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なにかを成し遂げなければ人生は無意味だ,なんて馬鹿なことを考えてはいけない。 ▲この樹は私の師である。最も私はこの樹をながめているばかりなのだけれど。by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 とにかく生きること 怒濤のようなことばの波を整流しようと想う。僕にはそんなにたくさんの言葉はいらない。実用的な知識もいらない。イデオロギーや宗教、すなわち、レディメイドの世界観やすぐに役立つマニュアルもいらない。僕の言葉に耳を傾けてくれるひとだけで充分なのだ。 目標を持ってダッシュするのも、ただひたすら生き急ぐのもいいと想う。ポジティブに生きるのもすばらしい。僕もまた、そのような生き方をしてきて、その反省に立って、いま、まったく異なった生き方をしている。 なにかを成し遂げなければ人生は無意味だ,なんて馬鹿なことを考えてはいけない。誰もそのようなことは望んでいない。神様だって同じだ。 自分は他の人よりすごいんだ,抜きんでているのだ、というようなことを証明する必要もない。 成功するのも悪くない、すばらしいことだ。失敗することも必要かも知れない、その分だけ人生体験が深くなる。しかし、成功しなければならないということはなく、失敗したほうが良いということもない。 ひとに認められることが人生の価値ではないし、その人の価値でもない。生まれてきた意味でもないし、生きる意味でもない。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.29
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論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。 ▲空気が澄み渡るこの季節は夕陽や朝明けが本当に綺麗です。真っ赤な落葉松の紅葉、里山の紅葉が見ごろです。by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 私の言語の限界が世界の限界を意味する。 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。 それゆえわれわれは,論理の内側にいて、「世界にこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。 なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。 しかし、このような可能性の排除は世界の事実ではありえない。 もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。 そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。 思考しえぬことをわれわれは思考することは出来ない。 それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。以上は、たびたび引用しているウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の中の言葉だ。 この著書との出会いは,じつはかなり最近の出来事だった。 ウィトゲンシュタインのある言葉(命題というべきかもしれない)に若い頃から共感を抱いていたものとしてはきわめて迂闊だったと言わざるをえない。 しかし、僕には僕の準備が必要だったのだ。 まったく哲学的素養無しにこの著書を読んでも、違和感が残るばかりだったかも知れないからだ。 集合論や微分積分学や確率論や統計学や論理学の概念や哲学史の概観を少なくとも大学の一般教養課程程度には修めていなかったとしたら、少なくとも僕の場合は、途中で投げ出してしまったことだろう。 もちろん、そんな素養が無くとも、そこかしこには意味深い言葉がちりばめられており、それなりに感銘深い著作だと思う。 多少の素養はあるけれど、哲学を本格的に学んできたひと、学んでいるひとに比べれば僕はむしろ後者に属するのだと思う。 だから僕がウィトゲンシュタインの言葉に共鳴するとき、それは論理的帰結と言うよりは、その直感においてと言うべきなのだと思う。 いずれにしても 思考しえぬことをわれわれは思考することは出来ない。 それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。 たとえ、直感がそれを捉えたとしても、である。 --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.27
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夜明け。 今日も晴れです。 秋らしい雲が美しい朝です。 晴れの日には気温がぐっと下がります。 今朝の最低気温はマイナス12℃です。(北八ヶ岳北横岳山腹1700m地点) --- 蓼科高原ペンション・サンセットホームページ:http://www.p-sunset.com/
