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週末、実家に戻っているんですけど、姪っ子に頼まれて、今日は庭でバーべQをやることに。 毎年、夏休みに帰省した時に庭でバーべQをやるんですけど、真夏のバーべQって、熱いんですよね! ただでさえ暑いのに、燃え盛る火の傍で調理するもんだから、もう汗だく。 でも、バーべQってのは汗だくでやるもんだろ、という思いもあり、何の不満もなかったんですが、今回、この時期にやってみて、実に快適であることが判明。 まず、基本肌寒いので、バーべQコンロの傍にいることが心地よい! まあ、昔の日本風に言えば焚火に当たっているようなもんですから。 で、食欲の秋だから、何を食べても美味しい! そして、これ、結構大きなファクターなんですけど、蚊がいない! 夏のバーべQはある意味、蚊との闘いになっちゃうのでね。それがないだけでも快適、快適。 まあ、唯一の欠点は、生のトウモロコシが売ってないことかな・・・。コンロでしょうゆかなんかぶっかけながら焼くトウモロコシって旨いじゃないですか。それがないのはちょっと寂しい。ま、結局、レトルトのトウモロコシを焼いたので、そこそこ満足できましたが。 というわけで、秋のバーべQ、とっても良かったっす。教授のおすすめ、ってことで。
October 31, 2020
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今日、例によって昔話をしていた時に、たまたま話題が自転車のケンケン乗りの話になりまして。 ワタクシなんかの子供の頃は、自転車に乗る=ケンケン乗りで、片足をペダルに乗せ、逆の足で勢いよく大地を蹴って自転車をある程度のスピードに乗せ、そこから男だったら後側から、女だったら前側から足を回してうんこらしょとサドルに腰を掛けたものでございます。 それ以外の乗り方って、なかったことない? だけど、気が付くと今、そんな乗り方をしている子(人)っていないよね? アレ、なんでだろう? いつから日本人は、自転車のケンケン乗りをしなくなったのか。またそれにはどのような理由があるのか? っていうか、誰もそんな乗り方をしなくなった今こそ、華麗にケンケン乗りを決めたら、注目を集められたりしないかな。「何、今の?!」みたいな。「おじさん、今の乗り方教えて~!」とか。 やってみたい。
October 30, 2020
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昨日、卒論中間発表会が終わり、なんとなく一仕事終わったという感じだったので、今日のお昼、アニキこと先輩同僚のK教授とちょっとだけ足を伸ばして、常滑というところにある「古窯庵」という蕎麦屋に食べに行ってきました。 そのお店は、私の意見では、という意味ですが、「鴨せいろ」が絶品でね。 炭火で炙った大きな鴨肉が入っているのはもちろんのこと、鴨肉で作ったつくねも入っていて、その両方から出るコクのある肉汁が熱い蕎麦の出汁とあいまってまあ、旨いのよ。でまた、鴨によく合う長ネギも炭火で炙ってあるので、その香ばしさがまた実によろしい。 そして肝心の蕎麦自体も実に旨い。秋のこの時期、この店で鴨せいろを食うのが楽しみなんですわ。 で、せっかくここまで足を伸ばしたのだから、食後、ちらっと陶器の町、常滑を散策。山の斜面に曲がりくねった細い道が続き、そこかしこに小さな陶房があるこの町の風情は、何度訪れてもいいものでございます。 で、とある陶房で伺った話なんですけど、日本各地に陶器の名産地は数あれど、海沿い、しかも港の近くにある名産地というのは少ないそうで、ゆえに常滑焼は作るそばから船で日本各地に送られ、その結果、例えば江戸の町でも常滑の陶器が使われていたことが判明しているのだとか。朱泥の急須とかね。 あと、工業用の陶器(土管とか)と工芸の陶器を一緒に作っていた窯元というのも、常滑以外にはあまりないのだとか。 なるほどね。色々勉強になるね。 というわけで、暖かな秋の午後、鴨せいろと陶器の町を堪能してしまった今日のワタクシなのでありました、とさ。
October 29, 2020
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今日は科の学生たちによる卒論中間発表会の日。っつーことで、ワタクシのゼミの学生たちも頑張って発表しておりました。発表時間をきっちり守るように、制限時間の±5秒以内で納めろ、とか言っておいたんですけど、大半の学生がほんとに±5秒で発表していたので、感心、感心。 ま、それはさておき。 中間発表会では、普段、顔を合わすことの少ない別の科の同僚とも会ったりするのですけど、休憩時間中にちらっと話をしたら、面白いこと聞いちゃった。 なんか、その科では、同僚の先生方の仲がことごとく悪くて、つい先日もA先生とB先生の間であわやつかみ合いの大げんかになったんですと。 ひゃー。理性の府であるべき象牙の塔の中で何たること! でも、よそ事だから、ちょっと面白いっ! しかし、その科では昔からそんなことがしょっちゅうあるんですわ。 まあ、どこの大学にもそんな科があるんでしょうけど、それと比べたらうちの科なんて仲良しよ~。毎日、コーヒータイムでお茶飲んで雑談してるんだから。 隣の芝生は青いというけれど、うちに限っては、我が家の芝生が青くて、隣の家の庭は草木も生えぬ砂漠。 ま、そんなおうわさを耳にしつつ、うちの科は平和でよかったなあ~と。青い芝生を見ながら安堵のため息。
October 28, 2020
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夏休みから書いている論文がまだ書き終わらないという。今のところ・・・6割って感じかな・・・。 内容があまりにも広範囲にわたるため、まとめきれない。だけど、広範囲のことを語らないと、そのテーマ自体、意味がない。ま、そんな感じのドツボにはまっております。 しかも、論文を書きながら新たな資料を読むたびに、「これは論文に盛り込まなくちゃ」と思うような事実が出てきて、既に十分情報過多になっているものにさらなる情報が付け加わってしまうので、前に進むどころか、立ち止まったまま情報だけが着ぶくれていくという・・・。 どうすりゃいいのかね、これ。 今年度は2本、論文を書く予定だったんだけど、このまま今のペースでやっていくと、この論文を完成させるだけで今年度終わっちゃうなあ。 ・・・と考えて、どうしよう、どうしようと思っていたんですけど、こうなったらいっそ、二本目の論文を書き始めるか、とも思い始め--。 どうせ二本目の論文もどこかで行き詰るんだろうから、そうしたら今書いている論文に戻り、そこで詰まったら、新しい二本目の論文に取り掛かると。それを交互にやっていったらいいんじゃね? 今までそういうことはやったことがないのだけれど、ちょっとそういう方向も検討し始めた方がいいのかもね。
October 27, 2020
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やっぱ菅政権ってなんか変だよね・・・。先日の中曽根元首相の葬儀に関して、国立大に弔意を反強要したり。そしたら今度は、年末年始17連休って・・・。 しかも、強要の仕方が中途半端ってところが、余計、嫌な感じがする。強要するなら断固強要する、強要しないのなら、そもそも何も言わないと、はっきりすればいいのに。弔意を表せと言ってみたかと思うと、いや、弔旗を掲げるかどうかはそちら次第です、みたいなことを言い出したりして。でも、どうせ後から弔旗を掲げたかどうか調査して、掲げなかった大学には後から不利益を被らせたりするんでしょ。陰湿な踏み絵だよね・・・。 で、今度は年末年始17連休とか言い出して。17連休って、ちょっと、現実離れしてないか? これもまた、「従うかどうかはそちら次第です」なんでしょうけれども。 だけど・・・ ま、個人的には、17連休でもいいけどね! っていうか、この件に関してはむしろ国立大学及び国公立学校には是非強要してもらいたい。文科省令で17連休と定める、とかなんとか。 そもそも、17連休のアイディアって、初詣とかを分散させたいんでしょ? だったら、小学校とか中学校とか、そういうところも休みにしなけりゃ意味ないんじゃないの? 初詣ってのは家族でやるところが多いんだから。いくら会社を17連休にしたところで、小学校が4日くらいから始まるのでは、初詣は三が日になるに決まっているじゃん? だからさ。決めちまおう。17日間、国民の祝日に。 っていうか、アレだな。三が日に明治神宮や成田山や川崎大師や豊川稲荷や熱田神宮やその他あちこちで大クラスター発生で、国民総濃厚接触で、国民総14日間自宅謹慎っていうことになるのかもね。
October 26, 2020
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キノコの美味しい季節となりましたなあ・・・。 ところで、今読んでいる本にキノコのことが色々書いてあるんですけど、これを読むと、実はキノコってのは相当ヤバイ奴ららしいんですわ。 例えばある種のキノコは、アリに寄生するんですけど、アリの方でも長年の付き合いでこのキノコはヤバイと分かっているので、うっかりこのキノコの胞子をくっつけて帰巣したアリがいると、巣の入り口を守っている兵隊アリがとっつかまえて首チョンパし、その遺骸をできるだけ巣から離れたところに捨てるんですと。 で、それだけ用心しているにもかかわらず、まんまとアリの巣に入り込み、さらにアリの体内に入る胞子があるんですって。 するとその胞子がアリの体内で育ってアリの脳をコントロールし、出来るだけ巣の中の高いところまで行かせ、そこでアリの頭がポロっと落ち、そこから沢山の胞子がアリの巣の中に飛び散る。 そしてアリの巣は全滅と・・・。 おっそろしーーー! ハリガネ虫がカマキリの脳を乗っ取るという話はよく聞くけど、キノコもアリの脳を乗っ取るのか! しかし、実はそれどころじゃないらしいのよ、キノコの恐ろしさって。 森の中にキノコが生えているのはよく見かけますが、地上に出ている部分ってのは、キノコのほんの一部でありまして、キノコ本体は菌糸として地中にあるわけね。で、実はその本体ってのが、何平方キロ、みたいな単位で森の中に張り巡らされているんですと。だから地球上で最大の有機体ってのはクジラとかダイオウイカとかではなく、キノコなんですな。しかもその菌糸は森の樹木の根っこにもタッチしていて、連絡を取り合っているらしい。 だから、森の一部の環境が悪くなったりすると、樹木がその根っこからSOSを発し、それをキノコの菌糸がネットワーク上にあるすべての樹木に知らせると。すると、その危機に瀕した木から一番遠いところにある一群の樹木が活性化し、増え始めるんですと。つまり「あっちの方は住みづらくなってきたから、こっちの方に引っ越すか」的なことが起こると。それ、全部キノコのネットワークを介して決めているんですって。 つまり、地球上の土の中にはキノコのウェブがあると。「ワールド・ワイド・ウェブ」ではなく、「ウッド・ワイド・ウェブ」。 怖っ! いや、実はもっと怖い話があるよ。 幻覚キノコを人が食べると、脳がぶっ飛ぶんですけど、どうやらサルが人間に進化したのも、ある種のサルがこの幻覚キノコを食べたから、っていう説がある。実際、幻覚キノコを食べて脳がぶっ飛ぶのって、霊長類だけなんですって。馬や牛や犬が幻覚キノコを食っても何の変化も起こらない。 つまりキノコは霊長類だけを狙って、脳がぶっ飛ぶような物質を作って食わせたらしいんですな。そしてそのことによって脳が飛躍的に進化し、サルは人類へと進化した。その意味で、「キノコが、人類を作った」ともいえるんですと。これ、「stoned ape 仮説」っていうんですけどね。アリの脳をコントロールしたように、奴らは人間の脳もコントロールしたわけだ。 奴らは、地中に張り巡らした菌糸のネットワークを通じて、数百万年もの間、人類の進化をじっと見ていたってことですな。 怖っ!! 今日、我が家は夕食に鍋物を食べようと思っているんですけど、エノキタケとか、食べるのが怖くなってきたわ・・・。ひょっとして、ワタクシも奴らに洗脳されるんじゃね?! いや、既に洗脳されているんじゃね?! 「お前は今日、エノキタケを食べるのじゃ」とか、前もって仕組まれていたんじゃね??!!
