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「織田信長を考える」(六) この信長の勃興期の京の情勢は、どのようになっていたのか。 王城の地、京都はこの頃、、阿波に本拠地を置く三好長慶(ながよし)が、将軍義輝の管領代行として威勢をふるっていた。 特に長慶に目をかけられた松永久秀が、京都守護職に任じられ辣腕をふるっていた。この久秀は梟雄として知られる男であった。 彼は主家の三好家を自由に操ろうと考えていた、長慶には三人の弟がいた。 之康(ゆきやす)、冬康、一存(かずなり)の三名であった。之康は阿波の兵力を押さえ、冬康は淡路の安宅を相続し淡路の兵力を、一存は讃岐の十河を継いで讃岐の兵力を押さえていた。兄弟は仲が良く、長慶が中央で勢威を確立したのも、この三人のお蔭であった。 松永久秀は長慶の嫡子、義興の器量を恐れこれを毒殺したと云われる。 更に之康のことを讒言し、兄弟の仲を反目させた。こうしている最中に一存が世をさった。久秀は残った冬康に謀反の志がありと老衰した長慶をけしかけ、冬康を殺させたのだ。三好長慶はこれを苦にし直ぐに没した。 三好長慶の死後、その養子の義継が幼く一族の三好日向守、同下野守、岩成主税助(いわなりちからのすけ)の三人を後見役とした、それを三好三人衆と呼ぶ。彼等は義輝を廃し、阿波の御所、義栄(よしひで)を迎え、京の都で気ままな政治を執ろう画策していた。この義栄は永禄十一年に足利十四代将軍となるが、京都に一歩も入ることなく病没する男であった。 その後、久秀は主人である長慶の正妻、左京太夫局をも、自分の側妾とするという凄まじい悪人ぶりを発揮するのだ。 将軍義輝は松永、三好の輩が将軍たる己を蔑(ないがし)ろにし、自己の権力をもっぱらにしていると憤り、秘かに追討の内書を近江の六角、越前の朝倉に送った。それが松永久秀や三好三人衆に洩れたのだ。 永禄八年(一五六五)五月、足利十三代将軍の義輝が三好三人衆と松永久秀等の反乱軍に暗殺された。「さても公方は名剣を抜き持ち給い、度々切って出て給うを、三好方の池田丹後守、こざかしき男にて、戸の脇にかくれいて御足を薙ぎ奉りければ、ころび給うところを、障子をたおし、かけ奉りて、上より槍にて突き伏せる。その時奥より火を放ち燃え立ちければ、御首はとり得ざりけり」 (信長軍記) こうした酷い殺し方であった。義輝には二人の弟がいた、久秀は二人の暗殺を画策し、北山鹿苑寺の周高(しゅうこう)は殺されたが、もう一人、南都一乗院の門主、覚慶(かくけい)は細川藤孝の助けで、危ない命を拾った。 覚慶は還俗して義秋と称した、これがのちの足利十四代最後の将軍である。 時に二十九歳であった。これから彼は己を将軍としてくれる武将を頼って各地を流浪するが、松永久秀、三好方に通じた者達から逃れ越前の朝倉義景の許に辿り着いた。義秋はまだ将軍ではないが、血筋から云えば次期将軍に最も相応しい貴種であった。 朝倉義景は凡庸の武将であった。朝倉家は加賀の門徒一揆と対立し、その余裕がなかった。義秋を擁し大義名分を明確とし決起したなら、天下人の座は義景に巡ってきたかも知れない。だが、義景は折角の千載一遇の好機に逡巡(しゅんじゅう)し起たなかった。 義秋は絶望し、武田信玄や上杉謙信に期待を託したが、この両雄もまた動かなかった。その時、幕臣となった明智光秀が、細川藤孝に織田信長こそが次期将軍の座を確保してくれるだろうと語った。 早速、細川藤孝は義秋の内書を持って美濃に向かった。 信長にとりまさに義秋は窮鳥であった。彼は京への出兵を快諾した。 いち早く義秋のもがき苦しむ姿を推測したのだ。 目前の中世的時代を否定する信長であったが、将軍権威の価値、それの破壊力を一番に理解していた武将が信長であった。 続く
Feb 28, 2009
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「織田信長を考える」(五) この二家との同盟により、信長に絶好の機会が訪れたのだ。 父の道三に反抗し、長良川河畔で道三を破った倅の義竜は病死し今は美濃の領主は竜興(たつおき)の代となっていた。この三代目は歳も若く凡愚の武将であったが、彼を中心とし家臣団の結束はまだ強力であった。 道三は死ぬ前に、美濃一国を信長に譲るという遺言状を信長に届けていた。 それ故に信長には大義名分はあった、とはいえ美濃は精兵を擁し長良川、飛騨川の要地は険しく、何度も攻め込んでは織田勢は撃退されていたのだ。 だが今は違う、元康が東の今川、武田の進行を阻んでいる。何の心配もなく美濃攻略に専念できるのだ。 信長は美濃進攻の拠点とすべく、墨俣河畔に砦を作る案を練っていた。 同時に美濃三人衆と言われる、稲葉良通(よしみち)、氏家ト全(ぼくぜん)、安東伊賀守に調略の手を差し伸べていた。 この三人は美濃斉藤家の重鎮で、国人達の信望を集めている人物である。 こうした間にも信長は、元康と同盟を結んだその秋に、八十名ほどの家臣を伴い京都見物に出かけている。 京都とその周辺の形勢を知ることは、信長の長年の懸案であった。 京に入り、信長は何を感じたのであろうか。この時期、京都でも信長の名は知れ渡っていた、桶狭間で今川義元を討ち取った武将として俄に知られたのだ。こうした永禄九年に、木下藤吉郎の手で墨俣の一夜城が築かれたのだ。 橋頭堡を得た信長は俄然勢いづき、信長は稲葉山の瑞竜寺山から攻め寄せ城下に火を放ち、稲葉城を裸城にした。 城主の竜興は肝を潰し城を守りきれず信長に降伏し、伊勢の長島に退散した。こうして美濃一国が信長の手に入った。 信長は岐阜城を大々的に修復し、小牧から岐阜に移り地名の井口を岐阜と改めたのだ。桶狭間合戦から八年目のことであった。 