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超能力者列伝12(秋山眞人)その惑星の建物も不思議な形をしていたと、秋山は言う。旧約聖書に出てくるバベルの塔に似た建物がたくさんあった。「渦巻き状のデコレーションケーキみたいな建物」だ。ピラミッド状の建物もあり、それらの形状はすべて、波動的な意味があるという。宇宙人は秋山に、「そういう形自体が、そこで暮らす人達の意識を守ったり波動を高めたりする作用があるのだ」と説明したそうだ。秋山によると、そうした建物はそのまま母船型UFOになるのだという。住宅兼宇宙船というわけだ。それが高層マンションのように立ち並んでいる。「その光景は圧巻であった」と秋山は語る。街中の道路は舗装されておらず土の地面だが、水晶のようなガラス質のものが敷き詰められており、キラキラと光っていた。宇宙人はガウンのようなものをまとい、顔立ちはハーフのような美男美女が多かったという。その宇宙人たちは各自、自分の情報が記録されている小さな石のカードを持っていた、と秋山は言う。地球のIDカードのようなもので、このカードを使えば、食品などの必要物資が支給される。カードの表面には象形文字のようなものが書かれていた。秋山の解釈では、そのカードでどれだけ支給してもらえるかは、その人がどれだけ創造的な働きをしたかによって違ってくる。カードには、その人がいかに創造的に想念を使ったかが記録され、それに応じた物品が支給されるのだという。秋山はこうも説明する。この惑星の人には、いわゆる「競争」や「闘争」という考え方がない。人と人を比較するという概念もほとんどない。勝ち負けがあるスポーツもないのです。ではどうやって文明を発達させるかというと、独創性・創造性を発揮してどれだけほめられるかという価値観が原動力になるのだと思います。秋山はその惑星のスポーツも目撃した。もちろん、そこには競争はない。「ポスポス」と呼ばれるサーフィンのような遊びだという。まず、気功でやるように両手のひらを向かい合わせ、手のひらの間にある種のエネルギーを作り出す。「思念によって空間からエネルギーを抽出する」のだという。宇宙人はその抽出したエネルギーを、両手を広げながらまるでゴムを伸ばすように帯状にして、そのまま縄跳びをするように腕を2,3回回転させて体の周りにめぐらせる。すると周囲にエネルギーの球ができあがり、その宇宙人はすっぽりとそのエネルギー・ボールに包まれる。まるで大きなシャボン玉の中に宇宙人が入ってしまったようになる。準備が整うと、宇宙人たちは思念力によって「シャボン玉」を浮き上がらせ、惑星の大気圏外ぎりぎりのところまで飛び上がったり、サーッと降下したりを繰り返す。上下左右、緩急、自由自在に飛び回る。まるで宇宙サーフィンだ。エネルギーの玉は、中に入っている人のオーラに反応して色とりどりに輝く。「たくさんの光が乱舞する姿はとてもきれいだった」と秋山は言う。(続く)=文中敬称略
2005.03.31
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超能力者列伝11(秋山眞人)秋山眞人の驚異の体験に話を戻そう。秋山は、宇宙人の母星であり、秋山にとっても「ふるさと」であるともいえる太陽系外の惑星に向かった。大気圏外で母船に乗り換える方法で、だ。母船の中では、たくさんの宇宙人が歩き回っていたという。お互いの挨拶はきわめてシンプルで、瞬間的に目をパッと見ただけで相手の意識や気持ちの状態がわかるのだそうだ。だから日本人のようにぺこぺこ何度も頭を下げて挨拶するような必要はない、日本人は相手側の気持ちがわからないから不安になるので何度も挨拶をしてしまうのだ、と秋山は言う。宇宙人は言葉も使うが、小鳥のさえずりを聞いているような独特な響きがあったという。母船に乗って数時間でその惑星に着いたらしいが、不思議なことに秋山は着陸の様子をあまり語らない。ただ、丸2日間滞在したというその惑星の様子については、かなり詳細に語っている。「地球と違って2つの太陽があった。1つはやや小さめで、2つとも色はわれわれの太陽と同じような色をしていた」と、秋山はその惑星について語る。太陽が昇ってから沈むまでの時間や、1日の長さは、「私の感覚では地球とそれほど変わりがなかった」そうだ。秋山によると、その惑星の環境は地球の自然環境とよく似ていたが、植物や昆虫が地球よりもかなり大きかったという。あるとき秋山は、大きな花に向かって三〇センチぐらいある蜂がブーンと飛んできたのを見た。その蜂は地球上にいるスズメバチと似ており、黄色と黒のまだら模様になっていた。秋山はギョッとした。刺されるのではないかとの恐怖心が沸き起こった。ところがよく見ると、針がない。お尻のところがツルンとしていて、突起がまったくなかったのだ。バラの花のような植物もあったが、そこにも棘はなかった。秋山はそのとき、こう思ったという。おそらくこの惑星のすべての生物は、地球の生物と同じような進化過程を経て発達してきたのだろうが、相手を攻撃するような「闘争的な根拠となる形」を捨てたのではないか、と。言い換えれば、地球の生物よりもかなり以前に、闘争という想念を捨て去った。それを秋山は直感的に把握することができたという。宇宙人はそうした秋山の思考を読み取って、次のように秋山に語った。宇宙人が初めて日本に着陸したのは北海道だった。宇宙人たちは最初、北海道の恵まれた自然に触れ、非常にうっとりした。ところが、ものの数分もたたないうちに、そこの生命のすべての波動、つまり個々の細胞の中にある波動が非常に闘争的な想念の中に埋没していることに気づき、痛ましく思ったという。地球は救いようのないほど野蛮な惑星だったのだ。しかし、秋山が感動したのは宇宙人の次の言葉であった。「よし、我々は見せ続けよう。この宇宙には我々のような生き方をしている者がいるんだということを。我々の(闘争的でない)想念をこの地球にもたらし続けよう」――。秋山は言う。「宇宙人のすごいところは、『地球は駄目だ』と言って、地球を見捨てて帰ったりしなかったことです。それに宇宙人は絶対にこうしろと命じることはありません。ただ、人間が発達するとこうなるのだということを見せて、地球のことは地球人自身に決めさせるわけです」(続く)=文中敬称略
2005.03.30
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超能力者列伝番外(横尾忠則と惑星間の転生)実際にこうした惑星間の転生を記憶している人、あるいは自分がそうであることに気づいている人は、秋山眞人のほかにもいるのだろうか。おそらく、大勢いると思われるが、その実態はよくわからない。画家の横尾忠則もその一人ではあるのだろう。UFOコンタクティーであると公言してはばからない横尾忠則は、次のような体験をしたと書いている。横尾が仕事で屋久島のホテルに滞在中、ホテルの裏に広がる松林越しに海を見ているときだ。日は暮れて、空には星が瞬いていた。・・・(略)そのとき突然ワシ(注・横尾忠則のこと)の魂がワシに語ってきた。頭上には和志(ワシ)の故郷のシリウスが瞬いているのが見えるか。シリウスで発生した和志の魂は宇宙を彷徨すること五百万年にもなる。この銀河系の彼方の第三惑星の地球に降りてどれくらい時が過ぎたのだろう。和志の魂は今横尾忠則の肉体を借りている。棲み心地はもう一つだ。なかなか和志の思うようになってくれない。一体和志をいつまでこの地上に留めさせたいというのだ。和志は一日も早く和志の故郷のシリウスに帰還して未来永劫、神の懐で輝き続けたいと思っとるのじゃ。和志のこの叫びが聞こえぬか、横尾忠則。一日も早くカルマの輪廻から脱却して和志の元へ来たれ。(横尾忠則『私と直感と宇宙人』文春文庫より)横尾は直観力の優れた画家である。この「ワシの魂の叫び」がどれだけ客観的な体験であったかは知る由もない。感覚が鋭すぎるのだとの指摘もあろう。それでも、ここにあるのは紛れもない、宇宙をさまよう魂の輪廻転生の思想であり、カルマの物語である。横尾の魂が語りかけてきたように、あるいは秋山が語るように、魂は星から星へと転生を繰り返すのか。その確証を持つ人は少ない。そのため、すべては直感にゆだねるしかない。エマニュエル・スウェデンボルグもまた、宇宙を旅し、いくつもの星々をさまよい歩いたと主張する人物である。その模様は彼が1758年に書いた『宇宙間の諸地球』に詳しい。それによるとスウェデンボルグは、水星、木星、火星、土星、金星、月に住むそれぞれの霊たちと「想念の交換」をしたのみならず、おそらくは太陽系外の5つの惑星の住人の霊と交流したという。それぞれの惑星の霊は、必要ならば果てしない宇宙を旅して、別の惑星の霊と自由に情報交換することも可能らしい。ただしスウェデンボルグは、輪廻転生は認めつつも半ばそれを例外的に扱っているので、惑星間の輪廻転生については触れていない。それでも精霊界における惑星間の交流が頻繁に行われているのであれば、彼もまた惑星間の輪廻転生を認めないわけにはいかないだろう。(文中敬称略)
2005.03.29
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超能力者列伝番外(竹取物語と惑星間の転生)かぐや姫が前世からの因縁により地球に来たと語ったのは確かだとしても、一体どのような因縁であったか、月の世界とはどのようなところであるのかについて、『竹取物語』は詳細を明らかにしていない。しかし、月の世界の住人が空飛ぶ車に乗って翁の家にやって来たときの描写や翁とのやり取りから、月の世界の住人の様子やかぐや姫の因縁をある程度、推測することはできる。まず、月の世界の住人とはどういう人達であろうか。「装束の清らなる事、物にも似ず」とあるように、見たこともないような美しい着物を着ていた。そして、うすぎぬの蓋(かさ)をさしていたという。この描写に関して言えば、神仙人のようであるが、面白いのは、かぐや姫が、天人が用意した羽衣を着ると、翁と話ができなくなってしまうということだ。聖徳大学の山口博教授は、この羽衣こそ空飛ぶ車、すなわち宇宙船に乗るための宇宙服であったのではないか、と想像を膨らませる。それにも増して驚かされるのは、空飛ぶ車に代表される高度な「科学力」だ。空飛ぶ車は地上数メートルのところでホバリング(滞空)できたというのだから、ただのグライダーのような乗物でないことがわかる。しかも、灯りといえば油ぐらいしかない時代に、真昼以上に明るいライトで周囲を照らしたというのだから、当時の人々はあっけにとられただろう。もちろんこうした現象は、天人を宇宙人、空飛ぶ車をUFOと解釈すれば、すべて簡単に説明できてしまう。とにかく「月の世界」と地球の間には、科学力で圧倒的な差があったことは明らかだ。実は秋山眞人の話と『竹取物語』の間にはかなり共通する点がある。『竹取物語』では地球は流刑地のように描かれているが、秋山によると地球は一時期、一種の刑務所で、「流刑地として進化」したことがあったという。「宇宙人のなかでも、哺乳類系で宇宙の秩序を破った連中が地球に送り込まれ、ある程度力を奪われて、地球人として転生した」と秋山は言う。また、ベクターが秋山眞人の「魂の系図」を知っていたように、『竹取物語』の天人も翁の素性をすべて知っている様子であることも興味深い。天人(宇宙人)は、地球上の個人情報をすべて持っているかのようだ。月の世界を、文字通り月にある世界であると考える必要もない。たとえば秋山眞人は、アダムスキーが言う金星人も金星の基地に住んでいる宇宙人という意味であると述べている。それぞれの宇宙人は母星の正確な位置を教えたがらない。それは、それを教えてしまうと、地球人の想念がその惑星に向かって悪影響を与えるからだと、秋山は説明する。それが本当だとしたら、月の世界の住人とは、月の基地にいる宇宙人ということになる。さて、かぐや姫の「因縁」については、全く推測するしかないが、かぐや姫は月の世界で罪を犯したという。この犯した罪が、かぐや姫が翁に説明した「前世の因縁(昔の契り)」と同じかどうかはわからないが、そういうカルマを意味するのであれば、同じとみていいだろう。おそらくかぐや姫は、月の世界(別の惑星)での前世において、地球とかかわるような何らかの使命を帯びた。あるいは地球での遠い前世において「罪」を犯した。その罪を償うため、つまり、カルマを解消するために、再び地球にやって来たのではなかろうか。『竹取物語』はフィクションであったかもしれない。だが、そこには確実に、惑星間の輪廻転生という壮大な宇宙哲学が隠されているのである。(続く)=文中敬称略