2013.11.27
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▲晩秋の御射鹿池 --- 愛用の MacBookPro 17inch early 2011 のキーボードの「N」のキートップが取れてしまった。 まだまだタイピングが乱暴なのかも知れない。しかし直すにはキーボード全体の交換になりかなり高額の修理費になってしまうので、デスクトップ用の外付けキーボードを繋いで使っている。 まあ、あした納品の iMac 27inch 2012 がメインマシンになるので、まあ、いいか。。。 折悪しく弥生会計とペンション管理システム専用に使っていた古い Think Pad T42 もいよいよ実用に耐えない状況になってきた。まあ、XP が来年春にサポート打ち切りなので、そちらの代替機も安いノートPCで置き換えることになる。多くのWindowsユーザーの評価と同じ見解の私は最新のWindows8ではなく、あえてWindows7を使うことに決めている。 それにしても、Desktop Mac 用の英語(ascii配列)のキーボードの打ちやすいこと! そういえば今日山麓の街に買い物に降りたのだけれど、愛車のALFA ROMEO 147のウインドスクリーンを通してみる風景の美しいことと言ったら! 高原部も里山もいましも落葉松の紅葉の真っ盛りで、極彩色に彩られている。しかも今年の落葉松の紅葉は文字通り「真っ赤」なのだ。横浜からこちらに移住して20年になるけれど、こんなに赤い落葉松の紅葉を観るのはじつに初めてのことだ。 胸がきゅんとなるほど美しい! --- 現在のところ、道路は全線「乾燥路面」になっています。 落葉松の紅葉はいまが見ごろで、東山魁夷画伯の描いたあの風景をそこここで観ることができる絶好のシーズンです。 — ペンション・サンセットのHP:http://www.p-sunset.com/ 蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ — Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.25
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昨夜からかなり冷え込みました、たぶんマイナス10℃以下だったと思います。 なので、写真のような風景と空模様です。晴れ高くも利高よくわからないかも知れませんが、一応晴れ間の歩く森といった感じです。 雲は「雪雲」です。こんな感じの色と形なので覚えておくと役に立つこともあるかも知れません。 現在のところ、道路は全線「乾燥路面」になっています。 落葉松の紅葉はいまが見ごろで、東山魁夷画伯の描いたあの風景をそこここで観ることができる絶好のシーズンです。 — ペンション・サンセットのHP:http://www.p-sunset.com/ 蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ — Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.20
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今朝起きてしばらくするとピラタスの丘ペンション・サンセットは「雪雲(snowy clouds)」にすっぽりと覆われ、小雪が舞い始めました。 どどどっと降るのでは無く写真のように「舞う」風情で,観ているぶんにはじつに美しい! しかし積もられるのは嫌だなあと言うのがこの季節の正直な気分です。^^; でもそれも杞憂(きゆう)に終わって、フロストシュガーをまぶしたように積もるとすぐに止んで、青空に変わりました。雪雲が通過していったわけですね。 ここは信州北八ヶ岳の標高1,700mという立地なので、こういう山小屋みたいな体験が日常です。 それにしても夕方以降、予報通りの強烈な冷え込みが始まって、本格的な冬の到来が近いことを予感させます。 里に下りればまだまだ秋なのに、ここはもうすぐ初冬を迎えます。 落葉松の紅葉はいまが見ごろで、東山魁夷画伯の描いたあの風景をそこここで観ることができる絶好のシーズンです。 降雪が無い限り、ビーナスラインなどの幹線道路は乾燥路面になっていますが、念のためタイヤチェーンを携行することをお奨めします。
2013.11.19
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先日の雪は今も蓼科の山々を美しく輝かせていますが、道路は完全な乾燥路面に戻りノーマルタイヤで普通に走ることができます。 私の愛車はもうスタッドレスタイヤに履き替えていますが、地元の住民はどんなときでもクルマが使えないと日常生活に支障が出るのでそうしているわけです。 今年の紅葉はいつもより遅いのでまだ綺麗な秋景色が楽しめます。 ピラタスの丘ペンション村の道路も写真のような乾燥路面なので大丈夫。 from iPhone 4S
