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ホールでのレコーディングを終え二日経った。喉が痛い!!!軟口蓋が腫れている。声帯も痛い。レコーディングのとき、、そんなに悪い歌い方では無かったと思うのだけれど、、。でも、体の感触を辿り当日の様子を思い出すと、どうも、普段使っていない神経をフル稼働させていた様だ。緊張の糸が切れて、どっと疲れが出た様だ、、。今日はだらだらしていよう、、。とネットでいろいろ遊んでいたら、、こんなページを見つけた。ホームページであっても泣けた、、、。音楽でも同じかも知れない、、迎合しない、自分の良心に基づいて行動する、、やはり、損得では絶対に動きたく無い。良心で動くこと、誠意で動くこと、、こうありたい。
January 28, 2007
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時間は前後してしまうが、今月14日奈良県の郡山市の郡山城ホールでニューイヤーコンサートに出演した。演目は「魔笛」。このブログにも以前書いたが24年ぶりのオペラ出演。 が、、、歌ってみて思った事は、まじめに歌っていれば、繋がっているものなのだ、、。という事、、。(ん?僕はまじめだったんだろうか、、?)オラトリオであろうが、ミサやレクィエムであろうが、その歌詞の内容を把握し歌う、ということは、演技とそう遠く無い行為だ、、という事、、。歌詞を翻訳する時、、意味がもう一つ良くわからない箇所があれば、必ずやってきた事は、身振り手振り、果ては、立って動きまでつけて、「現場検証」の様な事をやりながら意味を咀嚼して行く、、。同じかも、、もちろん、オペラにはオペラのセオリーがあり、僕がその事に不馴れな部分は否めない。でも、歌である以上同じ所もあるにはある、、。そして時代によって、様式、モード等、違う部分も勿論いくつもある、、、しかし、その違いの理解は決して不利には働かない、、。むしろ今後有利に使う可能性が充分にあるのでは、、そう感じた、、。(to バロックオペラ、、、?!ん~。。) 奈良フィル合唱団、管弦楽団の皆さん、、ありがとうございました!! 2007奈良フィルニューイヤーコンサート指揮:関谷弘志管弦楽:奈良フィルハーモニー管弦楽団 合唱:奈良フィルハーモニー混声合唱団ナビゲーター: 矢田部義弘(ザラストロ) ソプラノ: 大原末子(パミーナ) テノール: 茶木敏行(タミーノ) バリトン: 今泉仁志(パパゲーノ) ソプラノ: 奥田真由美(夜の侍女1・童子1) ソプラノ: 笠谷万友美(夜の侍女2・童子2) ソプラノ: 千葉麻紀子(夜の侍女3・童子3) 奈良は以前、狂言を演じた時、薪能を見に行った。それ以来、久しぶりに奈良に行く事が出来、大学時代の声楽の先輩であり現在は指揮をされている樋口博史さん、矢田部先生のお弟子さんのお一人でソプラノの宋茜さんにも偶然、本当に久しぶりにお会いする事も出来た、、。
January 27, 2007
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1月25日と26日の二日、CDのレコーディング、第一回目が昨日終了しました、、。今、CDの製作中です。 録音場所は宝塚ベガホール、、石造りのとても響きの素敵なホールです。実はこのホールは初めてプロとして舞台に立った思い出の場所でもあります、、。CDの内容はまだ、どういった内容になるか、確実な目処が立ってからお知らせ致します、、。多くの共演者の方に演奏をお願いしているのですが、今回のホール録音での演奏は、、、ピアノの金子浩三さん、同じくピアノに加え足踏みオルガンも弾いてくれた中村文美さん アイリッシュフルートと竹笛のhataoさん、三味線と尺八の児玉宝謹さん、、実はコーラスの指導をどこかで協力頂いた事のある人たちです。そして、スタッフは、、コウベレックスの末岡志麻さんがディレクターBeatshopの水谷昌博さんがエンジニア、、僕の歌の生徒さん坂田知香子さんが主催、、という録音セッションでした。 一日目は赤阪友昭さんに撮影に入って頂きました。二日目には元ホールスタッフでテノール歌手の真木喜規さんも午後から来てくれました。また、シンガーソングライターのma~naさんも遊びに来てくれました。今まで録音の仕事は良くやりましたが、今回の様な自分が自主制作するCDの録音は初めてです。準備の段階から自分が主催すると、何もかもがまるで違って見えて来ます。最初の一声を出すまでの緊張。