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◆禁酒法時代(1920~1933)の米国 ―― 酒と酒場と庶民のストーリー ことし(2011年)春のある日、懇意なBARのマスターから突然、次のような相談を受けました。「(米国の)禁酒法時代にちなむカクテルをつくろうと思っているんですが、当時の米国民のアルコールとの付き合い方、そして街場のバー(もぐり酒場)やバーテンダー、カクテルは実際にはどうだったのかなどがよく分からなくて弱ってるんです。**さん、何か参考文献か情報、データはお持ちではないですか?」と。 実は、僕も以前から、米国の禁酒法時代(1920.1.17.~1933.12.5.)については、とても興味を抱いていました。遙(はる)か昔の古代から存在する人間のアルコールに対する欲求を、宗教的・倫理的決意だけで断ち切ることなど本当に出来たのか、法施行とともにバーやバーテンダー、カクテルなどの酒はどうなったのか、一般庶民は法の目をかいくぐってお酒とどう向き合っていたのか――等々、興味津々のテーマでした。 一度調べてみたいと思いつつ、時間がなくてそのままにしていたのですが、丁度いいきっかけを頂きました。自分の出来る範囲で、できるだけ調べてみようと思い立ち、2カ月ほどかけて資料やデータの収集につとめました。 そしてようやくまとめたのが、これから紹介する「禁酒法時代の米国――酒と酒場と庶民のストーリー」です(写真左=禁酒法時代のシカゴを舞台にした映画「アンタッチャブル」(1987年)( C )Paramount Pictures)。 なお、最初にお断りしておきますが、本稿の作成においては、インターネット上の百科事典として一定の評価を得ている「Wikipedia(ウィキペディア)」(日本語版&英語版 本文中の引用明示の際は「WK」と略す)のほか、ネット上の国内外のお酒関連サイト、さらに日本で出版された禁酒法関連図書の記述を適宜参考にさせて頂きました。 とりわけ、「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊 本文中の引用明示は「A」)、「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書、1984年刊 同「B」)、「酒場の時代――1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫、1981年刊 同「C」)の3冊には、ひとかたならぬお世話になりました。 この3冊はいずれも、禁酒法時代のアメリカ社会を描いた基本的かつ一般的な日本語の文献ですが、残念なことに現在ではすべて絶版となっています。しかし現代の我々の知らない、貴重なデータを数多く含んでいるため、今回の連載でも、著作権法に抵触しない範囲で引用・紹介させていただくつもりです(データの引用元については、A、B、C、WKで明記させていただきました)。 この御三方の労作なくしては、本連載を完成させることはできませんでした。この場をかりて、著者の皆様方に改めて、心から厚く御礼を申し上げます(写真右=禁酒法施行前夜、酒場で最後の“合法的な”酒を楽しむ人たち。1920年1月16日、ニューヨーク?)。 なお、本文で紹介する内容については、可能な限り複数のサイト・文献でダブルチェック(確認)を試み、ほぼ間違いないと信じる事実(データ)についてのみ記すつもりですが、それでも100%正確という確信・確証を持っている訳ではありません。その点を念頭に置いてお読みいただければ幸いです。 禁酒法時代の実態については、今後も、新たな資料やデータに出合った場合にはその都度、ブログ上で紹介できればと願っています。読者の皆様で、もし何か貴重な資料・データをお持ちまたはご存知の方がいらっしゃいましたら、うらんかんろまでご教示いただければ幸いです。また、誤字脱字、事実関係の間違い等何かお気付きの点がございましたら、遠慮無くご指摘いただければ嬉しく思います。何卒よろしくお願いいたします。 【禁酒法時代の米国(1)へ続く】【おことわり】本文中で紹介する写真は、可能な限り出典を明示するつもりです。ただし、歴史的写真で、現在では著作権が消滅(著作権者の死後または作品公表後70年)しているものや著作権者が不明なものについてはそのまま紹介しています。 もとより、著作権法32条において、論評・研究・報道目的の利用・引用については、著作者の許諾はなくとも「適正な範囲内での利用」が認められております(万一、正当な著作権継承者の方からクレームが来た場合は、違法性があるかどうかを検討したうえで、問題がある場合は当該写真を削除いたします。以上、何卒ご了承ください)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/30
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今回訪れたスペインの5都市ではたくさんの写真を撮りましたが、その中でもうらんかんろが各都市での「マイ・ベスト・ショット」と思う計5枚を、“おまけ”として大きい写真で紹介します(なかにはこの旅行記ですでに小さめの写真で掲載したものもありますが、何卒ご容赦を)。 【マドリード】中心部の広場「プエルタ・デル・ソル」近くの「アレナル通り」で。デザインの国・スペインらしいセンスあふれる天幕。 【トレド】トレド駅舎構内の息をのむほど美しい装飾。キリスト教文化とイスラム教文化の融合。いつまでも、じっと見つめていたくなる。 【ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ】素敵なバルが街にあふれ、ゆったりとした時間が流れ、人々の生活に溶け込んでいる。 【グラナダ】アルハンブラ宮殿ではたくさんの写真を撮ったが、なかでも庭園の生け垣から覗いたこの一枚が、一番気に入っている。 【バルセロナ】サグラダ・ファミリア聖堂の1階内部の天井。唯一無二の天才・アントニ・ガウディが生んだ奇跡がここにはある。 こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/28
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◆スペインの治安は悪いのか 旅行に行く前、ガイドブックやインターネットでは「スペインは治安が悪い。とくにマドリッドやバルセロナは世界中の大都市でも最も治安が悪い」「スリや置き引き、強盗が多い。首絞め強盗やニセ刑事というのも多発している」という情報を知らされた。何人かの友人にも同様のことを言われた。 空港で出迎えてくれたHISの日本人担当者は、僕らにこう言った。「日本人旅行者は狙われやすいんです。髪が黒くて、カメラを提げて、いかにも旅行者ですという格好をしている。金を持っていると思われている。ニセ刑事にニセの警察手帳を見せられると、言葉も分からないから、体がすくんで何もできない。以前より減ったとはいえ、やはり被害に遭ったという話は聞きます」と。 実際、在スペイン日本大使館のHPを見ると、スリ、置き引き等の邦人旅行者被害が毎月5~6件、コンスタントに出ている。やはり日本人はカモだと思われているのかもしれない。だからもちろん、今回の旅行中も、以下のような一般的な注意は常に心がけた(写真左=ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ駅舎の内部)。(1)貴重品はできるだけ持ち歩かず、部屋のセイフティ・ボックスに入れておく。高額紙幣を持ち歩く場合は、腹巻ベルトに収める (2)首からさげるバッグは体の前側に持つ (写真右=ゴンザレス・ビアス蒸留所には著名人も数多く訪れている。これはスピルバーグ監督がサインした樽)。(3)空港、駅、ホテル、訪問先、バル等いかなる場所でも、自分の荷物からは絶対に目を離さない(4)有名ブランドのバッグはできるだけ持たない。ブランドのロゴ入りの紙袋も持たない(もしブランド品を買っても、店を出たら商品はすぐに安っぽいエコ袋に移す) (5)都市部では広い通りを歩く。治安の悪いエリアでは細い路地はできるだけ歩かない。深夜の街は歩かない(タクシーを利用する)(6)地下鉄ではできるだけ座席に座り、ドアや車両の連結部分には立たない(※集団スリ対策として)(写真左=アルハンブラ宮殿の色タイルはどこまでも美しい)。(7)街を歩いている時は、怪しい連中が付けてきていないか、定期的(10~15分に一度くらい)に周りを警戒する。万一付けられていると感じたら、路線バス(バスの中では犯罪はほとんどないという)に飛び乗って逃げる(幸い、今回はそこまでの事態にはならなかったが…) 日本の都会を歩くよりは、確かに緊張する。そこは、外国なのだから仕方がない。在住の日本人の方は「彼らもそれ(スリや置き引き)で生計を立てているプロだから、どんなに対策をとっても、狙いを付けたら盗ります。要は、狙われるようなスキを見せないこと」と言う。 しかし、「緊張感を持って、常に注意して行動していれば、マドリッドやバルセロナといえども、言われるほど危ない街ではない。少しオーバーに伝えられ過ぎているのでは?」というのが、今回の旅を終えた僕の率直な感想(意見)だ。 これからスペインへ旅行される人は、一応、上記の注意事項を忘れずに、「情熱の国」を楽しんできてください(写真右=バルセロナの旧市街で阪神タイガースファンのスペイン人(?)カップルに遭遇)。 ◆スペイン語は難しいけど、日本人向き スペイン語は一度も習ったことはなかった。しかし今回の旅では、約4カ月前から、スペイン語を特訓した。それは日記にも書いたように、「たとえカタコトでも現地の言葉でスペインの人々とコミュニケーションがとれた方が絶対に楽しいし、親近感も深まるから」という僕の信念にもとづく。 特訓に使った教材は、DVDが2種、本が4~5冊。僕自身の過去の海外旅行経験から、実際に使う頻度が多そうな会話文や単語を、それらの教材から集め、持ちやすいサイズの手帳に書き写した(写真左=サグラダ・ファミリア外壁の印象的な彫像)。 そしてできるだけ暗記した。DVDはウォークマンにダビングして、朝夕の通勤時でできるだけ聞き込み、ヒヤリングを鍛えた。旅行中はずっとこの会話手帳をジャケットの内ポケットに常に入れて持ち歩いた。 スペイン語は基本、発音はローマ字読みすればいい(例外は、「H」は読まないこと、「j」をハ行で読むこと、「ll」という他の言語にない子音=「lla」は「リャ」または「ジャ」と発音する=が出てくることくらいかな…)。 フランス語やドイツ語のような不規則な発音はほとんど出てこない。ある意味、英語よりも発音はやさしい(写真右=ガウディ設計の「カサ・ミラ」の一室には、当時のグラスが今も使える状態)。 名詞や動詞のアクセントには一応ルールがあるが、そうややこしくはない。動詞や形容詞の語尾変化は、他の欧州言語と同様、複雑で覚えるのは大変だが、日常会話で出てくる変化形は限られる。だから、とりあえずはよく使う形を集中的に覚えれば何とかなると思う。 なお、今回の旅でやはり、もっとしっかり覚えておけばよかったと思ったのは、基本単語のうちでも「数字、時間、方角・方向、色など」。それに料理や食材、調理法にあたる固有名詞(写真左=トレド駅のバル出入口付近のおしゃれな装飾)。 こうした言葉ばかりは、知らないと街角やバル、買い物でコミュニケーションがとれない。市販の「指さし会話帳・バル編」の「切り取り付録:指さしバルメニュー(写真付き)」はとても役に立ったが、やはり、固有名詞はしっかり覚えるに越したことはない。 それにしても、今回の旅で見ていて面白かったのは、スペインに旅行に来ていたイタリア人のおばあちゃんが、ホテルのスタッフに言いたいことが伝わらず、両方の言葉が出来る人に通訳してもらっていた場面。 日本人にしたら、スペイン語とイタリア語って方言みたいなもんだと思ってしまうけど、意外と通じないものらしい。不思議な光景だった(写真右=グラナダの百貨店で見たシェリー売り場の棚)。 加えて、バルセロナのホテルでは、テレビのチャンネルの半数がフランス語で、スペイン語は残りの3割程度。英語、イタリア語、ドイツ語放送も結構やっていたのには驚かされた。フランスと国境を接するカタルーニャ地方って、スペイン国内でもやはり、少し違う文化風土を持っているんだと再認識させられた。 ◆もはや闘牛なんて必要か スペインで闘牛は、バルやシェリー、フラメンコと並んで「文化」としての扱いを受けている。重要な観光事業の一つで、闘牛士は敬意を払われる存在でもあり、ステータスの高い職業のようだ(写真左=アルハンブラ宮殿内で出会った猫。ずっと木の上を見つめていた)。 しかし、「闘牛は単なる残酷な動物虐待ショーでしかない」と考える僕は、今回の旅でも決して見に行きたいとは思わなかった。誤解をおそれずに言えば、「闘牛」とは元来穏やかな性格の草食動物である牛を怒らせ、闘牛士が何度も剣で刺し、苦痛を与えながら、徐々に死に至らしめるショーである(日本国内の闘牛=例えば隠岐や宇和島等=は単に牛同士の格闘技で、死なせることはないから、また別物である)。 闘牛士も命がけかもしれないが、牛の目に視力を衰えさせるためワセリンが塗られたうえの対決である。牛は「名誉ある死を与えられる」と賛成論者は言うが、それは人間の勝手な理屈だろう(写真右=ヘレスの街で見かけたアパートの入り口。イスラム文化の影響が今も色濃く残る)。 そんな時代錯誤な虐待ショーも、カネを払って見る人がいてこそ成り立っているが、最近は、闘牛への批判もあって観客は減少傾向にあるという(「日本からの団体見学ツアー客が多い」とかつて批判されてこともあるが、今はどうなのだろう?)。 しかし、時代は変わりつつある。スペイン国内にも闘牛廃止論者は少なくない。今回の旅行中も、闘牛に反対する団体のデモをテレビニュースで見た。スペイン人すべてが、あの動物虐待ショーが好きだというわけではないのだ(写真左=スペインではオレンジ・ジュースはどこで飲んでも生搾りなのでめちゃ旨かった!)。 バルセロナもあるカタルーニャ州議会が、今年を最後に州内での闘牛を廃止すると決めたというのも新しい動き。1991年のカナリア諸島に次いで2番目で、スペイン本土では初めての「闘牛禁止」の自治州となる(だからバルセロナでの闘牛は今年が見納め)。 スペインに限らずその他の闘牛開催国でも、闘牛はそう遠くない時期(おそらく向こう50年以内)に、「文化」という扱いから「野蛮な見世物」へと人々の見方が変わり、廃止の声がさらに高まるだろう。21世紀の世界に、時代錯誤な動物虐待ショーは要らない。スペイン語文化圏のリーダーたるスペイン人の文明度がいま試されていると思う。 【スペインへの旅の報告はこれで終わります。ご愛読有難うございました】こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/26