2005.03.28
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今日(27日)は地震雲と思われる雲を東京・渋谷の上空に見たので報告します。最初に目撃したのは午前10時50分ごろ。東の地平線から西の地平線にかけて棒状の雲がスーッと伸びていました。その後、秩父宮ラグビー場へ全早大対全明治の試合を観に行ったのですが、試合中はもちろん午後5時ぐらいまで地震雲と思われる雲が観測できました(試合は全早大が40対31で勝利)。いずれも東西方向でした。午前中の雲がいちばん分かりやすかったと思います。東の空から西の空まで空一面を長い棒状の雲が覆っていました。東西ともに、ほとんど水平線近くまで伸びているので、どちらが「震源地」となりうるのかはわかりません。心なし東の方かな、と思う程度です。もちろん、地震雲と地震の関係が完全に解明されているわけではありません。あくまでも、地震予知の参考になるかどうかという段階です。その雲が示す方向を磁石で測ったところ、東西方向から10度ほど時計回りにずれていました。地図上でいえば、東は千葉・幕張、西は青梅市を結んだ線です。上の写真が青梅方向で、下の写真が千葉・浦安方向です。撮影時間はそれぞれ、午前10時51分と同53分です。
2005.03.27
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超能力者列伝番外(竹取物語と惑星間の転生)犯した罪により、地球へ島流しならぬ「星流し」になったというかぐや姫――。まず不思議なのは、かぐや姫はどうやって、自分が月の世界から来たことを知ったのかということだ。『竹取物語』にはその方法・経緯についての言及はない。月の世界から手紙(文)でも届いたのであろうか。そのような「物証」が残っていれば、『竹取物語』の執筆者もそれに触れたであろう。だが、そのような文は多分なかった。では、かぐや姫は自分の過去生を思い出したのだろうか。その答えはイエスだ。かぐや姫は少なくとも自分の前世を、何らかの方法で思い出していた。それはかぐや姫が翁に次のように語ることからもわかる。「前々から申し上げようと思っていましたが、(申し上げれば)『きっと動転なさることだろう』と思って、今まで申し上げないできてしまいました。『申し上げずにばかりは居られませんでしょう』と思って、申し上げるのです。私自身はこの人の世の者ではありませんで、月の都の者でございます。それを、前世からの因縁がありまして、そのために、この人間社会にやって来たのです。今は、帰るべき時間になりましたので、今月十五日に、あの、昔住んでいた月の都から、迎えに人々が来ようとしています。迎えをことわることはできませんで、お別れしなければなりませんので、そのときお爺さんたちがお嘆きなさろうことを思うと、それが悲しくて、今年の春ころからため息をついていたのです」(講談社学術文庫『竹取物語』全訳注・上坂信男より。以下同様)このことから、かぐや姫が自分の過去生を知っていた、しかも、「月の都」で送った過去生があったことがわかるわけだ。しかし、ただ過去生を思い出しただけでは、月の世界から決まった日時に迎えが来ることを知ることはまずできない。かぐや姫と月の世界の住人との間で、事前に何らかのコミュニケーションがあったと考えるべきであろう。どういう通信手段であったのか。手紙などの物証を残すことなく、そうしたコミュニケーションがあったとすれば、現代であれば、電話やインターネットを思い浮かべることができる。だが、かぐや姫の時代にはそのような文明の利器はなかった。そこで考えられるのは、秋山眞人と宇宙人が交わしたようなテレパシーを使った交信である。そうした交信が可能であるならば、テレパシーこそ、かぐや姫が過去生や自分の素性を知り、なおかつ、八月十五日に月の世界から迎えに来ることを知ることができた、最も説得力のある説明になるのだ。秋山が「過去生における約束によって地球に転生してきた」と主張するように、かぐや姫もまた「前世からの因縁」により地球に転生してきたと考えられる。少なくとも、かぐや姫はそう主張しているように思える。古典の原文では、「前世からの因縁」は「昔の契(ちぎり)有るによりてなん」と記されている。「昔の契」とは、宇宙的なカルマ、つまり秋山がベクターから告げられた「生死を超越した何万年もの長きにわたる約束」のようなものであったのだろうか。(続く)=文中敬称略
2005.03.27
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超能力者列伝番外(秋山眞人と惑星間の輪廻転生)秋山が前世で宇宙人の惑星の住人であったことを告げたのは、ベクターであった。それは秋山が、なぜ自分に接触してきたかをベクターに聞いたときだった。「君とわれわれの間には約束があった」とベクターは答えた。それも、とても古い時代に交わしたもので、秋山と彼らの間には生死を超越した何万年もの長きにわたる約束があるのだという。ベクターはさらに、秋山の「魂の系図」を見せて言った。「君のルーツ、流転を含めて、君を評価している。そういう君と会うことは、われわれにとって意味がある」その系図によると、秋山ははるか昔にその惑星の住人であったことがあり、そのときにある約束をした。その約束を果たすために、秋山は地球に転生してきたのだという。ベクターは続けた。「その約束によって、われわれも君に会いに来ているのだ」なんということか。一つの生から別の生へと、何生にもわたる時空を越えた約束があった。人間は惑星間で輪廻転生を繰り返しているのだろうか。確かに地球上で一つの国から別の国へと輪廻転生がなされているのであれば、宇宙において一つの惑星から別の惑星へと輪廻転生していたとしても不思議ではない。当然、にわかには信じ難い。だがこうした考えは、昔からあった、あるいは昔の一部の人は知っていたのではないかと私には思われる。それを裏付けるのが、私たちのよく知っている『竹取物語』だ。『竹取物語』は単なる昔の御伽噺とされているが、実はそんなに単純な話でもない。そこには仏教的教訓説話や地上的輪廻転生物語を超えた、壮大な宇宙のストーリーが隠されているように思う。このかぐや姫の物語は、平安時代前期に書かれたとされるだけで作者もわかっていない。『源氏物語』絵合(えあわせ)の巻に「物語の出で来はじめの祖(おや)」、つまり物語の世紀の幕開けとなった記念すべき作品であると紹介されている。ストーリーは誰でも知っていると思うので省略するが、重要なポイントはかぐや姫が地球に降りて来た理由である。その部分を抜き出してみよう。かぐや姫が月の世界から迎えが来ると予告した八月十五日の満月の晩、月の都(月面基地)から空飛ぶ車(UFO)でやってきた天人(宇宙人)が、かぐや姫を育てた翁に話しかける場面である。「お前、分別のない者よ。ちょっとした功徳を、爺、お前が積んだので、お前の手助けにと思って、少しの間と言って(翁のもとへ、かくや姫を)下したのに、多年、たくさんの金を与えられて、昔の翁とは思えないほどになった。かくや姫は、罪を犯されたので、こうして、身分の低いお前のもとに、しばらくの間、身を寄せられたのである。罪の償いもはたされたので、こうして迎えに来たのに、翁は泣いたり嘆いたりする。(いくら泣いても)かくや姫を引き留めることはできないことだ。早く姫をお出し申し上げよ」(講談社学術文庫『竹取物語』全訳注・上坂信男より)つまりかぐや姫は、「月の世界」かどこかで罪を犯した、そして、地球に流されて罪の償いを果たしたという。では、月の世界とは何か、どんな罪を犯したというのか。地球は流刑地なのか。それよりもどうやって、かぐや姫は八月十五日に月の世界から迎えが来ることを知ったのか。ここには、いくつもの謎がある。その謎解きはまた明日。(文中敬称略)
2005.03.26
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超能力者列伝10(秋山眞人)最初に秋山の目を引いたのは、円盤の底部にある動力部だった。「フリーエネルギーを宇宙空間から生産するような」ある種のモーターがあった、と秋山は言う。そのモーターはスズメバチの巣のような六角形のパイプの集合体で、そういう短いパイプを集めたような板が7層重ねになっており、その中の空間が明るく光ったり薄れたりを、まるで呼吸しているかのように繰り返していた。モーターからは軽い振動音が聞こえており、モーターは3本ほどのケーブルで円盤と接続されていた。円盤内部の壁や床は「フリーエネルギー(注:おそらく無限に抽出できるエネルギーのことであるとみられる)」の力と連動しており、そのすべては乗り込んでいる宇宙人の意識とも連動していたという。すなわち、円盤自体が宇宙人の想念によって動く、一つの生き物のようになっていたわけだ。コントロールセンターとみられるところにはスクリーンが何枚もあって、そのスクリーンの前で宇宙人が自分の意識から出る波動を調整していた。その波動はスクリーン上で、図形に変換される。図形がきれいに描ければ、円盤はスムーズに進むのだという。その日は秋山が船酔いのようになって嘔吐してしまったので、操縦訓練まで至らなかったが、次に乗船したときからはUFOの操縦にも挑戦したという。スクリーン上の図形が楕円とか球形に近づけば、操縦はスムーズにいくのだが、秋山がやると、メチャクチャな図形が現われる。するとUFOもあっちへ行ったりこっちへ行ったりフラフラする。意識を鎮めても、なかなかうまくいかない。その後何度も円盤に乗船、訓練を重ね、上手とは言えないが何とか操縦方法を習得したという。秋山は合計で母船型には20回、小型UFOには200回以上乗船したことがあるというから驚きだ。秋山はUFOに乗って別の惑星にも行ったと主張する。太陽系では水星と金星に行ったという。どちらにも都市が築かれ、いろいろな惑星から来た宇宙人が太陽系の中継基地として利用しているのだそうだ。月の裏側にも地球に行く場合の中継基地があり、「どんな宇宙人もそこから地球にやって来ている」という。別の惑星に行くときは、小型の円盤から大気圏外で母船に乗り換える。所要時間は数時間だという。秋山は、さらに遠くの太陽系外の惑星にも連れて行かれた。具体的にどこにある星であるかは明らかにしていないが、カシオペア座の方向にある惑星だという。実はこの惑星、秋山にとっては非常に因縁のある惑星であった。秋山が前世でこの惑星に住んでいたというのだ。その惑星とは、秋山に接触した宇宙人の母星でもあった。(続く)=文中敬称略
2005.03.25
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超能力者列伝9(秋山眞人)秋山が商店街で出会った宇宙人にも、「レミンダー」同様に名前がなかった。男は言った。「私たちには名前がない。しかし、このままではあなたが混乱するので、仮に“ベクター”と呼んでください。いいですか、ベクターですよ。あなたが今度、この名前をイメージしたときには、私はもうあなたのそばにいます」それ以来ベクターは、秋山が行く先々に現われるようになった。今風に言えば、ストーカーと同じである。しかし、見張られているというより、見守られているという感じだったようだ。とくに、秋山が精神的に落ち込んだりしていると出現することが多かった。宇宙人のカリキュラムが進むにつれ、様々な未知の超能力的な体験が続いたため、秋山が無意識のうちにベクターに助けを求めていたのではないだろうか。ベクターはいつも「私たちは兄弟だ。友達だ」と言っては、しきりに不安を取り除こうとしていたと秋山は言う。テレパシーによるコンタクトから始まって、宇宙人との面会に至り、秋山はいよいよ次の段階に進むことになった。彼らの宇宙船である円盤に同乗・操縦することになったのだ。しかし、その前には訓練が待っていた。自動車教習所のシミュレーションのようなものだ。テレパシーで小型円盤内部の立体影像が毎晩のように送られてきて、秋山はそのイメージの中で操縦訓練をした。操縦は精神力によって行われた、と秋山は言う。目の前のスクリーンを見ながら、小型円盤を母船に着艦させる。最初は母船の横腹に衝突して、そのたびに「意識が急激に落下していくような感覚で、自分の体に意識が戻ってきてしまう」。しかし、そんな失敗を繰り返しながら、イメージの中ではうまく操縦できるようになっていった。イメージ訓練が終われば、次は「路上訓練」だ。秋山はそのころ18歳になっていた。その日は、富士山の2合目まで来るようにテレパシーで告げられたという。夜8時ごろ、秋山が樹海近くで待っていると、突然、空中が光った。次の瞬間、テレポーテーションして来たのか、そこに直径10メートルぐらいの円盤型UFOが現われた。円盤からはビームではなく、タラップが降りてきて、秋山はそのタラップを使って円盤に乗り込んだ。円盤の内部は、光源がないのに部屋全体が明るかった。入り口はハッチ式だったが、ハッチが閉まると、継ぎ目が見えなくなった。勧められるままにメタル感のある椅子に座ると、その途端に椅子は秋山の体にフィットするように形を変えた。円盤が発進すると、五分ぐらいは身体に風が通り過ぎるような感覚を覚えた。見るもの見るものが不思議で、驚異に満ちあふれていた。(続く)=文中敬称略
