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黒糸威二枚胴具足の甲冑をよろい、行人包の景勝が愛馬に跨った。青竹が左右に振られ、景勝を先頭とした越後の精兵一万名が春日山城を出馬した。毘の旗指物がひるがえり壮観な眺めである。騎馬武者が馬蹄を響かせ、足軽が長柄の槍を携え後続する。まさに疾風怒涛の勢いで越中に攻め込んだ。 佐々勢の境城を鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で一気に抜き、滑川城(なめりかわじょう)を陥し守将を配し、近隣一帯を放火して引き上げる、示威(じい)行動を示したのだ。同行した木村秀俊はあまりに激しい、上杉家の戦法に目をむいた。「兼続、上方の木村殿は度肝を抜かれたかの」 景勝が鞍上から尋ねた。「大阪城の秀吉殿は驚かれるでしょうな」 兼続が主人を見つめ破顔した。 佐々成政は九月に前田利家の属城、末森城攻略に失敗し防戦に徹していたが、景勝の猛烈な攻撃に窮した。年明けとなり雪がとければ、羽柴秀吉が攻め寄せることは目にみえている。『ここに至れば、三河の徳川家康殿に面会し、秀吉との交戦継続を説得するほか道はなし」と、成政は思い決意した。 今の時期なれば越後も越中も豪雪につつまれ、軍勢を動かすことは不可能。 城を空けられるのは今。十一月二十三日、家臣の前野喜兵衛ら数名を引き連れ富山城を出発した。成政は北アルプスを走破し、徳川家康のもとに向かおうと決意したのだ。それは死を懸けた冒険であった。 彼等は立山に向かった、そこで立山衆の頭と落ち合うつもりであった。 彼等の案内で難所で名高い、さらさら峠を越え信濃に抜ける。 さらさら峠とは、立山南方の獅子岳と鳶岳を結ぶ尾根の鞍部(あんぶ)を云う。途中、カルデラ壁の崩壊により、ざらざらしていることで、ざら峠とも云われ、この名の由来がある。 積雪は目をみはるごとくで風雪がつのってくる。目も開けれない壮絶な光景のなか、成政らは信濃にむかって一歩一歩踏みしめるように走破していた。 凍てつく寒気の中、それは人間業を通りこした執念ともいうべき彷徨であった。まさに酷寒地獄に踏み込んだのだ、行程千里の立山連峰を約一ヶ月、立山衆と死をとし走破し信濃についた。その足で浜松城の徳川家康を訪れた。 さしもの家康も驚いた。 「さらさら峠を越えられたのか?」と驚嘆した。「我等の悲願達成のためにごさる」 だが信雄の和睦で秀吉に敵対する、大義名分を失った家康を成政は翻意できずに、失意のなか再び立山連峰を越えて帰国するのであった。 この佐々成政の山越えを「さらさら峠越え」としょうせられ、後世になり歌舞伎として演じられることになるのだ。 翌年、羽柴秀吉は紀州、四国を傘下に治め、信長の遺領の大半を手中とした。残るは越中と西国の雄の毛利家と九州である。秀吉は一気呵成(いっきかせい)に越中制覇をめざした。信長時代の北陸方面軍の諸将は、佐々成政をのぞき、全てが秀吉に帰服していた。佐々勢は孤立し信長股肱の将と自負する成政は窮した。北からは上杉勢が進攻の機会を窺がい、越前、能登の諸将連も攻勢を強めはじめた。 この七月十一日に、羽柴秀吉は昇殿して関白宣言をうけた。これは朝廷の官位体系の頂点を極めたことを意味することであり、名実ともに天下人となった証である。翌年には豊臣氏を名のることになる。 これに気を良くした秀吉は、未だに越中で独立する佐々成政を一挙に殲滅せんと突然、七月に十万の大軍を率いて越中に出馬した。瞬く間に越中の諸城を陥し、成政の籠もる富山城を包囲した。富山城は孤城となった。 八月には隣接の飛騨三木氏が、もと成政の同僚であった金森長近の軍門に降り、同月の二十日に、大軍の前に為すすべを失った佐々成政は、長年越中国主として君臨してきた座を秀吉のまえに明け渡したのだ。小説上杉景勝(28)へ
Jan 31, 2007
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(越中放棄) 天正十二年、織田信長の同盟者であった徳川家康と羽柴秀吉が、ついに衝突した。織田信長の次男、大河内城に拠る織田信雄(のぶかつ)が、己の家老の三人衆が秀吉と内通したとの罪で、彼等を切腹させたことから端をはっしたのだ。信雄と秀吉は賤ケ岳の合戦以後から、友好関係がくずれていた。 この戦いに勝利した秀吉は天下を望み、信長の嫡子等を蔑ろにしだした。 信雄は、そのために徳川家康と結び秀吉に対抗した。一方の秀吉は信雄の家老である岡田重孝、津川雄春、浅井田宮丸等の懐柔を図っていた。 それが発覚し、信雄は家康と相談し三家老に切腹を命じた。 さらに四国の長曾我部元親(もとちか)に協力を要請し、紀州雑賀(ざいが)衆と根来衆(ねごろしゅう)に、大阪城攻撃を要請し家康と清洲城で会談した。 秀吉は信雄の処分が理不尽として大軍をはっし近江に進攻した。 戦闘は信雄側からはじまった、伊勢亀山城を攻撃したのだ。秀吉は池田元助、森長可に命じ、尾張犬山城を陥落させた。 家康は対抗上、尾張平野が一望できる小牧山に陣を構えた。こうして小牧、長久手の戦いが始まった。 三月十八日、紀州雑賀衆、根来衆の三万余の軍勢が、和泉(いずみ)岸和田城を攻撃し、一時は大阪まで進攻したが、黒田官兵衛、中村一氏の活躍で阻止された。同月二十八日に秀吉は大軍でもって楽田(がくでん)に陣を敷いた。ここが現在の愛知県犬山市である。 両軍は睨みあい戦線は膠着した。これを打開すべく羽柴軍は秀吉の甥の秀次(ひでつぐ)に、一万六千名の軍勢を与え、家康の本拠である三河への急襲を策したが、それを察した家康は秘かに小牧山を下り、九日の夜明けを待って秀次勢を強襲した。不意を衝かれた秀次勢は猛将でなる森長可、池田恒興(つねおき)父子が討ち取られ、全軍潰走し命からがら本営に逃げ戻った。 織田、徳川軍の快勝であった。秀吉は大阪に引きあげ、家康も信雄もそれぞれ国許に帰国したが、秀吉は信雄に軍事的圧力を強め、十一月十五日に信雄は単独で講和を受諾した。 これにより、家康も名分を失い秀吉と講和を結び、次男の秀康(ひでやす)を秀吉の養子として送った。これが小牧、長久手の合戦であった。 秀吉は軍事的敗北を政治的な決着で巧く治めてしまったのだ。 秀吉は同年の九月、官僚の木村秀俊(ひでとし)を使者とし、上杉家との交誼(こうぎ)を求める起請文を送り、佐々成政への攻撃要請を願ってきた。 景勝にとり、この起請文と要請は不満であった。「先年の柴田勝家との合戦当時は、羽柴方として協力したが臣下となった覚えはない」 飽くまでも対等な関係と自負していた。 まして秀吉と交誼を結び、越後を平定したとしても面白からず。亡父の遺産である領土回復は、景勝自身でやらずば意味がない。 秀吉の威光でなしたとしたら、己の武がたたない。景勝は青味をおびた顔を引きしめ、使者の木村秀俊に語った。「すでに天下は定まっております。あまり我を通されるのも如何かと思われます」 木村秀俊が柔和に諭した。「我が上杉家は武を重んじ、義と信のために戦って参った。我が代となり権力に媚(こび)を売るなんぞは、景勝の気象ではできかねる」「木村殿、主人の申すことにお怒りあるな、佐々勢への越中攻撃は、必ずやり遂げます」 直江兼続が言葉を添えた。「今、山城守が申したとおり、魚津城は成政の手で陥され申した。当時は我らの事情で救援ままならず、雌雄を決することが出来ませなんだ。だが越中は上杉家の累代からの領土にござる。ここは一度出馬して、越後武者の弓矢の執りようをお見せいたそう」 景勝が脇差の鐺(こじり)に手をそい双眸を光らせた。「山城守、出陣の触れをだせ」 「いまからご出陣か?」 木村秀俊が驚いて目を剥いた。「風来電過。これが我が上杉家の軍法にござる」 景勝が吠えた。 春日山城から、法螺貝の音が勁烈(けいれつ)に高田平野に響きわたった。小説上杉景勝(27)へ
Jan 30, 2007
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景勝と兼続につかの間の休息が訪れた。ここにきて新発田勢への守りも磐石となり、木場城と新潟城に軍需物資の集積と備蓄が、順調に進んでいた。「兼続、越中では多くの将兵を失ったの」 景勝の青味をおびた顔に、憂色が濃くうかんでいる。「織田信長の死により救われましたな」 兼続の言葉に無言で肯いた。 三国峠まで迫った滝川一益は、関東の厩橋城(うまやばし)に引きかえし、羽柴秀吉と柴田勝家の動きをみている。信濃は森長可のお蔭で四郡は完全に上杉家がおさえた。今は北に新発田勢、南に越中の佐々勢が敵としておるが、どちらも積極的な動きをふうじられている。「守りを固め、羽柴秀吉と柴田勝家の動きを見ることになりましょうな」「いずれ合戦となろうが、そうなれば佐々成政も動きだそう」 景勝が大杯をあおった。「羽柴秀吉と柴田勝家、どちらが天下をとる」「羽柴秀吉が天下を治めましょう」 兼続が慎重な口調で応じた。「なぜ、羽柴とみる」 景勝が面白そうに尋ねた。「中国で毛利と対決していながら、大返しを敢行し、山崎の地で逆臣明智光秀を葬った羽柴秀吉の、強運が勝りましょう。そろそろ我家にも調略(ちょうりゃく)の手がのびて参りましょうな」 兼続が見透かしたように断じた。「我が上杉が、羽柴秀吉の命運をにぎっておるか、・・・・面白い」 景勝にも合戦の帰趨は想像できる。柴田勢の背後に控える我家の向背(こうはい)が、両者の勝敗の行方を左右する。と睨んでいた。 織田家の北陸方面軍を主力とする柴田勝家の背後に、圧力をかければ、がぜん羽柴秀吉が有利となる。「お屋形さま、我家は柴田勝家には恨みがござる。羽柴秀吉より相談があれば迷わずに、お味方に参じなされ」「判っておる。ところで、そちはこれより直江山城守兼続と名乗り、我家の家老職を為せ」 「これは」 兼続の白皙の相貌が朱色に変じた。「これからの領国の舵取りは難儀いたそう、わしはそれをそちに任せる」 兼続は景勝の将来を見据える眼力が、嬉しく思われた。「一命にかけてお受けいたします」 兼続が平伏した。 景勝が満足そうに見事な漆塗りの器から、沢庵漬けを頬張り小気味のよい音をさせている。謙信は酒の肴に小梅を好んだが、景勝は漬物を肴とし大杯をあおる、これを楽しみとしていた。 羽柴秀吉は勝家との合戦を想定し、つぎつぎと手をうっていた。上杉景勝にもさっそく勧誘の手がのび、景勝は秀吉に味方すると決意した。 天正十一年一月、越中の瑞泉寺(ずいせんじ)の住職に頼み誓詞を届けた。秀吉の動きも早く、二月七日に景勝は秀吉の誓書を受理した。 これは景勝主従の読みどおりの結果で、対柴田戦略の一環とした政治的配慮の清書であった。 三月十七日、柴田勢が近江に出陣したとの知らせをうけた秀吉は、景勝に越中への出馬を要請してきた。『越中に進攻されるならば、能登も含め切りとり自由』とまで譲歩した要請であった。しかし上杉は新発田勢の攻勢と、それを助ける会津の蘆名勢(あしなぜい)の進攻をうけ、一兵も軍勢をさける状況ではなかった。 これが結果的に秀吉に幸いしたのだ。 上杉勢が本国にとどまったことが、佐々成政への牽制となったのだ。 成政は戦巧者で知られた武将であった、その彼が天下分け目の賤ケ岳の合戦に上杉勢の進攻を恐れ、全軍を率いた出陣が出来なかった。 柴田勝家は、こうした味方の与力大名の事情や作戦の齟齬(そご)で敗北し、居城の越前北ノ庄に逃げ戻り、妻のお市の方と自刃して果てた。 こうして勝利を飾った秀吉は、景勝に対し命令違反をなじる問責書を送りつけてきた。「秀吉め、すでに天下さまになった積もりじゃな」 景勝が青味をおびた例の顔で呟いた。「それぞれの国が難問をかかえております。そうそう勝手は出来ませんな」「兼続、わしは協力すると申したが、家来になるとは申さなんだ」「お屋形さま、我家は不識院公さま当時より、義と信を奉じてまいりました。なれども出来ぬものは出来ませぬ、放っておかれませ」 兼続が不な面をみせ云ったものだ。小説上杉景勝(26)へ
Jan 29, 2007
