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「小栗上野介忠順」(224) 遠ざかって行く上野介主従に向って、道子、くに子等女達が手を合わせ見つめている。これが今生での別れと思うと心が引き裂かれる。「貴方ー」 道子は夫の姿が消え失せるまで街道に佇んでいた。今頃になって気付いた、新緑の匂いが一行を包みこんでいる、これが二人の最後の別れであった。 上野介は四人の従者を伴い、細い街道をゆったりとした歩調で歩み、後ろを振り向いたが、残った家族や護衛の農兵の姿を見ることは叶わなかった。「多田金之助、そちに頼みがある。此処から高崎まて脚を伸ばしてくれぬか」 珍しく上野介が剽悍な眼差しを見せている。「高崎で何をいたしまする」「新政府の動きがきな臭い、又一と塚本の様子を探ってはくれまえか」 主人の言葉に多田金之助は無言で肯いた。主人の心配は理解できる。「さらば拙者はここでお別れ致します」 多田金之助は追分に似た街道の分岐点で一行と別れ、高崎へと向かった。 上野介と三人の家臣は、ほどなく東善寺に着いた。寺の周囲は常と変らず 深い静けさを保ち、時折長閑に鶯の鳴き声が響いてくる。「殿、三ノ倉の様子を探って参ります」 大井磯十郎が精悍な顔で申し出た。一同も危惧を抱いていたので任せる事とした。大井磯十郎は百姓姿に身をやつし寺を出て行った。「皆、楽に致せ。官軍も直ぐには襲って来ぬだろう」 三人は上野介の部屋で車座となり、藤七の持参した瑞龍を口にしている。「久しぶりに歩いたので、腸に染みるわい」 上野介が豪胆な笑みを浮かべ湯呑を口に運んでいる。 かれこれ一刻半(三時間)ほどで大井磯十郎が汗を滴らせ戻った。「どうであった。官軍に動きはあったか」「約千名ほどの兵が集結しておりますが、目立った動きはありませぬ」「藤七の言葉によれば、東山道鎮撫使総督府の参謀は二人と聞いておる。一人は土佐の乾退助、それに薩摩の伊地知正治じゃそうな。案外と薩摩は手強い、大軍監の香川敬三も手を焼くじゃろうな」「殿、赤熊(しゃぐま)と黒熊(こぐま)の将校が居りました」 大井磯十郎が思いだし報告した。赤熊は土佐藩の将校が被るもので黒熊は薩摩藩が使っている。伊地知正治は薩摩の精忠組出身で知られた男である。(成程、わしを狙う者は薩摩藩の参謀かも知れぬな) と上野介は悟った。「皆、夕餉は女の手がない。握飯で済まそう」「それは拙者が遣りましょう、沢庵でもあれば宜しいな」 荒川祐蔵が請け負った。こうして権田村も東善寺も夜の帳に包まれた。 上野介は寝酒を持って一人で寝床に座っている。 官軍はわしら主従をどう扱う、これが上野介が危惧する事であった。 そうしたことに思案を巡らし、何時の間にか睡魔に襲われ眠りに就いた。 翌朝、騒々しい物音で目覚めた。「殿、官軍が寺を包囲しております」 荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎の三人が血相を変えて部屋に現れた。「騒ぐでない、万一を考えて新しい衣装に着替えるのじゃ」 そう命じた上野介も、道子が置いていった衣装を纏い、枕元の瑞龍を咽喉に流し込み、寺の大広間へと足を運んだ。 庭には官軍の兵士が銃を構え、厳重に警備している。 上野介は大広間の入口で足を止めた。上座には床几に腰を降ろした赤熊の将校と警護の兵が、左右に控えている。 上野介は臆する態度も見せず中に踏み込んだ。大広間には座布団も用意されてない、彼は床几の前の床板に腰を据え、家臣等は彼の背後に座った。「拙者は東山道鎮撫使総督府の軍監、原保太郎と申す。そこもとが小栗殿にござるか」 中肉中背の男が上野介に訊ね、不覚にも語尾が振いた。剣術のみで今の地位に登りつめた男で、時勢も人物も見る眼のない人物であった。それ故に幕閣で辣腕を振った、目の前の小柄な男が発する気迫に圧倒されたのだ。「それがしが小栗忠順に御座る。背後に控えおるは我が家臣にござる」「左様か、いま小栗殿一行の捕縛の報せを総督府に伝える伝令を発し申した。総督府の命令があるまで、ご一同は我等の監視下に置きます」「ご随意に」「家臣等を部屋に軟禁いたせ、監視は厳重に致すのじゃ」 原保太郎が命じ、兵士を大広間から去らせた。「小栗殿、そこもとは江戸で薩摩藩の藩邸を焼き討ち成されましたな」「それが何か」 上野介がしらっとした顔付で答えた。「総督府では土佐と薩摩の参謀が、今の件を巡って激論を交わしております」 原保太郎が上野介の総督府の内情を告げた。 外様の陪臣と幕府の重鎮の差が、二人と成って顕かとなった瞬間である。「薩摩藩邸の者共は、御用盗と称し夜な夜な江戸の町に盗人、放火など無辜の民を苦しめた報いとし、藩邸の焼き討ちを命じたまでに御座る」 上野介は昂然と嘯いた。 その後、彼は部屋に軟禁され、長い一夜を過ごす事に成った。 明日が勝負じゃ。総督府の尋問には痛烈な反駁を行い、新政府の計画の非道さを衝いてやる。上野介が剽悍な眼を爛々と輝かせた。 これで完結と考えておりましたが、女子の様子なども描きたく、一話追加します。 小栗上野介忠順(1)へ