2005.03.24
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超能力者列伝8(秋山眞人)駅前商店街に入ると、秋山の胸騒ぎはますます強くなった。心臓の鼓動もドンドン激しくなる。そのとき、前方の人ごみの中から、ビジネスマン風の男性が秋山に向かって歩いて来るのに気がついた。その男性は、クリーニングしたばかりのようなパリッとした背広とワイシャツを着て、赤いネクタイをしていた。一見すると、普通の人なのだが、妙に気になる。その男性も秋山を見つめ、まっすぐと正面から歩いて来る。秋山が「ぶつかるからよけなくては」と思い、進路を変えると、向こうもその方向へ変えてくる。いよいよおかしい。また、体をそらすと、その男もそちらへそらす。そしてとうとう、秋山の前でスーッと立ち止まった。近くでよく見ると、「普通のわれわれのような人ではないんです」と、秋山は述懐する。「独特な目なのです。それは非常に優しいようで、その奥に荘厳な厳しさといいますか、そういうものをキープしている独特の目なのです」そのとき突然、頭の中で「秋山さんですね」という声が鳴り響いた。秋山はびっくりした。そして、もしやと思って、「宇宙の方ですか?」とテレパシーで呼びかけた。するとその男は、今度はちゃんと口に出して「そうです」と言う。「とにかくお話しましょう」と男は言うと、秋山の背中に手を当てて、繁華街の地下にある喫茶店へと導いていった。喫茶店での会話はテレパシーではなく、口頭で行われた。もちろん秋山は最初、その男がスパイか何かではないかとか、危険な人物ではないかと疑念を持った。そうした疑いを持つ秋山の心を読み取り、その男は言った。「私は、別に脅かすために来たのではない」。そしてその男は、秋山が体験したすべてを、日付や時間まで知っていた。秋山が心の中に秘めていたことすら、その男は知っていた。ここまで言い当てられたら、秋山も信じないわけにはいかなかった。聞きたいことがたくさんあった。「いままで僕が体験してきたのは本当なのでしょうか」「テレパシーとはどういうものなのでしょうか」など、秋山は矢継ぎ早に質問した。こうした質問が終わり、秋山が納得すると、最後に男はこう付け加えた。「あなたが望まなければ、我々は提供しない。あなたは望みますか。我々の持っている科学を少しでも知りたいと思いますか。そしてあなたは向上を考えることができますか」秋山は「できます」と答えた。男は言った。「じゃ、これからもたびたびお会いすることになるでしょう」(続く)=文中敬称略
2005.03.23
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超能力者列伝7(秋山眞人)こうして、秋山とその宇宙人との本格的なテレパシー交信が始まった。宇宙人には名前がなかったが、それでは秋山が混乱してしまうからという理由で、便宜上「レミンダー」と名づけられた。それは綿密なカリキュラムに基づいた個人授業を受けているようなものだった。「講師」も最初はレミンダーだったが、ベクター、グレマールなどとコンタクトの段階に従って変わっていった。初期のころの内容は「善悪の基準とは何か、本当の人間の力とは何か、宇宙の実体はどうなっているのか」といった宇宙哲学の初歩的なものから、テレパシー開発法や心の調整法といった実用的な超能力開発法に至るまで多岐にわたった。テレパシー交信はシンボルによる通信が中心だった、と秋山は言う。秋山がコンタクトした宇宙人には「サムジーラ」という影像システムがあり、彼らのテレパシーをシンボルに変換して送ってくるのだという。シンボルと言ってもただの記号ではない。そのシンボルには多くの意味が込められている。「テレパシーは、伝えたい情報のすべてを一瞬にして伝えることができるのです」と秋山は言う。たとえば、自分が秋山であることを伝えようとした場合、秋山のプロフィールを含んだ情報のかたまりが、イマジネーションとして相手に直接伝わるそうだ。しかも、一瞬でその内容がわかる。ちょっと話は飛ぶが、秋山が語るテレパシー交信の有様は、エマニュエル・スウェデンボルグが精霊界で見聞きしたという「想念の交通」(霊界の住人の間で交わされる会話)というものに非常によく似ている。想念の交通では言葉も使われるが、私たちが数千語を費やさなければ説明できないことも、数語か数十語で事足りてしまう、とスウェデンボルグは述べている。つまり、一つの言葉にたくさんの情報を込めることができるのだ。スウェデンボルグが描く霊界の文字も、秋山がテレパシー交信で使ったという文字(シンボル)に似ている。スウェデンボルグによると、霊界の文字は曲線が多く、人間界の文字と比べて、数少ない文字の中に非常にたくさんの意味を込めることができる。一つ一つの数字にもいろいろな意味が含まれるという。さて、秋山がこうしたテレパシー交信にも慣れてきたころ、宇宙人とのコンタクトは次の段階に移行した。UFOの最初の目撃から2年近く経ったころだった、と秋山は言う。ある日曜日の午前中、秋山が家でゴロゴロしていると、「新たに一つの謎が解明される!」という直感が走り、居ても立ってもいられないような強い衝動にかられた。その衝動は、秋山を外へと導き、駅へと向かわせた。秋山はそのまま切符を買って電車に乗り、直感にゆだねるままに静岡市呉服町の駅で降りて、駅前の商店街の方へと歩いていった。(続く)=文中敬称略
2005.03.22
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超能力者列伝6(秋山眞人)おそらくコンタクティーたちは、同じような経験をするのだろう。秋山が最初にUFOを目撃した翌日から、秋山の身の回りでは次々に不思議なことが起こるようになった。最初に起きたのは、金属が変化することだった。秋山がスプーンなどの金属に触れると、金属の表面が荒れ、亀裂が入ってしまうのだ。秋山の周りにある電気製品も壊れはじめた。河原で遊んだ夢を見た翌朝には、布団の上に小石がたくさん落ちていることもあった。「超能力全開状態」となり、人間が光のかたまりに見えたり、頻繁に他人の想念が飛び込んできたりするようになった。そうした急激な変化に対して秋山はなす術がなかった。想念が「機関銃」のように飛んで来て頭を悩ませ、苦痛だけが増していくようだった。しかし、そのような状態の秋山を救ってくれたのはUFOであったのだろう。学校の帰りや試験中など昼夜を問わず、秋山の前にUFOが出現するようになる。出現する前は決まって、耳鳴りのようなものが聞こえて、頭の上に脈動感のある圧力を感じたと秋山は言う。やがてUFOは、呼べばいつでも出てくるようになった。秋山にとってよかったのは、UFOがクラスメートと一緒にいるときでも出てきてくれることだった。それまで友達がほとんどいなかったのに、「秋山といるとUFOが見られる」という話が広がり、友達がどんどんできて、すっかり人気者になっていった。最初の目撃から半年ほど経ったある夜、秋山に再び不思議なことが起こる。寝床で休んでいると、突如、目の前が明るくなったのだ。びっくりして目を開けると、電気は消してあったので部屋の中は真っ暗なままだ。しかし目を閉じると、頭の中が煌々と明るくなる。「これは何だ! 何か変なことが始まるのか」と秋山が不安に思っていると、まぶたの裏のその明かりの中に、はっきりとした黒抜きで、象形文字のようなものが浮かび上がってきた。慌てて目を開けると、その文字は消えて、暗闇になる。ところが目をつぶると、明るくなり、その文字が現われる。それは何度やっても同じだった。秋山は何か意味があるのだと思い、その文字をノートに書き写した。面白いことに、一つの文字を書き写すと、次の文字が現われる。それをスケッチし終わると、また次の文字が現れるというように全部で7,8文字をスケッチした。「映像的な意味でのテレパシーの受信の始まりだったんですね」と、秋山は当時を振り返る。それからというもの、毎晩10時ごろになると、ビジュアルなメッセージが必ず送られてくるようになった。文字の形も段々と精密になっていった。静止画だったのが白黒の動画となり、やがて色がつき、立体的なイメージへと変わった。「触ることができるのではないかというほど、リアルなイメージに変わっていった」という。秋山がそこまで鮮明な画像を受信できるようになるまで約3ヶ月かかった。テレパシーの訓練は段階を追って進められたようだ。次に送られてきたのは、動力部などUFOの各部の影像だった。「UFOに対する恐怖心を取り除くためだったのではないか」と秋山は言う。それが終わると、つまり恐怖心を和らげる訓練が終了したころ、今度は人影のような影像が送られてきた。しばらくして、顔もはっきりとわかるようになった。するとその人物は「ようやくここまできた。今後もコンタクトを続けたいが、拒否したいならしてもいい」とテレパシーで語りかけてきた。秋山に迷いはなかった。「続けてください」(続く)=文中敬称略
2005.03.21
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超能力者列伝5(秋山眞人)夜の9時ごろから2時間ぐらい毎日、秋山は自宅2階にある寝室の窓から星空に向かってUFOに呼びかけた。「こちら、地球、日本の秋山です。私の気持ちが届くのであれば、はっきりわかる形で現われてください」。孤独な秋山にとって、それは魂の絶叫でもあった。しかし、1週間経っても、2週間経っても、UFOは現われない。見上げる夜空にも何の変化や兆しもない。ただ、秋山の心境にはやがて変化が現われた。最初は出てきてくれるのではないかという期待とやはり出てこないだろうなという不安が入り混じった感情だったのが、やがて「なんで僕はこんなことをやっているのだろう? ノイローゼになるんじゃないか」と自分自身に対する不信感が生じた。そして最後には、「もうUFOなんてどうでもいいや」という気持ちに変わっていった。その時までには、星空を眺めるだけで妙に心が落ち着くことに気が付いたのだ。秋山によると、これがよかったのだという。超能力を発揮するときは、ギュッと緊張していたときにフッと力を抜く、その瞬間に力が発揮されるのだと秋山は言う。あることを念じていても、一歩引いて、あきらめたような、あるいは執着をなくしたような状態のときに、願いが叶うことがあるのだそうだ。それは、呼びかけを始めてからちょうど30日目のことだった。とうとうUFOは出てこなかったが、それでも30日間も夜空を眺め通したという達成感が秋山にはあった。「毎晩、星々を無心に眺められただけでもよかったじゃないか。さあ今日はもう寝よう」と思いながら、重たい雨戸をガラガラと引っ張って、窓を閉めようとした。その瞬間である。雨戸を閉じる途中、その狭くなった視界に、オレンジ色の光の玉が横切ったかと思うと、秋山の前方辺りで静止したのだ。ソロバン玉のような形で、本体はオレンジ色だが、その周りはうっすらと緑がかっていた。ところが、あれだけ見たがっていたUFOが目の前に浮かんでいるのに、恐怖心がみるみると湧き上がってきた。「これは何だ!? こわい!」と秋山が思ったと同時に、オレンジ色の光体はフラッシュのような光を一瞬放ち、きれいなカーブを描きながらスーッと彼方へ消えていった。秋山はしばらく考えていた。「あれは人工衛星ではないのか。自衛隊のジェット機ではなかったか」――。だが、色も形も、その飛び方も、明らかに人工衛星でもジェット機でもなかった。やがてフツフツと、心臓の辺りから温かいものが涌いてきた。秋山の疑念は確信へと変わっていく。「UFOに間違いない! 私の思いは空間を超えて宇宙に届いたのだ!」(続く)=文中敬称略