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※スペインへの旅「番外編」を上、下2回に分けて連載します。 ◆変わるバルのカウンター風景 今回の旅ではほとんどバルやリスタウランテで食事した。イタリアンを一度食べただけで、すべてスペイン料理である(写真左=マドリッドのソル広場にあった「スペインのへそ標識」)。 「毎日バルでよく飽きなかったね」と言われたが、タパス・メニューは食材がとても多彩だし、料理法や味付けにもかなりバリエーションがある。またその地方、地方で微妙に名物が違うので意外と飽きない。 ただし、想像とは少し違ったのは、ガイドブックの写真でよく見たように、あらかじめ調理したタパスの皿をカウンターの上に並べているバルがほとんどなかったこと。 地域によってルールが違うのかもしれないが、少なくとも今回、アンダルシア地方(ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ、グラナダ)では、タパスをそのままずらりと並べているような店はまず見かけなかった(写真右=マドリッド・アトーチャ駅近くで見かけたサッカー・グッズ売りの露店)。 なぜなんでしょうか?とグラナダ在住の日本人の方に尋ねたら、「衛生当局から、食品衛生上の観点(客のつばなどが入り、店内のほこりも付く等)から、調理した料理をそのままカウンターに並べてはいけない、並べる場合はガラスのショーケースに入れなさいという指導があって、そのまま並べることはできなくなったらしい」と解説してくれた。 日本では、おばんざい屋さん等では、今でも調理した料理をカウンターにそのまま並べたりしている(もちろん、上からサランラップをかけて衛生に気を使っている店もある)。でも、衛生上大きな問題になったという話は聞かない。 確かに、そうした衛生上のルールがあれば安心なのかもしれないが、昔のようなバルの風景を想像していた僕には、少し残念な気持ちになった(写真左=マドリッド・サンミゲル市場には日本食品専門の店も)。 ◆バルで人気の飲み物は? 今回の旅で巡ったバルではいろんな飲み物を味わったが、スペイン人のアルコールの嗜好は日本で想像していたのとは少し違った。 今回巡った5都市(マドリッド、トレド、ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ、グラナダ、バルセロナ)での印象で言えば、やはりビールとワインが一番ポピュラーだった。それも昼間から、グラスでグビグビ飲む。1杯が1~3ユーロという値段なら当然かもしれない(実は、この値段も観光客向けで、本当の地元の人には80セントくらいで売ってるという話も聞いた)。 バルやレスタウランテでシェリーが飲まれていたのはほとんどアンダルシア地方だけ。バルセロナやマドリッドのような大都市でも、意外にもシェリーを頼んでいる人はほとんど見かけなかった(メジャーなバルではシェリーを置いていることは置いてるが…)。 今も書いたように、スペイン人はバルで昼間から酒を飲む(ちなみに、朝から営業してるバルではもっぱらカフェラテなどが飲まれている)。しかし、さすがにビールやワインをガブガブ飲むのは気がひけるのか、はやっていたのは、ソーダで割る飲み方。 このソーダはプレーンなものとレモン風味の甘めのソーダと2種類から選べる。ワインのソーダ割りは「ティント・デ・ベラーノ(Tinto de verano)」(写真右上)、ビールのソーダ割りは「セルベッサ・クララ(Cerveza clara)」(写真左)と言い、全国的に飲まれているようだ。 他にバルで飲まれていたのは、(地域的な違いもあるけれど)サングリア、サングリア・デ・カヴァ(カヴァ=スペインのスパークリング・ワイン=でつくったサングリア)、ベルモット、シドラ(「シードル」=スパークリングのリンゴ酒=のこと)、オルホ(「グラッパ」のこと)など。 残念ながらウイスキー系、ジン、ウオッカ系のアルコールはスペインではあまり人気はない。もちろん飲みものメニューのあるバル(滅多にないが)では、一応、ウイスキーを置いてはいたが…)(写真右=スペイン人にとってバルは街の“社交場”。だから昼間から賑わう?)。 ◆食い物が美味しくて、暮らしやすくて スペイン在住の日本人は約7000人(データは在スペイン・日本大使館HPから)もいるという。スペインに住む理由は結婚、仕事、留学、研修などさまざまだろうが、今回会った地元在住の日本人はほとんどが「食べ物が美味しいし、気候も温暖で、(経済的にも)暮らしやすい国だ」と言っていた。 確かに、公共交通機関(マドリッド地下鉄は市内ゾーン内であればどこまで乗っても1.5ユーロ)やタクシーの料金(基本料金はだいたい1.4~1.5ユーロ)は安い(写真左=スペイン人はサッカーが大好き@グラナダ) ビールやワインが1杯1ユーロくらいから飲めて、2人で外食して、飲んで食べても計2000円以内で満腹感と充実感が得られる場所(バル)がそこらじゅうにあるなんて国はそうないだろう(バカらしくて家で御飯はつくれない?)。 しかも、3時間~3時間半の昼休みが国家・国民公認になっている国なんて。経済的には苦境にあるスペインだが、あくせくせず働いて、贅沢をしなければ、美味しいものを食べて、そこそこ楽しく暮らしていける国でもある。 不景気と大震災のダブルパンチで増税は必至、国民全体が閉塞感に陥っている日本と比べて、どちらが幸福なのかと少し考え込んでしまう(写真右=魚の種類は豊富。アンコウも食べます)。 ただし、それでも僕は、食べ物のバリエーションだけに関しては、日本人が世界で一番幸せな国民だと思う。だって、洋風料理も和食も中華もエスニックも普通に楽しめる国なんて、世界中どこを探しても日本だけだろうし…。 ◆観光産業で生きている割には 本編でも何度か言及したが、観光はスペイン経済の最も重要な柱である。しかし、その観光で食っている人たちに、お客様第一の精神が何と乏しいのかと感じることが、旅行中何度かあった。日本語のわかるスペイン人がこのブログを読むとは思わないが、あえて、以下の苦言を呈しておきたい。・街のなかの標識・表示に、英語表記の併記が想像以上に少なくて不親切(プラド美術館前に日本語併記の標識があったのには驚いたが…)。・店主や店員に笑顔が少ない。たくさん土産物を買ったので、帰ってから配るための小袋をくれと言ったら嫌な顔をする。・「ご乗車有難うございます」も言わない鉄道やバスの乗務員。基本、「乗せてやっている」っていう姿勢(写真左=ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ中心部のアレナル広場で、テントを張って何かの抗議活動をする若者がいた。幕には「スペイン人よ、憲法はきょう死んだ!」とある)。 ・間違って硬貨を入れても戻って来ない駅の切符自動販売機(英語の表記すらなく、取り消しボタンもない!)。これって何? ・ホテルに飲み物の自動販売機がほとんどない。置いてるホテルでも売れた分を補充せず、3日間ほったらかしのことも(写真右=意外なことに、スペイン人には扇子が人気)。・ホテルの部屋のシャワーやドライヤーの使い方の説明をまったく書いていない。テレビのチャンネルの説明書きもない。・部屋のドライヤーが動かないので壊れているのかと思ったら、高さ175cmのドライヤー収納箱の上に天井向きにスイッチがあって、OFFになっていた(背の低い人なら見えないやろ)。・スペインの水道水は、飲めるけれど硬水なので日本人の口にはあまり合わない。だから旅行中はもっぱらミネラル・ウォーターのお世話になった。だが、このペットボトルが500ml入りで50セントから2.5ユーロまでと値段が実にまちまち(ビールやワインはバルなら一杯1ユーロで飲めるところもあるというのに…)。もう少し価格を安定させてほしいよ。 【スペインへの旅・番外編へ続く】こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/24
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9月25日(日)、バルセロナ。昼食を終えてもまだ午後1時。時間には余裕があるけれど、買い物に充てようにもスペインでは日曜・祝日、商店がほとんど休み。大手デパートですら休んでいる。 何度も言うけど、開いてるのは観光施設と食いもん屋さん関係だけ。買物もできないのじゃ仕方ないと、当初予定にはなかったが、ガウディのもう一つの傑作「グエル公園」へ路線バスで向かう(写真左=グエル公園までへは長い坂道が続く)。 グエル公園は市内の少しはずれ、北西部にある。好天にも恵まれたので凄い人出だ。名物のトカゲの像がある公園正面の階段付近では、記念撮影する各国からの観光客で、まるでラッシュアワーのような雰囲気(写真右下)。 公園は、ガウディの奇抜な才能がさまざまな形で開花した、とてもユニークなデザイン。今から100年も前にこういう発想をする天才がいたということにただ驚くしかない。 公園見物を終えて、旧市街を目指す。晩御飯の店の視察(できれば予約)も兼ねて市庁舎前の「サン・ジャウマ広場」の方へ。 すると広場は凄い人だかり。聞けば、バルセロナはこの日「聖メルセ祭」という年に一度の最大のお祭りだという(写真左下=公園の建物内部の天井にもガウディのこだわりが)。 広場では、祭りの名物らしい“人間の塔”(肩の上に何段にも乗って高くしていく)のようなイベントをやっていた(「カステーレス」というらしい)(写真右下)。ちょうどクライマックスのところだったので、僕らも思わず足を止めて見入る。 下の段から大人3~4人が土台をつくり、その上に青年が乗る、またその上に少年が1人、さらにその上へ少女1人と順番に登っていく。一番上に上る少女はヘルメットをしているが、落ちないかヒヤヒヤする。 少女は見事最上段まで上がり、そのまま市庁舎2階のテラスからロープで引き上げられた。広場に集まった群衆からは盛大な拍手が惜しみなく送られる。 サグラダ・ファミリアのエレベーター休止は残念だったが、こんな運がいいこともあるのが旅の醍醐味。僕らはさらに散策を続け、バルセロナ市南部のメイン・ストリートとも言える「ランブラス通り」に出た。 晩御飯の予定してる店はこのすぐ近く。来たついでに、予約をしておいた方がいいか確認してみようと思った(写真左=バルセロナ旧市街・ゴシック地区)。 店はまだランチタイムだが、中に入って女性スタッフに尋ねる。「オラ! ネセシト レセルバール パラ エスタ ノーチェ ア ラス オーチョ?」(今晩8時に来たいんだけど、予約する必要はある?)。 スタッフは「パラ クアンタス ペルソナス?」(何人ですか?)と返す。「ドス ペルソナス」(2人です)と僕。すると彼女からは「ドス? ノン ネセシダー、エスタ ビエン」(2人だったら、予約しなくて大丈夫)と嬉しいお言葉が返ってきた(写真右=「ランブラス通り」で)。 晩御飯まではまだ少し時間がある。サグラダ・ファミリア等で買ったお土産物を持ち歩くのも重いので、とりあえずいったんホテルに帰って荷物を置いてこようと、教えられた行き先番号のバスに乗った。 だが、窓の外の風景がどこかおかしい。しばらくしてホテルとは反対方向へ走っていることがわかる。僕らはあわてて降りて、反対方向行きのバス停でしばらく待って、再び乗り換える。 バスは番号が一緒でも、当たり前だが走る方向は行き・帰りの2つある。バス停も違う。今回はこうしたバスの乗り間違えも何度がやらかしたが、それも含めて旅の思い出と思うしかない。(写真左=晩飯の店は「レイアール広場」からすぐ近く)。 さて、晩御飯の時間も近づいてきたので、ホテルからタクシーで再びバルセロナのランブラス通り方面へ向かう。ところが、先ほど書いたようにきょうはバルセロナ最大の祭り「聖メルセ祭」。 夜になって人出はさらに増えたような気がする。あちこちの道路が歩行者天国となり、道路は大渋滞。気の毒に思った運転手のおにいさんはあと約1kmという辺りまでたどり着くと、「ここから歩いて行った方が早いよ」と降ろしてくれた。 僕らは仕方なく、カーニバルのような熱気に包まれた岸壁沿いの道路をとぼとぼと歩いた。途中、夜のため道に迷って、目的のリスタウランテ「ラ・フォンダ」(La Fonda)=写真右=に着いたら8時半すぎ。席がないんじゃないかと心配したが、運よくすぐに座れた。 で、スペイン最後の晩御飯。僕らは頼んだのは、ビール2杯、サングリア(4~5杯は飲めるピッチャーで)、焼き野菜の盛り合わせ(写真左)、白身魚(ホッケのような魚)のグリル(写真右)、そして友人が「最高に旨い」と太鼓判を押していた「イカ墨のパエジャ」(パエジャと言っても少しリゾット風)=写真左下。 ここの料理も、昼の「カタラナ」と甲乙を付け難いほど美味しい。洗練度という点では「カタラナ」に軍配が上がるかもしれないが、「奥深い味わい」という点では「ラ・フォンダ」が勝る気がする。キャパの結構広い店内だが、9時を過ぎるともう満員。店の前では行列もできている。 