岐阜城は金華山に聳えたち、美濃平野の要衝の地にあり、京への出入りに便利な地形であった。ここで信長はその三ヶ月後に天下布武と刻んだ印版をはじめて使うようになる。 この事は本格的に天下統一に、乗り出すことを内外に明示したことになる。 信長が尾張平定から、美濃攻略に要した年月は、およそ十五年である。 これから察しても、信長一代で天下統一などは夢物語である。 だが信長には武力を背景とせずに、この大事業を実現する方法を模索していたようだ。数年後に信長が世間を唸らせる出来事を起こすことになるが、この時期から、彼はそのことを考えていたと思われる。 それは足利将軍の権威を利用する、これであったと思われる。 信長ほど古い仕来りや権威などを毛嫌いし、嫌った武将はいないだろう。 彼の天下布武とは、謙信や信玄などの考えとは全く違うものであった思われる。中世的秩序を破壊し、新しい中央集権国家を作る。これが信長の天下布武とわたしは考えるが如何なものか。 武田信玄などは、将軍義昭の内書により上洛を決意した。これは信玄が武力でもって上洛を果たし、武田幕府をひらくなんぞは全く考えていなかった証拠であろう。要するに上洛を果たし足利幕府の再建を行い、その下で将軍の管領か、筆頭守護大名となって威勢を振るう程度の考えと推測する。 信長は旧体勢の象徴である幕府を倒し、己が絶対的な権力を握った、強力な中央集権国家の樹立を目指す、そうした新しい世の中を作る考えであったようだ。まさに革命児であった。 続く
Feb 26, 2009
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「織田信長を考える」(四) この薄氷を踏むような今川勢との合戦に勝利した信長の次ぎなる標的は、己の室濃姫の実家、美濃の斉藤家であった。 そうした軍勢を西に進めるには、三河の松平元康との同盟が必要であった。 ここで少し筆を遊ばせてみるが、元康(家康)は六歳の時に父の広忠により、人質として今川家の駿河に送られたが、途中、敵であった織田勢の捕虜となった。それは天文十六年のことである。 織田信秀は大いに喜び、広忠に織田の味方になるよう勧めたが、広忠は断っている。その後、十八年に広忠が死んだ、その年の秋、信長の義兄の織田信広が居城の安城城を今川勢に包囲され、信広は降参し人質となった。 元康は信広と交換で駿河に送られ十九歳まで、駿河で人質として過ごすことになった。十五の時に義元の手で元服し、関口親永の娘を嫁に迎えた。 この女性が後の悲劇の主、築山殿である。そうした関係で信長と元康は幼い時期に面識があったのだ。 桶狭間の敗戦で岡崎城に詰めていた、今川勢が織田勢の進攻を恐れ一斉に駿河に戻り、代って十四年ぶりで元康は念願の岡崎城に入った。 しかし元康には今川家に背くことの出来ない事情があった、駿府城には己の妻子が残っていたのだ。 元康は今川氏真(うじざね)に義元の弔い合戦を勧めたが、氏真は父の義元の器量、気魄を受け継いだ武将ではなかった。一種の暗愚であったのだ。 信長は初めて元康の存在に気づいた。この両者の仲介をとった男が元康の伯父、水野信元であった。 こうして信長と元康の提携と云うより同盟が成立したのは、永禄四年の春であった。ここに信長の運命が大きく展けた、元康もまた今川家の手から解放されたのだ。この時期、信長二十八歳、元康は二十歳であった。「元康は東に行け、わしは西に向かう」 信長はこう言ったと云う。信長は三河の兵備を西に向ける利点があり、元康は後顧の憂いなく兵を東に向けることが出来る。 二人は謙信や信玄の川中島合戦の愚を繰り返さなかった。 この同盟は信長の死まで続いた、明日を知らぬ戦国乱世でも崩れることはなかった。珍しいほど信長は元康を信じたのだ。 信長の配下となった大名では、十三代将軍足利義輝を暗殺した松永久秀や荒木村重などが居るが、全て信長の苛烈極まる性格に恐怖を感じ叛いている。そうした観点から見ると二人は、新しい信義で結ばれた武将であった。 更にこの同盟は戦国乱世には珍しい、近交外交である。 この当時の外交とは、遠交近攻と云うことが普通であるが、珍しい事例である。信長は慎重を期して、元康の背後の甲斐の武田信玄とも誼(よしみ)を通じていた。その真意は元康を牽制する目的があったと推測される。 信長はこうした同盟関係の強化の為に、元康には己の娘の徳姫を元康の長男の信康に嫁がせ、信玄とは己の養女を勝頼に嫁がせていた。 信長にしては珍しく、常識的な政略結婚を進めている。 しかし政略結婚は当時、かなり効果の期待できるものであったし、常識的な手をうつことも戦国乱世では必要な事であった。 足元は決しておろそかにはしない、信長の現実的な計算が強かに働いた外交戦術と窺がえしれるものである。 こうして背後を万全とした信長は、西進し美濃の攻略が目標であるが、彼はここでも遠交近攻策を施している。それは北近江の浅井長政に、妹のお市を嫁がせ、美濃の斉藤家の後方に圧力を加えたことである。 続く
Feb 24, 2009