2005.03.20
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超能力者列伝4(秋山眞人)岡美行の惑星探訪の話に比べたら、秋山眞人の宇宙人との遭遇体験などはかわいいものだ。というよりは、まともな体験に思えてくる。秋山眞人とは、1980年代後半に彼が編集長を務めた月刊誌「ボストンクラブ」に私が原稿を書いて以来の付き合いだが、当時から近しい人に対してや小さな集会では、自分が他の惑星に行ったことがあることを明らかにしていた。ただ公には、その話はご法度で、私も実名で書いてもいいかと聞いたら、「社会的に袋叩きに遭うので、勘弁してくれ」といつも断られた。しかしその秋山も、1997年春に「カミングアウト」する。何でも宇宙人から本を書くように頼まれたからだという。そのときは当然躊躇した、と秋山は述懐する。「なぜ、いま、私が発表しなければならないのですか」と秋山は聞いた。すると、次のような答えが宇宙人から返ってきた。「今年(1997年)は君たち人類にとって、そして地球にとって大きな変革の年である。その大きな変革のときに、われわれの真の姿を公表することは大きな意味があるのだ。それをわかってほしい」その宇宙人の真剣な眼差しを見たら、断ることはできなかった、と秋山は言う。秋山は、宇宙人との関係を洗いざらい公表することにした。それが、1997年4月に出版された『私は宇宙人と出会った』(ごま書房)であった。その本と私が取材した話などを総合すると、秋山が体験したという宇宙人との驚異の遭遇記録は次のようなものだ。秋山が最初にUFOを目撃したのは、1970年代半ば、中学二年、15歳のときだった。そのころの秋山は、友達のいない寂しい少年であった。というのも、父親の仕事の関係で引越しが多く、転校先でいじめられることが多かったからだ。静岡の田舎の学校に転校したときもそうであった。友達ができず、寂しいので、秋山は自宅の裏に広がる風景の中で鳥やリス、ウサギなどを眺めては気を紛らわせていた。そうしたある日、テレビでUFO特集の番組があり、テレパシーでUFOを呼び出す方法というものが紹介された。秋山はこの話に飛びついた。秋山はそれまで、唯物論者の父親の影響もあり、こうした話は意図的に避けて育ってきた。しかし、秋山の当時の不安定な精神状態においては、まさに天からの助け舟のように思えたのだろう。「気楽な遊び感覚」ではあったが、テレパシーで宇宙に呼びかけてみることにした。(続く)=文中敬称略
2005.03.19
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UFOの目撃8岡美行はそのころ不眠症で、夢を見たかと思うと覚めて、また夢を見るという状態の繰り返しだったという。その夢の中で、電話が鳴ったので岡が受話器を取ると、最初は女の声で、次に男の声で「ワハハ」と笑っているのが聞こえた。そこで目が覚めて、また寝ると変な夢を見る。今度は近所の通りを歩いていると、後ろから途方もなく大きな黒い物体が追いかけてきた。岡がびっくりして逃げ出した途端に目が覚めた。ところが目を覚ますと、岡のそばにはコバルトブルーのウエットスーツを着た身長20センチほどの小人がいるではないか。思わず左右を見回すと、驚いたことに、寝ている自分がいる。しかも、寝ている自分に向かって、何かを向けている別の人影があった。身長一メートル六〇センチぐらいの真っ黒な宇宙人だった、と岡は言う。「僕はそのとき、夢から覚めてちゃんと起きていた」その後、岡は寝ている自分に戻ったところ、目の前に同心円が二つある銃口のようなものが見えた。多分、その黒い宇宙人が寝ている岡に向けていたものだろう。岡がその「銃口」を見ていると、足からしびれてきて気絶してしまった。気が付くと、乳白色のドーム型円盤に乗っており、その円盤はパァーッと急上昇したという。以来、岡はしばしば夜になると円盤に乗っては、いろいろな惑星を訪れるようになる。ある時は、頭に外科手術のようなことをされた。そのとき岡は、頭蓋骨をパカッとはずした自分の脳みそを見せられたとも言う。私が夢と現実がごっちゃになっているのではないか、と質問しても、「絶対夢ではない」と譲らない。「私も夢ではないかと宇宙人に聞くと、宇宙人に怒られるのだ」と岡は言う。岡は数え切れないほど多くの惑星を訪問した、と言う。それぞれの惑星では、その惑星の住人(宇宙人)の体に入って、実際にその惑星での生活を経験したのだという。ある惑星ではカニのような体の宇宙人を「体験」、そのときは長いはさみの付いた手を動かしたりして面白かったと岡は語る。非常に変わった経験だ。宇宙人の体の中に入り込むというのだから、おそらく霊が憑依するような方法で、その宇宙人にとりついたのであろうか。岡は宇宙船も操縦させてもらったという。小さい宇宙船から大きい宇宙船まで。「どのくらい大きいのですか」と聞くと、「全長20キロぐらいかな。とにかく大きい。地球人の想像をはるかに超えている。しかも、単なる乗物でもないようだ」と言う。全長20キロといえば、東京駅から川崎市を通り越して、横浜市鶴見区に至ってしまうような距離だ。空いっぱいに、そのような巨大宇宙船が覆っていることを想像する。確かに、信じられないくらい大きな宇宙船だ。岡はまた、自分が訪れたという惑星の都市の絵をたくさん私に見せてくれた。中央に尖った巨大な塔がある都市など、いずれも地球上にはないような都市であったが、想像力を使えば書けるような絵でもあった。「ピラミッド・アズ・ミラクル」という宇宙を舞台にした「実話」を書いているとも言っていた。詳しい内容は明らかにしてくれなかったが、地球にあるようなピラミッドは、実は他の惑星にもあって、宇宙の秘密が隠されているのだという。しかし今日に至るまで、その「実話」が公開されたという話は聞かない。(文中敬称略)
2005.03.18
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UFOの目撃7岡美行はシュールレアリズム(超現実主義)の画家である。しかし、「超現実」であるのは、彼の絵だけではないらしい。彼が体験したと主張するUFOとの遭遇は、完全に(そして文字通り)宇宙の彼方まで「飛んで」いる。最近では、大槻ケンヂが『のほほん人間革命』(宝島社)や自分の番組で取り上げるなど岡美行が脚光を浴びたが、岡は1970年代からUFOコンタクティーであると公言してはばからなかった。横尾忠則の「お友達」でもある。私は1980年代に、東京・自由が丘のそばにある岡美行の自宅に取材に行った。けちなのか貧乏なのかわからなかったが、暗くなっても電気をつけず(あるいは電気を止められていたのかもしれない)、ろうそくに火をともし、その周りに鏡を立てて、明るさを増幅させていた。私は図らずも「なるほど、うまくやるものだな」と感心してしまったのを覚えている。ただし、家の中はいっそう不気味になり、UFOの話なのか怪談なのかわからなくなってしまった。岡美行の話はそれだけ不気味であった。岡が最初にUFOを見たのは、1945年5月24日午前1時から同3時ごろ。空襲警報が激しく鳴り、周囲の家が火の海になったとき空を見上げると、B29爆撃機の下をオレンジ色の光体がフラフラと飛んでいた。その後、母親の実家がある和歌山・由良に疎開しているとき、友人と流星観測中に白い物体が頭上を飛んで行き、乳房山の山頂付近で急上昇するのを目撃している。その二回の目撃後、25年以上経ってから岡は第三回目の目撃をする。その兆しは1973年9月ごろから始まった。身の回りで次から次へと不思議なことが起こりはじめたのだ。ちょうど絵画の作品展で忙しい時分だった。まず、「ヨッチャン」と岡を呼ぶ声が耳の中で聞こえるようになった。台所や本棚のガラスがバーンと音を立てるようになった。外でドドーンと音がすることもあった。そして、同年12月2日の午前1時から4時にかけて、とうとう事件が起きた。(続く)=文中敬称略
2005.03.17
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UFOの目撃6日航機長や開洋丸乗組員以外の人々によるUFO目撃例をいくつか挙げよう。いずれもわくわくするような話であった。中には、私でも信じられないような目撃例もある。私の想像力が足りなかったと指摘されれば、その通りであると認めざるを得ない。たとえば、都会の真ん中で全長数百メートルもあるような巨大UFOを目撃したというUFOコンタクティーもいた。誰もが「まさか」と思うはずだ。その大きさにまず驚く。地球上の飛行物体なら、スペースシャトルで全長約37メートル、ジャンボジェット機でも約70メートルでしかない。その数倍から10倍以上はありそうだ。そのような巨大UFOが都会の真ん中で出現したら大勢の人が目撃し、パニックになったはずではないか、と疑問に思われる人もいると思う。私も実は、そのように聞き返した。すると、そのコンタクティーはおおよそ次のように語った。「テレパシーで呼ばれて夜空を見たら、そのときだけ雲が切れて、雲の向こう側に巨大UFOが見えたのです。そのとき私も、もっと大勢の人が見れば信じてくれるのにと呼びかけたら、そのような恐怖心や驚きを与えることは我々の目的ではない、との返事が返ってきました」この話が本当だとすると、UFO側は目的のない目撃は極力させないとの意志をもっていることになる。開洋丸の遭遇でも明らかなように、UFO側のテクノロジーはかなり高度で、レーダーに映っても肉眼では見えなくすることは朝飯前のようだ(もちろん、その逆もできる)。都会の上空で数百メートルの大きさのUFOを、目撃されることもなく滞空させることもできるのだろう。巨大UFOの目撃例は多い。寺内機長が目撃したお釜型UFOも、機長が書いたスケッチを見ると、幅650メートル、高さ350メートルはあったとみられる。開洋丸のレーダーに映し出された機影の大きさは、レーダーがどれだけ正確にその物体を捉えたかはわからないが、315メートルぐらいはあると思われる。取材メモが見つからないので正確ではないが、大分・別府温泉で、映画『未知との遭遇』で最後の場面で出てくる母船ぐらい大きなUFOを見たと証言した人もいる。巨大UFOではないが、身長3メートル以上の巨大宇宙人に会ったという人も長崎県にいた。しかしこうした巨大UFOも、画家の岡美行氏から見れば「小さなおもちゃ」に過ぎないのかもしれない。なにしろ「全長20キロ以上のUFO」に乗船しただけでなく、操縦したこともあるというのだから・・・。本当に岡氏は超巨大UFOに乗船したのだろうか。その話はまた明日。
2005.03.16