それにしても、バケツのような大きな器で出てきたイカ墨のパエジャは、「こんなに食べれるのか」と最初思ったが、あまりの美味しさで意外と食がすすみ、結局完食。これだけ食べて飲んで2人で40ユーロくらい。なんとリーズナブルなんだ! グルメ天国・スペインに何度でも乾杯しよう! スペイン最後の夜も更けてきた。再びランブラス通りに出た僕らは、通りのあちこちに出ている露店をひやかし、得体のしれないパフォーマーたちに目を見張りながら、タクシーを拾おうと探す。そして結局、北へ2kmほどカタルーニャ広場まで歩いてしまった(写真右=「透明人間」に扮するパフォーマー)。 ※ ※ 翌朝26日(月)。スペイン滞在最終日。最終日で使えるのは午前中だけ。とりあえず、バスでブランド・ショップなどがあるグラシア通りへ向かった。グラシア通りには世界の有名ブランドの店やおしゃれな商店がひしめき合う。 ロエベのバルセロナ店では「改装中ですが、2ブロック北の仮店舗で営業中です」とのお知らせ看板が…。6カ国語で書いてあったが、ちゃんと日本語もある。日本人はさぞお得意様なのだろう。 さてスペインの旅最後の御飯は、このグラシア通りに面している「チャペラ」(Txapela)というピンチョス・バル(写真右)にお邪魔した。清潔感あふれる店内は、キャパも結構広い(70~80人は入れそう)。 で、もちろんビールを頼み、ピンチョスもあれこれ頼む。ここは紙のマットにピンチョスの全メニューの写真と番号が印刷されており、スペイン語が分からなくても、番号を伝えるだけで済む(写真左=チャペラの店内風景)。 6種類ほど頼んだけれどお味はどれも旨い。と言うか、魚もエビもタコもオリーブも野菜も、材料が新鮮だからまずい訳がない。あっさりして、適度にスパイシーで日本人の口にも合う味付けだ。いや今では僕は、スペイン料理そのものが日本人に合うと思う。 しかし、日本ではスペイン料理は、フランス料理やイタリア料理に比べてちょっと格下に見られているのが残念だ。日本人はもっとスペイン料理、とくにバル料理をもっと評価すべきだろう(写真右=チャペラのピンチョス)。 そして、日本にももっともっと、スペインバルが増えてほしい。それも格好つけたバル風の店ではなく、気さくで大衆的な、本格的なバルが増えてほしい。料理は可能な限り、本場と同じレベル・内容のものを出してほしい。それがうらんかんろの心からの願いだ。 バルセロナでの滞在時間は今回短かかった。まだまだ、僕らの知らないバルセロナがある。次回はもっとゆっくり来てみたい。【御礼】スペインへの旅の報告は本編をこれで終わります。長い間、ご愛読有難うございました。あともう1回、「番外編」を近日中にアップしますので、こちらもよろしくお願いいたします。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/22
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9月24日(土)の深夜、僕らはグラナダから空路バルセロナに到着。いよいよスペイン最後の訪問地だ。ホテルは「4(Cuatro)Barcelona」という2年前にオープンしたばかりのスタイリッシュな内外装(しかし、ホテルの立地はまたも、バルセロナの観光スポットから地下鉄で15~20分ほどの外れた場所にあり、「HISさんよ、またかいな!」とぼやきたくなる)。 言うまでもないが、バルセロナは人口160万人の、スペイン第二の都市だ。そして、バルセロナと言えば、あの建築家のガウディ、そしてガウディといえばあのサグラダ・ファミリア聖堂(Bas?lica de la Sagrada Fam?lia)(写真左)である。 空港からホテルへ向かう車から、ライトアップされたサグラダ・ファミリアが遠くに見え、いよいよバルセロナに来たということを実感する。 翌朝25日(日)は早めに起きて食堂へ向かう。朝食場所のホテル・スタッフにバルセロナの地元カタラン語で「ボン ディア(Bon dia)」(おはようございます)と挨拶。カタラン語はバルセロナを含むカタルーニャ地方で、今も地元の人たちの間で普通に話されている。 すなわち、バルセロナの人たちは標準スペイン語とカタラン語のバイリンガルということ(ちなみに、サッカー「リーガ・エスパニューラ(スペイン一部リーグ)」のバルセロナ・チームでは、カタラン語が公用語なんだとか)。(写真右=サグラダ・ファミリアの入場を待つ人たち)。 早速タクシーでサグラダ・ファミリアへ(ホテルからは10分余)。アルハンブラと並ぶ、スペインを代表する人気観光スポットだから、きっと朝から長蛇の列をなしていると想像したが、ここも意外と少なかった。 僕らが開門15分前の8時45分に着いた時点で、聖堂を取り囲んでいる観光客は70~80人程度。アルハンブラ宮殿(グラナダ)も意外とすいていたし、9月下旬というのは気候も良いし、スペイン観光には狙い目の季節なのかもしれない。 予定通り9時に入場チケット窓口が開いて、列が少しずつ動き始める。窓口では、主に2種類のチケットを売っている(写真左=サグラダ・ファミリアの内部。柱が立ち方がとても複雑です)。 1階の屋内部分だけを見学するチケット、そして加えて、エレベーターで聖堂の上にも上がれるチケット。日本でここを訪れたことのある友人からは「エレベーターに乗って、上へあがった方が絶対にいい」と聞いていた。 そして15分ほどで僕らの番が来た。窓口では当たり前だが、英語が通じる。「Two elevater tickets, please」と僕。すると窓口のおねえさんは「Sorry, today, no elevaters, because we’ll have a big mass(ごめんなさい、きょうは大きなミサがあるので、エレベーターは休止よ)」と言う。 なんというタイミングだ。今回の旅では、ヘレスでお目当てのバルが改装中だったり、ほんとに運が悪い。しかし「それも含めてが旅だよ」と自分に言い聞かせる(写真右=聖堂1Fの天井。その美しさに息をのむ)。 という訳で、聖堂の上にはあがれなかったけれど、1階内部や低層部の外観、地下のミュージアム部分はじっくり拝観できた(写真左=偉大な天才建築家・アントニ・ガウディ(1852~1926))。 皆さんも十分ご承知だけれど、1882年に着工したサグラダ・ファミリアは今なお未完成で、ガウディの遺志を継いだ技術者や職人たちによって工事が続けられている。聖堂の側には、建設中であることを象徴するかのように、巨大なクレーンがそびえ立つ。 ガウディは建築途上の1926年6月7日、ミサに向かう途中、路面電車に轢かれて亡くなった。享年73歳。生涯独身だった。遺体は聖堂内に埋葬されている(写真右=サグラダ・ファミリアは今も建築途上)。 サグラダ・ファミリア聖堂が完成するのは、当初は200年後とも言われたが、技術的進歩等もあって、完成までの期間は近年、大幅に短縮されている。 コンピューターによる3次元設計技術が大きく進歩したことに加えて、建築材料として石の代わりにコンクリートを大幅に使用するようになったからだ。公式発表によれば、ガウディ没後100年の2026年に完成予定という。 さて、エレベーターの運行休止という予想外の事態のために、サグラダ・ファミリア見学は意外と早く時間が済んでしまった(午前中いっぱいはかかると踏んでいたが…)。 そこで、昼御飯までに同じくガウディの名建築で、人気スポットにもなっている「カサ・ミラ」(写真左上)「カサ・バトリョ」(いずれもサグラダ・ファミリアからは徒歩圏内)も見ておこうと決めた(写真右=カサ・ミラの内側は空まで見える吹き抜けとなっている)。 「カサ・ミラ」は1906年から4年かけて建てられた石造りのアパートである。ガウディは直線を限りなく排除し、ゆがんだ曲線を用い、「山」をテーマに設計した。屋上には山の頂きのような石の煙突がそびえる(写真左)。この奇抜な発想にただ驚くだけ。 一方、バルセロナのメイン・ストリートの一つ、グラシア通りに面している「カサ・バトリョ」(1904年~06年)も同じ石造りのアパート(写真右)。こちらのテーマは「海」。 外壁に埋め込まれた色ガラスは「海面のさざ波」を表現しているという。太陽の光に反射した色ガラスは、濃淡さまざまにキラキラと輝き、とても美しい。見れば見るほど不思議な気分になる建物だ。 さてガウディの名建築3カ所を見終えると、そろそろお昼どき。お腹もすいてきた。バルセロナで昼夜の御飯を食べる処は、ブログの友人が教えてくれた店を第一候補にしている。 昼御飯はまず、グラシア通りからも近い「セルベセリア・カタラナ」(Cerveceria Catalana)という名の、おしゃれな雰囲気のバル&リスタウランテへ=写真左。 幸い、カサ・バトリョからもすぐの距離。「地元の人気店なので、13時を過ぎると込み合うから早めに行くこと」と言われていた。だから、余裕を持って12時頃に店に着いた。 店内は、運よくまだ3割程度の客の入り。椅子のあるカウンター席もあったが、カウンターにはまだあまりタパスが並べられていないためなのかどうか、僕らは奥のテーブル席に案内された。 僕らが頼んだのは、「素揚げジャガイモのブラバス・ソース」(パタタス・ブラバス)=写真右、「獅子唐の揚げ炒め」(ピミエント・デ・パドロン)のほか、「カタクチイワシの素揚げ」(ボケロネス・フリトス)=写真左、「マッシュルームの炒めもの」(チャンピニョネス・ア・ラ・プランチャ)、「クロケッタ(「コロッケ」の意)=写真右下=という5品。 5品も味わえたのは、ここのメディアラシオン・サイズが1~2人前くらいの程よい量だったこと。他のバルも見習ってほしいなぁ(ただし、友人おすすめの「マテ貝」は昼のメニューだったためか、尋ねたけれど「ない」と言われた。残念!)。 ちなみに、この「カタラン」では細長いバゲットのようなパンを使ったオープン・サンドイッチも名物らしい。上に載せる具材は20種類から選べる。 だから、僕ら以外の地元の人らしい客は、このオープン・サンドイッチをほおばりながら、カフェ・ラテを飲むという人も結構多かった(昼間だけど、僕らは当然、ビールとティント・デ・ベラーノ、そして友人おすすめのサングリア・デ・カヴァ) そして特筆しておきたいのは、この「カタラナ」の料理のレベル。訪れた旅行者のほとんどがネットで高い評価を残していたことからも、安心はしていたが。僕らの予想を超える美味しさで、今回の旅で訪れたバル&リスタウランテの中でも、最も洗練された味わいだったと断言できる。教えてくれた友人に心から感謝! 【バルセロナ編へ】こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/20
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グラナダ2日目。いよいよ世界遺産「アルハンブラ宮殿」(Palacio de la Alhambra)である。朝御飯を早めに済ませて、タクシーでアルハンブラへ向かう。ホテルからは車で15分くらいの距離。8時半頃に着いたが意外や意外、まだ100人程度が並んでいるだけだった(写真左)。 列に並んでいると9時頃には先頭に来た。僕らの入場チケットには9時30分と書いてあるが、入り口のおばさんに見せると、なぜかすぐに入れてくれた。この辺りのスペインという国のアバウトさがよく分からない。 さて、アルハンブラの敷地は広大だ(長さ約750m、幅約200mも)。入り口で地図をくれたが、日本人には見にくく、建物の位置関係がいまいちよく分からない。でも、まぁガイドがいる団体客に付いていけばと、後を追う。 アルハンブラ宮殿内部を紹介する前に、この宮殿についての基礎知識について簡単に触れておきたい。宮殿は、グラナダ市南東部のなだらかな丘に位置していて、ひと言で言えばイベリア半島をかつて支配したイスラム王国の象徴だ。 宮殿と呼ばれるが、行ってみると実際は城塞都市に近く、宮殿内に住宅や官庁、モスク、学校、浴場、庭園、田畑などが備わっていた。「アルハンブラ」という名もアラビア語で「赤い城塞」の意。 この地に最初に入り、建物(砦)をつくったのは8世紀にこの地に入ったイスラム教徒のムーア人。その後9世紀末のウマイヤ朝末期には、規模の大きい軍事要塞がこの地に造られた。 さらに13世紀半ば~15世紀末にかけて、イベリア半島最後の王朝でもあるグラナダ王国・ナスル朝の時代に、大規模な宮殿がこの地に造られた。現在残る数多くの宮殿やさまざまな建物は、長い歳月をかけて造営、増築されていったものだ。 しかし、イスラム人からイベリア半島を取り戻そうと立ち上がったキリスト教徒軍の攻勢で、1492年、グラナダはついに陥落。アルハンブラ宮殿もスペインのカトリック教徒の支配下となった(写真右=カルロス五世宮殿)。 その後18世紀にいくつか改修・改築の手が加えられ、現在の宮殿の形につながっていく。すなわち、アルハンブラはイスラム文化を基盤に造られ、その後キリスト教徒が手を加えた建造物の複合体である。 さて宮殿に入ると、まず北東部にある西洋風の庭園に導かれる。しかしそこは、アルハンブラのごく一部で、本当の見所は敷地内の西部に集まっている。庭園からは直接、西の方へ行けないのでいったん宮殿入り口付近に戻って、石橋を渡る。しばらく歩くと、宮殿内の国営ホテル「パラドール」も見える(写真左=ナスル朝・コマレス宮)。 敷地内には野菜畑が結構多いのも面白い(ナスやトマトなどを栽培している!)。また、人慣れした野良猫も多い。あまりやせている様子はないので、きっとスタッフからエサを貰っているのだろう。宮殿内なら車は来ないので交通事故の心配もない。雨露をしのげる場所もいっぱいある。猫たちにとっては天国だろう。 ようやく、ガイドブックなどで有名な、お目当ての建物が目に飛び込んできた。まず、カルロス5世宮殿、そして、ナスル朝宮殿、メスアール宮、コマレス宮…。そのどれもが素晴らしく、どの建物も内・外装の装飾が緻密で繊細で華麗で、息をのむ美しさだ(写真右)。 