Jan 31, 2014
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「小栗上野介忠順」(223) 上野介はこの一件が落着しても、気を許すことなく三ノ倉に意を注いだが、怪しい気配がないと知り、彼は二カ月近く権田村で生活することに成る。 彼はこの地に永住を決め観音山に屋敷の建設を始めた。それとともに山頂を開墾し、畑と水田を開く作業も開始した。屋敷が完成すれば家臣たちの住まいを建て、塾を開いて村の若者達に学問を教えることを彼は構想していた。 そんな時期に小高村から用水の掘削の要請を受けた。その村は水利が悪く水田耕作に困り切っていたのだ。上野介は村の尾根の向こうにある稲瀬沢を検分し、器械で測量を行い用水路の場所を決め、村人に指図し1260mの用水路を完成させた。これが現存する小高用水路である。 こうした平穏な生活も束の間で長くは続かなかった。 先に暴徒に味方をした近隣の村の名主達が、小栗家には新政府の大軍を打ち破る兵力を持ち、朝廷に対する反逆の意図があると東山道鎮撫使総督府に訴え出たのだ。これを受けて総督府は、高崎、安中、吉井の三藩にたいし、小栗誅戮の厳命を下した。東山道軍総督は岩倉具定(岩倉具視の子)である。 そんな騒ぎと成っている事を露も知らず、上野介は東善寺の離れの一室で 桜の花を愛で乍、茶を喫していた。「父上、大事が起こっているようにございます」 又一と家臣の荒川祐蔵の二人が緊張した顔で現れた。「何事じゃ」「三ノ倉に東山道鎮撫使総督府の軍勢が集結中とのことに御座います」「何と・・・官軍が」 上野介の脳裡に戦慄が奔り抜けた。その感触は気味の悪いものであった。 事実、高崎藩、安中藩、吉井藩の軍勢が三ノ倉に集結を終えていたのだ。「我が家に対し、何か遺恨でもあるのでしょうか」 又一が顔を曇らせ訊ねた。「そのような謂れはない。東山道の軍勢が押し寄せようと話せば分かることじゃ」 政府からお咎めを被る事など皆無であると信じ切っていたのだ。「又一、三ノ倉の新政府軍の本営に家臣二名を派遣致せ。我等に異心のない事を申し述べて来るのじゃ」 上野介は話せば分かると読んでいた。二人の家臣を三ノ倉に派遣し交戦する意志のないことを伝えたが、功を奏さず、翌日(閏四月一日)、高崎藩の宮部八三郎が兵を率いて東善寺を包囲した。この時上野介は観音山に雨露を凌ぐ屋敷を建築中で、要塞などではなく異心はないので、十分に見聞して、その旨を総督府に伝えてほしいと説明した。さらに大砲や小銃も使者に手渡し抵抗する意志のないことを示した。 観音山を視察した宮部等は謀反の企てはないと判断したが、弁明の為に誰かを高崎まで同道するよう要求した。 上野介は当然の要求と思い、養子の又一と塚本真彦にそれを命じた。 又一と塚本の二人が高崎に向かったあと、三ノ倉に再び軍勢が終結しているという不穏な情報が届いた。上野介は権田村の名主達と相談した結果、会津への脱出を決意するに至った。村役人の中島三佐衛門の案内で一家は諏訪山麓を抜け、湯治場の亀沢に入った。ここに権田村の名主・佐藤藤七が駆け込んできた。藤七によれば、東山道軍の先鋒、原保太郎に捕縛された藤七は小栗一家の脱出を吐かされ、一行が戻らなければ村を焼き払うと脅され、連れ戻すために追ってきたというのである。ぎりぎりの選択を上野介は迫られたのだ。 今となって新政府の魂胆が明瞭に理解できた。わしの命が欲しいのじゃ。 彼等の執拗な態度で漸く分かったのだ。 上野介は一家と家臣等を集めた。「皆の者、権田村に戻れば命は無かろう、ここで女共と別れる」「貴方、何を申されます。ご一緒に運命を共にいたします」 道子が九ケ月の大きなお腹を抱えて訴えた。「もし、わしが権田村に戻り命を失うような事態に成れば、又一も塚本も命はあるまい。そうなれば道子、そちのお腹のややが名門、小栗家を継ぐのじゃ」「どうしてもご一緒は叶えませぬか」「そちも武家の妻じゃ。無理を申すな、会津藩家老の横山主税殿を頼るのじゃ」 上野介が柔和な口調で告げ。村役人の中島三佐衛門を呼びだした。「そちにわしの母と妻子を頼みたい。守ってくれるか」「殿さま、命に代えても会津の横山さまの許にお送り申し上げます」 律儀な中島三佐衛門が、平伏し涙声で了承した。「道子、母上を頼むぞ」 母のくに子、道子、養女で又一の許嫁の鉞子が上野介の前に座った。「さらばにございます。母上は途中で新潟に寄って下され、父上の墓参りをお願いいたしますぞ」 亡き父の忠高の墓は新潟にあったのだ。「承知しましたぞ、 忠順殿、くれぐれも命を粗末にしては成りませぬぞ」「ご心配成されますな、それがしも三河武士の末裔に御座る」 上野介が声なく壮絶な笑みを浮かべた。 彼は中島三佐衛門と農兵達に詳細な下知を与えた。村に戻る家臣は四名とした。荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎、多田金之助を名指しで命じ、残りの農兵は全て女共の警護に付けたのだ。 残る四人には悪いが、犠牲者は少ない方が良い。 上野介は横山主税への書状を認め、持っている金子を全て中島に託した。「さらば一足先に東善寺に戻る」 と一声残し、背筋を伸ばし足早に権田村へと向かった。 もう一話追加で書きます。 小栗上野介忠順(1)へ