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「織田信長を考える」(三) 十九日早朝、今川勢の攻撃が開始された。松平元康は佐久間盛重の守る丸根砦を激戦の末に陥し、ほぼ時を同じくして井伊直盛、朝比奈泰朝の軍勢も織田壱岐守、飯尾近江守が籠もる鷲津砦の攻略に成功した。 一方、信長は何をしていたのか、彼は間者を放ち今川勢の動きを探っていた。前日の十八日夜、丸根、鷲津の両砦より、「今川勢は大高城に兵糧を入れ、十九日に攻撃を仕掛ける模様」との急使が駆けつけていた。 この知らせを受けた信長は直ちに軍議を設けた。 その席上で林通勝が野戦では到底、勝ち目がない籠城以外の方策はないと言上した。軍議に集まった諸将も同じ意見であった。 その時、信長は救援のない籠城なんぞは意味もないと、その意見を一蹴し雑談に終始し、夜も更けたと云って諸将等を帰したという。 信長公記によると織田諸将等の様子を見事に写しとっている。「その夜のお話、戦の手だてはゆめゆめこれなく、いろいろ世間の御雑談までにて、すでに深更に及ぶのあいだ、帰宅あれとおいとま下さる。家老の衆申すよう、運の末には知恵の鏡も曇るとはこの節なりと、おのおの嘲弄候て、まかり帰られ候」 諸将等はおそらく自らの運命の行く末を考えたにちがいないであろう。 たが信長は言葉とは裏腹なことを考えていた、彼は秘かに作戦を練っていた。その作戦とは、今川の先鋒隊と本隊のすき間を縫ってじかに本隊を攻撃することにあった。その為に多くの間者を放っておいたのだ。 翌十九の未明、早馬が丸根、鷲津砦の攻撃情報を伝えてきた。 重臣等は再び籠城策を進言したが、信長は一笑にふした。「合戦すべき節を失い、或いは死すべき処を逃れなどすれば自滅するぞかし」 と一蹴したという。更に信長は驚く行動をとったのだ。「この時、信長敦盛の舞をあそばし候。人間五十年、下天の内にくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。一度、生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、貝を吹け、具足をよこせと仰せられ、御物具めされ、立ちながら食事をまいり、御冑をめし候て、御出陣なさる」 (信長公記) この幸若舞の敦盛の唄と、「死のうは一定、しのぶ草には何をしょうぞ」の小唄を、信長は最も好んだと云う。要するに信長は弱冠二十七歳で常に死を観念の中に持っていたのだ。死ぬか生きるかが彼の考えの出発点と考えると慄然たる思いがする。 信長は情報により今川勢本隊が桶狭間を経て、大高城に向かおうとしていること、信長が清州城に籠城するものと決めこんでいることを知っていたのだ。 それには信長が大たわけと云われた頃に、遊んだ鳴海の丘陵地底に入る時刻、そこに織田軍が到着するためには清州城を何時、出撃せねばならないのか、双方の行軍速度、距離などから正確に逆算していた気配がする。 信長は決死の覚悟で出撃した。この時従う者は七、八騎であったという。 熱田神宮に着いた時には三百名ほどになっていた。ここで戦勝祈願を行い、南の源太夫ノ宮に来ると、丸根、鷲津砦の辺りから煙が立ち昇っていた。 ここで兵士は千八百名ほどに膨れていた。井戸田を過ぎ山崎から戸部に向かう途中で、佐久間盛重と飯尾近江守の戦死の報せを受けた。 信長は数珠を肩にし、馬上より将兵に叱咤した。「彼の者共は我等より先に死んだぞ。一命を我に捧げよ」 織田勢の士気は奮い立ち、間道を通って善照寺砦に向い、次ぎの情報を待った。「間もなく今川本隊、桶狭間に到着の見込み」 この情報を得て信長は秘かに軍勢を進めていると最後の情報が入った。 この地方の国人、簗田正綱の謀者が沓掛方面から戻り、今川本隊が大高城に向かう為に、桶狭間に向かったとの報せであった。 更に簗田正綱が、義元の旗本が桶狭間に駐屯したとの知らせをもって現れた。「本隊は丸根、鷲津砦を陥落させ気を良くしております。備えも十分ではありませぬ、一気に衝けば敵将の義元の御首級を獲るはたやすいでしょう」 その言葉を聞くや、信長は善照寺に敵を牽制する若干の兵を残し、二千の軍勢でもって義元本隊へと猛進した。 二千の織田勢が足音を消して行軍し、田楽狭間を臨む太子ケ根に着いた頃は正午頃であった。時に黒雲がにわかに空を覆い雷鳴が轟き、猛烈な豪雨となった。それを合図に二千の織田勢が鬨の声をあげて山を下った。 風雨に乱された義元本営は、突然の織田勢の総攻撃をうけ義元の塗り輿をも打ち捨てて潰走した。護衛の旗本参百名が懸命に防戦したが、猛烈な攻撃で数を減らした。 義元は初め内輪喧嘩と思っていたようたが、様子の変化で敵襲と悟り、逃げようとしたところを、織田の服部小平太に発見され槍をつけられた。 義元は毛利小平太の槍の柄を斬り捨て、小平太の膝を斬り裂いた。 そこへ毛利新助が飛び込み、義元を討ち取って首級をあけだ。 こうして東海の覇者、今川義元はあっけなく最後を遂げた。 一方、奇襲で勝利を飾った信長は論功行賞では、簗田正綱を第一位とした。 今川本隊の位置を発見し、その動きを信長に報告した情報を第一と評価した結果である。第二は今川義元を発見した服部小平太であった。 この理由は義元を逃したら、奇襲の効果は半減する。そうした意味であった。 今川義元の首級を討った、毛利新助は第三位であった。 これを見ても信長が、いかに情報を重視していたか分る行為である。 信長はその後、桶狭間の奇襲を語ることはなかったと云う。訳はこの合戦は天が味方したもので、誇るべき合戦ではなかった事を信長自身が一番に知っていたのだ。信長は二度と同じような作戦を執ることはなかった。 続く
Feb 22, 2009
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「信長を考える」(二) 父、信秀の死で信長が家督を継いだのが、天文二十年三月である。 時に信長十六歳で上総介と称した。 この時期から永禄三年(一五六〇)、桶狭間で今川義元を討ち取るまでの十年間は、信長にとって尾張統一の合戦の連続となった。 それも織田一族との戦いであった。 信長は一門衆との戦いで筋金入りの男へと鍛えられていったのだ。 まず宗家の守護代、織田彦五郎を討ち取り清州城に移りすんだのが二十二歳であった。この合戦に味方した叔父の織田信光まで謀殺している。 一族あい争う合戦で最も烈しい戦いは、弟の信行との争いであった。 信長の最初の守役、林通勝(みちかつ)が、宿老の柴田勝家と共謀し信行を擁立し、公然と主君信長に反乱を起こしたのだ。 