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●『BULUTLARI BEKLERKEN (雲を待つとき/WATING FOR THE CLOUD)』
(監督:イェシム・ウスタオール(Yesim Ustaoglu)/2004年トルコ・ギリシャ・フランス合作/87分)
水分を湛えた緑濃い森林。
脇を、足元を音を立てて流れていく滝や清流。
緑なす高原に点在する石造りの家々。
聞こえるのは牛の鈴の音と、水と風の音と、雷鳴。
そして、谷底から絶え間なく沸き上がり、いつ切れるとも知れぬ雲、雲、雲・・・・。
****
ティレボル。
5年に一度の国勢調査が行われることをニュースが伝えている。
「言語と宗教などの項目について調査が行われる。これに応じない者は・・・」
年老いて介護の必要な「姉」セルマと、ふたりきりで暮らす老女アイシェの家にも国勢調査員がやってくる。IDカードの提出が求められ、聞き取り調査が始まる。
生まれはメルスィン。同居人のセルマは「姉」。
「なぜメルスィンからここへやってきたのか?」「それは・・・」
そこでセルマが倒れ、病院に運ばれるが帰らぬ人となる。
セルマが亡くなって以来アイシェの「家族」は、隣人ファトマの息子で、毎日彼女の家に遊びに来るメフメットだけになってしまった。アイシェを実の祖母のように慕うメフメット。
ある日、納戸にしまわれてあった古い包みの中から、昔の写真を見つけ出したアイシェは、その中の一枚を大切に布にくるみ、肌身離さず身につけるようになる。
やがて、ヤイラに登る季節がやってきた。
拡声器で出発の日が伝えられる。村の人々は背に背に荷物をくくりつけ、牛や山羊と一緒に町からヤイラへと出発する。
足元の覚束ぬ険しい山道。一歩足を踏み外せば谷底に落ちる。山を越え、急流を越え、辿り着いたヤイラには、彼らの夏の家となる石造りの堅牢な家々が彼らを待っている。
アイシェは、ヤイラを包み込む深い霧、雲の中に何かを見出だし、何かを聞いたようだった。一晩中家の外で過ごし高熱を出したアイシェは、メフメットの耳元で思わず「ニコ、行かないで!」と声に出していた。
―ニコとは誰なのか?―
自分が「ニコ」という名前を口にしたことに、アイシェ自身がショックを受けた。それを契機に、アイシェは急速に内省的になっていく。
誰とも話そうとせず、悪魔祓いをしようとする隣人たちに「あなたたちに私の心のうちの何が分かる!?」と怒鳴るアイシェ。
彼女の懐に入れるのは、唯一メフメットだけになった。メフメットは、母親に叱られてもなお、アイシェの元に通い続ける。
村人全員がヤイラを下り村に戻った後も、アイシェは高台に座り、雲を見つめ続けるのだった。
アイシェが雲の中に見ていたのは、遠い過去の自分と、失った家族の姿であった。
心の奥底に封印した彼女の辛い過去の記憶が、少しずつ蘇る。
50年以上口にすることのなかった自分自身の言葉でアイシェは、ルムの女性エレーニとして語り始めていた・・・。
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アイシェの過去を知るには、英語の字幕に頼らねば分からない。
なぜなら、彼女はルムの言葉で語っているからである 。
(※ルム=トルコ国内に住むギリシャ系の人々、もしくはギリシャ正教徒)
彼女の子供の頃の記憶は、最も悲惨なある一時期で留まっていた。
母親の背中で凍死した妹ソフィアの姿。母親が妹を雪の中へ埋める情景。何週間も何週間も歩き続けた疲労と苦痛。そして弟ニコが孤児として連れて行かれるのを、窓ガラス越しに見届けることしかできなかった自分への激しい後悔の念。
時は第一次大戦中の1916年。ロシア軍はルムの人々を利用しながら、黒海沿岸地方を次々に占領していくことに成功する。ロシアは同じ「正教徒」という名目をかざし、ルムの人々を結集させ、武器弾薬を配布するなどして扇動していたのである。
ロシアが東側からなら、西側からはイギリスが別の形でルムの人たちのアイデンティティを煽り、「汎ギリシャ人思想」を植えつけることに成功していた。ルムの人々はオスマントルコ軍に従わず、反旗を翻すような行動をとるようになる。
ルムの人々は、かねてから南下を目論んでいたロシアの侵略目的のため、イギリスに代表される西欧列強によるオスマン帝国の内部からの解体という目的のために、いわば利用されていたのである 。
(このあたりの経緯については、もうひとつのブログの方で後日詳しく紹介する予定)
オスマン帝国軍は、ゲリラの温床となっていたルムの村々から住民を追放し、村を空っぽにする手段に出る。黒海地方を追放されたルムの人々は、西へ、あるいは南へと流罪となっていった。長い長い移動の途中で、一家離散し、家族を亡くし孤児になった者も出た。
アイシェ(エレーニ)が思い出した記憶は、そんな一家離散の記憶であった。
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哀愁あるメロディーが、耳の奥で響く。
水分を含んだ深い緑色が目に眩しい。涙が溢れてきたのは、その眩しさのせいだろうか。それとも・・・。
映画本編も素晴らしい秀作だと思うが、私を心から感動させたのは、本編の製作以前に撮られたと推測される40分近い短編作品『Sirtlarindaki Hayat(背中の上の人生)』であった。
カチュカル山脈に位置する、標高3500mに達するヤイラと村との間を毎年のように往復しながら暮らす黒海地方のある村人たち。彼らは黒海地方に多いラズ人 (コーカサス系の人々で、黒海東部に多く住む)
であり、牧畜を主に生活の手段としている。
毎年夏、2ヶ月から2ヵ月半をヤイラで過ごす彼らは、必要なすべての道具をその背中に背負って運ぶ。背に背に重い荷をくくりつけ、幼な児を肩車するのは、決まって女性である。身体への負担と厳しい気候条件の影響で、坐骨神経痛、ヘルニア、リューマチ、腎臓を患う者もある。赤ん坊も、重病人も、そして遺体も、すべてその背中によって麓の村まで運ばれるのである。
驟雨の中、ぬかるみに足を取られながら、牛や山羊を追い立てながら、険しい山道を登り続ける強行軍からは、健康である限り高齢者さえ逃れることはできない。
昔から連綿と続いてきた習慣であり、それが彼らの人生だからだ。
ヤイラでの素朴な暮らし。牛の乳を搾り、薪を集めてコンロに火をつけ、煮立てた牛乳からチーズを作り、集めた野草を料理する。麦を石臼で挽き、オーブンでとうもろこしパンを焼く。
若者の口からは自然に土地の唱(うた)が流れ出る。木を削り、笛を作る者もいる。男たちが集まれば、踊りが始まり、唄が口を突いて出る。娘たちはボール遊びに興じる。若者の目は娘たちに注がれ、娘たちの目もまた若者たちに向く。
村とヤイラとの往復の中で、彼らは若くして結婚し家庭を作り、子供を産み育てていくのである。
村人たちの憂い、寂しい微笑み、諦めの表情が目に焼きつき、口から漏れるため息までが、唄の一部であるかのように耳に響く。
自分で選択のできない、自らの出自に運命付けられた人生。伝統や習慣、偏見に抗うことのできない人々とその心の葛藤・遍歴。心の旅路が現実の旅へとつながる過程での心の変化などを、抑制された筆致で描くのを得意とするウスタオール監督の真骨頂は、このようなドキュメンタリー作品にこそあるように思えた。
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