Jan 28, 2014
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「小栗上野介忠順」(222) そこには佐藤藤七と村役人の中島三佐衛門の二人が待ち受けていた。「三佐衛門も一緒か、藤七、如何いたした」「上州の農民や不満分子が三ノ倉に続々と集まって気勢を挙げております。 困った事に上州一帯の名主までが、彼等に同調しております」「うむー、・・・・何が目的じゃ」「殿さま、暴徒は人数を集めこの東善寺に押し寄せて参ります。訳は殿さまが江戸城の御金蔵から、金子を持ち出し権田村に隠したと言う、つまらぬ風評を信じた名主や農民等が暴徒化したので御座います」 中島三佐衛門が律儀な顔を曇らせ、暴徒の目的を語った。「馬鹿な、御金蔵に金子が在れば、あのような苦労をしなくても良かったのじゃ」 上野介が苦い顔をした。「殿さま、名主まで暴徒に加わるなんぞは今までなかった事に御座います。如何、成されます」「藤七、そちにも参加の強要があったのか」「はい、三ノ倉に御座います椿名神社が暴徒の巣窟にございます。そこで長州浪人と名乗る男に誘いを受けましたが、村人を説得する為に戻り、後で返事をすると申し、村に立ち返って参りました」 佐藤藤七が申し訳なさそうに巨体を縮めた。「暴徒共は五百名ほどと聞いたが真か」「あの勢いでは千名を超す人数に成りましょう」「父上、銃器の用意が整いました」 又一の声が広間に響き、大井磯十郎を従えた又一が姿をみせた。 上野介が三ノ倉の様子を二人に語った。「風評として笑い飛ばす問題では御座いませぬ。なんぞ対策を立てねば成りませぬな」 若々しい容貌の又一が、そう答えて上野介の顔色を覗っている。「藤七、村の若者を百名ほど集めてはくれぬか」「・・・・」「出来るか」「はい、それでどう成されます」「先ずは東善寺の周囲に防壁を作る。土嚢、木材などを用い堅固に致す。幸い最新式の銃が二十挺はある。更に我が家臣と村の農兵が二十名ほどいる、彼等に寺の防備を任せることに致す」「成程、農兵と申しても、江戸三崎町の仏国教練場で訓練を受けた猛者です。官軍相手でも、ひけはとりませぬな」 大井磯十郎が精悍な顔で肯いた。彼もそこで猛訓練を受けた一人である。「ならばわたし共は村に戻り、若者を集めましょう」 佐藤藤七と中島三佐衛門が同時に立ち上がった。「藤七、暴徒との談判はわしが遣る、心配は無用じゃ」 二人が安堵の肯きをみせ広場を辞して行った。 上野介は腕組みをし思案に墜ちた。金子を五十両ほど持たせ暴徒の頭と談判する。奴等は金が目当である。その前に寺に押し寄せてくれば力で以て撃退する。併し、流石の上野介も暴徒の翳に東山道鎮撫使総督府の軍監が、関与しているとは思いも及ばなかった。 暴徒の頭が長州浪人と藤七が答えたのに、何の疑えも持たなかったのだ。 それだけ小栗上野介は新政府に恐れられていたのだ。 翌朝、上野介は暴徒を諌めるために権田村生まれの家臣、大井磯十郎を三ノ倉に赴かせた。話し合いでことを納めようと五十両を差し出したが、暴徒たちは納得せず交渉は決裂した。彼等は初めから交渉での解決を考えてはいなかったのだ。四日の早朝、暴徒は千人余の人数に膨れ上がり、東善寺を襲う為に権田村へと向かっていた。 その一報を上野介は寺の庭で受け、視線を庭の樹木に這わせた。 木蓮が蕾を膨らまし、その下に雪柳が真白い花を風に靡かせていた。「又一、そちは十名の家臣と寺の護りに就け、家臣には銃を携帯させ集まった村の若者十名を配下とし、暴徒に対抗いたせ。十組の分隊の隊長がそちじゃ」「分かりました、若者には竹槍を持たせましょう。それで父上は如何成されます」「わしは暴徒の鎮圧に出向く」 上野介が久しぶりに剽悍な眼つきをしている。 上野介は塚本真彦と農兵二十余名を率いて、暴徒の本陣椿名神社に先制攻撃を仕掛けた。訓練を受けた農兵の実力は絶大で、数十名で暴徒千人余りをあっさりと蹴散らし、倒した暴徒の首を東善寺の石段に並べた。 この状況に仰天した三ノ倉など近隣村の名主らが、この夜に詫び状を持参し、捕虜となった者達を引き取りに来た。 上野介は名主達の要求を快く許し、二度とこのような事をしては成らぬと諭し、捕虜を解放した。こうして一件は落着した。 村民達に歩兵訓練を受けさせていたことで、上野介は難を乗り越えることができたのだ。この戦いで上野介は最新式銃の威力を身を以て感じたのだ。 小栗上野介忠順(1)へ
Jan 24, 2014