一足先にこの夏アルハンブラを訪れた友人は「アルハンブラの素晴らしさをたった一枚の写真で表現するのは難しい」と書いていたが、僕もまったく同感だ。日記という言葉で説明するのはさらに難しい。 アルハンブラは一般的に、「イスラムとカトリックという2つの文明・文化の融合」と言われるが、やはりどうみても、この唯一無二の宮殿は、イスラムの職人の卓越したセンスと崇高かつ強固な意思の賜物だろう。 そういう意味で、アルハンブラはあくまでイスラム芸術の極致である。ただし、イスラム人から奪い返したキリスト教徒が、異教徒の象徴でもあるこの宮殿を破壊せず、現在まで守り続けてきたことは賞賛されていい。 「キリスト教徒とイスラム教徒は相容れないので、宗教紛争やテロはなくならない」と主張する人もいるが、イスラムとキリスト両宗教間の「寛容と和解」を体現したアルハンブラを見れば、そんな悲観論はきっと霧散するに違いない。宗教テロは、人間の力で必ずなくせると僕は信じている(写真右=グラナダの中心・ヌエバ広場)。 さて、午前中でアルハンブラ見学を終えた僕らは、再び小型路線バスで旧市街へ戻る。昼御飯は昨日下見しておいた「ボデガ・ラ・マンチャ」(Bodega la Mancha)=写真左=という立ち呑みバルへ。 ここではガラスのショーケース内にいろんなタパス(40種類近くも)=写真右=を並べてくれてるので、「これをメディア(半人前)でください」と指差し注文できるのが嬉しい。 昼飯にはまだ早い時間だが、すでに地元の人らしきお年寄が数人、カウンターで飲み食いしている。どれも一口食べてみたいものばかりで、選ぶのに困ってしまうほど。とりあえずビールを飲んで、考える(外国で昼間から飲むビールの旨いこと!)。 迷った末にオリーブの盛り合わせと、またまたポテト・サラダ(どこで食べても実に旨い!)、イワシの酢漬け、そしてホウレンソウのトルティージャを頼んだ。これにパンが付く。もちろんメディアで頼んだが、やはり量的にはこれが限界かな。 気が付けば僕らが帰る頃には、店はほぼ満員に(写真左)。スタッフのおにいさんはとても気さくで、メニューの綴りも教えてくれたりした(なお、このバルではワインの量り売りもやっていて、地元の人がペットボトルを持って買いに来る。日本にもこんな店があってもいいのにと思う)。 さて昼飯を終えた僕らは、グラナダのもう一つの世界遺産「アルバイシンン」へ。こちらはアルハンブラほど有名ではないが、「グラナダ最古のイスラム教徒居住区で、丘からはアルハンブラも一望できる」というのが売り文句。しかしその丘に登るには坂道を約30分ほど歩くので、結構いい運動になる。 登る途中の坂道の両側はアラブ人街で、アラブ風の土産物店が軒を連ねる(写真右)。「あなたの名前をアラビア文字で書きます」という商売している人も。ここがスペインであるということを一瞬忘れてしまう。 ようやく丘の上の展望台にたどり着いた(しっかり汗をかいた!)。丘の上から見るグラナダの街 そして、向こう側に見えるアルハンブラ宮殿の眺めは最高(写真左)。たどり着くまでのしんどさも吹っ飛ぶ。「登ってきて良かった」と素直に思った。 「アルバイシン」見物を終えた僕らは、スペインに来て初めてデパートにお邪魔する。「エル・コルテス・イングレス」というスペインで最大手というデパートだ。一応、上の階から順番にさっと見て回ったが、日本のデパートと比べて、さほど違ったところはない。ただ最後に地下に降りて、食料品売り場に行ったら、やはり、「ここはスペインだ」と驚くことだらけ。 魚介類(とくにエビの種類が多い!=写真右、貝)、ハム、缶詰、オリーブオイル、インスタント食品(タパス料理の)の豊富さ、充実度には、ただ目を見張るしかない。日本で見たこともない魚介系の缶詰も、もっと買って帰りたかったが、「重い荷物を増やすのは最終日に」と断腸の思いであきらめる。 さて、僕らは今夜、空路バルセロナへ向かう。8時すぎにはホテルを出て空港へ向かわなければならない。で、晩御飯はホテルからそう遠くないバルにしようと探した。 歩いていると、一軒のイタリアン・バールを見つけた。スペインでイタリアンっていうのもちょっと面白いかもしれないと思い、その「Made In Italy」という変な名前のバールに入った(写真左)。 久しぶりのパスタ。トマトソース。ビールはもちろんモレッティ。バルとは少し気分が変わって楽しい。テレビではサッカーを放映している。セリエAかと思ったが、さすがにリーガ・エスパニョーラだった。短いグラナダ滞在を終えて夜9時すぎ、グラナダ空港へ移動。いよいよスペインの旅も大詰めに近づいてきた。 【バルセロナ編へ続く】こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/18
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グラナダ行きの長距離バスは、RENFE(スペイン国鉄)ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ駅すぐ横にあるバスセンター(写真右)から出る。僕らは事前に席を予約しておいたので、後はバスの来るのを待つだけ。出発は午後1時だ。 バスはカディスからヘレスに立ち寄って、そしてセビージャを経由してグラナダへ向かう。ヘレスからは僕らも含め10人ほどが乗り込むようだ。しかし、バスは午後1時を過ぎてもいっこうに現れない。鉄道と同じで一切のアナウンスはない。多少の遅れはスペインでは織り込み済みなのだろう。 1時15分を過ぎる頃、ようやくバスが到着した。ヘレスで降りる人はごくわずかだ。乗客は運転手によって開けられた床下の荷物スペースに勝手に自分の荷物を入れる。長距離バスでも、途中の駅で他人の荷物を勝手に持って行ってしまう輩(やから)がいるので要注意と聞いていた。 だから僕らは、荷物スペースに置いた2つのスーツケースの持ち手を自転車のカギ付きチェーンで結んだ(写真左)。ここまでしないと安心はできない(まさか重いスーツケースを2つ一緒に持っていく奴はおらんだろうし…)。 乗車時に予約券のチェックはなぜかまったくない(結局グラナダで降りる時もなかった)。僕らの席に行くと、知らない若い男性(スペイン人かどうかは分からない)が座っていた。「クレオ ケ エステ エス ミ アシエント(ここは僕の席だと思います!)」と伝えた。 すると、その男性は「ペルドン(すみません)」の一言もなく、堅いこと言うなよみたいな顔をして別の席へ移った。まったく油断もスキもありゃしない。もしこの席が予約されていなければ、タダ乗りもできるということか? グラナダまでの予定所要時間は4時間35分。海外でこんなに長時間バスに乗るのは初めてだ。電車の座席はきれいで、座り心地も良かったが、このバスはあまりたいしたことはない。電車に比べて料金が安いから文句を言うなということなのだろう(写真右=途中立ち寄ったセビージャの風景)。 道路は渋滞もなく、バスはすいすい進んだ。しかし立ち寄ったセビージャのバスセンターでなぜか結構な時間待ち。セビージャからはたくさんの乗客が乗り込んできて、バスはほぼ満席となった。途中の車窓の風景は、鉄道でもそうだったが、オリーブ畑ばかりの単調なもの。見ていても飽きるので、ここは眠るしかないと思った。 バスは約40分ほど遅れて午後5時15分頃、グラナダのバスセンターに到着。僕らは早速タクシーをつかまえて、今夜のホテルへ向かった。ホテルは市内中心部から少し南へ行った辺りにある「ホテル・コロナ(Hotel Corona de Granada)」。 こじんまりとした造りだが、アメリカ人やフランス人の団体観光客が多いという感じ。ただし、周辺はややさびれた地区で、グラナダの観光スポットの旧市街からもやや遠い(写真右=グラナダのカテドラル(大聖堂))。 チェックインを済ませた僕らはまず、アルハンブラ宮殿入り口にあるチケット交換所(写真左上)へタクシーを走らせた。日本から予約をした予約券は入場時刻(僕らのは「午前9時半」になっていた)の1時間前までに、入場チケットと交換する必要があると日本のHISで注意されていた。 しかし、明日の見学当日に交換しようしても、当日交換の窓口で長蛇の列が出来ていて、1時間前までに交換できなければ自動的にキャンセルしたと見なされてしまうのだとか。だから、「前日のうちに交換した方がいいです。ただし窓口は夜7時までです」とアドバイスされた(写真左=カテドラルではたまたま結婚式がありました)。 チケット交換所に行くと、またまた愛想の悪そうなおばさんが窓口にいた。僕らの予約のペーパーをちらりと見て、端末でチェック。そして機械的に入場券を2枚発行してくれた。でも、最後に「グラシアス アスタ マニャーニャ(有難う また明日ね)」と挨拶したら、「アスタ マニャーニャ」とニコっと笑って応じてくれた。笑顔を見せようと思ったらできるじゃんと言ってやりたくなった。 無事、入場チケットを入手した僕らは、アルハンブラ前から赤い色したかわいい小型の路線バスに乗り、再び旧市街へ。今回の旅ではこのアルハンブラのチケット入手が一番心配だったので、これでひと安心。アルハンブラから旧市街への道は坂が多く、とても狭い。小型バスでも四つ角を曲がる時など、両側の建物にもう少しでこすってしまいそうになる。 中心部のヌエバ広場近くで降りた僕らは、晩御飯まだ少し早いのでぶらぶら散策した。すると、中心部のカテドラル近くのバル街で、老舗っぽい陶器屋さんを見つけた。イスラムっぽい柄のモダンな陶器類(皿や壷など)をたくさん売っている=写真右。 店内に入って、商品に見入っていると、まるでアルハンブラの壁画のような雰囲気を持った、素敵なブルーの大皿を見つけた。「パスタなんか盛っても合うね」ということで、少し高い買い物だったけど、グラナダの思い出に1枚購入)。 さて、グラナダ初日の晩飯はどこにしようかと、候補店をあちこち、店の外側から偵察。で、僕らが選んだのは、「ラ・クエーバ・デ・ミルノベシエントス」(La Cueva de 1900)=写真左=という変わった名のバル(直訳すれば「1900の洞穴」?)。 外から見る限り、結構客の出入りが激しく、賑わっている。ここの名物も生ハムらしく、天井から下がった生ハム・ブロック(豚の足)の数の多さには度肝を抜かれる(いったい何本あるんだろう?)=写真右。 とりあえず2人用のテーブル席を確保。店内のカウンター席はスタンディングだ。グラナダのバルの特徴として聞いていたのは、アルコール類を頼むと、必ず何か一品タパスの付き出しが添えられてくるということ。スペイン広しと言えども、このサービスはグラナダ周辺だけという。 だから、グラナダでは最初からタパスをたくさん頼むと失敗すると言われた。とりあえずタパスは一つ頼んで様子を見てから、と。数あるメニューに少しそそられたが、ポテト・サラダをまず注文。 やがてビールとともに出てきたタパスを見て、腰を抜かしそうになった。かなり大きめのパン2個と2~3種類のハムが付いている(写真左)。日本のバルじゃ立派に1人前だ。 2杯目のお代わり(ティント・デ・ベラーノとベルモット)をしたら、また違うパンとハムの盛り合わせが付いてきた。普通のバルだと1品目と2品目で付き出しの種類を変えてくれるというが、ここはハムが売りの店なので、やはりハムらしい。 こんなに出されたら困るんだけど思いつつ、そこは悲しい性(さが)で残すのは忍びないので食べる。で、残念ながら、結局あともう一品しか頼めなかった。アンダルシア地方の名物料理の「サルモレホ」(写真右))。 「サルモレホ」は、基本はサラミなど具の入った冷たいトマトスープ(若干ニンニクも効いている)だけど、複雑な味なのでトマトだけじゃなく他の野菜も少し入ってそうだ。例によって、このスープも量は半端じゃない。これだけ食べて飲んで、お勘定は信じられないけど2人で25ユーロほど。スペインのバルは本当に懐にも優しい。 さて、明日はいよいよ世界遺産の「アルハンブラ」が生で見られる。人生最初で最後かもしれないアルハンブラを僕らはしっかりこの目に焼き付けようと思う。 【グラナダ編へ続く】こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/16