この原因は父の葬儀の際の、信長の奇矯な振る舞いであった。 ここに実母の土田御前までが、弟の信行に加担したと言うから悲惨であった。信長はこの合戦で何を思ったであろうか、母と弟、さらに宿老に裏切られ、肉親であろうと宿老であろうと決して心を許してはならぬと、信長が考えたとしたら、後年の狂気のいったんはこの時期に芽生えたのかも知れない。 二十三歳の信長は自ら、陣頭に立って反乱軍と対決し勝利を得たのだ。 こうして信長の非凡な軍事的才能が開花したのだ。 信長は林通勝、柴田勝家を許したが、弟の信行のみは許さず、翌年の弘治三年十一月に、信行を偽って清州城に呼び出し謀殺した。 こうした陰惨な謀略を用いて信長は一門を制圧したのだ。 このような肉親相食む戦いは、なにも信長一人ではない。戦国乱世の習いとし、大なり小なり各大名もそうした肉親との葛藤を演じている。 信長の肉親、兄弟に対する冷淡さは後年になっても変わらないし、 自分の子供等に対しても無関心であったという。 面白い逸話がある、(信長公記)の中で「織田喜六郎殿御生涯の事」という一節で書かれている。織田喜六郎は信長にとり五人目の弟である。 この喜六郎が供も連れず、ただ一騎で野駆をしていたところ、敵と誤って織田信次の家来に射殺されてしまった。織田信次は信長の叔父であったが、射殺した男が信長の弟と知って他国へ逐電してしまった。 信長はその知らせを受け次ぎのように言ったと云う。「我々の弟などといふ者が、人を召し連れ候はで、一僕ものの如く、馬一騎にて懸けまわりしこと、沙汰の限り卑怯なる仕立なり。たとへ存生に候へども、許すまじきことなり」 つまり殺された弟が軽率であった、そんな者はたとえ生きていても自分が許さない。と信長はそう言ったそうである。 肉親の弟を殺されても、このように言い切る烈しい気象をもっていたのだ。 それ故に能力で人を評価し、情愛に流されない後年の信長の片鱗が、窺がいしれる言葉である。 永禄三年五月、信長が最も恐れた事態が勃発した。駿河、遠江、三河の三国をもつ太守の今川義元が上洛の軍勢を発したのだ。 この時、信長は情報網で逐一、今川勢の動きを捉えていたと云われる。 なんせ今川勢の兵力は二万五千名、信長は二十七歳で集められる兵力はせいぜい二千から三千名であった。 まともに戦ったら勝ち目のないことは十分に判っていた。 五月十日、先鋒として井伊直盛が出陣し、これに松平元康が従っていた。 十二日、今川義元本隊が駿府城を出発し、十八日には沓掛に本陣を構え、先鋒は境川を渡河し尾張領に侵入した。 続く
Feb 20, 2009
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「織田信長を考える」 私は織田信長と云う武将は好きではない、しかし彼の先見眼と行動力を仔細に眺めると、十六世紀の世界で最も革新的な戦術を編み出した武将として評価する。 信長は情報を最も重視した武将である。それを現実化させ現在で云う、技術、情報をシステム化した武将ではなかったのかと推測する。 信長は幼名を吉法師呼ばれている事は誰も知っている。 信長、十六歳の時に父の信秀が死に家督を継いだ。 これまで信秀に押さえられていた織田一族は大半が信長の敵となった。 この時期の信長は大うつけと陰口を叩かれる容儀、行動を行っている。 広袖のかたびらに、半袴、腰に火打ち袋をぶら下げ、髪は茶筅髷で朱鞘の大刀を佩び、人目も憚らず、栗、柿、瓜などを喰らっていたと云うが、これは敵を欺く擬態(ぎたい)に思われる。「あのようなうつけ者では、何れ信長は滅亡する」 そう見られることを望んでいたものと思われる。 こうした格好で大うつけの真似をしている信長の日常は、朝夕は馬の稽古、三月から九月までは水練をやっていたと云う。この時期に足軽の三間槍を彼は三間半の長槍に変えている。長柄槍隊として遣う考えであれば、有利このうえもない武器である。敵の槍の届かない距離から槍を遣うことになるのだ。 こうした点でも信長の革新性が垣間見られる。 父信秀の葬儀の際の奇妙な振る舞い、全て計算つくされた信長の擬態としたら見事なものである。 天文二十二年(一五五三)四月、信長が二十歳の時期、美濃の蝮と異名される舅の斉藤道三と、富田(愛知県中島郡)の正徳寺で面会する事となった。 道筋の信長は例の大うつけの衣装姿で騎馬に乗り、腰には火打ち袋に瓢箪をぶら下げていた云うが、特筆すべきことには朱槍の長槍五百本と、当時としては珍しい、火縄銃を五百挺をも持たせていたと云う。(信長公記) この軍装こそ信長の先見眼と革新的な考えを窺がえさせる出来事である。 そして信長は正徳寺に着くと衣装を整え、威儀を正して道三に対面したという。その会見後に、道三は「あのうつけの門外に、我が子は馬を繋ぐであろう」と嘆息したと云う、話は有名である。 火縄銃が種子島に漂着し、ポルトガル人によって伝えられたのが天文十二年であるが、十年後の時期に信長が、五百挺もの大量な火縄銃を備えたことは彼の情報量の豊富さと、それを見抜く先見眼を物語るものである。 また信長は人の意表を衝くことを好んだ武将でもあった。そうした観点から、大うつけも、三間半の長槍も火縄銃も全てが人の意表を衝く信長の演出であるとわたしには思えるのだ。 信長は古い仕来りや権威を軽蔑し、抽象論や偽善を憎む合理主義者でもあったようだ。こうした考えは、自由な発想から生まれるものと思われるが、その根底には既成概念の徹底的な打破から生まれるものと確信する。「鉄砲なぞという物があって、世の中には思いがけないことがあるので、油断してはならぬ」 と有名な毛利元就が言い残していると云うが、信長はすでに五百挺もの火縄銃を保持していた事は、驚きである。 続く
Feb 18, 2009