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「小栗上野介忠順」(221) 上野介の脳裡に人間が本来持っている、生々しく抜目のない駆け引きが行われる、江戸の様子が走馬灯のように奔りぬけている。 江戸城開城の会談の主役は、新政府は西郷隆盛、幕府側は勝海舟しか居るまいと読んでいた。 西郷隆盛も勝海舟も上野介から見ると、同じ気質を持った人物に思える。 更に列国の動きも察知していた、多分、英国公使のパークスが翳で糸を引き新政府の計画に、難癖を付けると踏んでいた。 事実、勝海舟はパークスの通訳官の、アーネスト・サトウに接触し、列国の考えを探るよう、山岡鉄舟に依頼していた。併し、はかばかしい結果が得られず、勝は一人でサトウと会談し、江戸城の開城を平和裡に解決したいと伝えた。 アーネスト・サトウはパークス公使に、その旨を伝えると回答した。 一方の西郷隆盛は東海道鎮撫使総督参謀の、木梨精一郎を横浜に赴かせ英国公使のパークスとの会談を命じた。 木梨の役目は「横浜表外国人応接」と「江戸討ち入下知」をパークスに伝える事で、それを西郷から託されていた。その日が三月十一日のことである。 パークスは横浜は江戸に近く、官軍の江戸攻撃という状況となれば外国人の安全保障を考え、列国代表会議を招集し、横浜全域を列国の共同管理に置くという、非常手段を執ると木梨精一郎に語った。 この言葉に木梨精一郎は蒼白と成った。 パークスの言葉は官軍が江戸を攻撃する事態と成れば、列国は挙げて横浜で官軍と交戦すると宣言した事になる。 パークスの考えは初めて日本に来航し、この横浜の地に莫大な投資を行い、漸く横浜港が重要な輸出入の地と成ったのに、日本の内乱で横浜が焼失する事を容認出来なかったのだ。 パークスの態度に新政府は困惑した。慶喜が謹慎しておる状況では彼の首を刎ねることは叶わない。それに代わって江戸城を灰塵にする、これで新政府の革命が成就するのだ。それを列国が反対しているのだ。 東海道先鋒総督府は横浜の手前で軍勢を止めた。兎に角、幕府と会談を進めなければならない。そうせねば軍勢を江戸に侵攻させる事が出来ない。 西郷隆盛と勝海舟は列国の思惑を知りながら、なに知らぬ顔で会談をした。 こうした経緯があって江戸無血開城が無事に成功したのだ。 まさに狐と狸の馬鹿しあいの会談であったが、後世の人々は二人を英雄と評価したのだ。その日が慶応四年(明治元年)四月十一日である。 その頃、上野介は既に冥土に旅発っていた。その日が四月六日であった。「父上、如何成されました」 又一の心配そうな声に上野介は夢を破られ。「心配する事はない、わしは江戸の状勢を考えておった」 上野介が養子の又一に笑い顔で応じた。 これだけ明敏な頭脳の持ち主の上野介が、自分の将来に対し全く危険を感じていない事が不思議である。既に権力の座からおりて野に降ったとしても、彼の影響力を官軍が、最も恐れていることを気付かずにいる。 わしには無関係じゃと内心に呟き、新しく生き行く権田村に眼を転じている。 空は益々青く澄み渡り、雲ひとつない好天気と成っている。 山裾から女達の歓声が木霊のように聞こえてくる。「殿ー」 山の登り口から微かな声が聞こえ、一人の男が転がるように駆け寄ってくる。「又一、何か異変が起こったようじゃ」「父上、あれは大井磯十郎のようであります」「殿、直ぐに東善寺にお帰り下され」 大井磯十郎が汗だくになって親子の傍に駆け寄ってきた。「寺に佐藤藤七さまが殿をお待ちにございます」「訳を申せ」「隣村の三ノ倉に暴徒が集結し、騒ぎを起こしているとの通報に御座います。暴徒の頭は長州の浪人とのことに御座います。世直しを掲げ近隣の農民を集め、気勢をあげているとの事にございます。集まった暴徒の数は五百名に達し、権田村に入った殿を征伐すると息巻いているそうにございます」「何故、我が家を襲うのじゃ」 又一が剽悍な声をあげた。「それは分かりませぬ、名主の佐藤藤七さまがご存じに御座います」「又一、そちは大井と共に先に戻れ。農兵を集めておくのじゃ、銃の用意もな」 上野介は暫し騎馬で佇み、騒ぎの原因を思案し観音山を下り始めた。 東善寺は物々しい雰囲気に覆われ、又一の下知で農兵が銃器の梱包を解き、最新式の連発銃を取り出している。 上野介はそれを横目に寺の大広間に、急ぎ足で入った。 そこに巨体の権田村名主の佐藤藤七が待ち受けていた。 小栗上野介忠順(1)へ
Jan 20, 2014