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UFOの目撃5この開洋丸のUFO遭遇に関しては、あの札付きのフィリップ・クラスがいちゃもんを付けたという話は聞かない。おそらく日本国内の科学雑誌なので、情報が伝わらなかっただけの話であろう。聞きつけていたら、また得意の「星誤認説」を展開したであろうことは想像に難くない。寺内機長や開洋丸乗組員の目撃すら信じられない人はおそらく、自分の目の前にUFOが着陸しても「目の錯覚」として片付けてしまう人であろう。あるUFOコンタクティー(UFOと何らかの接触をしている人)は「地球人は、UFOを1回見ただけでは信じられないから、次から次へと証拠を求める。宇宙人はそのような際限のない欲望には付き合っていられないのだ」と話していた。そのコンタクティーによると、UFOの目撃には綿密に計画された意図があるのだという。その個々の真意については定かではないが、目撃者のその後の人生を決定的に変えるための場合が多いようだ。ただし、その人の人生が、一般の価値観からみて「好ましい方向」に変化するとはかぎらない。たとえば寺内機長は、UFOとの遭遇を明らかにしたために、会社内で仕事をしづらくなったかもしれないし、事実上左遷させられたのかもしれない。しかし、UFO側の理由はもっと次元の異なるところにある。複数のコンタクティーの話を総合すると、目撃者の社会的な成功とは別の次元で、その人に働きかけてくるようだ。UFOを目撃する人はUFO側から特定される場合が多いのだとも、コンタクティーたちは言う。しかも、UFO側はかなり高度な科学技術を持っているので、たとえば10人の人が並んでいて、右から2番目と左から3番目の人だけに、UFOを目撃させるという「離れ業」も難なくこなしてしまうのだという。すると、寺内機長もUFOを目撃するべくして、目撃したことになる。寺内機長だけはっきりとUFOの形が視認できたのも、有視界飛行のベテランであるというだけでなく、そうした理由があるように感じられる。同様なことは、開洋丸乗組員による目撃についても言える。あれだけ開洋丸の周りをぐるぐる回ったり、真上を飛んだりしたのは、何人かの乗組員に目撃されるという特定の目的があったのだということが推測される。前にも触れたが、寺内機長が目撃してから約一カ月後のことであるのも意味深だ。エンリケ・バリオスの『宇宙人アミ』(徳間書店)にも、その辺のことが書いてあるので、興味のある方は読まれたらいかがだろうか。『宇宙人アミ』はバリオスのフィクションであるかもしれないが、きわめて真実に近いことが書かれていると思われるので、お薦めだ。
2005.03.15
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UFOの目撃4驚くべきことは、次の瞬間に起きた。超高速で船から1・5マイルまで異常接近してきたその巨大な飛行物体は、突然何の前触れもなしに進入方向とほぼ同じ方向へ後退したのだ。つまりUターンではなく、事実上Vターン、Iターンとも言うべき方向転換をしてのけた。地球上のいかなる飛行物体も成し遂げられない飛行パターンであった。このとき、レーダーにはもう一つ同じ形をした影像が映っていた。左舷前方10マイルの地点だ。その物体は静止していた。二つの謎の飛行物体は午後10時40分には、レーダー視界から消え去った。1・5マイル接近でもレーダーに反射するということは、レーダーの垂直ビーム幅からみて、飛行物体の高度は500メートル以下の低空飛行であったことになるという。ここまで接近したら、飛行機なら当然その爆音が聞こえてしかるべきだが、聞こえなかった。いずれも地球上の常識では理解できない現象であることは、明白だった。この夜は、これだけで終わりではなかった。クライマックスは30分後にやってきた。午後11時10分、今度は船尾方向(西方向)に出現、開洋丸に向かって再び突進してきた。背後からその物体はパッパッパと迫る。当直者は双眼鏡で船尾方向を必死になって探す。だが、満月の夜にもかかわらず、何も見えない。当直者たちは焦った。その間にも、物体はドンドン近づいてくる。「来た! 来た!」「ぶつかるぞ!」。レーダーに張り付いていた当直員が叫ぶ。その飛行物体がレーダー上で開洋丸とほとんど重なろうとしたとき、レーダーの垂直ビーム高度外に出たためか、レーダー上から機影が消えた。次の瞬間、それぞれの当直員によって聞こえ方は異なったが、「ブォー」「グォン」「ドォン」という物体が風を切り裂くような音が響いた。大爆音ではなく、車のエンジン音よりも小さな音で、衝撃も振動も感じなかったという。音が聞こえた瞬間にレーダーを覗き込んでいた甲板員の村塚正信だけは、音以外のことを知覚した。その瞬間、その物体が飛び去ったとみられる船首方向を見た村塚の目に、奇妙な影像が飛び込んできた。船首先の水平線上に、「卵をつぶしたような形」の赤みがかった黄色の光が、パーッと広がるように輝いたのだ。その光の高度は「空に浮いていた積雲よりも低く(仰角で)10~15度の高さであった」という。その間、1~2秒であった。「あっ、いた! いた!」と村塚は叫んだ。だが、船尾や右舷側にいた他の当直者は見ることはできなかった。音については、船長室で休息していた船長も聞き、当直に電話を掛けてきたが、「飛行機だろう」として意に介さなかったという。その後30分間、物体はレーダー上から完全に消えた。午後11時45分、右舷後方(南西方向)7~8マイルの位置に、再び巨大な影像が現われたが、約5分でレーダー視界から消え、その後現われることがなかったという。以上が、開洋丸乗組員が目撃・観測したUFOの記録である。日経サイエンス社の「サイエンス(日本版)」1988年9月号にその詳細が報告された。その報告書を書いた海洋水産資源開発センター開発部開発一課調査員の永延幹男農学博士によると、二台のレーダーに映ったことからレーダーの故障ではありえないこと、ベテランが操作しているのでレーダー操作ミスによる虚像とは考えにくいこと、電波灯台による現象とも違うこと――などから、人の目には見えない「レーダー電波を反射する飛行物体」が存在していたという結論が導き出されるという。ではそのような飛行物体とは何なのか。飛行軌跡から判断して「地球上の常識的な飛行機とは明らかに違う」と永延は言う。それこそ、他の惑星から飛来した宇宙船である可能性が強いわけだ。永延はこの報告書を書く際、他の数十人の長期航海者に、これ以外の遭遇例がないかどうか聞いたところ、3件あったという。私も記者として農水省を担当していた1991年ごろ、海洋水産資源開発センターを訪れ、開洋丸でUFOを目撃した人に直接、話を聞いたことがある。手元に名詞が見当たらないので、誰に聞いたかは定かではないが、目撃例はもっとあるのではないか、との話だった。その人も間接的にしか聞いていないと言っていたが、航行中に海中から飛び出してきた巨大UFOを見た人もいるのだという。(続く)=文中敬称略
2005.03.14
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UFOの目撃31986年12月21日に開洋丸がUFOと異常接近した「未知との遭遇」は、その飛行物体が明らかに開洋丸をターゲットに飛来した点で、きわめて衝撃的で興味深い。日航機長によるUFO目撃の約一カ月後に起きたということを考慮すると、何らかの関連性すら推測される。開洋丸での二度目の目撃者は、一度目の目撃者とは異なる乗組員であった。同年12月15日に東京港を出港し、カリフォルニア沖合海域調査に向かう途中の出来事だ。場所はウェーク島北方の中部北太平洋上で、開洋丸はミッドウェー島の方角に進んでいた。目撃時間は、現地時間の午後6時から深夜までの約6時間にわたった。最初にその謎の物体に気づいたのは、乗船経歴18年、当時39歳の佐々木洋治・主席二等航海士であった。その日の日没は午後5時06分。夕闇が迫ってきたので、当直の佐々木は午後6時、船の近くに他の船舶が航行していないかを確認するため、レーダーを使うことにした。レーダーのレンジ幅(走査できる最遠距離)を12マイル(約20キロ)に合わせところ、いきなり船の左舷側(北方向)約3マイル(約4・8キロ)に巨大な楕円形の物体を捉えた。佐々木はこれまで、このように大きな影像をレーダーで見たことがなかった。驚いて左舷方向を見たが、何も見えない。3マイルの距離であれば、飛行機でも船舶でも当然見えるはずであった。「おかしいな、何だろう」と、不思議に思った佐々木は室外に出て、レーダーが捉えた方向に双眼鏡を向けた。だが、やはり何もない。灯火もなければ、音もしない。再び、レーダーを見ると、その大きな影像は、船から北方向へドンドンと離れていった。午後8時に当直を交代するとき、佐々木は次の当直者に、レーダーが捉えた奇妙な影像のことを伝えた。「何かいるけど、何かわかんないよ」レーダーは当直ごとに二台のレーダーを交互に使用することになっているので、午後8時からの当直では、佐々木が使ったレーダーとは別のレーダーを使用、24マイルのレンジ幅で走査した。すると午後8時半、再び楕円形の大きな影像が現われた。洋上であるならば、巨大タンカーとしか思えない大きさだった。しかも今度は、開洋丸の進行方向(東の方向)から開洋丸に向かってドンドンと迫ってくる。残り5マイルとなったところで、その影像は船の左舷方向へと回り込み、開洋丸の周りを時計の反対周りで二周した。二周後、その影像は左舷前方約10マイルの位置から、突如直角ターンして、開洋丸に向かって突っ込んできた。びっくりした当直の3人は、侵入方向を、目を凝らして見つめたが、何も確認できない。このように動く物体は海上ではありえない。おそらく飛行物体であるのだろう。そのレーダー上の「未確認飛行影像」は、左舷前方1・5マイルの至近距離まで接近した。レーダー影像を判読すると、その物体は3マイル進むのに約4秒しかかかっていない。秒速1・4キロ、時速に換算すると5000キロ、マッハ4強の超高速だ。その間、当直者は必死になって飛行物体を双眼鏡で探すが、全く見えない。一体、何が起こっているのか!?(続く)=文中敬称略
2005.03.13
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UFOの目撃2水産庁調査船「開洋丸」の乗組員が目撃した未確認飛行物体も、きわめて信頼のおける例であることは言うまでもない。彼らが寺内機長と同様に目視確認のプロであったというだけでなく、レーダーでも巨大UFOが確認されているからだ。開洋丸乗組員によるUFOの目撃は、公表されているものだけで二回ある。一度目は、1984年12月18日。南極ウェッデル海とドレーク海峡の調査を終え、南米ウルグアイのモンテビデオ港へと向かう途中であった。現地時間で午前零時10分から同1時35分までの間に8つのUFOが目撃された。最初に目撃したのは、乗船経歴10年の次席2等航海士の船戸健次であった。他の3人と当直の最中、船首方向(北)上空のオリオン座付近から右方向に動く黄色っぽい光を見つけた。2等星ぐらいの輝きで、最初は人工衛星かと思ったが、動き方がおかしい。フラフラと飛んでいたかと思うと、途中で加速したような感じでスーッと飛んだりする。流れ星や人工衛星の動きと明らかに異なる動きをするのだ。光はフラフラ、スーッを繰り返しながら南東報告に飛んで行き、やがて視界から消え去った。その間の時間は数分であったという。あれは何であったのか。このとき船戸はあっけにとられていたため、他の乗組員に声をかけることができなかった。しかしその10分後、再び同じオリオン座付近から同様な光が出現したときは、「オイ、あれを見ろ」と声を上げた。他の3人が船戸の指差す方向に振り返ると、そこには奇妙な光があった。光はフラフラ、あるいはジグザグといった形容ができるような飛び方をしたかと思うと、急に明るく輝き、数秒の後、また元の明るさに戻り、一回目同様、水平線の彼方へと飛び去った。不思議な光は、その後10分おきに次々と現われた。出現の初認場所はいずれもオリオン座付近で、船戸の最初の目撃から数えて全部で8つ。うち2つが船首の先の水平線、つまり北方向に飛び去り、4つが東方向へ、残り2つは開洋丸を超えて南方向へ飛び去った。8番目の光は、就寝中を起こされた乗組員一人を加え、計5人で目撃した。その光はフラフラといった感じの軌跡でゆっくりと数十秒かけて下降、次に東方向に進路を変更するとともに高スピードの直線飛行となり、水平線にほぼ平行に移動して彼方の大気中に消えた。皆、視認のプロであった。目撃者同士で何度も検討を重ねた結果、明らかに人工衛星とも流れ星とも違う未確認飛行物体であったとしか言いようがないということになった。しかし、この目撃よりもさらに衝撃的なUFOとの遭遇がその二年後に起きたのだ。その話はまた明日。(文中敬称略)
2005.03.12