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こうしたなか景勝は出馬を決意した。 「兼続、本国を頼む」 精兵八千名を率い疾風怒涛の勢いで黒部川を渡河し、魚津天神山に布陣したのが、五月十五日であった。 織田勢は土塁や柵を構え長期戦の構えでいる。その大軍を前にして一兵の援軍も送り込めない。既に魚津城の二ノ丸は陥とされ、城内は兵糧、弾薬が尽きかけ、城兵らは天神山の味方の旗指物を歯軋りし見つめるのみであった。 景勝が切歯扼腕し兵を督励すれども救援は難航した。そんな折、兼続より急報が届いた。織田家の関東方面軍の滝川一益が、武田の残敵掃討を終え、三国峠に迫り、信濃の飯山城から森長可(ながよし)が国境を犯し、本拠の春日山城の喉元に、攻め寄せる気配をみせはじめていたのだ。 まさに越後は四方に敵をうける情況に陥ったのだ。 景勝は五月二十六日に、なすすべもなく涙を飲んで馬首を返した。 それを見た織田の大軍が怒涛の攻撃を開始した。松倉城が堕ち、中条景泰の守る本丸のみが残った。六月三日、織田勢は総攻撃を敢行した。 守将の山本寺景長は、将兵を集め最後の訓示を述べた。「我らは討ってでるか、切腹をいたす。兵卒は女子供を助け本国に逃れよ」「良いか、犬死はならぬ。我らは生き恥を去らし武名を汚すよりも死を選ぶ」 中条景泰も応じた。彼等は耳に穴をあけ、姓名をしるした札を耳に結び、腹をかき切り壮烈な最期を遂げた。 越後武者の意地をみせた、戦国史上まれなる悲劇が起こったのだ。 魚津城を陥した織田勢は、余勢をかって越後進攻をめざしたが、天下は大きく変わろうとしていた。前日の六月二日に織田信長が明智光秀の謀反により、京の本能寺で命を絶っていたのだ。まさに一日の差で魚津城の悲劇が起こったのだ。この知らせをうけた、織田勢の総大将、柴田勝家は急遽全軍に撤兵を命じ、己は魚津から船で北ノ庄の居城にもどり、明智勢にたいする討伐の準備に執りかかった。 織田勢の撤退を知るや、上杉の将の須田満親(みつちか)は空城の魚津城を回復し、境城には上条政繁が入城を果たした。 これを知った越中の国人衆が決起し、越中国主の佐々成政との戦闘がはじまった。京の変事を知る佐々勢は守勢にたたされた。 須田満親は春日山城に使者をつかわし、景勝に越中出馬を要請した。 魚津城で無念の討ち死にをした者たちの仇討ちが出来る、その一念が須田満親をかりたてた。しかし、ここでも景勝は新発田勢との戦闘で出兵が遅れ、千載一遇の機会を逃したのだ。こうして上杉勢は辛うじて越中の危機を脱した。 その間に佐々成政は軍勢を再編し、八月には越後方の土肥政繁(どひまさしげ)の弓庄城(ゆみのしょうじょう)を攻めるまでに回復した。 織田信長の横死は、各所に波紋をひろげている。真っ先に徳川家康が動きだした。彼は甲斐、信濃、さらに関東にも牙をむきだした。 佐々成政も好機到来とみた。羽柴秀吉と柴田勝家の信長の弔い合戦なんぞの帰趨(きすう)などは関係ない、今こそ領土拡張の好機ととらえた。 そのあおりをもろに受けたのが、越後の上杉家であった。 柴田勝家の与力大名の佐々成政は、越中全土の領有と越後への進攻を策し、再び魚津城攻略を視野に入れ始めた。 彼は柴田勝家と羽柴秀吉との戦場予定地を近江と読んだ。織田信長が亡くなった今、戦国乱世の到来を予感したのだ。柴田勝家の与力として越中は安堵するが、勝家のために積極的に加勢する気はもうとうない。 彼は越後をも手中とし、戦国大名として生き残る道をえらんだ。 信濃の飯山城主の森長可は、信長の死により領内統治に失敗し、美濃の金山城に引き篭った。それにより信濃は一時軍事的空白状態となり、あらたに真田昌幸(まさゆき)が台頭してきた。しかし越後にとり絶対的な脅威ではなかった。上杉家はこの機に乗じ軍勢を発し、信濃四郡の押さえに成功した。小説上杉景勝(25)へ
Jan 28, 2007
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景勝は新発田勢の新潟の砦に対抗し、山吉景長(やまよしかげなが)に命じ木場(西蒲原郡黒崎町)に城を築かせ、勇将できこえた蓼沼友重(たでぬまともしげ)を本丸に、二ノ丸に山吉景長を入れ二人を城将に任じた。 さらに兼続の進言で白山島に新潟城を築き新発田城に圧迫をくわえた。 ちなみに新潟市と新発田市は車で三十分ほどの距離で新潟空港は新発田にある。こうしてみると上越にある春日山城と新発田城は遥か離れた土地にあることが判る。兵站基地としては、甘糟長重の三条城が重要な働きをした。 越後は北を新発田重家に、南の越中(富山)には強力な織田軍団に進攻され、関東には北条勢が、虎視眈々と越後進攻を目論み、まさに存亡の危機に直面していた。 こうした中、兼続は朝に越中、夕に新発田と獅子奮迅(ししふんじん)の働きをみせ、一方の景勝は常のごとく青味をおびた顔つきで青竹を片手とし、驟雨(しゅうう)のような凄まじい攻勢をかけていた。言辞の軽々しさも弁口もたたかず、寡黙のまま剽悍な双眸を細め、戦塵にあっては叱咤の声をあげ兵卒の指揮を執る景勝に、越後の将たちは粛然と襟(えり)を正し従っていた。「お屋形さまは成長なされた」 兼続は主人の態度に満足していた。 この窮乏(きゅうぼう)に耐えつづける姿勢に、謙信の面影をみてとっていた。 九月一日、またもや春日山城の一室で惨事が起こった。 この日、直江信綱と景勝側近の山崎秀仙(しゅうせん)が会談中に、佐橋ノ庄の毛利秀広(ひでひろ)が乱入し、一刀のもとで山崎を斬殺したのだ。驚いて止めに入った信綱まで巻きぞえで殺害され、同席の岩井信能(のぶよし)が毛利を討ち取った。原因は御館の乱の働きにたいし、何も恩賞がなかったことを恨んでの凶行であった。殺された信綱には嫡子がなく、名家、直江家の名跡の絶えるを惜しんだ景勝は、信頼する兼続に未亡人のお船を配し名跡を継がせた。 兼続二十三歳、才色兼備のお船が二十五歳の時であった。こうして樋口兼続は与板衆の当主となり、直江兼続の誕生がなった。 明けて天正十年二月、織田勢は柴田勝家を総大将として前田利家、佐々成政らの諸将の兵が魚津城を包囲した。魚津城攻城の本格的な始まりであった。 魚津城将の山本寺景長から、しきりと援軍の要請がもたらされる。 だが、景勝は動けない状況下にあった。彼は越中の一向門徒衆の教如(きょうによ)に織田勢の後方かく乱を求め、出兵せずに新発田勢との対応におわれていた。三月十一日に武田勝頼が、織田の滝川一益の攻撃をうけ天目山で自刃をし最後を遂げた。ここに甲斐の名門武田家は滅亡し、魚津城の攻勢が強まった。四月上旬には織田勢は一万余の大軍を増派した。対する越後勢は四千名であった。すでに兵糧、弾薬もそこをつきかけている。 四月二十三日、魚津城の将が連盟で執政の直江兼続に、落城間近とみて最後の救援要請を求めてきた。山本寺景長、中条景泰(かげやす)、吉江宗信、蓼沼泰重(やすしげ)、竹俣慶綱(たけまたよしつな)ら十二名の決別の連署であった。最後に「滅亡と存じ定め候」と書き加えてあった。 魚津城で軍議がひらかれている。城将筆頭の山本寺景長が各将たちを眺め廻した。いずれの将も凄まじい形(なり)をして疲労の色を浮かべている。「すでに籠城いたし四ヶ月となる、兵糧、弾薬は大事ないか?」「食いつなぎ半月はもちましょう」 副将格の中条景泰が答えた。「なんとしても、お屋形さまのご出馬が頼りじゃ」「それはなるまい。新発田の裏切りと武田の滅亡で越後は四面楚歌、お屋形さまの力をもってしても、越中に軍勢を進めるは無理じゃ」 山本寺景長が憔悴した顔で断じた。「なんで救援要請をなされました」「ここには女子供もおる。我らは死ぬことも生きざまのひとつ、併し、彼等は助けたい」 山本寺景長が菱沼泰重に答えた。 こうした情況下で魚津城の諸将は討ち死にを覚悟していた。「越後武者の死にざまとくと上方の者供に見せつけてやる」小説上杉景勝(24)へ
Jan 27, 2007
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兼続が留守衆の黒金泰忠に、陣触れと斉藤親広を呼び出すよう命じた。俄かに春日山城が騒がしくなり、陣触れの法螺貝と大太鼓が高田平野に轟いた。「斉藤、お屋形さまの率いる八千名が越中に出陣いたす。魚津城で会おうと河田長親殿に申し上げよ」「ははっ」 斉藤親広が勇んで春日山城を辞していった。「お屋形さま、石山本願寺に使者をつかわします」 「本願寺にか?」 景勝が兼続の白皙の相貌をみつめた。「顕如(けんにょう)殿に越中の一向門徒衆に決起を促していただきます」「面白い」 打てば響くように景勝が肯いた。 この頃から、兼続は極秘で忍び集団を作りあげていたのだ。彼らは兼続の命で直ちに摂津(せっつ)の石山本願寺にむかった。 黒糸威二枚胴具足を身にまとい、行人包(ぎょうにんづつみ)の景勝を先頭に、八千名の越後勢が疾風の速さで越中へと向かった。 毘の旌旗(せいき)、指物が風に舞って壮観な眺めである。 景勝は鹿毛の駿馬(しゅんめ)で青竹を掴み、先陣を駆けてゆく。 三月九日、織田の佐々成政の小出城を包囲した。城は成政不在で留守部隊が籠もっている。魚津城からも四千の兵卒が加わり、一万二千名が小出城を十重二十重に囲み、火の出る勢いで攻めたてるが、猛将佐々成政が手塩にかけた籠城部隊は猛烈に反撃してくる。 石川本願寺の命で越中の一向門徒衆も合流し、織田勢の砦はもみ潰され火が放たれた。しかし、小出城はびくともしない。「しぶとい」 馬上で景勝が歯軋りをしている。 三月二十日、早暁に兼続が景勝を訪れてきた。「兼続、敵はしぶとい」 景勝が剽悍な眼で兼続をみつめた。「お屋形さま、戦は手仕舞いにござる」 「なにっー」「先刻、顕如殿より火急の使者が参りました」 「使者が参ったと申すか?」『すでに織田方の諸将は大軍を率い京を出立いたした、この上は早い撤退を進言いたす』と、口上でもって織田家の情報が、兼続の元にもたらされたのだ。「お屋形さま、機会は再び参りましょう」 兼続が冷静に答えている。「無念じゃ。・・・・兼続、そちに殿軍を命ずる」 「承ります」 三月二十二日、上杉勢は囲みを解き一斉に撤退を開始した。まさに風来電過の勢いであった。 「お屋形さま、流石にござる」 兼続が小気味のよい景勝の指揮をほめあげていた。疾風のように襲い、疾風のように去る。これが不識院公より連綿(れんめん)として伝わる上杉家の戦法であった。 「何度でも襲ってくれる」 景勝が鞍上(あんじょう)で呟いていた。 こうして越中争奪戦は失敗をみた。翌年の四月、またもや景勝に不幸が襲った。越中代官の河田長親が病没したのだ、これは上杉家にとり痛手であり、これを契機とし、越中支配が徐々に後退して行くのであった。 二十五日に、景勝は春日山城で兵を解散させた。兼続の率いる一千名の殿軍も半日遅れで帰還した。「流石に織田勢は手強い、あの反攻の速さは並ではないの」 これが初めて越中に進攻した景勝と兼続の思いであった。 この年の六月、越後全土が震撼(しんかん)する出来事が勃発(ぼっぱつ)した。下越の揚北衆(あげきたしゅう)の強力な国人領主の、新発田重家が景勝に反旗をひるがえした。発端は、御館の乱の論功行賞の不満が募った結果と云われているが、それだけではない。自立して戦国大名たらんと念願した新発田重家と、織田信長との連携が一致したことによる反乱であった。ここにも信長の手が伸びていたのだ。この抗争は六年の長きにわたる内乱となった。 この乱に新発田方として重家の、縁戚の五十公野道如斎(いじみのどうにゅうさい)の籠もる五十公野城(いじみのじょう)も蜂起(ほうき)して景勝に反抗した。小説上杉景勝(23)へ
Jan 26, 2007
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「お屋形さまも、人が悪うなられましたな」 「そちのお蔭じゃ」 青味をおびた肌をみせ、景勝の眼がふっと笑ったように細まった。 この年の真夏の炎天下、景勝率いる精兵が突然に三条城を包囲した。城主の神余親綱は仰天した。まったく予測のできない晴天の霹靂(へきれき)であった。 城の周囲は、びっしりと上杉勢の兵で埋めつくされている。旗指物が風になびき、壮観な様相を呈している。まさに、諸葛亮孔明を彷彿(ほうふつ)させる疾風怒涛の采配を景勝はみせたのだ。 完全に戦意喪失した神余親綱は、三条城を開き景勝の膝元に屈した。 残るは北条輔広(きたじょうためひろ)の籠もる、北条城のみである。この城も翌年の二月に、あえなく落城した。 こうして越後を二分した動乱は、天正九年の二月で幕をとじた。 景勝と兼続は国内統治の強化とし、三条城を甘糟長重(あまかすながしげ)に与えた。この甘糟長重は第四回川中島合戦で、上杉勢の殿(しんがり)を見事に果たした武将として聞こえていた。 本庄秀綱から奪った栃尾城は、景勝の父、政景に仕えた五十騎衆の一人であった、宮嶋将監(しょうげん)三河守に与えられた。 こうして越後の国内統治は、謙信の代よりもいっそう強化されたのだ。 (四面楚歌) 春日山城は三月を迎えようとしていた。新緑が芽吹き残雪の残る渓谷からは鶯の鳴き声が聞こえ、日本海も春の季節を迎え穏やかに凪いでいる。「お屋形さま、ようやく越後平定も終りましたな」 「そちのお蔭じゃ」 景勝は二十七歳の青年国主となったが、相も変わらず酒を愛でていた。 青味をおびた頬が豊かになり、剽悍な眼差しも和んでみえる。しかし、内心は秋霜烈日の勇猛心を秘めている。 挙措(きょそ)も、何となく亡き不識院公に似てきていた、これも日頃からの鍛錬の賜物であろう。だがけっして笑顔を見せることはなかった。 兼続も二十二歳を迎え、年に似わわぬ老成した雰囲気を醸しだしていた。 智謀ますます冴え、白皙長身の容姿は人々を圧倒する威厳を備えている。「御館の乱の論功行賞に不服を申す輩(やから)が居ると耳にいたしております」「わしの仕置きに文句を申すと云うか?」「公明正大に扱っても、欲深い者には際限がございませぬ」「わしは、己自身の褒美として酒じゃ」 景勝が大杯をあおっている。「お屋形さまは、そうでございましょう、だが、我家は四面楚歌の情況。他国からの挑発が心配にござる」 兼続が心のわだかまりを述べた、何かが起こりそうな予感がしていたのだ。「申し上げます。越中の河田長親(ながちか)さまの使者が、お目通りを願いでておられます」 廊下より留守衆の黒金泰忠(やすただ)の声がした。「通せ」 すかさず兼続が声をかけた。 河田長親は謙信に越中代官を命じられ、魚津城(うおづじょう)に詰めていた。 越後が内乱中、織田家は加賀、能登に進攻し、越中の富山城を攻略した。 魚津城は越後の国境寄りの上杉家の、前哨基地として松倉城と共同して織田勢の進攻を抑えてきた。「拙者、魚津城の河田長親さまの家臣、斉藤親広(ちかひろ)と申します。主人、河田は体調をくずし、松倉城で養生中にございます。ぜひ、書状をお屋形さまにお届けいたすよう、命じられ罷りこしました」「ご苦労じゃ、下がって休息いたせ。追って沙汰いたす」 兼続が命じた。「兼続、書状を読み上げよ」 兼続が一読し頬をくずした。「お屋形さま、織田家の北陸方面の重臣ども、二月末の洛中での馬揃(うまぞろい)のために京に戻り、越中を留守にしておる模様にございます」「なにっー、誰が京にのぼった」 景勝が立ち上がっている。「柴田勝家、前田利家、佐々成政、不破光治(ふわみつはる)、金森長近(ながちか)、柴田勝豊(かつとよ)等にございます」「面白い、北陸の重臣度もすべてじゃ」「佐々成政には痛い目にあっております。奴の居城、小出城に攻め込みますか」「富山城は孤立いたすな」 「御意に」 景勝は暫し、熟慮した。今なれば北陸の織田勢の主だった武将は京におる、越中、能登、加賀も空家どうようである。攻め込むならば今をおいてない。「兼続、陣触れじゃ」 景勝が即断した、流石は上杉の当主である。小説上杉景勝(22)へ