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ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ(以下、「ヘレス」と略す)滞在も残り少なくなってきた。午後からはバスでグラナダへ向かう。残された時間はあと3~4時間ほど。ホテルで朝食を済ませた僕らは早速、タクシーで旧市街へ出かける。 とりあえず向かったのは、シェリーのボデガ(醸造所)「エミリオ・ルスタウ(Emilio Lustau)」(写真左)。ヘレスには、地元でつくられている観光地図に載っているだけでも20カ所ものボデガがある。「エミリオ・ルスタウ」は「ゴンザレス・ビアス」や「サンデマン」ほど有名ではないが、特別な存在感があるボデガだ。 「エミリオ・ルスタウ」は1896年、「アルマセニスタ(個人で代々シェリーの樽を受け継ぎストックさせている人たちのこと)」の一人ドン・ホセ・ルイスベルデホによって設立された。現在、社名になっているエミリオ・ルスタウは義理の息子(娘婿)に当たる。 「ルスタウ」社は、小規模な生産業者から優れた樽を買って瓶詰めし、自社のラベルにその造り手の名前や樽の数(「1/183」のように表示される)を表示して販売するという手法で知られる。大量生産のシェリー銘柄(多くは味を均一化させるためにブレンドする)と違い、樽一つひとつの個性的な味わいが楽しめる(写真右=「ルスタウ」の正面の門)。 「ルスタウ」社がつくり出す「アルマセニスタ・シリーズ」は、熟成期間も通常の3年より長く、5年を費やす。熟成が終わった後は、軽い濾過のみで瓶詰めするため、樽本来のリッチな味わいに仕上がる。しかし、小規模生産の樽であるため、出荷本数が少ないのがシェリー好きには残念なところだ。 僕らは「ルスタウ」のボデガに、オープン時刻の9時半に着いた。門は開いていたが、見学者らしき人は誰もいない。しばらくすると若い女性のスタッフが出てきた。彼女は「英語は話せますか?」とまず尋ねた。 僕は「はい、話せます」と答え、そして彼女が次の言葉を発する前に、こう伝えた。「日本から来ました。午後にヘレスを離れるので時間がなくてボデガはあまり見学できないけれど、ギフト・ショップがあるなら、せめて記念品を買って帰りたい」と(写真左=「ルスタウ」のエントランス)。 すると女性スタッフは「OK! じゃぁ、少し待っていて、準備ができたら呼びにくるから」と言って去った。そして10分ほどして再び現れた彼女に付いていく。貯蔵庫(写真右下)を通り、少し立ち止まって、見学する時間をくれる。そしてさらにいくつか場内の作業所を抜けて、最後にギフト・ショップに着いた。 「ルスタウ」のショップ(写真左下)は美術館の展示室のような落ち着いた空間だった。しかし、はっきり言って、「ゴンザレス…」のようには充実していない、というか、商品数も少なくてわりと地味だ。ウイスキーの蒸留所やワインの醸造所等のショップでよく売っているようなキー・ホルダーやピン・バッジの類もない。 見学時間が午前中だけという点でもわかるように、ビジターを積極的に受け入れるという風でもなく、あまり商売っ気はないのだろう。ただその代わり、個性的で素敵なグッズや一点物の高級そうな記念品(スカーフやネクタイなど)は、いくつかあった。 僕は、この「ルスタウ」の存在を再認識させてくれた友人のために、お土産をいくつか購入(もちろん自分用にも!)。歓待してくれたその女性スタッフに、「いろいろとありがとう! また必ず来ます」と御礼を言ってボデガを後にした。 「ルスタウ」を後にした僕らはもう一度、市中心部のアレナル広場付近へ。広場の近くにある酒屋兼雑貨屋をもう一度冷やかす。そしてシェリーをグラスに注ぐベネンシアのミニチュア(と言っても、40cmほどの長さがある)を購入(写真右=ヘレスはフラメンコ発祥の地。街には衣装屋さんも見かける)。 店主のおやじは、昨日に続いてなので、「また来たのか」と言うような顔をしてニヤっと笑った(それにしても、ヘレスには観光客向けの特産品を集めた土産物販売センターのような場所はないのだろうか。僕らは気がつかなかっただけ?)。 さて、ヘレス最後の訪問先は、ボデガ「サンデマン(Sandeman)」(写真左)。ここも大手ボデガの一つだ。サンデマンの名は知らなくても、トレードマークの「マントの男“ドン”のシルエット」が描かれたボトルはご存知の方も多いのではないか(ちなみに“ドン”が手に持っているのは赤いポート・ワインのグラス)。 サンデマン社はシェリーだけでなく、ポート・ワインやマディラ・ワインも造っているが、ポートやマディラは、ポルトガルにあるボデガで生産しているという事実を、恥ずかしながら、今回初めて知った。 すでにお気づきだろうが、サンデマンという名前からも分かるように、創業者はスペイン人ではない。ジョージ・サンデマンという名のスコットランド人が1790年にロンドンで創業した(写真右=「サンデマン」の見学受付。机とイスを置いただけの、のんびりした雰囲気)。 「ゴンザレス・ビアス」でもそうだったが、シェリーを世界的な飲み物に発展させたのは、スペイン人ではなく英国人である。在住の日本人も「スペイン人は商売が下手だから、おいしいところはすぐ外国人に持っていかれてしまう」と言う。 「サンデマン」社がヘレスとポルトガル北部のポルト(首都リスボンの北約300km)にボデガを設立したのは1810年。日本への進出も早く、30~40年前に日本で販売されていたシェリーの銘柄は、サンデマン社のものかゴンザレスの「ティオ・ペペ」くらい。ポート、マディラはほとんどサンデマン社の銘柄だったような記憶がある。 さて、ボデガ「サンデマン」の正面の門に着いた僕らは、そこにいたスタッフらしい男性にも、ルスタウ訪問時と同じような言葉を伝える。すると男性スタッフは「(ショップは)あそこだよ」と指差して教えてくれた(写真左=サンデマンの樽貯蔵庫)。 サンデマンのギフト・ショップ(写真右)はゴンザレス・ビアスほどではないにしても比較的充実している。グッズの種類も多い(ここではピン・バッジもキー・ホルダーも売っている)。 しかし、展示されていたサンデマンのロゴの入ったシェリー・グラスを買おうとした時のこと。「これはシェリーのボトル(フル・サイズ)とのセット販売なので、グラスだけでは買えない」と愛想ない表情で言う女性スタッフ。 日本なら、ロゴ入りグラスを単独で販売しない蒸留所・醸造所なんてあり得ないが、スペインではそういう常識は通じない。店員の愛想も、そうしたきめ細かいサービスも、何かが足りないような気がする(写真左=ヘレスのカフェ。滞在中、よくお世話になった)。 スペインでまだ4日目だが、概して商店の店主やスタッフは不機嫌な顔をして、愛想も悪い人が多い。公立美術館のショップのスタッフですら態度が悪い。例外はホテルのスタッフの方々、ゴンザレスの案内ガイドのおじさん、ルスタウの女性スタッフくらいか(バルの店主やスタッフやタクシーの運転手は平均点くらいかなぁ)。これはなぜなんだろう。 在住の日本人も「スペインは観光産業抜きにしては経済は成り立たない国」と言う。それなら、まず商店主やこうしたスタッフの教育から始めるべきだろう。観光客に粗末な扱いをしていたら、本当に国は破産するぞと言いたい。これはスペインを愛するが故の僕の苦言だ(写真右=ヘレスのスポーツ用具店のショー・ウインドウ。スペインではやはりメッシは人気者)。 さて、いよいよヘレスを離れる時間が近づいてきた。僕らはボデガ「サンデマン」を後にして、歩いてホテルへ向かう。途中、宮殿のような建物の前に観光客らしき人だかりが出来ている場所があった。 聞けば、「王立アンダルシア馬術学校」(写真左)という。ヘレスはカルトゥハーノという良馬の産地といい、ここでは騎手を養成しながら、観光客には馬術ショーを見せているという。馬にもさほど興味はないので、ここは前を通り過ぎるだけ。 ホテルで預けていた荷物を受け取った僕らは、とても親切だったフロントのおじさんに「グラシアス ポル トド、ロエ パサード ムイ ビエン」(いろいろと有難う、とても楽しかったです)と最大級の御礼の言葉を伝えた。 タクシーを呼んでもらい、昨日到着したRENFEのヘレス駅へ。長距離バスが発着するバスセンターは駅のすぐ隣にある(ちなみに、バスはスペイン語で「アウトブス(Autobus)」。日本ではちょっと言いにくい語感だ(笑))。午後1時発、セビージャ経由のバスで、いよいよアルハンブラの待つグラナダへ出発だ!【グラナダ編へ続く】こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/14
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ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ(以下、「ヘレス」と略す)旧市街の中心にある「アレナル広場」に、僕らは戻ってきた。広場は市民の憩いの場でもある。一角には、「ティオ・ペペ」のロゴも入った小型の市内遊覧バス(と言ってもかわいい電車の形をしている)=写真左=の出発場所もある。 広場につながる大きな通りの幾つかは歩行者天国。人間優先の思想になっているのが嬉しい。だから、広場周辺にはテーブルを出すバルやカフェも多い(写真左下)。パフォーマンスをする人、何かの抗議活動のためテント暮らしをする人も、みんな共存している。 散策をしながら、友人への土産物に何か良いものかないかなぁと、商店街などを歩いたが、ほとんどの店が閉まっている。開いてるのは飲食関係の店くらい。聞けば、「シエスタ(昼休み)」で、2時頃から5時か5時半くらいまできっちり休むのだという(写真右=ヘレスの街の中心にあるシンボル的なビル)。 マドリッドでもトレドでも、やはりシエスタをとる店は多かった。デパートなどは日曜・祝日はきっちり休む。スペインは今、ギリシャに続いて財政破たんしそうな国だと噂されているというのに…。 日本人の働き過ぎも問題だが、スペイン人には「もっと働いた方がいいんじゃない?」と言いたくなる。とくにヘレスは観光で生きている街である。観光客がいる昼間に店を開け、カネを落としてもらわなくてどうする!と言いたい。 さて、買い物もなかなかままならないので、カフェなどで時間をつぶした後、再びボデガ(醸造所)「ゴンザレス・ビアス(Gonzalez Byass)」(写真左下)へ向かう。そろそろ午後5時の見学ツアーの時間が近づいてきた。 「コンザレス…」のチケット売り場付近に着くと、外国人観光客があふれている。その数計70~80人くらいか。「次の回に回されたらいやだな」と一瞬思ったが、見学ツアーはスペイン語、英語、ドイツ語の3つに分かれる。だから程よい人数に分散して、5時からツアー参加は幸い大丈夫だった。 僕らは英語のツアーを選んだ。ツアーは言語とともに試飲の種類(2種か4種か)とタパスの付き・無しを選べる。僕らは晩御飯のことも考え、2種の試飲&タパス無しを選んだ(写真右上=「ゴンザレス…」の向かいに残るイスラム時代の城「アルカサル」)。 見学ツアーのことを記す前に、シェリーのことと、「ゴンザレス・ビアス」社のことを少し紹介しておく。シェリーとは酒精強化ワインとも言われ、アンダルシア地方のヘレスなど限定された地域で造られているものだけが「シェリー」と名乗ることができる。 原料となるブドウの約9割はパロミノ種(日本ではあまり馴染みのない品種だが)。他に甘口用としてペドロ・ヒメネス、モスカテルという2品種も使われる。 「ゴンザレス…」社は1835年、当時23歳だったマヌエル・ゴンザレス・アンヘル氏が創業。ゴンザレスは、「ティオ・ペペ」の名前の由来ともなった叔父の助力のもと、シェリー造りとその輸出に情熱を注いだ(写真右=見学ツアー客の待合所)。 1844年この「ティオ・ペペ」を英国へ輸出すると、その素晴らしさを高く評価する英国人が現れた。ロンドンで貿易代理店を営んでいたロバート・ブレイク・ビアス(英語では「バイアス」と発音するという)。それまで英国では甘口のシェリーが主流だったが、ビアスは「ティオ・ペペ」のようなドライ(辛口)タイプは、折からの酒類のドライ志向にぴったりだと思ったのだ。 ゴンザレスはまもなくビアスを共同経営者に迎えた。すると事業はさらに発展。1862年にはスペイン王室御用達のメーカーとなり、19世紀末にはすでに世界最大のシェリー醸造業者の地位を揺るぎないものとした。 ゴンザレス社は現在シェリーのほか、ブランデーやワインも生産。ワイン造りでも、シャトー・マルゴーの元醸造責任者をアドバイザーに迎えたほか、2006年にはヘレスの北のラ・マンチャという地に新たなワイナリーを設立するなど、“攻め”の経営でさらなる成長を続ける。 さて、見学ツアーの話に戻る。ガイド役のスタッフは優しそうな中年男性(写真右)。まず貯蔵庫を数カ所案内された後、15分ほど「ゴンザレス…」社の歩みを紹介する映画を見せられる。そして、その後は赤い見学用カート(写真左上)に乗って場内を回る。 場内には立派なぶどう畑(おそらくパロミノ種)=写真右=もあり、ちょうど実りの季節を迎えていた。カートを降りた後、さらに貯蔵庫を何棟か見学する(写真左)。古い時代の樽ばかり集めた貯蔵庫、王室御用達の樽、訪れた有名人がサインした樽を集めた部屋等々。 面白かったのは、貯蔵庫の中に住みついたネズミのために、小さな梯子をかけたシェリーのグラスが、エサと一緒に床に置いてあったこと(写真左)。実際ネズミは梯子を上ってシェリーを舐めに来る(額に入れた写真が飾ってあった)。 案内スタッフのおじさんは、日本から来た僕らにサービスしたいと思ったのか「このネズミは(シェリーを飲んで)酔っぱらうとフラメンコを踊ります!」と日本語で言って、笑わせてくれた。 さて、1時間余りの見学も終わり、ようやく試飲タイム(写真左下)。僕ら一行は宴会場のような場所へ連れていかれた。他の外国人客はほとんどが4種類を飲んで、タパスも食べている。やはり胃袋や肝臓のつくりが違う! 盛り上がる外国人たちをよそに、僕らは2種類だけ試飲して会場を後にし、ショップであれこれお土産を探す。 ボトルも買いたかったけど、これからまだグラナダ、バルセロナへと移動があるので重いから断念。あまりかさばらない物や軽い物を中心にお土産をたくさん買い込む。ゴンザレス・ビアスのスタッフの皆さん、温かいもてなしを有難う!またいつか来たいです! 「ゴンザレス…」見学を終えた僕らは「シエスタ」あけの旧市街の商店街へ。雑貨屋さんも兼ねる酒屋さんで さらに少し土産を買った後、今夜の晩御飯を食べる予定の店へ。ここもブログの友人から教えてもらった店だったが、予想外の事態が待ち受けていた。 教えてもらったお店「レイノ・デ・レオン」(Reino de Leon)はアレナル広場からすぐ近くにあったが、店の前に来てみると、なにやら張り紙がしてある。「CERRADO POR REFORMAS(改修中につきお休みしています)」。「まさか!こんなタイミングで!」と一瞬絶句したが、運が悪かったと思ってあきらめるしかない。 仕方がないので事前に選んでいた候補店のうち、広場からも近い「ファニート」(Juanito)=写真右=というバル&レスタウランテを選んだ(店は「レイノ」から歩いて1分ほどとめちゃ近い)。飲み物は、いつものパターンでまず「ドス・セルベッサ!」、そして2杯目からはもちろん、シェリー。それにしてもヘレスで飲むシェリーは、なぜこんなに美味しいんだろう。「ヘレスの神様」に乾杯! この夜僕らが頂いたのは、牛肉と野菜(と言っても豆類が中心)の煮込み料理(写真左上)、そして、まだスペインに来てから貝を食べていなかったので、アサリのシェリー蒸し(写真右)。前者は、スペイン料理にしては珍しくカレー風味の味付けだったが、意外といけた。後者はニンニクとシェリー・ビネガーが効いてめちゃ旨い。シェリーがすすむ。料理は例によってボリュームたっぷりで、日本人の胃袋には十分だ。 気がつけばヘレスの夜もすっかり更けているが、あちこちのバルから歓声が漏れ聞こえる。スペインの人たちにとっては、夜はまだまだこれからなのだろう。夜通し飲んで食べて疲れても、また翌日には長いシエスタがあって、疲れを癒せる(笑)。そうか! そのためのシエスタなのかと改めて実感。でも、観光客としては、交代で休みをとってでも、もう少しお店を開けてほしいなぁ…。 明日は午前中、ヘレスでさらに2カ所のボデガを訪ねる予定。ギフト・ショップで何か素敵なお土産があればいいなぁと思う。午後からはいよいよ長距離バスでグラナダへ出発だ。 【ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ編へ続く】こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/12