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UFOの目撃1UFO(未確認飛行物体)の目撃例は信じられないほど多いにもかかわらず、依然未確認だとして、まるで御伽噺のように扱われている。しかしその目撃例の中で、非科学的な“常識”に洗脳されていない人ならこれは本物だな、と納得せざるをえないケースが少なくとも二例はある。本物とは、他の惑星から飛来したとみられる飛行物体であるということだ。その二つの例とは、日航のジャンボ機貨物便機長がアラスカ上空で目撃した巨大UFOと水産庁の調査船が海上で捉えたUFOの機影だ。いずれも1980年代後半に目撃された、きわめて信頼性の高い目撃情報である。日航機長の目撃は、私の元勤務先である共同通信社がアラスカ発で最初に報じた。1986年11月17日夜、パリ発東京行きの日航ジャンボジェット貨物便を操縦する寺内謙寿機長(当時47)らが、アラスカ上空で巨大なUFOに遭遇した。目撃時間は、約50分。「最初は赤みたいな白みたいな光が見えた」と寺内機長は言う。その光体は二つで、2~3マイル(約3~5キロ)前方、2000フィート(600メートル)下方にあった。寺内機長は最初、それを飛行機だと思ったが、管制センターに問い合わせても「そのような飛行機は飛んでいない」という。その7分後、それまで下方にいた二つの光体が突然、瞬間移動したようにやや上方150~300メートルぐらいのところに現われた。それぞれの大きさは「DC8の胴体ほど」で、3~5分ほど一緒に飛んだという。少しして今度は、同じ方向に別の青白いライトが二つ現われた。再び管制センターに確認するが、レーダーには何も映っていない。そこでジャンボ機のレーダーで調べると、大きな円形の物体が映っていた。二つの光の間隔は常に一定で、「前方から7時半か8時の方向へ移って」行ったのに変わらなかった、という。やがて、フェアバンクス市に近づいたとき、地上の明かりにより、その飛行物体のシルエットが浮かび上がった。鍋を二つ合わせたような形の巨大な円盤型飛行物体だったのだ。二つの等間隔の光は、中央部の輪の両端が光っているためであることもわかった。大きさは、ジャンボジェット機が何台も積載できるような「航空母艦並みのサイズ」で、「宇宙母艦」と呼べるものであった、と寺内機長は証言する。右旋回すると、その宇宙母艦は視界から消えた。「もう、大丈夫だろう」と水平飛行に戻ったが、宇宙母艦はまるで見事な編隊飛行をしているように現われた。ちょうどフェアバンクス空港から旅客機が上昇中だったので、管制センターがその旅客機にも確認するよう指示したが、ちょうどその旅客機とすれ違うと同時に宇宙母艦は姿を消したという。面白いのは、副操縦士を含む他の二人もその飛行物体を目撃したが、見え方に差があったことだ。寺内機長のほうが、はるかにはっきりと物体を目撃していた。これについて寺内機長自身は、自衛隊時代に夜間、有視界訓練をやった経験が生きたのではないか、としている。この後間もなく、フィリップ・クラスという、一応権威があるらしい航空雑誌の胡散臭い編集長がしゃしゃり出てきて、「あれは星を見誤ったのだ」という突拍子もない説を流し、多くの人はそれにだまされてしまった。UFO研究家の間では、クラスは何でもかんでも、UFO目撃に茶々を入れる“札付き”で知られていた。クラスの星誤認説をまともに扱った日経新聞のコラムニストは、「機長が見たUFOは星の誤認であることがわかった」という趣旨のコラムを書いてしまった。これを見た東京・五反田に当時あった「UFOライブラリー」の荒井欣一館長(故人)が抗議したところ、そのコラムニストは荒井氏に事実上の謝罪に訪れた、と荒井館長は話していた。フィリップ・クラスの「言いがかり」のせいで、寺内機長はその後、メディアの取材を一切受けなくなってしまった。一説には会社から口止めされたとも、左遷させられたともいわれている。私にも消息はわからない。結局、人間はかなり深刻な“常識”の虜になっているので、自分の常識の範囲内である説に傾倒する傾向がある。そのいい例が日経コラムニストの反応だろう。有視界飛行のベテラン日航機長の証言よりも、素性もわからぬ航空評論家の説を信じてしまう。どう考えても、星と見間違えるはずがないのに、「ああ、星だったのだ」と安心したがる心理が働くようになっているのだ。(続く)
2005.03.11
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幽体離脱と金星の話7(最終回)西丸震哉が主張するように幽体離脱がどうやら実際にできるらしいとなると、あとは金星人の存在が議論の焦点となってくる。おそらく最初に金星人と出会い、彼らの母船に乗って金星に行ったと公言、世界中から注目されたのは、米国のジョージ・アダムスキー(故人)だ。彼は1952年11月20日、カリフォルニア州の砂漠で、友人ら数人と巨大な葉巻型の宇宙母船を目撃。その母船から出てきたとみられる6,7メートルの小型円盤の乗組員(金星人)と個人的に会見した。それをきっかけとして、アダムスキーは金星人の母船などに乗せてもらい、何度も宇宙空間を旅し、金星や土星に着陸。宇宙を自由に飛び回ることのできる「スペースブラザース」の宇宙哲学を学んだり、地球の代表として太陽系会議に参加したりした。彼は終始一貫して、金星には地球人の想像を絶する高度な科学と精神文明を持った知的生命がいると主張。当時、金星を観測し、「金星の表面温度は高温で生命の存在には適さない」などのデータを送ってきたマリナー2号についても、「地球の観測装置がまだ発達していないため、正しい情報が伝わっていない」「仮に正しい情報が送られてきていたとしても、科学者や政府は真相を隠している」などと真っ向から反論した。アダムスキーの主張は、金星人がいるというだけにとどまらず、月には既に宇宙基地があり、将来、探査機が着陸しても政府はそのことを公表しないであろうこと、太陽系には12の惑星があり、それぞれに生命が存在すること、肉体は譬えれば家屋や衣服にすぎず、元素の支配者である生命(魂)、あるいは実体に死は存在しないこと、宇宙は絶え間なき変化の状態にあり、それゆえに、生命は古い肉体から新しい肉体へと転生しながら、より高いものへと進化していくこと――などに及んだ。この驚くべきアダムスキーの体験について、UFO研究家の間でも賛否両論が沸き起こった。主な焦点は、金星に宇宙人がいるかどうかということと、アダムスキーの撮った宇宙母船や小型円盤の写真が本物かどうかということだった。写真に関して言えば、6インチの反射望遠鏡で撮られた、非常に鮮明なアダムスキー型円盤や葉巻型母船の写真が多数残っているが、彼の写真はあまりにも鮮明であるため、「こんなにはっきり撮れるはずがない」などと、逆に多くの研究家によって偽物のレッテルを貼られた。金星人の存在については、NASAの無人金星探査機パイオニア金星号などによって、表面温度は482度C、大気圧は地球海面上の約100倍であることがわかり、人間のような知的生物はおろか、いかなる生物も生存できないのではないか、ということで科学的に“決着”している。これに対して、アダムスキー擁護派は、「アダムスキーと同タイプの円盤が世界各地で目撃され、写真にも撮られている」「大国政府は、世の中に大混乱が起きるという理由で、あえて真実を公表していない」などと反論するが、現代科学の“常識”の前で、金星人が存在するという説は、いかにしても肯定することはできず、一般には、アダムスキーは世紀のペテン師ということになってしまった。それにもかかわらず、AさんやK子さんをはじめ多くのUFOコンタクティーたちは、金星人が存在することに疑う余地はないと口を揃える。彼らは別にアダムスキーの信奉者ではなく、自分の体験からそう断言する。しかも、金星はこの太陽系の窓口的役割を果たしており、太陽系の事柄についてはすべて、金星で開かれる会議を経て決定されるというのだ。それが正しければ、アダムスキーは真実を語っていたことになる。確かに金星は、人が住めるような環境ではないのだろう。だが、高度な科学技術があれば、巨大なドームの中や地底に都市を築くことも可能であろう。あるいは、スウェデンボルグが『宇宙間の諸地球』で示唆しているように、太陽系の各惑星には次元の異なる世界が存在し、それぞれの世界に住人がいるのかもしれない。これは夢物語であろうか。それとも私たちが、いつの間にか“常識”の虜になり、真実を受け入れることができないほどに盲目になってしまったのか。その結論は、今はまだ分からないかもしれないが、やがては時が明らかにしてくれると考える。(このシリーズはこれで終わりです。明日からはUFOの話をします。)
2005.03.10
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幽体離脱と金星の話6(今日の話は、以前書いた超能力者列伝「西丸震哉」とかなりダブりますので、すでに読んだ方は読み飛ばしてください。)古典の話は多分に誇張などもあり、真偽のほどはよく分からないが、現代において、この意識体の旅行(幽体離脱)を実証しようとしたユニークな探検家がいる。その人は、元農林水産省食品総合研究所官能検査室長で、食糧危機を書いたエッセイなど多彩な著作で知られる西丸震哉さんだ。西丸さんは1961年12月から翌年4月までインドで学術探査した際、あらかじめ友人や家族と打ち合わせしておいて、東京とインドの間で彼の言うところの「魂の帰宅実験」をやることにした。東京の自宅に友人ら7,8人を集め、毎月1回、午後8時から9時の間に西丸さんが「魂」だけ帰宅し、何らかの証拠を示そうというのだ。時差は3時間半あるので、インドでは午後四時半から五時半になる。ところが、一月と二月の二回は、その時差と仕事に熱中していたため、すっかり忘れてしまった。「これでは、せっかく家に集まってくれた人に申し訳ない」と、三回目の3月7日は時間を厳守。バンガローの一室に一人で入り込み、椅子に座って精神統一を始めた。やり方は独特で簡単。無念無想などという境地はまず無理だから、目をつぶって、ただ「行ってやろう」の一念で集中するのだそうだ。初めは、他の隊員が部屋の周りでガタガタ仕事をするし、犬が窓の下で吠え立てるので、意識体が旅に出て、せっかく自宅のドアの前まで行っていながら、インドまでスーッと戻ってきてしまうような無駄を繰り返した。5,6回目になって、どうにか家のドアを手でドンドン叩くことができた。ただ、周りは全く闇のため、自分の勘と気配と記憶に頼るしかない。鉄のドアを開けずに、そのままスッと家の中に入ることができ、便所の木戸をガタピシ動かし、なるべく音を派手に出すように努めた。廊下を通るときに、そこには何もないはずの障害物に弁慶の泣き所をぶつけ、かなりの痛みを感じたのだが、密室に座っている西丸さんの本体には何の異常もなかった。どうにか、皆の待っている座敷が見渡せるところに立ったのだが、人の気配が分かるだけで、正確にどこに誰がいるのかを認識するだけの能力がない。人とぶつかったら、どんな結果になるか恐かったので、とうとう座敷に踏み込めずに終わってしまった。その間、5時から約20分だった。さて、当日集まった人からの報告がニューデリーの大使館気付けで届いた。それによると、日本時間の午後8時40分(インド時間の午後5時10分)にドアが叩かれ、家人が見に行ってもだれもいなかった。次に便所の戸がガタピシ騒がしく揺れ、西丸さんがインドに旅立ってから位置変えをした、便所の前の洗濯機がガタンと大きな音を立てて揺れた。やがて、座敷前の廊下に気配が移ってきたので、皆固唾を飲んで見守ったが、とうとう、座敷に入って来ないまま、消滅してしまったというのだ。こうして「魂の離脱」が可能であることを証明してみせた西丸さんは「私の場合は、行った先で全盲状態だったり、洗濯機に足をぶつけたりするなど特異かもしれないが、とくに修行を積んだこともない私ができるのだから、やろうと思えば誰でもできるのではないか。UFO、テレパシー、幽体離脱といったものはまだ、今の人間には分からないだけのこと。そういったことを頭から否定するようなやつは科学者ではない」と話す。(続く)
2005.03.09