最初の一曲を歌い終えるまでの緊張、、、しかし、この緊張を受け入れて、何枚もCDが作れたら、、上手くなれる事はわかるのだけれど、、、、、 そして録音自体も、、わかっちゃ居たけど、、ベストテイクというものは中々あるものでは無い!!何処からをやり直す演奏と判断するか??何処までを今の自分として受け入れるか??しかし、共演者のみんなが録音という緊張の続く作業と格闘してくれているその姿を見ていると本当に沢山のエネルギーを貰いました。もう感謝の気持ちで一杯です!昨晩帰ってから、こんなメールを共演者のみなさんに送りました、、。------------------------------------------------------------------------本当に2日間有難うございました。僕にとっては不思議な2日間でした。音楽に丸2日、あれだけの密度で集中出来た事、しかも本当に素敵な仲間に協力して貰えた事。真摯に音楽へ向かう皆さんの気持ちと一緒に音楽に向き合えた事。体や喉の疲れはたしかにありますが、心地よい疲れとして味わっていたい様な感覚があります。。本当に幸せな時間でした。今はただそれだけで、本当に感謝で一杯です。この様な時間を与えて下さった神様(?)に、そして皆さんに心より感謝致します。お疲れ様でした。今泉仁志------------------------------------------------------------------------本当にこの気持ちのまんま、、です。あ、録音初日は僕の、そして「蛍の光」で有名なスコットランドの詩人ロバート・バーンズの誕生日でもありました、、。外から応援を兼ねBirthday Mailを送って下さった方たちにもこの場を御借り致しましてお礼申し上げます。ありがとうございました、、。とても嬉しかったです。次はスタジオ録音だ!!
January 27, 2007
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明日(正確には今日)は震災から12年、、。色んな事が頭の中を過る、、。実は「古の」シリーズは明日まで続けるつもりだった、が、なんやかやでバタバタして思惑どおりには運ばなかった。でも、明日を過ぎても暫く、僕の古郷の街の事を書いて行きたい。マイミクのグレンMさん、、あの震災の年のお正月は「山の声」の皆で六甲を登り、初日の出を拝みましたね。素晴らしい夜景を背に山を登りました。頂上は真っ白な雪で覆われていて、、本当に素晴らしいお正月でした、、。その数日後の出来事でした。色んな思い出の場所が一瞬でなくなりました。場所だけでなく、大切な人も。僕は地震の前日風邪をひいていました。夜には40度近い熱もありました。でも、あの朝は全てを忘れさせました、、。瓦礫から人を掘り出し。友の荷物を運び、安否の確認にあちこち走り、、。登山靴を履き、冬山装備のまま、走り回って一週間以上が過ぎました。ホッとしたその時、、体がゾクゾクッとして、、「あ、僕は病気だった、、。」と思い出しました。激しい目眩が僕を襲いました。地震の前日寝込んでいたのだから、良くここまでもったものだ、、と自分では思っていました。が、そんな大変な時にも関わらず、僕が「地震で弱って倒れてしまいよった。」と事実関係を直接知りもせずに風評を流す様な輩もいました、、。その事には本当に怒りを遥かに通り越し、悲しい、、という他なかったです、、。こういう時でもそんな輩はいるものなんだ、、それも、学んだ事の一つかもしれません。明日も、この続き、、、書けたら書いてみます。
January 16, 2007
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「古の」四回目は、、、居留地です。居留地は元々湿地帯で神戸を訪れた欧米の商人たちがその土地の地盤を整備し、当時の英字新聞"The Far East"をして、東洋一の居留地と云わしめる街を建設します。この居留地は英国人J.W.ハートという土木技師によって設計されました。江戸の時代、安政五年から明治32年までの間、日本の中で治外法権の西洋の街が生きていました。メリケン波止場から見た明治時代の居留地の姿です。 上記の写真に写っている「上海銀行」のアップです。王室建築家協会会員の英国人A.N.ハンセル設計です。 そして、今尚その名を残す二代目「オリエンタルホテル」の建物のアップです。六甲開発の父であるかのグルームもこのホテルの建設に重要な役割を果たしました。ラランデ設計です。 そして、艀に乗る人々、、。