Jan 25, 2007
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影虎を支持していた前関東管領の上杉憲政は、景勝に投降しようと影虎の遺児、道満丸(どうまんまる)を連れてゆく途中、景勝の兵に捕らわれ、二人とも斬殺された。こうして御館(おたて)の乱は終焉(しゅうえん)をみたが、その後も、影虎一派に属した武将連は激しく景勝に対抗するのであった。 翌月の四月、栃尾(とちお)城主で影虎派であった、本庄秀綱(ひでつな)が、直江信綱の所領である与板(よいた)周辺に兵をだしたが、景勝側の反撃で兵を引いた。 春日山城で景勝がいらつきを隠さずにいる、ようやく跡目争いが決着したというに、つぎつぎと国人領主の反乱が起こる。「お屋形さま、今は我慢なされ。以前に申しましたが国人領主を家臣に執り込む絶好機にござる。まずは去就(きょしゅう)さだかでない国人領主の懐柔をなされ。さらに、お味方に参じた者供に恩賞をくだしおかれませ」「判った」 景勝は兼続の言い分を聞き、降った者に感状を与え、所領を増やし役目を申しつけた。こうした地道な努力が、徐々に効果を顕してくるのであった。 この働きで樋口兼続は、上杉家の執政(しっせい)の地位を固めたのであった。 天正八年四月、突然、景勝は一万余の大軍をもって地蔵堂に進攻した。 何度となく反旗をひるがえす、栃尾城の本庄秀綱を殲滅するための出馬であった。本庄秀綱も手勢を集め、地蔵堂で合戦となったが、衆寡(しゅぅか)敵せず、居城の栃尾城に籠城した。 兼続は景勝に帰国するよう願いでた。「折角の出陣じゃ」 戦好きの景勝が気色ばんで断った。「このような小競り合いに、上杉家の当主が兵を率いるなんぞは、愚の骨頂にござる。我らに任せ酒でも楽しんで悠然と為されませ」 この合戦の行方を見守っている、国人領主に対する兼続一流の戦略であった。慧眼(けいがん)な景勝は意をくみ、春日山城に戻り戦局をみつめている。 兼続は自慢の甲冑姿で騎乗し、桜の小枝を指揮棒として指揮を執っている。 彼が手をふるたびに桜の花びらが舞う、さすがは北陸随一の美丈夫とうたわれた武将だけはある。まさに一服の武者絵をみるがごとくの勇姿であった。 配下の将兵はそれだけで勇んで敵にあたった。 四月二十二日、栃尾城は落城し、残敵を掃討し五月には春日山城に凱旋した。兼続は戦勝報告を終え、景勝と久しぶりに酒を楽しんだ。「わしは、そちの城代じやな」 珍しく景勝が冗談を言う。「暫くは城代に徹していただきます。七月には三条城を落します」「神余親綱(かみよちかつな)か?」 景勝が剽悍な眼差しで聞いた。「はい、お屋形さまにお願いの儀がござる」「今度は、わしの出番か?」 景勝の顔つきが変わった。 兼続が大杯を手に破顔した。 「何が可笑しい」「合戦とは楽しむものに非ず、苦悩するものにござる。お屋形さまは楽しんでござる」 景勝のこめかみに血管が浮いた、兼続の云わんとすることは判るのだ。 兼続が威儀(いぎ)を正した。 「越中の件にござる」 「それがどうした」「不識院公が手を砕き、得た能登、越中を織田信長が狙っております。我らの今の力では、松倉城と魚津城の確保が精々にござる。まずは魚津城に増援の将をお考え下され」 珍しく兼続の白皙の顔が真剣である。「考えてみよう」 景勝には無念なことであるが、彼は簡潔に答えた。 謙信存命ならば、能登、加賀、越中、信濃、越後一国に関東の上野(こうずけ)までが上杉家の版図であったのに、越後一国もままならずにいるのだ。 主従は黙然と酒を飲みつづける、平素は二人とも無口であった。「ところで、お子はまだにござるか」 思い出したように兼続が訊ねた。「・・・・・」 景勝は無言を通している。「失礼ながら、お方さまとは閨ごとはございますのか?」「兼続、主人にむかってそのような、些事(さじ)を尋ねるとは無礼じゃ」「男女の閨房(けいぼう)事は些事ではござらん、男女にとり重大事にござる。ましてや、拙者と約束なされた」 「菊と寝るとはいわなんだ」 景勝が不貞腐れている。 「情けなきかな」 兼続が天を仰いだ。「そちは、いささか騒ぎすぎる。神仏にかけて違背(いはい)はせぬ」 年上の景勝が、兼続をいたぶっている気配がする。小説上杉景勝(21)へ
Jan 24, 2007
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「信長という男は年中、各地で合戦をいたしておるが、そこが不思議じゃ」 景勝が小首をかたむけた。「あの武将は己の信じた道を迷わず突き進みます、朝廷や古刹の権威など一切認めません。更に申せば商に目をつけ財力を貯えた稀有(けう)な武将です」「叡山を全山、焼き払ったと聞く」 「左様、己に刃向う者は情け容赦なく制圧いたします」 兼続は合理主義者と云いたかったが、この頃にはそんな言葉はなかった。 「兵農分離を実施いたした結果にござる。織田勢はいつでも出陣できます」 兼続が気迫をこめ、景勝をみつめた。「兵と農民を分離いたしたか、難事じゃが我らも見習わねばならぬの」 いまだ大半の大名は農繁期には出兵をひかえ、田植えや稲刈りの終った時期に農民を足軽に変え合戦に出かけていたが、織田軍は違っていた。いわば現代の職業軍人の兵制を作り上げていたのだ。「さらに申さば軍団を方面軍としたことにございます」 「方面軍?」 景勝も、傍らの泉沢、柿崎両人も不思議そうな顔をした。「信長は居城の安土に居座り、毛利攻めは羽柴秀吉、北陸は柴田勝家、本願寺には佐久間信盛、林道勝、丹波丹後は明智光秀、関東は滝川一益を総大将として派遣いたしております。これを方面軍と申します」「恐ろしい男じゃ」 景勝が独語している。「まずは御館の乱を終らせねばなりませぬ、その後に我らは織田勢と対決いたすことになりましょう」「その前に越後一国の領国統治を為さねばならぬな」 「御意に」 兼続が遠くをみる眼差しをしている。 「いかがいたした」「泉沢と柿崎は座をはずせ」 兼続が二人に命じた。景勝は無言でいる。 唐突な言葉にも係わらず、二人が素早く居室を辞していった。「申せ」 景勝は兼続の人払いの処置にたいし疑問を口にしない。「今は戦国乱世とは申せ、下克上(げこくじょう)の世は終わりに近づいております。申さば、国人領主の存在は無用となります」 「・・・・・」 景勝は無言で青味をおびた肌をみせ、剽悍な眼差しを兼続にそそいでいる。「彼等は利のために御屋形さまについております、そこには義や信はござらぬ。越後はお屋形さまを頂点とし、上杉の家来たちで治めます」「国人領主を廃し、わしの直属の家臣にせよと申すか ?」「彼等が居るかぎり内乱が起こります、根本を正さすに何ができましょう。我家も織田軍団のようにせねばなりませぬ」 「うむっ」 景勝が小さく首肯した。 越後に遅い春の訪れがはじまった。残雪が高田平野を埋め尽くしている。 天正七年の春を迎えたのだ。春日山城から伝令が各所に散ってゆく、総動員の命が下されたのだ。国人領主が兵を率い続々と参集してくる。 二月一日、雪を掻きわけ御館攻撃がはじまったが、影虎勢の懸命な防戦で戦線は膠着した。この時期、兼続のもとに北条勢進攻の知らせがもたらされた。 こうなれば決戦を急がねばならぬ。兼続は決死隊を募り、闇夜に乗じて奇襲をかけるべく策をめぐらした。 三月十七日の夜、兼続は一軍を率いて御館にむかった。折からの烈風を衝いて御館に夜襲をかけた、影虎勢は完全に不意を衝かれ、反撃を忘れ逃げ散った。影虎は御館の奥に逃げ込み、妻に自害を迫ったが、「貴方さまは実家を頼って落ちのびてくだされ」と、悲痛な懇願に応じて館を脱出した。 夫の無事な脱出を確認した室は、お側衆と館に火を放ち自害して果てた。 彼女は景勝の妹である、兼続は室の救出に失敗し臍(ほぞ)を噛んだ。戦国のならいとは云うものの、兄が妹の命を絶つとは悲惨きわまる一事であった。 こうして御館は火炎のなかで消失した、残ったものは、おびただしい死傷者の群れであった。 影虎は数名の家臣に守られ、小田原をめざし関東に脱出せんと逃亡を計ったが、景勝の手勢に行く手を阻まれ、鮫ケ尾城(新井市)に立ち寄ったことが不運であった。すでに景勝の手が廻っており、城主の飯盛攝津(いいもりせっつ)の裏切りで、同月の二十四日に自害して果てた。享年二十六歳の若さであった。小説上杉景勝(20)へ
Jan 23, 2007
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「わしは女子は苦手じゃ、合戦と酒が性にあっておる」 景勝が苦々しい顔で酒をあおった。「拙者がお屋形さまの、帷幄(いあく)となるは男子の本懐、なれどお屋形さまに約束を守って頂くことが条件。それがならねばお断りいたす」 (ここは譲れぬ) 樋口兼続は強い口調で言い切った。「嫡子はかならずなす」 「お菊の方とのお子にござるぞ」「そう、急くな」 景勝が浅黒い顔で兼続の大杯を満たした。「そのような、おべっかいは無用にござる」 兼続は景勝が、いまだにお菊の方に一指も触れていないことを知っていた。人には好き嫌いがある、まして政略結婚では交わりを強制できない。 併し、そこまで不識院さまの真似をすべきでないと思う。胆力、知力、決断力など、謙信公の武将としての資質を真似るならば赦せる。「わしは多弁を禁じ、真の武将として義父のようになりたいと念じておる。奇弁(きべん)は弄さぬ、信じてくれえ」 景勝の心に偽りのないことを見極めた。「勿体ないお言葉にござる。若輩の身で才幹(さいかん)足らずとも、一身をもって犬馬の労をあい勤めます」 兼続が平伏した。 (影虎死す) 弟の三郎氏秀(影虎)の窮状をみかねた北条氏政(うじまさ)は、九月初旬を迎えた時期、影虎救援の軍勢を越後に出馬させると決意を固めた。 総大将は氏照(うじてる)、副将に氏邦(うじくに)とした北条勢が、関東から越後国境に向かった。 「とうとう痺れをきらしたか」 景勝は越後国境の将たちに、北条勢来襲の伝令を発した。 北条勢は越後国境に侵攻し、樺沢城(かばさわじょう)を一気にぬき、上田長尾家の本拠、坂戸城(六日町)を囲んだ。この城は景勝の生まれ育った城で、堅城として知られている。守将として登坂、深沢の猛将両人が上田衆を指揮した。 精強できこえる上田衆の果敢な抵抗で、北条勢は城を包囲しながらも、御館に一兵の救援軍も送りこむことが出来ずにいる。 業を煮やした北条(きたじょう)丹後守高広が、御館に籠もった。 こうして両軍は戦機を窺がっていた。九月下旬、北国の豪雪地帯に初雪が降った。関東の将兵が、もっとも恐れていた季節が訪れたのだ。 北条勢は豪雪を恐れ、樺沢城に北条輔広(すけひろ)、河田重親(しげちか)を守将として九月末に兵を引き帰国した。 上越一帯は冬を迎え膠着状態となった。双方とも年明けの雪解けを待っての合戦と判断し、休戦状態となった。 春日山城も豪雪につつまれている、びょうびょうと日本海が荒れ狂い、波が白い牙を剥きだし、地平線には鈍色の雲が低く垂れ込めている。 景勝一派の武将連も領地にもどり、冬の去るのを待ちかねている。 景勝の居間で四人の男が酒を肴に談笑している。景勝は常のごとく青味をおびた肌をみせ、謙信を真似た大杯で無言で飲んでいる。 正面に兼続が座し、左手に上田衆の武将の泉沢久秀が酒をあおっていた。 彼は能吏の才がある有能な男であった。右手に異色の男が座っていた。柿崎憲家(のりいえ)という男である、彼はかって越後軍団で勇猛をはせた柿崎景家の孫にあたる男である。景家(かげいえ)は謙信の先鋒大将として、第四回川中島合戦で、武田勢に真っ先に突撃した武将で知られていたが、倅の晴家が織田家に内通したと疑われ改易となった、その晴家の息子であった。 彼は家の再興のため、御館の乱に景勝に与力をし本領安堵を賜ったのだ。 兼続が白皙の顔を染め、織田家の内情を語っている。「織田家が天下をとるか?」 景勝が大杯をもって尋ねた。「信長という大将は常人に非ず、異常人と思われます。尾張の小名の出ながら美濃、近江、近畿一帯と越前、丹後を手に入れ、今は中国の毛利家と対決いたしております」 「不識院公が手に入れられた加賀能登へも攻め込んでおるの」「織田の将、佐々成政(さっさなりまさ)が、越中を虎視眈々と狙っております」 景勝と兼続の会話を泉沢と柿崎の両人が、無言で聞き入っている。小説上杉景勝(19)へ
Jan 22, 2007