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今回のスペインへの旅では、5都市を回ることになっているが、そのなかでも個人的に一番楽しみにしていたのが、スペイン南部・アンダルシア地方のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ(Jerez de la Frontera)という街である。 ヘレス・デ・ラ・フロンテーラと言っても、スペインのことを少しは知っている人でも、「それってどこ?」と尋ねることが多いだろう。それほど、あまりメジャーではない観光地。 しかし、うらんかんろにとっては、シェリー(酒)の故郷でもあり、シェリー好きとしてはいつか必ず訪ねてみたい「聖地」でもあった(ちなみに、スペイン語ではシェリーのことを「ヘレス」と言うのです)。(写真左=マドリッド・アトーチャ駅の行き先・出発ホーム表示板。上から4つ目の「カディス」行きが僕らの乗る特急)。 ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ(以下、「ヘレス」と略す)は、同じアンダルシア地方にあるグラナダと同様、かつてはイスラム民族の支配下にもなり、街なかにはイスラム時代の城が今も残る。「フロンテーラ」という名はキリスト教国とイスラム教国の「境界」であったことに由来する。現在の人口は20万人ほど(ちなみに、ヘレスは、シェリーと並んでフラメンコ発祥の地としても有名で、市内にはフラメンコ学校が数多くある)。 そんなヘレス訪問がようやく実現した。マドリッドからヘレスへ行くには、空路と鉄道、バスと3つの手段があるが、列車の旅が好きな僕らは、迷わず鉄道を選んだ。マドリッドからはアトーチャ駅からカディス行きの特急「Alvia」に乗り、約3時間半。しかし一日3便しか出ておらず、午前中は午前8時5分発1本だけ。 しかも前回の日記「トレド編」で書いたように、途中駅での荷物の盗難(勝手に他人の荷物を持って降りる輩がいるらしい)を予防する意味でも、早めに列車に乗って、自分たちの車両のスーツケースの置き場にスペースを確保する必要がある。 9月22日木曜日の朝、7時40分頃、出発ホームが表示されるや否や、僕らは改札とセキュリティ・チェックを済ませ、小走りに列車へ急いだ。そして、なんとかスーツケースを棚に置いた。 友人のアドバイスに従って、棚の金属パイプとケースの持ち手をカギ付きの自転車用のチェーンで結ぶ(写真右上)。これくらいしないと安心できないのが悲しいけれど、スペインという国の現実でもある。 スペインの列車は、他のヨーロッパの列車同様、発車のアナウンスもベルもなく、発車時刻がくればいきなりドアが閉まり、動き出す。日本人としては、発車のベルくらいはあってもいいと思うのだが、サービス過剰なアナウンスが多い日本と比べると、これもまた新鮮に映る。 特急列車の車両(写真左上)は近代的できれいだ。テレビも付いていて映画も上映している(デ・ニーロ主演の映画をスペイン語字幕でやっていて、イアホンも貸してくれる)。列車にはバー・コーナーのある食堂車も付いている。ただ、途中の車窓の風景はオリーブ畑かオレンジ畑、あるいは綿花畑ばかりで単調だ。 途中、コルドバ、セビージャなど6つほどの駅に止まるが、唯一、「次は***駅」というアナウンスだけはある。ヘレスに着くまで、車内検札はなぜか一度もない。下車駅でも切符は回収されない(だから悪い輩がいれば、キセル乗車はし放題かもしれないなぁなんて思う)。 カディス行き特急は午前11時45分、10分ほど遅れてヘレスに到着。ついに憧れの「シェリー(ヘレス)の聖地」へ第一歩だ! ここで降りる乗客は50~60人というところか。もっと田舎の駅をイメージしていたが、駅のホームには大屋根(写真右上)もあって、駅舎もトレドと負けないくらい素敵で、立派な歴史的建造物っぽい=写真左。 駅前から見たヘレスの街の第一印象も、「高い建物が結構多いなぁ」「意外と都会だなぁ」「車もたくさん走っているなぁ」というもの。田畑や牧場があちこちにある田舎の村のような風景を想像していた僕は、すっかり裏切られてしまった。しかし、「あるがままのヘレスを見ることこそが今回の旅の目的だ」と気を取り直し、とりあえず、駅からタクシーでホテルへ。 ヘレスのホテルは、「Hotel Guadalete」という。プールもある4つ星ホテルだが、いかんせん市内北東部の住宅街に立地し、観光スポットのある旧市街までは遠すぎる。歩けば45分~50分はかかる(で、滞在中はもっぱらタクシーのお世話になった)。チェック・インした僕らは、荷物を部屋に置いて早速、お昼御飯を食べるため街へ向かう。 なお、今回訪ねたスペインの各都市では、ヘレスに限らずどこでもタクシー料金が安いことがとても嬉しかった(基本料金はだいたい1.4~1.5ユーロ。車で10分ほどの距離を乗ってもチップも含めて6~8ユーロくらいで済む。運転手も概して愛想がよかったし、快適だった。 さて、ヘレス最初の食事は「ラ・カルボナ」(La Carbona)という名のレストラン=写真右。ブログの友人に教えていただいた店だ。街の中心部に比較的近い、住宅街の中にあるおしゃれな店で、キャパも広い。 我々が店に着いたのはお昼の営業が始まってすぐ1時すぎ。開店早々、東洋人カップルが訪ねてきたので、店のスタッフも少し戸惑っているようだったが、そこはスペインである。「オラ!(こんにちはー!)」のひと言で、すぐ打ち解ける(写真左=La Carbonaの店内風景)。 飲みものはもちろん、まだ陽が明るいけれど、ヘレスに来たからにはシェリー。僕はフィノ、連れ合いはマンサニージャを頼んだ。「マンサニージャ ポル ファボール」と伝えた際、スタッフの顔が一瞬、怪訝な表情に見えたような気がした。 実はヘレスで造られているシェリーは、シェリーのなかでも辛口の「フィノ」、中口の「アモンティリヤード」、中口&甘口の「オロロソ」、甘口の「クリーム」「ペドロ・ヒメネス」などと言われる種類。同じ辛口でも「マンサニージャ」という種類のシェリーは、ヘレスの隣のサンルカール・デ・バラメダという町で造られている。だからヘレスの人々には、少し対抗意識があるんだとか(しかし、もちろん遠来の客からの注文なのでもちろん、スタッフはすぐ笑顔に戻り、無事2種類のシェリーが出されてきた)。 料理の方は、お昼のコースで頼むかどうか悩んだが、やはり量の多さが心配だったので、単品で頼む。僕らが頼んだのは、ジャガイモのアリオリ・ビネガーソース(写真右上)、サーモンのタルタル風(写真左)のほか、注文を取りに来たおばさんお薦めのタイの炭火焼(写真右下)、Tボーンステーキ。 最初は、4種類も頼むつもりはなかったけれど、おばさんに乗せられて、ついつい。でも、どれも上品な味わいで、実に美味しい。とくにサーモンのタルタル風は、サーモンを細かく刻んだものに、アボガドや玉ネギ、ケイパー、香草などを刻んだのも交り、抜群の旨さ。はっきり言って、ヘレスのような地方でここまでレベルの高い料理を食べられるとは思わなかった(失礼!)。 またまた腹いっぱいお昼を食べてしまった僕らは苦しいお腹をさすりつつ、とりあえず市内を散策しようと、てこてこと歩いて旧市街の中心地「アレナル広場」を目指す。途中、訪問予定のシェリーのボデガ(醸造所)「エミリオ・ルスタウ」の前に立ち寄る。正面の門は閉まっており、案内板が貼ってある。 読んでみると「見学時間は午前9時半~午後1時」とある(大手なのに、ちょっと商売っ気がないなぁ)。ルスタウは明日の午前中お邪魔することに。引き続き、今回のヘレス訪問で最も楽しみにしているボデガ「ゴンザレス・ビアス」へ向かう。途中、見かけた酒屋さんはまだ昼間だというのに立ち呑みバル状態。ヘレスらしくていい(笑)=写真左。 「ゴンザレス・ビアス」はヘレス旧市街の南西部にあり、ヘレスでは最大手のボデガ(酒造会社)。おそらくは世界で最も有名なシェリーの銘柄「ティオ・ペペ(Tio Pepe)」(フィノ・タイプ)の造り手でもある。そしてフィノ・シェリーだけでなく、アモンティリヤード、オロロソ等の各タイプのシェリー、さらにブランデーやワインも造っている。 ボデガは広大な面積(甲子園球場の10倍くらい?)を持ち、なかには貯蔵(熟成)庫や工場のほか、ブドウ畑、庭園、結婚式にも使えるホールまである。「ゴンザレス…」の建物の壁はまぶしいくらいの美しい白。隣には、イスラム時代の城「アルカサル」もある。 見学ツアーを予約しておこうと、チケット窓口に行くと閉まっている。何やらお昼休みらしい。門のそばにいた守衛のおじさんに聞くと、「ツアーは午後5時再開だよ。その時またおいで」「予約は要りますか?」と僕が尋ねると、「大丈夫、大丈夫」と笑うだけ。どうやらこの9月下旬の季節は、そんなには込んではいないようだ。仕方がないので、5時まではヘレスの街の散策を続けようと、僕らは再び踵(きびす)を「アレナル広場」方面へ返した。 【ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ編へ続く】こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/10
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スペインの旅2日目、21日(水)の午後、世界遺産でもあるマドリッド近郊の古都・トレド(Toledo)へ半日旅行に出かけた。 トレドは1561年にマドリッドに首都が移るまでは、スペインの政治・経済の重要な拠点だった。中世の街並みが今でもとてもよく保存されているということで、1986年に世界遺産に登録されてからは、観光地としてさらに注目を集めるようになり、世界各国から連日数多くの観光客が訪れる。 マドリッドから南西へ約80kmに位置するトレドへは、RENFE(レンフェ=スペイン国鉄)の直通の快速列車(全席指定)「Avant」が、市内南部のターミナル「アトーチャ駅」(写真左)から約30分で結んでいる。 列車の本数は1時間に1~2本と比較的多いが、年中観光客が多いため前売り券を持ってないと乗れないこともあるという。我々は「マドリッド編」の日記で書いたように、前日にチャマルティン駅の窓口で指定乗車券を購入したので心配はない。 さて、RENFEは発着するホームが案内板に表示されるのがとても遅い。ホームが決まらないから動きがとれない。案内板が見通せる駅のコーヒー・ショップに座り、ひたすら案内板に表示されるのを待つのだが、出発の20分前なんてのは、ざら。おまけにホームに行くには、X線監視装置によるセキュリティ・チェックもある(先般、列車テロがあったせいか鉄道も警備は厳しい)=写真右。 だから、初日にHISの方から「スーツケースなど大きな荷物を持っている場合は、表示されたら、すぐそのホームへ走って車両内の荷物置きの棚に、自分の荷物を置くスペースを確保しないといかない。そこに置けなくて別の場所におけば、途中駅で盗まれる危険性が高い」と言われた。トレドは日帰りの半日観光なので、軽装だが、明日のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ行きはまさに大きな荷物同伴だから、注意しなくてはと思う。 ようやく発着ホームの表示が出た。14番線だという。トレド行き快速列車(写真左)もチャマルティン-アトーチャ間の近郊列車と同様、車両や座席はきれいだ。午後12時18発の列車はほぼ満席。やはりトレド人気は衰えていない。 乗っている人は世界中からの観光客が目立つ。当然、スペイン語だけでなく、英語、フランス語、ドイツ語、日本語、韓国語等と世界中の言葉が車内で飛び交う。年配のグループ、若いカップル、バック・パッカー…風体もさまざま。 30分余なので、寝ているヒマもなく列車はトレドに到着。マドリッドも暑いくらいの陽気だったが、トレドもまた暑い。着いてまず驚いたのが、歴史を感じさせる古い駅舎の美しさ(写真右)。おそらくは鉄道がトレドまでつながった当時のものを、今でも使っているのだろう。 駅舎の内部の装飾も、目を奪われるほど華麗だ=写真左。まず、改札口を出たとこで地図を売っていたおばさんから一部(2ユーロ)を購入する(日本のガイドブックの地図は小さな通りの名まですべて出てなくて不便です)。 駅前には2階建ての観光バス3台が客を待っており、ツアー客、グループ客はぞろぞろとそちらへ歩き始める。しかし僕らは路線バス(写真右)で旧市街へ向かうことにする。駅前から出るバスはほとんどが旧市街(町の中心地)へ行く。料金はバス停や車内に書いてあり、乗車の際、運転手に「ドス ペルソナス(2人分です)」と言って、2.8ユーロを渡すだけ。安くて安心なので嬉しい。 トレドはかつて政治・経済の中心であっただけなく、城塞都市でもあった。街の周囲は城壁のような高い壁が囲む。軍事・防衛的な観点から、旧市街は網の目のような細い路地が、迷路のように入り組んでいる。