October 25, 2020
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最近、読む本、買う本、すべて麻薬がらみなんですけど、大丈夫かな、わし? アマゾンとかの購入履歴があまりにもヤバイので、密かにマトリとかに通報されてないかなあ? 研究費でも麻薬系の本ばっかり買っとるし。 ま、それはそうと、ジョン・ウィックですよ。 昨年『ジョン・ウィック:パラベラム』を見ようと思っていたんだけど、ついうっかり見損なっちゃって、しまったと思っていたら、今月のWOWOWはジョン・ウィック祭りらしく、シリーズ全作を放送してくれるっていうね。 で、どうせなら既に観た分も復習しておこうと思って、昨日・今日と続けて『ジョン・ウィック』と『ジョン・ウィック:チャプター2』を観ちゃった。 『ジョン・ウィック』ってのは既に引退していた伝説の殺し屋、我らがキアヌ・リーヴスが、とあるチンピラ(実は東欧系マフィアのボスのドラ息子)に愛車を盗まれ、さらに飼い犬を殺された恨みで、そのマフィアの一団を皆殺しにするっちゅー話。で、続編にあたる『チャプター2』では、その流れで元の商売に引き戻されることになったジョンが、やむを得ぬ事情からイタリア系マフィアのトップの一人を殺さざるを得ない立場になり、それは実行するのだけれど、そのおかげで自分の首にも賞金がかかってしまい、大勢の殺し屋たちから命を狙われる羽目になって大騒ぎ、っていう話。 ま、結局、殺し殺されの戦闘ゲームを純粋に楽しむというのがこの映画の見どころなんでしょうけど、この映画のもう一つの見どころは、一般人には知りえない「殺し屋の世界」の一端に触れられる、ということ。 例えば、殺し屋の世界にはどうやら専用のホテルがあって、「この中で殺し合いをしてはいけない」と言うルールを守りさえすれば、とってもくつろげるところになっている、とかね。しかも、そのホテルでは、払うものさえ払えば、特注の防弾スーツをつくってもらえたり、最新の武器を貸してもらえたりするとか、そういう設定になっている。そういう「殺し屋の世界」あるあるがとても面白い。 もし自分が殺し屋だったら、こういうホテルに泊まって、コンシェルジェとかと馴染みになったりするんだろうな、みたいな空想を楽しめるわけよ、観客としては。 っていうか、男はみんなそうだと思うけど、一度、殺し屋になってみたいっていう願望があるんだろうね。しかも腕利きの。殺し屋仲間からも一目置かれるような。いや、むしろ伝説の。 で、殺し屋ホテルでも、いつも顔パスみたいな。コンシェルジェとかが愛想よくしてくれるような。「おかえりなさいませ、釈迦楽様」みたいに迎えてくれるような。 でまた、殺し屋仲間からだけでなく、警察からも一目置かれて、「釈迦楽さんが殺すなら、まあ、大目に見るか」的な扱いになるような。 で、そういう「殺し屋妄想」を推し進めていくと、一番いいのは「すでに引退した殺し屋」だよね。もう、手を血で汚すことはないけれど、伝説の人だから、あちこちの「筋」の人たちから密かに目で挨拶される的な。 そういう人に、わたしはなりたひ。的な。 そういう潜在的な男の願望を映像化したのが、結局、『ジョン・ウィック』シリーズなんだよな・・・。 ・・・あれ? わし、なんかまずいこと言ってる? 麻薬関係だけでも相当やばいのに、「殺し屋になりたひ」とか言っちゃってる? う、うそだよ! もちろん! ジョーク、ジョーク!!
October 24, 2020
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当初の予定では9月中に出版予定だった共著の語学本、11月中に出版されることとなりました。さっき、出版社の方からそんな連絡が来まして。 この本、一般書として売るだけでなく、大学の教科書としても使ってもらいたいので、後期からの利用を考えて、当初9月出版予定だったのですが、コロナの影響もあってそのタイミングがずれてしまった。 そこで、「だったら何も急ぐことはないので、来年3月くらいに出版して、4月の新学期を狙った方がいいんじゃないですか?」と尋ねたのですが、出版社の人曰く、「遅らせることに意味はない」とのこと。 最近は、語学本だからといって4月に出せば売れるということはなく、1年中、いつでもいいんですって。むしろ、4月に沢山の語学本が出る中で埋没するより、今ごろ出した方が目立っていいのだとか。 なるほどね。ま、プロの人が言うならばそうなのでしょう。 そうとなれば、出版が来月中と決まってひと安心。年内にちょっとした楽しみが生まれました。 私のようなアメリカ文学研究者が語学本を出すというのは割と珍しく、業界では「え? 釈迦楽さんが?」という反応を引き起こしているらしい。確かに、私は英語学習とかに最も興味のなさそうな人間ではありますからね。 その一方、最近『理想のリスニング』という本を出して話題の東大のアメリカ文学者・阿部公彦さんのような例もあり、そういう意味では、流行の先端を行っているのかも。そういや、昨年も『ヘミングウェイで学ぶ英文法』なんて本が出て、売れたらしいですし。 そのうち『フォークナーで学ぶ英作文』とか出たりして。悪夢だよ、悪夢。ピリオドなしで1頁続く英文とか書くことになったりして。 ま、とにかく、昨年に引き続き、今年も本を出すことが出来て、ちょっと嬉しい。できれば、売れてくれないかな!
October 23, 2020
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今、仕事上の都合でマイケル・ポーランという人の書いた『幻覚剤は役に立つのか』という本を読んでいるのですが、これがね、そのいささかまずい邦題にもかかわらず、めちゃくちゃ面白い本だったのよ。今書いている論文の参考資料として、まさに必要欠くべからざるものであって、そのため、論文の執筆の方を一時中断して、この本の読破を先行させているところ。これこれ! ↓幻覚剤は役に立つのか [ マイケル・ポーラン ] ま、この本の内容については、全部読み終わった後に紹介しようと思いますが、とにかく面白い本でございます。 ところで、私がこの本の存在を知った経緯というのが、ちょっと面白くてですね。 9月のとある休日、家内を連れて中津川までドライブし、当地の名物である栗きんとんを賞味した、という話は本ブログにも書きましたが、その帰り、恵那にある「庭文庫」という古民家古本屋に寄ったんですな。 で、その古本屋さんに、この本が置いてあったのよ。 ただ、この本はまだ出たばかりで、庭文庫さんでも古本としてではなく新刊本として扱っていたので、だったら研究費で買おうかと思い、その場では買わずに書名をメモするだけに留め、帰宅後に研究費で購入したわけ。 つまり、栗きんとんを食べに中津川にドライブしなかったら、私がこの本に出合うこともなかった・・・かもしれないってことですな。 で、思うのだけど、やっぱり研究者たるもの、研究室に籠るばっかりじゃダメっていうことかなと。あちこち遊びまわって、歩き回っているうちに、何か研究上のヒントになるようなものにぶち当たるかもしれないんだから。「犬も歩けば」って言うじゃない? あるいは「All work and no play makes Jack a dull boy.」か。 というわけで、遊びは大いによろしい、という願ってもない結論を、私は得てしまったのでした。
October 22, 2020
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各種報道によると、アメリカの大統領選、バイデン候補有利ということになっているようですけど、どうなんでしょうかね。 ま、日本で「トランプが勝つ」と言っているのは、木村太郎氏とワタクシの二人だけなんだろうな・・・。 なぜ私が「トランプが勝つ」と言っているかというと、バイデンさんに人柄的な魅力がなく、かつ将来的なヴィジョンがないから。 民主党候補が勝つ時は、条件が二つあって、一つは「候補者が若々しくて、かつ人懐こく、人間的に魅力があること」。二つ目の条件は、「なんだかよくわからないけど、将来に対する明るいヴィジョンを掲げていること」。 ケネディとか、カーターとか、クリントンとか、オバマとか、民主党候補者で大統領選に勝ったのは、みんなこの2条件を満たしております。オバマさんなんか「Yes, we can.」で勝ったようなものなんだから。can の後にどんな動詞が来るのかすら分からないのに。 ところがバイデンはどうよ。堅物すぎて人懐こい魅力がなく、トランプのコロナ対策を批判するばかりで、自分なりの将来に対するヴィジョンがない。そもそも77歳では、自分自身に将来があんまりないんだから。 一方、共和党の候補者は、共和党の政策自体が基本的に多くのアメリカ人の同意を得やすいものばかりなので、そんなに厳しい条件がなくても勝てるのね。西部劇の俳優でも、アホなブッシュ・ジュニアでも勝てる。 だから、共和党は誰出しても勝てるけど、民主党が勝つためには、よほど魅力的な人材を持ってこないといかんのよ。で、今回そういう候補を立てなかった民主党は、そもそも勝つ気がないとみた。 ということで、今回も木村太郎とワタクシだけが賭けに勝つんじゃないか? と思っているワタクシなのであります。ま、間違ったらメンゴですけどね。
October 21, 2020
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後期昭和を時代的ルーツとするワタクシ、同世代(よりちょっとお兄さん)の黒沢哲哉さんの書いた『ぼくらの60~70年代熱中記』という本を楽しみながら読みました。幼い頃の自分の写真を見ると、ほぼそのすべてで「シェ―!」というポーズをとっている世代の人間にとっては、限りなくノスタルジーを掻き立てられる本でございます。これこれ! ↓ぼくらの60〜70年代熱中記 [ 黒沢哲哉 ] 話題としては加山雄三の若大将シリーズ、『巨人の星』、『キイ・ハンター』、ピンキーと・キラーズといったあたりの話から始まって、ノストラダムスの大予言に震えた話とか、ユリ・ゲラーのスプーン曲げに仰天した話とか、世代の人間にとっては「そう、そう!」っていう話が満載なんですけど、その中で、洋画の話題がありまして。 淀川長治の『日曜洋画劇場』が1967年4月9日に始まった、という話もそうだけど、その後68年には東京12チャンネルで『木曜洋画劇場』(解説:芥川也寸志)が、69年にはTBSの『月曜ロードショー』(解説:荻昌弘)が始まり、ついで71年からはフジの『ゴールデン洋画劇場』(解説:前田武彦)、72年からは日テレ『水曜ロードショー』(解説:水野晴郎)が始まるといった具合で、まあ、1週間ほぼ毎日、どこかのテレビ局がゴールデン・タイムに洋画を放送していた、っていう。 うーむ。そう言われればそうでした。その時代に物心ついた私なんかの世代は、そうやって日本語吹き替えで気軽に見る洋画で育ったようなもんでした。思い起こせば、『小さな恋のメロディ』も、『タワーリング・インフェルノ』も、『ポセイドン・アドベンチャー』も、『太陽がいっぱい』も、『明日に向かって撃て!』も、そうやって『○○洋画劇場』で最初に見たのでした。 まあ、だから外国、とりわけアメリカに対する憧れっていうか、親近感っていうか、それが私らの世代にはあるんだよね~。 翻って最近はどうよ。毎日毎日つまらないバラエティ番組ばっかり。っていうか、それしかない。 だったら、むしろ昔の名画を放送してくれればいいのに! ・・・って思いません? テレビ局だって、あれこれ企画を考えなくていいし、出演者が後でスキャンダルを起こすとかそういうこともないし。いいことづくめじゃないの? ということで、テレビ局各局の『〇曜洋画劇場』『〇曜ロードショー』の復活を切に望みたい! おねしゃす!
