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この作品のDVDは、前回の急なアンカラ行きで、私が唯一自分への手土産にしたものである。ごく最近ようやくDVD化されたばかりというのに、アンタルヤの小さなDVDショップでは簡単に見つからなかったからである。2004年冬、新聞で紹介されたこの映画の存在が心に留まり、アンタルヤでの公開を楽しみにしていた私は、年が明けると毎週新聞の地中海版に載る映画館上映情報に眼を凝らしていた。しかし、マイナー作品のなかなかやってこないアンタルヤで公開されることはなく、いつかDVDせめてVCDになるのをひたすら心待ちにしていたのである。アンカラから帰った翌日、早速夫と一緒に観てみることにした。このような作品は、原則独りきりで鑑賞するのを旨としている私だが、夫が帰宅中ゆえ、「あなたは観ない方がいい」とも言えない。「黒海地方のルムをテーマとしているらしいよ」「暗いと思うけど」とあらかじめ夫に釘を刺しておいてからVCDをセットした。およそ芸術作品とか映像美とかに関心のない夫。好きな映画はアクションものやマフィアもの。一番のお気に入りが『ババ(ゴッドファーザー)』という夫にとって、この手の小作品が気に入るとは間違っても思えなかった。夫の反応ばかり始終気にかかり、映像に没頭できない私。「暗い」「面白くない」「政治的な作品だよ、これは」そんな言葉が夫の口から漏れる度に、身がすくむ。さらに途中で知人から電話がかかってきたために、映画の後半をほとんど見逃してしまったのだった。終わった後で夫に感想を訊くと、案の定、肯定的な言葉は聞けなかった。「なぜ、今頃になってこんな昔の話を掘り起こさなければならないんだ」「トルコは毎日暗くて、ギリシャに行くと青空だっていうのが、トルコの印象を悪くしている」「なにか政治的な意図があるんじゃないか」夫に遠慮しながらでは作品に没頭もできず、弱い印象しか残らなかった初めての鑑賞後、ほぼ3週間の間、再びこのディスクをセットすることはなかった。ところが、ギリシャにお住まいのchottocafeさんのブログで、「黒海地方に住むギリシャ人の末裔(※ルムのことと思われる)」に関する記事を拝見したことで、俄然この作品をもう一度じっくり鑑賞してみる気になったのである。すると、夫と一緒に、横で色々言われながら観たときとはまるきり異なり、2度目にして、私の心は激しく揺さぶられた。会話が少なく、シンボリックな表現を得意とする彼女の作品は、私に多くの意味を与え、何事かを感じる余地を与えるのである。しかし、2度の鑑賞では、まだ不十分だった。ルム語、ギリシャ語が分からなければ、主人公アイシェの苦渋の理由すら掴めない。私は英語の字幕を選択し、3度目の鑑賞を試みた。****イェシム・ウスタオール監督は、トルコ人青年のクルドの青年との交流や心の軌跡、自身のキムリック(アイデンティティ)を探し求める内面的=外面的旅路を描いた前作『太陽への旅路(GUNESE YOLCULUK)』 (日本では『遥かなるクルディスタン』という題名で公開)もそうであるように、トルコにおけるマイノリティの存在に心を寄せ、彼らの心の葛藤や苦渋をシンボリックな表現を借りて隠喩的に表現することに常に心を砕いているように思える。しかし、彼女は、なぜ繰り返しマイノリティに照明を当てようとするのだろうか?ここからは、あくまで私の推論であるが、それは、彼女自身がトルコにおけるマイノリティに他ならないからではないだろうか?トルコ国籍とトルコ人の名前を持っている彼女だが、容貌からスラブ系に見ることもできる。両親、祖父母の時代に、トルコへ移民(あるいは難民、亡命者)としてやってきたスラブ系家族の生まれなのではないだろうか?あるいは鼻梁の張った高い鼻を持つ横顔から、ラズ人と見ることもできる。メガホンを握る彼女の、常に寂しげで苦労の跡を滲ませるような、しかし断固とした表情を見るたびに、そう思えて仕方ないのだ。真実は、彼女と彼女の家族しか知らないことであり、作品の出来とは何の関わりもないことではあるが。●監督:イェシム・ウスタオール(Yesim Ustaoglu) 1960年11月18日、カルス県サルカムシュ(sarkamis)市生まれ。小中高校時代をトラブゾンで過ごし、同じくトランブゾンにあるカラデニズ工科大学建築学科を卒業。その後、イスタンブール・ユルドゥス工科大学修復学科で修士課程を修了。この間、通信社の特派員を務める。最初に撮った短編作品『一瞬を捕まえる(Bir Ani Yakalamak)』によって、1984年にIFSAK短編映画コンテストで賞を獲得したウスタオールは、2本目の短編作品『マグナファンターニャ(Magnafantagna)』を携えて、オーバーハウゼン映画祭およびシカゴ映画祭に参加した。『二重奏(Duet)』は1991年にユヌス・ナーディ短編映画コンテストにおいて1位を獲得。1992年には『ホテル(Otel)』という名の短編映画を脚本・監督した。『ホテル』は第14回地中海モンペリエ映画祭で大賞を受賞し、脚光を浴びた。1994年に製作した初めての長編映画『軌跡(Iz)』は同年、第4回ケルン・トルコ映画祭で最優秀作品賞。翌95年に第14回国際イスタンブール映画祭で最優秀作品賞を受賞。1999年には『太陽への旅路(Gunese Yolculuk)』で、第18回イスタンブール映画祭最優秀トルコ人監督賞と、第11回アンカラ映画祭最優秀監督賞および最優秀脚本家賞を受賞。2003年製作の本作品『雲を待つとき(Bulutlari Beklerken)』は、黒海地方出身で1930年にギリシャへの移民を余儀なくされたルムの家庭に生まれたヨルゴ・アンドレアディス(Yorgo Andreadis)の著作『タママ(Tamama)』を題材に脚本を起こしたものである。この脚本はサンダンス映画祭で最優秀脚本賞を受賞し、早々に放映権を獲得したNHKはじめ様々な団体の資金提供により製作が実現。2004年、第23回イスタンブール映画祭で特別審査員賞を受賞した。****なおこの作品は、つい先日(5月14日)日本でも、NHKBS映画劇場サンダンス映画祭特集上映作品として、『雲が出るまで』というタイトルで放映されたという。日本でご覧になられた方もいらっしゃるのではないだろうか。