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「小栗上野介忠順」(220) その晩の夕餉は小栗家一族と従う全員が集い、新しい生活に夢を馳せ、大いに楽しんだ。名主の佐藤藤七が自慢の地酒の瑞龍を持参し訪れた。 彼は上野介のお供で遣米使一行と同行し、米国まで行った人物である。 若い時から巨体であったが、今は一回りも大きくなって貫禄もついている。「藤七か、久しいの」 上野介は気さくに声を懸け、藤七も喜びで満面の笑みを浮かべている。 「相変わらず、この酒は美味いの」 上野介は瑞龍を手酌でぐいぐい飲んで、満喫し一座の者に此れからの世の動きを語り聞かせていた。「新しい御政体が盤石に成るまでは各地で戦乱が続くじゃろう。しかし数年で 治まるとわしは思っておる、そうなれは新しい近代国家とし日本は生まれ変わるだろう。わしも早く見たい、皆もそうした時代の到来を願うのじゃ。新しい国は列国に負けぬ国にせねば成らぬ。それには勉学が必要じゃ、わしが常々申しておるように農業から工業国家となり、富国強兵に意を注がねば成らぬ。全ての物資を我が国で作り出す、軍艦も武器類も生活物資もじゃ。わしは武士の世が終わると見ておる。それぞれ己にあった職に就き国の為に奉公する、既にわしの時代は終わった。これからは若い者の時代と成ろう」 上野介が一座の若者を見渡し温かい眼差しで語っている。 又一や小栗歩兵の若者が眼を輝かせ聞き入っている。 「ところで藤七、わしは観音山に屋敷を建てそこで余生を送る積りじゃ。屋敷の建築に村人の協力を願いたい。宜しくそちに頼みたい」「殿さまの思うようにお使い下さい、村民も喜びましょう」 佐藤藤七は心から請け負って寺を辞して行った。 その頃、新政府の東山道先鋒鎮撫使総督府の一部の部隊が上州の地に足を踏み入れようとしていた。軍監、原保太郎に率いられた高崎藩、安井藩、吉井藩兵であった。この東山道鎮撫使の軍は新政府の軍勢でも冷酷で知られていた。この隊が流山で投降した新撰組隊長の近藤勇を板橋で斬首したのだ。 その処置に軍監の有馬藤太が、大軍監の香川敬三に止めるよう説得したが、香川敬三はそれを無視し、近藤勇を斬首したのだ。 上州に向う原保太郎と言う人物は、江戸の練兵館で剣の修行をし塾頭と成った剣の達人である。彼は藩を脱走し京の岩倉具視の食客となり戊辰戦争では東山道総督府に随行し、上野国巡察使兼軍監として従軍していた。 こうした緊迫した状勢の上州一帯に、幕府閣僚で辣腕で知られた小栗上野介一家と家臣等が、上州権田村に到着したと言う、情報が瞬く間に上州一円に広まったのだ。 上野介一行は多くの荷駄を率い、権田村の東善寺を仮宿としている。 その荷駄に江戸城の御金蔵の小判が大量に隠されているという噂が広まったのだ。これが後世、徳川家の埋蔵金として語られる事に成る。 根も葉もない風評であったが、上州各地の名主が真っ先に信じたのだ。 翌朝、そんな噂が流れているとは知らずに、上野介と又一は馬で観音山に向った。天気は晴朗で直ぐ真下に東善寺が位置しており、遠方には霞む山裾から烏川の清流が流れ込んでいる。 観音山の左右にも渓流が流れ、烏川沿いに権田村が一望できた。「又一、ここが観音山じゃ。ここに建てる屋敷から朝晩、この風景を愛でる。江戸では望めぬ、風流の極みじゃな」 又一の前に上野介の横顔が見え、彼は一心に眼下の風景を眺めている。 その養父の横顔を見つめ又一は安堵した。何の野心も感じさせなく無心に将来の夢を語っている。 冷たいが心地よい春風が二人の身体を吹き抜けた。「父上、江戸は無事でしょうか、今頃は戦火に見舞わられてはおりませぬか」 又一が憂い顔で訊ねた。「そのような心配は無用じゃ。江戸の街を灰塵にする事は列国が望まぬ。如何に新政府と言えども列国を敵に廻し、江戸を焦土には出来ぬな。江戸城は無血開城と成ると睨んでおる。百万の民は救われるじゃろう」 上野介が迷いなくずばりと答えた。「父上、何ゆえにそのように思われまする」「所詮、世の中は利害関係で成り立っておるのじゃ」 上野介はそれ以上の事を語らず、薄らと笑みを浮かべた。 小栗上野介忠順(1)へ
Jan 18, 2014
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「小栗上野介忠順」(219) その客とは京の三井組の番頭、三野村利左衛門であった。 彼は一座の者達に挨拶をし、「殿、今宵が江戸最後と聞き及び飛んで参りました」 彼は一段と貫禄を増している。前にこの三野村利左衛門を紹介したが、この人物が三井財閥の中興の祖である。「お主が別れに来てくれて嬉しいぞ、まずは一献じゃ」 上野介は江戸最後の夜に訪ねてくれた、利左衛門に礼を述べ酒を勧めた。「ご苦労に存じました。既に体勢は決したと感じ取れます」 利左衛門が杯を干し、上野介の顔を凝視した。 彼は長年に渡る上野介の努力と無慈悲な慶喜の仕打ちを知っていた。「何の、わしは些かも悔いてはおらぬ、横須賀製鉄所も完成が近づいておる。他のわしの施策も追々と実現いたすじゃろう」 上野介は利左衛門にそう語り、嬉しそうに破顔した。その顔には一片の悔いも浮かんではいなかった。「左様に御座いますな、殿が献策なされた施策は今後は新政府が引き継ぎましょう。経済の振興こそが我が国を救う手立てに御座いますからな」 と語り、利左衛門が上野介の顔を見つめ、何事か言わんとする素振りをみせ、上野介が見逃さず低い声で訊ねた。