居留地の住人でしょう、今から祖国へ帰国?の様です。写真に写される事を迷惑がっている様にも見えます。 次もメリケン波止場から見た居留地です。現存する三井商船ビル(現在は大丸が所有)が写っています。ですから、この時代はもう外国人の街ではなく、日本人の街になった居留地の姿です。しかし、多くの帆船の姿を見るとここは日本ではなく上海ではないか、、と思える様な姿です。が、紛れも無く日本の港神戸、の姿です。大正期と思われます。 次に、「東遊園地」です。旧生田川(今のフラワーロード)沿いの今もちゃんと残っている公園です。写真の様子はまるで古きアメリカの様に見えます。この競技はクリケットでしょうか?女性の姿がとても優雅です。手彩色という白黒写真に後から色を塗った写真です。 そして、同じ東遊園地で行われてる野球の写真です。こうしたスポーツを見て日本人が取り入れて行きます。この東遊園地は日本の近代スポーツ発祥の地ともいわれています。 また、ここ東遊園地ではアジア各国を巡る芸能人も訪れ、野外のコンサートやエンターテインメントも催されます。近隣の多くの日本人も楽しみに訪れたという事です、、、。こういった事が後の「ハイカラ神戸」の文化の原点にもなっています。次も、居留地です、、。暫く、神戸の絵はがきを紹介した後、芦屋も紹介します、、。
January 12, 2007
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「古の」三つ目は「神戸元町」の大丸です。子供の頃、小学校の低学年くらい、、三宮、そして元町に出かける、、というと、それはそれは大きな出来事でした。母に連れられデパートへ、というのは本当に王子動物園へ行くのに次いで特別な日。僕の場合は昭和四十年代の初めのころの話ですが、、。大丸自体は創業290年らしいですが、神戸店は昭和2年4月5日に開店しています。建物の外観からして創業当時と同じだと思われますので、昭和初期、だと思います。 上の写真とほぼ同時期の大丸。開店時の大丸は東は夙川、西は須磨まで大八車にロゴ入りの手ぬぐいを積んで宣伝隊が回ったそうです。ということは、江戸の昔の兎原郡、八田部郡の範囲です。 一枚目の絵はがきの部分アップです。「簡易婚礼衣装陳列会」と読めます。恐らくまだ「大丸呉服店」という名前だった頃の写真だと思います。昭和3年に株式会社大丸と名称変更します。 二枚目の絵はがきの部分アップです。当時の農夫?あるいは行商人でしょうか、ともかく、馬車や大八車が一般的な輸送手段であったことがわかります。「市電」だと思いますが、路面電車の姿も見えます。 入り口付近のアップです。沢山の人が行き交っています。写真のこの時代の面白さは、これだけの大通りにもかかわらず車道と歩道の区別が無い。ということかもしれません。 壁面の看板のアップです。定休日が月曜日だったのですね。あれ、今は? 昭和11年10月に現在の様に増築されます。次の絵はがきは昭和13年の阪神大水害の時の様子。六甲もまだ禿げ山の部分も多く、更に砂防ダム等の工事も充分進んでいなかった時代でした。 次回は、「居留地」の予定です。参考文献 和田克巳著・「むかしの神戸」神戸新聞総合出版センター
January 11, 2007
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僕が集めている郷土史の資料には、、、「神戸」「芦屋」「六甲」「摩耶」という僕の古郷を象徴する大きな四つのテーマがあります。2004年後半から古本屋を歩いたり、図書館を巡ったりしながら、どんなモノが世に出ているのかをリサーチし始めました。もちろん、ネットオークションも重要なポイントです。では、、「六甲ケーブル下駅」。別名「土橋駅」です。恐らく昭和初期以前、と思われます。開業当時かもしれません。現在の同駅の写真と見比べて見ると少し作りが違う事がわかります。タクシーの運転手(?)やご婦人たちの服装が興味深いです。今とは全く違い、古い日本の文化が生きていた時代の写真です。 現在の「土橋駅」です。 次に、、昭和前半の神戸の時代の先端を担った「摩耶観光ホテル」です。俗称「軍艦ホテル」と呼ばれていたそうです。ここでかつてダンスパーティーなどを楽しまれた方も多いと思います。今は廃屋となっている様です。が、かつて田村正和の主演するドラマに廃業した「御影のホテル」として登場した事を覚えています。 次に、、江戸時代の人気本「摂津名所図絵」です。「武庫郡、兎原郡」の巻です。江戸時代には武庫川から夙川までの範囲が武庫郡でした。