2006/05/28
●『BULUTLARI BEKLERKEN (雲を待つとき/WATING FOR THE CLOUD)』(監督:イェシム・ウスタオール(Yesim Ustaoglu)/2004年トルコ・ギリシャ・フランス合作/87分) 水分を湛えた緑濃い森林。脇を、足元を音を立てて流れていく滝や清流。緑なす高原に点在する石造りの家々。聞こえるのは牛の鈴の音と、水と風の音と、雷鳴。そして、谷底から絶え間なく沸き上がり、いつ切れるとも知れぬ雲、雲、雲・・・・。****時は、1975年。 舞台はトルコ黒海沿岸の小さな港町ティレボル(Tilebolu)から、ティレボルの人々が毎夏登り続けるヤイラ(高原)、そしてギリシャ・テッサロニキ(セラーニック)へと移っていく。ティレボル。5年に一度の国勢調査が行われることをニュースが伝えている。「言語と宗教などの項目について調査が行われる。これに応じない者は・・・」年老いて介護の必要な「姉」セルマと、ふたりきりで暮らす老女アイシェの家にも国勢調査員がやってくる。IDカードの提出が求められ、聞き取り調査が始まる。生まれはメルスィン。同居人のセルマは「姉」。「なぜメルスィンからここへやってきたのか?」「それは・・・」そこでセルマが倒れ、病院に運ばれるが帰らぬ人となる。セルマが亡くなって以来アイシェの「家族」は、隣人ファトマの息子で、毎日彼女の家に遊びに来るメフメットだけになってしまった。アイシェを実の祖母のように慕うメフメット。ある日、納戸にしまわれてあった古い包みの中から、昔の写真を見つけ出したアイシェは、その中の一枚を大切に布にくるみ、肌身離さず身につけるようになる。やがて、ヤイラに登る季節がやってきた。拡声器で出発の日が伝えられる。村の人々は背に背に荷物をくくりつけ、牛や山羊と一緒に町からヤイラへと出発する。足元の覚束ぬ険しい山道。一歩足を踏み外せば谷底に落ちる。山を越え、急流を越え、辿り着いたヤイラには、彼らの夏の家となる石造りの堅牢な家々が彼らを待っている。アイシェは、ヤイラを包み込む深い霧、雲の中に何かを見出だし、何かを聞いたようだった。一晩中家の外で過ごし高熱を出したアイシェは、メフメットの耳元で思わず「ニコ、行かないで!」と声に出していた。―ニコとは誰なのか?―自分が「ニコ」という名前を口にしたことに、アイシェ自身がショックを受けた。それを契機に、アイシェは急速に内省的になっていく。誰とも話そうとせず、悪魔祓いをしようとする隣人たちに「あなたたちに私の心のうちの何が分かる!?」と怒鳴るアイシェ。彼女の懐に入れるのは、唯一メフメットだけになった。メフメットは、母親に叱られてもなお、アイシェの元に通い続ける。村人全員がヤイラを下り村に戻った後も、アイシェは高台に座り、雲を見つめ続けるのだった。アイシェが雲の中に見ていたのは、遠い過去の自分と、失った家族の姿であった。心の奥底に封印した彼女の辛い過去の記憶が、少しずつ蘇る。50年以上口にすることのなかった自分自身の言葉でアイシェは、ルムの女性エレーニとして語り始めていた・・・。****アイシェの過去を知るには、英語の字幕に頼らねば分からない。なぜなら、彼女はルムの言葉で語っているからである。(※ルム=トルコ国内に住むギリシャ系の人々、もしくはギリシャ正教徒)彼女の子供の頃の記憶は、最も悲惨なある一時期で留まっていた。母親の背中で凍死した妹ソフィアの姿。母親が妹を雪の中へ埋める情景。何週間も何週間も歩き続けた疲労と苦痛。そして弟ニコが孤児として連れて行かれるのを、窓ガラス越しに見届けることしかできなかった自分への激しい後悔の念。時は第一次大戦中の1916年。ロシア軍はルムの人々を利用しながら、黒海沿岸地方を次々に占領していくことに成功する。ロシアは同じ「正教徒」という名目をかざし、ルムの人々を結集させ、武器弾薬を配布するなどして扇動していたのである。ロシアが東側からなら、西側からはイギリスが別の形でルムの人たちのアイデンティティを煽り、「汎ギリシャ人思想」を植えつけることに成功していた。ルムの人々はオスマントルコ軍に従わず、反旗を翻すような行動をとるようになる。ルムの人々は、かねてから南下を目論んでいたロシアの侵略目的のため、イギリスに代表される西欧列強によるオスマン帝国の内部からの解体という目的のために、いわば利用されていたのである。(このあたりの経緯については、もうひとつのブログの方で後日詳しく紹介する予定)オスマン帝国軍は、ゲリラの温床となっていたルムの村々から住民を追放し、村を空っぽにする手段に出る。黒海地方を追放されたルムの人々は、西へ、あるいは南へと流罪となっていった。長い長い移動の途中で、一家離散し、家族を亡くし孤児になった者も出た。アイシェ(エレーニ)が思い出した記憶は、そんな一家離散の記憶であった。