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「皆さまに申し上げます、この乱は一年は続くと読んでおります。悪戯にはやらず我が陣立てに従って頂きます」剽悍な眼差しをした景勝の傍らから、兼続が声を張りあげた。 「一年とは長い」 猛将できこえた新発田重家が戦場焼けした野太い声をあげた。「お忘れあるな。影虎さまには実家の北条家、甲斐の武田家がひかえてござる。連絡によれば、すでに武田勢甲斐を出陣したとの知らせにござる」「甲斐の武田勢が出陣いたしたとな?」 一座に騒めきが起こった。 「戯(ざ)れ言ではないのか?」 諸将連の恐れはそこにあった。景勝のこめかみに太い血管が浮いた。「ここは軍議の席じゃ、私語はつつしめ」 景勝が青竹を膝に叩きつけ、怒りを顕にした。諸将連が粛然と静まった。「武田家なんぞに、恐れる謂れはない。もはや信玄存命の勢いはない、勝頼はわしに任せよ」 景勝が脇差の柄頭(つかがしら)に手をそえ断じた。「武田勢のことはお屋形さまに一任いたし、我らは総力をあげ御館を攻めます。ご異存はありませぬな」 兼続の言葉に諸将連は無言で肯いた。 その頃、武田勢は信濃に軍勢を進めていた。天正六年五月二十九日のことである。 影虎の実家の北条家は影虎の救援要請をうけ、武田勝頼に出兵を頼んだ。影虎の妹を妻とする、勝頼は信濃から越後国境へと兵馬を進めていた。 だが武田家には往年の力はない、甲斐を留守にすると徳川勢が直ちに侵攻してくる。勝頼にとっては義理のための出兵であった。 景勝と兼続は武田家と和睦(わぼく)を前提とした、入念な打ち合わせをしていた。その条件は、勝頼の妹の菊姫と景勝の縁組であった。引出物は越後の金山で採れる金銀である。三年前、武田家は織田、徳川の連合軍と長篠(ながしの)で戦い、手痛い損害をこうむり、急速に凋落(ちょうらく)の一途をたどっていた。 こうした背景のなか、上杉景勝と和議を結び縁戚となる、これは武田家にとって願ったりの朗報であった。 さらに金銀をえて疲弊した国内を潤し、往年の戦力をととのえることが出来る。 景勝は菊姫との婚姻を条件に、莫大な金銀を勝頼に贈り、ここに越甲同盟が成立をみたのだ。 勝頼は景勝と同盟を結ぶや、影虎に和睦の仲介をしたが、それも一時のことであった。武田勢が軍勢を引き、和議が破談となり再び本格的な合戦が始まった。 景勝一派の武将連は、景勝の鮮やかな外交手腕をみせられ、不識院公の再来とみて、景勝に忠誠を誓い結束を強めた。 景勝と股肱の臣の兼続が、春日山城で酒を酌み交わしている。「お屋形さま、いよいよ北条勢との合戦になりますな」「奴等も長対陣は出来まい、初雪が降れば引きあげる」 景勝も謙信と同じく酒を好んだ。黙々と大杯をかたむけるが、青味をおびた顔色が変わることはない。兼続も白皙の風姿をくずさずに盃を干す。 彼の智謀は、この時期を境としいよいよ顕となり、諸将は景勝の名代として兼続の命に、絶対的な服従を示しはじめた。「兼続、わしは養父(ちち)のような智謀はない、せめて風姿のみを真似たい、そちは、わしの頭脳となれ」 景勝が好きな大根漬けを頬張り、小気味の良い音をさせた。 「お屋形さまは、それで満足にございますか?」 兼続には景勝の、揺れ動く胸中が手にとるように理解できる。「わしが上杉家を率いてゆくためには、不識院公に似せることが必要じゃ。そちとわしとの二人三脚じゃ」「それを、お受け申すためには条件がございます」 「なんじゃ」「不犯の将だけは、ご遠慮願いまする」 景勝が不満顔をしている。「恐れながら申しあげます。こたびの影虎さまとの合戦騒ぎも、もとを糺せば嫡子を残されなかった、不識院公さまの不手際にございます。必ずや女人と交わりをもつとお約束下され」 兼続は景勝の武将としての器量をかっていた、不識院公と比べることは酷であるが、武将として並の器ではないと睨んでいた。 景勝の戦塵にあっての態度挙措は、歴戦の諸将が震いあがるほど秋霜烈日であった。誰一人、咳払い(せきばらい)もせず、押し黙って槍を斜めとして折り敷いている。その景勝に不犯まで真似られては困る。小説上杉景勝(18)へ
Jan 21, 2007
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「申し上げます。山本寺定長(さんぽうじさだなが)殿、本庄秀綱(ひでつな)、北条高広、北条輔広(すけひろ)、神余親綱(かみよちかつな)、河田重親(しげたか)、これらが影虎殿に与力いたしましょう」「山本寺定長殿は一門衆にござるぞ」 上条政繁が驚きの声をあげた。「拙者が偽りを申しておると云われるか、弟の山本寺景長(かげなが)殿は我らが一派」 「これは驚きですな、一門衆までが割れますか」 この席でも兼続の美丈夫ぶりは群をぬいている、声に朗々たる気迫がこもっている。 景勝は黙然として聞き入っていたが、兼続に躯をむけ尋ねた。「兼続、そちの存念を申せ」 相変わらず言葉が短い。「お屋形さまには、越後の平定がなによりも肝要。それには春日山城の占拠が必要、止むを得ないことながら、三ノ丸さまを討つしか策はございませぬ」「判った、早速準備いたせ、戦闘開始は明日払暁(ふつぎょう)と心得よ」 景勝が青竹を打ち振り、言葉をかさねた。「明朝に本丸に毘と龍の戦旗をかかげよ、それを合図に大鉄砲を撃ちかけよ」 景勝は短い命令を伝い、奥に下がっていった。 重臣連は景勝の果断な処置に感服した。 「さすがじゃ」「見事な御大将じゃ」 重臣連が頬をくずしている、景勝の颯爽とした姿が亡くなった謙信を彷彿(ほうふつ)させるのだ。「皆さま方に申し上げます。すぐさま戦旗と大鉄砲の準備をお願いいたします。三ノ丸攻撃は、鉄砲合戦と心得て下され」 兼続の下知で諸将が散った。 翌日の早暁(そうぎょう)、本丸上に毘と龍の戦旗がたなびいた。「おう、見事な眺めじゃ」 本丸の景勝配下の将の血が沸きたつ。 大鉄砲が凄まじい轟音をあげ、三ノ丸へと撃ちこまれた。 屋根瓦が吹っ飛び白壁が砕け散る、連日にわたり猛射がはじまった。 さすがの影虎も、この攻撃に耐え切れず、三ノ丸に火を放ち脱出した。 行き先は直江津の上杉憲政の御館(おたて)で、そこに彼等は落ちのびた。戦闘開始から、十日もたたない短期間で、景勝は春日山城を回復したのだ。 影虎は御館の補強を急いだ。なんせ、この館は上杉憲政の隠居所で戦闘に耐えうる城ではなかった。ここで北条丹後守高広が活躍した。 彼は書状でもって越後の国人領主に勧誘の手をのばし、影虎のもとに続々と諸将が参集してきた。影虎の後ろ盾の北条家と武田家に望みをつないだ結果である。兵糧武器、弾薬が御館に運ばれ、土を掘った急作りの胸壁をめぐらした。 影虎勢の士気は一気に高揚し、越後を真っ二つに割った内乱が幕をあけた。 影虎に味方となった諸将の思惑は、春日山城の景勝の器量に疑念があった。血筋には問題ないが、はたして故謙信公のような将器があるのか。 それにひきかえ、影虎には関東の雄、北条家がひかえ、縁者として甲斐の武田勝頼が後見している。どうみても影虎一派に利がある。 こうして府中、現在の上越一帯で激戦が繰り返され、景勝勢は苦戦に陥り戦線は膠着(こうちゃく)した。 春日山城の大広間で軍議がひらかれた。上座に景勝が着座し股肱の兼続が、傍らに控え、冴えた眼差しで一座を見廻している。 諸将連には上杉一門衆の山本寺景長、上条政繁、さらに歴戦の将、本庄城の本庄繁長、新発田城の新発田重家、岩井城の岩井信能(のぶよし)、与板衆の頭領で上杉家の重臣の直江信綱、信濃衆の村上義清の倅の山浦景国、長尾権四郎、大石綱元(つなもと)等、ほかに七将が集まっている。「お屋形さま、まだお味方はございますが、城内にはここに集まった諸将の方々だけにございます」 兼続の報告をうけ、景勝が青味をおびた顔をみせ、「一同、大儀じゃ。おいおいと馳せ参ずる者もあろうが、今はこの勢のみであたる」 相変わらず口数が少ない。「敵は続々と増えておると聞きます、勝ち目はございますか?」 大石綱元が魁偉(かいい)な容貌をみせ訊ねた。この武将は元関東管領の上杉憲政の家臣であったが、謙信を頼って越後にやって来た男であった。武勇に優れ智謀にも定評があった。「うん?」 景勝が青竹をもって小首をひねった。「兼続、大石綱元何をほざく」 苛立ちのこもった声を発した。「お屋形さま、我らは勝てる戦をいたします。今の言葉はお見逃し下され」 浅黄糸二枚胴具足の兼続が、景勝の言葉を押しとどめた。ここで仲間割れは困る、この一念で景勝の怒りを抑えたのだ。「我が上杉家には敗戦の二字はない」 景勝が凛とした声をあげ、青竹が鋭く宙を切りさいた。小説上杉景勝(17)へ
Jan 20, 2007
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謙信は意識不明のままに、天正六年(一五七八年)三月十三日に波乱の生涯を閉じた。ついに一言も口を開かず跡目の名もあかさずに没した。 謙信の没後、枕の下から、つぎのような辞世の一偈(いちげ)がでた。『一期の栄一盃酒 四十数年一酔の間 生を知らずまた死を知らず 歳月ただ夢中の如し』「生不知死亦不知」生まれた時を知らず、どうして死の時を知ろうか。謙信の人生観をみる思いがする。享年四十九歳、諡号(しごう)は不識院殿真光謙信法印大阿闍梨(だいあじゃり)。 謙信の最後を看取り、兼続の行動は素早いものであった。城内の主だった者を集め、若年の身で衆目の前に座した。「お屋形さまが、お隠れあそばした今は御中城さまを実城におこし願い、上杉家の名跡を継いで頂くのが上策と思います。方々のご意見を拝聴いたしたい」 不退転の気迫で迫った。誰も異論をはさむ重臣はいなかった、兼続の威に圧倒されたのだ。御中城にいる喜平次景勝は、養父謙信を上回る器量の持ち主として知られていた。風貌は青味をおび謙信に似た小男であるが、知勇と胆力は衆を抜きんでていた。平素は笑いを見せず無口をとうしているが、それ自体が景勝を神秘で寡黙(かもく)の将として印象づけていたのだ。 上条政繁が密使として御中城(二ノ丸)に向かった。「何と義父上がお亡くなりになったと申すか」 「御意に」 景勝は平素のままの、青味をおびた顔で立ちすくんでいる。信じられないことであった。城外には数万の軍勢がひしめき、お屋形さまの下知を待っているのだ。「この上は、速やかに亡きお屋形さまの亡骸(なきがら)の側に侍りませ」 こうして謙信の死を知らされた景勝は、ひそかに本丸に入り、養父謙信の亡骸の傍らに侍り、後継者の地位をえたのだ。これはすべて樋口与六兼続の大胆な作戦の賜物であった。 重臣連は幻惑にかかったように、若年の兼続の指示に従い行動した。 すかさず、本庄繁長と長尾権四郎景路の二将が兵士を引具して、本丸の諸門を固めた。これも兼続の指示であった。 一方、直江信綱は関東出馬の中止を下し、各武将に軍勢の解散を命じた。 お屋形さまの死が知れたら、三ノ丸の影虎さまに加勢し、功名手柄を期待する武将の現われることを恐れた処置であった。これも兼続の策であった。 まさに鮮やかな手並みを兼続はみせたのだ。 軍団の撤退するありさまを見て三ノ丸の三郎影虎が、養父の病を知り、家来を引きつれ本丸に入ろうとしたが、本庄、長尾の二将の手勢に遮られ三ノ丸に引き返した。 景勝は兼続と相談し、三月十五日。春日山城の金蔵と武器庫を占拠し、内外に上杉家の名跡を継いだと宣言した。 月があけた四月、直江津(なおえつ)の御館(おたて)に住まう、前関東管領の上杉憲政(のりまさ)より、「上杉家は三郎影虎に継がせて欲しい」との申しいれがあっが、これの回答をも兼続一存で上杉憲政に送りつけたのだ。「不識院さまのご遺言により、景勝さまに決してござる」と、要求をはねつけた。 それを聞き激怒した影虎一派は、三ノ丸に籠城し実家の北条家と、北条氏政の妹婿である、甲斐の武田勝頼に救援の使者を走らせ、防備を固めはじめた。 (内乱勃発) 本丸の大広間に景勝方の諸将連が参集しておるなか、景勝は不識院の座所の脇に脇息を置き腰を据えていた。 小男ながら頬が豊かで青味をおびた肌と、濃い髭跡をみせ剽悍な眼差しで一同を鋭く眺めている。一段さがった重臣連の横に、樋口兼続が座り白皙の面をあげて口を開いた。「お屋形さま、三ノ丸の影虎さまの勢いは日毎に強まるものと思われます。早晩、甲斐、関東から救援軍が越後に押寄せて参りましよう」 景勝は無言で肯き、重臣筆頭の直江信綱に視線を移した。「兵の解散を命じましたが、帰国いたさず日和見を続ける不届き者が居りまする。もし万一、救援軍が襲いくれば三ノ丸殿に味方するものと心得ます。我等は一時も早く三ノ丸を攻略することが肝要かと思います」「兼続、三ノ丸に加担いたす者供の名は分ったか?」 景勝が低くぼそっと尋ねた、養父の謙信どうように青竹を手にし、まったく表情に変化をみせない。小説上杉景勝(17)へ
Jan 19, 2007