October 20, 2020
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ウィリアム・バロウズの『ジャンキー』(原題:Junkie, 1953)という小説、学生の頃に一度読んだことがあるのですが、内容を大分忘れていたので、ちょいと再読してみました。 まあ・・・最初に読んだ時も、今回改めて読み直してみても思うことは一緒で・・・つまんないなと(爆!)。 なんだろう、こういう堕ちていく人間の姿を読んでいいと思える文学者って、それなりに居るのだろうと思いますけど、私は全然ダメなのね。救いようのない人間の話にまるで興味が持てない。私は人間ってのは、基本的に上昇志向(偉くなりたいという意味ではなく、出来る限り良い人間になりたいという願望)があるものだと思っているし、自分自身がそうなので、そういう人間に対してはリアリティを感じるんだけど、その逆のタイプの人間って、私にはまったくリアリティがないのね。分からないから。で、分からない人間の話を読んでもつまらないんだよね。 で、バロウズの『ジャンキー』は、バロウズ自身(作中では「ウィリアム・リー」となっていて、この作品自体もウィリアム・リー名義で発表された)の麻薬中毒時代のドキュメンタリーみたいな感じで、何一つ不自由のない裕福な中産階級に生まれて、大学とかも行ってみたけど、なんかつまらないし、周りにも面白い人間がいない。それで、興味本位で麻薬に手を出してみたら、どんどん深みにはまってジャンキー(薬中)になり、やがてクスリを手に入れるために自ら売人になってみたり、検挙された後は保釈中であるにも関わらずメキシコに逃亡してメキシコで同じような生活をしてみたり・・・っていうようなことがダラダラ、ダラダラ書いてある。 だから、なるほどクスリ漬けになるってのはこういうことか、というのはよく分かるのだけど、それはつまり愚行に継ぐ愚行を延々読まされるわけだから、辟易するばかりで何の面白みもない。クスリ漬けのどん底から立ち直っていい人間になりましたでもいいし、逆に麻薬の世界でのし上がってマフィアの大ボスになりました、でもいいんだけど、そういう上昇志向の要素が入る展開になるならともかく、ただただ麻薬をやっては治療をしようと試み、治療が成功した途端また麻薬漬けの生活に舞い戻るという、その単調な繰り返しだけだから飽き飽きしちゃう。ラジオ体操でも乾布摩擦でも水垢離でもスムージー飲むのでもいいから、さっさと健康になってクスリと縁を切れって話でしょ。それなのにいつまでもいつまでも懲りずに麻薬なんかやって馬鹿みたい。 じゃ、なんでその面白くないと分かっている小説を再読したかと言いますと、ちょっと確認したいところがあったから。 それはね、バロウズのような1950年代のビートニクと、その後に来るヒッピーと、同じように麻薬に惑溺するようになる連中の間に世代間の差はあるのかっていう、そこが知りたかったから。 で、その部分だけに注意して再読したんですけど、やっぱり多少はありますな。違いが。 一つは、使っている麻薬が違う。ビートニクは、〇リファナあたりから始まって、〇ルヒネに行くのが正道(何が正道だよ!)で、〇ルヒネが手に入らない時に〇デインに行ったりするけれども、基本は〇ルヒネ。〇カインは一瞬で終わってしまうので、あまり習慣性がなく、その分、面白味もないらしい。(ちなみに、〇ロインの話は、この作品の中にはあまり出てこない)。 で、こういう麻薬は、要するに、うっとりとさせる作用があるんですな。で、そのうっとりを求めて中毒になってしまう。 ところがヒッピーは、そういうのではなく、ペイヨーテのような「認識の変化を楽しむ系」の麻薬を嗜好する。実際、『ジャンキー』でも、そうした若いヒッピーたちの間の流行を聞きつけた主人公が、ペイヨーテを試す話も出てくるのですが、それによると、このサボテンから取れる麻薬を摂取すると、見るものすべて、それが人間であろうと銀行の建物であろうと、すべてがサボテンに見えてくるらしい。とはいえ、主人公はどうもペイヨーテが自分の嗜好・体質には合わないような感じを受けたらしく、〇ルヒネからそっちに乗り換えようというアクションは起こさない。もっとも、噂でペイヨーテよりもさらに精神感応力を高め、テレパシーを操れるようになると言われている「ヤーヘ」なるものの存在を知り、ひょっとしてそれが答えなんじゃないかと、メキシコからコロンビアを目指すところで、この小説は終わるんですけどね。 あとちょっと面白いのは、ペイヨーテやヤーヘを求めてメキシコにやってくる若いヒッピーの連中から、『ジャンキー』の主人公が「ヒッピー用語」を教えてもらうというクダリ。「〇リファナ」は最近では「ポット」って言うんだとか、「ダメになること」は「ツイステッド」、いいことはすべて「クール」で、良くないことは「アンクール」っていうんだ、なんてことを主人公は、ヒッピーの若者たちから聞かされる。そういう言葉遣いの違いも、ビートニクとヒッピーのジェネレーション・ギャップなわけですな。 ま、この小説を再読してみて、私に役立つ情報って、そんな感じかな。でも、こういう些末なことも、集めていってこそ意味があるからね。 ということで、私のような特別なケースは別にして、果たして今時の人があらためてこの麻薬小説を読んで何か得るところがあるかどうか分かりませんが、自堕落小説のお好きな方には面白いのかも知れません。そういうものとして、一つ。これこれ! ↓ジャンキー/ウィリアム・バロウズ/鮎川信夫【合計3000円以上で送料無料】 ところで、こんな小説を書くほど麻薬に惑溺したバロウズって、1914年生まれの1997年没だから、83歳まで長生きしているのね。対するにそれを訳した鮎川信夫は1920年生まれの1986年没と、こちらは68歳で亡くなっている。 ふうむ。さてはバロウズ、この小説書き終わってからスムージー飲んで乾布摩擦とラジオ体操でもやったのかな?
October 19, 2020
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シオドーラ・クローバーという人が書いた『イシ:北米最後の野生インディアン』(原題:Ishi in Two World, A Biography of the Last Wild Indian in North America, 1961)という本を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。 私が何でこの本を読んだかと申しますと、1960年代末のアメリカで一種のインディアン・ブームというか、「インディアンの生き方に学べ」的なブームがあって、それがカウンター・カルチャーの方向性の一つであった、というような文脈の中で、1961年に出版されたこの本(しかも、カウンター・カルチャーの震源地たるカリフォルニア大学の出版局から出ている)は、そうしたインディアン・ブームの発端なのではないか、というアイディアが私にあるからでございます。 で、読んでみたのですけど、これがね、いい本だったのよ、実に。アメリカでも出版直後はもとより、その後も長くロングセラーとなり、ペーパーバック化もされ、今でもカリフォルニアの高校とかではこの本が推薦図書になっていたりするのだとか。でも、確かにその価値はあるなと。 じゃあ、どういう本かと言いますと、『イシ:北米最後の野生インディアン』というタイトル通りの内容でありまして、1911年に、「イシ」と名付けられた北米史上最後の野生の(同じ人間に対して「野生の」と言うのは倫理的にどうなのかとは思いますが)インディアンが発見されたっていう話なんですな。 もちろん、1911年当時も今も、アメリカにはインディアン、すなわちネイティヴ・アメリカンは存在しています。しかし彼らはその時点で既に居留地に移動させられ、アメリカ政府の保護下にあるインディアンであって、本物の(=野生の)インディアンではなかった。そういうインディアンはもう絶滅したと思われていた。 ところが1911年に、20世紀の文明とは隔絶して生きてきた野生のインディアン「イシ」が発見されたんですな。だから、当時、全米が驚愕したのも無理はないでしょう。 まあ、感覚としては、横井庄一さんとか小野田寛郎さんとかが戦後何十年も経て見つかった時に日本中が驚いた、あれのもっとすごい奴だと思えばいいのではないでしょうか。横井さんとか小野田さんの場合は、まだ昭和を知っている人が昭和のうちに戻ってきた、というレベルですけど、イシの場合は、石器時代の人間が20世紀に見つかった、という話なんですから。 で、そのイシなんですけど、彼は北カリフォルニアの山岳インディアン「ヤナ族」の中でも南の方に住んでいた「ヤヒ族」の一員なんですな。例えばコマンチ族とかシャイアン族のような平原インディアンは、後からやってきた白人とすぐに領土争いになりますから、割と早いうちに絶滅させられてしまうのですが、ヤナ族のような山岳インディアンは、白人が入り込まないような山の中に住んでいたので、19世紀後半までなんとかひっそりと存在できた。 ところが19世紀後半になると、平地からさらに山の方まで進出してきた白人とぶつかることも多くなってきて、その都度、生活の場を追われ、さらに山の上の方へと追いやられていくんですな。でも、あまり上の方では動物もいないし、川で鮭を取ることもできず、仕方なく多少は白人の土地に侵入せざるを得なくなってくる。で、そこで白人に殺されたり、ヤナ族の方でも多少は報復に出たりして、武力衝突があり、結局、ヤナ族は絶滅させられるわけね。本書の前半は、悲惨なインディアン撲滅史になっていて、そこは慎重かつ冷静に言葉を選んで記述されているとはいえ、その内容はインディアン・サイドからしたら想像に絶する悲惨なものであって、吐き気を催すような種類のホロコースト事情が綴られております。ラテン・カトリック時代の対インディアン政策と、アングロサクソン時代のインディアン政策は大分異なっていて、やっぱりアングロサクソンってのは、異人種に対して過酷なんだよね・・・。 で、最後の生き残りとして、イシを含む5人のインディアンが残るのですが、それも一人、また一人と死んでいき、最後はイシ一人になってしまった。で、一人になった後もイシは自分の痕跡を完璧に消しながら、山の中で暮らしていたのですが、飢えに苦しみ、孤独に苦しみ、ついに1911年8月29日、死を覚悟して山を下り、白人の住む町のとある畜殺場で番犬に追われていたところを、保安官に逮捕されたと。 で、この保安官の判断が良かったのよ。彼は自分が捕まえたのが野生のインディアンであることを見て取って、すぐに郡の刑務所に入れ、上の指示を仰いだんです。刑務所に入れたのは、彼を保護するため。20世紀に入っていたとはいえ、インディアンなんて人間とも思われていなかったので、盗みを働こうとしたインディアンとしてその場で撃ち殺そうとする奴がいないとも限らなかったからなんですな。 で、とにかく「まだ野生のインディアンが生きていた」というニュースは全米を駆け巡ります。で、それを読んだカリフォルニア大学の人類学者、ウォーターマンとクローバーの両教授は、こんな学術的に貴重なチャンスは二度とないとばかり、急いでこのインディアンの保護を名乗り出ます。で、政府の許可をとって、サンフランシスコに彼を連れてきて、カリフォルニア大学の出来たばかりの博物館に彼を住まわせつつ、研究の対象にするんですな。 当時、インディアンの言語についての言語学的分析はある程度進んでいたのですが、ヤナ族(ヤヒ族)の言語は、まだ全然知られていなかった。ということで、ウォーターマンとクローバー、それに言語学者のエドワード・サピアが色々な手段を使ってこの野生インディアンと意思疎通しながら、白人側はヤナ族の言葉を、またインディアンの方は英語を学んでいき、両者ともに理解を深めていくことになると。 そこで、当然、何はともあれこのインディアンの名前を尋ねるわけですが、結局、最後の最後まで彼は自分の本当の名前を名乗らないのね。インディアンの世界では、名前を知られるということは、被支配者になることを意味するようで、絶対に名乗らない。だから、仕方なく、ヤナ語で「人間」を意味する「イシ」が、彼の当座の(結局は最後まで)彼の名前になるんですな。 だけど、イシにとって非常に幸運だったのは、ウォーターマンにせよ、クローバーにせよ、カリフォルニア大学の研究者たちは、イシのことを人間として、敬意を払いつつ接したんですな。だから、彼らとイシの間には友情が芽生え、イシもまた彼らを友人として認め、またイシが晩年を過ごすことになった博物館のことを自分の「家」として受け入れた。 で、博物館に勤める様々な人々、たとえば調理人とか清掃夫とかガードマンとか、もイシのことを一個の人間として、同僚として、当たり前のように接したんですな。博物館の隣にあるカリフォルニア大学医学部付属病院の医師であるポープ博士など、たまたまイシが弓を射るところを見て魅了され、イシから弓術の稽古をつけてもらうことで、友情を育んだ人まで出る始末。 そして、イシにも博物館内の仕事が与えられたので、彼は国から正規の給料を与えられ、自活していた。決して、貴重な動物として飼われていたわけではないんです。そこが良かった。自立しているということは、誇り高いインディアンとして、非常に重要な価値観ですから。 で、そういう風に石器時代から20世紀のアメリカにやって来たイシは、少しずつ新しい生活に馴染んでいくのですが、その中で人々はイシという人の人間的な魅力に惹かれていくわけ。