2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全16件 (16件中 1-16件目)
1
階段がコタエルようになってきた。通勤時など、なるべく階段を利用するようにしているのだが、以前は一段抜かしで半ば駆け上がるようにしていたのだが、最近は意識しないと、一段づつ上っている自分に気がつく。会社でも、4階から9階の食堂まで行くと、けっこうひざにくる。 もっとも、十年ほど前、仕事で通っていた宮城県庁の二十三階(だったかな)まで駆け上がったら、ゲロしそうになっちゃったけど。今は、とてもそんなことをする気にもなれない。
2004.09.30
コメント(1)
午前中、うだうだと寝ていたら、学校から電話。担任の先生から。奥様に用事らしい。ちょうど、帰って来たところなので、代わると、どうやら「いじめ」とまでは行かなくても、なんかウチのお嬢様もからんでトラブルがあったらしい。 結局、放課後に奥様は学校にでかけ、一応話を聞いてきた。 そこで疑問。なぜ、先生はワタシが出たときに、そのことを話さないのだろうか。ワタシだって、一応保護者の端くれなのに。「へっ、父親なんてどうせそんなもんですよ」と、ひがんでしまう。 まあ、ワタシが教師でも、そんな時間で父親がでても、「こいつ、話がわかるんやろか」と、母親の方に代わってもらうような気がしないでもありませんが。 さて、本質的な問題の方は、「別にいじめとかなんとかいうほどの問題ではないような気がする」というのが、奥様の見解。なんか、一対一のトラブルに近いような。うちのも、口は達者でも、根性はあんまりないので、心配といえば、心配ですが。
2004.09.29
コメント(1)
さて、先日の文化祭見物。考えてみれば、中学からどこかに行くとなると、毎日こんなに電車に乗らなければならないのか(別に、見物に行った学校に行けるわけではないが)と、少しお嬢様に同情したくなる。電車にのれば、変なオッサンも兄ちゃんもいるだろうし。 だいたい、電車に10分乗っただけで気持ち悪くなることもある「みい」だ。「ほんまに大丈夫やろか」。まあ、それ以前に、電車に乗って行くような所に行ければの話ですが。
2004.09.28
コメント(0)
先日、電車に乗ったとき、「みい」は座った。何駅か過ぎたら、よぼよぼとはいえないが、杖を手にした60代ぐらいの女性が乗ってきた。「みい」、「譲ったら」と水を向けたが、結局立たずじまい。まあ、反対側の扉の方にいたから、子どもにとって、どうすればいいのかわからなかったのかもしれない。 でも、やっぱり残念。かといって、強制的に立たせたのでは、意味はないだろう。一応、見本になるようにはしてきたつもりだが。 教育方法を間違えたか。 「くう」は、初めから座っていなかったが。
2004.09.27
コメント(0)
N研の室長サマから、「まじめに学校訪問しなさい」と言われたので、一家で重い腰をあげて、初の学校見物。「まあ、初めは景気良く」というわけでもありませんが、あんまり縁のなさそうな桜蔭へ。 建物、けっこう新しいんですね。確かに、公立中などと比べると、はるかに洗練された建物(最近できた公立はちがうんだろうが)。生徒も概ねまじめそう。茶髪といえるほどの茶髪は見かけず(あれ、染めてるのかなというほどの生徒は数人いましたが)。 クラブの発表などでは、さすがに理系のクラブが目立っていた。「数学」なんていうのは、公立じゃまずお目にかかりませんですよね。でも、ちょっと文科系のクラブに生彩がないような気がしたのは、ワタシだけでしょうか。 お子様たちは、ヨーヨーをただでもらったり、スタンプラリーに熱中したり、生徒たちの手作り景品をあさったり。いったい何を見て感じたのやら。 それでも、百聞は一見にしかず。それなりに参考になるものでした。 「みい」も、毎日親に何も言われずに3時間ぐらい勉強するようになれば、受けてもバチが当たらないような気がするけど、やっぱりバチがあたるだけだよな。 うちの奥様、次は女子学院がみたいそうです。一家そろっておめでたい限りで。
2004.09.26
コメント(8)
日曜日は、「くう」「みい」とも、公民館の敬老行事でソーラン節を疲労するとのことで、おでかけ。月曜日は、「みい」だけだが、学校の必修クラブの音楽クラブが、やはり地区の敬老行事で演奏を披露。 音楽クラブの方は、ちょっと、のぞきにいったけど、親譲りのオンチのためか、けっこう怪しい、でもそれなりに一生懸命に木琴を弾いていた。 その後は、老人たちと一緒にお弁当を食べたとのこと。 ウチではかってもらえないカルピスウオーターをもらえたことに感激していたようだったが、高齢者との「お話」もけっこう楽しかったと話していた。 比較的、なんでも楽しくやってしまう「みい」だが、たしかによその年寄りと話すなんてことはあんまりないよな。 親の世代には、そんな行事まったくなかった。いろいろ言っても、今の学校は、いろんなことをやてくれると思う。 