****哀愁あるメロディーが、耳の奥で響く。水分を含んだ深い緑色が目に眩しい。涙が溢れてきたのは、その眩しさのせいだろうか。それとも・・・。映画本編も素晴らしい秀作だと思うが、私を心から感動させたのは、本編の製作以前に撮られたと推測される40分近い短編作品『Sirtlarindaki Hayat(背中の上の人生)』であった。カチュカル山脈に位置する、標高3500mに達するヤイラと村との間を毎年のように往復しながら暮らす黒海地方のある村人たち。彼らは黒海地方に多いラズ人(コーカサス系の人々で、黒海東部に多く住む)であり、牧畜を主に生活の手段としている。毎年夏、2ヶ月から2ヵ月半をヤイラで過ごす彼らは、必要なすべての道具をその背中に背負って運ぶ。背に背に重い荷をくくりつけ、幼な児を肩車するのは、決まって女性である。身体への負担と厳しい気候条件の影響で、坐骨神経痛、ヘルニア、リューマチ、腎臓を患う者もある。赤ん坊も、重病人も、そして遺体も、すべてその背中によって麓の村まで運ばれるのである。驟雨の中、ぬかるみに足を取られながら、牛や山羊を追い立てながら、険しい山道を登り続ける強行軍からは、健康である限り高齢者さえ逃れることはできない。昔から連綿と続いてきた習慣であり、それが彼らの人生だからだ。ヤイラでの素朴な暮らし。牛の乳を搾り、薪を集めてコンロに火をつけ、煮立てた牛乳からチーズを作り、集めた野草を料理する。麦を石臼で挽き、オーブンでとうもろこしパンを焼く。若者の口からは自然に土地の唱(うた)が流れ出る。木を削り、笛を作る者もいる。男たちが集まれば、踊りが始まり、唄が口を突いて出る。娘たちはボール遊びに興じる。若者の目は娘たちに注がれ、娘たちの目もまた若者たちに向く。村とヤイラとの往復の中で、彼らは若くして結婚し家庭を作り、子供を産み育てていくのである。村人たちの憂い、寂しい微笑み、諦めの表情が目に焼きつき、口から漏れるため息までが、唄の一部であるかのように耳に響く。自分で選択のできない、自らの出自に運命付けられた人生。伝統や習慣、偏見に抗うことのできない人々とその心の葛藤・遍歴。心の旅路が現実の旅へとつながる過程での心の変化などを、抑制された筆致で描くのを得意とするウスタオール監督の真骨頂は、このようなドキュメンタリー作品にこそあるように思えた。
2006/05/28
ただいま、次の日記を執筆中。(遅筆のため、もう少々お待ちを)それまでのお目汚し、もとい目の保養として、清涼感溢れるトルコの初夏のお花をご覧ください。 2006年5月25日撮影(左右に見えるキュウリやレモンはご愛嬌) こちらは、ニリュフェル(Nilufer)。蓮の花。アンタルヤではこのように切花にされて、1年に1回かせいぜい2回、パザールに顔を出すのみ。初夏のごく一時期だけの花である。蓮の花を売る農家の人は、ある川縁から採集してくるというのだが、もちろんどこの川だなんてこと教えちゃくれない。川辺に真っ白の蓮の花が咲き乱れる風景は、まさに極楽浄土のようだろう。一度でいいから、その風景を見てみたいものだ。蓮の花を買ったのは、3年ほど前だろうか。一度きりで、それ以後は見つけても前を通り過ぎるだけとなった。たぶん、香りがあまり好きになれないからだろう。祖母の鏡台の中に仕舞われていた古い香水のような、濃厚でクラシックな香りである。ちなみに値段は、一束1YTL。なお、ニリュフェルという名前は、女性の名前としても比較的ポピュラーである。(女性歌手にもいる)蓮の花そのもののように、すっと背筋の伸びた、高貴で上品な女性を想起させる、とても美しい名前だと思う。発音は、ちょっと舌を噛みそうだけどね。(苦笑)
2006/05/25
今週後半から、気温が28~9℃まで一気に上昇し始めたアンタルヤ。ついこの間まで、晴れていても吹く風がヒンヤリと涼しく、薄手のセーターやカーディガンが手放せなかったというのに、昨日今日は日中ノースリーブでも気持ちいいくらいの暑い一日となった。5月も後半に入り、さすがに初夏から夏へと移行しつつあるのを感じる。コンヤアルトゥ・ビーチまで直線距離にして800mほどの場所に住む私たちが、陽気に恵まれれば毎週末のように海岸まで散歩に出かけるのが、この季節。先週末も同じように海に出かけたのだが、まだまだ冷たい海で泳いでいるのは、子供と若い男の子、おじさんばかり。娘たちは石投げを、私は石を拾ったり愛でたりしながら30分ほど過ごし、海辺を後にした。それから1週間で、ここまで暑くなるとは。朝、バッカルに買い物に行く時、もやもやと肌に纏わりつく夏らしい熱気を感じて、ピンときた。これなら、きっと海に入れる!このところ、娘たちに海行きをせがまれていたことだし、今日は娘たちを海に連れて行ってやろう。今日は娘たちにとっての「海開き」の日だ!エミのスヌフ・ギュニュ用のドレスの仮縫いから帰るや否や、娘たちは服を脱ぎ捨てるのももどかしく水着に着替えた。私は水温が上がり波の静かになる7月まで海には入らない主義なので、着の身着のまま。自宅を出て道すがら、軽食用にボレキ、アイスティー、水などを購入。コンヤアルトゥ・ビーチは、いまだシーズン前の趣。それでも、人出は随分と増えていた。外国人の姿より、地元の家族連れ、カップル、若者たちの姿が目立つ。これからの季節、地元の人にとっても最も手近な行楽地はビーチなのである。いつも腰を落ち着ける区画には、寝椅子もビーチパラソルの準備も何もできていなかったので、敷物ひとつ持ってこなかったことをちょっと後悔したが、日差しも夏本番のそれではないことだし、どうせ1時間ほどですぐ帰るんだからと、適当なところに腰を下ろした。