2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全11件 (11件中 1-11件目)
1
十五年ほど前になるだろうか、宮沢賢治をテーマにした絵本展というのが神戸の元町で開催された。その会場となったギャラリーで僕はコンサートをやる事になり、そのために慌てて宮沢賢治の作品を読んだ。星めぐりのうたやドッテテ、ドッテテ、ドッテテ、ド、と始まる電信柱のうたなども彼は書いている。作詞のみならず作曲もしている。「雨ニモマケズ」は僕ですら暗誦出来るほどの大変有名な詩だ。東北岩手のイメージもこの詩で僕の中につくられた。数年前にラジオを聴いていて、この詩のイメージがひっくり返った。加藤和彦が骨折して入院中、病院の天井を眺める毎日で、ふとパズルが解けた様に作曲した、という「雨ニモマケズ」。以来、この曲が忘れられなくなった。そしたら、すぐ後でフォークルのCDで再会。で、、二日ほど前、現在製作中のCDジャケットの打ち合わせで写真家の赤阪友昭さんのアトリエを初めて訪れた。赤阪さんはフーメイの等々力さんの紹介で一昨年からのおつきあい。こたつを囲み奥さんも交え手料理のお昼をごちそうになっているとき、ふと、壁に目をやると、「雨ニモマケズ」の詩がある大きな木版画が、、、目に入ると同時に十数年前の絵本展の事が蘇り、その事を話すと、、「そこで買ったんですよ。」「え?」僕と赤阪さんは十数年前に既に出会っていた。ということは、版画の作家の絵描きさんも共通の知人。その絵本展の会場で赤阪さんは僕の歌を聴き、その会場で「雨ニモマケズ」の版画を購入したとのこと、、今回CD、めでたく赤阪さんの写真を使う事になった訳です。そのCDの曲の中の一曲には加藤和彦さんの「雨ニモマケズ」が、ちゃんと収録される予定になっていたのです。
January 31, 2008
コメント(2)
今現在。日常と言われるこの時、この一瞬でも、阪神大震災クラスの災を経験している人はどこかに居る。事故かもしれない、病かもしれない、事件かもしれない、その被害の当事者も苦しく悲しく辛いかもしれない、が、当事者は結構達観していたりする場合もある。でも、家族や身内こそ苦しみ足掻き、一生ずっと背負わなければいけない人も居る。ただ、あの日、13年前の今日は共感、連帯、があった。が、普段「日常」の中ではそれは無い。「日常」の中で、災いを被り、側の誰かに共感や連帯、それを得ようとする行為は浅ましくさえ映る。簡単に理解は得られない。周りも本人も家族も、救いの方法が見いだせない、わからない、、。その事が最も大きな災いを生む事もある。「日常」とは実に様々な人の人生の局面を内包している。今、現在の自分自身が『穏やかである。』そう思えるからこそ、また、「日常」だ。と、思えるからこそ、、一層、日常に内包されてしまっていて、今、この一瞬、どこかで孤独に存在している「非日常」に思いを馳せてしまう。今日のブログは、以上で終わりです。
January 17, 2008
コメント(0)
非日常。一期に、街ごとそうなったこと。その事は確かに「非日常」だった。確かに皆がその被害の渦中に居た。しかし、多くの言葉を発する事無く、理解をし合い、共感し、連帯感も生まれた。その事で実に素晴らしい体験をした。多くの言葉も交わさずとも、目を見て合図をするだけで、又は一言声をかけるただけで、男手が瓦礫のところへ集まった。若い男性はやがて交通量が多くなった交差点で自らすすんで信号機に代わり交通整理を始めた。皆が、誰もが優しかった。その事も非日常だったかもしれない。一方で、、大阪で被災者救援コンサートをするという事になったらしい。ノーギャラで演奏し収益を被災者に送る、、というもの。関係者のある一人で北神戸の人が被災の街からその「仕事」に這々の体で無報酬のボランティアに出かけた。詳しい事は判らないので、安直に是非の判断は出来ないかもしれない、しかし、その話を聞いたときその時期から見ても『???』