墓地のなかで、探すのは至難の技。あちこち、うろうろと迷いながら散策していると、運がいいことに、墓地回りをしているタウンウォーキングらしきグループを発見。少し離れてその後に付いて歩くと、何人かの有名人の墓地まで、たどり着くことができた。 実際はもっとたくさんの有名人が眠っているのだろうけれど、僕が見て回れたのは、大久保利通、乃木希典、志賀直哉(写真右=他の志賀家の人たちとともに眠る。中央が直哉の墓)、吉田茂(写真左下)、犬養毅、市川団十郎、尾崎紅葉、忠犬ハチ公…。ほかにも沢山の明治、大正、昭和の文人、軍人、名優らが眠っているらしいが、たどり着くには時間が足りなかった。 霊園はあくまで亡き人の魂が眠る場所であり、役所としては、「散策や観光の場所ではない」という立場であるのはよくわかる。でも、歴史的な有名人であっても、その墓地のなかには、おそらくは長い歳月のなかで血族も減って、今では誰も訪れた形跡のないような、荒れ果てた墓もあった。そんな光景を見るのは、あまりにも悲しい。 都は、この地で霊園を維持管理している以上、やはり、有名人の墓がどこにあるかくらいの案内パンフレットは常備しておいてほしい。せめて、もはや身寄りの少ない歴史的人物の墓の整備(掃除)くらいはしてあげてほしい。そんな願いを抱くのは、僕だけだろうか…。 青山霊園のもう一つの特色は、明治以降の日本の発展に尽くした外国人が数多く眠る「外人墓地」なる区画があること。ここには、明治学院や青山学院、それになんと関西学院(大学)の創設につくした教育者たち、さらに明治政府のために貢献したお雇い外国人たちがたくさん眠っている。 墓石は外国風の独特の形で、この一角だけは、霊園内でも個性的な雰囲気を漂わせている。そんななかに僕が思わず注目したのは、イタリア人のお雇い外国人技術者(絵師)だった「エドアルド・キヨッソーネ」(Edoardo Chiossone、1833~1898)という人の墓(写真右=あの有名な忠犬ハチ公も、ご主人の上野英三郎博士と仲良く眠っています)。 皆さんもたぶん、教科書で一度は見たことのある幕末や明治の元勲(政治家)たちの肖像画。その多くはキョッソーネが描いている。有名な西郷隆盛像も彼の筆。後に、明治政府が発行した数多くの紙幣の肖像画の原板も、ほとんどがキヨッソーネの作である(大学生になるまで、実は「清曽根さん」という日本人と信じ込んでいた僕(恥))。 「日本の紙幣の父」とも呼ばれるキヨッソーネは、そんなプロフィールもあって、僕の記憶に残るお雇い外国人の1人。あの明治の時代に、異国で最期を終えるっていうことは、本人はどんな気持ちだったのだろう…(写真左=霊園内の外国人墓地。明治の初めに来日し、母国には帰らず、近代国家・日本の発展に尽くしてくれた人たちに感謝!)。 さて、ひとしきり墓地の散策をした僕は、なだらかな坂を下って、地下鉄・乃木坂駅をめざした(途中有名な「青山葬儀所」の側を通り過ぎる)。そして再び、車の行き交う東京の街の現実に引き戻された。 最後に一つ、私事になるけれど、11月に連れ合いの父が亡くなり、来年の年始の挨拶は喪中につき欠礼です。普段年賀状のやりとりをしている方には、もうお知らせしましたが、この場を借りて、ブログ仲間の皆さんにも「喪中欠礼」のご挨拶を…。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/12/01
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