ボレキで腹ごしらえした後、娘たちは大喜びで海に突進していった。足をつけてすぐは「冷たい!」と唸っていたが、すぐに慣れたらしく、それからは一向に海から出ようとしない。私は横になって帽子を顔に載せ、潮騒の音を聞くうちに、うつらうつらとし始め、浅い夢まで見る始末。時々「疲れたよ~」「そろそろ帰ろうよ~」と声をかけても、なかなか帰る気にならないらしい。結局、当初の見込みを大きくオーバーし、3時間ほど海辺で過ごすことになってしまった。娘たちも大満足。すっかり味をしめて「明日も来よう!」と言い出すんじゃないかとひやひやしたけど、遅かれ早かれ、これから毎週のように連れて来なくちゃいけなくなるんだろうなあ。。。。地元の人で賑わい始めたコンヤアルトゥ・ビーチ (左)娘たちのハシャギっぷり(右)パラセーリングをする人もいよいよ夏到来!は、食生活においてもひしひしと感じられるところである。メロンやスイカが店頭に並び始め、茄子やズッキーニの料理が食べたくなってきた。料理に合わせて、生のフェスレーエン(バジリコ)やナーネ(ミント)もついつい買ってしまう。大抵使い切れなくて、最後は腐らせてしまうというのに。(毎年、フェスレーエンは苗を買って鉢に植えているのだが、今年は気持ちの余裕がなく、まだ準備できていない)しかし、なんといっても、夏をもっとも実感するのは、トマト!であろう。1年中食卓にトマトの欠かせない我が家にとっては、嬉しい季節の始まりである。トルコ式の朝食には切らすことができない他、サンドイッチ、サラダ、前菜、煮物、パスタソース・・・トマトの味がよければそれだけ料理の味もよくなる。太陽の光に恵まれたアンタルヤでは、セラ(ハウス)のお陰で冬でもなかなか立派なトマトが収穫され市場に出回るが、やっぱり見せかけだけで香りと味はないに等しい。ホルモンが使われているのだろう、色はピンク色なのに妙にモチッとしていたり、中はガリガリに硬かったり、種ができていず空洞になっていたりする。なので朝食の際は塩を振って、煮物やパスタソースにはサルチャ(トマトペースト)を加えて味を誤魔化している。ここ数回のパザールで、毎週のようにトマトの味がよくなっているのを感じていたが、先週木曜のパザールのオバチャン・エリア(自分の畑でとれた野菜や卵、手作りのサルチャなどを持ってきて売る村のオバチャンばかり並んでいる一角)で、ほぼ完熟の美味しいトマトを見つけて喜んだ。鼻を近づければ、トマトらしい青くさい臭いがプンプンしているのに、ナイフで半分に切り分けると、熟したトマト特有の香りがプーンと立ち上ってくる。中もぎっしり。厚めにスライスして朝食のテーブルに載せると、娘たちは先を争うようにして、白チーズやキュウリと一緒にパンに挟んでサンドイッチにして平らげた。冬の間は「イーレ~ンチ!(気持ち悪い)」といってトマトに手をつけようとしなかったナナが、トマト好きのエミ以上のトマト好きに豹変したのには、さすがに驚いた。皆さんにも、一足早い夏の気分を少々お裾分け。トルコのトマト、どアップでどうぞ!(本当はもっと赤いのだが、色が出なかった・・・)
2006/05/20
私たちは無駄に5ヶ月も待たされていたのである。もうそれさえ前々から分かっていれば、こんな大嘘つきの詐欺師シェノール(もう、「氏」なんてつけてられるものか!)からはさっさと手を引いて、他のターキプチに乗り換えていたのに!私たちはすぐに夫に報告。夫からシェノールに電話してもらい、750YTLと過去に渡した書類一切を返してくれるよう強く言ってもらうことになった。ところが、「保険申請はもう行ったので、お金は返せない」「仕事はやる」とまで言ったらしい。根が単純な夫は、「やると言うなら、やってもらうしかない」と彼を使い続ける決断をしたのか、もう何ヶ月も顔を拝むことすらできなかったシェノールが、それから2日ほどしてのこのこ現場に顔を出した。シェノールは、今まで必要な手続きや書類について何のアドバイスもしようとしなかったのに、急にプロジェを広げて中を検めたり、「あれとこれ。これも必要」と列挙し始めた。そして、保険料も大体5,500YTL(約50万円)くらいかかること。私たちの場合、イスカンはゲネル(一般)・イスカンとフェルディ(個人)・イスカンの両方を取得せねばならず、それには合わせて1万3千YTL(約120万円)くらいかかること、などを次々に説明した。今まで具体的な数字を聞かされてなかった私たちは、その額にビックリ。シェノールは「法律が変わったから、ここまで下がった。でなければ9~10千YTL(8~90万円)はかかっていただろう。このために私は待ってたんですよ」という。シェノールの打ち出した数字があまりに膨大なため、やっぱり怪しいと睨んだ私たちは、すぐに別のターキプチのオフィスに出かけて情報を提供してもらい、シェノールの今までの振る舞いや、彼の出した数字を検証したのだった。保険申請手続きを行うムハセベジをも兼業するそのターキプチの話によると、職人一人当たり月額約550YTL(約5万円)。4人だと約2,200YTL(約20万円)。大体2ヶ月半くらい継続されたことが証明できればいいから、保険料は確かに5,500YTL(約50万円)前後になるという。が、イスカンにはそれほどかかるとは思えない。第一、保険申請を始めたのなら、SSKから保険認証番号が渡されるはず。その資料を見せもしないし番号を教えないのは、申請すらやっていない証拠。また「法律の変更」などまったくのデタラメで、そんな話は聞いたことがない。