という気持ちになった。フリー音楽家の宿命?また、火事場泥棒も目撃した。地震から数日も経たない日、オーディオ電化製品を後部座席に山積みにした車。まだ獲物を探しているのか、、その車は芦屋を走っていながら、、まだ、西へ向いて走っていた。路上ではおにぎり二つで1000円。という行商人も現れ始めた。正義の報道のヘリが、救いを求めるいくつものか細い声を、かき消したのは今更言うまでもない。その点を報道機関が反省し、その後の震災報道では生かしてくれている様だが、、、あの日、プラスに見えた事も、マイナスに見えた事も、、皆が一所懸命に生きている、、という事の証なのかもしれない、そう思い始めている。音楽家の苦しい状況を少しでも救済するきっかけに、、使えなくなった電化製品を修理して売って、少しでも家族の為に、、懐の暖かい人、でも今だけ食べるものに困っている人そんな人におにぎりを売って、普段からでも苦しい生活を助けて欲しい、、そんな気持ちの人など全く居なかった、とは誰も言い切れない。兎にも角にも、街全体で見れば確かに「非日常」であることは間違いなかった。
January 17, 2008
コメント(0)
震災当日に話を戻す。やがて、人の動きが慌ただしくなって来た。多くのヘリコプターが蠅の様に上空を舞い始め、西の空には黒い煙と赤い炎が立ち上がり、救急車や消防車のサイレンの音がけたたましく鳴り響き、テレビではクリントン大統領までもがこの街の事を演説で力強い声で話していた。テレビのニュースにに映し出される光景を見て、今身の回りで起こっている事がこの事なのか、、と改めて認識した。周りの人たちも「非日常」という言葉を頻発していた。この身近な「大惨事」で知った生の「報道」の体験もさることながら、、頻発される「非日常」という言葉。この言葉は僕にとってはとても不思議だった。正直なところ、、この災害が非日常とは僕には全く思えなかった。「あ、あかん、頭、割れてる。」瓦礫の中に潜って家の中を確認した男の人の声。続いて破裂する様な女性の鳴き声。その女性はそれまで「おかあさん?」と言ってその家に向かって何度も声をかけていた、その女性の声だった。それまでそこで立ち話をしていた僕はこの光景を見ては居なかった。視線を向ける事が憚られた。そこに居た他人である誰もが、その声に全神経を注いでいたが。皆、ただ黙って地面を見つめていた。僕はかつての我が家の毎日を思い出した。この重苦しい空気の中ではいけない事、、と思いつつ、「懐かしい」と感じていた。かつての我が家の空気と全く同じであった。同じ様に妹が泣いた日の事を思い出した。10年間の戦いの日々を思い出した。友人の親族も瓦礫に埋まり息を引き取った。コーラスのメンバーも娘さんの目の前で生きながら焼かれつつ、娘を助けようと最後の声を振り絞った。いつも練習場でメゾソプラノのパートを歌う時のその喉から、、。「早く逃げなさい。」そう最後の声を発した。かつて我が家に起こった出来事が、その日、一期に街中で起こっていた。その皆に、僕は大きなシンパシーを感じていた。街は瓦礫と化していたが、登山の感覚でいけば、ほんの少し歩いただけで電車に乗れる。財布にお金さえあれば、キャッシュカードがあれば何とでもなる。冬山登山の経験の在る登山仲間で集まれば、もっと切羽詰まればその道具で水は山にも汲みに行ける。イノシシだって山に穫りに行けば良い、、。山菜もあるし、海には魚も泳いでいる、、。そんな事も真面目に考えていた。だから僕はその日から一週間、無我夢中で動いたのかもしれない。いや、動けたのかもしれない。
January 17, 2008
コメント(0)
