全2件 (2件中 1-2件目)
1

「「日差し浴び 初夏の景色に 若葉冴え」 思うところがありまして、このプログを暫く休止させて頂きます。 本当に長い間、お世話になりました。 皆さまのお蔭で五年間も、このプログを続けることが出来、心から感謝を申しあげます。短編、長編作を何編も掲載でき、こんな幸せはありませんでした。暫くと言っても半年以上はかかるでしょう。 昨日から、ワープロで小説を書いております。これが新しい挑戦と考えております。これが終るまでの期間、休止いたします。 不器用なわたしはプログと平行して進めることが出来ません。 ですから下手な朝のご挨拶も、これでお仕舞いにいたします。 これからは時々、時間の許す範囲で内緒で皆さまのブログを拝見に参ります。時にはコメントも残そうと思っております。 これから梅雨に入りますが、どうかお体にはご自愛下さい。 本当に有難うございました。名残惜しく感じます。 なお、このプログはこのまま残して置こうと考えております。 再び、お逢いすることを楽しみにしております。 龍5777
May 11, 2009
コメント(84)

「織田信長を考える」(最終回) 信長の考案した方面軍制度は、画期的な成果を現していた。 だが、それは信長にとり諸刃の剣であった。 あの武田信玄でさえ、甲斐を治め信濃攻略を終え、念願の駿河を手にするのに二十数年の年月を要している。しかも自ら陣頭にたっての結果であった。それに比べ、信長は安土城から各軍団に命令指示を与え戦果を拡大していた。それぞれの軍団長は自分の直属部隊に、信長から与えられた与力大名の兵を傘下とし、二万から三万の軍勢を擁している。 これは一昔の有力戦国大名に匹敵する大兵力である。信長から見れば自分の配下であるが、方面軍の中では軍団長は主人に等しい権限を有していたのだ。それだけに信長は彼等の扱いを慎重にしなければならなかったが、信長はそうした配慮の一欠けらも見せなかった。 天正八年一月には、播磨の別所長治の三木城を羽柴秀吉は兵糧攻めで長治を自害に追い込んで攻略していた。有名な「三木の干殺し」である。 三月には五年間も続いた石山本願寺が、正親町天皇の調停を受け信長の和睦を受け入れ、四月九日に顕如は本願寺から紀伊雑賀の鷺の森に退去し、それに反対した新門跡の顕如の子、教如も七月に信長と誓紙を交わし雑賀に去った。その際、本願寺から火が揚がり三日間にわたって燃え続け全てが灰燼に帰したのだ。十一月には北陸方面軍の柴田勝家が加賀一向衆を鎮圧し首謀者、十九人の首級を安土に送っている。 こうして信長は念願の古い権威の象徴であった、一向一揆を全て鎮圧した。 まさに武装教権の最後であった。話は前後するが信長は八月に織田家の諸将等が戦慄することを実行したのだ。まさに青天の霹靂であった。 信長はわざわざ大阪に出向いて、自筆の十九条の折檻状を宿老の佐久間信盛親子に突きつけ、追放を申し渡したのだ。 佐久間信盛は、弘治二年の信長の弟の信行擁立事件の時から、首謀者の柴田勝家に対抗し信長を支持してきた歴代の重臣であった。 その宿老を石山本願寺を五年間も落とせなかったという理由のみでで追放するとは、余りにも非道すぎる処置であった。 宗教戦争ともいうべき戦いに勝てなかったとはいえども、それは信長の所為であり、非を老臣に押しつけるとは、家臣への情も人の心も無視した態度である。佐久間親子は取るものも取りあえず高野山に登ったが、さらに追いうちをかけるように、高野の住まいも許さぬと云われ、二人は紀伊熊野の奥に逐電し翌年の七月に大和十津川で信盛は死亡した。 歴代の功臣と云えども、臣下は臣下、今の信長に益をもたらせない者は一人もいらぬ。そうした苛酷な行動に家臣一同は震いあがり戦慄した。 こうした処罰を終え京に戻り、佐久間より上席家老の林佐渡をも追放したのだ。理由は弘治二年の信行事件に、連座した科であった。