そう言われてようやく、私たちの抱いた疑念が裏付けられたのだった。私たちは夫とも話し合った結果、大至急シェノールからお金と資料一切を返してもらい、遅れを一気に取り戻すために、新しいムハセベジ&ターキプチに保険申請とイスカン手続きを始めてもらうことに決めた。早速エルカンに電話をさせたところ、「申請をしてしまったから、それを取り消さなければならない。これからムハセベジに取り消してもらいに行く。今までの手続き費用のファトゥラ(請求書)も持っていくから」と言ったという。なんだってえ!!ファトゥラとはなんだ!今まで何ヶ月も待たせながら、何一つ仕事をしないで、請求する権利がどこにある。「返すお金を少しでも少なくしようと企んでるんじゃないか」とエルカンが言う。私もそういう手に出るだろうことは予測していた。なんだかんだと言い訳をして、750YTLは着服してしまうつもりだな、と。私はエルカンに、「もしファトゥラを持ってきてても、それは夫に直接渡すようにいって絶対に受け取らないで。お金と資料だけ返してもらって」と言いおき、もしその場に居合わせることができたら(なぜなら、私をわざと避けたような時間帯にやってくるのだ)、「この5~6ヶ月間であなたが唯一やった仕事が、ファトゥラを切ることだったとはね」と精一杯皮肉を言ってやろうと考えた。ところが、シェノールからの連絡がまた途切れた。電話をすれど、切ってあるか、応答しない。とりわけ、私が苦手なのかどうか、私の携帯番号にはまったく応答しようとしない。自宅の番号からかけて、ようやく応答。相変わらずしゃあしゃあと、「ムハセベジで取り消しの手続きをしてたんですよ」という。「本当に取り消ししたんですか?」と訊くと、「当然」と答える。「結構。それなら、今日は何時に現場に来れるんですか?」と訊くと、「いつ来れるかハッキリした時間は言えない。用事が済んで来れる時間が分かったらエルカンに教えるから」という。そして結局その日もシェノールは来なかったらしい。夕方になってエルカンに「ムハセベジに何度電話しても連絡がつかないんだ。こうなったら明日か、最悪月曜になる」と言ったとか。それももちろん嘘に決まっている。今週月曜日の朝一番。雨でも降るのではないか?シェノールから私の携帯に電話がかかってきた。「エルカンにお金を渡したいのだが、電話に出ない。連絡しといてくれないか」という伝言。エルカンの電話はチャージ切れで連絡はつかなかったが、この電話の後どうやらすぐに現場を訪れ、750YTLを耳をそろえて返して去っていったらしい。ファトゥラもなし。以前手渡した資料もなし。資料の悪用を恐れたが、新しいターキプチに聞いたところ、その程度の資料では何もできないといわれ、安心した。こうして、のらりくらりシェノールとの6ヶ月近くに及ぶ腐れ縁を、ようやく断ち切ることができた私たち。もっと早く彼の嘘に気付き、他のムハセベジやターキプチからの情報を得ていれば、無駄に何ヶ月も待つことはありえなかったのだが・・・・ひとつには忙しかったこと。実質イスカン申請できる段階ではなかったため、焦っていなかったこと。そして、悪名高きギュルスン夫人の紹介とはいえ、彼女の仕事はちゃんとやっていたんだから、やってくれるに違いないと信用していたのだった。今まで彼女の取り持つ縁でやってきた人物は、ことごとく私たちに不利なように働いていたというのに!それを忘れたわけではないが、何度だまされても、やっぱり簡単に人を信用してしまう私たちは、1年の工事経験を経てもまだ素人同然だった。私たちは今、1年遅れの保険申請手続きと、それに続くイスカン申請に向けて活発に準備をしているところである。リストアップされた必要書類は、初めて聞く内容ばかり。いかにシェノールが情報提供を怠っていたか、明白である。ギュルスン夫人とは、もうこれ以上関わりあいたくないと心から願っているのだが、実はこの2~3ヶ月来、彼女から「強硬に」提案されているある事項がある。今のところ夫の留守を理由にその話題からは逃げているのだが、やがてこの件にも真正面から対峙しなければならなくなるだろう。憂鬱は尽きない。 気温も26~7℃まで上がり、初夏らしくなったこの頃アンタルヤのシンボル、イヴリ・ミナーレはいつも変わらない姿を見せている
2006/05/18
もう何日か、いや何週間、何ヶ月か、朝の時間帯がとても辛くなっている。普段どおり、娘たちに朝食を食べさせ、学校に送って行き、自宅に戻る。さて、今日やらなければならないことは・・・今日は・・・今日こそは・・・胸が重苦しくなり、このまま自宅で1日のんびりできれば、どんなにかいいかと思う。「家事があるから、用事があるから、今日は現場には行けないかも」そんな言い訳作りをしたくて、洗濯機を回したり、掃除機を掛けたりしてみる。罪悪感で胸が一杯になりながら。「いや、施主たるもの。とたえ仕事がなくとも1日1回は顔を出すべき」胸を塞ぐ雲を少しばかり追い払って、カレイチの地所まで出掛ける、そんな毎日。建築の方の進捗状況を書こうにも書けない。書くことは、あるといえば相変わらずありすぎるが、とても書ける精神状態にない。順を追って書こうとすればするほど、これまでの経緯と度重なる失敗、不運。夫と繰り返した諍いなどを思い出して、胸に鉛が詰まったようになる。でも今日は久し振りに、ふりだしに戻り、そのお陰で心に小さな晴れ間がのぞいたある件について、込み入った内容ではあるが、なるべく簡潔に(インシャッラー)書いてみようと思う。トルコ在住でない方には聞きなれない言葉ばかりだと思うので、疲れるかもしれない。読める方だけどうぞ。