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石田三成と大谷刑部 戦国時代の武将の友情とは、敵味方に分かれても戦場に遭ったら死力を尽くし、命を賭けて戦うことが友情の証しであった。 現在の友情とはかけ離れた、別な感覚であることを理解願いたい。 また主人と家臣の間にも、江戸時代のように二君に仕えずなどの考えは存在しなかったのだ。己を高く評価してくれる大名に平然と身売りをする、それが当時の武士の考えであった。 士は己を知る者の為に死す、まさにこの生きざまであった。 そうした時代に石田三成と大谷刑部は、当時にあっては稀有な武将であった。大谷刑部少輔吉継は豊臣秀吉が信長の武将として姫路城に籠もり、中国の毛利氏と対峙していた頃、小姓として仕えていた石田三成の推薦で秀吉に仕えた。そうした縁で石田三成と友垣(ともがき)となった武将であった。 その当時は紀之介と名乗り、三成は佐吉と名乗っていた。 二人は成人となったも、他人の居ない場所では幼名で呼び合った。 大谷刑部は優れた武将としての才能があり、登用され越前敦賀五万石の大名となった。 朝鮮の役では奉行の一人として渡鮮した刑部は、鎧もつけずに矢弾の飛び交う最前線に赴き、戦線を視察した。「危険だから、あちらにさがれよ」と周囲の者が忠告したが、刑部は、「運命の矢はわずか一本しかないものよ」 と嘯いてその場を動こうとしなかったという。 秀吉はその報告を聞き、諸将の居並ぶ中で刑部を絶賛したと云う。「あの男に百万の将兵を預け、一度、その采配をみたいものよ」 と言った。これで大谷刑部は大いに名声を高めたのだ。 彼は加藤清正、福島正則のような実戦の叩きあげの武将ではない、官僚出身で学問と知略を兼ねそなえた武将であった。 三成との友情はこの当時は、まことに珍奇なものであった。三成の方が豊臣家の官僚として早く立身したが、そのつど秀吉に言上し刑部の引き立てを忘れなかったという。こうして二人は友情以外の関係で結ばれていった。 だが刑部は何時のころか判然としないが不治の病に侵された、それはライ病であったと伝えられている。秀吉の在世時に、茶会がもようされた。 次々と茶碗が廻され刑部が喫しようとした時、鼻水が茶の中に落ちた。 既にこの当時、刑部は病気で皮膚に異変が生じ、顔面も崩れはじめていた。 諸候はそれを見て喫する真似をして、次々と茶碗送ったが、三成は平然として飲干したしたいう。 それを見た刑部は三成のためなら命もいらぬ、そう人に語ったという。 こうした恩義を感じ益々二人の友情は固い絆となった。 今、刑部は輿に乗って北国街道を東国に下るべく、千余名の将兵を連れて行軍している。 今や皮膚がもろくなり馬にも乗れない、両眼は失明し顔面を白布で覆っていた。彼は徳川家康の要請で会津の上杉討伐軍として進撃していたのだ。 北国街道は美濃関ヶ原で中山道と合流する。一行は中山道の垂井(たるい)の宿に宿営した。そこに石田三成の急使が訪れてきた。「是非とも佐和山城におこし願いたい」 垂井の宿から、近江佐和山城までは約九里の行程である。 刑部は病身の身で佐和山城へと向かった、彼には三成の胸中が判っていた。佐吉は内府に対抗し軍をあげる、それだけは止めねばならぬ。 刑部が着くや、石田三成は城内の石田屋敷に招きいれた。「紀之助、わしに命をくれぬか」 三成が開口一番に言った言葉がこれであった。 刑部は白布で顔を覆い、何も語らずに三成の言葉を聞き終わり、「佐吉、わしは内府と景勝殿の和議を周旋せんと東国に行く積りじゃ」 刑部が己の考えを述べた。事実、刑部はその積りであった。「紀之助、上杉家の蜂起はこのわしとの謀り事じゃ。こうでもせねばあの狸の陰謀を止める手立てがないのじゃ」「何とー、・・・・じゃが止せ」 一瞬、呆然とした刑部が更に断じた。「紀之助、すでに上杉は動いておる。わしが志を翻し上杉のみに禍を被らせることは出来ぬ」 二人の間に長い沈黙が漂った。「佐吉、矢張り止す事じゃ、そなたに才能がある事は分るが内府には勝てぬ。もし勝ったとしても、内府に代って秀頼さまを補佐し人心を収攬(しゅうらん)する器量は、そなたにはない」 刑部が三成の一番痛いところを衝いた。「それは十分に分っておるが、既にわが許に加勢する大名も固まっておる」 三成が西軍加担の諸大名の名を語った。 それを聞いた刑部は見えぬ眼で三成を見つめ、ただ無言で肯いた。 ことがここまで運んでいては、翻すことは出来ぬ。そう思ったのだ。 大谷刑部少輔吉継は西軍として、関ヶ原の松尾山南麓に布陣した。 松尾山の高地に陣する、小早川秀秋の備えとして布陣したのだ。 合戦と同時に板輿に乗り、三千名の将兵を指揮し奮戦した。「死ねや」 顔を白布で覆った刑部の声が戦場に響き大谷勢は、東軍の藤堂勢、京極勢と互角に戦った。 案の定、小早川勢が裏切り、大谷勢は背後を衝かれ難戦となった。刑部は屈せず、板輿を小早川勢に向け、「裏切り者の秀秋よ、出て参れ」 雄叫びをあげた大谷勢が、小早川勢を圧倒したが小勢ゆえに敗色が濃厚となった。前線から側近の湯浅五助と三浦喜太夫が馳せ戻った告げた。「殿、裏切者の為に我勢は崩壊し、最早、建て直しは無理にござる」「五助、かねて申しわたした通りにいたせ」 と言い残し見えぬ眼で戦場を眺め廻し、見事に割腹して果てた。 五助が介錯し喜太夫が首を羽織につつみ、水田の泥中に埋めた。 刑部は病魔に犯された醜い顔を、敵勢に見られたくなかったのだ。 大谷勢の残兵、二百五十名は泣きながら小早川勢に突入しことごとく討死した。刑部の日頃からの家臣に対する心が窺がえる全滅であった。 この時期、太閤子飼いの武将や、縁戚の小早川秀秋等は巧に世渡りし、立身出世をむさぼったのに比べ、潔い死にざまを見せた刑部は後世に名を残した。たった一人の友人の為にに殉じたのだ。
Feb 13, 2009
