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季節を何と言えばいいのだろうか。 立冬を過ぎたのに、小春日和が続く。 これでは防寒着が売れないだろう、と余計な心配をしながら、町田まで足を延ばした。 目的地は、武相荘である。 年々周囲の環境も変わって、訪れるたびに戸惑ってしまうのは、わたしだけではないだろう。 デジカメを構えると、目の前を熟した柿が落下した。 トップ画像にも使ったのだけれど、この門前の柿の木がひなびた風情を醸し出していて、ここだけは別な世界であった。
2005年11月27日
夕べ、山葡萄をつぶしてジュースを作った。 長女が塗ってくれたマニキュアの、肌との境目が葡萄色にそまった。 今朝は無残にも、その葡萄色は茶色に変色をしていた。 もう何年も、指先を染めるという行為からは遠ざかっていた。 女廃業宣言をしたわけでもないが、いつしかピタリとやめていた。 そんなある日。 「母さん。たまにはおしゃれして良い男でも見つけなよ」 そう冗談を飛ばしながら、長女が爪をサーモンピンクに染めてくれた。 「そうね。良い男みつけなきゃね」 言葉を返しながら、少しもそんな気分になれない自分を発見した。 わたしは実に惚れっぽい。 だから、いつも頭の中には素敵だなーと思う男性が住んでいた。 ところが惚れっぽいけど、飽きっぽい。 年中入れ替わり立ち替わる。 長女が染めてくれた指先は、そこだけが妙に艶かしかった。 そういえば、亡き母はものすごく美しい人なのに、死ぬまで化粧をしなかった。 子育てに、生活に忙しい母には、自分を飾る時間も金もなかったのだ。 指先なぞ、一度も染めたことはなかっただろう。 きりりっと結い上げた髪型はずっと昭和の母の姿で、白い割烹着が良く似合っていた。 そんな母に少しでも華やいでもらいたくて、わたしは母の顔に無理やり白粉を塗ったことがあった。 日焼けした顔に白粉はなじまない。 不自然で、少しもきれいに仕上がらなかった。 母は若い頃、○○小町といわれていたらしい。 と言っても物心ついた頃には、すでに日焼けした労働者の顔だったのだけれど。 出来上がった顔を鏡で見るなり、母は慌てて顔を洗った。 「チンドン屋みたい」とつぶやきながら。 今更なじまない化粧は、母を美しくしなかった。 指先を見て、亡き母のそのシーンを思った。 母は、死ぬまで女には戻らなかった。 ずっとずっと母親で、今もわたしの胸の中にいる。
2005年10月30日
昨日は土曜出勤で、少々疲れ気味。 身体は今日の天気にびりびり反応し、鎌倉辺りを散策したいモードだけれど、休息と家事をこなさなければ、来週が気持ちよく迎えられない。 だからもうひとつの楽しみの、家事にいそしむことにした。 家事といえば、歳末大掃除ベストファイブの冷蔵庫、ガスレンジ、換気扇の掃除は終わり、後は洗濯機の掃除が残っていた。 我が家の洗濯機は、すでに十年以上は使用した年期ものである。 本当は乾燥機内臓の全自動洗濯機が欲しいところだけれど、今の洗濯機もたっぷりと思い出を含んでいるので、中々放しがたい。 その思い出を補足すれば、あまり良い話ではなく嫁姑のチクチク話しなのだった。 長女が生まれた頃。 わたしと義母の間は最悪だった。 まだ六十代前半の彼女は、わたしをものすごいエネルギーで拒み続けていた。 夫と二人暮らしの新居(文字通り購入したばかり)へ、わたしが闖入したのだから、無理からぬ話だったのかもしれない(最近はそんな風に思ったりする)。 長女の誕生を喜んでくれると思っていた期待は外れ、ことごとく意地悪を受けた。 その最たるものが、洗濯機の使用禁止だったのである。 今でも思い出すと、鼻がつんと悲しくなるのだけれど、冬の最中「おしん」でもあるまいに、わたしは冷たい水でおしめの手洗いを余儀なくされたのだ。 物のない時代ならどうってこともなかっただろう。 でもガムテープで蓋を閉められた、真新しい洗濯機を横目に手で洗うという行為は、こうして記述する以上に辛い仕打ちであった。 そこには優しさの欠片もなかったのだから。 でもいつしか時は流れ力関係も崩れた。 そしてその忌まわしい洗濯機が壊れた時、わたしが今の全自動の最新型を買ったのだ。 少しも素敵な思い出ではないけれど、やっとわたしの洗濯機ができたのだから、ものすごく嬉しかった。 そんな思いが、まだまだ使える洗濯機を手放せない。 再び輝き、当分は家族の役に立ってくれる。 だからこうして、わたしはせっせと掃除に励むのだ。 ※画像は紅葉で名高い永観堂。 本文とは関係ないけど、先日訪れた時の様子をぱちり。
2005年10月23日