2013.11.18
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隠していたわけじゃないんだけれどおととい初雪が降りました。ことしはこれが初積雪です。10センチほど積もりましたが、昼頃には晴れて溶け始めました。昨日はビーナスラインも完全に乾燥路面で、蓼科で開催されたアルファロメオのミーティングや他の外車のミーティングの参加車両が颯爽とドライブを楽しんでいました。ちなみに私の愛車もアルファロメオです。11年前のポンコツを治し治し乗っています。(^^;; from iPhone 4S
2013.11.17
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この脚はいつまで私の移動を可能にしてくれるのだろう。この目はいつまで明瞭な視界を与えてくれるのだろう。 ▲空気が澄み渡るこの季節は夕陽や朝明けが本当に綺麗です。 里山の紅葉が見ごろです。by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 この脚はいつまで私の移動を可能にしてくれるのだろう。 この目はいつまで明瞭な視界を与えてくれるのだろう。 この手はいつまでカメラを持ち支えてくれるのだろう。 この指はいつまでシャッターを切ってくれるのだろう。 そして この脳はいつまで私の思考を司ってくれるのだろう。 昨今異様に冴え渡り明哲怜悧な私の意識は、 いつまで私の意識であってくれるのだろう。 私の肉体と精神に祈りと感謝を。 (この文は創作です) --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.15
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これから「文藝春秋12月号」収録の最新短編「ドライブ・マイ・カー」(副題は「女のいない男たち」)を読もうとしています。 ▲空気が澄み渡るこの季節は夕陽や朝明けが本当に綺麗です。 里山の紅葉が見ごろです。by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 今夜もきゅうううーんとういはぐれ子鹿の悲痛な叫びが聞こえます。夜行性のニホンジカが群で餌を食べに来て、幼いしか早見の中で良くはぐれるのです。すぐにオヤジかが飛んでくるから大丈夫なのですが、だいたいこういう甘ったれの子は決まっているようです。わたしもいつのまにか声の調子で個体識別できるようになってしまったようです。 それはさておき、夕陽が絶景の季節になりました。夕焼けは夏のほうが綺麗なケースも多いのですが、大きな気象変動でいまでは9月以降雪解けの季節、とりわけ11月中旬から3月上旬が空気が澄み切ってそれでいて綺麗な雲が遠景に在って、ほんとうに美しい夕景を観ることができます。 昨夜寝る前にいつも身辺に放ってある村上春樹の本のなかから「ノルウェイの森」の上巻(初版本)を手に取ってしまったのが運の尽きで、冒頭のシーンから草原のシーン前をぐぐぐぐぐっと読み切ってしまいました。それはもう巨大な渦に巻き込まれたような具合で、ぐるぐると回転しながらその世界へと引き込まれていったわけです。 「ノルウェイの森」はすでの24回以上も読み返しているので、もういいや、などとうそぶいていたのですが、やはりわたしのある種の原点はここにあるようで、どうにもなりませんね、これは。刊行が1987年ですから、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が刊行された1985年から2年後のことです。 以外に思うひとが多いと想うのだけれど、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」こそが後期の村上春樹の長編の始まりであり、この「ノルウェイの森」はそこからひとりはずれた場所にあるとうい著者の後書きには反して、じつは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」への「教養課程テキスト」的なものになっているというのがさんざん読み比べた私の感想です。 その証拠のひとつとして、もし「ノルウェイの森」の大ヒットがなければ、現在に至る村上春樹の世界観を共有するひとびとの数はおそらく3桁は違っていたのでは無いかと思うほどなのです。 まあ、そんなことを想う秋の夜です。 これから「文藝春秋12月号」収録の最新短編「ドライブ・マイ・カー」(副題は「女のいない男たち」)を読もうとしています。 --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.14