知らない人に対しても微笑みを絶やさぬ彼の穏やかな性格、親切さ、優しさ、礼儀正しさ、忍耐強さ、清潔好きかつ整頓好きなところ。そして知的好奇心。勤勉さ。正義感。白人のそれとは異なると言えども、まっとうな宇宙観・宗教観・道徳観。そしてやはり白人のそれとは異なるけれども、同じように有効な医学的知識やその他生活全般の知識。人のモノを取るなどということはイシには全く考えもつかないことであり、かつ、人に自分のものを分け与えることには実に寛容であるという点。もうね、本当に素敵なジェントルマンなのよ、イシは。 で、そうやって彼に係わる人々すべての幸福を与えたイシなんですけれども、彼が文明社会に来てから5年ほど経った1916年3月25日に、彼は肺炎で亡くなるんです。まだ60歳くらいだったはずですが、インディアンには白人社会の病気に対する免疫がなかったんですな。イシが亡くなった直後、博物館の人々は、イシの穏やかな「Everybody Hoppy?」(みんな元気かい?)という片言の英語のあいさつが聴けなくなって、全員がもう悄然としてしまったといいます。 生前、イシは「Good bye」という英語が嫌いで、礼儀上、どうしても言わなければならない時しか言わず、言ったとしても心がこもっていなかったそうです。「別れる」という概念が、インディアンには受け入れがたかったのでしょう。その代わりに「あなたは居なさい、ぼくは行く」という言葉遣いを好んでしていたそうですが、病気が重くなっても何一つ不平を言わず、自分を看病してくれた人たちに感謝しながら、おそらくは「あなたは居なさい、ぼくは行く」という心づもりで亡くなったそうです。 イシの死後の話もなかなか感動的で、通常、身寄りのない人が亡くなると、その財産は州のものになってしまうのが決まりなんですけど、イシが生前にためた銀貨(イシは銀貨が好きで、いつも給料は銀貨で受け取っていた)のうち、半分はカリフォルニア大学の学術振興のために寄付されることになったのだそうです。 とまあ、これがイシの物語なのですが、1916年に亡くなった後、イシの伝記を書こうという試みが1950年代になるまでなされなかったのは、イシのことを最初から最後まで面倒を見たクローバー教授が、なかなかその気になれなかったからなんだそうです。イシのことを書くとなると、彼がなぜ一人ぼっちにならなければならなかったか、つまり、白人によるインディアン撲滅史を書かなければならず、そのことが、イシの親友であったクローバー教授にはどうしてもできなかったから。そこで、その試みは、クローバー教授の奥さんであるシオドーラ・クローバー女史が引き受けることになり、ようやく1961年に出版されることになったと。 で、私としては非常に驚いたのですが、この『イシ』を著したシオドーラ・クローバー女史、そしてその夫でイシの親友でもあったアルフレッド・ルイス・クローバー教授は、作家のアーシュラ・K・ル=グインのお父さん・お母さんなんですな。 だから、日本語版(岩波現代文庫版)にはル=グインの序文がついているんですけど、この序文がまたとんでもなく素晴らしいんですわ。これほど素晴らしい、これほど気品のある、これほど本書の価値を言い尽くした序文って読んだことがない、と思うほど素晴らしい序文なの。この序文を読むためだけでも、この本を買う価値はあるよ。まさに身震いするような見事な序文。 ということで、仕事がらみで読んだ本ではありますが、本当に読んでよかったと思える本でした。教授の熱烈おすすめ!です。これこれ! ↓【中古】 イシ 北米最後の野生インディアン / シオドーラ クローバー, 行方 昭夫 / 岩波書店 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
October 18, 2020
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私、勤め先の大学では大分、年長組となりまして。そりゃ、そうだよね、あとちょっとで勤続30年だもん。 しかし、自分的にはその30年ってのは、あっという間でありまして、この大学に赴任した当時の話というのは、つい一昨日くらいの感じがするわけ。 で、その一昨日を基準に今日のことを考えるから、当然、不満も出る。「俺がこの大学に赴任した当時は、こんなんじゃなかった」っていうね。「昔はよかった」という、例のおっさんの口癖であります。嫌われるよね~、そういうの。それ、分かっているんだけど、やっぱりつい口をついて出てしまう・・・。 で、若い人にそういうことを言うと嫌われるから、せめて同年代の同僚たちと「赴任した頃はあーだった、こーだった」という話で盛り上がっているんですけれども、最近ふと、こんなことを考えた。 私にとってつい一昨日のことに思える「30年前」って、私の恩師たちの世代にとってはどうだったんだろうと。 私が私の恩師に初めて会った時、恩師はちょうど今の私と同じくらいの年齢だった。では、その恩師にとっての30年前(つまり、気分的には一昨日)って、どうだったんだろうと。 戦争じゃん。太平洋戦争じゃん。(実際には三十数年前だけど、そこはおおまかに・・・) しかも恩師は広島のご出身で、母親を原爆で亡くしている。そして先生ご自身も兵隊にとられて、大陸で辛酸をなめ尽くされた。敵性言語を勉強する学生として、在学中から特高に目をつけられていたので、兵隊にとられてからは鉄拳制裁の日々でね。 つまり、私にとってつい一昨日のことのような30年前の話は、恩師にとっては戦争の辛い記憶だったのだと。私が30年前のことをつい一昨日のことだと思うのだとしたら、先生の世代の人々にとって、太平洋戦争ってつい一昨日のことだったんだなと。 そう考えると、先生の世代の人たちが戦争のことをよく口にされるのも、当たり前だよね。だって一昨日の記憶なんだもん。 時間軸って、自分の時間軸は一応分かるけど、他人の時間軸って分からない。だから太平洋戦争のことなんて、あまりにも昔のこと過ぎて興味が持てなかったんですけど、先生にとっては一昨日のことだったんだよなあ・・・。そうだとしたら、太平洋戦争のこと、先生からもっと聞いておけばよかったな。 それもそうなんだけど、そのことに限らず、一般論として「30年前一昨日説」っていうのを、これから念頭に置いた方がいいなと。人間の記憶ってそういう形をしているんだ、っていうことを踏まえないと、人間にとっての時間って、理解できないよね。
October 17, 2020
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福島原発の汚染水、海へ垂れ流しか・・・。科学的にはノー・プロブレムなのかもしれないけれど、風評被害は出るでしょうなあ。 風評被害とか、そういうことも含めて、垂れ流しが正解なのかどうか。学術会議だったら、どう答えるのかしら? ま、こういう時に政府は学術会議なんかに頼らず、「タスクフォース」とやらを使うんだよね。いわゆる専門者会議って奴。 じゃ、学術会議の存在意義って何? 話は変わりまして、私のところの大学、大学院改組があったのですが、これによって内容学、つまりアカデミックな研究をする科はすべて廃止となり、教職大学院一本になっちゃった。つまり、職人的な教師(および教育事務員)を養成すればいいので、なにも小・中・高の先生にアカデミックな研究なんか必要ないでしょと。ま、それが文科省の方針なんですな。 というわけで、教育学ではなく内容学をやっているワタクシなんぞ、うちの大学には必要ないよと。まあ、そういうことになったわけ。 昔はね、例えば東京教育大学なんてところには、アカデミックな意味で優れた英文学者、優れた英語学者が居て、東大と覇を競い合ったものですよ。教員養成大学であっても、アカデミックな研究の経験は必要だ、という考え方があった。 だけど、今の文科省の考え方から言うと、アカデミックな研究(もちろん、理系の、という意味ですが)は東大などの一部の大学に任せて、あとは軒並み教職専門学校みたいなことやってろと。そういうことなんですな。 ということで、今後、この世には、アカデミックな研究をした経験のある英語の先生ってはいなくなり、板書がうまいとか、教案書くのがうまいとか、そういう先生ばかりになるわけだ。英語の先生でも、シェイクスピアのシェの字も知らない人ばっかりっていう。 おい、それでいいのかっ!! この点について、学術会議は何と言っているんだ??!! 学術会議は、こういうことについて、政府に提言はしないのかっ??!! しないんだろうな。ノーベル賞獲るようなえらーい学者さんは、地方大学のことなんか、眼中ないんでしょうからね。そういう大学が強いられている状況のことなんか、知らないでしょ。それに、そういう地方の零細大学の先生は、立派な立派な学術会議のメンバーには選ばれないんだから。 じゃ、学術会議の存在意義って何?
October 16, 2020
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うちの大学はとりわけ夏休みが長くて、ようやく来週から後期が始まります。 で、文科省からの要請もあり、後期は対面授業も何割かは復活し、オンデマンドとの併用になるんですけど、さてさて、それでどうなるのか。 ヨーロッパ諸国では第二派が来て、フランスなんか一日に2万人以上も新規の患者が出ておりますが、日本ではどうなるのでしょうか。うちの大学でも、クラスターとか出たりするのかしら。 ちなみに、学生は対面授業の復活を望んでいる、というようなことが巷で言われているじゃない? だけどね、そういうのばっかりだとも限らないんですよね。これは声を大にして言っておきたいのだけど。 例えば「後期から対面にします」という先生がいるでしょ? そうすると、学生の中にはそれを不安視するのが結構いるのよ。で、「私は対面授業は受けたくないので、同じ題目の授業で、オンデマンドでやる先生の方に移っていいですか?」という問い合わせが、結構沢山ある。 これもまた、現場の声なのよ。こういうのはマスコミには乗らないけれども。 だから、ほとんどの授業をオンデマンドでやるワタクシの授業なんて、超人気よ。わっはっは。 ということで、後期が始まって、さてどうなるのか。大学でクラスターが発生したりしないのか。おっかなびっくり、様子見といきましょうかね。
October 16, 2020
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私がカラサキ・アユミさんの存在を知ったのはごく最近なんですけど、若い女性の「古本者」ということで、古本好きのワタクシとしては矢も楯もたまらず、現在のところ唯一の御著書と思しき『古本乙女の日々是口実』なる本を読んでしまいました。 で、この本、文章で綴られた部分もあるのですが、大半はカラサキさん自身が描かれた4コマ漫画集なんですな。で、その4コマ漫画も、ひたすら古本にまつわるものだけ。いわゆる「古本あるある」という奴で、古本好きの人間が、その悲しい業ゆえに出くわす様々な喜びと悲哀を、4コマの漫画に凝縮してあるという感じ。 例えば見知らぬ街で古本屋を見かけ、ちょっと覗いてみようと思っただけなのに、結果として大量の古本を買ってしまって、古本満杯のリュックと手提げ袋を提げてほうほうのていで帰宅した、とか。 あるいは、最初のうちは買った古本を分類して、ノートに記録をつけようとしたのだけれど、あまりにも古本が増殖するスピードが速すぎて、一日坊主に終わってしまった、とか。 あるいは、掘り出しものを見つけたと思ってルンルンで家に帰って書棚に飾ろうとしたら、既に同じ本が数冊あった、とか。 あるいは、古本屋を見たら入らざるを得ないという習性から、友達付き合いに障害を来たし、恋人・配偶者に呆れられる、とか。 そんな、周囲の人に呆れられ続ける人生だけど、同好の士に出会った時のちょっとした喜びとか、古本屋の店員さんのなにげない本への愛に気づいてほっこりする、とか。 まあ、そういう感じの、古本あるある満載でございます。同じ古本者としては「わかるわ~」っていうことばかり。・・・なんですが、それはつまり、逆に、多分、世間的には「わからないわ~」っていうことばかり書いてある本だ、ということもできるでしょう。 読む人を選ぶよね~。 っていうことで、他人はともかく、ワタクシ的には非常に楽しい本だったのでした。これこれ! ↓古本乙女の日々是口実 [ カラサキ・アユミ ] ところで、この本を読むと、このカラサキさんという方は、お若いのにも似ず、古本者としてはもうかなり上級者クラスに行ってしまったようで、日本各地の有名店への行脚はもちろんのこと、京都下鴨の古本市とか、古書会館でのプロの業者向けの市などにも参加しているらしい。それで、集書のジャンルも方向性があるようで、例えば「昭和のエロ本」を棚ごと買って、業界でちょっとした噂になったとか、既にそんな伝説を築き上げておられるらしい。 珍しいよね! そもそも何かを集めるというのは男性の本能であって、女性でこういう本能を持った人というのはすごく珍しい。例えば「古本屋さんを始めたい」とかいう形の女性は、まあ、ある程度は居ると思うのですが、本そのものを集めることにここまでのめり込む女性は珍しい。 だから、今のところはまだ「古本あるある」を本にしているだけだけど、近いうち、もっと本格的な、集めた本自体をネタにしたような古本本を書くようになるんじゃないかな。しかもカラサキさんの場合、自分で絵が描けるという強みもあるし。本を集め、本についての本を書き、かつ絵も描くとなると、それこそ私の古本道の師匠の岡崎武志さんみたいじゃん。オールラウンダーだ。古本界のジョコビッチ。 ちなみに、ワタクシ自身の古本への情熱って、ちょっと方向性が違うんだよなあ。学生・院生時代を通じ、ずっと神保町に通いつめた古本者の一人とはいえ、カラサキさんのような感じで本を大量に集めたことはない。集めたのではなく、探していたんですよ、特定の本だけを。だから、ワタクシには岡崎師匠やカラサキさんのような意味での古本本は書けない。それとは別なアプローチで、本についての本を書き続けてはいますが。 それはともかく、このカラサキ・アユミさんという人が、今後、古本本界期待のプリンセスに育っていくであろう気配はぷんぷんしますので、今後のご活躍に期待しましょう。