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「謙信は織田信長に勝てたのか」 先週のNHKの大河ドラマ、天地人を観た方からこのようなお尋ねがありました。わたしは前回、謙信には戦う気持ちがなかったと推測を申しあげました。 ドラマでは謙信の越後勢三万、織田勢は十万と軍勢が語られています。 この軍勢が直接対決したなら、謙信と云えども勝ち目はないでしょう。 謙信は手取川で織田北陸方面軍の、柴田勝家の軍を破り軍勢を返します。何故、謙信が軍を返したのか考えてみました。多分、謙信はこの合戦で織田勢の力量を計ったのではないかと推測します。 この時代、兵の強さの比較では織田の兵が最も弱兵と云われております。 徳川勢の三河兵の強さは群を抜いておりますが、武田信玄存命の折の三方ケ原合戦では、徳川勢は武田勢に完膚なく破れさっています。 その武田勢も謙信率いる越後兵には勝てなかったのです。 それほどまでに越後兵は強かったのです。 この程度の織田勢は恐れるに足らぬ、恐らく謙信はそう確信したと思います。 その為に軍勢を返し、翌年に関東攻略戦を企図したと思います。 相模の北条家は氏康が没し、氏政の代となり力が弱まっていました。 謙信は関東を制圧し、小田原城を陥して上洛戦を考えたと思います。 さて上杉勢と織田勢の兵力を比較してみましょう。 ドラマにあるよう、上杉勢三万は妥当な数字と思います。 一方の織田勢十万も、略、妥当な数字とは思いますが、この頃から織田は現在の方面軍制度を取り入れております。 これは信長の考案した画期的な軍制です。各方面に軍勢を差し向け合戦が出来る態勢なのですが、それらの方面軍を合計した兵力が十万という数なのです。資料を漁り織田勢の軍勢の数を調べてみました。 安土城には織田信長直属部隊、 二万から二万五千名。 北陸方面軍、柴田勝家の軍勢、 二万名。 伊勢方面軍、滝川一益の軍勢、 一万五千から二万名。 この軍勢は伊勢から武田勝頼攻に変更され、甲斐に攻め込んでいる。 畿内(丹波)方面軍、明智光秀の軍勢、二万名。 中国方面軍、羽柴秀吉の軍勢、 二万名。 四国方面軍、丹羽長秀の軍勢、 一万名。 ほかに石山本願寺包囲中の佐久間信盛の軍勢が居る。 織田勢は総兵力では上杉勢をはるかに上回っているが、兵力を分散させ、謙信に当たる軍勢は、柴田勝家の北陸方面軍と、割ける軍勢は羽柴秀吉の軍勢のみであった。 こうして見ると織田勢は十万余の兵力を擁しながらも、謙信に当たる兵力は四万ほどである。信長の直属部隊は各方面軍の後詰として動ける状況ではない。こうなると謙信率いる越後勢が、俄然と有利になってくる。 この時代から十七年前の永禄四年には、謙信は関東、奥羽の武将二百名と将兵、十一万名を招集し小田原城を包囲した実績をもっている。 これをもってすれば、謙信が関東を優先することは信ずるに値する。 もし北陸で謙信が安土に三万の軍勢で進攻したら、面白い合戦となったと思われる。さて天地人のドラマに、また嘘があった。 安土城で信長と勝家、秀吉の三人が謙信の話しをしているなかで、勝家が秀吉の加勢を断るシーンがある。 これは史実ではない、秀吉は初めから勝家の軍勢と共に出撃するが、勝家と戦術の違いで口論となり、軍勢を率いて居城の長浜城に帰還するのだ。 この裏には信長の身を案じた、秀吉がわざと軍勢を引いたと云う説と、秀吉の軍師、竹中半兵衛の進言とも云われる。 何れにしても勝家の軍勢のみで謙信に当たっては勝ち目のない戦いであった。手取川合戦の柴田勝家の軍勢は、負けるべく敗北したのだ。
Feb 10, 2009
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「直江兼続の初陣」 今夜のNHKの大河ドラマ天地人では、「いざ、初陣」とあるが、わたしはこの初陣に疑問に感ずる。 どの資料を探っても明確な兼続の初陣の記録がない、これは事実である。 天正六年に謙信の後継者争いで起こった「御館の乱」の翌、三月十七日、樋口与六兼続は小田原の北条勢が影虎の援軍として軍を起こしたと知り、決死の将兵、五百名を引きつれ御館に夜襲をかけた。 これに驚いた影虎は小田原めざし落ち延びるが、途中の鮫ケ尾城に立ち寄り、城主の飯盛摂津の裏切りで自刃して果てる。 こうして上杉景勝が正式に謙信の後継者となったのだ。 このような記述で、初めて合戦を指揮する兼続の名前がでてくる。直江兼続事績略年賦によると、天正十年に景勝に従って信州に出陣との記載がある。これは謙信没後、織田勢は越中における上杉の拠点、魚津城を攻めていたが、魚津城落城の前日に信長が本能寺で討たれ、上杉勢は難を逃れた。 その年の秋に景勝は空屋となった信州に攻め込み、信州四郡を押さえ、念願であった反逆者の新発田攻略に取り掛かるのである。 年賦が正しければ兼続の初陣は、信州攻略戦であろうが、わたしは御館の乱が初陣でなかったのかと推測する。 そのほうが無理がないからである、兼続が急速に頭角を現した時期が、謙信が厠で倒れた後からである。並みいる重臣等を説得し本丸に景勝を引き入れた者が兼続であったことを考えれば、そう考えるほうが妥当と思われる。 今夜のNHKのドラマは謙信が越中で戦うのか、能登の七尾城攻めなのか今のところ、わたしには分らないが大変に興味深い。 こうした歴史の資料を見ながら、作者の考えや思惑を推理しながらドラマを観るのも一興である。
Feb 8, 2009
