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北東北の縄文遺跡群を調べていくと、大湯環状列石のそばにある黒又山が測量の中心であったことが浮き彫りになってきます。まるで扇の要にような場所に黒又山があることがわかるんですね。それを示したのが、本書209ページに掲載された次の地図です。北東北の主要縄文遺跡と黒又山の関係を表わした地図ですが、黒又山が扇の要に位置しているのがよくわかりますね。特筆すべきは、(14)の御所野遺跡と(15)の伊勢堂岱遺跡を結んでできる二等辺三角形です。しかも御所野遺跡と伊勢堂岱遺跡は、82キロも離れているのに、中心の緯度が北緯40度12分と完璧に一致するんですね。既に紹介したイギリス・エイヴベリーの人工丘シルベリー・ヒルと、9キロ離れたマールボロ大学構内にある人工丘マーリンの丘を結ぶ緯線に匹敵する、あるいはそれを凌駕する緯線の測量技術がここにあるように思われます。また、黒又山、御所野遺跡、釜石環状列石を結ぶとほぼ完璧な正三角形になります。しかも黒又山山頂から御所野遺跡の中心までの距離は、黒又山から釜石環状列石の中心までの距離と同じ42・4キロで、その誤差はわずか3メートルしかありません。42キロの距離でたった3メートルの誤差しかないと言うのは、もう神業としか思えません。ほかにも、黒又山の山頂から(11)の是川石器時代遺跡と(8)の大森勝山遺跡、それに(17)の湯舟沢環状列石までの距離はほぼ等しい60・6キロです。北東北の大地に次から次へと、黒又山を中心とする二等辺三角形などの幾何学図形が浮かび上がってくるんですね。(続く)
2017.01.31
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縄文時代にはそのような高度な測量技術がなかったはずだと思い込んでいる人も多いと思います。しかし、間違いなく彼らは高度な測量技術を持っていました。それがミニチュアのモデル的にわかるのが、秋田県の大湯環状列石(ストーンサークル)です。まずはこちらをご覧ください。本書232ページに掲載された地図です。縄文時代にこれを建造した人たちは、何のグランドデザインもなく、漫然と造ったのではないことは上の図からも明白ですね。簡単に説明すると、大湯環状列石には二つの大きなストーンサークルがあります。上の図でいうと、左側のストーンサークルが万座環状列石で、右側が野中堂環状列石です。で、この配置は夏至の日の日の入りラインを意識して設計されています。すなわち、それぞれのストーンサークルの中心を結ぶと、それぞれの日時計と呼ばれる組石を通り、一直線上に並ぶようになっているんですね。しかも、二つの環状列石の間の距離(c)の90メートルは、万座環状列石の直系(a)の48メートルと野中堂環状列石の直系(b)の42メートルを足した和になっています。さらに言うならば、それぞれの環状列石の中心から内帯の外側までの距離を整数倍にした距離に、外帯の内側と外帯の外側が配置されているんですね。つまり、すべて計算し尽くされて、列石が配置されているわけです。実はこれこそが「タカミムスビの法則」による測量の基本です。距離と方位を測りながら、直線で聖なる場所(環状列石の中心や日時計)を結んで行くからです。この測量方法を、より広大な北東北全体でもやっていたのではないかというのが私の見解です。北東北のすべての縄文遺跡が、あるグランドデザインによって、正確に測量されて意図的に配置されているわけです。その証拠を次に挙げていきましょう。(続く)
2017.01.30
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「竹内文書」の残された古代測量技術集団の「痕跡」から、彼らが何者なのかを知るのはほとんど不可能です。でも一体どこに巨大な国家を築いたのかはわかります。位山を中心とする古代飛騨と越の地方です。どれだけ古いかはわかりません。おそらく縄文時代までさかのぼることができるのではないか、と思うんですね。もしそうなら、縄文遺跡でも古代測量技術を使った「集落」の建造があったのではないか、と考えたわけです。そのことを検証する際に使ったのが、北東北から北海道にかけての5000年前の縄文遺跡群でした。それが本書の第五章「縄文遺跡群と神秘の測量」です。北東北といったら、すぐに思い出す縄文遺跡は、秋田県の大湯環状列石と黒又山です。私はこの場所を突破口にして、既に縄文時代において、日本には高度な測量をする技術集団がいたという仮説を立証しようとしたわけです。(続く)