急遽、用事ができて大阪に飛んだ帰り、秋晴れに恵まれた空の下、京都を散策した。 わたしが大好きなのは、南禅寺から哲学の道を辿っていく銀閣寺である。 ところが、今回は時間の関係もあり逆のコースを辿ってみた。 銀閣寺は、亡くなった元夫と新婚旅行で行った思い出の場所である。 わたしは若い頃からなぜか京都が大好きで、新婚旅行にはぜひ彼を案内してあげようと思っていた。 景色にも草花にも、それほど興味のない彼が実際には、どう感じたのか分からないけれど、年老いたとき同じ思い出を語る場所としては、そう悪くないと思った。 でも結局、わたし達は離婚し彼は先立ってしまったのだから、どっちにしても二度と語られることはなかったのだ。 わたしが今立っているのは、紛れもなくあの時の哲学の道である。 歩き疲れたわたしを労わり、後れ毛をかき上げてくれた彼が居たあの哲学の道。 だけど、どんなに探しても彼はどこにも居ない。 その現実をいやと言うほど思い知り、わたしはたまらなくなった。 哲学の道沿いに、俳優の栗塚旭さん経営の『若王子』という喫茶店があった。 当時、店に出ていた栗塚さんと遭遇し新婚旅行だと告げると、快く写真に入ってくれた。 そんなエピソードを思い出して喫茶店を訪れてみたのだが、閉まっていた。 疎水沿いの哲学の道は整備され、どこかこぎれいになっていた。 茶店風の店はほとんどカフェテラス系に変わり、時代の流れを強く感じた。 十代からずっと愛したこの哲学の道。 色んな思い出がわーっと押し寄せてきたけど、やっぱり今は亡き元夫を一番思い出した。 わたしが結婚を決意したのは、背の高い彼ならどんなにぶら下がり甘えても、びくともしないからだったのに、先に逝っちゃった。 幸せにするって約束したのに、嘘つきだ。 だけど、先にその約束を放棄したのは、わたしなんだよなー。 だから、嘘つきはわたしの方なのだ。 つまり、五分と五分。 だから恨んだり、悲しんだりはもうしないよ。 哲学の道を歩きながら、わたしはそう誓ったから……。
2005年10月21日
週末は雨だと諦めていたのに、今朝は思いがけずに晴れ間が覗いていた。 慌てて洗濯物を干して手早く家事を片付けたのだけれど、時計はすでに一時を大きく回っていた。 それでも先週に引き続き、根津美術館へと向かった。 『特別展 国宝 燕子花図』を、もう一度見るためだ。 今回は、前回購入した図録にしっかりと目を通して臨んだので、全く違った楽しみ方ができた。 時間をかけてゆっくりと館内を歩き、疲れると休憩を取り、そしてまた歩くと言う具合に、ひとりだから十分過ぎるくらい満喫できた。 わたしがこの、尾形光琳の『燕子花図』に興味を持ったのは、二十代前半の頃である。 当時どっぷりと浸かっていたいけばなに、琳派という技法があったからだ。 学び始めで琳派を少しも理解していないわたしは、来る日も来る日も図録をただじっと穴があくほど眺めたものである。 先輩の諸先生方は、やれMOA美術館の『紅白梅図』だ、根津美術館の『燕子花図』だとお出かけになったものであるが、地方都市に住むわたしの給料では、それほどたやすいことではなかったのだ。 だからそのうち余裕ができたら、絶対に実物と対峙しようとずっと心に決めていたのである。 子育てが一段落した時、MOA美術館の『紅白梅図』屏風は、お目にかかることができたのだけれど、根津美術館の『燕子花図』屏風は、気になりながらも機会はやってこなかった。 そんな経緯もあり今般の公開は、本当に首を長くして待っていたのである。 やはり実物は素晴らしかった。 金箔地の六曲一双の屏風に、群青の花と緑青の葉の燕子花のみが描かれており、想像もつかないくらいの迫力と色彩で、わたしを圧倒したのであった。 待ちに待ったものとの出会いは、感動が寄せては返すさざ波のように訪れるものだ。 わたしはその中に、思い切り浸った。 初めて見たいと思った時から、すでに四半世紀近い歳月が通り過ぎていた。 でも、わたしは今会えて良かったと思う。 当時の若さでは、この感動はなかっただろうと容易に想像がつくからだ。 やがて閉館時間が訪れた。 わたしは立ち去りがたい気持ちを抑えて、外に出た。 見上げた空は、すっかり雲に覆われていた。 ※画像は根津美術館内、日本庭園内にて撮影 by sion
2005年10月15日
雨が続いている。 その雨に呼応するようなわたしの昨今。 夕べ、久しぶりに次女とゆっくりワインを飲んだ。 すごく安いワインだけど、こんな夜にはふさわしい。 「母さんの気持ちはよく分かるよ。この先はあんまり関わりたくない人たちだもの」 わたしは慌てて言葉を選んだ。 嫁がなければ、わたしと同じお墓に入ることになる。 それぞれが選択した人生には違いないけれど、半分はわたしの責任なのだ。 「時には衝突して、つい毒を吐いてしまうけど。大好きだよ、母さんが」 そんなことは百も承知で、ついついわたしも言い過ぎてしまう。 「別れたって、父さんは父さんだよ。一周忌が終わったら、伯父さんにお位牌をもらったら?生涯他人任せでは、なんか切ないじゃない」 そこで前述のセリフを次女は吐いたのだ。 でも、本当は形なんてどうでも良いのかもしれない。 彼女らだって、今に嫁げばその処置に困る日が来るだろう。 わたしの中には、ちゃんと向き合えていた時の彼が住んでいるし、きっとそれでいいのだと思う。 お墓だのお位牌だのって、それはどこにあってもさして問題ではないのかもしれない。 思う気持ちさえあれば、いつでもお墓参りはできるのだし。 そんな話を、次女とした。 少し酸味の強い赤ワインを口に含みながら。 多くを語らなくても、彼女らはちゃんと心得ている。 そのことが、そこはかとなくわたしは嬉しかった。 これこそが、わたしと彼が成し遂げた共同作業だったのだ。 今更ながら、感じ入っている。 これで良いのだ、と。 窓の外は、いつ止むとはしれず雨が降り続いている。