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「お屋形さま」 遠くで与六兼続の声が聞こえる。 「兼続か」 「お気がつかれましたか、お顔の色が真っ青にございます」 白皙の兼続が、心配そうに謙信の躯を抱えていた。「ここは何処じゃ」 「毘沙門堂にございます」 謙信が視線を廻した、ようやく己の身に起こったことに気づいたのだ。護摩の煙がたちこめ、毘沙門天の像がみえる。「わしは気を失っておったか」「余りにも静かでお堂に入りまして、失神されたお屋形さまを見つけました」「誰ぞ、知っておる者は居るか?」 「どなたにもお知らせしておりませぬ」「そうか」 謙信は目を閉じた。手足が痺れ麻痺(まひ)したょうに思うように動かせない。「兼続、直江信綱(のぶつな)と上条政繁、本庄繁長をひそかに呼びだせ」「仰せの如くに」 兼続が素早く堂から駆け去った。「わしは見捨てられた」 毘沙門天の像は何も答えず、謙信の声のみが響いた。毘沙門天の憤怒の形相が、心なしか和んで見えた。 姉上を慕い、畜生道に陥った罪がこれであったか、謙信の蒼白な顔色が緩んだ。(わしの命脈(めいみゃく)も尽きたようじや) 十四歳の初陣から三十五年、戦闘を指揮すること数百回、城を攻略すること七十余度。それも無欲で天下の静謐を望んできたのに、それがこの様か、無念の思いがよぎった。 真っ先に本庄繁長が、顔色を変えて現れた。「お屋形さま、いかが為されました」 直江信綱と上条政繁も姿をみせ、蒼白な顔色で横たわる謙信をみつめ、唖然として立ちすくんでいる。「お屋形さまを寝所にお運びいたすが、誰にも見咎められてはなりませぬ」 兼続が三人に声をかけた。今の時期にお屋形さまに臥せられては、上杉軍団の士気に影響する。兼続のとっさの判断であった。「兼続、わしを厠(かわや)に運んでくれ」 「畏まりました」 謙信は厠に運ばれ一人となった。突然、後頭部に衝撃が奔った。全身がまったく動かない、 「卒中(そっちゅう)か」と悟ったと同時に意識を失った。 四人により寝所に運ばれた謙信は、昏睡状態に陥っている。 丁度、三月九日の正午であった。四人は謙信の枕辺に侍(はべ)り、沈痛な面持ちで鼾をかいて横たわる、主人の容態を見つめている。「お屋形さまは、卒中と思われます」 樋口与六兼続が声を低め、三人の重臣に告げた。卒中とは現代の脳溢血のことである。 極秘に呼ばれた医師が懸命な治療をほどこすが、謙信の意識はもどらない。 この時代の卒中は不治の病であった。急をつげられ仙桃院が寝所に招かれ、声を失っている。 「お屋形さまのお命は旦夕(たんせき)に迫っております」 兼続が仙桃院に冷徹に告げた。 「もはや、いかぬと仰せか?」 四人が言葉もなく平伏した。「城内の者はここに居る者以外は、お屋形さまが病に臥せられたことは知りませぬ。なにとぞご看病をお願い申します」「わたくしと医師殿の二人で看病いたします、兼続、今後のことは宜しく頼みます」 四人は別室で重苦しい思いで待機している、一人、兼続のみが謙信の命脈の尽きたることを読みきっていた。「御中城さまと三ノ丸さまには、お知らせいたさねばなるまいな」 重臣筆頭の直江信綱が口火をきった。「なりませぬ」 兼続が断固たる口調で反論した。 「何故じゃ」「信綱さま、お屋形さまには実子がおられませぬ、跡目のお言葉もなくお倒れになられました。もし、これが洩れたら城下の諸将が真っ二つに割れる事態となりましょう」 「景勝さまと影虎さまの、後継者争いが起これば一大事じゃ」 本庄繁長が、ぽつりと呟いた。 「拙者は景勝さまにつく」 上条政繁が、厳つい顔を引きしめ断固たる決意を示した。「本丸には我ら以外に新発田重家(しばたしげいえ)殿、長尾権四郎景路(かげみち)殿、その他は旗本衆にござる。しばらく様子を見ましょう」 兼続が白面の顔を引きしめ一同を見渡した。「兼続、まずは軍団の解散を命ぜねばなるまいの」「信綱さま、今はお屋形さまのご恢復(かいふく)を待つのが先決。悪戯に動けば御中城さまにも、三ノ丸さまにも知れるばかりでなく、諸将たちにも知れましょう」 三名の重臣は、兼続の人物の大きさをはじめて知らされたのだ。お屋形さまは、この若者をお側から離したことがない、兼続の忠告にも叱責を与えることもなく従っておられた。今も情勢を明晰(めいせき)に読み切っている。 この事態となり、弱冠十八歳の樋口与六兼続が、にわかに大きな存在となったのだ。小説上杉景勝(15)へ
Jan 18, 2007
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「わしも年じゃ。先陣の任はちと重くなった」「左様にございましょう、そろそろ上杉の陣法かえる頃かと推測つかまつります」「言うたな兼続」 謙信が怒りもせずに愉快そうに哄笑(こうしょう)した。「お屋形さま、ご酒をお持ちいたしましょうか」「まだ残っておる、そちは下がって休め」 謙信は一人となり春日杯を干しているが、気が昂ぶり頭が冴えている。 先刻の姉の囁きが何を意味するのか判るのだ。 法体(ほったい)姿の謙信は、足音を忍ばせ長廊下を伝っている。すでに灯火が燃え尽きている箇所もあるが、格子戸から満月の光が差し込み、尊厳な雰囲気をかもし出している。謙信は辺りに気配りしながら、小太りの体躯を北ノ丸へと進めていた。仙桃院の部屋から、微かな灯が洩れている。 謙信は高鳴る動悸を抑え襖を開けた。奥に白練りの寝衣装姿の姉がひっそりと待ちうけていた。 「遅くなり申した」「無理を申しました、襖を閉めここにお座り下され」 仙桃院が年を感じさせない艶やかさで謙信を手招きした。「御免」 法体の謙信がさされた座布団に腰をすえた。膳部が用意され、心づくしの小鉢物と酒器がのっている。 胸だかに締めた仙桃院の、か細い腰のくびれと胸乳の盛りあがりが目に痛い。「さあ、一献召し上がれ」 姉はこうして見ると乙女のように見える。「お笑いめさるな、こうして居ると身のすくむ思いがいたします」 彼女の全身から、恥じらいの色が浮かんでいる。「お誘いをうけ、夢をみている心地にござる」 謙信が杯を干した。「貴方とは今生の別れのような思いがいたし、覚悟をさだめお誘いいたしました」「嬉しきことにございます」 二人がじっと視線を合わせた。 二十数年前の出来事が蘇り、続き部屋の寝所にもつれるように入った。すでに布団が敷かれている。「姉上」 昔、人倫の道を踏み外した二人が激しく抱き合った。謙信は姉の乳房に顔を埋め甘えた、仙桃院が巧に謙信を恍惚の境地に導く。 二人の吐息が高まり、それも鎮まった。謙信は半刻ほど姉に抱かれ仮眠した。「姉上、戻らねばなりません」 「ご無事な帰国を祈っております」「きっと戻って参ります」 謙信は別れがたさを押し隠し部屋を辞した。 こうして姉弟であり愛人である二人は、心を残して別れた。「お屋形さま、起きて下され」 樋口与六兼続の声で謙信は目覚めた。 心身から力の漲りが感じとれる。「朝食をとったら毘沙門堂に籠もる、昼ごろには堂をでる」「分りました。無心の境地に至るまで戦勝祈願をなされませ」「兼続、分ったような事を申すな」 謙信は水で躯を清め毘沙門堂に入った。 すでに兼続がすべての用意を済ませていた。静寂の漂う堂内には護摩が焚かれ、毘沙門天が憤怒の形相で謙信を見下ろしている。謙信は思わずひざまずいた。心の臓に痛みがともなっている。「謙信、われはまた戒律を破ったの」 毘沙門天の怒りの声が堂内を震わせた。 「お赦し下され」 謙信が床に額をすりつけた。「天下静謐の大軍を発する前に、畜生道に再度陥るとは情けなゃ。汝は武神の使者として天下万民のために兵を起こす。そのために心身を清め無心の境地に至るのが努めじゃ、それをこともあろうに昨夜、畜生道に陥るとは情けなゃ」 毘沙門天が凄まじい怒りの声を浴びせる。「わたしは、昔から姉上が好きでした」「汝は、それでも上杉謙信か、天下に恐れられた武将か。恥を知れ、汝の命運は極まり尽きた、堂を出て天寿をまっとういたせ」「わたしに兵を率いることを、お赦し下され」 突然に全身に激痛を覚え、謙信の顔面から脂汗が滴った。 「汝は無心になれるか」「我が命、我が躯だ、すべてを捧げ奉ります。なにとぞ関東出馬をお赦し下され」 毘沙門堂のなかで謙信は懇願する、絶え間ない激痛が襲いかかってくる。 謙信はあまりの激痛で失神した。が、夢のなかで仙桃院の声が聞こえる。「確りなされ、毘沙門天に負けてはなりませぬ」「馬鹿者、これを思い出せ」 毘沙門天の声と同時に、仙桃院の悶える姿態が目前に映し出された。「天は我を見捨てたもうたかー」 謙信が血を吐くように叫び意識を失った。小説上杉景勝(14)へ
Jan 17, 2007
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謙信は常のごとく、小梅を肴に酒を楽しんでいる。今度こそ関東を制覇する、 まずは相模の北条家の居城小田原城を陥す。 謙信の脳裡に三国峠の景観がよぎった。なんど峠を越えたことであろうか、こんどこそ長年の決着を果たす。 それにつけても時代は様変わりしている、謙信の宿敵であった武田信玄は、五年前の上洛途中で病没した。関東の雄、北条氏康も他界している。 これからは安土の織田信長との勝負となろう、織田勢は加賀、能登、越中へと兵を侵攻させてきたが、手取川の合戦で織田勢を完膚なく叩きつぶした。 この戦(いくさ)が終ったら、本格的に織田勢を叩きつぶす。謙信は満々たる自信をひめ、酒をあおっていた。「お屋形さま、仙桃院さまお成りにございます」「おう、姉上さまがおこしか。お入りいただけ」 取次ぎの樋口与六兼続に命じ、謙信の躯に喜びが奔りぬけた。「お屋形さま、今宵もお酒をたしなんでおられますか」 衣擦れの音とともに、仙桃院が優雅な姿をあらわした。「本丸におこしとは驚きました。お座りくだされ」「お会いしたく参りました」 「お楽になさって下され」「このたびのご出馬は、天下静謐(せいひつ)のためとお聞きいたしました」「左様、関東の北条とは最後の合戦といたしたい、つぎは上洛にござる」「その勇ましさは昔と変わりませぬな」 仙桃院がかたわらに座した、気負いのない自然な態度である。「半年か一年の軍旅となりましよう、さすればこのように春日山城と最後の別れの一献を楽しんでござる」 「最後なぞ不吉な、さあ、酌などいたしましょう」 謙信はさされた春日杯を一気にあけた。 「美味うござる」 小気味のよい音をさせ、小梅を種ごと噛み砕き謙信が笑みを浮かべた。 そっと仙桃院が謙信の手を握った、少し汗ばんだ暖かい手の感触が謙信の心を和ませる。 「幼き頃はよくこうして頂いた」「景勝も影虎殿も、ご一緒に往かれますのか?」「我が上杉家の総力をあげた合戦にござる。・・・じゃが影虎には実家にござる」「そうですか」 ひっそりと仙桃院が謙信の躯に寄りそった、またもや嗅ぎなれた芳しい匂いが漂った。「お屋形さま、上条政繁(まさしげ)さま拝謁を願ってお出でにございます」「しばらく待つように申せ」 兼続が足音を忍ばせ廊下を去った。「お忙しうございますな、わたくしは失礼いたします。ご無事なご帰還をお祈り申しております」 仙桃院が燃えるような眸で謙信をみつめ立ち上がった。「姉上、もう少しお話なぞしたい」 頭巾(ずきん)をかむった謙信が止めた。「今宵、半刻でもお出で下され、お待ちいたしております」 小声で訪れを待つと囁き、素早く部屋を辞していった。姉上が、わしを待っておる。謙信が信じられないという顔つきをし小首をかたむけたが、徐々に顔色が朱色に染まった。「上条政繁さま、お成りにございます」 仙桃院が帰り、兼続が気を利かしたのだ。 「せっかくのお寛ぎ中、お邪魔をいたします」 上条政繁は数奇な運命をもった男である。能登、七尾城の守護畠山義続(よしつぐ)の次男であったが人質となって春日山城にきた。今は謙信の養子となり、上条上杉家を継ぎ、上条城主となり一手の将となっている。 年は二十六歳で、影虎が長男なら次男の年齢で景勝の兄にあたることになる。「政繁、いかがいたした」 「お願いの儀がございます」 大兵の若者で厳つい容貌をしている。 「申してみよ」「はっ、この度の関東攻めには、ぜひ先陣を仰せつけ下され」 「先陣と」 謙信の眼光が強まった。「はっ、拙者は人質の身からお屋形さまのお蔭をもちまして、上条城を任されました。この度の戦は上杉家が命運をかけた合戦と心得ます、お屋形さまのご恩がえしの意味で、先陣を承りたくお願いにあがりました」「政繁、上杉の先陣はわしの務めじゃ。これが上杉家の軍法なのじゃ、じゃがそちの心意気しかと感じた。わが脇備えを命ずる」「有り難き仰せ、政繁身命をかけお屋形さまの脇備えをいたします」「我が戦だて、確りと目に焼き付けるのじゃ」「はっ」 上条政繁が勇んでもどっていった。「兼続、政繁をどのように見る」 「はっ、申し分ない脇備えかと存じます」小説上杉景勝(13)へ
Jan 16, 2007