****建物の外殻工事を終えた私たちがまず行うべきは、「イスカン」手続きである。「イスカン」とは「居住・定住(許可)」というような意味で、建築の終わった建物が法的に適し、またプロジェ通りに完成しているかどうかが審査され、クリアしているとみなされれて初めて、建物の使用許可が下りるもの。イスカン申請のためには、様々な条件と書類が揃ってなければならない。例えば、電気設備を証明するエレクトリック・ラポル、下水設備を証明するカナリザスィヨン・ラポル、火災時対策用のアラームや消火器の証明写真、構造検査業者による業務終了報告書などなど。私たちには、プロジェ上の大きなミスを補うために、イスカン取得後さらに部分的に改造する仕事が待っていた。「プロジェ通りであらねばならない」イスカンというハードルを飛び越えれば、それが可能になる。なので、外殻工事が終わり次第、イスカン手続きの申請に移りたかった。イスカンの手続きは、もう昨年秋からターキプチに頼んであった。ターキプチとは、直訳すれば「追跡者」で、日本でいえば行政書士にあたる職種だろうか。電気や水道の開設申請、タプ(不動産権利証書)の「追跡」や、イスカン申請などの仕事を主に手掛ける。私たちの依頼したターキプチは、実はコムシュ(隣人)である悪名高きギュルスン夫人の建物のイスカンを担当した人物。ギュルスン夫人の家に来ていた彼を夫が呼びとめ、例によって後先考えず、「では、あなたにお願いします。よろしく」といってさっさとお願いしてしまったのだった。イスカン申請をするにあたって、まず問題となったのは「保険」のことだった。建築現場で働く職人たちが、間違いなく保険(SSK/社会保険組合)に入っていることを証明する必要があるのである。これについては、日本の方なら首を捻られるのではないだろうか。現場で働く職人たちは、一般には工務店や建築会社に所属する人間。保険は会社側が用意するものであって、施主にその負担義務はないと思う。が、業者を通さず自前でやろうとした私たちは、自ら「雇用主」として職人たちを保険に入れてやる―実際は名前だけ借りて、数ヶ月間保険料を払ったことを証明すればいい―必要があった。が、実はこの保険の件については、基礎工事を始める際に聞かされて知っていた。そして、法律で決まっていて逃げられないことならば、早速始めよう、ということで、その頃現場で働いていた4人の人足のIDカードのコピーなどを集めて、建築家とつるんでいるの元で働く手配師オズギュルに保険手続きを始めてもらったはずだった。保険料がいくらか出してもらうのだと、そのあたりまで私は夫から聞いていたので、とっくにこの手続きは終わっていると私は思っていた。が、手続きなんか何ひとつ行われてなかったのだった!夫を問い詰めると、「保険料を払った覚えもないから、何もやってないでしょう」とのうのうとのたまう。まあ、過ぎてしまったことは仕方ない。今から始めても4~5月頃までかかるだろうから、すぐにでも始めようというわけで、このターキプチ、シェノール氏に保険申請からお願いすることになったのが、昨年の11月末頃のことである。シェノール氏は、保険の申し込みにまず750YTL(約6万8千円)が必要で、ムハセベジ(会計士)に至急渡さねばならないといって、このお金をかなり急ぎで私たちに請求してきた。 このとき申し込みが行われていたとしたら、1ヵ月後から毎月決まった額の保険料を払い込まねばならないはず。毎月の保険料がいくらになるか、私たちは間をおいて何度もシェノール氏に確かめようとした。彼は、「まだ出ていない。来週には出る」などと答える。翌週電話すると、「まだ出ていない。あと2~3日」などという。2~3日後に電話すると、「法律が変わるかもしれないから、その結果が出るのを待ってる」などという。私たちも、他にいくらでも懸案事項があったので、ついつい「思い出せば電話する」程度になっていた。年が明け、2月になり3月になった。さすがに「これはおかしい」と感じ始めた私たち。今年の事業スタートは諦めざるをえないことも、その頃決断した。なので、「大至急」というわけではないが、イスカンを取った後にしなければならない仕事がたくさんあるので、そうそう悠長にもしていられない。なによりルフサット(建築許可)を取得してからイスカンを取得するまでに許されている期間は2年間。こんな風にズルズル引き伸ばされているうちに間に合わなくなっては大変。そして同時に、間抜けなことに気付いた。750YTLのマクブス(受け取り)をもらってなかったことに!さてそれから、シェノール氏への電話攻撃を私たちは始めた。まずは750YTLのマクブス。そして保険の件はどうなったかを催促するために。ところがシェノール氏は、「持ってくる」「明日伺う」「今日立ち寄ったけど、誰もいなかった」「葬式があって来れない」「どこどこだから、アンタルヤに帰るのはいついつになる」そんな言葉を使い分けながら、ジリジリと先延ばしにし続けた。電話すれど、切ってあったり、応答しない日も続出。私たちは遅まきながら戦法を変え、「では、あなたはお忙しそうですから、私たちが直接ムハセベジに聞きましょう。住所、電話番号、名前を教えてください」とムハセベジの連絡先聞き出し作戦に出たが、これにはシェノール氏が怒って拒否し、「ご主人に電話してもらってください。そうじゃなければ教えられない」と言い出す始末。ある日、ギュルスン夫人のところへ来たと思われるシェノール氏を見つけたエルカンが、すかさず呼びとめ問い詰めてくれた。すると、やっぱり!推測したとおり、保険手続きは何一つ始めてなかったのだった!