今日は震災の日です。あの地震の日に感じたそのままの思い、を書いてみようと思います。最初の一週間は、自分の事は全く考えもしなかった。人の事しか考えられなかった。家族も家も一応無事だった。直後の街は、その被害の様相に比べると、まだ何が起こったのか認識出来ていない様子だった。ただ、しーんと普段以上に静まり返っていた。時折、斜めに傾いた家の窓から人が這いずりだして来る位だった。ぺしゃんこの家ほど何の物音もせず、、ただ、薄暗く静まり返っていた。夜があけて事の理解が出来ると、埋まっている見ず知らずの人を掘り出し、友人や友人の家族の安否を確認し、友人の荷物を運び、100リットルのリュックを担いで大阪に出て、持ち合わせのお金でミルクをカートン毎買い、山道具屋でガスボンベやガスカートリッジを買い、近所の避難所に届け、また、荷物を運び、、マウンテンバイクで三宮まで走り、ポリタンクに水を汲み、また、マウンテンバイクで走り、食料を集め、運び、走り、、、一週間が過ぎて、1月25日。阪神電車も芦屋駅まで復旧し、、荷物運びも一段落し、崩れかけたマンションの部屋で、ほっと一息つこうと座ったとたん、もの凄い悪寒が襲って来た。この日は僕の誕生日だったので忘れもしない、、。そのとき、自分が病人であった事を思い出した。地震の前日僕は40度近い熱を出していた事をすっかり忘れていた。40度の熱があっても一週間は踏ん張れる事をそのとき初めて知った、、。でも、、、リバウンドはその高熱以上に凄まじかった。生まれて初めて目眩というものを経験した。凄まじい目眩だった。立てない。歩けない。何もかもが廻っていた。今度は助けた人たちに助けられる側になっていた。
January 17, 2008
コメント(0)
![]()
クラシックやバロックの歌の声は、ソプラノ、アルト、テノール、バス、、などの高声や低声、あるいは中声といった概念で声を捉えていて種類を分けられている。しかし、実際、アイルランド民謡を歌うために、日本やアイルランドで「民謡」のフィールドワークをやってみたが、そういったクラシックやバロックの声の高い低い、という観点で声種を分けるという声の捉え方に出会った事がただの一度も無かった。パート、役割、役柄が予め存在しているのでは無く、その人の声がどんな声なのか、、ただ、それだけである。これはどうも日本民謡、沖縄民謡も同様の様である。で、結果的に、、、だと思うが、アイルランド民謡では低声の歌声が少ない、殆ど出会った事が無い。知る限り、ダブリナーズの歌声位である、、ソロアルバムを出している人では低声歌手など全く知らない、、。日本民謡では皆無と言っても良い。日本民謡の場合は訓練で男声でもアルトの音域にまで声を日本民謡独特の発声法で引っ張り上げて作って行く様だ。逆に言えばクラシック音楽系統の発声はその独特の発声法により日本民謡的なそういった声の出し方はしていない。その方法を用いれば低声歌手が存在しなくなってしまう。ソプラノ、アルト、テノール、バス、、といった声種の分け方も決して普遍的な方法ではない。クラシックやバロックの西洋音楽独特の分類方法である。例えば夏川りみさんの歌声、一緒に歌ってみれば判るが、クラシックのソプラノの様な高い音域では決して歌っていない。しかし、声の響きはソプラノといっても良い。アイルランド民謡の歌手も同様な声質の歌手が多い。バリトンやバスの様な豊かな響きは持っていないが、音域はテノールには届かない、、しかし、響きは敢えて言うならテノールのそれである。バスやアルトの日本民謡の名人に出会った事があるだろうか、、?クラシック系のソプラノやテノールの歌手で沖縄民謡やアイルランド民謡をレパートリーにしている人と、アルトやバスで沖縄民謡やアイルランド民謡をレパートリーにしている人、、それぞれどれだけの割合で居るか、、、ネット上で、CDショップで、コンサートで、、一度調べてみては、、????以上、、藍川由美さんの「アジアの唄声」Camerata 30CM-562を聴きながら、、、低声歌手が思ったこと、、でした、、。音楽の種類の数だけ、声の出し方も様々ある、、。
January 13, 2008
コメント(2)