先日、天動説だの、太陽が昇る方向を子どもが知らないなどというのが新聞に出ていたが、そのくらいであわてることはないと思う。 それを子どもが知らないのが不安ならば、日ごろの会話で親が教えてやればいい。たしか、先進国の成人の中で、日本が一番科学的な知識が低いという報道もあった。立派に詰め込み教育をやった世代がそんなもん。大人になった自分たちの、学習意欲がうせていることを棚に上げて、子どもの心配ばかりしてもしょうがない。 そういえば、以前、知り合いと話していたときに、「東京って長野より北ですよね」ととんでもないことを言ったのがいた。それも、長野県に在勤中に。一人前に早稲田を出ていたが。 でも、知識はそんなもんでも、仕事は立派にやっていた。やはり、同じ商売でも、「こんにちは」ではなく「こんにちわ」だと思い込んでいた人間もいたが、仕事では、素晴らしい能力を発揮していた。 まあ、そんなもんでしょう。
2004.09.21
コメント(1)
「くう」が、国語の宿題「一つだけの花」の感想文に難航。 このお話、戦争末期に出征する父親が、事情など理解できるはずもなく、むずかる幼い娘に、父親が一輪のコスモスをあげて、その笑顔を見て、最後にその笑顔を見て戦地へ向かい、帰ってこなかったというもの。 「くう」の感想は、もっぱら、子どもがおなかいっぱいおご飯やおやつを食べられなかったことに向かった様子。無理もない。さまざまな言葉や情景から、そのときの父親や母親の心を読み取れればいいのだろうが、いくら親や先生から、当時の時代背景を説明されても、理解できないだろうな。 そもそも、親自体が、高度成長期生まれ。先生も、年配とはいえ、戦後生まれ。娘の年代なら、祖父母も戦後生まれがいるぐらい。自分たちも、どこまで理解できているものやら。 難しいかどうかは別として、国語の教科書の扱っている題材を考えると、けっこう面白い。 3年生の時には、「忘れられない贈り物」(スーザン・バレイ)なんかもでていた。死について考えさせられる絵本として、柳田邦夫も高く評価していたっけ。 4年生の後半には、新美南吉の「ごんぎつね」も登場するが、先日読んだ本に「ごんぎつねをめぐる謎」(教育出版、府川源一郎)などという本があった。なぜか、ほとんどの教科書で扱われているという、「国民的教材」らしい。最初は磯野家のナゾの親戚かと思ったが、ぎつねの成立にあたって、南吉の原稿を鈴木三重吉が大幅に手を加えた事実、教科書に掲載するにあたって、以前は筋が捻じ曲げられたことも書かれており、けっこう面白かった。 そういえば、今は教科書から消えたらしいが、自分が6年生のときに読んだ教材でよく覚えているのが、「最後の授業」。当時は感動したのだが、これがある意味でトンデモない話だったと、後に知った。 だからなんだといわれても困るが、国語の教科書の影響力って、絶大なものがあるんだよね。親も時には読んでみるといいですね。(ヒマなんですね)。
2004.09.20
コメント(1)
自分の加入している御用組合がストなど打つはずもないことを知っているだけに、せめて古田にだけはストを打ってほしいと願い、うだつがあがらない自分を棚にあげて、娘に勉強しろとがなりたてている自分が悲しくなるきょうこのごろです。 でも、いつの間にか「ストは、無能な弱者の恐喝的な手段」とでも、いうような雰囲気が醸成されているきょうこのごろ。このまま、シーズンが終わってしまっても、いいではないかと、お金持ち組合に期待してしまいます。
2004.09.16
コメント(4)
いや~、なんと親切な会社だ。「よむべき本」なんていうものを、メールで送ってきてくれる。 今に、小学校のように、読書感想文なんてものも書かせられるのではないだろうか。そして、点でもつけてくれるのではないか。 いや~、会社ってありがたすぎて、涙が止まりません。
2004.09.15
コメント(5)
やめたはずのチャレンジ。未明に帰って来ると、机の上に「くう」の手紙。 「チャレンジやらなくてごめんなさい。ぜったいやりますから、続けさせてください」との内容。 今度は、9月末を期限に、文字通り、再チャレンジのチャンスを与える旨、返事の手紙を書いておいた。 甘いのかな。だけど、ここでやめちゃうと、残るものは何もない、いや、マイナスだけ残りそうだからな。とにかく、9月末の期限までに、なんとかやってくれれば。 それにしても、おまけが魅力なのか。よく、あれだけ言われても、続けたい意欲だけはあるんだなと、ヘンに感心してしまった。
2004.09.14
コメント(1)
「くう」がやっているチャレンジ。また、どんどんたまっている。「やれ」といってもやらない。期限を切ったが、結局ほとんどやろうとしないので、退会の電話をかけた。 わからないところがあれば、みてやるのに、どうも見られるのがイヤと、隠す。わからないところがそのままになり、たまるのだろうか。それ以上に、やる習慣がつかないからなのだろうか。 通信教育の教材って、みんなちゃんとできるのかな。 もっとも、退会の被害者は「みい」か。やめてしまえば、自分が付録やおまけの読み物などで遊べなくなるから。一生懸命、「みい」に「やりなよ」とか、「うちがやってもいい?」などと言っていた。