2006/05/18
今年も桑の実の季節がやってきた。パザールにはもう何週間も前から、大切にパック詰めされた桑の実が出回り始めていたが、初夏らしい燦々とした太陽の下で、ここにきて一気に旬を迎えたようだ。今日の木曜パザールでは、白桑と並んで黒桑も豊富に、そしてタス(金だらい)に入れられて量り売りされるほどになっていた。タスの底には、黒桑から滲み出した濃い紫色の果汁が溜まっている。ああ、旬なのだなあ~としみじみ眺める。昨年の5月、カレイチの地所にある1本の雌の桑の木を眺めては、これをどうすべきか悩んでいた私。桑の木のすぐ脇には、トラベルテン(トラバーチン)を敷き詰めたテラスがあり、毎日根気よく掃いて水で洗い流したとしても、桑の実の残す汚れはトラベルテンの細かい穴の中に入って染みとなり容易には落ちないであろう。心配する私に、周囲の人間は様々なアドバイスをしてくれた。「やれ根っこから切ってしまえ。この木はザラル(害)以外の何ものでもない」「やれ、雄の木を接木すればいいじゃないか」「どうしても桑の木がないといけないのなら、切ってしまって、もういちど雄の木を植えてもいいんだよ。すぐに育つから」しかし私は、どうしても根っこから切ってしまうような気持ちにはなれなかった。接木も、定着するまで何年もかかるのではないだろうか?悩んでいたある日、我が家の前を農業技術者だという人が通りかかったという。私の逡巡を知るエルカンと夫がその人に相談してくれたところ、枝だけを切れば、葉っぱはすぐに茂っても、実は少なくとも2~3年は結ばない、と教えてくれたそうだ。ようやく解決法が見つかって安堵した私は、心を決め、エルカンに頼んで枝を切り落としてもらうことにした。冬のうちに枝を切り落としておくのは、ごく普通の処置ではあるが、ほとんどの枝を切り落とされた裸の桑の木は、さすがに寒々しく痛々しく見えたものだった。しかし今では、ノコギリの痕も鮮やかに裸そのものだった我が家の桑の木に、艶々とした若葉がいくつも開いている。これから夏に向かって、もっともっと葉を茂らせ、枝を伸ばすことだろう。否応なく、植物の生命力に感心させられる。一方、地所のすぐ隣にあるケスィッキ・ミナーレの裏庭では、白1本、黒3本。計4本の桑の木が見事な枝を広げ、毎日少しずつ実が熟しているところである。管理者の逗留していない、常に放置された状態のケスィッキ・ミナーレの庭は、木々と名も知らぬ野の花々と雑草の楽園なのだった。私のこのところの日課は、壊れた柵の隙間から中に入り、桑の実をもいで熟し度合いを確かめること。日陰になっていることが多く、他所の桑の木に比べると随分と晩熟で、黒い方はまだようやく紫色になりかけているところ。白い方がやや早熟で、大きく膨らんだ実をつまんで口に入れると、ほのかな甘みが口に広がる。桑の木の明るい緑の木陰が、とても心地よい。ここの桑の木たちを、まるで我が家の桑の木のように愛でている、今日この頃なのである。白桑の実。完熟は、もう少し先かな。(やけに厚ぼったい手の平が恥ずかしい。。。)
2006/05/17
今月末に迫った上の娘エミのスヌフ・ギュニュの衣装を、そろそろ買うかオーダーしないと間に合わないので、朝からの雨模様が収まるのを待って、繁華街に出掛けた。毎年のようにドレスを買っている行きつけの子供服の店には、今年はまったくいいものが来ていない。なので、前もって値段を聞いておいたゲリンリック(花嫁衣裳)の仕立て屋で、40YTL(約3500円)でドレスを縫ってもらうことにした。シンデレラのペリ(妖精。本当は魔法使いだと思うのだが、ここでは妖精に置き換えられている)役なので、色は白。娘の希望でシンプルなチュール使いに肩口は細い紐だけ。飾り等は仮縫いの時に決めるが、チュールを長いトレーン風に背中から流すことは決まっている。大体のイメージは固まっていたので、あっという間に打ち合わせを終え、前金を払って店を出た。その後、私たちはカレイチの現場へ。娘たちをカレイチへ連れて行くのは久しぶり。カラバシュ(近所の皆に可愛がられている「頭の黒い」野良犬の名)に会いたいよう~と、娘たちの方が行きたがっていたのだ。私たちを迎えた義弟エルカンは、庭の隅に植えられているバラ(ウスパルタ出身の石壁職人にプレゼントされたもの)の方を指差した。細い枝には、白い紙がふたつ針金でくくりつけてある。「今日はフドゥレルレズだろう。願い事を書いて、バラの枝に今日一日下げておくんだとさ。今夜、海に流しに行くから、あなたたちも書きなさい」へえ~っ。そうか、今日がその日なんだね。今日5月6日は「フドゥレルレズ祭り(Hidrellez Bayrami)」*という春の到来を祝う日なのだそうだ。「フドゥレルレズ゙祭り」に関しては、以前リンクさせていただいてるチューリップさんのサイトで拝読したことがあったのだが、身近に見聞きした経験がなかったので、アンタルヤ周辺ではほとんど見られない習慣だろうと無視していた。ましてや今日がその日に当たっているなんて、まったく記憶になかったのである。トルコ人のエルカンも、この日をどう迎えるかに関しては、メルスィンに住むネット友達から聞いたのだと言った。トルコでも、地方によって毎年きちんと祝う地方と名前だけで特に祝わない地方があり、また地方地方によってその祝い方も異なるのであろう。エルカンが言うには、前の日の夜からお祈りを捧げ、願い事を書いた紙をバラの枝に結びつけ、フズル(Hizir)がやってくるのを待つのだそうだ。フズルとは、不老不死の身体を持ち、春になると、困窮している人々の間を廻りながら手助けをしてくれると信じられている聖人で、フドゥレルレズの名前の由来でもある。心のきれいな貧しい人、困っていて手助けを必要としている人の下へやってきて、願い事をかなえてくれるという。向かいのメフメット・アービイ(兄)は、私たちの周辺では最も困窮している人のひとり。エルカンにしても私たちにしても、なにがしかの問題抱え、困っていることでは同様だった。私たちは早速エルカンから紙をもらい、それぞれに願いごとをしたためた。エミは「犬が欲しい」、それから「バドミントンの試合に勝ちたい」。他にも何か書いたようだったが分からない。ナナの方も「犬が欲しい」と書いたようだが、手で覆って隠してしまったので、あとは秘密。私は、もちろん工事のこと、事業のこと、それに必要な資金のこと。その他、家族と生活全般について、日本語で長々としたためてしまった。私には心の底からお願いしたいことが山ほどあったのである。