子供の頃、音楽の勉強を始めていないころから声、というものにとても興味があった。ボーイソプラノの頃(多分)はどこまで高い音が出せるか声を出して遊ぶのが好きだった。記憶は変化するものだけれど、、もし間違いが無ければ、額の副鼻腔に響かせて遊んでいたと思う。テレビのアニメソングや歌番組で聴いていた少年たちや女性の声に張り合って、そういう声をイメージしていた。そんな僕の歌声を小学校一年の時の担任の先生が聞いて、神戸放送児童合唱団への入団を親に進言していた。親から「どう?」と訊かれた僕は即座に「No!」と返事していた、、。音楽を生業としている今になって思えば、、、ああ、、、惜しい、、、(涙)その後、変声期に入り、高音を失い、悲しかった、、が、やがてやって来た低い声、、今度はそれを使って楽しんでいた。羽佐間道夫、広川太一郎、若山弦蔵、矢島正明、の物まねをして友達に聞かせて遊んでいた。そして、気がつけば僕は音楽をやる様になり、音楽大学の声楽家に入り、気がつけばバッハ何か歌ってたりする様になっていた。ある時期から結婚式や宴席で手塚治虫のテレビアニメの主題歌「ジャングル大帝のテーマ」を歌う事が多くなった。ドイツリートやカンタータも歌った事があるけれど、結婚式には良くても、宴席では、、、どうも、、??無理にポップスや流行の歌を歌っても、、これも、、どうも、、??しかし「ジャングル大帝のテーマ」だと、なかなかのものである、、。そうやって改めて今、自分が歌ってみれば、この曲は実に名曲だと思う。大人に成ってから判ったのだが、渡辺岳夫の曲も好きな曲は多かったが、冨田勲の曲でお気に入りの曲が多かった。「新日本紀行」「ビッグX」「リボンの騎士」スケールの大きさに惹かれていた。(「ビッグX」は低予算だと思うけれど、、)そして「ジャングル大帝のテーマ」この歌声が声楽界の大先輩である平野忠彦先生の歌であった事も後で知る、、。先達の良い仕事が次世代の感性を育んでいてくれた、という事を後に成って知る。本当に有り難い。子供向けの仕事も決して馬鹿には出来ない。子供の頃、人生で初めてちゃんと聴いたクラシックのバスバリトンの声。それが「ジャングル大帝のテーマ」だった。間違いなく、カッコいい!そう思って聴いていた。この曲と向き合っていると、無垢な「歌う喜び」を思い出させてくれる。
January 9, 2008
コメント(0)
クラシックやバロック音楽など西洋音楽で叩き込まれたものが僅かでも無ければ、、きっと、このとき比較して示す事は出来なかったと思う。日本の地の上に西洋が乗っかった自分。学んだものだけで無く、体の中にある血や肉と同列の様に、、。学んだ覚えなど無いものも確かに在る。だから、日系人の人たちの前で演奏したとき、今度は、これで良いのだろうか??という疑問を感じた。「片子」という言葉が自分の頭を過る、、。でも、日本に帰れない人も居る、故郷の事を思う人たちを前に、舞台では出来る限りの事をやった。歌っていて「五木の子守唄」の歌詞の中身が胸に突き刺さって来た。初めての経験だった。歌い終えて、、ポルトガル系ブラジル人の音楽史の先生が「オーナメントが素晴らしい!」と、上気した表情で褒めてくれた、、。褒められる事は嬉しい。でも、意外な評価を受けて戸惑いも感じた。日本に帰って「お母さんコーラス」の指導をしたとき、、<アメリカ人の音楽家に教えた事><日系人の人たちが故郷の日本人に求めるもの><異国の人に評価されるもの>その全てがそこに在った。正に原石としてはっきり在った。それが根を生やしここに在る。西洋音楽が染込んでいなければいない程、そこに在った。それは、普段から見慣れた、極ありきたりのものであった。異国の地で見たものの感動も大きいが、帰って来て見えた事の感動も大きい。残念に思うが、その「在るもの」は、技術的にソフィスティケートされたものは評価される。が、日本ではあるがままではどうもいけないらしい。揉み手、、というより手を摺るあの独特の手拍子、、そんな手拍子をする人を今は殆ど見なくなった。アメリカ人の名手、、実は「五木の子守唄」歌い回し、、実は知っていたんじゃないか???そう思う。きっと僕は彼のフィールドワークの手法に掛かっていたのだと思う。そしてこれだけの事を逆に気付き、発見させて貰った。-----------------------------------------そんな体験の象徴が僕にとっての「五木の子守唄」です。