しかし、8世紀から12世紀にかけてイスラム教徒に占領された歴史もある。 道が狭く建物が高いために、見える空が狭い。歩いていると、東西南北が時々わからなってしまう。そういう時は、できるだけ広い道に出て太陽の位置を確かめる。街全体が世界遺産という点では、イタリアのアッシジに似ているが、違うのはアッシジの建物はどこまでも白いのに対して、トレドはどこまでも石造りで、黄土色である。 さて、とりあえず昼ご飯である。きょうトレドで食べる予定の候補店は、2つまで絞っていたが、そのうちの一軒に向かう。スペインに来てから初めて、バルではなくレスタウランテ(Restaurante=スペイン語で「レストラン」のこと)である。その名は「ラ・パリーリャ」(La Parrilla)(写真左)。雰囲気的には結構老舗っぽい、地元の郷土料理の店と聞いている。 とりあえずビール(ビールはどこでも旨い!)で乾杯した後、注文。僕らは、パエジャ(パエリア=写真右下)=スペインに来て初パエジャ!=と、「地元の料理でおすすめです」と店員さんから教えられた「野鳥肉と野菜の煮込み」(写真左下)をお願いする。 パエジャはご飯の硬さがちょうど良い具合で美味しい。煮込み料理も(添えられたフライド・ポテトはちょっと芸がないが)しっかりとした味わいで、肉も旨い。野鳥肉はウズラらしいけれど、詳細は聞き忘れた(説明されても、スペイン語じゃわからなかったかも(笑))。 連れ合いが「カヴァ(スパークリング・ワイン)が飲みたい」というので尋ねたが、「グラス売りやミニ・ボトルはない。フルボトルになる」という。仕方なく白ワイン2杯を頼む。よく冷えてて旨い(今のところ、ぬるいビールや白ワインには一度もあたっていない。スペイン万歳!) さて、昼ご飯を終えて再びトレド観光に繰り出す。とりあえず、「トレドでここだけははずせないよ」と言われていた旧市街の中心のカテドラル(大聖堂)へ=写真右下。 13世紀初めに建設が始まり、1493年に完成したカテドラルは、スペイン・ゴシック様式で造られた華麗な建物だ。かつてはスペイン・カトリックの総本山が置かれたほど由緒ある聖堂だという。 とくに大聖堂の内部が美しい(写真左下)。中央に祭壇や聖歌隊が歌うスペース。周囲にはいくつかの小さな礼拝堂や宝物展示室。高さ3mの聖体顕示台にはコロンブスがアメリカから持ち帰った金が使われているという。 高い天井から差し込む自然光に、ステンドグラスが輝いて美しい。ただ、我々仏教徒の日本人には、キリスト教の精神とか宗教性とかいうのがいまいち理解できず、限界がある。だから、このカテドラルもあくまで芸術作品として見ることしかできない。 カテドラル見学を終えた僕らは、残り時間をただあてもなく、気ままにトレドの街を散策することにする。「画家エル・グレコの暮らした家」という観光スポットもあるとのことだが、2人ともグレコはあまり好きなアーチストではないのでパス。 迷路のような道をただぷらぷらと歩いていても、意外と観光客にも地元の人にもあまり出会わない。物音一つ聞こえないほど静かな通りもある。一緒に駅で降りた観光客は、あの列車だけでも数百人もいたのに、みんなどこへ行ったんだろう?。 時々、出会う地元らしき人に地図を見せて「ドンデストイ アオラ?(いま、私たちはどこにいますか?)」と聞いて、場所を確認する。帰りの列車の時刻(午後16時18分発)も少し気にしながら、さらに街歩きを続ける(写真右=トレドの街の路地風景)。 トレド旧市街は迷路であることに加えて、結構高低差がある。いわば小さな山一つがまるまる街を形成していると言っていい。だから散策と言っても、結構上り下りがあり、ゆっくり歩いていても結構足が疲れる。僕らは早めに駅まで戻ろうと、15時半すぎに再び路線バスに乗った。 バスは10分ほどで駅に着いた。列車の発車まではまだ30分ほどある。すると、駅の建物の一角にバルがあることに気づいた。その名も「ラ・バリラ」(La Barrila)(写真左)。結構本格的なバルで、ハモン・イベリコ(最高級の生ハム)も置いている。 店は、まだ時間が早いのであまりにぎわってはいない。屋外テラスがあり、テーブルも7~8つ席ある。そのうちの一つに座り、僕らは出発時間ぎりぎりまで、再び「ドス セルベッサ、ポル ファボール!(ビール2杯お願い!)」。僕らにつられてか、同じ列車に乗る外国人観光客が相次いでテラス席にやってくる。 僕らはビールで喉を潤し、心地よい風に頬をなでられながら、先ほどまでのトレドの街並みを思い出していた。海外の旅でも、とりわけ地元の列車の旅は趣きがあって楽しい。さぁ、再びマドリッドに戻り、観光再開である。マドリッドの夜はまだまだ長い。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/08
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マドリッド2日目。天気は前日に続き快晴。ホテルで朝食をささっと済ませた僕らは、早速この日の行動予定表に従って、まずプラド美術館(写真左)を目指す。 ルーブル、エルミタージュと並び、世界三大美術館の一つと言われているが、うらんかんろ個人の印象では、ゴヤとかエル・グレコ、ベラスケスなど宗教的な絵、それもやや暗いトーンの絵をたくさん所蔵しているところという印象が強いが、実際はどうなんだろうか。 泊まっているホテル「ウサ・チャマルティン」からプラド美術館へ向かうには、RENFE(スペイン国鉄)チャマルティン駅からRENFEの近郊線(地下線)に乗って、アトーチャ駅まで駅3つで約15分。駅はホテルの入っている駅ビルのすぐ下にあるので便利だ。電車もとてもきれいで、2階建て車両なのには少々驚いた。 アトーチャ駅からはプラド美術館までは徒歩で6、7分。朝のすがすがしい空気を吸って、美術館を目指すが意外と人が少ない。開館20分前の8時40分頃、僕らはチケット売り場に着いたが、並んでいるのは数人ほど。それもネットで団体予約した旅行会社の人がチケットに換えるために並んでいるだけ。一般客のレーンにはまだ誰もいない。 その旅行会社の人は日本人らしかったので、話しかけてみる。「いつも込み具合はこんなものですか?」と僕。「ええ、平日ならいつもこんなものですよ」とその方。マドリッド在住でガイドもしているという。 パリのルーブル美術館やフィレンツェのウフィッツィ美術館で早朝からの長蛇の列を体験した僕らは、いささか拍子抜けした。でもまぁ、込んでいて長時間待たされるよりはいい。美術館は予定通り9時に開館。その時点でも一般客のレーンは30人前後が並んでいただけだった。 さて、館内に入った僕らは、案内パンフを参考にしながら、有名どころの絵をまずおさえようと歩き出す。午後からは電車でトレドへ行くので、“持ち時間”は約2時間半ほど。プラドと言えば、やはりゴヤである。有名なところでは「裸のマハ」「着衣のマハ」、そしてナポレオン軍による反乱軍処刑を描いた「マドリッド 1808年5月3日」(写真右上 ※絵の写真3枚は、館内が撮影禁止のため購入した絵ハガキを接写)は、見る者に強い印象を与える傑作である。 他にも、べラスケスが王女と女官たちを描いた「ラス・メヒーナス」(写真左、エル・グレコの「羊飼いの礼拝」、さらにルネサンス期ではラファエロも何点かある=写真右。さらに、ルーベンス、レンブラント、ブリューゲルなど有名どころがいっぱい。 印象派の絵やピカソは数少ないが、おそらくプラドの近くにある2つの有名な美術館、ティッセン・ボルミネッサ美術館=印象派が多い=や、ソフィア王妃芸術センター=ゲルニカなどピカソが目玉=と棲(す)み分けしているせいだろう。 プラド美術館の展示品をじっくり見るにはやはり一日かけた方がいいのだろうが、駆け足で見れば2時間ほどあれば観て回ることも可能だ(ルーブルや大英博物館ではちょっと無理かもしれないが)。とりあえず有名どころさえ観ておけばあとで後悔はしないだろうということで、僕らは11時20分頃、プラドを後にして再びアトーチャ駅へ向かった。 (※僕らはこの後、世界遺産の街・トレドへ列車で向かったが、トレド訪問については次回にまとめて報告したいので、この日記上では、トレドから再び夕刻にマドリッドへ帰ってきてからの出来事・見聞を続ける)。 トレドから再びマドリッドに戻った僕らはまず、アトーチャ駅近くのソフィア王妃芸術センター(写真左)へ向かう。ここの目玉は、パブロ・ピカソの代表作であり、おそらく最も有名な作品であろう「ゲルニカ」=写真右下(写真は絵ハガキを接写)。スペイン内戦中の1937年4月、フランコ将軍派を支援するナチス・ドイツによる無差別爆撃で殺されたゲルニカ市民を描いた大作は、縦3.7m、横7.8mもあり、見る人を圧倒する。 「ゲルニカ」は大胆な構図とモノクロームの色彩で戦争の悲惨さを訴え、その後、グローバルな意味でも反戦・平和のシンボルとして最も重要な絵となった。 しかしフランコ将軍の独裁を嫌ったピカソは、この絵をニューヨークの近代美術館に預けた。そして1973年のピカソの死後、フランコの独裁政治が終わり、カルロス国王による立憲君主制の民主主義国家になった後の1981年、絵はようやくスペインへ返還された。 「ゲルニカ」はやはりスペインにあってこそ、大きな意味を持つ絵だろう。ピカソもきっと民主国家となったスペインに絵が戻ることを望んでいたに違いない。「ゲルニカ」はいま同センターで大切に展示されている。絵はガラス・ケースにはおさめられてはいないが、2m以内に近づくと警報が鳴る。同センターでは、ピカソ作品をたくさん所蔵するほか、ミロやダリをはじめとする現代美術を多数展示している。 さて、美術鑑賞の時間を終えた僕らは、地下鉄グランビア駅近くの「ロエベ(LOEWE)」本店(写真左)に少し立ち寄った後、そろそろ本日の晩飯の店へ向かう。予定しているのは「MIAU」という変わった名前(店で名前の由来を聞き忘れてしまいました。すみません)のピンチョス・バル&レストラン=写真右下。 「MIAU」はマドリッドの中心地にある地下鉄ソル駅から徒歩圏内にあり、地元でも人気のピンチョス・バルという。しかし、店の場所を事前に確認しておこうと、地図を片手に歩くも悪戦苦闘。マドリッドの旧市街は、道が迷路のようになっていて、非常にわかりにくい。昼間はいいけれど、夜になると通り名の表示も見にくくなるし、太陽が沈むので方向感覚も鈍ってしまう。 夜8時前、ようやく店にたどり着いたが、スペイン人にとっては宵の口で時間が早いせいか、店内は閑散としている(西洋人はほんとに晩飯の時間が遅い)。でもまぁ、腹も減ったし、翌朝はヘレス・デ・ラ・フロンテーラ行きのため早起きしないといけないし、我々は早速店内へ。 ピンチョスとは、言うまでもなく「フィンガーフード」(指でつまんで食べる料理)である。パンの上に様々な具材を載せたオープン・サンドで楽しむほか、串に複数の具材を刺した形でも味わう。元々はバスク地方発祥の料理だったが、値段も手ごろで、手軽にすぐに食べられるので人気を集め、今ではスペイン全土で普通に食べられるし、最近では日本でもピンチョス・バルも増えてきている。 パンに載せる具材はバラエティに富んでいて、魚介類、鶏肉、コロッケ、トルティージャ、オリーブなどさまざま。バルではあらかじめ、様々なピンチョスをつくってガラスケースの中に並べている店が多く、陳列ケースを見ているだけでも楽しい。 何よりも、スペイン語があまりできなくても、ケースの中を見て、食べたいピンチョスを指差し、「エスト ポル ファボール(これください)」「エソ ポル ファボール(それください)」と伝えるだけで済むので、助かる。 この夜僕らがいただいたのは、ビール2杯とカヴァ(スペインのスパークリング・ワイン)、ティント・デ・ベラーノ(赤ワインのソーダ割り)、ピンチョスがタラやアンチョビ、タコ、エビ、カニ、オリーブなど計7、8品=写真右&左上。どれも新鮮な素材を生かした上品な味付けで旨い。ほんとはもっと食べたかったけれど、昼間、トレドでパエジャをしっかり食べたのがたたって、あまり胃袋に余裕がない(笑)。 ちなみにお勘定は、串にささったピンチョスの場合は、串の数で計算するらしいが、今回はパン乗せタイプと混じっているので、いちいちきちんと伝票につけていた。で、これだけ食べて飲んでお勘定は2人で3000円ほど。スペインの飯代は安くつくことを改めて実感。スペインには「情熱の国」だけでなく、「食の天国」という称号もあげよう。 【追記】実は、親しい友人から、この夜8時からマドリッドではリーガ・エスパニューラ(スペイン・サッカー一部リーグ)のアトレティコ・デ・マドリードとスポルディング・ヒホンの試合が開催されていて、チケットも入手可能ということを聞いていた。しかし、翌日がヘレス行きのため朝6時起床。試合を観てから晩御飯を食べたのでは、ちょっと厳しいなぁということで、今回は泣く泣く断念。次回はぜひ本場のサッカーを観てみたい。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/06