2005年10月10日
何気なく、ベランダの向こうに目をやると、公園の樹木が少し色づいていた。 残暑がうんと秋に押し寄せて、中々涼しくならない昨今だけれど、確実に季節はめぐっているのだと思った。 あいにく今朝は雨が降っている。 国宝、尾形光琳の「燕子花図」を青山の根津美術館まで見に行くつもりなのに。 それでも、若い頃からずっと憧れていた「燕子花図」に会えるのだから、雨模様などなんのその。 それにしても、この季節。 やっぱり素敵だなー。 公園の樹木の変化さえ、胸をときめかせてくれるのだもの。 日本に生まれて良かったと思う。 こうして季節を楽しませてくれるから。 雨もまた良し。 一雨ごとに秋は深まるのだから……。
2005年10月09日
遅い出発で、鎌倉に着いた頃には、すでに日は傾きかけていた。 風は心地よいのだけれど、どこか少し湿り気を帯びている。 久しぶりに江ノ電「のりおり君」を購入し、由比ガ浜で下車。 目的の吉屋信子記念館を、初めて訪れた。 以前から鎌倉文学館を訪れるたびに、その道すがらにあった立て札が気になっていたのだけれど、そこはいつも開館しているとは限らなく、ついでに立ち寄るということができなかったのだ。 今回、行きたいと思う気持ちと開館日がうまく重なった。 ところが、あるはずの立て札がない。 確かこの路地の先のはずだけどなー、と奥へと歩き進んだ。 同行の長女は、「暑いよー、この暑さは何ー。一体どこへ連れて行く気?」と、すでに辟易顔を見せた。 「あるはずなんだ。女流作家の記念館」 「だれ?」 「吉屋信子」 「その人って?」 実は、わたしだってよくは知らないのだ。 名前を聞いたことがある程度の知識で、もちろん読んだこともない。 ただ、なんとなく名前に惹かれるように訪れてみたくなった。 すると、諦めて引き返そうかと思った頃に、それらしい佇まいの屋敷が現れた。 「あ、ここだ」 門をくぐると左手に広い芝生が広がっている。 「素敵な住まいだね」 瀟洒で隙のない建物である。 玄関を入ると、その趣がもっと顕著であった。 日本古来の和と西洋のモダンが違和感なく融合しているのだ。 ベージュの絨毯を敷き詰められた応接間からは、先ほど左手に見た芝生のお庭を望めた。 「さすが女流作家の住まいだね」 ほかに言葉を探せなくて、わたしはそっと長女に耳打ちをした。 表の芝生に対して書斎から望む裏庭は、もっと広大であった。 季節の草花や木々がゆったり、そして整然と植えられていたし、その後には深い鎌倉の森を背負い、唸るくらいに贅沢な眺望があった。 「どうしたって住むことはないだろうけれど、すごいね」 思い切り目の保養を済ませて、次の目的地へと行動を移した。 愛してやまない光則寺の境内は、観光客もなく静かだった。 ホトトギス、彼岸花、赤の水引草、萩などが、盛りを過ぎてすでに色あせていた。 この時季は、仕方がない。 それでも凛とした静けさだけは、何よりの趣であった。 本堂の廊下に二人で腰を下ろした。 どこかの法事が催されているのだろうか、中から読経の澄んだ声が洩れてきた。 春には艶やかまでものその容姿を見せてくれたカイドウ。 初夏、その足元にはハンゲショウが、まるで白い蝶の群のような姿を見せてくれた。 今は、秋の草花もほぼ終わり、静かな静かな境内の静寂の中にいる。 「海を見たくない?」 「いいね」 というわけで、それから長谷寺を目指した。 日ごろの運動不足から、やはりここの石段はきつい。 でも我々は、無数のヨットが浮かんだきらめく海を臨んだ瞬間に、その苦が飛び去るのを感じた。 「ね。すごいでしょう?」 「すごーい!」 長女は何度も声を上げた。 わたしの身体から、少し滲んだ汗がすーっと引くのを感じた。
2005年10月02日
最近、少し書けなくなっている。 というより、書きたくないって言う方が合っているかもしれない。 書くことで癒されていた部分が、書いても癒されないからだろうか。 そんなとき。 長女に思い切り催促された。 「母さんの文章が好きだから、もっともっと書いて欲しい」と。 そうか、好きなのかーと少し嬉しくなった。
2005年09月28日