紙を二つ折りにし、針金をフック状に曲げて紙に通す。バラのところへ行き、思い思いの枝に紙をぶら下げる。その後で全員で、両手を開き天に向けイスラム風のお祈りをした。後は、夜になってエルカンが海に流しに行ってくれるはずである。私たちの願いごとは、はたしてフズルに聞き届けられたであろうか。(後で、文化観光省の解説を読んで焦った。ちっとも型通りにやらなかった私たち。。。メルスィンの一部地域のやり方ということで、許してもらおう)皆さんはこの日、何かお願いごとはされましたか?*フドゥレルレズ祭り:フズルの日(Ruz-i Hizir/Hizir gunu)という名でも呼ばれるフドゥレルレズの日(Hidrellez gunu)は、預言者フズル(Hizir )とイリヤス(Ilyas)が地上で出会う日と考えられており、フズルとイリヤスという言葉が結びついて、人々の口から口へと語り継がれるうちに「フドゥレルレズ」という形に変化したものと思われる。民衆の間で古くから用いられている暦によれば、1年は大きくふたつに分けられていた。5月6日から11月8日までが、「フズルの日々(Hizir Gunleri)」と呼ばれる夏の季節。11月8日から5月6日までが、「カスムの日々(Kasim Gunleri)」と呼ばれる冬の季節である。したがって5月6日には、冬の季節が終わりを告げ、夏の暑い日々が始まる意味があり、それがこの日に祭りが行われる理由となっている。(ちなみにグレゴリオ暦では5月6日であるが、ユリウス暦では4月23日であった)フズルとフドゥレルレズの起源に関しては、さまざまな説がある。そのいくつかはメソポタミアとアナトリア古来の文化に帰そうとするものであり、他のいくつかはイスラム化以前の中央アジアにまで遡るトルコ人の文化と信仰に帰そうとするものである。いずれにせよ、フドゥレルレズの祭りとフズルの信仰は、単一の文化の産物である可能性は低い。古代以来今日まで、メソポタミア、アナトリア、イラン、ギリシャ、あるいはまた東地中海全域で、春および夏の到来にちなんで、時に神の名のもとにさまざまな儀式が執り行われているのを見ることができる。トルコでは5月6日は「フドゥレルレズの祭り」であるが、この日はキリスト教徒にとっても春と自然が覚醒を迎える最初の日として認められている。この日はギリシャ正教においてはアヤ・ヨルギ(ヨルゴス)、カトリックにおいては聖ジョージ(ジョルジョ)の日として祝われる。(※訳注:4月23日の間違いだと思われる)****フズルは、最も一般的な信仰によれば、「命の水(ab-i hayat/hayat suyu)」を飲んで不老不死の境地に至り、時々、とりわけ春になると人々の間を廻りながら、困難な状況に瀕している人々に援助の手を差し伸べ、富と恵みと健康を分け与える、アッラーの段階にまで到達した偉人あるいは預言者と考えられている。フズルの身分、住んでいた場所や時代は不明である。フズルは、春とともに姿を現す新しい生命のシンボルである。フズル信仰の広まっているトルコで、フズルに属するとされる特徴は以下のようなものである。1.フズルは、困難な状況に置かれている者の救済に駆けつけ、人々の願いごとを叶える。2.フズルは、心の清らかな善意を愛する人々には常に援助を行う。3.フズルは、立ち寄る場所に富と恵みと豊かさを届ける。 4.悩める人々には力を、病人には治癒を与える。5.植物を芽吹かせ、動物を繁殖させ、人間を力強くさせるよう促す。6.人々に運が開けるよう援助を行う。7.幸運と運命のシンボルである。8.奇跡と驚異の持ち主である。****季節の祭りのひとつフドゥレルレズは、トルコ各地で積極的に祝われる。大都市に行くほど少なくなる一方で、小さな町や村では前もって準備が行われる。この準備とは、家の掃除、服の洗濯、食べ物・飲み物に関した準備である。フドゥレルレズの前には、家々は隅から隅まできれいに清められる。なぜなら清潔でない家にはフズルは立ち寄らないと考えられているからである。フドゥレルレズの日に身につけるため新しい服や靴も購入される。アナトリアの一部の地域では、フドゥレルレズの日に行われるお祈りと希望が認められるよう、喜捨や断食、犠牲を屠るなどの習慣がある。犠牲と供え物は、「フズルのもの」であり、これらすべての準備は、フズルに出会う目的で行われるものである。フドゥレルレズのお祝いは、常に緑地や木々のある場所や、水辺、貴人や聖人の墓などの傍で行われる。フドゥレルレズでは、新鮮な春の植物や新鮮な子羊肉、新鮮なレバーなどを食べる習慣がある。春、初めての子羊を食べた時、健康と治癒がもたらされると信じられている。今日でも、野原で花や草を摘み、それらを茹でた汁を飲むと、あらゆる病気によく効くと、またこの汁で40日間身体を洗うと、若返り美しくなると信じられている。フドゥレルレズの夜、フズルの立ち寄った場所や触ったものには多産と富がもたらされるという信仰により、さまざまな試みが行われる。食べ物の容器、倉庫、財布の口は開けたままにしておかれる。家、ブドウ畑、畑、車を望む者は、フドゥレルレズの夜に望む物をかたどった小さい模型をどこかに置いておくと、フズルが援助してくれると信じられている。フドゥレルレズでは、開運の儀式もまた広く行われている伝統のひとつである。この儀式はトルコ各地でそれぞれ異なる名前で呼ばれている。この儀式は、春には自然とすべての生き物が目を覚ますのと意味を同じくして、人間の歴史も開けるという信仰により、運を試すために行われる。フドゥレルレズの前夜、運を試し、運命(縁)を開きたいと望む若い女性たちは、緑の多い場所や水辺に集まる。中に水を入れた素焼きの壷の中に、自分の所有する指輪、イヤリング、ブレスレットなどの品物を入れ、その口をガーゼのような布で覆った後で、1本のバラの木の根元に置き去りにする。 早朝、壷の傍に行き、ミルクコーヒーを飲みながらお祈りを捧げる。その後で、壷を開けるのに取り掛かる。壷の中の品物を取り出す際、同時にマーニ(民謡の一種)が唱えられる。それにより、品物の持ち主に関する解釈が行われる。フドゥレルレズに独特のこの方法は基本的にこの形で行われるが、地方によって多少の違いが見出される。近年においては、この儀式は単に家に独身で残っている娘たちの運命(縁)を開く目的で行われている。 (以上、文化観光省公式HPより抄訳)
2006/05/06
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