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スペイン初日(20日)は首都マドリッド(ちなみに現地の人は「マドリー」と発音する)。ドーハから約7時間のフライトで、午後2時前にバラハス国際空港に着いた。入国審査も無事終えて、HISの現地出迎えの方と合流。天気は快晴、9月にしては暑いくらいに暖かい。 本題に入る前に、スペインという国の基本情報を簡単に紹介しておこう。面積は日本の約1.3倍の約50万平方km、人口は約4700万人。1970年代前半まではフランコ総統による独裁国家だったが、75年にカルロス国王による立憲君主制に移行した後は、議会制民主主義の政治体制に変わった(写真左=マドリッドの観光の中心地「プエルタ・デル・ソル」)。 スペインは単一民族の国と思われがちだが、実は地域ごとにいくつかの民族に分かれる(見た目はあまり区別はつかないが)。当然、言葉も標準スペイン語(カスティージャ語)のほか、バルセロナなどカタルーニャ地方のカタラン語や、バスク語、ガリシア語などさまざまな方言が存在する(共通する部分もあるが、かなり違う言語も)。 現代では、標準スペイン語が公用語になっているので、スペイン国内なら一応どこでも通じる(しかし地域意識が強いため、今でも、例えばバルセロナの人同士はスペイン語でなく、もっぱらカタラン語でしゃべっているとか)(写真右=トレド行きの切符を買ったチャマルティン駅構内)。 さて、バラハス空港からホテルまでは約30分弱と意外と近く、あっという間に到着。マドリッドでのホテルは、市内北部のターミナル「チャマルティン駅」ビルにある「ホテル・ウサ・チャマルティン」。チャマルティン駅は「RENFE(スペイン国鉄)」のターミナルで、フランスやポルトガルなどへの国際長距離列車の出発駅にもなっているが、見た感じはそう近代的な感じはしない(市内南部にはもう一つ「アトーチャ駅」という大きなターミナルがあり、国内各地への長距離列車のメインの始発駅)。 ホテルは一応「4つ星クラス」ということだが、マドリッドの主な観光スポットはどちらかと言えば、市内の南半分に集中している。フリー・プランでは基本的に立地も含めてホテルは選べないが、観光旅行と分かっているのにこんな立地の不便なホテルをあてがうHISの神経にあきれる。どうみてもビジネス客がメインのホテルだろう。いまさら文句を言っても後の祭りだが…HISを信用しすぎた(後で分かったことだが、他の旅行会社では、ホテルは選べないけれど立地のエリア指定はできるフリー・プランもあった)。 それはともかく、チェックインした僕らは、まず翌日のトレド行きの電車の切符を買うためにチャマルティン駅の窓口へ。トレドまでは直通の快速電車(全席指定)で約30分の距離だ。切符を買うにはまず日本の銀行のように、整理券を取って、その番号が窓口に表示されるのを待つ。さぁ、スペインで最初にスペイン語を使う機会だ。通じるかどうか内心少しドキドキ。 僕らの順番が来た。窓口のお姉さんは「オラ!(こんにちはー)」と明るい笑顔で応対してくれる。「オラ! ドス・ビジェテス パラ トレド パラ マニャーニャ、デ イーダ イ ブエールタ、ポル ファボール(明日のトレドまでの切符を2枚ください。往復で)」と覚えたフレーズを伝える僕。「シ、ムイ・ビエン(はい、了解)」とお姉さん。「通じたぞー」と喜ぶ僕(写真右=マドリッドの名所「サン・ミゲル市場」内にはバルも)。 トレド行き電車は1時間に1~2本の割でたくさん出ている。当然、「ア ケ オラ(何時のにします)?」と聞かれます。あすの午後12時20分マドリッド発で行って、16時18分トレド発で再びマドリッドまで戻りたい僕らだが、それをスペイン語で説明するのは大変なので、日本で事前に「RENFE」のホームページで時刻表をプリントアウトし、希望列車のところにマーカーで印しておいた。そして、それをお姉さんに見せて、「エスト トレン ポル ファボール(この列車でお願い)」。切符(写真左上)は無事、発行されました! ムーチャス グラシアス! トレドへの切符を手に入れた僕らは早速、マドリッドの観光スポットへ。チャマルティン駅からアトーチャ駅まではセルカニアスという国鉄の地下新線がつながっていて、アトーチャ駅までは約15分ほど行くことができる。しかし、観光スポットの多いのは地下鉄の「ソル(Sol)」という駅の周辺なので、“慣れる”ことも考えて初の地下鉄体験に向かった。 地下鉄のチャマルティン駅からソル駅までは約25分くらい。駅間はわりと短いが、到着まで駅が12もあるので、結構時間がかかる。ようやくソル駅に着いて地上に出ると、そこは「プエルタ・デル・ソル」(太陽の門)という名の広場となっており、マドリードっ子の待ち合わせの名所といい、東京で言えば、新宿が渋谷のような賑わい。平日なのにやたら人が多い。観光客っぽいのもたくさんいる。 とりあえず、この広場から歩き始め、あたりをふらふらと散策する。しばらく歩くと、もう一箇所、ガイドブックにもよく登場する「マヨール広場」に出た。この広場の周辺は、カフェやバルの密集地帯。10歩歩けばバルに当たるという感じ(マドリッド市内にはいったい何軒バルがあるんだろう?)。途中、近くにある観光名所「サン・ミゲル市場」に立ち寄る。 ヨーロッパの古い、歴史ある街はイタリアもそうだが、旧市街は石造りの建物がほとんどだ。そして四方が建物に囲まれた、大小さまざまな石畳の広場が町中のあちこちにあり、とても素敵な雰囲気を醸し出している。広場は人々の娯楽や集会や宗教行事に使われ、時には裁判や処刑の場にもなったが、そんな歴史が染み込んだ場所、空間にいると、一瞬タイムスリップしたような気分に浸れる。老朽化すればすぐ街を作り変えるどこかの国と大きな違いだ。 さて、時差を忘れて歩いていると、そろそろ腹が減ってきた。今夜の晩御飯は、もちろんバル。まずは前菜代わりに、サンタアナ広場近くにあるエビ料理が名物のバル「ラ・カーサ・デル・アブエロ」(La Casa del Abuelo)へ=写真左。ここで、名物のエビの鉄板焼(写真右)をアテにビールで喉を潤す。塩、胡椒だけでシンプルで焼いた、やや大ぶりのエビだが、頭から丸ごと食べられれる。身も甘くて美味しい。 1906年創業というこのバルの店内は、長い歴史の重みが感じられる落ち着いた内装。向かいにも同名の支店があるが、商売繁盛で店を増やしたのだろう。同じく名物のエビのアヒージョ(ニンニク・オイル煮)も味わいたかったが、もう一軒はしごを予定しているので、断念(まぁ、アヒージョは今では日本でも結構美味しいのが食べられるし…)。 アブエロを出た後、次はおそらくマドリッドで一番有名で、一番にぎわっているバルと言ってもいい「ムセオ・デル・ハモン」(Museo del Jammon)へ=写真左。有名店に旨い店なしとも言うが、大阪のバル・キンタのマスターからも「話のタネに行ってみるのも悪くないよ」と言われてたので、ここに決めた。 「生ハム博物館」という名を持つバルは、元々は肉屋さん。1Fは販売コーナーと立ち飲みのスペース=写真右。2Fがテーブル席になっている。少々歩き疲れた僕らは、2階席を希望する。「ドス コパ デ セルベッサ(ビールをグラスで2杯)、ポル ファボール」と頼み、再びビールで乾杯。 「ムセオ…」の名物は当然、生ハム。選びきれないほどかなりの種類がある。よく分からないのでメニューの写真を見て、盛り合わせっぽいのを頼む。そうそう、頼む際に大事なことは、スペインのタパスは1人前の量がとんでもなく多いので、「ラシオン」(1人前=日本の3~4人分はある!)ではなく、「メディア・ラシオン」(半人前)というサイズで頼むこと。 「メディア…」サイズ(写真左)でようやく日本の2~3人分という感じ。いったいスペイン人の胃袋はどうなっているんだ!(アンダルシア地方のバルでは、「タパ」=1~2人分=というさらに小さいサイズで頼めるが、ここはマドリッドだ)。 予想通り出てきた生ハムも、もう2品頼んだカラマーレス・フリートス(イカのリング揚げ)=写真右下=も、エンサラッド・ルサ(ポテト・サラダ)も、「メディア」サイズのはずなのに、桁外れのボリューム。もう1~2品食べたかったのに、当てが外れた(日本人はたくさん種類を食べたいのに、スペイン人も少分量で出すサービスを考えてほしいなぁ…)。 僕らが店に入ったのは、スペイン人の晩御飯にはまだ早い6時半頃だったが、8時頃になるとさすがに2Fにも客が増えてきた。ドイツ人らしき隣の年配の6人グループは料理が来る前に、ワインでテーブルにあるパン(たいして旨くない味だった)ばかりパクパク食べている。 「そんなに食べたら生ハムがおなかに入らないぞー」と言ってあげたくなるが、いやいや彼らも西洋人だからきっと胃袋の造りが違うのかもしれない。そのうち、25人くらいの日本人団体客も入ってきた。客層は1Fが地元客、2Fが観光客中心という感じか。 さて、そんなこんなで腹いっぱいになった僕らは、翌日のことを考えて早めにホテルへ引き上げることに。考えてみたら、日本を出てから(途中、機内で少し仮眠はとったけど)30時間以上も起きている。でも、不思議とそう眠くはない。旅先の新鮮な出会いが好奇心を刺激してくれるおかげだろう。夢のスペインで第一歩。あすはどんな出会いが待っているだろう。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/04
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Hola!(オラ!) 9月19日から27日まで、生まれて初めて「情熱の国」スペインへ旅してきました(もちろん連れ合いと一緒です。「治安が悪い」と聞いていたマドリッドや場バルセロナでも、幸いスリや強盗にも遭わず、無事帰国できました)。なぜ行き先がスペインなのかは、いくつか理由がありました。 (1)ヨーロッパでまだ行ったことがなくて、プラド美術館、アルハンブラ宮殿、サグラダ・ファミリア、世界遺産のトレドなど見たいところが多い (2)シェリー好きの僕としては、「スコッチ・モルトウイスキーにおけるアイラ島」と同様、アンダルシア地方のヘレス・デ・ラ・フロンテーラという聖地(シェリーの醸造所が最も多い)を訪れるのがずっと夢だった (3)何よりも食い物(タパス、ピンチョス等)が旨そう。現地でバル巡りをするのが楽しみ--等々(写真左=ドーハ空港の案内標識を見て、イスラムの国にいることを実感)。 今回の旅の主な日程は、以下のようなものでした。 9月19日深夜 関西空港発 カタール航空 ドーハ経由でマドリッドへ9月20日午後 マドリッド着(マドリッド泊)(写真右=ドーハ空港の免税店街。24時間営業ですが、意外とこじんまりしている。ドバイ空港の免税店はもっと充実しているとか)。9月21日午前中 マドリッド、 午後は電車でトレドへ 夕方再びマドリッド(〃)9月22日早朝 電車でマドリッド発 ヘレス・デ・ラ・フロンテーラへ(昼頃着)(ヘレス泊)9月23日午前中 ヘレス、 昼頃 へレス発 バスでセビージャ経由でグラナダへ(夕刻着)(グラナダ泊)9月24日 夜までグラナダ(アルハンブラ宮殿などへ) 夜9時半すぎ空路バルセロナへ(バルセロナ泊)9月25日 終日バルセロナに滞在(〃)9月26日 午前中 バルセロナ、 午後 空路ドーハ経由で帰途へ(日本着は27日午後4時頃) いつものように団体ツアーではなく、往復の航空便とホテル(朝食のみ)がセットになっただけの、完全なフリー・プランの旅を選びました(頼んだ旅行会社はHISでした)。 「フリー・プラン」だと、自分たち行きたいところへ行けて、食べたいところで食べれて、お仕着せの観光ツアーでは味わえない時間が過ごせます。ガイドがいない分、それなりにハプニングや苦労も多いけれど、それも含めてが旅の面白さだと思ってます(写真左=ドーハ空港のカフェ。少し納得できないけど、イスラムの国だからアルコール類は一切ありません)。 スペイン語はまったく勉強したことはありませんが、かつて独学で勉強したイタリア語と少し似ているのでとっつきやすい感じがします。事前に特訓すれば(クソ度胸だけはあるので)食事や買い物、移動、ホテル周りくらいなら、まぁ何とかなるだろうと一応、4カ月ほど前からほぼ毎日ウォークマン(ヒヤリング)と会話本でしっかり勉強いたしました。 その御蔭かどうかは分かりませんが、込み入った内容以外はまぁ何とかコミュニケーションはとれました。「たとえ片言でも現地語でコミュニケーションした方が、旅は10倍楽しくなる」というのが僕の信念です。現地の人と現地の言葉で触れ合える楽しさは何ものにも代えられません(写真右=ドーハ空港ターミナルビル内にあるモスク)。 前置きが長くなりましたが、関西空港発のカタール航空(QA)803便は出発予定時刻より10分早く(?!)、19日午後11時40分に離陸。経由地ドーハへのフライトは約9時間です。中東の航空会社を利用するのは初めてなので、機中の食事にアルコールは出るのか出ないのかと少し不安(笑)でしたが、ちゃんと出ました(料理は味はいまいちでしたが…)。 機中のアナウンスがアラビア語と英語(ドーハ~マドリッド間はさらにスペイン語が加わる)であるとか、機内の端末で見られる映画の字幕もアラビア語が付いているのが多いとか以外、サービスは他の航空会社とほぼ同じです。 唯一の不満は乗り継ぎのドーハ空港です。とてもきれいで近代的なターミナルですが、残念ながら空港内の飲食関係の場所がすべてアルコール類禁止(!)です。ターミナル内には、メッカに向かってお祈りができるモスクまで!設けられていて、結構たくさんのモスリムが集まっています(なかにはお祈りをした後、そのまま仮眠している人も)(写真左=空港内の書店には、あのオサマ・ビンラディンに関する本も)。 カフェにも、バービカンとか炭酸飲料、ジュース、コーヒー類くらいしか置いていません。フランクフルトとかアムステルダム経由なら、必ず空港内のカフェ・バーでビールくらい一杯飲めるのですが、ここはイスラムの国なのだということを改めて実感させられます。いくらドーハでも、せめて空港内くらい、イスラム圏(イスラム教徒)以外の人には飲酒を認めろよー(笑)と言いたいです。 さて、ドーハで約3時間ほどのウェイティングがあった後、同じカタール航空のマドリッド行きに乗り換え、いよいよエスパーニャへ出発です。マドリッドまでは約7時間の旅です。ドーハまでの間ですでに食事が2回出ているのに、マドリッドまでの間にあとまだ2回も食事が出るんだとか(多すぎるよ!)、ほとんど運動していないので腹が減りません。航空会社は余計なサービスが多すぎますね、ほんとに。いずれにしても次回は、ドーハ経由のヨーロッパ行きはご免こうむりたいです。 【スペインへの旅(2)マドリッド編へ続く】こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/02
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