亡くなった元夫の49日の法要が、先週の日曜日に営まれた。 ものすごく迷ったけれど、わたしは行かなかった。 「ずっと父さんのお墓参りや法事には呼んでもらいたから、あちらの親戚とは仲良くしたい」とは、娘たちの弁であり、それは我が子ながら中々天晴れな心構えである。 それに引き換え、別れた夫の実家はどうも居心地が悪い。 わたしには居場所がないのだ。 ついつい隅っこに退いてしまい、それが周囲に気を使わせてしまう。 わたしの存在が、場所に妙な空気を漂わせてしまう気がするのだ。 彼の、長い闘病生活の最後の部分しか関わらなかったことが、どうしても後ろめたい。 それには、わたしなりの理由があり、言い訳もしたいところだけれど、誰にも理解はしてもらえまい。 だから、わたしの本当の胸の内は、誰にも語ってはいない。 これはわたしの悪い癖で、いつも肝心なところで口をつぐんでしまうのだ。 でも、亡き元夫はそれを誰より理解してくれていたのだから、心配には及ばないのだけれど。
2005年09月27日
高校の同級生のH君が出張で上京して来た。 その辺で酒を飲むのも良いけれど、時間があるならーと鎌倉散策を提案した。 待ち合わせの北鎌倉では、お昼を食べ損ねては悪いから、光泉のお稲荷さんを買って待っていた。 携帯のメールで、羽田から北鎌倉の経由を知らせておいたら、約束の時間にほぼ到着した。 円覚寺の境内で広げたお稲荷さんは、ものすごく美味しかった。 なんとなく、こんな風な時間を過ごしかったから、わたしは満足だったのだけれど、彼には少々子供じみていたかしら? 「どう?」 と訊くと、まんざらでもなかったのか、美味しいと言った。 円覚寺、東慶寺、浄智寺、源氏山から化粧坂経由海蔵寺、寿福寺。 クールビズスタイルのサラリーマンには、少々きついコースかと思いきや、学生時代から登山をする彼にとっては、それほどのことでもなかったみたいで、十分に堪能した様子。 浄智寺で背の高い紫苑を見つけて、 「この花知ってる?」 と訊いてみた。 「しおんだろ?うちの庭にも咲いてるよ」 「へえー。知ってるんだ」 そういうなり、おもむろに携帯の画像をほらと見せた。 「りんどうじゃない?」 「苗を買ってきて植えたんだ」 と自慢そうに言った。 「へえー。ガーデニングをしてるんだー」 「まぁね。休日は、こんなことをしてるよ」 中々良い趣味だ。 のーんびり歩いた後。 冷たいビールで喉を湿らせた。 「もう3キロは落とせよ。その方が魅力的だぜ」 「そんなこと言わないで。これで十分なんだから」 「だめ、だめ」 思い切り、ウエストにだぶついていた肉をつままれた。 「失礼ねー」 と言いながら、少しも腹立たしくはなかった。 「もっと落ち込んでいるのかと思ったけど、どうやら大丈夫みたいだな」 「うん。もう平気。わたしは鉄の女だもん」 小じゃれた居酒屋で、ご馳走してくれた。 「破産しない?」 おどけて言うと、 「これくらい大丈夫だよ。元気出してがんばれよ」 そういって、さようならと電車に乗った。
2005年09月19日
秋晴れで、絶好の鎌倉散策日和。 本当は一人で、のーんびり歩きたいのだけれど、高校の同級生がやって来る。 せっかくだから、と頑張っちゃいそう。 明日は仕事だから、ほどほどにしなくちゃ。 では、行ってきます。
2005年09月19日
よほど疲れていたのだろうか。 このところ、眠くてパソコンも立ち上げられなかった。 じっとしていても、上瞼が落ちて下のにくっついてしまう。 例えば、大好きなハーゲンダーツのラム&レーズンを食べながらも、眠ってしまうという有様だ。 新しい職場に移って、今日で十日になる。 ようやく、気分が上昇を始めた。 与えられたものをすべて、あるがまま受け止めてやろうじゃん、な気持ちになってきた。 良い傾向だと思う。 通勤時間は、読書をするほど長くはないのに、それでも文庫本を開くゆとりができた。 毎朝、五時に起きて、大体の家事を済ませて、家族より一足早く家を出る。 わたしの弁当を作るついでに、長女の弁当も詰めてやると、昼食時には 「ありがとう。超美味しい!!でも、無理はしないでね」 の携帯メールが飛び込んでくる。 本当は、目が腐るほど惰眠をむさぼりたいなーと思う日もあるのだけれど、誰かが少しでも嬉しい反応をしてくれると、ついつい頑張ってしまう。 そして、亡き母もこんな風だったのだろう、と今頃母の気持ちに触れている。
2005年09月15日
電話が鳴った。 我が家にはめったに電話が鳴らなかった。 理由は簡単だ。 あまり教えてないからだ。 「ケイコさん?」 「あ、はい」(この時点でてっきり亡くなった元夫の兄だと思ってしまった) 「明日来てくれるよね?」 「え?明日?だって再来週のはずでは?」 「何言ってんだよ。明日だよ」 しどろ、もどろ、あのー、そのー。 「祭りは明日だよ」 「え?雅さん?」 「そうだよー、誰かと間違えた?」 「なぁんだ。びっくりしちゃったわ。だって法事は再来週のはずだもの」 「誰と間違えたの?」 「亡くなった夫のお兄さん」 「そうなのか。明日は来るでしょう?」 「うん。行く行く」 電話の主は従兄からだった。 というわけで、明日は娘を連れてお祭りに行く。