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「好きです」 仙桃院が謙信の逞しい背中を抱きしめた。 昔とかわらぬ香りにつつまれ、謙信は目をとじた。長いようで束の間の抱擁を終え、仙桃院が潤った眼差しで微笑んでいる。「お屋形さま、こうしたお慰めはできまする。苦しい時は遠慮のうお訪ね下され」 仙桃院の顔色が、いきいきと桜色に輝いている。「有難うござった」 「お躯をさすってあげることくらいは出来ましよう」 仙桃院が、謙信の背後を離れ大杯を満たした。「姉上、わたしは跡目相続に迷っております」「景勝か養子の影虎殿ですね。どちらに上杉家の名跡を継がせるか、難しい選択ですね」 仙桃院の言葉に謙信が肯き、なにか言いよどんでいる。「景勝は、・・・・わたしの倅ではありませぬか?」 意を決し謙信が問うた。積年の疑問であった。重苦しい沈黙が部屋に充ち、仙桃院が謙信を見すえ、微かに頷いた。「矢張り思ったとおりでしたか?」 謙信の顔が凍りついた。「上杉家は、貴方のお蔭で大国となりました。再び国内が乱れぬ器量の若者に譲っておあげなされ、それがどちらであっても、わたくしは恨みませぬ」「判り申した。景勝が倅と知り長年の心のしこりが氷解いたしました」 謙信は半刻(一時間)ほど姉と語らって北ノ丸から去っていった。 廊下を歩む謙信の足音が消えうせるまで、仙桃院は身動ぎもせず聞き入っていた。 「この姉を赦(ゆる)して下され、苦悩だけを押しつけたようですね」 仙桃院は謙信に抱かれ忘我の喜びを得た一瞬と、景勝を宿したと知った時の驚きと苦悩の日々を思いおこしていた。「たった一度の過ちで、貴方は女子を遠ざけ独り身で過ごしてきたのですね」 男の生理を知っている仙桃院には、それが苦しく悲しかった。だが、初めて忍んで来てくれた謙信に、景勝が二人の間にできた子であると告白し、心の重荷から解放された。謙信は黙々と本丸の居間にむかって足を運んでいる。「お屋形さま、北ノ丸からお帰りにございますか」 爽やかな声音で与六兼続と知った、この若者は元服し兼続(かねつぐ)と名のっている。 彼の美丈夫ぶりは城内でも評判となっていた。経史につうじ、詩文にも精しく文武両道の才を兼備した若者に育っていた。 この頃は将才に長け若年にして、いくたの戦功をあげ、景勝付きの武将として頭角をあらわし、重臣連も一目おくほどの存在となっていた。「姉上と久しぶりに語らって参った」 「ようございましたな」「そちに尋ねる、わしの名跡を継ぐのは誰じゃと思う」 謙信は、悪戯心で兼続に難問を尋ねた。「わたしは景勝さまの股肱、されば景勝さまと申し上げたいが、その儀はお答え出来かねます」 十九歳の若者が恐れるふうもなく答えた。「そうか」 謙信は叱責もせずに居間に戻っていった。 兼続が謙信の後ろ姿をみつめ、憂色(ゆうしょく)を濃く面に現していた。 秋霜烈日(しゆそうれつじつ)のお屋形さまに、往年の覇気が感じなれない。 謙信の変化を兼続は見逃さなかった、余りに温厚となられておられる。 それが気がかりであった、今宵も北ノ丸に出かけられ、仙桃院さまにお会いなされている。兼続の胸中に悪夢がよぎった、それは恐れ多いことであった。 彼の明敏な頭脳が、景勝出生の秘密にかかわる重大事を示唆(しさ)したのだ。兼続は己の推量におびえた、それはおぞましい想像である。 お屋形さまの変化は女人にありと思った。不犯の武将と言われたお屋形さまに女人が居られるとすれば、あの態度の変化は分る、その女人が問題であった。景勝の父、政景(まさかげ)の横死までさかのぼり、兼続は思案をめぐらし、ある結論を導きだした。景勝さまは、お屋形さまと仙桃院さまとの間に産まれたのでは、そう考えるとすべて辻褄があう。「馬鹿な、姉弟のあいだに、そのような関係があるものか」 兼続の若さが、その考えを否定したが、後年に再び思い起こされることになる。 (巨星墜つ) 天正六年三月八日、謙信は居間で愛用の春日杯で酒をあおっている。 既に上杉軍団の将兵らは命令が下っていたが、ようやくにして武器、弾薬、兵糧、馬匹の準備が完了したのだ。 方針どおり、三月十五日に出馬する、あらためて各将に下知された。上杉軍団は謙信の分国である、越後、越中、加賀、能登、上野(こうずけ)の諸将に率いられた大軍である。小説上杉景勝(12)へ
Jan 15, 2007
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一方、影虎擁立派は関東の覇者、北条家の血筋とは申せ、上杉家の養子に迎えられ、謙信公の幼名である影虎の名を与えられ、その上、景勝さまの妹を室とされた。さらに二才の年長者でもある。 当然、上杉家の正統な後継者としての資格はある、この急先鋒が山本寺定長(さんぽうじさだなが)の一門衆や、北条景広(かげひろ)らの諸将連であった。「早う決めねばならぬ」 謙信は熟慮しながら、上杉家の割れることを心配していた。本来なれば血のつながった景勝に跡目を継がせたい、将としての器は、わしに負けぬほどの器量はある。 謙信は景勝の将器をみとめていたが、不義の倅であることに躊躇していた。 景勝にはなんの責任もないが、謙信はそこに一抹の不安を感じ決断できないでいる。 影虎ならば我が上杉家の天下統一がなせる。彼ならば関東の覇者北条家の当主の氏政(うじまさ)の弟で、北条家は全面的に協力しよう。 甲斐の武田勝頼(かつより)の室も北条家の出である、武田家も味方となろう。この両家と上杉が一体となれば、天下は間違いなく取れる。さらに権威が衰えたとはいっても、御館(おたて)に城に住む、前関東管領職の上杉憲政(のりまさ)も影虎をかっている。「馬鹿な、わしとしたことが」 謙信が当惑の苦笑を浮かべた。 義を尊び欲心をすてたわしが、なにを血迷う。 謙信は何度となく自問自答してきたが、決断がつかぬままに日々を送っていた。いっそ姉上に相談しようか、謙信の脳裡に仙桃院の顔がよぎった。 年を経て仙桃院の肉体が無性に恋しい、たった一度の過ちであったが、年齢を重ねるごとに、その思いが強まってくる。謙信は煩悩(ぼんのう)の苦しみにもがいていた。人倫の道を踏み外した姉弟じゃ、なぜ、わしだけが苦しむ。 春日山城は闇のなかに沈んでいる、謙信は居間から廊下を伝って北ノ丸にむかっていた。ひんやりと廊下の冷たさが足元からはいのぼってくる。「どうか為されましたか」 突然の訪問に仙桃院が驚き顔で出迎えた。「お笑いあるな、ご尊顔を拝したく夜分にまかりこしました」「三月半ばとは申せ、まだまだ寒い。お入りなされませ」 謙信は軽く低頭し姉の部屋に足を踏み入れた。微かなともし火が部屋を暖めている。 「姉上、酒が所望」 「まだ飲みまするのか?」 かすかな香料の香りが鼻をついた。仙桃院みずからが酒肴をととのえてくれた。「たいした肴はありませぬが、お酒はたんとあります」 膳部には魚の干し物と大杯が並んでいる、質素な品々である。「さあ、一献」 「かたじけない」 姉の酌をうけ一気に飲み干した。 無言で数杯飲み干し、謙信が満足の吐息を吐いた。「お屋形さま、そろそろ隠居なされ。若き頃より合戦につぐ合戦でしたな、もう若い者にの」 仙桃院の声がしっとりと心地よく聞こえる。「正直、いささか疲れ申した。じゃが、隠居したら煩悩に苦しみましよう」 謙信がいままで見せたことのない、眼差しで仙桃院をみつめた。 誘いこむような眸の色に仙桃院が瞼を伏せ、謙信が無言で独酌した。「苦しんでおられるのですね」 「・・・・」「お屋形さまが好きです。抱いて欲しいと何度も思いました、だが、お屋形さまは参られなんだ。・・・・もう、婆となりました」「姉上を思う毎日でした。他の女人を知らず、たった一度の思いを大切に暖めて参った」 「ひどい姉を許してくだされ」 二人の脳裡に二十年前の光景が蘇っていた、狂おしい一瞬が思い出される。「殿方のお誘いがないと、女子の欲望は眠ってしまうものです。暫くはお屋形さまのおなりを待ちましたが、儚い夢と納得いたしました。女子という生き物はそうした者です」 仙桃院の声が涙にかすれている。「姉上、背中を抱いて下され」 衣擦れの音とともに仙桃院が謙信の後ろにまわった。遠慮がちな姉の熱い手の感触が、謙信の肩に感じられる。小説上杉景勝(11)へ
Jan 13, 2007
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そうした最中、上田ノ庄の坂戸城から九歳となった樋口与六が春日山城に移ってきた。顕景(あきかげ)の小姓とするために、仙桃院が呼び出したのだ。 こうして与六は、間近から影虎の日常生活を眼にし、城内ではつねに顕景の側にはべり、儒者や学僧の講義に陪席(ばいせき)し、彼の資質が一気に芽吹いた。影虎も与六の非凡な資質に目をかけ、ひそかに注目していた。 才気があり利発で活発な児小姓(こごしょう)とみていたのだ。 翌年は顕景や与六にとり、格別の年となった。五月に東海の覇者であった、今川家が滅亡し、三国同盟が完全に崩壊した。 今川家の領土駿河を手中にした甲斐(山梨)の武田信玄は、関東制覇を目論み関東に乱入し、各地で北条勢と激突した。 この難関を打開するには、越後との同盟が不可避と考えた北条氏康(うじやす)氏政(うじまさ)父子は、上杉家に使者として天用院をおくり同盟を申し送ってきた。狙いは信玄に対する牽制であった。 武田勢が関東の北条領に攻め込んだら、越後の上杉が甲斐の背後の信濃に軍勢を進める。上杉家が越中(富山)攻撃中に武田勢が越後を狙ったら、北条家が甲斐に侵攻する、これが同盟の骨子(こっし)であった。 その見返りとして、北条家は上野(こうずけ)今の群馬一国を上杉に譲渡し、さらに氏康の七男の三郎氏秀(うじひで)を養子として春日山に差し出すという内容であった。北条家としては屈辱的な条件を提示したことになる。 永禄十二年に上杉、北条の越相同盟が成立をみた。翌年に春日山城に養子として北条三郎氏秀が訪れてきた。彼はのちに影虎の名を与えられ、上杉三郎影虎と名乗り景勝の妹を妻とするのであった。 一方の顕景は、上杉喜平次景勝を名のることになる。 三郎は二歳年上で三ノ丸を与えられ、そこで暮らすことになる。喜平次と三郎は対照的な人柄であった、喜平次は謙信に似た小男で、あお黒い顔をして無口で知られ。片や、三郎は人柄が穏やかで上品な顔立ちをした若者であった。 『上杉将士書上』によると、景勝は小男にて、月代(さかやき)はびんぐりなしに差し、面豊かにして両眼勢人を凌(しの)ぐなり。生得大剛(しょうとくたいごう)で一大将軍なり。先年既に敵に喰らいつき、鉄砲、矢叫(やたけび)、鬨(とき)の声天地を響かす。諸人固唾を呑んで手に汗を握る時、幕の内にて休み居て、高鼾をかき、何とも存ぜず臥せられ候様なる大勇なり。素性、言葉少なき大将にて一代笑顔を見たる者なし。常に刀脇差に手を懸けて居られる。 まさに寡黙(かもく)の将であったと供述されている。 二人は義兄弟ながら、交流を深めず春日山城で独立独歩していた。 (懊悩) 北条三郎氏秀が養子とし、春日山城に入った年の元亀元年に影虎は、法体(ほったい)して上杉謙信を名のる。この年に関東の英雄、北条氏康が没した。 謙信は越中の富山城を堕とし、ようやく越中にたいする足場を築いた。 これを契機に上杉勢は、一向門徒衆と対決を強めてゆくのであった。 天正三年正月、長尾喜平次顕景は上杉弾正少弼(しょうひつ)景勝を名のることになる。二十一歳を迎えた時である。 三郎は上杉三郎影虎と改名し、景勝の妹を娶った。 樋口与六は十六歳となり、謙信に接し彼の生きざまを目の当たりにして強い感銘をうけていた。 謙信は戦塵の間に、春日山城の居間で景勝と影虎のどちらを、跡目とすべきか思案している。すでに謙信の後継者をめぐり、重臣や国人領主たちに陰湿な暗闘が続けられていた。それぞれに思惑がある。 景勝擁立派の主張は、上杉家の血筋を引く若者で謙信から、弾正少弼という官命を与えられている。これは越後一国を統べる、上杉家の正統なる後継者と認められたことである。これが彼等の言い分であった。 景勝擁立派の武将は、直江信綱、上条政繁(じょうじょうまさしげ)、本庄繁長新発田重家(しばたしげいえ)などのそうそうたる武将連が揃っていた。小説 上杉景勝(10)へ
Jan 12, 2007
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「お屋形さま、何事にございます」 御前に姿をあらわした本庄繁長が、精悍な顔に不審な色をみせている。「先刻は許せ、まず一献飲め」 影虎が大杯をあたえ言葉をつづけた。「皆のまえで打擲(ちようちやく)いたしたことを詫びる、それには訳があったのじゃ。明日、上田長尾家に使者として参れ」 「ご使者にございますか」「こたびの政景殿の不始末は穏便といたし、一郡は安堵いたす。ほかに用件がある、我が姉と喜平次顕景の両名を春日山城で庇護いたす。顕景は二ノ丸に入り、御中城(ごちゅうじょう)さまの名を与える」 影虎本人は本丸におり、実城(みじょう)さまと呼ばれていた。これから察すれば、長尾喜平次顕景は上杉家の跡目を約束されたことになる。「畏まりました。して宇佐美家はいかがなされます」「宇佐美家には特赦(とくしゃ)はない」 「越後の名流にございますぞ」「繁長、我家に武田の意を含む者が忍びおる、それ故にそちを打ちすえた。宇佐美定満は武田家に内応いたし、政景殿を謀殺したのじゃ」 直江信綱と本庄繁長の顔色がかわった。 「まことにございますか?」「そちたちも用心いたせ、武田は甘言(かんげん)を弄して入り込む」 苦しい言い訳をして影虎が大杯を干した。「繁長、長尾家は我が縁筋、本家と分家が争ってはならぬのじゃ」 こうして落飾(らくしょく)して仙桃院と改名した姉の綾と、喜平次顕景は影虎の庇護をうけるために、春日山城に引きとられた。 影虎は最愛の二人を城に迎え、心が浮き立っていた。人には語れぬが、倅の顕景と彼にとり生涯無二の女性である姉が、この城にいる。これが影虎を溌剌とさせた。 戦国の世は、永禄八年を境として大きく変わろうとしていた。尾張の織田信長が勢力をのばし、甲斐の武田家も領土を拡張していた。 それにつれ駿河の今川家は義元の死から、武田と徳川により領土を侵食され昔日の面影を失いつつあった。 影虎は永禄四年鎌倉八幡宮で、山内上杉家の名跡を継ぎ関東管領(かんれい)となっており、名を政虎(まさとら)、輝虎(てるとら)と二度も改名しているが、ここでは影虎として話を進める。 この時期の上杉家は、信玄の策謀にのせられ東奔西走していた。 信玄は永禄八年に織田家と結び、石川本願寺の顕如(けんにょ)とも軍事同盟を締結し、駿河を勢力下におくべく南進戦略を画策していた。 その最大の敵が越後の上杉家である。越後勢の牽制として本願寺の顕如をつうじ、越中の一向門徒衆に一揆を扇動していたのだ。 影虎が関東や信濃に出馬すると、間髪をいれず越中に一揆が起こり、背後を脅かされた上杉勢は軍を返せざるをえない。こうした時期が数年つづいた。 永禄十一年三月、あの本庄繁長が影虎に反旗をひるがえすことになる。出羽庄内地方に勢力を拡張し、戦国大名への野望をつのらせた結果であった。 この本庄に眼をつけた武田信玄は、本庄繁長と同盟を結び、越中の一向門徒と共同して反上杉戦線の構築を策した。 それを知った影虎は、精兵一万三千で越中の放生津(ほうじょうづ)に出陣した。越中を平定せねば、信濃、関東に討ってでられぬ。 本庄繁長は、この機をとらえ反旗をひるがえした。岩舟郡には上杉方の鮎川盛長(もりなが)がおり、本庄勢と小競り合いを繰りかえし時を稼いでいる。 影虎は越中から軍を返し、十一月に本庄城の攻撃を開始した。それは影虎得意の風来電過の如くの勢いであった。 この合戦に十四歳となった、長尾喜平次牡顕景が初陣した。 本庄勢は圧倒的な上杉勢の攻撃で、翌十二年三月に降伏開城した。 本庄繁長は影虎に忠節を誓い、重臣として返り咲き、のちに景勝と名を改めた顕景を盛りたて、会津まで供をするのであった。小説 上杉景勝(9)へ