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遠くから山を観るとき白樺は林立する白骨のように見える。しかしそれもまたたとえようもなく美しい。 ▲紅葉の名所は見ごろが続いています。蓼科高原ではことしは1〜2週間紅葉が遅れているようです。里山の紅葉も始まりました。 by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 遠くから山を観るとき白樺は林立する白骨のように見える。しかしそれもまたたとえようもなく美しい。秋のこの時節、つまり蓼科高原では晩秋にあたる11月中旬頃には、標高2500m〜3000m級の山岳では、広葉樹である白樺が黄色く色づいた葉をほとんど落とし終わり、白い幹と枝とがまるで白骨のような様相を見せるようになる。常緑針葉樹や落葉松の中に点在しあるいは林立するそれは、ある種異様な、それでいて奇妙に魅惑的な風景を見せる。 これからは東山魁夷画伯が好んでモチーフを求めたこの地の落葉松の森が美しく紅葉し、あたかも画伯の絵画そのもののような美しい風景を見せる蓼科高原です。 --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.09
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世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。 ▲紅葉の名所は見ごろが続いています。蓼科高原ではことしは1〜2週間紅葉が遅れているようです。里山の紅葉も始まりました。 by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 『世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。 生と世界とはひとつである。 私は私の世界である。(ミクロコスモス)』 ウィトゲンシュタインの言を借りれば、私の言いたいことは上のようになるだろう。 世界とは「私の世界」である。それはきわめて個人的な世界である。したがって「私の世界」と「あなたの世界」とは異なる世界である。そして私の死によって「私の世界」は消滅する。 このように男性性は論理的である。そのように出来ている。男性性の世界は論理的であり,女性性の世界は情緒的である。 それらは相互補完的な役割を担っているのかも知れない。どちらが優位であるかということは問題ではない。それを語ることは問題をすり替えることになる。 いずれにしても 原理主義なるものは硬直した思い込みあるいは思い込ませにすぎない。 それは絶対的真実を主張する点においてすでに非論理的である。男性原理主義も女性原理主義もともに誤謬(ごびゅう)である。 絶対的に真であるような命題は存在しない。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.08
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西洋哲学で「空(くう)」に一番近い用語は、たとえばドゥルーズ/ガタリが語るように「カオス」が一番近いように思います。いずれにも共通するのはそれが「存在で充満した無」であるということです。 ▲紅葉の名所は見ごろが続いています。蓼科高原ではことしは1〜2週間紅葉が遅れているようです。里山の紅葉も始まりました。 by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 (承前) きのう般若心経(はんにゃしんぎょう)のことを書いたらこれがまあ意外な反響で驚いています。やはり日本人にとって(なぜか)心に響くお経なんですね、たぶん。 この般若心経と出合ったあと、サルトルの「存在と無」を読んでわかったことがあります。 それは「無」と「非存在」とはまったく異なるということです。つまり「無」は「存在」を前提としているが、「非存在」はそもそものはじめから「無い」ということ、言葉を変えるなら「無」は「光」に対する「影」にあたり、「非存在」は「闇」ということになるのかな。 あるいは、「無」は「存在する」ということもできるかも知れない。存在が無になる=「無化する」という表現をサルトルは使っていたように思いますが。 われわれが日常「無」という言葉で表現しているのはじつは「存在が無い」あるいは「存在していたものが無くなる」ということなわけです。 サルトルが言っているのは「無」と「非存在」とはまったく異なるということです。「無とはまったく何もない」とういことではないということです。「非存在」は「はじめから存在しない」ということです。 般若心経で言う「空(くう)」は、もちろん、「無」でもなければ「非存在」でもないということがこのことからわかります。 西洋哲学で「空(くう)」に一番近い用語は、たとえばドゥルーズ/ガタリが語るように「カオス」が一番近いように思います。いずれにも共通するのはそれが「存在で充満した無」であるということです。 すべてがあるが、いまだ存在としてのかたちを成していない世界、とでも表現すればいいのでしょうか、これはじっさいに「感じる」ほかないのですが。 ようするに「空(くう)」と「無」とはまったく異なるものであるということはご理解いただけたことと思います。 なんて言えるほどぼくもわかっているわけではなさそうなんですけどね。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.07