October 14, 2020
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エディ・ヴァン・ヘイレンが亡くなり、寂しいなと思っていたら、今度は天才・筒美京平さんの訃報が入ってきて、昭和がまた一つ遠のきました。 私が若い頃なんて、巷に流れるヒット曲の大半が筒美京平作曲でしたからね。出てくる歌手は一人一人違えども、その人たちの歌っている曲はすべて筒美京平先生が作曲しているんだから、結局、誰の歌を聴いているんだっていう話になってくるという。 しかし、昭和歌謡の代表的な作曲家の中でも、筒美京平さんはちょっと他の方とは違うところがあった。つまり表に出てこないってことですな。例えば三木たかしさんとか平尾昌晃さんとか、あるいは都倉俊一さんとか、すぐに顔が思い浮かぶ人もいるけれど、筒美京平さんだけは亡くなるまでどんな顔をされているのか、知りませんでしたから。 それだけ、筒美さんには「裏方に徹する」というダンディズムがあったんだろうなと。そこがね、青学出身の気概だったのかな。 で、そんな感慨にひたっていたら、今日は森川正太さんの訃報じゃないですか。 森川さん、私などの世代からいうと、青春ものテレビドラマの名脇役。特に『俺たちの旅』の「わかめ」役が印象的でした。 『俺たちの旅』といえば、中村雅俊演じる「カースケ」、津坂匡章さんの「グズ六」、田中健さんの「オメダ」、カースケの恋人役の「洋子」こと金沢碧、カースケの妹役の岡田奈々と、錚々たるメンツが揃っていたわけですけれども、その中で、冴えない浪人生役として森川正太さんが脇役で出ていた。しかもその劇中のあだなが「わかめ」ですからね・・・。「わかめ」っていうあだ名、衝撃的でした。 で、グズ六さんは早稲田卒の設定ですが、後の面々は「三流私学」の出身ということになっていて、要するにベビーブーマー世代でマンモス教育を受けて社会に出たけれども、なかなか社会の波に乗れず、うだうだ悩むという、まさにパッとしない若者たちの悩みを描いているわけ。で、その中で森川さん演じる浪人生「わかめ」は、パッとしない若者群像の中でもさらにパッとしない一隅の人なんですな。 で、森川正太さんは、そういうパッとしない中でもパッとしない若者を演じさせたら、もう、ぴか一の人だったんですわ。 大体そのお顔がね、中村雅俊とか田中健とか津坂匡章さんとかと比べて、断然庶民的。なんか、中学とか高校とかのことを思い出して、「こういう顔の奴、どのクラスにも一人いたよな」っていうような感じのお顔立ちなんですもん。だけど、そこが良かったのよ。ほんと、モテない男子の代表みたいな感じで。でも、そんなモテない系男子にだって、それなりの楽しみがあり、悲しみがあり、怒りがある。そういうのを森川さんは実に、切ないほどよく演じていらした。 ほんとに、いい脇役だったと思います。 最近、テレビでお見掛けしないなあと思っていたら、ここ最近はずっと舞台の方に力を入れていらしたようで。だとしたら、きっとそこでもいい芝居をしていらしたのでありましょう。67歳なんて、脇役としたらこれからますます味が出てくるところだったでしょうに・・・。ご本人も心残りだったと思います。 ということで、『俺たちの旅』をはじめ、青春ドラマで私を魅了してくれた森川正太さんのご冥福をお祈りしたいと思います。合掌。これこれ! ↓俺たちの旅 VOL.1 [DVD]
October 13, 2020
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今日も今日とて論文書き、だったのですが、夕食後、気分転換がしたくなり、随分前にWOWOWでやっていたのを録画しておいた『コンフィデンスマンJP(ロマンス編)』を、見てしまいました。 さすが、古沢良太の脚本、例によって非常に面白かったのですが、なにせこの作品には三浦春馬さんと竹内結子さんが重要な役どころで出てきますからねえ。画面の中で躍動するお二人が、今はもう居ないと思うと、なんだか妙な気がしてしまって、変なところで感慨がありましたねえ。 あ、それから例の東出昌大さんも出ますし・・・。でまた、東出さんのセリフの中に「人の愛を弄んではいけない」みたいなのがあるという・・・。気が散るわ~。 ま、でも、いい気分転換になりました。これこれ! ↓コンフィデンスマンJP ロマンス編/古沢良太/山本幸久【合計3000円以上で送料無料】
October 12, 2020
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9月中には書き上げちゃおうとか思っていた論文、まだ書いております。まあ、進まない、進まない。進まないこと蝸牛の歩みのごとし。 当初、先にフローチャート(=論文の設計図)を作って、それを元にちゃちゃっと書いちまおうと計画していたんですけど、あまりにも詰め込むべき情報が多すぎてフローチャートが作れず、見切り発車のまま無手勝流に書き始めたこの論文。あまりにも進まないので、何度か中断したりなんかしていたんですけど、このところまた執筆を再開しております。 で、やっぱり蝸牛ペースで書いているんですけど、なんかね、ちょっとこう、光明が見えてきたというか、どの情報をどこに組み入れればいいかが少しずつ分かってきて、少しずつ形になってきたところがある。ということで、昨日・今日あたりはかなり熱を入れて、ずーーーっとパソコンの前に陣取ったまま、苦しくても書き続けるということをやっております。 で、なんで最近、頑張っているかというと、一つには『プリンス録音術』という本の影響なんです。これこれ! ↓プリンス録音術 これね、2016年に亡くなった天才ミュージシャン・プリンスの仕事ぶりを綴った本なんですけど、これによると、プリンスという人は、まあ仕事熱心な人だったらしいんですな。24時間レコーディングして、4時間眠って、また24時間ぶっ通しでレコーディングするとか、そういう調子。周りの人がついていけないくらい。モノを食べると眠くなるからという理由で、ろくに食事もしなかったらしい。 そういうプリンスの仕事ぶりを読むにつけ、わしは一体何をしておるんじゃと。猛反省ですよ。 っつーわけで、今は亡き私のヒーロー、プリンスに刺激されて、私も一生懸命、夜に日を継いで論文書かなきゃと思った次第。 これで完成する論文が、プリンスの作品のように、完成度の高いものであれば、言うことないんですけどね!
October 11, 2020
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パウロ・コエーリョというブラジルの作家が書いた自己啓発小説『アルケミスト』(O ALquimista, 1988)を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。 主人公はスペイン・アンダルシア地方に住む羊飼いの少年サンチャゴ君。彼は神父になるべく勉強していたものの、子供の頃から「旅をしたい、広い世界を見て回りたい」という渇望があって、父親から「普通の庶民で、そんな旅から旅へなんてことができるのは羊飼いだけじゃ」とか言われて、「なら、それになったるわい」とか言って羊飼いになってしまったという経緯がある。 で、羊飼いの仕事にも大分慣れてきて、そろそろ町へ行って羊の毛でも売ったろうかなと思いつつ、とある朽ち果てた教会のイチジクの木の下で一夜を明かした時に、エジプトのピラミッドの近くで宝物を掘り当てる夢を2度見るんですな。で、これはどういうことかいなと思いながら町に入っていくと、そこで謎の老人メルキゼデックに出会う。その老人は自らを「セイラムの王様」と称して、サンチャゴに対し、夢のお告げはお前の使命を示す前兆だから、その前兆に従って行けと指示をするんですな。一つのことを達成しようと決意すれば、全宇宙はそれが実現するように動き出すのだから、決してあきらめるなと。で、メルキゼデックに説得されたサンチャゴは、羊を売った全財産を持ってスペインから船に乗ってエジプトのピラミッドを目指す旅に出る。 ところが、対岸のアフリカの町についてすぐ、サンチャゴは詐欺にひっかかって全財産を取られちゃうのね。で、いきなり絶望するんですが、待てよと。このエピソードを、詐欺に騙された馬鹿な犠牲者の物語ととるか、それとも冒険の途中の些末な出来事ととるか、それは自分次第なのではないかと。そこでサンチャゴは後者の立場を取り、このアフリカの町で何とかもう一旗ぶったてようと考え、たまたま出会ったクリスタル売りのおっさんの店に丁稚に入るわけ。 で、サンチャゴが気働きを見せて一生懸命働くもんだから、そのクリスタル屋は急に繁盛し始めるんですな。で、主人もサンチャゴに気前よく給料をはずんだので、1年も経たないうちに詐欺の損害を埋め合わせるほどのお金を貯めることができた。で、主人の方も長年の念願だったメッカ巡礼ができるほどの財産を作るのですが、これが主人の悩みの種となる。 つまり主人にとってメッカ巡礼は、長年の夢であると同時に、それが果たせないことに慣れすぎてしまって、むしろ「行きたいなあ」と思うこと自体が彼の夢になっちゃっていたわけですな。だから、もしそれを実際に実現してしまったら、その先どうなる? というのが不安で仕方がない。ここに、夢を追う人間(サンチャゴ)と、夢を追わない口実を求める人間(クリスタル屋の主人)の差が生まれると。 でもまあ、とにかくサンチャゴは夢を追う人ですから、世話になったクリスタル屋の主人を後に、エジプトへの旅を再開する。 ところがアンダルシアからアフリカへは船でほんの2時間の旅だったのに対し、エジプトまでの陸路は遠く、砂漠を通過しなくてはならない。そこでサンチャゴも大規模な隊商に混ぜてもらってラクダに乗って砂漠の旅に出ると。 ところが砂漠では、ところどころで部族同士の戦争があって、超危険なんですな。で、ようやくとある大規模なオアシスまで到着するものの、そこから先、動けなくなってしまう。 で、そのオアシスでサンチャゴはファティマという少女と運命的な出会いをしまして、結婚を約するのですが、砂漠の女ファティマはサンチャゴに対し、お前男だろ、とりあえず夢を果たしてこいや、そうでなきゃ自分と結婚してもいずれ後悔すんぞ、とか言うので、それもそうだと思ったサンチャゴは、エジプトへの旅を続ける決意をする。 で、そこへ現れたのが錬金術師(アルケミスト)ですわ。で、サンチャゴはこの錬金術師と共にエジプトを目指す。 で、この錬金術師からも前兆に従えとか、色々教えてもらって、最終的にエジプト・ピラミッドのところまで到着。で、夢で見た宝の在処にたどり着いてここぞというところを掘るのですが、全然宝物に当たらない。 そしたらそこへならず者が現れて、サンチャゴはボコボコにされた挙句、財産も全部奪われてしまうんですな。で、またかよ、と思っていると、ならず者の一人がこういうことを言う。「夢のお告げに従ってはるばるこんなとこまで来るお前はほんとに馬鹿だな。俺も2年ほど前、夢のお告げで、とある朽ち果てた教会のイチジクの木の根元に宝物が埋まっていると言われたが、そんなの信じて旅をするほど馬鹿じゃない」。 えーーーーー! マジーーーー! というわけで、サンチャゴは再び旅をして故郷のアンダルシアに戻り、例の教会のイチジクの木の下を掘って宝物を掘り当て、意気揚々と恋しいファティマのところに引き上げましたとさ。 ・・・というお話。 さて、この寓話みたいなものの中で繰り返し言われるのは、「地球上にあるすべてのものは常に形を変えている。なぜなら地球は生きているからだ。そして地球には魂があるからだ。私たちはその魂の一部なので、地球の魂が私たちのために働いていることを、ほとんど認識していない」(93)ということ。で、我々が何かをしたいと強烈に思う時は、「その望みは宇宙の魂から生まれた」(28)ものであって、それが「地球における使命」(28)なわけね。 ところが大抵の人はその使命を避けてしまう。だけど、その使命を果たそうと決意した者には、「宇宙全体が協力して、それを実現するために助けてくれる」(29)と。 だから、迷わずその使命を果たすべく前に進めば、前兆という形で宇宙が進むべき道を示してくれる。だからその前兆があったら、それを信じてそれに従えと。そうやって自分の運命を生きていさえすれば、知る必要のあるすべてのことを、人は知るようになる。もし夢の実現を阻むものがあるとすれば、それは「失敗するのではないか」という恐れである(168)。 ま、そういうことね。で、今上に挙げた一連の宇宙観が、自己啓発思想になっているわけですな。で、その自己啓発思想に忠実だったために、サンチャゴ君は宝物も、カワイイ奥さんも得ることが出来ました、的な。 ちなみに、自己啓発小説というのは色々あるんですけど、例えばオグ・マンディーノの『世界最強の商人』とかもそうなんだけど、時代設定を古めにして、プラス、砂漠がらみにし、さらにちょっと聖書臭を匂わせるっていうところがコツなんだよね。今回の『アルケミスト』にしても、サンチャゴ少年に最初に指示を与えるセイラムの王様ことメルキゼデックも、聖書の登場人物だしね。彼がサンチャゴに渡す「ウリムとトムミム」という二つの石とか、その辺もいかにもっていう。 で、そういう作りにしておくと、まあ、売れるんですな。『アルケミスト』も世界中で売れまくり、私が読んだ角川文庫版なんて、第78刷だよ! 世界は、自己啓発思想を求めているわけね。 というわけで、本作の著者パウロ・コエーリョこそ、自己啓発という宝の山を掘り当てたのでした。私も、自己啓発本の研究なんてしてないで、いっそ自己啓発小説でも書いた方がいいのかもね。偽名かなんか使って。翻訳です、とか言って。 これこれ! ↓アルケミスト 夢を旅した少年 (角川文庫) [ パウロ・コエーリョ ]