Jan 11, 2007
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永禄七年三月、雪解けを待って上杉勢一万五千名の将兵が、三国峠を越えて関東各地に乱入した。春日山城を城代の政景にまかせての出陣である。 六月に影虎より書状が届いた。帰国は予定どおり八月としたためられていた。 「お屋形さまが、北条勢を蹴散らしてご帰国なされる」 春日山城は喜びに沸きたっていた。 そんななか、宇佐美定満から舟遊びの招待が政景にもたらされた。「お屋形さまの関東攻めも順調で喜びにたえない、暑気払いをかね野尻湖に船を浮かべ一献差しあげたい」 七月五日、政景は勇んで出かけた。真夏の陽光をうけ野尻湖周辺は緑が眩しく、湖上から吹き寄せる風が心地よく二人は、船中で飲み唄い歓をつくした。 政景も宇佐美も昔は反為景派として、春日山城の為景勢と合戦を繰りかえし、何度となく馬の轡(くつわ)をならべた仲であった。 二人の家臣たちは湖畔で、主人たちの交歓をながめ持ち込んだ酒肴を楽しんでいた。湖上から風にのって主人の笑い声が聞こえてくる。 政景が立ち上がっている、かなり酔っているようだ。「危ない」 湖畔の両家の家臣が心配し眉をひそめた。 突然、政景が船端から転がり落ちた。水飛沫の音に交じり、 「政景殿、大丈夫か」と叫ぶ定満の声が聞こえ、定満が湖水に飛び込んだ。 誰の目からも政景を助けようとする様子に見えたが、二度と浮かびあがることはなかった。家臣たちの懸命な捜索で二人の溺死体が発見された。 定満が政景の躯を抱えた姿が、家臣たちの悲しみを誘った。「大変なことじゃ、春日山城の城代殿と上杉家の軍師殿じゃ」 越後の人々は悲しみと不安につつまれていた。 影虎は二人の訃報を知らせれ激怒した、それは人々の予想を上回るものであった。「大人衆として行状不届き至極。政景はわしの城代じゃ、春日山城に万が一の事あれば重大事。その罪おもく長尾家の領地より一郡を召し上げる。定満は水練達者で聞こえた男じゃ、長尾政景は水練下手、それを家臣も連れずに、二人だけで舟遊びとは言語道断。越後より放逐いたす」 あまりの厳罰に驚き、重臣の本庄繁長(ほんじょう しげなが)が諫言した。「上杉の軍師として仕えて参った宇佐美家は越後の名家にござる、放逐とは余りに非道。長尾家はご親類筋、減封はお止め下され」「本庄、われも重臣じゃ。わしの留守中にかかる失態をしでかし、それを許せと申すか。甲斐の信玄が襲って参ったらいかがいたす」「お屋形さまのお怒りはごもっとも、しかし何事も起こらず僥倖。なにとぞご一考のほど」 「痴(し)れ者」 手の青竹が本庄繁長の肩に打ちすえられた。 影虎より九歳年下の繁長が、むっとした態度で口を閉ざした。「長尾家と宇佐美家の処分は決定じゃ」 影虎が不機嫌に奥に去った。 こうして宇佐美家は越後より放逐され、上田ノ庄の長尾家では政景の室である綾が髪をおろし、仙桃院(せんとういん)と名のることになる。喜平次は十歳となっており、すでに元服して長尾喜平次顕景(あきかげ)と名のっていた。 影虎は居室で思案をめぐらしている、今晩のような苦い酒ははじめてである。 宇佐美定満は命と家をかけ、影虎の犯した後始末をしてくれた。その功に報いる行為が越後放逐であった。(定満、許せ。そちは喜平次がわしと姉上との子と知っておったのか。そのために将来起こりうる、争いの芽を摘んでくれたのか) 影虎は目前に宇佐美駿河守定満が居るがごとく独語した。 日本海に面した窓から、真夏とは思えない心地よい風が吹きぬけている。「さぞや苦しかったであろうな」 再び独り言が口をついた。 宇佐美家の仕置きはあれでよい、だが上田長尾家の家臣どもは納得せぬであろう。彼は小梅を口に含み大杯をあおった。 衆目の面前で打ちすえられた本庄繁長にも遺恨が残る。影虎の明敏な頭脳は、この二点にしぼられていた。手当ては素早くやらねば効がない。「誰ぞある」 「はっ」 奉行職で上杉家の元老である、直江信綱(のぶつな)が姿をみせた。 「信綱、本庄繁長はまだ城内におるか?」「居るはずにございます」 「至急、ここに呼び出せ」小説 上杉景勝(8)へ
Jan 10, 2007
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(深謀)「宇佐美駿河守定満(さだみつ)さまが、お目どおりを願っておられます」 小姓の声に景虎が顔をあげた。 「なんと、駿河が?」 宇佐美定満、または定行とも云われる武将で、反為景派として父に反抗した枇杷島城主である、その枇杷島(びわじま)の地は柏崎の奥にある。 景虎が兄晴景に反抗し、栃尾(とちお)で兵をあげた時、過去のいきさつぬきで真っ先に馳せ参じ、味方となってくれた武将であった。景虎は彼から軍略を学んだ、いわば師であり、恩人でもあった。「わしの居間にとおせ」 小姓が足音を消して素早く去った。 景虎は居間にむかいつつ、宇佐美定満の訪れた真意に考えをめぐらせた。 廊下にかすかな足音が響き、 「宇佐美にござる」 低い独特の声で宇佐美定満としれた。 「入れ」 五十年配の白髯(はくぜん)の定満が痩身をみせた。 「御免」 景虎の前にふわりと座した。「久しい、元気そうじゃ」 「お屋形さまも」 師弟が視線をあわせた。 自然に笑みがこぼれる。 「関東の北条に手こずっておられますな」「関東侍ども腰抜けが多い」 景虎が苦々しげに口をひらいた。 事実、影虎は関東経営に苦慮していた。雪解けを待って三国峠を越えて関東に乱入すると、争って上杉家に駆けつけるが、景虎が越後に戻るや直ぐに北条家になびいてしまう。「今川殿が亡くなられ三国同盟がくずれたいま、信玄入道が今川家を滅ぼしましような」 宇佐美定満が物柔らかな口調で断じた。「そうなると北条は苦しくなるの」「近いうちに北条から越相同盟の話がございましょう」 定満が、すばりと将来の予見を語った。「駿河、そちの用はほかにある筈じゃの」 「御意に」 宇佐美定満が頬をなで、髭のすれあう微かな音がした。「申せ」 「長尾政景殿の存在、越後にとり害となりましょう。それもお屋形さまの身からでた錆にござる」 「・・・・」 影虎が無言で視線を強めた。 「早い時期に、喜平次さまを春日山にお引取りなされませ」 「何故、今となってそのようなことを申す。政景殿をどういたす」「それがしにお任せ願いまするか?」 智謀神のごとくいわれた宇佐美定満が、影虎を凝視した、眼光が不始末を見透かしたように強い。「かさねて尋ねる、長尾政景殿をいかがいたす?」 影虎の問いに答えず、宇佐美定満が思いもせぬ言葉をはいた。「越後の名流、宇佐美家はそれがしの代で最後となりましょう」 影虎が、はっとした顔で定満をみつめた。 「それがしにお任せ願いまするな」否と言わせぬ強い口調であった。居間に沈黙が満ちあふれた。 二人がひたっと眸をあわせ、無言のうちに語らっているのだ。(定満は己の家を潰してまでも、政景殿を始末する積もりじゃな) 宇佐美定満が柔和な笑顔をみせ、影虎が無言で頷いた。「お屋形さま、関東出馬はいつになります」 宇佐美が話題を変えた。「三月を予定いたしておる。門徒衆の動きがきな臭い、八月には帰国いたす」「ご無事なご帰還をお祈りいたします、それがしはこれにて失礼いたします」「一献もかたむけずに帰るのか?」 「長居は未練、さらばにござる」 宇佐美駿河守定満は低頭し、静かに居間から去っていった。 影虎が塑像(そぞう)のような不動の姿勢で、低いすすり泣きを洩らした。「なぜ怒らぬ」 定満の叱責の声が聞きたい、その思いをいだき声を殺し泣いた。 「駿河、わしを許せ」 断腸の思いがする。栃尾で兵をあげてから、定満はつねにわしのもとに従って、越後平定まで心を砕いてくれた。 その思いが去来した。もはや生きての再開は出来ぬ、そう思うと悲しみがこみあげてくる。 小説 上杉景勝(7)へ
Jan 9, 2007
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「風呂にはいり酒じゃ」 謙信は左足を引きずり足を早めた。 ここからも、謙信の命令を待つ将兵のどよめきが聞こえ、春日山一帯は真昼のような篝火の明りで燃え盛っている。「与六、今宵は一人にいたせ」 「お先に手配つかまつります」 樋口与六が素早く謙信のそばを離れていった。 彼は将才と学識をあわせもった稀有(けう)の俊才であった。いずれ上杉家の重鎮(じゅうちん)となれる、謙信がひそかに期待する若者であった。 謙信は居間で脇息に身をもたせ、つねの如く小梅を肴に大杯をあおっている。 火桶が二個も用意された部屋は心地よく暖かい。謙信は再び回想にふけった。姉の綾の産んだ男子は、まぎれもなく己の倅である。そう思うと居たたまれなくなり、戦塵のあいだをぬって坂戸城に足を運び、喜平次とたわむれ、政景が驚くほどの愛情をしめした。「まるでお屋形さまの息子のようにございますな」「政景殿、わしの甥じゃ。こうしておると合戦を忘れる」「勿体ないお言葉にござる」 政景(まさかげ)が恐縮している。「いずれは越後の国主となろう」 「そのようなお話はなさいますな」 政景が厳しい顔つきでたしなめた。「わしには子がない、いずれ国主の座を明け渡す秋(とき)がくる。それは喜平次をおいてはない」 「お屋形さま、妻帯をなされ」 政景の顔色が真剣である。「わしは己を毘沙門天の化身じゃと思っておる。妻を娶り怯懦(きょうだ)の心がわくが恐い、その意味で妻帯はせぬと誓ったのじゃ」 綾がそっと顔を伏せた。「姉上も政景殿に心配せぬように申して下され」 「そのような事は申せませぬ」「さあ喜平次、わしがもとに参れ」と膝に抱え上げた。「喜平次、ご遠慮いたすのじゃ」 政景が声を強めた。「政景殿、お怒りはなしじゃ。叔父と甥の仲じゃ」 景虎の視線に小机がうつった。 「お手習いをしておったか?」「はい」 喜平次が小机にむかった。 「どれ、わしにも見せてくれ」 わが子に接するように、自ら筆をとり嬉しそうに手直しをして見せている。 こうした謙信の坂戸城訪問は、次第に不可能となった。戦国乱世の世は、謙信に休息を与えなかった。彼は陣中から習字の手本のいろはづくしなどを送り、喜平次の様子をたずねる書状を送っている。 こうした好意が政景にあたえた影響は大きかった。政景は若年から父の房景とともに数々の合戦を経験してきた。房景(ふさかげ)は景虎の父の弟であったが、越後国主の座をめぐり、何度となく干戈(かんか)をあわせてきたのだ。 政景の武名は越後に轟き、為景は倅の晴景(はるかげ)の器量が政景にくらべ見劣りすると嘆いていた。しかし、次男の景虎が為景の意に反し国主となり、越後を平定したのだ。 政景は思う、景虎にはとうてい及ばないが、倅の喜平次に国主の座を譲ると仰せになられた。そうなった暁には、国主の実父として権勢がふるえる。 政景の心の片隅に傲慢な気象が宿りはじめた。 特に永禄二年の五月、将軍足利義輝(よしてる)の要請をうけ、景虎が五千名の精兵を率い上洛した時、越後国主代理として越後全土の統治を命じられ、その驕慢(きょうまん)さが表にあらわれ、一部の武将から不満の声があがった。 越後の武将たちから見れば、国主の景虎が妻帯せずに不犯を通している。 いずれは血筋のつながった、上田長尾家の喜平次さまが国主となられる。それは暗黙のうちに容認していたが、父親の政景が国主面をすることは我慢できない。この風評は景虎の耳にも届いているが、諌めることに忸怩(じくじ)たるものがある。可愛さのあまりに、喜平次を後継者とすると語ったことから、この問題がおこったのだ。己の誤りであった。小説 上杉景勝(6)へ
Jan 8, 2007