2017.01.28
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オオナムヂの渡来以前に、既に古代日本の国土測量を実施した王朝があったと私が考える理由が「竹内文書」にあります。何度も紹介しましたが、私が東経137度11分に羽根ラインを見つけるきっかけとなった記述を再度掲載しましょう。「竹内文書」には、「上古第14代国之常立天皇が天空浮舟に乗って徂徠ヶ岳(後に改め鑓ヶ岳)に向かって羽根飛び登り行く所を羽根と名付ける」という趣旨のことが書かれています。私はこの記述から、東経137度11分に羽根という地名が一直線上に並んでいることを見つけました。国之常立といったら、オオナムヂは元よりアマテラスやスサノオよりもはるか以前に存在していた神です。で、この徂徠ヶ岳改め鑓ヶ岳が、越―出雲のオロチラインの起点となっているわけですね。どう考えても、大和朝廷誕生のはるか昔のころのことです。だけど面白いのは、京都の五山送り火に平安京建造の秘密が隠されているように、古代日本が大規模に測量されたことが隠されるような記述になっていることです。つまり天皇(すめらみこと)が天空浮舟に乗って羽根飛び登り行くところを羽根と名付けたというのはレトリックに過ぎず、天空浮舟は測量用の気球のことで、実際の「羽根」は測量点であった可能性があるんですね。それを示したのが、本書『竹内文書と平安京の謎』の62ページに掲載されている「図2-2」です。上の地図は、「竹内文書」に登場する神殿などの聖地やスメラミコトの御陵となった聖なる山を結んだものです。簡単に説明すると、まず(2)天柱石(3)尖山(4)二上山で正三角形ができます。なおかつ、天柱石から(1)の宝達山までの距離も、尖山から(14)の鑓ヶ岳までの距離も、その正三角形の一辺の距離Aと同じです。しかも、奥能登の最高峰である”聖山”の宝立山から羽根ラインの中心に位置する聖山・位山までの距離がAのきっちり4倍になっています(57ページの地図を参照してください)。その中で、(7)(8)(10)には羽根という地名があり、聖地と聖地を結んだ直線の交点になっているんですね。これらは、測量したのでなければ、ありえない配置です。その古代測量集団が作ったラインの見取り図を「竹内文書」に秘して残した人たちが、この日本にいたんですね。一体誰なのかが次の問題ですね。(続く)
2017.01.27
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昨日紹介した「ヤマタノオロチ・ライン」です。本書『竹内文書と平安京の謎』の179ページに紹介した地図です。これが、越と出雲を結ぶ、古代越王朝の測量ラインであったと私は考えています。一応簡単に説明すると、(1)鑓ヶ岳、(2)尖山、(3)天柱石、(4)船通山、(5)八頭、(6)八尾で、この(1)~(6)を一直線で結ぶのがオロチの越―出雲ラインです。『古事記』神話や「竹内文書」を読み解くと、ちょうど越の国から出雲の国へと進出しているヤマタノオロチを、地図のイラストのように想像することができるわけです。このラインの凄いところは、八頭と八尾を結んでいることだけではありません。、鑓ヶ岳と天柱石を結んだ直線のちょうど中点に尖山が配置されていることです。「竹内文書」によると、尖山は古代の神殿跡ということになっています。この三点を結ぶ完璧な等分線と聞けば、すぐに思い出すのが、三上山ー三上山ー二上山の直線ですね。そうです。まったく同じ測量方法を使っている可能性が強いんですね。しかも、三上山―三上山ー二上山の直線は、天柱石と白山を結んだ直線と完全に一致する同一直線です。偶然ではありえない確率です。だれかが壮大な国土計画に基づいて、測量線を引いたとしか思えないほどの正確なラインです。西暦56年ごろ神武によって樹立されたとみられる大和王朝では、これだけのことは成し遂げられなかったはずです。オオナムヂとスクナヒコナが測量した可能性もありますが、私はむしろ、スサノオによって統治される前に既に日本の古代王朝が作っていたラインではないかとみています。それが古代飛騨王朝です。次回は大和王朝ができるはるか前に、この古代日本を統治していたとみられる飛騨・越王朝について語りましょう。(続く)