2005年09月10日
雑踏の中でぼんやりと佇んでいたら、どこからともなく秋刀魚の焼ける匂いがしてきた。 ああ、秋刀魚の美味しい季節なのだなぁ。 折しも。 その界隈は、野球観戦へ急ぐ人、ひと、ヒトで溢れ返っていた。 わたしはといえば、駅舎の壁に背中をあずけて長女をじっと待っていた。 「母さん。ごめん、遅くなっちゃった」 早足で長身の長女が手を振りながら近づいて来た。 「待ったぁ?」 「うん。少しね」 「じゃぁ行こうか?」 わたし達は久しぶりに、街へと繰り出した。 ここ数ヶ月間は、いろんなことが山ほどあった。 一年半の闘病生活の末、それが最初から決まっていたことのように、元夫は永遠の眠りについた。 命の継続が途絶えた瞬間、涙が両目からこれでもか、とあふれ出た。 人の一生の凄絶さに、儚さに……。 そして何より、取り残された悔しさに……。 そんな佇む雑踏で、わたしは久々に人々の営みを強く感じた。 死に急ぐ人が居る中、その他方では逞しく生きている人。 どんな人生も受け止めて、ひたすら前向きに生きる人。 不可思議な現実の中。 わたしは逞しい部類に属するのだろうか? 「ねぇ。どこにする?」 「例のあそこはどう?」 「そうね。安くて居心地が良いものね」 わたし達は、お袋軍団が立ち働く居酒屋へ向かった。 全員が若くなくて、妙に落ち着くのだ。 「わたしは秋刀魚の塩焼き」 「あたしは冷奴」 さりげない惣菜がメニューに並ぶ中、雑踏で嗅いだ懐かしい匂いに、迷わず秋刀魚をオーダーした。 「魚を食べるのが、父さんは上手かったよね」 「うん。そうだったね」 「もうすぐ四十九日だね。母さんどうする?」 「それなんだけど。今回は遠慮しようかな?」 「そう?もう、好きにして良いよ。十分やってくれたと思うから」 長女と言葉を交わしながら、手元の秋刀魚を見た。 彼は本当に魚の身をほぐすのが上手かった。 わたし達は、いつもほぐれるのをじっと待っていた。 完全に骨から離れた身を、彼は「さぁ」とよこしてくれる人だった。 でも、秋刀魚の身をほぐしてくれる人は、もうこの世の人ではない。 「父さんは死んだんだねぇ」 ようやくそれを実感した気がした。 家に帰ったら、一枚のはがきが届いていた。 法事の日程が書いてあった。
2005年09月10日
先日、長女の友達Tちゃんが、彼氏を伴って我が家を訪れた。 Tちゃんは、長女の短大時代からの親友であり、わたしのブログの愛読者でもあった。 我が家の出来事のほとんどは、わたしのブログから汲み取っているのだとか。 そのTちゃんと、この度わたしはやっと対面できたのだ。 わたしのTちゃん像は、すっかり出来上がっていたのだけれど、それを上回るくらい素敵でチャーミングな女性だった。 具体的に言えば、お嫁さんにしたい女性ナンバーワンな、そこに居るだけで場が和むというか、そんな感じなのである。 そして彼氏もTちゃんに引けを取らない、やはり素晴らしく好青年であった。 「母さん、今日はよくしゃべるね」 長女が茶化した。 「だって楽しくて仕方がないんだもの」 本当に楽しかった。 過去のブログ情報があるので、改めてわたしが自己紹介することは何もなかった。 艱難辛苦のテンコ盛りだったけれど、もう立ち止まってばかりはいられない。 娘の友達カップルにはそんな気持ちと、優しくて上等なひとときをプレゼントされた気がした。 ありがとう。 また遊びに来てね。Tちゃん
2005年09月02日
日中どんなに残暑が厳しくても、秋はそこまでやってきている。 八階に住んでいるのだけれど、虫の音は届くし、何より夜の風が冷たくなった。 朝から憂鬱で気分が浮上しないのは長女で、次女は折からの生理で機嫌が悪い。 それを聞くにつけても、やはり秋なのだとひとりほくそえむ。 食欲の秋、芸術の秋、凌ぎ易い気候の秋。 もしかしたら、四季の中で一番過ごし易いのが秋なのかもしれないのに、 わたしは秋が大嫌い。 何故ならば、どうしてだか気分が滅入ってしまうからだ。 長女の憂鬱はわたしの遺伝子で、次女の不機嫌もわたしの生理不順DNAだろう。 秋が嫌いなのは、ものすごく孤独を感じてしまうから。 切なくて、哀しくて、たまらないから。 それなのに。 今日届いた郵便物の中。 必要で取り寄せた元夫の除籍謄本。 わたしが去り、子供達が抜けた謄本は、寂しくて胸が裂けそうだった。 高が書面上のことなのに……。 そのことは秋と無関係なのに、秋が二重に嫌いになった。
2005年08月29日