「わしに極秘に申したき事があるようじゃな」「御意に、些か内密なお話が御座います」「左様か、わしの部屋に参れ」 上野介は気軽に立ち上がり、利左衛門を伴って部屋を後にした。 二人は庭の廊下を伝って部屋に向った。「おうー、蝋梅が咲いておりますな、良い香りにございます」「お主に見せたいが、この夜では無理じゃな」 上野介が利左衛門の問いに答え部屋に招き入れた。「まあ、座れ」 と座布団を勧め、彼の眼光が往年のように鋭く輝いている。 利左衛門が座布団に腰を据えた、彼の顔色が優れなくなっている。「申したきことは何じゃ」 上野介が短絡に用件を訊ねた。「殿、薩長は殿のお命を狙っております」「ほう、わしの命か、既に何の力も持たぬわしを狙う根拠がないわ」 上野介が他人事のように応じた。「殿の辣腕が怖いので御座います。更に申さば報復の意味も御座います」「わしえの報復か、奴等と戦った事もないし覚えがないの」「この江戸で薩摩藩邸の焼き討ちを成されましたな」「そのような事が漏れておるか?あれは奴等があくどいからじゃ」「殿、勝者の理論は勝手なものです。罪名なんぞはいくらでも作れます」 三野村利左衛門は三井の番頭とし、今は新政府に肩入れをしている。 本店は京にあり、利左衛門の思惑と違った形と成ることは当然のことである。 彼は上野介に対する新政府の情報を得て、それを知らせるべく訪れて来たのだ。新政府の考えは上野介が思うよりも深刻なものであった。「お玄関先の部屋に千両箱を置いて御座います。それで暫くは米国に渡り、新政府の様子をご覧になって下され。数年後には世の中も静かに成りましょう」 利左衛門は真心を溢れさせ、懸命に説いた。「その方の厚意は身に染みるが、幕臣として命を惜しむような行動は出来ぬ。わしは予定通り権田村に隠遁し、様子を見る積りじゃ。わしの身に万一の事が起こったら、女共の事を宜しく頼む」 上野介が頭を下げた。 利左衛門は更に翻意するように説得したが、上野介は耳を貸さなかった。「万一、そなたが心配する事態と成れば、旗本として見事に散ってみせよう」 上野介の覚悟を見た利左衛門は説得を諦めた。「充分にご注意成されて下され」 と忠告し辞して行った。 翌朝、小栗家一行は荷駄を先頭に江戸を発った。母のくに子に妻の道子、養子の又一に許嫁の鉞子、用人の塚本真彦、家臣の荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎、多田金之助、それに権田村出身の歩兵達も同行していた。 三月一日に漸く権田村に着いた。この村は小栗家が百六十年もの永い間、知行地としていたが、館も陣屋も無く一行は村の片隅にある東善寺を宿舎とし、荷物を解いて長旅の疲れを癒している。「ほんに長閑な村じゃな」 母のくに子がこれから棲みつく景色を眺め呟いた。 小栗上野介忠順(1)へ
Jan 14, 2014
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「小栗上野介忠順」(218) 上野介は再び小栗家の置かれた立場を、道子に語ることに成った。「じゃから戦わぬのじゃ」 と、短絡に云った。「貴方、済みませぬ。女子の身で差し出がましい事を申しました」 道子が大粒の涙を溢れさせている、初めて夫の苦衷が理解できたのだ。「道子、引っ越しの用意を内密に致せ」「何処に参ります」「上州の権田村と考えておる。田舎じゃが良い土地じゃ、隠居には若いがの」 彼は行灯の明かりを見つめ、権田村の風景を思い浮かべていたが、「寝るぞ、参れ」 と、言葉を残し部屋を辞してて行った。(お慰めいたさねば) 道子が顔を赤らめいそいそと跡を慕って行った。 江戸で全国各地の動きを見つめ、上野介は静観を決め込んでいたが、此のまま江戸で滞在を続けていると徒に、主戦派の面々を刺激すると感じ、用人の塚本真彦に命じ引っ越しを急がせた。 既に屋敷の荷物はあらかた長持ちに収められ、彼が米国より持ち帰った器機類も荷造りを終え、彼の自慢の洋館に飾っていた青銅の大砲も分解され荷物となっていた。 小銃類も二十挺その中に含まれている。 彼はこれ等の銃で農兵の養成をし、村の水利の整備や新たな田畑の開墾を計画していた。 その地で隠居し、一農夫として生涯を全うしても良いと思っていたのだ。 彼は江戸出立の日を二月二十八日と決め、家臣達に通達した。 そんな折に振武隊隊長の渋沢成一郎が、戦いを勧めに訪れてきた。 彼は武蔵の農民の長男として生まれたが、成人となるや一橋家に雇われ、その才気を慶喜に買われ、家臣として彼に仕えてきた。 併し、鳥羽、伏見の合戦に敗れ、江戸に戻り己と目的を同じくする者達と彰義隊を結成し、上野介に頭取に成ってくれと頼みに来たのだ。 上野介は自分の今の心境を告げたが、渋沢成一郎は尚も戦いを勧めた。「小栗さま、拙者は貴方さまのように戦略眼が御座いませぬ。彰義隊は今のままでは戦いは出来ませぬ、まげてお願い仕る」 その時に上野介の言った言葉が残っており、以下に記す。