October 10, 2020
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今年度のノーベル文学賞がアメリカ人から出ました! アメリカ文学者としては快哉を叫びたい! おめでとう、ルイーズ・グリュック!! ・・・って、誰? あんた、誰? 一応アメリカ文学を研究する身ではありますが、散文以外のジャンル、つまり詩と演劇方面に疎い私。しかし、それにしてもルイーズ・グリュックなんて名前聞いたこともない。例えば学会のシンポジウムとかで取り上げられていれば、プログラムを見た段階で多少は名前を覚えたりするもんですが、そういう記憶もない。 で、CiNii というサイトでざっと調べたところ、この人に関する日本のアメリカ文学者の研究はほとんど皆無。わずかに一件あったけれど、感想文程度のものでしかなかった。 つまり、少なくとも日本のアメリカ文学会では、ノーマークだったってことじゃね? 聞くところによると、東京在住の著名なアメリカ文学研究者たちは、それぞれ新聞社に頼まれて身柄確保されていて、仮に文学賞が英語圏の作家だった場合にコメントを求められる態勢だったみたいですけど、その人たち、無事にコメントできたのかな? マーガレット・アトウッドあたりが受賞するものと見て、事前に勉強していたかもしれないけど、ルイーズ・グリュックって言われたって、「あー、この人の代表作はこれこれで、その詩風はですね・・・」などと詳しく答えられる人が居たとも思えないけど。 よかった、そういうコメントを求められるような立場じゃなくて。赤っ恥かくところだったわ。 さて、もう一つの話題は、例の「学術会議」ですよ。 なんか、あんまりうるさいこと言うもんだから、河野さんの行革の対象になっちゃった! 学術会議も、ついにハンコと同じ運命を辿るのか・・・。実際、ここ10年程、政府への勧告もしてないとか、諮問への答申もないとか、色々、実態が上がってきちゃってるから、行革の対象になっても仕方ないよね・・・。 あと、学術会議は野党と口を揃え、政府(菅さん)に「理由を示せ」と言っているけど、あれも可笑しな話だよね! だって、野党はともかく科学者ってのはさ、現象を見て法則を導き出すのが商売でしょ? だったら、示せもなにも、理由なんか最初から明らかじゃん? 「政府の方針に表立って反対するような人たちは排除する」、これが理由じゃないの。そういう意味では、もう既に政府は理由を明確に示しているわけよ。御用学者以外はいらないと。 ということはつまり、今、学術会議のメンバーになっている人たちってのは、政府から見れば、全員、御用学者だってことだよね! それが、現象から見た、唯一筋の通った解釈でありまして。 その意味で、政府に御用学者と認定された現・学術会議のメンバーは、抗議のために総辞職すべきじゃないかと思うのだけど、いかが? 辞めたら小遣い減っちゃうけど、学者は食わねど高楊枝なんじゃないの? ここで一発、気概を示さないと。 あと、学術会議のメンバー選びと、日本の研究者の研究の自由は、別問題だよね。もし政府が特定の研究者に対して「お前、その研究やめろ」と言ってきたら、それは私も政府に抗議する運動に参加するけれど、今回は別にそういう話ではないし。それに、「軍事研究やめろ」とか言って、特定の学問ジャンルを禁止したのは政府じゃなくて学術会議の方だからね。 さらについでに言うと、「研究者だから、我々には人並み外れた意見が言えるはずだ」という学術会議メンバーの自負、あれは一体どこから来るのか? それ言ったら、大学の「教授会」だって、すごく高尚な意見ばかりが出る場所のはずだけど、実際はとんでもない! (当然、自分も含め)世間知らずの連中が愚かなことばっかり口角泡を飛ばしている場所だよっ! 「学問やっているから、人間が高尚」なんてことはぜんっぜんないから! 学問もまた一つの商売であって、そういう商売をやっている小市民に過ぎない。否、小市民よりもさらに世間知らずだから、もっとレベルが低いよ。 昨日、このブログのネタにしたヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』にしたって、学問を究めたバラモン階級のシッダールタは、最終的に目に一文字もない川の渡し守によって悟りを開かれるわけでしょ。学問なんて、所詮、そういうもんよ。 だから、今回、行革の対象になって、この組織が税金を使った予算をつけるだけの価値があるかどうか、一から見直すのは、ちょうどいい機会なんじゃないかなと。それで、色々調べてみた結果、「やっぱり価値があった」と判断できる材料があれば、その時は存続させればいいだけの話であって、ね。 それが問われているだけの話じゃない?
October 9, 2020
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ヘッセの『荒野のおおかみ』を読んだついでに、『シッダールタ』も読んでみました。アメリカのヒッピー・ムーヴメントの中では、この2冊がダントツで人気があったもので。 私はてっきりこの小説に出てくるシッダールタというのは、お釈迦様のことなのかと思っていたんですが、違うのね。 でも、まあ、バラモン階級のいいとこのお坊ちゃんで、若き日には先行き偉い坊さんか何かになるかと、父母の期待を一身に背負い、マブダチにして彼を崇めるゴーヴィンダと共に学問に明け暮れていたと。 だけど、「沙門」と呼ばれる苦行修行僧の一行が通りかかったのを見て、アレだな、もう学問とかやっている感じじゃないなと思い、彼に希望を託していた父母を泣かせつつ、親友ゴーヴィンダを伴って苦行僧の弟子入りをしちゃう。で、断食したり、托鉢したり、色々修行する。 で、そのうち、ゴータマとかいうとんでもないスーパー覚者(要するに、これがお釈迦さんですな)が近くを通るという噂を聞きつけ、シッダールタとゴーヴィンダはゴータマの話を聞きに行くことにする。最初、沙門の親分は反対したんですが、シッダールタは彼に呪文をかけて、自分の意志を通してしまう。 で、実際にシッダールタはゴータマに会うんですけど、生意気盛りのシッダールタは、「ゴータマすごい」とは思うものの、期待したほどじゃないなと思って、自分は自分で何とかやろうと思うわけね。で、ゴーヴィンダをゴータマの元に残して、自分は沙門であることもやめちゃう。 で、とある渡し守に川を渡してもらって、世間に出てみた。そしたらカマーラという高級娼婦みたいなのに出会って、この人に色々教わろうって思うわけ。で、カマーラから、お金ないなら一昨日おいで、みたいなことを言われちゃうので、じゃ、お金でも稼ごうかっていうので、大商人カーマスワーミなる人物のところに行っていきなり右腕になる。で、お金持ちになったシッダールタはカマーラとめちゃくちゃ、イチャイチャしまくる。 ま、最初のうちは世間の勉強だ、みたいな感じだったんだけど、シッダールタも結局煩悩の人、金儲けやら賭け事やら色事に熱中しすぎて、退廃の生活を続けて幾星霜。 だけど、落ちるところまで落ちた挙句、さすがのシッダールタも、「あれ、これって、自分が望んでいたことじゃないんじゃね?」って思うようになって、寄る年波でいささか色香も落ちてきたカマーラと最後の逢瀬を楽しんだ後、豪商の身分を捨て去ると。 で、ふらふら歩いているうちに、昔渡った川に出る。そしたら、何年も前にこの川を渡してくれた渡し守がいる。で、自分はあれからすっかり変わってしまったのに、渡し守は年を取っただけで何一つ変わってない。そこでこの渡し守にこれまであった事々を全部、告白するわけ。で、色々あって、シッダールタはこの渡し守(ヴァズデーヴァ)の弟子となって、かれもまた渡し守となる。 で、ヴァズデーヴァは、学問こそないけれど、川を唯一の友とし、川の声を聴くことで賢人となっていたんですな。で、彼に弟子入りしたシッダールタも川から多くを学ぶと。で、時間なんてものは存在しなくて、過去も現在も未来も皆同時に存在しているんじゃ、とか。そういうことを学ぶわけね。 そのうち、かつてシッダールタも会ったことのあるゴータマが入滅することになるってんで、国中から僧侶やら信者やらがやってくる。渡し守も大忙しなんですが、そこに息子を連れたカマーラもやってくると。大分年を取ったけれど、シッダールタはすぐにカマーラを認めます。そして彼女が連れている息子(シッダールタ)が、自分の息子であることも。 だけど、感動の再会も、あっという間に終わってしまいます。というのは、カマーラが毒蛇に噛まれて死んでしまうから。で、シッダールタはカマーラの遺児を引き取ることにする。ま、自分の息子ですからね。 ところが、このチビ・シッダールタが我がまま放題に育てられたので、バカ息子としてシッダールタにやたらに苦労をかけるわけ。で、シッダールタはそれも全部我慢して、温顔を向け続けるのですが、苦しいことは苦しい。 そのうち、ついにチビ・シッダールタは脱走して町に帰ってしまいます。で、シッダールタはこれを追うのですが、結局、チビにはチビの人生があるのだと悟り、ヴァズデーヴァに促されて川に戻ることにする。 で、川に戻ったシッダールタは、自分も息子に苦労を掛けられたけど、よく考えたら、自分だって親の期待を裏切って家出したんだったよなあ、とか思うわけね。で悩みまくるんだけど、ヴァズデーヴァに「川の声を聞け」と言われ、聴いているうちに、運命に逆らうことは無駄だと悟るわけね。で、その悟りに到達したのを見て、ヴァズデーヴァは自分の役割は終わったと、シッダールタを残して後光に満ちて森へ入ってしまう。 で、老シッダールタが一人で渡し守をやっていると、そこへ年老いたかつての親友ゴーヴィンダがたまたま通りかかる。彼は昔のまんま、まだ真理を探し求めて修行を積んでいるんですな。 で、二人は再会を喜び、ゴーヴィンダはシッダールタに、彼が学んだ知識を授けてくれと頼むわけ。 で、お前、まだ知識とか言っちゃってんだ、俺なんかもうそういうのは通りこしちゃったよ。知識ではない知恵は身につけたけど、知恵は知識と違って、分け与えることができない。でも、とにかく、その知恵を一言で言えば、自分も、その辺の石ころもまったく同じものだってことを悟ったよと。 で、悟り切ってないゴーヴィンダは、シッダールタの言うことの全部が理解できたわけではないんだけど、ほとんど光輝くような存在となったシッダールタを見て、なんかありがてーなと思ったことでした。 おわり。 っていう話。 で、思ったんだけど、この話を現代風に焼き直すと、アレになるんじゃないかと。リチャード・バックの『カモメのジョナサン』に。つまり『シッダールタ』っていう小説は、インド版の『カモメのジョナサン』なのよ。いや、逆か。『カモメのジョナサン』が、カモメ版の『シッダールタ』なのか。 もっと簡単に言うと、悟りを求めるアウトサイダーの話。っていうことは、要するに『荒野のおおかみ』と同じだよね。だから、ヒッピーの人気が高いのだろうけれども。 でも、物語の分かりやすさという点では『荒野のおおかみ』よりこちらの方が、よほど上。それに、なんといっても仏教ネタ・東洋ネタだから、ヒッピー受けする要素満載よ。 ということで、ヘッセの何たるかは大体見抜いた。オッケーです。シッダールタ (新潮文庫) [ ヘルマン・ヘッセ ]
October 8, 2020