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上杉謙信という武将 困った事に、最近、とんと創作意欲が湧かない。 今日も上杉謙信という武将を考えてみたい。 天文五年(一五三六年)に、謙信は春日山城下の林泉寺に入り、名僧として名高い天室光育(てんしつこういく)禅師から厳しい禅の修行と文武の道を学んだ。父の為景はこの年の八月に謙信の兄晴景に守護代長尾家をの家督を譲り、十二月に病死する。この時期は国内に内乱が起こっており、謙信は七才で、初めて甲冑をつけて父の棺を送った。 天文十二年、晴景に代わり越後の三条に移り、半国の支配に任じられてから、四十九歳で病没するまで、三十五年間に合戦すること数百回、陣頭にたち敵城の攻略に臨むこと七十余度といわれている。 常に敗戦を知らず、摩利支天か不動明王の生まれ変わりと評された。 以後五年間、謙信の働きにより越後をほぼ平定したが、謙信の声望が高まるにつれ、兄の晴景は謙信を忌み嫌い骨肉の争いとなった。「兄上とは合戦なんぞ出来ぬ、おれは自害すると」 そう云う謙信を宇佐見定行、本庄慶秀等が諌め、謙信は晴景と戦い大勝した。晴景と謙信の不和を心配した守護、上杉定実(さだざね)の調停で謙信は兄の養子となり、春日城に入って長尾家を継いだ。謙信十九歳の時であった。 その後、謙信は国内から国境を越え、数々の合戦に臨むことになる。 越後の南の越中、能登、加賀には一向一揆が頻繁に起こっている。 眼を東に転ずれば、越後国境十里に北信濃がある。そこの北信濃五郡を領する、豪族村上義清を狙って甲斐の武田信玄が虎視眈々としている。 一方、関東管領の上杉憲政は北条氏康に河越城を占拠され、さらに上野の平井城まで守れなくなり、春日山城に居候の身となっていた。 こうした状況下で謙信は、各地に兵を率いて合戦につぐ合戦に明け暮れていた。しかし、不思議なことにそれだけ合戦して勝利をあげても、少しも己の領土が増えないのだ。 これは謙信が正義を好み、義戦を主眼として領土的野心がなかった所為であろう。一生、女性を遠ざけ酒のみを楽しみに生きた武将の謙信は、他の武将から、もっとも恐れられた戦国武将であった。 武田信玄、北条氏康、織田信長等も上杉謙信を恐れたが、戦国乱世にあってもっとも、頼りとされた武将は上杉謙信をおいて他にはない。 川中島で激戦を演じた、武田信玄は没する前に勝頼に、こう言い残している。「あのような勇猛な武将と事を構えてはならぬ。謙信は頼むとさえ言えば必ず助けてくれる。断るようなことは決してしない武将じゃ。この信玄は大人げもなく謙信に依託しなかったばかりに、一生、謙信と戦うことになったが、甲斐の国を保つには、謙信の力にすがるほかあるまい」 謙信の好敵手であった、相模の北条氏康もこのように述べている。「信玄、信長に表裏つねなく、頼むに足らぬ。ひとり、謙信だけは請負ったら、骨になるまで義理を通す武将である。だから彼の肌着を分けて、若い大将の守り袋にさせたいと思う。この氏康が明日にでも死ねば、後事を託す人物は謙信をおいて他におるまえ」 長年、合戦を交えた敵将から、このように信頼された武将は謙信しか居ない。 このように爽やかさを感ずる謙信の心情は、彼の辞世の句でも読み取れる。「一期(いちご)の栄 一盃の酒 四十九年 一酔の間 生を知らずまた死を知らず 歳月ただこれ夢中の如し」 謙信は幼名、虎千代から影虎、輝虎、謙信と何度も名前を変えているが、 ここでは謙信として通した。
Feb 6, 2009
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謙信は織田信長と戦う気があったのか 天地人のドラマでは、謙信が織田信長を討つべく出陣したシーンで終るが、果たして謙信は本当に信長と戦う覚悟で出陣したのか、わたしには疑問が残る。元亀三年(一五七三年)に、謙信と信長は同盟を結んでいる。 天正三年(一五七五年)の五月に、織田、徳川勢が長篠合戦で完膚なく武田勢を破っているが、この時は謙信は両家に使者を遣わし、それを祝っている。 そうした関係も信長が越前の一向一揆を鎮圧し、加賀二郡を支配下に治め、北ノ庄に柴田勝家を置いたころから、同盟関係が崩れはじめたのだ。 次第に己の縄張りに触手を伸ばす、信長に警戒感をもったのだ。 同四年(一五七六年)二月、能登の七尾城(石川県鹿島郡)に異変が起こった。 七尾城は能登守護の畠山氏の居城であるが、家中に抗争が多く絶えなかった。その時期に城主の畠山義隆(はたやまよしたか)が暗殺されたのだ。 これは信長に応じた重臣の長(ちょう)対馬、三宅備後等の反乱であった。 これらの逆臣の誅伐を秘かに謙信に請うた者が、温井(ぬくい)兵庫、長九郎左衛門等であった。この事を知った謙信は信長との同盟を破棄した。 その背後に流浪の将軍、足利義昭が動いていた。義昭は信長に抵抗し備後の鞆(とも)ノ津へ逃れ、毛利輝元を頼っていた。 その歳の六月に毛利、石山本願寺、上杉の同盟が成立したのだ。 謙信はこの歳の三月から越中に軍勢を率い、諸城を落としていた。 本願寺の力で加賀四郡も手に入れ、天正五年(一五七七年)は能登の陣中で正月を迎えた。三月には関東出馬のために越後に帰国したが、関東攻めを後まわしてして、再び軍勢を能登に入れ七尾城を包囲した。 殺された義隆の子義春は、幼かったが守将の長続連(ちようつぐつら)は信長に急を告げ、幼君を守ってよく戦った。 こうした最中に幼君の義春が病死し畠山氏は断絶したが、彼等は城主の居ない城を守った。しかし遊佐続光(ゆさつぐみつ)の内応によって九月十五日、上杉勢が城内に侵入し、長続連をはじめ一族郎党が討ち取られ七尾城は陥落した。城門の前に長一族のさらし首が百名余も並んだと云う。 「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁(かがん)月三更 越山併せ得たり能州の景 さもあらばあれ家郷遠征を念う」 謙信の詠んだ有名な七言絶句であるが、これは後年頼山陽が改竄(かいざん)したと云われている。 謙信は七尾城を陥すや、十七日には軍勢を進め加賀に入った。 