『予固(もと)より見る所ありて、当初開戦を唱えたれども行われなかった。今は主君恭順し、江戸は他人の有に帰せんとする。人心挫折し機は既に去った。最早、戦うことは出来ない。縦令(たとい)会津、桑名諸藩が東北諸侯を連衡(れんこう)し、官軍に抗した所で、将軍既に恭順せられた上は、何の名義も立たないのである。況(いわん)や烏合の衆をや。数月の後には事応に定まるであろう。然れども強藩互いに勲功を争い、軋轢内に生じ、遂に群雄割拠となるであろう。三百年の徳沢施して人に在り、国家の再造、難事ではないであろう。我らは時機の到来を待つの外なし。予は之より知行所権田に土着し、民衆を懐け、農兵を養い、事あらば雄飛すべく、事なければ頑民(がんみん)となりて終わるべし』 この彼の言葉には新政府の世に成っても、内乱の起こる事を予見し、そうなれば、雄飛する機会も有ろうと言っている。如何にも幕臣とし辣腕を振った上野介らしい感慨が述べられている。この群雄割拠とは西南の役を予見していたのか興味深い言葉である。 江戸を去る最後の夜、小栗家はささやかな宴席が設けられていた。 家族全員と家臣一同が屋敷の大広間に集まり、和やかな雰囲気を醸しだしている。上野介が上座から全員に声を懸けた。「今宵は江戸との別れの宴じゃ。わしの力が及ばず皆に苦労をかけた。此れからは権田村に移り、わしは自分の夢を実現する積りじゃ。皆々の力を貸して貰いたい」 上野介は自分の本心を隠して語っている。「今夜が江戸最後の夜かの」 母のくに子が淋しそうに呟き顔を伏せた。「母上、数年も経たずにこの沸騰した世は治まりましょう。江戸に戻ることも、難事でなくなります。母上、権田村は良き村に御座います、気に入って頂けると思います」 上野介がくに子を慰めている。家臣達も心持ち元気がない。「塚本、皆に酒を勧めよ」 上野介の命で塚本真彦と小姓が其々の間に、酒を注いで廻っている。 既に十四歳と成った養女の鉞子(いきこ)が、くに子の背中を擦っている。 その様子を上野介が柔和な眼差しで眺めていた。 この夜に最後の賓客が小栗家を訪れてきた。 小栗上野介忠順(1)へ
Jan 12, 2014
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「小栗上野介忠順」(217) 慶喜の恭順により、江戸の町は火の消えたように活気を失っている。 こうした世情の中、夜分とも成ると小栗の屋敷に数人の男達が訪れていた。 彼等は幕府主戦派の将や、会津藩、桑名藩の藩士も混ざっていた。 幕府主戦派の面々は松平豊前守、塚原但馬守などの人物で、他には野戦指揮に秀でた永井尚志、大鳥圭介、古谷佐久左衛門などの面々であった。 会津藩からは西郷頼母、秋月悌次郎等が参加していた。 彼等の言い分は皆、おなじ内容であった。「小栗殿に出馬をお願いしたい」 その一点のみであり、上野介は苦い顔つきで聞いている。 彼等の願いは痛いほど解っている。理解しながらも彼は丁重に断った。(上様が上野に謹慎恭順なされては戦いの名分がない。わしを担ぎ出せば 幕軍の精鋭は馳せ参じよう、じゃが勝手に戦う訳にはいかぬのじゃ) 上野介は無言で呟いていた。「何故にござる、あれほど上様に再戦を進言されたご貴殿が戦いをせぬとは」 ここに集いし全ての者達の共通の思いであった。「ご貴殿等の言い分は分かります。それがしが起(た)てば幕軍の精鋭部隊は挙げて参加するでありましょう。更に海軍も馳せ参じましょうが、それがしには戦う名分が御座らぬ。上様が戦えとお命じなされば今までの遺恨を忘れ喜んで戦います。・・・後の祭りにに御座る。今のそれがしの思いは、新しいご政体が、一日も早く我が国を近代国家とする事を祈るのみに御座る」 上野介の眸子が柔和と成っている、顔付もかっての剽悍さを失っている。「貴方さまは腑抜けに成られましたか」 大鳥圭介が声を荒げ詰め寄った。「左様じゃ、それがしも人の子と悟り申した」 上野介が反論を控え彼の言葉を肯定した。 この大鳥圭介は江戸開城と同日の四月十一日に、伝習隊を率いて江戸を脱走し、本所、市川を経て、小山、宇都宮や今市、藤原、会津を松平太郎、土方歳三等と合流しつつ転戦し、蝦夷の五稜郭で降伏するのであった。 また古谷佐久左衛門も根っからの武人で、今は歩兵指図役頭取の要職に あり、彼の副官に今井信郎が居た。彼は坂本龍馬暗殺をしたと言われる人物であった。古谷は関東各地を転戦し、会津に入り松平容保に謁見し、部隊名を衝鋒隊に改め、最後は大鳥圭介同様に蝦夷の五稜郭で戦い、艦砲射撃を浴び、壮烈な最期を遂げる運命にあった。「小栗さま、拙者は諦めませんぞ貴方を担ぎ出すまで何度でもお邪魔いたす」 大鳥圭介が顔を赤らめ、彼等は合点のいかない顔付で去った。 一人となった上野介は彼等の言葉を思い浮かべている。(わしが参加いたせば勝てるかも知れぬ。じゃがわしは徳川家の直参じゃ。上様の下知なく勝手な戦は出来ぬ) 強烈な直参旗本の自負である、三河以来脈々と身内に流れる血潮が、彼に戦うなと命じているのだ。