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(その29)幽体離脱と金星の話5森東一郎さんらとおなじようなことは、実は過去にも歴史上の人物らが体験している。中でも一番有名なのは、18世紀のスウェーデンの科学者エマニュエル・スウェデンボルグ(1688~1772年)だ。宮廷付き牧師兼貴族院議員の父を持ち、21歳でウプサラ大学を卒業。スウェーデン国鉱山局の特別監査官の仕事をする一方、数学、物理、化学、天文学、解剖学などおよそあらゆる部門の科学を究め、発明家や哲学者としても知られ、当時、欧州第一流の学者であった。そのスウェデンボルグが1745年、ロンドン滞在中に通常では目に見えない現象が見えてしまうという不思議な体験(霊視体験)をした。それをきっかけに、肉体をこの世に置いたまま、意識体だけが彼の言うところの「霊界」を行き来することができるようになったり、宇宙の他の惑星の住人と交信できるようになったりしたのだ。彼の意識体が見聞きしたという霊界や宇宙については、彼の著作に詳しく書かれているので、ここでは触れない。それとは別に、彼も幽体離脱を経験しているので紹介しよう。スウェデンボルグがある日、スウェーデン西部の都市ゴッデンバーグの友人宅で昼食をとっていると、急に意識が薄れだし、意識だけが肉体を離れ、何か乗物に乗せられ空を飛んでいるようになった。混濁と恐怖で狼狽しながらも、次第に意識がはっきりとしてくると、数百キロ離れた生まれ故郷のストックホルムの町が見えてきた。町は火に包まれ、人々が騒いでいた。彼は「自分の家も燃えてしまうのではないか」と心配になったが、どうすることもできない。何時間、そうして見つめていたかわからないが、火はやがて収まり、彼の家の三軒手前で止まった。意識が再びゴッデンバーグの友人宅に戻って、彼が今見たことを友人に話しても、彼らは何のことかさっぱりわからない。ところが、それから数日経って、ゴッデンバーグにストックホルムの火事の報告がもたらされるや、スウェデンボルグの見たことが事実であることが判明した。ちょうど彼が火事を見ていたその時間に、ストックホルムは火に包まれていたのだ。しかも、火は正確に、彼の家の三軒手前で収まっていた。江戸時代の随筆集『譚海』と『耳袋』が伝えるところによると、長崎のオランダ人の通訳をしていた男の人が故郷に残した妻と子(『耳袋』では母親)が恋しくなった。鉢の中の水を見ていると、故郷の自分の家が見えてきて、垣根越しに家の中を見ていると、何とそこにいた妻と目が合った。その後、その通訳が実際に故郷に帰って確認したところ、妻もそのとき、垣根の向こうに夫が見え、声を掛けようとしたら消えてしまったのだという。(続く)
2005.03.08
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幽体離脱と金星の話4金星の住人、あるいは金星人がいるのかどうかの議論は後でするとして、K子さんや小学四年生の女の子が体験したような意識の体からの離脱を意識飛行とか幽体離脱(アストラル・トリップ)などという。もちろん、こういった現象は科学的に解明されているわけではないし、幽体とは何であるかの明確な答えもわかっていない。だが、幽体離脱を経験したという人は意外と多い。東京農工大学で色彩学を教えたり、新建材や透明絵具を開発したりする科学研究で知られる創造性開発研究所長、森東一郎さん(故人)は23歳のとき、過労などから重度の狭心症になり、生死の境をさまよった。そのとき、森さんは初めて意識が体から離脱するという体験をしたのだが、当時を振り返って次のように語る。「私は自宅の仕事場で、絵の大作を描こうと毎日、かなり無理をしていました。そうしたある日、何かフッと立っていられなくなった。初めは、飛行機がダッチロールをするみたいになって、垂直感覚と水平感覚が駄目になったのです。人間の身体は一つの王国で、自分が中心にいて、それを治めていることがわかり、その統合が利かなくなってきていると感じたのです」体のコントロールが利かなくなった森さんは、水を飲もうと這い回っているときに水の分子構造のようなものが見えてくるなどの奇妙な体験を経て、ようやくベッドに倒れこんだ。そして、「ああ、とうとう死ぬのだな」と覚悟しようとしたとき、体が軽くなった。だが、「まだ死にたくない。このまま死ぬのは残念でしょうがない」とためらっていたためか、なかなか死なない。その間にも、呼吸は苦しいは、心臓や他の内臓が暴れるはで、気が狂わんばかり。そこで、いよいよじたばたするのをやめ、心の中で「静まれ」と念じたところ、それまで暴れていたものが全部なくなった。次の瞬間、スーッと身体が後方に下がり、自分自身が完全に体から離れた。その自分自身はベッドに寝ている自分の身体を見ることができた。母親ら家族が森さんを発見し、「わーわー」騒いでいるのが聞こえた。やがて、部屋の壁などいままで実体として捉えていたものが、段々透明になったかと思うと、全く別の世界が目の前に現われた。その世界は、地球を透過した向こう側の宇宙のようで、星が無数にあった。不思議なことに、その宇宙には人がたくさんおり、右前のところに、一生懸命修練している印象のひげをたくわえたおじいさんが、左前上方には、無限の愛を育んでいる印象を受ける女性たちが見えた、という。森さんはさらに、光の柱を見たり、「シュンシュンシュン」と回転振動する「ミクロ世界のエネルギー音」を聞いたりするなどの体験をするのだが、そうこうしているうちに、医者が来て応急処置をしたため、一命をとりとめた。森さんはその別の世界について、「その世界こそが本当の世界で、それまで現実の世界と見えたのは全くの夢の、ウソの世界だなと思った。我々のいるこの現実界はある意味で錯覚に過ぎず、我々は幻覚の中に生きているような気がしてならない」と話している。(続く)
2005.03.07
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うっかりしていて、ローズマリー・ケネディが今年一月に亡くなっていたことを、今日の朝日新聞の「ひと」欄で初めて知った。ローズマリーはジョン・F・ケネディの妹で、ジョゼフ・ケネディと妻ローズの間に生まれた長女。“名門”ケネディ家にあって、知的障害を持ち、ロボトミー手術を受けたことでも知られる。人生の大半を修道院で過ごした。86歳であった。暗殺や“事故”で相次いで死んでいく「呪われたケネディ家」の中にあって、ローズマリーは幸せのほうであったかもしれない。ケネディ家がひた隠しにしていたローズマリーのことを公にしたのが、三女ユニス・シュライバー(83)だ。長野で開かれていた知的障害者のためのスペシャルオリンピックス冬季大会が昨日(5日)閉幕したが、そのスペシャルオリンピックスの創設者でもある。娘はシュワルツェネッガーの妻になっている。ケネディ家には、光と闇の歴史がある。JFKの父ジョゼフは、まさにこの闇を操った人物だ。アイルランドからの貧しい移民一家がどうやって、米国の名門へとのし上がったか――。このブログでも、いずれ明らかにしていきたい。
2005.03.06
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幽体離脱と金星の話3「私も地球に体を残して、金星に何回か行ったことがある」と語るのは、東京に住む主婦K子さん。1982年春のある夜、K子さんが一人、部屋で目を閉じて瞑想に耽っていると、目の前に丸くて白い光が見えてきた。光はまるで呼吸をしているかのように動いていた。そのうち、自分自身がオデコの辺りから体の外へ飛び出し、その光に引き込まれるのを感じた、という。5,6人の背の高い人達に囲まれている気配がした後、突然、大理石の階段が現われた。一段一段は約60センチの高さがあり、幅も七,八人がすれ違うことができるほど広い。その九十九折になっている階段を上っていくと、ギリシャの哲学者を思わせる銀色の髪とひげをはやしたおじいさんがおり、K子さんの手を取って階段の上に上げてくれた。階段の上の大きな両開きの扉を通って中に入ると、そこはコロシアムのようにすり鉢状になった広場になっていた。様々な格好をした人達がワイワイガヤガヤ話をしていた。K子さんにはそこがどこで、皆が何をしているのか全くわからなかったが、不意に誰かが「ここは金星です。各星々の代表が合同会議をやっているところです」と、心に語りかけてきたため、初めて金星の会議場に来ていることがわかった。そのときは、K子さんはしばらくそこに滞在してから、ギュンという感じで、あっという間に地球上の自分の体に戻ってきたが、その後も度々、同じようにして金星を訪れ、宇宙の歴史に関する記録が収蔵されている資料館などを見学した、という。K子さんは「私はそれまで、宇宙人とかUFOなどといったものは存在しないものと思い、バカにしていましたが、それは誤解でした。現代の科学者は否定するかもしれませんが、太陽系外の惑星はもとより、この太陽系の金星にさえ、実は間違いなく知的生命が住んでいるのです」と主張する。(続く)
2005.03.06
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幽体離脱と金星の話2金星に行ったことがあるというのは、何もその子だけの話ではない。東京に住む会社員Aさん(当時30)は1986年秋、友人とドライブ中、助手席でリラックスしていると、体が少しフッと浮く感じがした。気が付くと、自分自身が車の上空に浮いており、車内の助手席に座っている自分の姿が下に見えた。それはまるで、宇宙遊泳のように気持ちのいい状態だった。しばらく遊泳気分を楽しんでいると、今度は突然、周りが真っ白な雲に包まれたような状態になった。不思議なことに、目の前には自分を導いてくれる案内人のような人がいるのがわかり、Aさんはその人の後について雲の中を飛行した。かなりの時間飛んだのだろうか。やがて雲のトンネルを抜けたかと思うと、そこはとある町の中であった。町の雰囲気は全体に白っぽい感じで、陶器のように滑らかな素材でできた白い建物が立ち並んでいた。形は非常にシンプルで、ピラミッドを縦に引き伸ばしたような尖ったものが多かった。通りにはたくさんの人が、愉快にしゃべりながら歩いていた。いろいろな色の髪の人がいて、古代ギリシャ人が着ているような、ゆったりとしたローブを身にまとっていた。傍らには、先ほど道案内してくれた人が付き添っており、今度は街中を案内してくれる。そのときまでには、Aさんはここが金星であること、そしてその人が金星の住人であることを知らされていた。しばらく歩くと、とても重要と思われる建物の近くの広場まで来た。それ以上先には行けないらしい。Aさんは広場の手前で立ち止まり、案内人の指示でそこに生えている植物らしきものから、額に向けてエネルギーをもらった。やがて、帰る時間が来たことを告げられると、次の瞬間には車の中の自分に戻っていた。Aさんが金星に行ったのはこの1回だけではない。実はその前後にも、金星の生命体に連れられて数回金星旅行をしたことがあるのだという。(続く)
2005.03.05
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幽体離脱と金星の話11987年5月3日夜、東京近郊に住むある小学四年生の女の子が突然、次のようなことをしゃべりだした。「地球は(他の星と比べて)レベルが低いから、肉体を捨てているだけなのに死んだと決めるから、いけない。本当の自分が乗るのだから、体は乗物と考える。本当の自分というのは、肉体も何もなく、ただ心だけがあって、自分の正体というのは、魂ひとつである」驚いた母親が「まあ、一体誰がそんなことを言ったの」と聞くと、その子は「金星人のだれだれさんが教えてくれたの」と答えたというのだ。この話をにわかに信じるのは難しい。まず、金星に生物、しかも知的生物がいるということ自体、現代の科学と相矛盾するではないか。しかも、たいていの人が否定的な考えを持つ輪廻転生について、さも当然のごとく肯定している。このことを10歳にも満たない女の子が語ったところが面白い。このことを現代の常識で判断すると、1親の気を引こうと、何かの本で読んだことを引用し、金星人に教わったなどと勝手に脚色した 2第三者の誰かに教わったことを鵜呑みにして、それを親に得意になって語った 3夢を見ただけか、あるいは全く子供の空想物語にすぎない――ということになるのだが、実は母親にとってどうしても、そんな“常識”だけで割り切ることができなかった。というのは、もう一つの可能性として、本当に金星人がいるのではないかと思わずにはいられないような出来事が前にもあったからだ。それより二年前の正月、親戚の家に家族で遊びに行ったときのこと。子供が夢遊病のような状態になったことがあった。何を聞いても上の空で、寝ているかと思うと、目は開けているし、起きているようでもある。数時間、そんな状態が続いた。まるで意識だけが、どこかへ行ってしまったかのようだった。そして、その子に“意識”が戻ったとき、口を開いて言うには、「私、金星に行ってきたの」――。その後も、その子は何度も金星に行っているような様子がうかがえた。その度ごとに、両親が問い詰めるが、その子は「金星のだれだれさんが、まだ信じない人がたくさんいるから、あまり他の人に話さないほうがいいって言うの」と言って、多くを語ろうとしない。それでもその子が断片的に語るところの金星は驚異の事象に満ちていた。空飛ぶ円盤や惑星間を航行できる巨大な母船。モスクを思わせるような教育塔。テレパシーで語りかけてくる金星人たち。その子の語る金星の文明は、科学的にも地球の文明よりはるかに優れていることは明白だった。(続く)編注:この「幽体離脱と金星」の話は、私が1988年ごろ、「ボストンクラブ」という書籍に書いた「ETとの交信は可能か(パート2)」をほぼそのまま掲載したものです(パート1はフリーページにあります)。長いので七回続きとなります。金星人が出てくるので、びっくりされる方もおられるかもしれませんが、非常に示唆に富んだ話なので、「眉つば」などと言わずに、辛抱強く読んでみてください。