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照見五蘊皆空、度一切苦厄なのね、舎利子ちゃん! ▲紅葉の名所は見ごろが続いています。蓼科高原ではことしは1〜2週間紅葉が遅れているようです。里山の紅葉も始まりました。 by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 般若心経はお経というよりはぼくのテキストです。 《ありがたいお経》というよりは《すごい世界観》だと思っています。 照見五蘊皆空、度一切苦厄なのね、舎利子ちゃん! ・・・だもんねー。すごい、お経って,ラップに似ている。 西洋のコギト(=デカルトの我思う・・・)のはるか以前に、デカルト的転換の世界観を語っている点でもすごいと思います。 それにしても西洋ではデカルト的転換、つまり神(あるいは世界)があるから自分があるのではなく、人間があるから(実存するから)こそ世界があるのだという劇的転換をなぜ《コペルニクス的転換》と同列に語ることがないのだろう?(不勉強なラヂヲにはわからない) ゲーテもファウスト博士に「万物はメタファーだ!」と戯曲の最後の方で叫ばせていますけど、同じことを言っているんですよね、般若心経と、たぶん。 ウィトゲンシュタインも徹頭徹尾論理的に思考したあげくにその地点に到達しているように見えます。 『死は人生の出来事ではない.ひとは死を体験しない。永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば,現在に生きるものは永遠に生きるのである。視野の内に視野の限界は現れないように、生もまた、終わりを持たない。 (中略) 時間と空間の内にある生の謎の解決は、時間と空間の《外》にある。(ここで解かれるべきものは自然科学の問題ではない。) 世界が《どのように》あるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。神は世界の《内》には姿を現しはしない。 神秘なのは世界が《どのように》あるかではなく、世界があるという《そのこと》である。』 誤解は《般若心経を理解する》という発想にあります、お坊さんを含めて。そうではなくて、般若心経ではその境地に到達しなければ絶対にわからないことが言葉を尽くして語られているのだということが《理解されていない》ということです、たぶん。 だから、いくら「般若心経入門」なんていう本を読んでも,偉いお坊さんのお話を聞いても「般若心経」の語る世界に近づくことがかなわない。 まず「瞑想」する習慣を持った方が(信仰をお持ちの方は「無心の祈り」でしょうけれど)「般若心経」の世界に近づく早道だと思うのね,ラヂヲ的には。 以上、これはラヂヲの個人的独断あるいは偏見かも知れないけど、じっさいにそう思っているわけです。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.06
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しかし「意味論」こそぼくにもっとも衝撃を与えたものだった。「この意味はなにか」ということではなく、そもそも「意味とはなにか」と問いかけるのだから。 ▲紅葉の名所は見ごろが続いています。蓼科高原ではことしは1〜2週間紅葉が遅れているようです。里山の紅葉も始まりました。 by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 一番好きな映画はなにかと問われたら、以前なら「フィールド・オブ・ドリームズ」と答えたかも知れない。しかし、いま思い浮かぶのはフランシス・コッポラの「地獄の黙示録・完全版」なのだ。一方、もっとも影響を受けた映画はなにかと問われれば、やはりスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」とアンドレイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」を挙げることになるだろう。 そして座右の書はなにかと問われたなら、即座にジャンポール・サルトルの「存在と無」と答えるしかない。その書物をぼくはいまだに(全貌を理解したかという意味において)読破していないにもかかわらず。デカルトが登場すれば「方法序説」を読み、ヘーゲルが登場すれば「精神現象学」を読み、ハイデッガーが出てくれば「存在と時間」を読み、「現象学」が出てくればエドムント・フッサールの著書を読む、といった具合に読み進めざるを得なかったからだ。 