January 5, 2008
コメント(0)
今日から何曲か、、歌について書いて行きます。まずは、、「五木の子守唄」です。では、、-------------------------------------------------------------「五木の子守唄」熊本の方の子守唄。。詳しい事は良くわからない、、。が、この歌はあるときからとても想い出深い歌になった。それは、南米ボリビアでの事、、。そこで尺八の名手と出会った。彼から僕は初めて日本の古典の名曲を教わった。「巣鶴鈴慕」「鹿の遠音」、、恥ずかしい事に、これらの名曲をそれまで知らなかった、、(??ボストン美術館の浮世絵展、、?)アメリカ人の名手、実に素晴らしい音楽家だった。帰ってから古典の演奏にもいくつか触れたが、彼の演奏は日本人の名人と比較しても遜色等無い。それどころか凌駕しているといっても良いくらい、本当に素晴らしい古典を演奏していた。彼と日系人会館でコンサートをする事になった。『日本人だから日本民謡、出来るだろ、、』という事で生まれて初めて人前で日本民謡を歌った。今思えばこの一言は大きな出会いだったと思う。その練習のとき、、曲集の中から次々と民謡が提示される、、。知らない曲も多かったが、知っている曲も以外に沢山あった。練習が進んで行き、、そして、気がつけば、、『この曲はこんな感じの曲で~』と、教えている自分が居た。その中でも特に記憶に残っているのが「五木の子守唄」西洋の子守唄とは違って、表面上は子守りをしている歌なのだが、口減らしで家を出された小さな子供が子守りをしながら歌う、、その「子守り」自身の思いを歌った歌。それが日本の一般的な「子守唄」。だから、こういった曲調で、歌い回しはこうなって、、テンポはこうで、、で、一般的に日本人のリズムの取り方はこうだから、、と、西洋音楽のリズムの取り方と比較して手拍子してみせたり、揉み手を教えたり、、。自分の中にあるものにそのとき初めて気がついた。
January 5, 2008
コメント(0)

コンピュータのソフトと云えば、良く使うのはブラウザやメーラーなどの一般的なものの他に、Photoshop、Illustlator、Finale、Golive、iTunes辺りを僕は良く使う、、。Officeはからっきしダメなのである、、。Wordでの文書のやり取りには結構頭を悩ませていたりする、、。Excelは何が何だかわからない、、という状態。実は、去年の暮れに”ProTools”というソフトをヤフオクで落札し購入。最初は何をどう買えば良いのか最初はわからなかった、、が、レコーディングエンジニアのMさんが教えて下さったものから入札。無事落札後、今年に入って手元に届いたので少し練習、、、。”ProTools”といっても"ProTools Mini"で、プロユースと同じソフトではあるが最低限の機能だけあって、どうもコンパクトな仕様になっているらしい、、。ちっちゃなインターフェイスが付いていてそれでオーディオ機器、マイク、MIDIキーボードなど、外部からの音が取り込める、、。使い方を兎に角覚えようと、、試しに使ってみたら、、、びっくり、、多重録音が簡単に出来る!!子供の頃、親のラジカセ(モノラル)とオープンデッキ(モノラル)を使い、内蔵マイクで自分の歌を録音しピンポン録音、、というものをやっていたが、、遥かに簡単に多重録音が出来る。しかも当然ピンポンの様な音質の劣化など、、あろう筈も無い。凄い時代になったものだ、、と、つくづく思う、、ピンポンをやってた頃の自分を思い、、その自分が健気で愛おしく感じてしまう、、。