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先日、『荒野のおおかみ』という本を読み始めて、あまりにもつまらなかったので、ヘルマン・ヘッセ大先生のことをクソミソに貶しておきましたが、ゴメン、ヘッセ、最後まで読んだら、それほどつまらなくもなかったわ。 最初の100頁くらいまで、すごくつまらないんだけど、そこから俄然、面白くなる。というのは、そこでヘルミーネという女性登場人物が出てくるから。そりゃそうだよね、50歳の男がごにょごにょ言っているだけの話なんて面白いはずないのであって、そこで女が出てきてようやく小説っぽくなる。 で、思ったんだけど、やっぱり文学って、女なしでは成立しないなと。そこは超・納得してしまった。 さて、それで忘備録としてこの本のおおよその内容を記しておきたいのだけど、主人公はハリー・ハラーと名乗る男。これが部屋を借りるために、ある家主を訪れるところから話が始まるんですな。で、家主のおばさんの甥っ子がやはりこの家に間借りしていた。で、その甥っ子がこの本のいわば最初の語り手になると。で、この甥っ子の観察によると、ハリーは50がらみの初老の男(20世紀最初の四半世紀だと、50歳で初老と言われちゃうのね・・・じゃあ、ワタクシなんぞは立派な老人だ)で、足が悪く、杖を突いているので余計老人っぽく見える。学者ではないようだけれども非常に知的、古今東西の文学に通じ、クラシック音楽にも造詣が深い。ただその生活は規則正しいものではなく、むしろ破天荒、酒も相当に飲むらしい。しかし、なぜか妙に人を惹きつけるところがある。 で、ハリーはこの家に10か月弱滞在した後、ふいっと姿を消すんですな。その際、手記を残していった。その手記の扱いを、甥っ子に任せて。そこで甥っ子は、この印象的な男の残した手記を、公開する価値あると見て、公開に踏み切ったと。 で、そこからハリー自身の手記が始まるんですけど、それによると、ハリーってのは、なかなか生きにくい人生を歩んできたらしい。知的な男で、ゲーテとモーツァルトの信奉者。研究職に就いてもいいほどの教養を身につけるものの、その道は選べなかった。 というのも、ハリー自身に言わせると、彼は人間と狼のハーフ・ブリードだから。自分の内面に人間としての自分と、狼としての自分がいて、人間としてのハリーが前に出ると狼がそれをあざ笑い、狼としてのハリーが荒れ狂うと人間としてのハリーがそれを引き留めるといった調子で、両者の葛藤ゆえに前に進めないような状態だったから。で、こりゃいかんってんで、孤独を求めていたら、ホントに周囲の人間界から浮いちゃったと。で、以後、孤高の人としてさ迷っているわけ。 なにせインテリですから、世間の愚かな人間には我慢できないし、第1次世界大戦の教訓も活かせずに次の戦争に向かって猛進しているような社会状況にも批判的。そして愚かな大衆のこぎれいな小市民的生活を嘲笑しつつ、しかし、小市民的のきちんとした生活に対して一種のなつかしさも抱いているところがある。自分の出自がそこにあったからなんですな。彼がいつも小市民的清潔さを重んじ、そういう清潔さのある小市民の家にいつも間借りするのは、そういう理由だったと。 だからまあ、困った人なわけですよ。超俗にもなりきれない、俗にも混じれないというわけですから。ハリー自身も、自分を持て余しているんでしょう。それで、48歳くらいの時に、ハリーは一つの計画を立てる。それは50歳になったら自殺する、ということ。そして今、ハリーは50歳になり、いわば死地を求めてこの町にやってきて、今回の家を借りたと言ってもいい。しかし、そうはいってもやっぱり死ぬのは怖いので、ぐずぐずしていると。 でまあ、そんなすさんだ気持ちで町をさまよっていたところ、彼は「魔術劇場」なる看板を目にするんですな。そこには、「狂人専用」と書いてある。狂人専用? じゃ、俺のためのものじゃないか、ってんでハリーはものすごく気を惹かれるわけ。で、そうこうしているうちに、その魔術劇場のプラカードを持った男に遭遇する。 で、そのプラカードを持った男から、ハリーは小冊子を渡されるんですな。その小冊子には「荒野の狼についての論文 狂人だけのために」という表題がある。で、ここでハリーの手記はいったん終わり、ここからこの論文の内容が示されるんですな。 で、その論文には自らを荒野の狼と名乗るハリーという男がどういう人間であるか、事細かに分析したものが書いてある。面倒臭いのでいちいち紹介しませんが、要するにハリーというのはファウスト的な二元論を生きる人間であると。 で、自分のことについて詳細に書かれた論文を読んだハリーの手記が、この後に続きます。 自分自身を腑分けした解体新書みたいなものを読まされて茫然としているハリーに、さらにいくつかの追い打ちがかかります。一つは見ず知らずの人の葬儀を見かけたこと。葬儀の様子から、参列者が早くこんなことは済ませて家に帰りたがっている様子が手に取るように分かる。なるほど、自分が今死んだって、こんな感じなんだろう、いや、もっとひどい葬儀になるだろうな、なんてことを考えさせられてしまう。 でさらに悪いことに、ハリーはこのタイミングで昔の知り合いにばったり出会うわけ。その人とは昔、学術的なことで討論したことがあって、その人はハリーのその時の言葉にインスピレーションを得てさらに学問を深め、今は教授となっていた。で、偶然再会したものだから、その人はすっかり喜んでハリーを夕食に招く。 ところがこの夕べはさんざんなものになります。学術的なことに関心のあった当時と違い、今のハリーは「荒野のおおかみ」ですから、教授との知的な会話なんて興味ない。逆に右翼的な考えに凝り固まってしまった教授に対して批判的・嘲笑的なことを言ったりしてしまう。 極めつけだったのは、教授の居間に飾ってあったゲーテの肖像にケチをつけてしまったこと。その肖像がゲーテの本質をゆがめたようなものだったので、ハリーはたまらず批判したのですが、この肖像、実は教授の奥さんのお得意の品だったので、気まずいことになってしまったんですな。で、ハリーと教授は結局、けんか別れみたいなことになってしまう。 そんなことがあったもんだからいつも以上に自暴自棄になって街をさまよい歩き、ほうほうの体でしけこんだのがとある一軒の料理店。で、ここでハリーのその後の運命を変える出来事が起こるーーそう、ここでヘルミーネという謎の女に出会うわけ。 「ハリー・ハラー」という主人公の名前自体、作者の「ヘルマン・ヘッセ」を思い起こさせますが、そのハラーが出会う女ヘルミーネもまた、ヘルマンの女性名。しかもハリーにはかつて少年時代にヘルマンという親友が居たことになっており、ヘルミーネもちょっと両性具有的なところがあるので、いわばこの小説に出てくる奴は全員がヘルマン・ヘッセの分身と見ることもできる。 とにかくこのヘルミーネという若い女と出会ったことで、ハリーの人生は激変します。 ヘルミーネはいわばハリーの分身。ハリーと違って学問に詳しいわけではないけれども、別な形で知的であり、まるで最初からハリーに足りないものを知っているような感じ。もちろん、ハリーに足りないものってのは、小市民の生活ですな。 で、自暴自棄&何をすればいいか分からくなっているハリーのために、ヘルミーネはまるで母親のごとく、命令口調でハリーに対してあれをやれ、これをやれと指示する。しかもヘルミーネがハリーにさせることというのは、およそハリーだったらしないようなこと、例えば酒場で若い女とダンスするとか、ジャズ音楽に興じるとか、麻薬をやるとか、そういうことばかり。しかし、魔性の女ヘルミーネの術中にはまったハリーは、自我を棚に上げて、もうヘルミーネに言われる通りのことを、嫌々ながらも全部やってのける。 で、ヘルミーネは、ハリーにさらに若い女マリアをあてがって、このマリアが、性的手練手管を尽くしてハリーに回春させちゃう。ハリーにはエリカという、年に数回会う程度の恋人がいるにはいたんですが、もうエリカなんかどこかに消えちゃうほど、ハリーはマリアとの逢瀬に惑溺していきます。 だけど、もちろんハリーが本当に憧れているのはヘルミーナその人なんですけど、ヘルミーナはそう簡単にハリーにすべてを与えたりはしない。準備が必要ということで、 で、そうやってハリーを訓練していって、一通りダンスもできるくらいにした挙句、ついにクライマックスとして大仮装舞踏会が開催される。どうやらヘルミーナはこの仮装舞踏会を、ハリーの卒業式的なものにしようとしていたらしいんですな。で、ハリーもついにここに参加する。 すると、これが地獄の一丁目。実はこの仮装舞踏会こそが、魔術劇場の入り口だったと。で、この魔術劇場は何段階もの階層制になっているらしく、ブルース・リーの『死亡遊戯』のごとく、ハリーは一段一段、地獄めぐりをしていくわけ。 例えば「どの女の子もお前のもの」と書かれた部屋では、ハリーがこれまでの生涯で少しでも恋心を抱いた女の子たちが全員揃っていて、その全員とハリーはおいたしちゃったりする。 かと思うと、「さかんな自動車狩り」という部屋では、ハリーは殺人鬼と化し、自動車に向かってバンバン発砲して人を殺しまくる。 そのうち、ハリーが愛してやまなかったモーツァルトその人も登場して、ハリーと激論! で、そうこうしているうちに、ハリーはヘルミーネが恋人の楽師パブロと裸で抱き合っているところに遭遇、思わず嫉妬に駆られてヘルミーネをナイフで刺殺してしまう。 そしてハリーが最後に出くわしたのが「ハリーの死刑執行」というお部屋。そこでハリーは今までの人生すべてを理解するんですな。要するに、人生は将棋みたいなもので、自分はずいぶんと下手な指し方をしていた。次はもっとうまく指すぞと。そうハリーが決意したところで、この地獄めぐりも、またこの小説も幕を閉じます。 ・・・何コレ? っていうお話。 後半のドタバタはもう、20世紀前半に書かれたとは思えぬほどの幻想的スラップスティックで、ちょっとこう、コーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』のような感じ。あるいは、アレか、キューブリックの『時計じかけのオレンジ』みたいな感じ。 結局・・・ハリーは、自殺者たることをやめて、生きることを決意したってことでしょうな? ヘルミーネに引きずられての地獄めぐりの中で、自分の中の「人間対狼」みたいな青臭い二元論はどこかへ消えちゃって、それどころかの多元論に直面し、だったらその多元世界を将棋の駒に見立てて、面白くあそんでやろうじゃないのっていうところまで成長・・・というか、逆に自己解体したと。 なんかの解説で読んだけれど、『シッダールタ』を読んでヘッセ・ファンになった人から『荒野のおおかみ』を読んでガッカリした、と言われたのに対し、ヘッセは「自分も昔は成長譚を書いていたけど、人間、50を過ぎると成長じゃなくて自己解体するもんだ」と言ったとか。それを踏まえて、この小説を自己解体の物語と読めば、なるほどねと思わぬところもなくはない。 あと、どうしてこの小説が1960年代のアメリカのヒッピーたちに受けたかという話ですけど、まあ、多分、パブロが使用する麻薬が、ハリーが自己解体を始める契機となること、それから小説後半の幻想的な部分が、麻薬でラリっている時の光景に似ているというあたりから、これが麻薬小説だと思われたんじゃないかなと。ティモシー・リアリーがこの小説を評して「LSD小説」と述べたことも、おそらく、大いに影響したことでありましょう。ジャズも、クラシックに代わる音楽として登場するし。 麻薬やジャズの力で意識拡張し、成長するのではなく(成長は、既存のレールの上でなされるものだろうから)自己解体して古い自己に別れを告げ、新しい自分になるというあたりが、この小説がヒッピーに受けたところなんでしょうな。 ところで、この小説について、学者はどんなことを言っているのかと、ネット上で探せる限りの文献を探ってみたのですが、これがまた誰もかれも大したことを言ってなくて、この小説についてのドイツ文学者の定見もないみたいね。ヒッピーに受けたのは心外だ、みたいなことを書いている人もいましたが、だからと言ってその人がこの小説をそれ以上に上手に解釈しているとも思えなかったし。 つまり、変な小説なのよ。ヘッセの中でも結構異色作らしく、これが出た時には大分評価が分かれたようで。ま、そうだろうねえ。 でも、全体として見て、最初に思ったほどはつまらなくなかったです。割とモダンだね。かといって、私がこの作品が好きかと言われたら、好きではないな。 ま、そんな感じ。これこれ! ↓荒野のおおかみ改版 (新潮文庫) [ ヘルマン・ヘッセ ]
October 7, 2020
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私はCMが割と好きで、どんな商品のCMでも割と楽しんで見る方なんですが、そのせいか時折、CMのナレーションが気になって仕方がなくなる時がありまして。 最近、気になるのは、「メモリアルそうび」という葬儀会社のCMなんですけどね。これこれ! ↓メモリアルそうびCM このCMの最後に「送る人の心を送られる人のやすらぎとして伝えたい」というナレーションが入るのですが・・・これって・・・どういう意味? 「送る人の心」は遺族の気持ちだよね? 一方、「送られる人のやすらぎ」というのは仏さんの安らぎだよね? それはいいと。で、遺族の(追悼の)気持ちを、仏さんの安らぎとして伝える・・・誰に? 遺族の気持ちを仏さんに伝えるのではないんだよね? ん? じゃ誰に伝えるの? 遺族以外の参列者? ん? え? よくわからん。 メモリアルそうびに直で電話して尋ねてみようかなあ・・・。 あともう一つ分からないのは、ティファールのCMね。これこれ! ↓ティファールCM この中で冒頭「ソフィーと双子の姉妹」と言うんだよね。おそらく、CMに出てくる年配の女性がソフィーで、その手伝いをしている中学生くらいの姉妹が双子なんでしょう。 だとすると、日本語的にどうなんだっていう。 「ソフィーと双子の姉妹」と言ったら、「ソフィーという女性と、ソフィーの双子の姉妹」という意味にならないか? つまり登場人物はソフィーとその双子の姉(あるいは妹)の二人になると思うのですが。 一方、「ソフィーの双子の姉妹」と言ったら、登場人物はソフィーの姉妹だけだから、一人ということになる。 でもCMでは3人登場するのだから、この状況を示す日本語は、「ソフィーと双子の娘」だと思うんだよね。だったらなんでそう言わないんだろう? あるいは、ソフィーと双子の姉妹に親子関係がないのか? それだったら、「ソフィーと双子の姉妹」でいいわけか。 そういうことが気になるのよ、私は。どうでもいいことだけど。 ま、ゴキブリ理論から言うと、私がそう思うということは、同じように思う人間が1000人くらいは居ると思うので、各企業の皆さん、CM作る時は日本語に気を付けてね!