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その頃、景虎は大軍を擁し関東一円を席捲(せっけん)していたが、翌年の八月十六日、越後の精兵一万三千名を率い、武田勢の守る海津城の背後に位置する妻女山に着陣した。 景虎は善光寺に五千名の後詰と、大小の荷駄(にだ)を残しての出戦であった。 上杉勢動くの知らせをうけ、武田信玄は一万六千名の軍勢で甲斐を出陣した。 高坂弾正(こうさかだんじょう)の籠もる海津城には、八千名の武田勢が守りを固めている。 景虎は妻女山に軍勢を登らせ、眼下の海津城を見下ろし悠然と小鼓をうって酒を楽しんでいる。対陣一ヶ月、信玄は本隊八千名を率い八幡原に陣をしいた。別働隊一万二千名が、海津城から足音を殺し妻女山にむかった。 九月十日の夜明けを迎え、その日は霧がわき一寸先も見えない情況である。 景虎は武田の動きを察知し、ひそかに下山し信玄の待つ八幡原に向かった。これが有名な第四次川中島合戦の、序曲であった。 まさに景虎は乾坤一擲の勝負をかけたのだ。 霧のなかに一発の銃声が轟き、上杉勢の全軍が八幡原に殺到した。竜虎の本格的な合戦が霧の中で始まったのだ。 左翼を固めていた信玄の弟、武田信繁(のぶしげ)の陣に、越後の猛将で知られた柿崎景家(かげいえ)が猛然と襲いかかった。 それを合図に上杉勢は猛攻を繰りかえし、景虎は単騎で武田勢の本陣を衝き信玄に手傷を負わせた。 戦略の裏をかかれ、不意を衝かれた武田勢は、信玄の弟の武田信繁や武田の軍師として名高い、山本勘助ら多数の武将を乱戦で失った。 緒戦を飾った上杉勢は犀川を渡河し、善光寺に引き揚げを開始した。 その引きぎわを武田の別働隊に襲われた、緒戦は上杉勢が後半は武田勢が勝利を飾ったが、両軍の損害は甚大であった。 三年後に再び両軍は川中島で相対するが、本格的な合戦とはならず、これが最後の景虎(謙信)と信玄の戦いとなった。 謙信は毘沙門堂で往時を回想している、三十数年、骨をけずり血を流した戦いの連続であった。己は平凡な風貌をした小男で、左の脛(すね)が気腫(きしゆう)で曲がり、歩行時には少し足をひきずる。そんな男が、これから天下を臨む合戦に往く。旭日天をのぼる勢いの織田信長との合戦を前にし、関東の覇者北条と勝負を決せんと出馬をひかえた今、心気を萎えさせ往時の人倫の道を外した思いに悔いを残しているのだ。「謙信、我なくて誰が天下を静謐(せいひつ)にいたす。臆(おく)したか?」 毘沙門天の怒りの叱責が聞こえてくる。「実の姉と契り、人の道を踏み外した男に天下がとれますか」 堂内で無言の会話を続けている。「そちは十分に償いをした、喜平次を庇護し希代の軍師を拾いあげた。吾を信ぜよ」 「ははっ」 思わず謙信が毘沙門天の像に拝跪(はいき)した。「戻って気運を盛り上げるのじゃ、明日には無の境地となれる」 護摩の煙のなかで毘沙門天の両眼が、かっと見開かれている。 謙信が堂からあらわれた。「お屋形さま、ながいご祈祷にございましたな」 白皙(はくせき)長身の颯爽とした若侍が待ちうけていた。 「与六か」「お堂から出られる頃と思うて、お待ち申しておりました」「大儀じゃ、わしは疲れた」 謙信は、この若者のもつ才幹(さいかん)を愛し、喜平次の小姓として彼の将来に嘱目(しょくもく)していた。 与六は坂戸城から、春日山城に出仕してきた若者であった。姉の綾が利発さに目をとめ、喜平次の小姓に取り立てたのだ。 名を樋口与六兼続と名乗り、十八歳の眉目秀麗の若者であった。 喜平次が五歳年上であったが、まことの兄弟のように仲睦まじく、文武の学問に興じていた。小説 上杉景勝(5)へ
Jan 7, 2007
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「もう、お酒はおよしなされ」 つねなら酔いもせぬ酒量なのに、今宵は強かに酔った。「さあ、寝所にお入りなされ」 「そういたします」 綾のすすめに、すなおに腰をあげ思わずふらついた。 「肩を貸しましょう」 肩にすがって寝所に導かれた、姉の躯に触れるのは数年ぶりであった。さらさらとした黒髪と柔らかな躯に景虎は我を忘れた。 寝所に入るなり綾を抱きしめた。 「景虎殿、なにをなさる」「姉上が好きにございます」 抗う綾の襟元を激情のまま広げ顔を押し付けた。かぐわしく懐かしい香りにつつまれ、すべてを忘れた。 綾は抗(あらが)ったが男の力に屈した、二人は人倫の道をはずしたのだ。 綾は子供時代から、弟の景虎に異常な愛情をそそいできた、それだけに激しい抱擁をうけ、すべてを受け入れた。 景虎は実の姉を抱き、綾は胎内に弟の胤を宿したと確信した。 激情がさり、景虎が声なくうな垂れている。「悩むことはお止めなされ、二人はこうなる運命(さだめ)だったのです」 綾の冷静な声を聞きながら、景虎は姉の乳房に顔を埋めた。「いいですか、今宵のことは夢です。忘れさるのです」 「・・・-」「きっと、貴方のややが産まれます、ですが、その子は政景殿のお子。分りますな」 燃えるような眸で景虎をみつめ、綾は身繕いをすませ寝所から去った。 たった一度の過ちであったが景虎にとり、生涯一度の女人が実の姉の綾であった。この夜を境として景虎は己の非を悟り、生涯女子を遠ざけ不犯をとおすと決意した。 翌年の弘治元年十一月二十七日、綾は次男を出産した。赤子は長尾喜平次(きへいじ)と名づけられた。綾は政景とのあいだに二男二女をもうけたが、不幸にも長男の義景(よしかげ)を亡くすことになり、喜平次が家督を継ぐこととなる。 一方、景虎はこの年の三月二十四日に村上義清(よしきよ)高梨政頼(まさより)らの信濃衆の要請をうけ、彼等の失地を回復すべく信濃(長野)に出兵した。 越後の精兵を率いての善光寺着陣であった。 一方の武田晴信(はるのぶ)は、一万二千名で川中島に陣をしいた。第二回の川中島合戦である。武田勢は越後勢の精強を恐れ、犀川(さいかわ)手前の善光寺西方の旭山城に、三千の兵を入れてたて籠もった。 景虎は引き連れた八千名の精鋭で決戦を挑みたかったが、旭山城が邪魔となり戦線は膠着した。対陣すること百五十日、犀川付近で小規模な小競り合いはあったが主力戦ではない。 武田勢は補給線の伸びで不利をさとり、今川義元(よしもと)に和睦の調停を依頼した。景虎は信濃衆の旧領回復を条件として、和議に応じ兵を引いた。 この退陣の途中、長尾政景より次男誕生の知らせをうけた。 景虎はこの知らせで、綾の産んだ子が己の子であると確信した。彼の全身に喜びがはしった、いずれ会うことになろう。 あれ以来、いっさい女子を退け、強靭な意志の力と禅の世界に没入することで女色を断ってきた。そんな国主を人々は好奇と神秘な眼差しで見つめ、不犯の将と噂するようになった。 彼は戦塵(せんじん)のなかに明け暮れる年月を過ごし、青竹をつかんで関東、信濃、越中(富山)と兵を進めていた。その勢い風来電過(ふうらいでんか)と恐れられた。余談ながら、永禄三年、政景の城下で希代の軍師となる男子が産声をあげた。父は坂戸城の薪炭(しんたん)をあつかう俗吏(ぞくり)で、樋口惣右衛門兼豊という。赤子は幼名を与六というが、出生の月日は不明である。この幼児がのちの上杉家の軍師となる、直江兼続(かねつぐ)である。 この年の五月十九日に、駿河(静岡)の支配者である今川義元が、上洛途中の桶狭間で、織田信長の急襲をうけ、あっけなく命を失っている。 産まれいずる者、死する者、これが戦国乱世のならいである。小説 上杉景勝(4)へ
Jan 6, 2007
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彼は七歳となり、城下にある林泉寺にはいり、名僧で名高い天室光育(てんしつこういく)禅師から、厳しい禅の修業と文武の講義をうけた。 そうした修行で女犯戒、肉食戒、妻帯戒などの戒律を教えられた。 それ故、心の不浄を悟り、熱心にこの教えを守ろうとつとめてきた。 この謙信の女子にたいする、欲望の強さは長尾家の特徴でもあった。父の為景も兄の晴景も、異常なほど酒色にふけった。景虎がそうであっても不思議ではない。 だが、彼は禅の世界に没入することで、いっさい女子を遠ざけた。 そんな折に、姉の綾が二十四歳で上田ノ庄坂戸城の嫡男、政景(まさかげ)のもとに嫁いだ、この家は越後の名家で上田長尾家と称し、同族同士であった。 政景は豪将で知られ、二十六歳の堂々たる武将であった。両家は国主の座をめぐってたびたび相争ったが、これを機とし政景は景虎股肱の臣下となった。 景虎もまた政景を副将として、大いに重用するようになった。こうして越後は一時の平安をたもっていたのだ。 三年がたち、越後は重大な危機に直面することになる。越後の敵である甲斐の武田家、関東相模の北条家、駿河の今川家が三国同盟を結んだのだ。 これを策した者が、今川家の軍師大原雪斉(たいげんせっさい)であった。 今川家は上洛が目的であるが、遠征中に甲斐、相模から背後を衝(つ)かれる恐れがあった。北条家は景虎(謙信)の関東侵攻をうけた時、甲斐の武田家が北条家救援のため信濃に討ってでる、そうなると越後の謙信は動けない。 甲斐の武田家は信濃攻略が念願の夢である、今川家と北条家が背後を固めてくれるならば、後顧の憂いなしに信濃侵略が可能となる。 三国ともに利があったのだ。 こうして武田晴信(はるのぶ)は公然と信濃侵略にのりだし、越後の豪族にも調略(ちょうりやく)の手を伸ばしはじめた。 この時期、越後は国人領主たちの領土争いがたえなく、景虎の悩みのたねであった。それに乗じて北条高広(きたじょうたかひろ)が、武田家の内応をうけ兵をあげた。北条丹後守高広は、本姓を毛利という。中国地方の毛利家の分れである。高広は越後刈羽郡佐橋ノ庄の北条に土着して北条を名のっていた。 景虎は高広と善根(よしね)の地で激突し、これを破り北条勢を鎮圧した。 北条丹後守高広は降参し、許され再び上杉家に帰参した。 景虎が国人領主たちの、掌握に苦慮している時期であった。 そんな多難の年の十一月に、久しぶりに姉の綾が里帰りをしてきた。二十七歳となった姉が、女盛りの艶姿をあらわしたのだ。「いかがなされました、お顔の色が優れませぬな」 ますます華やいだ雰囲気の、姉の眸にいたわりの色がみえる。「いたって健やかです。姉上もお元気そうで結構です」 景虎は本丸の居間で大杯をあおっている。懊悩(おうのう)を忘れるために彼は戒律の飲酒戒を、あえて破っていた。 綾の優しいいたわりの声がわずらわしく聞こえる、忘れていた欲情がつのり肉体が疼く。三年をえて、ようやく忘れさった姉が目前に座っているのだ。 外は雪が舞っているのか、物音ひとつしない。 景虎は火桶をかたわらとして黙々と飲みつづけている。「そのように飲まれては躯をこわしますぞ」「お小言は結構、折角のお里帰りくつろいで下され」 綾が寄りそい大杯を満たした。「姉上は、わたしに何時も優しくなされましたな」 幼き頃が蘇った。「それは父上のせいですよ。父上は事ごとに貴方に辛くあたられましたな」「私は母上と姉上のお蔭で今日(こんにち)があります」「癇の強いお子でしたもの」 「わたしは姉上が好きでした」 景虎が薬湯(やくとう)を飲むように苦く杯をほした。「わたくしも貴方が好きです」 たんなる姉弟の語らいであるが、今の言葉が景虎を苦しめる。小説 上杉景勝(3)へ
Jan 5, 2007
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回顧(秘事) 春日山城は越後高田平野の北部、関川岸の標高一八〇メートルの丘陵地にある。城郭の規模は広大で春日山全体におよんでいた。 山頂には南北三十六メートル、東西二十四メートルの本丸が聳え、その南に天守閣を中心として家臣たちの武家屋敷、千貫門、黒金門が配されていた。 ちなみに本丸の大井戸は、直径十メートル、深さ八メートルで当時の山城の井戸では全国最大規模といわれていた。 周囲の尾根には砦が築かれ、そこからは高田平野、日本海が展望できる堅固な城塞であった。 上杉謙信は天正六年三月十五日を、関東出陣の日とさだめ、上杉軍団の武将八十一名の動員名簿を作成した。 城の一帯には、各武将連の旗指物がなびき、兵士らの声や軍馬のいななき、甲冑のすれあう音が潮騒のようにこだましている。 精強な越後兵、四万余が春日山城を埋めつくしていた。まさに壮観、精強でなる越後軍団の威容である。 謙信は毘沙門堂にこもり、心を無にすべく祈りをささげている。 護摩(ごま)の煙のこもる堂のなか、毘沙門天が憤怒(ふんど)の形相で謙信の小太りの体躯をみつめている。 彼は兄晴景(はるかげ)から政権を奪い、春日山城を本拠としたころから、毘沙門堂をつくり、無心の境地に至るまで堂にこもるようになった。 毘沙門天とは須弥山(しゆみせん)の中腹にすみ、夜叉羅刹(やしゃ、らせつ)を率い北方世界を守護し、財宝を守る神といわれる。 甲冑に身をつつみ、憤怒の形相の武者姿で片手に宝塔をささげ、片手に鉾(ほこ)をもっている。謙信は北斗の将たらんと決意し、毘沙門天をあがめてきた。それゆえ、つねに陣頭にたち、無私無欲で領土欲をすてこれまで過ごしてきた。 それはすべて天下静謐を思う一念と、悪業を憎む気持ちのあらわれであった。 いうなれば義を尊ぶ武将の気概を天下にしめす、証しでもあった。しかし今、謙信は苛立ちのなかにいる、四十九歳という年齢を迎えながら、心の平衡を失い、過去の忌(い)むべき思いに、とり付かれていたのだ。 謙信は幼児の時期から、父にうとまれて育った。父の為景(ためかげ)が何ゆえ自分を嫌うのか分らなかった。 今になって思いおこせば、小面憎い小倅であったと思う。 思いつめるとてこでも動かず、父にも反抗し周囲の者を困らせた。 そういう可愛げなさを父は嫌ったのだと思ってきたが、それが違うと知った時から、謙信は男女のおぞましさを知ったのだ。 父の為景と母の虎御前は、四十二歳も歳がはなれていた。虎御前が為景に嫁して、早くも三ヶ月目で謙信を身ごもった。早すぎる妊娠に、老齢の為景は不快な疑惑をもった。子胤がないと信じていた為景は、妻の妊娠に疑念をつのらせた。(わしの子ではない) このことが謙信を嫌うもととなったのだ。 事ごとに謙信に辛くあたり、兄の晴景を寵愛した。 謙信も子供ながらも父に反抗し、ますます為景を怒らせる結果となった。 だが母の虎御前と、二歳年上の姉の綾(あや)の二人は謙信を愛した。 それは、為景にたいする無言の抵抗でもあった。 とくに綾の慈しみかたは、姉弟をこえた異常なものであった。 美しい姉の寵愛を一身にうけ、謙信はほのかな恋心を姉に抱くようになった。この頃、謙信は景虎(かげとら)と名のっていた。 そんな時期に、景虎は女子にたいする欲望の強さをしった。 昼夜をわかたず女子への関心がたかまり、欲望のはけ口をもとめ手淫を覚え、まだ見ぬ女体の妖しい悶えを想像した。そのたびに、妖しく悶える女体の主が姉に思われ、彼は愕然となりながらも、姉にたいし歪んだ欲情をつのらせていった。小説 上杉景勝(2)へ
Jan 4, 2007
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