<試しに二つテイクを録ってみました。>"Matona mia cara 1""Matona mia cara 2"無様な演奏ですが、、(汗)指導している合唱団の方が遥かに上手です、、。戯れ事としてお聴きください。30年ぶりのお遊びです、、。一人で音が完成されて行く様子は楽しい、、。ただ、でも、、やっぱり演奏って人間同士でするものだよな、、と、改めて実感出来てしまいました。ちゃんとした演奏技術が無いと、こういった行程にも耐えられ無いんだな、、と、本当に実感。技術的なポイントを明確にして、練習の補助道具とするには良いかもしれない。客観的に聴くとあやふやなフレーズ感や解釈の曖昧さも自身の身に突き刺さって来ます。ちょっと試しただけだけれど、、色んな課題がいくつも見つかった、、。色んな声部の声のコントロール、、、特に、ファルセットが最近下手だ!!!!!でも声帯のコンディションの為には必要、、、あと、本当に多重録音するのなら、、良い機材と、良いミキシングや編集の腕と経験、、それに、良い空間!!楽器とおんなじ事かも知れない、、。あ~、、やっぱり、、¥¥¥、、???否、人。だと思う。そして自分の志、、と心、、と、年の初めに、色々と昨年の自分を省みる、、、どれだけ録音技術が進歩しても、やはり元の演奏がダメならどうしようもない、、。音楽はやはり生が一番、、。でも、録音することで演奏技術は明らかに試される、という事も昨年から実感しています。
January 3, 2008
コメント(4)
みなさま。昨年はお世話になりました。いくつもの糧を与えて頂いた2007年も過ぎ去り、新たな年が始まります。今年は喪中なので、、新年のご挨拶に代えて、年頭所感(というほどのものか、、)-------------------------------------------------------------------文化が音楽を生み、楽器を生み、声を生む。文化とは計り知れないもの。私一人の限られた言葉で、到底語り尽くせるものでは無い。考えの及び届く様な存在でも無い。今、ここで、自分が生きている文化も声を持っている。私の体が、楽器そのものであり、私の生き様が、楽器そのものでもある。生きるため、生活するため、その中に生きてあるものが声。だからこそ声、そして歌は、人の文化の形をして歌う。生きるための道具やものが、楽器に成る事は出来ても、楽器が、生きるための道具やものへ、、、そうなることはあるのだろうか、?何を望み、何処へ行こうとしているのか。私と私を育んでいる文化も、、私の見ているものは、私の生まれ育った足下の土には無かった。私の生まれ育ったものが、憧れ続けていたものを私も見ている。ただ、憧れを知るのみぞ、、-------------------------------------------------------------------Nur wer die Sehnsucht kennt !!憧れを忘れない様に、、そして、みなさんの憧れと繋がって行く術を今年はしっかり身につけて行きたいと思います。どうぞ、本年もよろしくお願い申し上げます。Nur wer die Sehnsucht kenntWeiss, was ich leide!Allein und abgetrenntVon aller Freude,Seh ich am FirmamentNach jener Seite.Ach! der mich liebt und kennt,Ist in der Weite.Es schwindelt mir, es brenntMein Eingeweide.Nur wer die Sehnsucht kenntWeiss, was ich leide!
January 1, 2008
コメント(0)
全11件 (11件中 1-11件目)
1

![]()