October 6, 2020
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ここ数日、卒論の添削を根を詰めてやっていたんですけど、急に限界がきて、今日はすっかり疲れてしまい、ちょっとその仕事を離れることにしました。 で、そう言えばこのところ、全然本を読んでなかったなと思い、探偵小説の短編をいくつか読んでみたり、それだけだとアレなので、仕事がらみの本もチラッと読んで見たり。 で、その仕事がらみの本ってのが、ヘルマン・ヘッセなんですけどね。 ヘルマン・ヘッセ。なんか懐かしいな。昔昔、ヘッセの『車輪の下』を読まされたのは、中学の時だったか、それとも高校の時だったか。 全然覚えてないけど、釣りの好きな子供が有名な学校を受験する話じゃなかったっけ。で、入ったはいいけど、ガリ勉君だっただけで、本当の才能はなかったからエリートばっかりの学校で埋もれていって、不良に手籠めにされてますます成績下がって、結局学校退学して、期待外れな人生を送りました。それで最終的にはホントに車輪の下敷きになって死にました、的な話だったような。 で、無理やり読まされた時も、なんか貧乏くさい話だなと思って。貧乏くさい話って嫌いなんだよね! もっとさあ、こう、ガッツを持ってしぶとく生きるような野郎の話の方がよっぽど好きよ。たとえばモンテ・クリスト伯爵みたいな。 でまた、ヘルマン・ヘッセの顔がさ、いかにも真面目腐ったドイツ顔してて。こういう顔の奴がこういう貧相な話を書きやがるのかと。 だけど、ヘッセって、好きな人は好きだよね! 何がいいんだろうね。昔は日本でも人気だったしね。よく知らないけど、ヘッセが好きだったのは白樺派の連中だっけ? ま、とにかく、そんなヘッセの『荒野のおおかみ』って本を読み始めたところなんだけど、これがまた、途方もなくつまらないんだ・・・。読んでいて、あまりのつまらなさに気絶しそうになる。仕事とはいえ、これを読み切るというのは相当な試練だな。強いて勉めるから勉強なんだけれども。 まあ、しかし、このクソつまらない本が、ヒッピーには受けたんだよねえ・・・。まあ、主人公のハリー・ハラー(バカみたいなネーミング!)が高等遊民であるところが、ヒッピー的だったのかな。そういや白樺派も高等遊民っぽいし。ヘッセは高等遊民文学なのか? とにかく、なんでこの本がヒッピーに受けたのか、そのことを考えながら、なんとか頑張って読み切ることにしましょうかね。
October 6, 2020
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このところ毎日何時間も、卒論の添削に明け暮れております。 で、今日はアメリカにおけるろう教育の変遷を主題とした卒論の添削をしていたのですけれども、その中で、アレクサンダー・グラハム・ベルの名前が出てくる。 ベルといえば、電話の実用化を成し遂げた発明家として有名ですけど、この人、ろう教育にかなり深くかかわっていたんですな。 なにせベル一族というのは祖父の時代から「雄弁術」を専門にした一族なのよ。雄弁術というのは、要するに音声を使った発話で人々に考えを伝える技術でしょ。この技術を使って、ろう者でも健聴者と同じような発話ができるのではないかと考えたんでしょうな。 ちなみに、かのヘレン・ケラーに家庭教師としてサリヴァン先生を紹介したのは、誰あろうアレクサンダー・グラハム・ベルだからね。すごくない? で、まあ、そういう面白い事実があれこれ書いてあって、添削しながらこちらとしても耳学問をさせてもらっているのですが、もう一つ面白かったのは、ろう教育に携わった人たちの結婚問題。 例えば先のベルもそうだし、アメリカに初めて公立のろう学校を作ったトーマス・ギャローデットもそうなんだけど、結局、ろう者の教育に深く携わった人たちってのは、大概、ろう者の女性と結婚するのよ。 つまり、魅力があると。そこに音声を超えた深いコミュニケーションがあると。 なんかそれ、分かるんだよなー。『愛していると言ってくれ』は、男女逆パターンだけど、やっぱり、そういうのがあるもんね。 とまあ、そんなことにも感心しながら、添削しまくっているワタクシなのであります。
October 5, 2020
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例の学術会議の件、私も一応は学会なんてところに所属しているもので、何となくそっち系の人たちの憤慨が耳に入ってくるわけですよ。曰く、学問の世界に対する政治の介入であり極悪非道の所業であると。 で、ノンポリの私も、何となーく、そうだよね、菅さんも露骨なことをするよね、と思うともなく思っていたわけですわ。 で、世間一般もそう思っているのだろうなあと思いながら、ちらっとこの件についてのネット上のコメントを見てビックリ。世間一般は、学会系の人たちとは真逆のご意見が圧倒的だったのでした。 曰く、そもそも学術会議って、何をやっているところなのか。これまでにどんな業績を挙げたというのか。税金を使って運営されている以上、その報告が先ではないのか。委員の推薦を断られ、その説明もないと憤慨しているが、ならば学術会議はどのような経緯でその人たちを推薦したのかを国民に説明しているのか。学術会議は日本人研究者が軍事的な研究を遂行するのを禁じているのに、中国の軍事研究に加担しているのはなぜなのか。海外からの研究者招聘に何千万も支出しているようだが、それは適当と言えるのか。そもそも「推薦」しているだけなのだから、それが断られることがあっても構わないのではないか。6年以上会議のメンバーになると終身年金が貰えると言うが、それは本当なのか。その年金欲しさに分野内部で適当に任命し合っているのではないのか。そんないい加減な組織の実情を今回明らかにした菅総理は、とても素晴らしいことをしたのではないか。エトセトラ、エトセトラ。 なるほど。こうしてこれらの批判を読むと、これはこれで納得。今回のような件がなければ、世間一般の人間にはその存在すら知られていないこの組織の内情が、上に述べた批判の通りであるのならば、一回、表に出して、洗い出してみるべきかもしれないよね。世間の人たちの「学術会議なんて必要ない」という批判に、正々堂々、成果をもって反論できるのかどうか。 まあ、実情が分からないのだから、学会の人たちが言っていることが正しいのか、それとも世間の批判が正しいのか、私には何とも言えません。でもまあ、確かに世間の人が言っていることにも一理あるので、学術会議は予算とか、組織の在り様とか、年金とか、推薦の仕組みとか、達成した成果とか、その辺を一応、世間の目に晒した方がいいんじゃない? その上でなお菅総理の所業に問題ありならば、改めてそこから任命拒否の理由を追求するなりすればいいのであって、ね。
October 3, 2020
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ホンダが2021年を最後にF1へのエンジン供給から撤退するというショッキングな報道がありました。 まあ・・・ね。レッドブルと組んでF1で何回か勝っても、もはやセナや中島悟が居た1980年代のような盛り上がりはないし、商売上、旨味がないんでしょうな。 だけど、トヨタもそうだけど、旨味があるなら参加しましょう、旨味が無くなったら撤退しましょうでは、少なくともモータースポーツ界で信頼を得ることなんかできないよね。本田宗一郎が生きていたら、我が社も堕落したと嘆くだろうに。本田宗一郎は、「我が社はレースで絶対勝つ。なぜなら勝つまで辞めないからだ」と言ったそうですが、今回、ホンダは創業者の遺志を無視して、F1でチャンピオンに返り咲くことなく、尻尾をまいたわけですな。情けない。 やっぱりフェラーリみたいな会社とは違うね。ホンダとかトヨタは「ビジネスにならないならF1から撤退する」っていうのがみえみえで、F1参加は単なる副業の一部なんだけど、フェラーリの場合はF1自体が同社のビジネスからね。一般車の製造・販売の方がむしろ副業であって。 残念だけど、そういう会社とレースして、勝てるわけないわな。 それにしても私がF1に夢中になっていた頃と比べると、今のF1は寂しいね。昔はフェラーリ、フォード、ルノー、ジャガー、プジョー、BMW、ポルシェ・・・と様々なエンジン・サプライヤーが居たし、エンジン自体の種類も8気筒あり、10気筒あり、12気筒あり、と多彩だった。タイヤの数だって4本だけじゃなく、6本ってのもあったしね。タイヤメーカーだって色々あった。 ホンダが抜けたら、再来年のエンジンはフェラーリとメルセデスとルノーだけになっちゃうのかな? これでルノーが抜けたら、フェラーリとメルセデスの2択か・・・。そうなったら、メルセデスもやる気をなくして撤退したりして。そしたらもうフェラーリのワンメイク。タイヤも既にピレリ―のワンメイクだし。そうなったら、各チームは一体何を「競う」んだろう。 映画『フォードvsフェラーリ』は割と面白い映画だったけれども、もう自動車レースって、古き良き時代を懐かしむ映画の中にしか、存在できなくなっちゃうのかもね。
October 2, 2020
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久々に実家に戻っていたのですが、そうしたら実家に脳トレ本が置いてありまして。聞けば米寿を過ぎた母がボケ防止にと思って買ってみたのだとか。これこれ ↓心とカラダを整える おとなのための1分音読 [単行本(ソフトカバー)] 山口 謠司9784426123888【中古】 で、どんなものなのかと思って見ると、見開き2頁に日本文学の名著の一部が抜粋されていて、それを声に出して朗読する、というものなんですな。 なるほど。確かに、名文を読むこと自体、為になることだろうし、それを音読し、その音読したものを自分の耳で聴きながら内容理解に努めれば、様々な角度から脳を刺激することになりましょう。 朗読という、日本社会から消え去った古き良き習慣は、高齢化社会の中で「脳トレ」として復活したと。まあ、考えてみりゃー、目の付け所がいいですよね・・・。著者の山口謠司氏は、私とまったく同年の文献学者、しかも私の敬愛する林望先生の助手だった人。和辻哲郎賞も受賞していて、著書多数。 で、フムフムと思いながらパラパラ読んでいたんですけど、そこに掲載されている文学作品って、例えば平家物語とか、奥の細道とか、漱石とか鴎外とか、新しいところでも武者小路実篤とか川端康成とか、そんな感じ。どれもみんな古いものばっか。 あーーー、アレだ。50年以上前の文章で、版権の切れたものばっかりだ。 なるほどね~。掲載しても印税払わなくていいわけだ。頭いい! で、ふと奥付を見ると、母が買ったもので既に第8刷。売れているわけですな・・・。 とまあ、そんな感じで朗読系脳トレ本をつらつら眺めて考えたんですけど・・・ これって・・・ひょっとして楽な商売じゃね? ほぼ古典と言っていい、評価の定まった日本文学の傑作から適当に2頁分の文章を選んできて、大きな活字で組んでルビ振って、あと、ちょこっと解説文的なモノを添えるだけで、売れる本が作れると。 それ、私がやってもいいんじゃね? と思わず考えてしまいましたが、それってタピオカと同じ発想だよね! 後追いしたところでどうなるものか、っていう。 大体、数年前くらいに、私が所属していた学会でも「朗読の重要性」みたいなシンポやっていたんだから。もし朗読系脳トレ本出すなら、そのタイミングでやらないと。 だから、アレだよね、出版界の次のタピオカは何か、って考えないといかんのだろうね。 さてさて、何だろう? 次のタピオカ本とは? 明日はきっと、次のタピオカ本が出る。明日は、どっちだ?
October 1, 2020
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