七尾城の落城を知らず、北上してきた織田軍の北陸方面軍の総大将の柴田勝家の軍勢と、加賀の湊(手取)川で合戦に入った。 越後勢の強さは群をぬいており、織田勢は千余名を討ち取られ敗走した。 謙信は手取川の手前で軍勢を返した。何故、謙信は戦勝の勢いで安土に攻め寄せることをしなかったのか、謙信は信長よりも北条家に目が向いていたようだ。関東の北条家を滅ぼしおもむろに上洛を果たす。 そうした思いがあったとわたしには思われる。 上杉謙信と織田信長の合戦は、これが最初で最後の一戦となった。 こんな話が残っている。謙信は新谷源助という家臣を信長の許に差し向け、決戦を申し込んだ。「来年三月十五日(天正六年)に必ず越後を出て、上洛仕るべく候間、その時分、信長も安土を出られ、兵を差向けらるべし。両家、興亡の合戦いたすべしとの旨なり」 信長が使者に対面した返答はつぎの言葉であった。「謙信の御弓箭は摩利支天の所変の業にて、日本一州に長(た)けて、双(なら)ぶべき者覚え申さず。来春御上洛については、路次まで出迎え、扇一本腰にさし、一騎乗りこみ、信長にて候、降参仕ると申し、それより都へ案内いたさば、さすがの謙信も、信長粉骨して治め候天下を、召しあげらるることは、定めてあるまじく候。東国、北国、東海道は一円に謙信公御支配、両旗にて公方をとりたて、狼藉を静め申すべく候」 信長は引出物をおくり、種々ご馳走して使者を帰した。 この話は「松隣夜話」 「太祖一代1軍記」 「謙信軍紀」 「日本外史」などにある。面白い小説と徳富蘇峰は云うが、謙信との衝突を避けたい信長の感じが出ていると思う。 翌年に謙信は、己の分国、越後、越中、加賀、能登、上野に動員令をしいた。 その目的は北条氏政退治であった。「この上は関山にいたり、越山これをなすべきため」 これは謙信が太田資政親子に送った手紙の内容で、越山とは三国峠を越えて上野(こうずけ)に出るという意味である。 上野は三国峠を越えた関東の入口であり、関東征伐が目的であったのだ。 だが、この歳の三月九日、関東攻めを目前に謙信は厠で意識を失い、そのまま病むこと五日、十三日に息を引き取った。卒中であった。
Feb 4, 2009
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「ドラマを観ての雑文」 NNKの大河ドラマ、天地人を初めから観たが、最近は面白くなくなった。 余りにも小説ぽく、直江兼続のイメージを損ねていると思われる。 兼続の幼少期の資料は全くといっていいほど見当たらない。 従って兼続がどのような幼少時代を過ごしたかは、知ることは難しい。 すこぶる利発で聡明であったと伝えられるが、彼の少年時代の詩作、書簡の類は残ってはいない。「泣き虫兼続」などは作者の作り事に思われるが、わたしは天地人を読んではいない。 また直江景綱(かげつな)の次女?の、お船(おせん)が盛んに出てくるが、これも、わたしの興味を殺ぐ一因でもある。 ドラマではお船の父、直江景綱は家老となっているが、彼は家老ではない。 景綱は謙信と、父の為景、兄の晴景と三代に渡って仕え奉行職を勤めた家柄である。さらに彼の所領は越後三島(さんとう)郡与板の城主である。 お船が子供時代に兼続と遊んだと云っているが、兼続は景勝の生まれた越後、上田庄坂戸城下に生まれたのでそのような接点はなかった筈である。 お船は兼続より三歳年上で、父の景綱が御館の乱の前年の天正五年に没し、男子がなく総社(群馬県前橋市)の、長尾家の景貞の子信綱(のぶつな)を婿養子として長女のお船と娶わせた。ドラマでは次女となっている。 しかし天正九年九月一日、春日山城で家老の山崎秀仙(しゅうせん)と会談中、国人の毛利秀広が山崎を斬殺した、驚いた信綱が止めに入って彼も討ち取られたのだ。この原因は御館の乱の恩賞に不服をもった毛利秀広の恨みから発生した災難であった。こうしてお船は未亡人となった。 不慮の死を遂げた信綱には嫡子がなかった。名門、直江家の絶えることを案じた景勝が、信頼する樋口兼続を配し名跡を継がせたのだ。 こうして兼続は直江兼続と名乗ることになった。兼続二十二才、お船二十五才の時であった。 このドラマは高視聴率をあげていると聞くが、昨夜のドラマは見ておれない。 岐阜城に織田信長が謙信に送った、狩野永徳描く金屏風一双「洛中洛外」のお礼の使者に、兼続が含まれることなど笑止である。 謙信と信長は一年前に同盟を結んでいたが、その謙信の使者を庭先の地面に座らせる場面は見るに耐えない。そのような無礼な持て成しを信長がする筈もない、また若干、十七才の兼続に南蛮渡りの葡萄酒を飲ませ「義」の問答などする訳がない。 たが、わたしは阿部寛の演ずる謙信像が好きだ。堂々たる武将を演じきっている、余りにも格好良すぎる。実際の謙信は「小柄で右の脚に気腫(きしゅう)がありて、歩むときこれを曳く如く見えし也」 常山紀談の一節より引用。 この謙信像が視聴者に受けているのではないかと推測します、それに引きかえ、このドラマの主人公を演ずる役者が果たして、直江兼続を演じきれるのか心配するのは、わたし一人でしょうか。 天正七年、兼続が二十歳の時に作った歳旦(さいたん)の七言絶句を披露しておきます。「冬風吹尽又迎春 春色悠々日影運長 池上垂糸新柳緑 檻前飛気早梅香」 冬風吹き尽くして又春を迎う、春色悠々として日影の運(めぐ)る長し、 池上に糸を垂る新柳の緑、 檻前の飛気 早梅香る。 この年の正月は、まだ御館の乱の真っ最中であったが、この中にあって、この悠々たる余裕は見事である。 このような傑物を、どのように描くのか、楽しみに観てみたい。
Feb 2, 2009
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