西瓜が無性に食べたくなった。 それくらいこの夏は、暑いということなのだろう。 いつものスーパーで、12度と表示されているくし型の西瓜を一切れ買った。 本当は、はちきれそうに熟れた丸ごと一個の西瓜に包丁を入れた瞬間の、あのわりわりっとした感覚が大好きなのだけれど、少人数ではとても食べきれない。 何日も冷蔵庫の中で転がして、不味くして腐らせてしまうのが落ちである。 唐突に、亡き元夫が西瓜にかじりついた時の、嬉しそうな顔が浮かんだ。 彼は西瓜が大好物だったのだ。 八年くらい前、考えて悩んでその西瓜の為に、大型冷蔵庫を買った。 購入条件はもちろん省エネタイプのものであり、次に重要なことは西瓜をまるごと冷やせることだった。 大型電気店を何軒も歩き回りメーカーを比較して、そうして現在の冷蔵庫が決まったのだ。 その夏、わたしは待望の大きな西瓜を何度か買った。 夫や子供達の嬉しそうな顔を思い浮かべ、八百屋さんからえっちらおっちら運んだのだ。 汗だくで辿り着き、野菜庫に収納した瞬間、わたしは大役を果たした充足感で満たされていた。 だって西瓜は、家族みんなの大好物でもあったのだから。 くし型に切って齧り付いたり、繰り抜いてパンチを作ったり、楽しみながら甘い西瓜に舌鼓を打った。 でも今思うと、西瓜で盛り上がったのはその夏限りだった気がする。 以来冷蔵庫に、大きな西瓜が丸ごと入ることはなかった。 夫が単身赴任し、義母が別居したからだ。 家族が縮小されたら、大きな西瓜の出番が全くなくなった。 くし型の西瓜を更に切って、齧り付いた。 甘い果汁が口中に広がった。 猛暑の中を旅立った彼は、もう二度と食べられないのだと思った時。 胸の奥がきゅんとした。
2005年08月27日
初七日を終えた深夜。 ものすごいドラマだった、と次女をきつく抱きしめていた。 もしかしたら、心残りに思った亡き元夫が、そうしてくれたのかもしれない。 偶然、父親の最期を看取った次女は、それなりの重責に悩んでいた。 「もっと早く急変に気づいてあげていたら、父さんの命はまだ続いたかもしれない。母さんや姉ちゃんももう一度父さんと言葉を交わせたかもしれない」と、涙ながらに訴えた。 人が死ぬという行為を、あからさまに次女はわたし達に伝えてくれたのだ。 もし、わたしがそこに遭遇していても、やはり同じ気持ちだったに違いない。 最期の最後まで、彼は生きるという行為を捨てなかったらしい。 何度もベッドに起き上がり、死神に連れて行かれそうになるのを拒んだのだそうだ。 「くそ!くそ!死んでたまるか」 彼は、そう言っては、一点を見つめていたという。 急変してから他界するまで、40分足らずの出来事だったのだ。 何度もその最期のシーンが夢に出る、と次女は青ざめていた。 いつになく言葉に棘を含み、長女やわたしに毒を吐くのだった。 些細な言葉尻を捕まえては、執拗につっかかってきた。 何度たしなめても、聞く耳を持たなかった。 そんな次女を、もう知るものか、と半ば諦めかけていた。 眠れないと言い、夜半まで酒を放さない次女に、わたしは何か恐ろしいものを感じた。 彼女はまるで、針ネズミのようだった。 誰をも寄せ付けない鋭さを纏い、目が据わっていた。 何を言っても心に届かない頑なさを持ち、斜に構えていた。 「もう勝手にすれば?知らないから」 あまりにふてぶてしい態度に、先にわたしが切れてしまった。 「分かったよ。勝手にするよ」 彼女は、一時凌ぎに借りたホテル代わりのウイークリーマンションを飛び出した。 住んだことのない地方都市の、しかも深夜の雨がそぼる中へと。 わたしはじりじりと待った。 勝手にすれば良い、と思う反面、胃の辺りに異様な痛みが走り始めていた。 きりきりとした痛みが止まらない。 それなのに、冷凍庫に放り込んだズブロッカをストレートで口に含んだりした。 意識が酔いで遠のき始めた頃、次女は戻ってきた。 「ごめんなさい。あたしが悪かった。とってもイライラしていてむかつくんだもの。大学も卒業できるかどうか不安だし、就職も決まらない。将来があるのだろうかと考えていたら、何もかもが厭になって来たの」 わたしに抱きついてきて、感極まって泣き出した。 思い切り抱きしめて、頭を撫でてやった。 「大学は大丈夫。一年延びてもあなたにその気さえあれば、お金はなんとかするから。就職も絶対に妥協しなくて良いし、自分がやりたい方向へ進めばいいわよ」 わたしは、ようやく次女の苦悩に触れられた気がした。 バイトと学業に就職活動、その上に夏休みに入ってからの父親の看病だった。 神経をすり減らしていたに違いないのだ。 何かひとつでも外してやらなくては、がんじがらめで辛かったに違いないのだ。 同時に頭の中では、苦しい家計を思い描いていた。 それでも、なんとかなるさ。 わたしは何より、次女がわたしの胸の中に戻ってきてくれたことが、嬉しかった。 思い切り抱きしめて、何度もつぶやいた。 「もう大丈夫だから」と……。
2005年08月22日
終わった。 悲しみというより、悔しさに満ち溢れていた。 こんな人生が待っていることが分かっていたなら、あそこでここで我慢はしなかった。 我慢の先には絶対に、安寧な日々が待っていると信じていたからこそ、辛抱したのに……。 と思うのは、もう止めた。 これがわたしの運命だったのだから。 そう思うことの方が、きっと明るい未来へと繋がるのだろう。 初七日を過ぎた頃から、わたしの胸の奥に広がっていた得たいのしれない霧のようなものが晴れ始めた。 もう振り向かない。 わたしはそう決めた。