これには佐久間の追放を諫言した罪もあった。その追放劇は林佐渡だけでなく、安藤伊賀守父子、丹羽右近の二人にもおよんだのだ。 その訳は甲斐の武田勝頼の攻略と、中国攻めに対する組織の締め付けを目論んだ処置であったようだが、結果的に信長は大いなる失敗をしたのだ。 天下を制覇するということは、味方を広げることであるが、側近中の側近で信長の幼少時代から自分につくしてくれた老臣までも敵にするようでは、天下制覇なぞ望むべくもない。信長はこうしたことで遣れると判断したようだが、人間とし無知であり、極端なほど自信過剰に陥っていたようだ。この事が結果的に信長の運命を塞ぐことになるのだ。 あれだけ先見眼をもち、革新的な施策を持った男が部下の心理を見透かすことが出来ないことが不思議である。生まれついての殿さまはやはり、そうした者なのか、そうは考えても、武田信玄や上杉謙信等は家臣の配慮に気配りし、その為に家臣は絶対的に忠誠を誓っていた。 方面軍団長で織田家の譜代でない武将達の心境は、どうであったのか。 こうした信長への不審感は、織田家の諸将等になにをもたらしたというのか。 非道な主人で云うなれば覇王である、何時なんどき自分の身に降りかかるか疑心暗鬼となった事は推測に値する。そうした感情を心の底に鬱積させた武将等は、信長への忠誠心を薄れさせ、ただ命令に忠実たらんと思うことは当然の事であろう。それは言葉を変えれば、織田家への忠誠心も薄まることであった。 こうして運命の天正十年を迎えることになる。 三月二日、信長の嫡男信忠が信濃伊那郡の高遠城を攻め、城主で勝頼の弟の仁科盛信が自害した。これを知った勝頼は篭城戦を断念し、完成まもない新府城に火を放ち、小山田信茂の岩殿城へと逃亡した。 だが小山田の裏切りで天目山へと避難中に、織田勢の滝川一益の軍勢に包囲され、田野の地で一族郎党四十名と自刃して果てた。 こうして平安末期から甲斐を支配してきた武田家は滅亡した。 信長は駿河一国を徳川家康に与え、信濃、西上野を滝川一益に分与した。 家康は駿河を貰った礼として、安土を訪れていた。その接待役を明智光秀に命じた信長は、光秀の接待が気に入らず、秀吉の中国遠征軍への参加を命じられた。その上、毛利の領土である石見、出雲の二カ国をあたえ丹波、近江を召し上げるとの上意を受けた。「来るものが来た」と、光秀は思ったに違いない。 自分が松永久秀や荒木村重、佐久間信盛、林佐渡と一線に並んだと光秀は実感したのだ。こうして六月二日の運命の日を迎えることになる。 京の本能寺に宿泊した信長は、明智光秀の軍勢に急襲され、四十九年の生涯を閉じることになる。ここで信長の天下布武の覇業は一挙に挫折した。 余りにも人間という生き物の心を知らなかった男の生涯である。「織田が搗き 羽柴がこねし天下餅 骨も折らずに食らう徳川」 こうした狂歌がある。筆者はそうだとは思わない、信長は乱れた天下を治めようとしたのではない。彼は新しい原則による天下統一を考えていたのだ。たが人々は信長の革命を望まなかった、戦乱に疲れたきった人々は、泰平の世を求めた。秀吉がそれに応じ、家康が秩序ある世界を創造したのだ。そうした天下が出来たことは、信長の人を知らない無知にあったと考える。 普通の大名家ならば光秀を破った秀吉も、織田家の忠臣となり天下を望むような事をしなかったであろうが、彼には心底から信長と織田家への忠誠心が無かったと筆者は考える。 信長の死は織田家の、家臣の頭上から覇者の重石を取り除いたのだ。 今こそ主人に代って天下を取る、そうした空気となったのではなかろうか、事実、秀吉にも勝家にも天下を望むだけの軍事力を擁していた。 清州会談などは、織田家の天下簒奪を目論む会談に見えてくるのは筆者一人であろうか。 完
May 6, 2009
コメント(46)
全2件 (2件中 1-2件目)
1
![]()
![]()
![]()