2017.01.26
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オオナムヂやスクナヒコナがもたらした測量土木技術が、平安京などの古都建造に利用されたことは間違いない事実だと思います。でも問題は、それ以前に、既に古代日本には高度な測量技術があったのではないか、という点です。それが本書『竹内文書と平安京の謎』の第二章、第四章、第五章で取り上げた、東経137度11分の「羽根ライン」など縄文時代に作られたとみられる測量ラインです。そのヒントとなるのが、オオナムヂが国作りをするずっと前に起きた、スサノオのヤマタノオロチ退治です。神話では、オロチは大蛇や怪物のように描かれています。しかしながら『古事記』をよく読むとわかりますが、オロチは「越のヤマタノオロチ」と書かれています。つまり越国を支配していた土着の王であった可能性が強いわけです。『古事記』はその点、非常に正確にオロチの支配地域を描写していて、谷を八つ、山の峰を八つ越えるくらい大きく、八つの頭と八つの尾を持つと書かれています。それは地名に残されていて、鳥取の「八頭」と富山の「八尾」がそれに該当します。つまり鳥取から富山までの山陰・北陸地方を広く統治していたのが越王オロチです。『古事記』はさらに詳しく、越国が国土の測量に使った山の名前すら記しています。高天原を追放されたスサノオが降り立った地が「船通山」の麓であったと書かれているんですね。この出雲にある船通山が越国の測量山です。どうしてそういうことがわかるかというと、アマテラスやスサノオが大陸からやって来る前の縄文時代の歴史を記録したとみられる「竹内文書」を読み解いたからです。「竹内文書」で聖地とされている富山の「尖山」と「天柱石」を結んだ直線は、見事に「八尾」と「八頭」を貫き、「船通山」に至るんですね。それだけではありません。国常立之神が「羽根飛登行所」から天空浮舟に乗って飛び立った先が「鑓ヶ岳」であると書かれていますが、西から船通山、八頭、天柱石、八尾、尖山を結んだ直線は、東のこの鑓ヶ岳をも結んでいるんですね。天空浮舟が測量に使う気球とか、夜間の焚火で飛ばす測量の光のことを隠喩的に表現しているのだとしたら、まさにその飛び立った先が鑓ヶ岳であったわけです。これこそ、オロチか、あるいはオロチの祖先が作った「ヤマタノオロチライン」であったのではないでしょうか。(続く)
2017.01.25
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オオナムヂがシュメール文明を継承するシュメール人の末裔であると考えると、合点が行くことがあります。『古事記』では、スサノオがオオナムヂを初めて見たときに、なぜかは書かれていませんが、「アシハラシコオ」だと一瞬で見抜いたことになっています。アシハラノシコヲとは「葦原色許男」と書きます。葦原の強い男というような意味ですね。そう、「葦原」と言えば、シュメール人たちの住んでいた場所のことです。何度か書いたと思いますが、シュメール(正確にはスメルかシュメル)はアッカド語で、シュメール人たちは自分たちのことを「頭の黒い人たち」と呼び、自分たちの国を「キエンギ」と呼びました。で、この「キエンギ」がどういう意味かについては諸説があります。「キ」は大地。「エン」は主とか統治者という意味で間違いないのですが、問題は「ギ」の解釈です。「ギ」を「高貴な」とか「文明」と見る向きがある一方で、元々の「ギ」の意味である「葦」と見ることもできるからです。ですから、「高貴な王の国」と解釈する一方で、「葦が主となる大地の国」とも解釈できることになります。とくに「エン」には、上から見渡すようなニュアンスがあるので、「見晴るかす葦原の大地」というように訳すことも可能なんですね。私は、この後者の解釈を採っています。