2005.03.04
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雲に消えた魂知っていますか? 空前のペットブームの陰で、多くの犬や猫が殺されているということを・・・。フォトジャーナリストの児玉小枝さんの『どうぶつたちへのレクイエム』(日本出版社)によると、一年間に日本全国で、犬16万4209匹、猫27万5628匹が命を奪われたのです。人間に捨てられたペットは、保健所などの収容所で「処分」されてしまうのですよね。まさに現代のアウシュビッツです。東京では環状八号線沿いに、犬たちの「アウシュビッツ収容所」がありますよね。悲しい目をしたワンちゃんが大勢、そこに収容されるのです。そこで殺された犬たちは次から次へと燃やされて、その魂は煙となって煙突から空に上ってゆきます。空に上りながら、自分を捨てた人達を恨むこともせず、ただ「どうして」って鳴くんです。「どうして、僕は捨てられたの?」――。煙はやがて雲となり、雲はそのうち雨雲になります。もし雨が降ったりしたら、その一滴(ひとしずく)を手の平で受けてみてください。水滴の向こう側に命が透けて見えるでしょ。東京の雨が苦いのは、そんな理由があったのです。(注:写真の煙突は、収容所とは関係ありません)
2005.03.03
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米大統領選とメディアマービン・カルブの第八週の授業では、大統領選とメディアについて議論した。といっても1996年の大統領選なので、クリントンの再選は半ば決まっていたし、それほど盛り上がっていたとはいえない。ただ、授業と同時並行で選挙戦が繰り広げられていたので、それなりの臨場感があるクラスとなった。今から思うと、1996年の大統領選はのどかだった。クリントンの対立候補であったボブ・ドールも人のいいおじいさんのように見えた。メディアも選挙を淡々と伝え、可もなく不可もない報道だったのではないだろうか。勝負は初めから決まっていたので、メディア操作をする素地も少なかったのだろう。その後、2000年、2004年の米大統領選の報道を見ると、牙を抜かれた米メディアの実態がくっきりと浮かび上がってくる。2000年の大統領選ではフロリダ州で不正があったのは明白だ。以前、この日記でも紹介したように私のクラスメートでもあったキャサリン・ハリスと、ジェブ・ブッシュの悪党コンビは、民主党支持者とみられる黒人票を中心に一方的な公民権剥奪という手段を使って「都合の悪い票」を大量に葬り去った。しかし、そのことを報じたのは米メディアではなく、外国のメディア(英オブザーバー紙のグレッグ・パラストの記事)であった。米メディアはこの件に関しては、概してあまり報じないか、報じても扱いが小さいように思う。なぜ選挙の不正を徹底的に叩かなかったのか。ウォーターゲート事件で見せた執念はどこにも見られなかった。不正は2004年にもあったとみられるが、米メディアはほとんど骨抜きにされたようで、「終わったことはどうしようもない」との姿勢を通しているようだ。 2000年の大統領選では共和党系が支配する最高裁の壁の前に、本当は選挙に勝っていたゴアが敗れた。ゴアは最後までフロリダ州の票をカウントさせるよう戦うべきだったが、アメリカを二分するような亀裂を生じさせないために身を引いた形になった。しかし、このゴアの誤った決断の背後には、メディアによって意図的に築かれた「世論」があったように思う。「これ以上ゴアが駄々をこねるのは潔くない」との世論をつくり上げたのは、誰であったのか。その一つの答えが、メディアが実施した世論調査だ。あるいは、メディアが報じる「町の声」や「評論家の意見」であった。だが、本当に客観性のある調査が実施されているのだろうか。あるいは、本当にそんな結果になるほど米国民は頭が悪いのか、と思われるような場合が多い。思えば、1960年の大統領選でもケネディの父親ジョゼフ・ケネディはイリノイ州で不正を働いた疑いが強い。その不正の結果、稀にみる激戦を制して生まれた大統領が英雄になるわけだから、勝てば官軍。悔しかったらどんな手を使ってでも勝ってみろ、ということか。選挙人名簿から民主党支持者とみられるマイノリティーを大量に除外してしまうような国である。アメリカは、もう何でもありの「不正天国」になったようだ。米メディアが果たす役割は、その不正のための道具にしかすぎないのだろうか。
2005.03.03
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ウォーターゲート事件とメディアペンタゴンペーパーのスクープとウォーターゲート事件の報道は今でも、米ジャーナリズムの金字塔となっている。おそらく、これほど米ジャーナリズムがいい意味で脚光を浴び、活気に満ちた時代はなかったのではないか、とも思える。1971年、ヴェトナム戦争に関する国防総省極秘文書がニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙などに漏れる事件があり、その一部が裁判になった。これをペンタゴン文書事件という。極秘文書を漏洩するのは国益に反する許されざる行為なのか、それとも国民の知る権利が優先されるべきなのか。裁判では大統領の記事差し止め請求の適否が論点になったが、結局、新聞社側が勝訴した。仮に新聞社側が負けていれば、取材活動は大いに規制・制限され、国民が知らされる“事実”は権力者に都合のいいものばかりになっていたかもしれない。米メディアは面目を保ったわけだ。ウォーターゲート事件も、メディア側の“勝利”であったといえる。1972年6月、首都ワシントンのウォーターゲートビルにある民主党全国委員会本部に共和党筋の人物が盗聴装置を設置するために侵入して逮捕された。逮捕されたのは、フランク・スタージスという亡命キューバ人で、ケネディ暗殺でも暗躍したとされるCIAの非合法工作担当員ら7人。ただの侵入事件ではないとにらんだワシントン・ポストの記者が、ニクソン政権ぐるみの不正行為である疑いが強いことを執拗に暴き続け、一大スキャンダルへと発展した。裁判の過程では、ホワイトハウスのもみ消し工作と上層部の関与、以前から政敵に対して行ってきた不法な諜報活動が次々と明るみに出た。リチャード・ニクソン大統領自ら「潔白を証明する」ために、執務室の会話と電話のやり取りを記録したテープを提出したが、作為された空白があることがわかってしまうなど逆に疑惑を深める結果となった(私はこの空白の部分にこそ、ケネディ暗殺に関する決定的な発言があったのではないかと思っています。それについてもいずれ、このホームページで公開していきます。すぐに知りたい方は、図書館で拙著『ジョン・F・ケネディ暗殺の動機』近代文芸社をお読みください)。 さらには、大統領の納税申告における不当な控除やスピロ・アグニュー副大統領の汚職容疑に絡む辞任などがあり、ニクソンに対する国民の不信感は急速に強まった。一方ニクソンは1973年9月、対ソ連、対中国話し合い政策の推進に功績を挙げたヘンリー・キッシンジャー大統領特別補佐官を国務長官に抜擢、平和外交姿勢を明確にするなどイメージアップ作戦を展開した。しかし、ニクソン最後の悪あがきも無駄に終わり、74年7月には下院司法委員会で弾劾勧告決議が採択され、同年八月八日ニクソンは自ら職を辞した。ウォーターゲート事件は、大統領対メディアという対立図式でもあった。大統領辞任までには司法や議会の功績もあったが、これほどの大スキャンダルに発展した背景には、ワシントン・ポストの二人の記者の執念があったことは特筆すべきであろう。米メディアこうして、権力の不正に立ち向かうという「輝かしい伝統」をつくり上げた。しかし、その伝統もつかの間であったのかもしれない。現在の米メディアは権力に飼い慣らされた「尻尾を振る番犬」でしかない。魂を悪魔に売ったファウストのようで、利益優先の大企業にその魂を売り、いつしか権力の宣伝機関となった米報道機関の「屍」の数々を見ると、無性に悲しくなってくる。
2005.03.02
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晴れていれば雲の向こうに富士山が見えます。その手前左に日本では珍しいモスクの尖塔が写っています。
2005.03.01
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大統領と報道機関マービン・カルブの第六週の授業では、大統領とメディアの関係について議論した。これは取材する側とされる側の永遠のテーマでもある。取材先とどこまで付き合い、どこまで親しくすべきなのか、一方、取材される側も取材する側をどこまで信用すべきなのか、といった問題が常に付きまとうからだ。記者は大統領をはじめてとする政治家から情報を得ようとする。大統領(政治家)は記者を利用して自分の都合のいいように原稿を書かせようとする。両者の利益が一致する場合もあるが、多くの場合は本当に書きたいことと、書かせたいこととはかなり異なる。その結果、紙面やテレビで現われるニュースは、大統領(政治家)にとって都合のいいニュースと都合の悪いニュースが交錯することになる。その比率は残念なことに、大統領(政治家)に都合のいいニュースのほうが圧倒的に多い気がする。これは仕方がないといえば、仕方がない面もある。情報を知るものと、それを得ようとするものとの立場の違いが大きなハンディとなっている。情報を得ようとするものは、ある程度取材源に気に入られる必要がある。その度合いが深まると、取材源に染まってしまう。例えば、読売のナベツネなどは完全に取材先の政治家に染まりながら、のし上がっていった政治記者の典型のような人物といえる。また、そうしないとネタを取れないというジレンマもある。元ワシントンポスト編集主幹ベン・ブラドリーの『マイ・グッド・ライフ』を読むと、アメリカの政治記者にも同じようなジレンマがあるようだ。ブラドリーはたまたま、首都ワシントンDC・ジョージタウンの引越し先で、上院議員だったジョン・F・ケネディの隣人になったことからJFKと親しくなった。その後JFKが大統領になった後もその親交は続き、ブラドリーは大統領から特ダネを次々ともらいスクープを連発する。ケネディにとっても利用価値はあったし、ブラドリーにとっては願ってもない状況だった。当然のことのように、JFKに対する批判記事は少なくなる。だが、JFKが暗殺され、ジョンソンが大統領になると、形勢は一変する。ジョンソンはわざとワシントンポストのブラドリーにガセネタをつかませたり、重要な情報を知らせなかったりする。ジョンソンはJFKシンパに事実上の報復を始める。私にはJFKとブラドリーの蜜月的な関係よりも、ジョンソンとブラドリーの緊張感のある関係のほうが健全のように思える。緊張関係があったからこそ、後のペンタゴンペーパー事件では権力と真っ向から戦う姿勢を示せたのだし、ウォーターゲート事件のスクープにつながったのではないだろうか。その話はまた明日。
2005.03.01
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