徳川家あっての小栗家、まして先祖は忠烈無比で名を轟かした武将。その末裔が勝手に上様ぬきで戦うことは出来ぬ。骨の髄まで染み渡った頑固なまでの拘りである。 所詮、彼等に話しても解ってはくれまいな、上野介は一人苦笑した。 廊下に足音が響き、道子が一輪挿しの黄梅を持って姿を見せた。「黄梅か」「はい、貴方は何故、戦い成されませぬ」「道子、我が小栗家は直参の名家じゃ」 道子が不審そうな顔をした。その様子が可笑しく上野介が哄笑した。 彼は笑いを治め道子を真っ直ぐに見つめ、「そろそろ江戸を去る時期が来たようじゃ。彼等は何度も誘いに参ろう、わしが江戸を離れ知行地に隠遁いたせば彼等も諦めような」 道子が美しい眸子を懲らし夫を見つめている。「分かりませぬ、貴方は何のためにご苦労なすったのです。あれほど幕府再建を望まれ、何故、戦いを避けられます」 小栗上野介忠順(1)へ
Jan 9, 2014
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「小栗上野介忠順」(216) こうした状況下でも慶喜は、仏国公使のロッシュと密談を交わしている。 内容は幕府に対しての支援であった、まさに奇怪至極な行動である。 ロッシュは二つ返事で同意した。彼は未だ幕府に未練があり、慶喜の態度から察し、徳川は朝廷と一線を画し東日本の主権者とし、独立すると感じられるのだ。根拠は未だに幕軍の戦力は強大であり、それが成功する事は十分に可能と判断したのだ。 そうした時期に朝廷は遅まきながら、幕府打倒の征討軍編成と部署割りを決定した。漸く薩長土三藩の要求が実現したのだ、その日が二月三日である。 親征大総督府大総督 有栖川宮親王 東海道先鋒鎮撫使総督府総督 橋本少将 東山道先鋒鎮撫使総督府総督 岩倉太夫 北陸道先鋒鎮撫使総督府総督 高倉三位 奥羽鎮撫使総督府総督 沢 三位 海軍総督府総督 聖護院宮親王 征討軍は此のような体制を確立し、新政府の傘下には諸藩六十藩が参加した。親征大総督の有栖川宮親王は五万の兵力を擁し、二月十五日に京から出撃した。目的地は駿河と決定していた、ここを新政府軍の兵站基地とし、兵力、武器弾薬、兵糧を集中し、江戸攻略を実行する、これが征討軍の規定の戦略であった。ここに慶喜を朝敵とする事が正式に決定したのだ。 この江戸攻略戦はまさに慶喜や勝海舟が恐れた革命であった。 旧体制を徹底的に打破し、灰塵に帰す。これが薩長土の狙いであった。 一方、公職を解かれた上野介は一月二十八日に、上野国群馬郡権田村への土着願いを提出し、騒々しい江戸の町に止まり世の中を見つめていた。 こうして職を解かれると世の中が良く見える、今までは気にもとめなかったところが新鮮に見え、先の事までが見えるのに驚きを感じていた。 今にみよ勝海舟が主戦派の者達にとった行いで脱走兵が激増するじゃろう。 彼等は江戸を見限り関東平野に散るじゃろう。先ずは日光を目指そうな。 彼の明敏な頭脳はそこまでよんでいたのだ。 その頃、江戸城では勝海舟が懸命に慶喜を説得していた。 新政府の征討軍が京を発したとの情報を受けてのことであった。「上様、最早、江戸を戦禍から救う手立ては上様の謹慎恭順しか御座いませぬ」 と、懇々と諭した。慶喜も漸く勝海舟の意見を入れ、京に居る松平春嶽に、「臣は朝廷の裁きを仰ぎ奉ります」 との内容の書を遣わして仲介を頼み、二月九日に残った主戦派の永井尚志、平山敬忠を罷免した。更に散々と利用した会津、桑名の両侯を江戸城に呼び出し、江戸からの退去と国許への帰還を一方的に要請した。 この慶喜の処置で馬鹿をみた者が、桑名藩主の松平定敬と藩士でした。 鳥羽伏見の戦いで薩長土は勝利し、朝廷の力を背景に各藩に恭順を勧めます。当然、桑名藩にも恭順の勧めが来ますが、藩主は国許を留守にしており、国許の重臣は藩存続の為に先代の遺児、万之助を第五代藩主に据えて、恭順を受け入れてしまいました。従って定敬主従は帰国することも叶わずに、桑名藩の飛び地の越後、柏崎に入り征討軍と戦う羽目と成ります。 ここにも慶喜の勝手の良さと独り善がりの性格が出ています。 こうした事を片付け、二月十二日に慶喜は江戸城から、上野の大慈院にひっそりと移り謹慎生活に入った。 この慶喜の行動で徳川幕府は三百年の終焉を迎える事に成った。 これを契機に上野介の読み通り、幕軍の屯所から続々と脱走が始まった。 それも三百、五百名と大量の脱走兵が各地に散って行ったのだ。 江戸では戦いぬ、これが彼等の名分であり、幕府を見限って征討軍と一戦せんと念ずる勇士達であった。 これにはさしもの勝海舟も頭を抱えた、全てが精兵であり、穏便に事を処置しょうと目論んだ勝海舟の思惑が、大きく外れた事を意味している。 小栗上野介忠順(1)へ
Jan 6, 2014
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