この後者の解釈を取ったときに、記紀に登場する「豊葦原の国」とか「葦原中国」と、「キエンギ」が相呼応するわけです。そこで、スサノオとオオナムヂが初めて出会った場面に戻ります。確かにオオナムヂはその後、スサノオに認められ「葦原中国」を統治することになります。だが、初対面の時はまだ、どこの馬の骨ともわからぬ「異人」であったはずですよね。それにも拘わらずスサノオが、オオナムヂのことを「葦原色許男」と呼んだということは、オオナムヂがその顔立ちから古代メソポタミアのシュメールにいた部族の子孫であることがすぐにわかったからではないでしょうか。逆にそう考えないと、なぜいきなり「アシハラノシコヲ」と呼ばれたのか、理解できませんね。私が言いたいことが段々わかって来たのではないでしょうか。つまり、5000年前に一大都市文明を築いたシュメール人たちの末裔である「シュメール文明の継承者」が技術と知識を携えて、日本に渡来してきたわけです。その一人がオオナムヂ。その知識と技量が高く評価されて、スサノオから国土計画を任せられたのが、オオナムヂの国作り神話の真相です。そのことを古代日本人も知っておりました。だから柿本人麻呂が『万葉集』で、「吉野の妹背山を建造した偉大なる神」としてオオナムヂを称えているわけです。5000年前の歴史と技術を知るシュメール文明の血脈が、引き継がれ引き継がれて、古代日本にやって来た事実が何となく浮かび上がって来ますね。オオナムヂやスクナヒコナがもたらした国土測量技術や風水の知識が、古代日本の都を建造する際にも使われました。その測量技術は、オオナムヂの子アヂスキタカヒコネに引き継がれ、賀茂氏に継承され、それは陰陽師によって現代にまで血脈として受け継がれているわけです。だけどここには、もう一つの問題もあります。それは次回以降にお話ししましょう。(続く)
2017.01.24
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オオナムヂの正体の続きです。結論を先に言うと、神話におけるオオナムヂの物語は、シュメール神話に出てくる牧畜神ドゥムヂの神話の完全なパクリです。「ナムヂ」と「ドゥムヂ」で、名前も似ていますよね。スメル語で「ドゥム」は子供とか息子という意味で、「ヂ(ジ)」は生命力とか活力、あるいは真実という意味があるといいます。これに対して、「オオナムヂ」は偉大なる(オオ)大地(ナ)の男神(ムヂ)ではないかとの説が一般的です。どちらも生命力とか若さ、活力に関係する神であることで一致していますよね。このドゥムヂの物語は、そっくりそのままナムヂの物語になっています。これはどういうことかというと、シュメール神話のドゥムヂが名前を変えながら語り継がれて、日本にまでやってきたことを意味しています。シュメール文明は、紀元前4000年ごろから紀元前2000年ごろまで古代メソポタミアで栄えた最古の都市文明とされています。その多神教の文明と神話はその後、一神教の古代ユダヤにも引き継がれて、ドゥムヂがタンムズに変わり、ユダヤ暦の月の名前に使われています。一方で、古代ギリシャにも伝わり、アドニスと名前を変えて、継承されました。そしてその物語がシルクロードを使って、日本にまでもたらされてナムヂとなったわけです。4000年もの月日が経過したにも関わらず、名前も物語も、ほぼそのまま日本に語り継がれてきたというのは、驚異的だと思いませんか。実はここにこそ重要なポイントがあります。考えても見てください。伝言ゲームですら、このように詳しくは伝わりません。五分前に伝言した「猪」は「猫」になってしまうのが、伝言ゲームです。ところが、シュメール神話と記紀神話を見てみると、ドゥムヂこそナムヂに変わっていますが、猪に似たものが命を奪う点や、木の間に挟まれて亡くなる点など細部に至るまで正確に語りつがれています。それが4000年の月日を越えて語り継がれたということから、単に伝言ゲーム的に古代シュメールから古代日本に伝わったわけでは決してないことがわかります。そうです。シュメール文明・神話を血脈として受け継いだシュメール人の子孫が日本に渡来して、この物語を伝えたと考えるべきなんですね。その一人がオオナムヂであった可能性があるわけです。オオナムヂが中近東や地中海方面から渡来した民族の血を引くものであるとしたら、記紀神話との辻褄も合ってくるんですね。この話はもうちょっと続けましょう。(続く)