そもそもぼくをそのような省察的な思考へと導いたのは、S.I.HAYAKAWAによる「思考と行動における言語」という「一般意味論(GENERAL SEMANTICS)」への啓蒙的著書だった。たまたまそのとき英語の講義で「統辞論(Syntax)」を習っていて、それを鳥羽口にソシュールの構造主義言語学やチョムスキーの理論に首をつっこむことになった。しかし「意味論」こそぼくにもっとも衝撃を与えたものだった。「この意味はなにか」ということではなく、そもそも「意味とはなにか」と問いかけるのだから。 この著作によってぼくはものを体系的に考える礎(いしずえ)を得たといっても過言ではない。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.05
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なにに見えるか、ではなく、なにが見えるか、でもなく、そこになにを見るかこそが問題だ。 ▲紅葉の名所は見ごろが続いています。蓼科高原ではことしは1〜2週間紅葉が遅れているようです。里山の紅葉も始まりました。 by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 なにに見えるか、ではなく、なにが見えるか、でもなく、そこになにを見るかこそが問題だ。 年齢を重ねるにつれ、好きになるものより、嫌いになるもののほうが多くなった。 あるいは、好きでは無くなったもののほうが多くなった。 あるものは、自らが勝手に美化していたものの実相が見えただけであり、またあるものは、その存在の軽さが明るみに出ただけだった。 しかし、その後好きになったもの、改めて好きになったものは違う。 年齢相応の見識と洞察を持って対峙した結果として、いわば「我が友」として迎え入れたものだからだ。 もはや夢は夢では無く、確かな目標となった。それが到達できないかも知れないことも同時に知った上でのことだ。 ちなみに、わたしが久しく嫌いだったのに、好きになった唯一のものがある。 それはわたし自身だ。 --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.04
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とりわけこの作品が書かれてから約50年を経た現在において上記のテーマはきわめて「現代的」な問題提起として読む者の知性を激しく揺さぶるものがあると思う。 ▲紅葉の名所は見ごろが続いています。蓼科高原ではことしは1〜2週間紅葉が遅れているようです。里山の紅葉も始まりました。 by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 昨日「ソラリスの陽のもとに」という小説のことを書いたけれど、内容がどんなものなのかもう少し書かないとわたしの感じたことが良くわからないかもしれない。 文庫本の背表紙の短い解説には次のようなことが書いてある。 「すみれ色の霞に覆われ、ものうげにたゆたう惑星ソラリスの海。だが、一見何の変哲もなく見える海も、その内部では、一種数学的な会話が交わされ、ソラリスの複雑な公転軌道を自己修正する能力さえ持つ驚くべき高等生命だった! しかしその知性は、人類のそれとはあまりにも異質であった。いかなる理論をも、いかなる仮説をも受け入れず、常にその形を変え、人類を嘲笑(ちょうしょう)するかのように新たなる謎を提出する怪物=生きている「海」。 人類と「思考する海」との奇妙な交渉を通して、人間の認識の限界を探り、大宇宙における超知性の問題に肉薄する傑作!」 とりわけこの作品が書かれてから約50年を経た現在において上記のテーマはきわめて「現代的」な問題提起として読む者の知性を激しく揺さぶるものがあると思う。 読んでみるとわかるのだけれど、この作品はその一見難解な形而上的展開と同時に古典的とも言える人間の心の問題、人間としての愛と倫理を取り扱うラブ・ストーリーでもあるのであって、わたしはむしろその部分に強く魅かれる。 タルコフスキーによって映画化された「惑星ソラリス」をもう一度この機会に見てみようと思っている。映画では後者が(どちらかといえば)メインテーマになっていて、その切なさは見る者をつきることのない優しい哀しみでいっぱいにするに違いない。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.03