2004.09.11
コメント(5)
異端審問。中世のヨーロッパを吹き荒れた、カタリ派などのローマカトリックから見た異端を、調べ上げ、転向を迫ったり、多くは処刑した、キリスト教のヤミの部分。 「異端審問」(講談社現代新書、渡辺昌美著)を読むと、宗教的な情熱にかられた、カトリック系の修道士たちの異端狩り、あるいは、逆に異端の側のこれまた熱狂的とも言える殉教への意思などがうかがわれる。さらには、宗教的なものだけでなく、経済的な側面も。 さて、ここで異端狩りを特に熱心に進めたのが、修道院。この本では、特にドミニコ会の問題が大きく扱われていたが、ドミニコ会系の学校も、けっこう日本にはあるんだろうな。 もちろん、私立中、高も。それらの学校で、世界史を教えるときに、これらの異端狩りなどは教えるのだろうか。学校説明会などの時に、そんなことを聞く人はいないだろうけど、ちょっと、聞いてみたい。 なにも、ドミニコ会だけではない。イエズス会だって、ある意味では侵略の尖兵として活躍した過去があるのだし。上智なんて、どうしてんだろう。キリスト教系の学校って、これらの過去にどう対応しているのだろう。 今度、説明会でも言って、聞いてみようかな。多分、受けそうもない学校で。
2004.09.10
コメント(2)
なんでも、「くう」が学級委員になったとのこと。しかも、自分から手を挙げたとか。つまらないこと(親から見れば)を気にしすぎて、すぐにクヨクヨする性格(これも親から見てのこと)だったはずなのに。 いったいどういう風の吹き回しか。 でも、人間、変わることがあるから。どういう理由か知らないが、そういうことに意欲を持つことは、ほめてやらにゃいかんだろうな。 それにしても、相方も女の子という。昔は、男と女一人づつというのが決まっていたような気がするが、今はそんなことないのかな。なんでも、男の子はだれも手を挙げなかったとか。 いまどきの男の子は、そんなものなのだろうか。
2004.09.08
コメント(0)
まったく救いようのない、北オセチアのテロ。その中で、毎日新聞(9月5日付け3面)にこんな記事が出ていた。「発生当日に人質のいた体育館から出てきた女性メンバー2人が、身に付けていた爆弾で自爆した。内部対立が理由となった可能性があるという。」 もし、多数の子どもたちを道連れにするような作戦に対し、この2人が反対し、このような行動に出たとしたら、この事件のただ一つの救いになるような気がした。
2004.09.05
コメント(1)
4日に書いています。北オセチアで、ロシア治安当局突入。多数の死傷者とのニュース。 そこで「みい」が、きょう、(突入前の時間帯ですが)学校の道徳の時間に、別のことをやる予定を変更して、この北オセチアというか、チェチェン問題をやったとか。 「えっ」という感じ。 果たして、どのようにやったのか。ただ、「テロは非道」というニュアンスでもなかった様子。 この問題、私に解説しろといわれても、非常に難しい。いや、できるわけない。でも、やろうとした意欲は買える(ちょっと、エラそうに言ってしまいました)。先生は、32歳の男の先生。子どもはどこまで理解できるか。先生も、どこまで理解できたか。その場にワタシもいたら、どこまで理解できるか。そもそも、こういった問題を「理解する」とはどんなことか。 でも、少なくとも、子どもたちに考える機会を与えてくれたことはよかったのではないか。
2004.09.03
コメント(0)
いったい、何匹の金魚が、うちの庭に埋葬されているのか。 また、28日に近くの祭りで金魚すくいをやってきたとのこと。今回は最中すくいで、「みい」が珍しく実力で4匹「くう」も1匹を実力ですくってきたという。 それにしても、金魚すくいの金魚ってなんであんなに死んでしまうのか。それなりに環境を整えてやったつもりだが、その5匹も、徐々にお亡くなりになり、9月4日時点で2匹に。まあ、この2匹はけっこう元気そうだけど。 7月18日にすくった金魚は、いまや一匹が残るのみ。 もしかしたら、金魚すくい業者は、「金魚が長生きすると、すくう子どもがいなくなるとおもって、劣悪な環境に金魚を置いて、早死にさせようとたくらんでいるのでは」などと考えてしまう。 でも、金魚すくいサイトをみると、「なるべく弱っている金魚を狙う」(暴れてぽいが破れないから)などと書いてある。数をすくえばいいというのか。死んでる金魚を狙えばいいのか。 もしかしたら、子どもたちは、劣悪な環境から金魚を自らの手で救い出そうと、乏しい小遣いをだして、「金魚救い」をしているのだろうか。 3年前?に「救った」金魚2匹は、もう体長10センチを超えている。2人の慈悲が実を結んだのか。
2004.09.01
コメント(0)
全16件 (16件中 1-16件目)
1