2017.01.23
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古代日本に陰陽五行思想や測量技術をもたらしたオオナムヂとは一体何者だったのか、ということにも触れておきましょう。実はオオナムヂは、「記紀」を読んでも素性が全くわからないんです。『古事記』の「スサノオのご神裔」では、スサノオの息子のヤシマジヌミの子孫であるかのように書かれていますが、スサノオの娘スセリビメの婿ですから、その「ご神裔」自体が物語と矛盾しており、破たんしています。その一方で、オオナムヂの素性を知る手掛かりは、『古事記』にたくさん盛り込まれています。まずは「因幡の白ウサギ」の物語。このとき、オオナムヂはガマの穂を使った止血方法を教えて、ウサギを助けるわけですが、医療技術の知識の高さを暗示すると同時に、隠岐の島から海を渡って本土に上陸したウサギの味方であること伝えているわけです。渡来人に同情的ということは、もしかしたらオオナムヂ自身も渡来人であるかもしれませんよね。そのことを強烈に印象付けているのが、八十神に追われるオオナムヂの物語です。ヤガミヒメとの婚姻競争に負けた八十神たちは、オオナムヂを亡き者にしようとします。猪に似せて、赤く焼けた岩をころがして、オオナムヂの命を奪ったかとおもうと、女神の力で復活したオオナムヂを木に挟んで殺そうとします。重要なことは、この物語がオリジナルの物語かと言うと、実は違うということです。完全にギリシャ神話のアドニスの物語のパクリなんですね。オオナムヂが八十神たちによって猪に似せた岩に押しつぶされて殺された話は、美男子アドニスがアフロディーテの寵愛を受けるようになったことに腹を立てた軍神アレースが、猪に化けてアドニスを殺してしまうというモチーフを完全に拝借しています。どちらも、猪に似たものに殺され、その動機は“恋敵”に対する嫉妬心です。また木が裂けて、その木の中からアドニスが誕生するというプロットは、そのまま、木の間に挟まれて押しつぶされたオオナムヂが、木の中から救出されて再生する筋書きに使われています。こんなにもギリシャ神話から借用するということは、オオナムヂ自身が、遠く地中海・中近東方面から来た渡来人であることを記紀の編纂者が知っていたからではないか、と私は考えるわけです。この話はもうちょっと続けましょう。(続く)
2017.01.22
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今日は24節季の大寒。新著『シンクロニシティ「意味ある偶然」のパワー』の発売日でもあります。この発売日に合わせて共著者の秋山眞人氏が、YouTubeに新刊本の告知を含む「2017年はこんな事が起きる」をアップしておりますので、御紹介します。秋山氏が紹介しているように、今回の新著は最初から最後までかなり濃い内容です。この本を書くときに、私もずいぶん多くのシンクロニシティの本を読みました。でも、国外で出版された本を含め、たいていの本は、シンクロニシティ現象を分類するか、法則性を紹介するだけにとどまっています。しかしながら、この新著では、分類や法則性だけでなく、その見つけ方や起こし方、その意味の読み解き方、それにメカニズムや活用法にまで言及しており、シンクロニシティの決定版とも言えるような掘り下げた内容になっています。シンクロニシティのことを知りたい方は、是非手に取ってお読みください。さて、秋山氏の2017年の予測によると、今年は八卦の「坎」の年だそうです。性質は、集中の滝。自然界の水を象徴する「元型(アーキタイプ)」です。方位は北で、色は黒。何か一つのことを掘り下げて究めると、うまく行く年ということになるようです。だからその年の初めに、この本を世に出したことも、「意味ある偶然の一致」だったわけですね。今書いている次の本も、一つのことをかなり掘り下げて書いていますから、これも時霊(時の神様)に適った本になりそうな予感がしています。ちなみに秋山氏が昨年を予測したYouTubeの「2016年はこんな年になる」はこちらです。八卦の「乾」の年でした。「リーダーシップの天」。対立や格差が激しくなる年であると秋山氏は見ていましたが、実際その通りになったように思います。秋山氏の予測は良く当たりますね。