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私の多義的な人生に沿って少しだけ語ってみる。(つまりここで語られる私の人生は多分にフィクションであるということだ。) ▲紅葉の名所は見ごろが続いています。蓼科高原ではことしは1〜2週間紅葉が遅れているようです。里山の紅葉も始まりました。 by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 昨日の記事で書いた小説(あるいは映画)「惑星ソラリス」という作品についてもう少し書く必要があるのではないだろうか。私の多義的な人生に沿って少しだけ語ってみる。(つまりここで語られる私の人生は多分にフィクションであるということだ。) この作品はポーランドの作家スタニスワフ・レムによって書かれた。邦題は「ソラリスの陽のもとに」(ハヤカワSF文庫)。この作家はSF作家と限定できないのでちょっと語りづらいのだけれど、1961年に発表され1966年に日本でも翻訳刊行され、1977年には上記の文庫版が刊行されている。 自分の人生に重ね合わせると、この作品はわたしが9歳の時に書かれ、わたしが25歳のときにこの作品と出会ったことになる。 実はその前にこの作品はロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーによって「惑星ソラリス」として映画化されていて、わたしは1978年、26歳の時に銀座の映画館で再上映されたこの映画を見ることが出来た。いまはレンタルビデオで完全版を見ることが出来る。 しかし作品の大きさ、形而上的・哲学的な奥の深さは小説でないと理解しづらいかもしれない。今回読み返してみて驚いたのは若いころ全く難解で理解不能だった部分がリアルな出来事としてすんなりと理解できてしまったことだ。 だからどうなんだ、と言われるかもしれないけれど、実は結婚した翌年の夏休みに妻とともに蓼科を訪れた時わたしが携行してバスや列車待ちの時間しきりに読んでいたのがこの作品なのだ。いまから30年以上も前の話だ。 そのころは蓼科のそれもこんな山の上に暮らすことになろうとは夢にも思っていなかったのだから、出会いとは不思議なものだ。ただこの作品の世界と蓼科の気候や風景やその旅そのものの持っていたトーンが妙にオーバーラップして私の心の奥深くに刻み込まれたのをいまでも感じることができる。 いわばそれは「いま」というこの瞬間の「種子」のようなものだったのかもしれない。1993年11月末の初雪の日、私たちはこの蓼科に移り住んだ。「ソラリスの陽のもとに」という分厚い小さな文庫本は今もわたしの傍らにいつもある。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.02
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われわれは見ようと意識しないものは見ない。「見たいもの」しか見えていない、そのほかにいかにたくさんのものがあっても、それを存在しないものとしてしまっている。 ▲名残か意地か by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 惑星ソラリスの周回軌道上に浮かぶ宇宙船の奇妙な状況をようやく理解し始めた彼のところに、かつて自殺した妻が突然現れる。もちろん幽霊などではない。彼は驚愕するとともに彼女を失った癒しようのない苦痛と悔恨とを改めて喚起される。 これは紛れもない彼女だ、しかし「これは自分の記憶の中にある限りの彼女なのだ」と気づくのにさほど時間はかからなかった。 彼の苦しみはそこから始まる。この「彼女」自身が自分が誰なのか,なぜここにいるのかを知らないからだ。しかも彼の記憶どおり彼を心から愛している。その所作も笑顔も寸分たがわず愛しい彼女そのものだ。 苦しみから逃れようと彼は「彼女」を何度も宇宙船から追放しようとするが、いつのまにかふたたび「彼女」は彼の前に現れる。 やがて彼の苦しみを察した「彼女」液体酸素を飲んで自殺を図る。かつての妻としてではなく「彼女自身」として彼を愛すようになったからだ。 しかし、ニュートリノで形作られている「彼女」はすぐに再生してしまい死ぬことができない。苦しみ抜いたすえ、死ぬことができず、再生してしまう。そのことがまた「彼女」を苦しめるのだ。 物語の終盤、彼の同僚の研究者に頼み「彼女」は自分を形作るニュートリノを分解する装置を使って消滅する道を選ぶ。「彼女」が消滅したあと彼はその事実を知る。 彼はこの一連の出来事を神の罰と考えるようになる。そしてその神とは「この惑星ソラリスの海」なのだと確信する。 悲嘆に暮れて窓から海面を見下ろすと、そこに小さな島が形成されていた。彼の見慣れた世界がそこに実物大で再現されていた,彼自身までも。 幼い頃の想い出に満ちた実家周辺の風景、その色、におい、湖沼部の水の輝き、小川を流れる涼やかな水の音、太陽の光・・・。そのなかを黙想しながら歩く主人公。その場面はこの作品の冒頭の情景とうりふたつだ。 われわれの「現実」とはいったい何なのだろう。 物語の最後に主人公は深い思索へと沈んでいく。 私が前回語った 意識(顕在意識) 無意識(潜在意識) によるフレームワークを寓話として語るとこのような物語になるのかと思うので、ご一読をお薦めしたい。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.11.01
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