2005年08月20日
開け放した窓から、風鈴の音色と共に風が入ってきた。 気温は三十度を越えているのだろうか。 先ほどから、身体の真中に汗が集まっては下へと滴り落ちる。 その風鈴の音色に、これを買った日のことを思い出した。 たかだか数千円のものだったと思うけれど、わたしはすごく迷って購入した。 「買えばいいじゃないか」 可笑しそうに、彼が笑った。 「うん。この控えめな音色にすごく惹かれるのよね」 「だからさー、買えば?」 わたしには妙な癖があった。 衝動買いする割には、本当に欲しいものはものすごく吟味するのだ。 この風鈴も例外ではなかった。 何度も何度も足を運んだ。 買った後で、もっと素敵なものに出会ったら悔しいから。 前の家を引っ越す際、最後の点検をしていたら、軒下の風鈴がちりりーんと奏でた。 それはまるで忘れないで、と囁くように、たった一度きりだった。 わたしは慌てて取り外し、大事にここへもってきたのだ。 それ以来ずっと軒下に下げているのだけれど、風鈴は相変わらず控えめで、心の奥深くに響くのだった。
2005年08月08日
暦の上では秋だけど、現実は限りなく猛暑だ。 毎週末、元夫の見舞いに通い始めてもう一月が過ぎた。 医師に告げられた一月を、今日で数日更新した。 何より嬉しいのは、彼が生きる努力を怠らないことである。 一日でも二日でも命を延ばすことが、彼の使命であるかのように、身体の痛みを必死でこらえて食事を取ろうとする姿は、残される身内にとって何より頭の下がる姿である。 わたしも娘たちも、取り立てて特別な会話をするわけではない。 昨日も、今日も、そして明日も、明後日も、それが当たり前の日常のように、ありきたりの会話を繰り返すだけだった。 もしかしたらこの膠着状態のまま、永遠に彼が生き続けるのではないかと錯覚するのだけれど、それでも彼の方から自分がこの世を去った時の話しをさりげなく告げるから、わたし達もそれをさりげなくキャッチした。 「もう秋なんだよ。暦の上では」 「そうか。立秋なんだね」 「外は立っているだけで汗だくになるけど、確実に秋は近づいてるのよ」 「そうなんだね。俺も頑張って乗り越えなくちゃな」 「そうだよ。秋には紅葉を見がてら、温泉にでもつかろうよ」 「温泉かー。良いなー。行きたいなー」 病室に居るときは、他愛も無い会話で盛り上がる。 結局なんで笑っているのだろうと、後で思い出せないようなことだったりするけれど、そのほとんどがわたしのドジ話なのであった。 それで平和なら、わたしはいくらでも提供してやるつもりだ。 「母さんは相変わらずなんだなー」 「だって幼いんだもの。母親ならもう少し大人になってくれなくちゃ」 「母さんの良い話もしてよ。ちゃんと母親してるでしょう?」 「いやぁ、今はどっちが子供かわからないよ」 空気が、限りなく柔らかい。 昔、昔。 毎日がこんな風だった。 もちろんそう仕向けたのは、彼とわたしであったのだけれど、ある日突然、この空気は切り裂かれるはずだ。 それはすでに暗黙の了解であり、誰もが密かに覚悟していた。 だからこそ、今日という一日が、わたしにはたまらなくいとうしい。 病室を後にする時、わたしは最高の笑顔とVサインを送る。 彼は嬉しそうに、バイバイと手を振った。
2005年08月07日
まだ少しも立ち直ってはいないのだ。 前を向かなければと己に発破をかけながら、実は後ろばかり振り向いている。 次女が指摘するように、わたしは悲劇のヒロインに成り下がっているのかもしれない。 だけど、つい楽しかったあの頃をふと思い出してしまうのだ。 何もかも、彼が中心に回っていたあの頃を。 絶対に彼を許すまい、許してしまったら生きてはいけないと、自分に言い聞かせてきた。 でもつい最近、わたしは彼を許して仲直りした。 そうしたら、わたしは自分の存在が急に疎ましくなった。 悪いのはすべてこのわたしで、病人である彼には何の落ち度もないような気がしてきた。 彼の周囲の人々は、こうなってしまった詳しい事情を何も知らない。 わたしはあえて説明をする気もないけれど、当時は皆そっぽをむいてしまった人達だった。 なのに、今のわたしの存在は病気の彼を放棄した最悪の元悪妻として、彼らの目に映っている。 あの地獄のような日々は、世の中がこんな風にとげとげしい時代には、高々氷山の一角の出来事に過ぎなかったのだろう。 そう思うことで、わたしは耐えてきた。 自分だけが特別ではないのだ、と思うことで何とか凌いできた。 今、目の前の彼は、がんと真摯に向き合っている素晴らしい人間だ。 激痛と闘い、生きることへの凄まじい闘志を見せてくれる。 それが、最愛の元家族に対する使命とでも言うかのように。 「もう良いよ。分かったから楽になりなよ」 そう言ってあげたい言葉を、わたしは歯を食いしばって我慢している。 「体力を回復しなければ、抗がん治療できないんだ。このまま体力が回復しないと、痛みを止める薬で後は眠るばかりのようだ」 彼はわたしの目をまっすぐ見つめながら、ぽつりと言った。 わたしは言葉を失った。 その場をうまくはぐらかして病室を後にした。 もう、わたしにできることは何も無い。 ただ、無念さをかみ締めている。