夙川から生田川までの範囲が兎原郡だったそうです。両郡の範囲は六甲山脈でいえば摩耶山から宝塚まで、ということになります。 最後に、、「霊峰摩耶山之図」です。六甲連山の西六甲が注目されるのは明治期、居留地の外国人がゴルフやハイキングをするようになってから。最高峰が注目されはじめたのは昭和の前半の登山ブーム、かと思われます。六甲連山の範囲内でこの江戸享保年間の「摂津名所図絵」にかなり詳しく登場するのはこの「摩耶山」と有馬郡の「有馬温泉」くらいです。 まだまだ、スキャンした画像はありますので、、でも、ぼちぼちとアップして行きます。次回は六甲は一旦お休みし、元町の予定です。
January 10, 2007
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僕の趣味は山歩き、、ですが、最近はなかなか山に出る事が出来ません。近年は郷土史の資料をぼちぼち集めています。その資料の中から絵はがきを実際の画像でアップして紹介します。楽しんで頂ければ幸いです。まずは、六甲。「天狗岩」と記されています。写真の人物は恐らく居留地に住んでいた外国人でしょう。背後の川は住吉川と推測出来ますが、定かではありません。 次に「六甲山開祖の碑」現在の六甲記念碑台です。アーサー・H・グルームの功績を記念して建てられたものです。第二次大戦中に敵国人の碑、ということで写真の碑は破壊されました。この写真に写る愛らしい後ろ姿の女の子、この子もこの写真の少しばかりの後に戦争を体験するのだと思うと、胸が痛みます。 次は六甲山の「ボンネットバス」です。天上が開くオープンタイプなのが面白いです。背後の山を見ると、まだ禿げ山の部分が多く、六甲が明治時代以降に植林された山であった事がうかがえます。 いかがでしたでしょうか。以上の三枚です。次も六甲と摩耶山を紹介します。
January 9, 2007
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良く知っていた訳でもない、、。何度か偶然に一緒にステージにのった事はある。その程度の知り合い、、、演奏だってまだそんなにじっくりとは聴いた事が無い。でも、昨年、彼女の仲間たちに出会った。今まで知らなかった世界を彼等は教えてくれた、、。彼等が彼女の心を伝えてくれた様に思った、、。重い病。意識はある。でも、体の自由が利かない、、。演奏したくても出来はしない、、。「音楽をしたい。」子供の様な表現しか出来ない中、、振り絞ってそう言っているらしい、、。昨年、彼女の仲間とひょんな事から再開し、音楽を共有する機会も得られ、、忘年会でその仲間たちに出会った。そして、演奏も聴いた。その演奏を思い出すと、、涙が止まらない、、。本当に何故だかは良くわからない。人事には思えない。ただ、ただ、生きて欲しい。生き抜いて欲しい、、。ほんの瞬間でも彼女の音楽する姿を知っている、、。音楽を語る姿を知っている、、。そして、彼女の仲間とその音楽を僕は見た。体が今この瞬間、ちゃんと動いている僕には何も出来ない、出来る事を出来る間にとことんやりたい。ただ、今の状況を受け入れて、出来る事をやっていきたい、、。彼女にとって良き先輩の一人になれる様に、、、まずは、、一緒に「今」という時間を生きよう。
January 2, 2007
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あけましておめでとうございます今年もよろしくお願い致します。2007年元旦 初日の出の写真です。家の窓から撮りました。大阪湾を挟んだ対岸、奈良の山々から初日が登ります。その昔、浪速や奈良の人たちが大阪湾の対岸の山を「向こうの山」と呼んだのが「武庫山」となり「六甲山」となったと云われています。日本書紀にも「武庫」の名前が出てきます。またその昔、奈良の都から対岸を見ると、お釈迦様のお母さん摩耶夫人がある山の上空に姿を現しました。その山が「摩耶山」、、という言い伝えもあります。丁度、この写真を撮った場所の背面が摩耶山です。そんな奈良の山からの初日の出です。まだ、薄暗い夜明け前 次第に白みはじめますもうじき初日です 初日! あけましておめでとうございます 2007年が始まりました。今年もどうぞよろしくお願い致します。 どうか、この日の出のような気持ちで一年過ごせます様に、、。
January 1, 2007
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