2005年08月06日
マンションの八階に住んでいるのだけれど、今朝は窓を全開しているせいか、蝉の声がけたたましい。 耳をすませると、どうやらミンミンゼミの鳴き声が圧倒的である。 全くの無風状態なので、そろそろエアコンのスイッチをオンしたいところだ。 でも今朝は、べたつく身体をそのままに放置している。 汗だけではない色んなしがらみがまとわりついていて、そう簡単にはがせそうもない。 だからという訳ではないがシャワーを浴びたいと思いつつ、こうしてうだうだとキーボードを打っている。 そういえば、先日の姉からの電話には少しほろっとさせられた。 「一番穏やかな人生を歩きそうだったのに、なんであなたにばっかり不運なことが舞い降りるんだろうねぇ」 その言葉に、なぜか急に悲しくて涙声になってしまった。 辛くて悲しくて切ないかと言えば、決してそんなことはない。 ちゃんと楽しいことも嬉しいことも、いっぱい味わっている。 でも周囲からみると、相当不幸そうに見えるらしい。 わたしは平凡な日常を、誰よりも強く願って生きてきた。 普通が一番だと信じて、石橋を叩いて渡ってきた。 でもいつか、誰かに言われたことがある。 「あなたの普通は言葉だけ。普通じゃないよ」 こうなってみると、その通りだったのかもしれない。 どこまで戻って人生をやりなおせば、この現実を回避できたのだろう。 そんなことを思うとき、わたしの耳に蝉の声がきこえてきた。 実家の近所の、寺の境内で日がな遊んだ子供のころの……。 その蝉時雨が、重なった。 いつのまにか現実の蝉時雨は、車の喧騒にかき消されていた。
2005年08月05日
本当に暑かった。 立っているだけでも汗が出る。 でも今日は面接だった。 だからこの暑いのに上着を着る羽目になった。 待ち合わせの場所に立っているだけで、こげてしまいそう。 近い勤務地に変わりたい、というのがわたしの第一希望。 今までの所は、通勤に往復四時間近くかかる。 もう体力的に勘弁だ。 うまく決まれば、通勤時間は往復で一時間足らずになる。 感触はどうだろうか。 確立は半分と見た。 気長に探そうと口では言いながら、ついつい電話をかけてしまう。 失業していると落ち着かないのだ。 だけど実のところ、決めてしまうと元夫の容態次第では、入社後すぐに休暇を取ることになる。 やはり今は、焦って求職をすべき時ではないのかもしれない。 実は、長期休暇中の派遣会社を、今日正式に辞めることになった。 すっかり戻る気が失せたからだ。 派遣先を裏切りたくはなかったのだけれど、社長とこの先一緒に仕事をする気がなくなった。 人の使い方が下手な人だとつくづく思う。 ルーズで頭の回転が鈍い人は、嫌いだ。 それでも我慢してきたのは、生活のためだった。 でも、今日は堪忍袋の緒が切れた。 暑さのせいだったかもしれないけれど。
2005年08月04日
そういえば、今年はまだ一度も娘達に浴衣を着せていない。 彼氏が居なくなったら、見せる相手もいないということなのだろうか。 今夜の花火大会にも勤務先からそのまま洋服で行く、と長女は言った。 少し寂しい気がした。 あの頃。 母もきっと同じ気持ちで、わたしに浴衣を着せてくれたに違いない。 少しでも華やかな娘時代を送らせたくて、浴衣の反物を選び、縫ってくれた。 「あなたには少し派手目のものが似合うから」 と母の選んでくれた浴衣は、紺地に黄色の木の葉柄。 浴衣にしては大胆で、誰もが振り向いた。 わたしは少し気恥ずかしくて、それでいて母のお手製の浴衣は誇らしかった。 母がしてくれたことの半分も、わたしは娘達にしてあげられない。 餓鬼っぽくて、甘ったれで、二人の娘には思い切り依存している。 亡き母のようなきりりと優しい母親が、わたしの理想だったのに……。 だから、申し訳ないなーと時折情けなくなる。 「浴衣を着るのなら手伝うよ」 「ううん、良いわ。直接行くから」 長女は、夕方に向けていつもより軽装で出かけて行った。 次女は、別れた父親の看病に向かった。 今年はどうやら、娘達の浴衣姿を見られそうにない。 やっぱり少し寂しいな。
2005年08月01日
やっぱり書く場所がないと寂しいから、新しく立ち上げた。 色々試してみたけど落ち着かないから、何もかも好きだった元の通りに再設定。 好きな色、好きな花。 そして好きな季節の風に乗せて、今までどおり言葉を紡いでいたい。 だから、やっぱり書くね。 わたし……。 これからも、ずっとずっと。
2005年07月31日
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