2017.01.20
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陰陽師が何者で、どこから来たか、というと、中国の戦国時代(紀元前408年~紀元前221年)に陰陽五行を説いた陰陽家の思想を受け継ぐ人たちで、中国から渡って来た人たちである、ということになります。で、記紀に出てくる登場人物で、もっとも陰陽家に近かったと思われるのが、オオナムヂとスクナヒコナなんですね。そう、吉野の妹背山を造った神々です。実際にオオナムヂたちが、陰陽五行に精通していたことを如実に示しているのが、後年になって日本で陰陽道を束ねることになる賀茂氏の存在です。この賀茂氏のご先祖さまは誰かと言うと、アジスキタカヒコネ(迦毛大御神)であり、タケツノミ(賀茂の祖神)です。そのアジスキタカヒコネの父親は誰かと言うと、オオクニヌシことオオナムヂなんですね。母親は宗像三女神の一人タキリビメです。つまりオオナムヂが日本に陰陽五行の思想をもたらした可能性が非常に強いわけです。その子孫である賀茂氏が陰陽道を束ねたのは当然と言えば当然です。で、既に何回か書いていますが、アジスキタカヒコネとタケツノミは同一人物である可能性が高いです。どちらも賀茂の大神様ですからね。ということは、オオナムヂが大陸から陰陽思想を携えて渡来、その卓越した技術力と知識をスサノオに認められてオオクニヌシとなったと見るのが一番自然なんですね。そしてその知識と技量を子孫の賀茂氏に継承し、その賀茂氏が京都に、五芒星に守られた平安京を造ったと見るのが妥当だと思います。(続く)
2017.01.19
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シンクロニシティの本『シンクロニシティ「意味ある偶然」のパワー』を書いたら、昨日シンクロニシティが起こりました。昨日地上派で『プロフェシ―』という映画をやっていましたが、149ページにこの映画のことをかなり詳細に取り上げています。この映画を最初に見たとき、まさか実話を基にしたフィクションであったとは想像もしていませんでした。原作はジョン・A・キールの『モスマン・プロフェシ―』。キールは実際に取材して、ポイント・プレザンスの大災害の前にモスマンの目撃など怪奇現象が多発したことをリポートしているんですね。この実話の中に、シンクロニシティの正体を明らかにする手掛かりが隠されています。その正体や解き方、メカニズムを知りたい方は、20日発売のこの本を是非お読みください。
2017.01.18
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五山送り火の「大」の字に隠された秘密ですが、実は五山送り火には「嵐山」も隠されています。嵐山とは、渡月橋で有名な京の西にある地区です。だけど、本来は嵐山という山を指していたんですね。私はそれを、京都新聞の記事で知っておりました。で、私が驚いたのは、そのことを地元でも知らない人がいるということです。嵐山地区でお土産屋さんをやっている人に聞いたら、「この地区全体を嵐山というのであって、嵐山という単独の山があることは知らない」と言うんですね。2、3人に聞いても同じ答えが返ってきます。ところがようやく、人力車をやっている若いお兄ちゃんに聞いたら、嵐山という山があることを知っており、その場所を教えてくれます。そのとき気づいたのですが、どうやら「嵐山」は陰陽師によって隠されたのではないかという可能性です。既に説明したように、五山を結ぶと五芒星ができるわけです。五芒星は護符の役割を果たし、平安京をあらゆる魔力や魔術から守る働きがあるわけです。しかし、そのことを公にしてしまうと、護符の力を逆に封じることもできることになります。そこで、あえて五山送り火の五山と共に京を守る五芒星の一つを形成する嵐山を隠した。隠したことにより、どの山が嵐山であるかどうかをわからなくして、護符の魔術を破らせないようにした、というのが私の推論です。その嵐山を使った五芒星が、本書『竹内文書と平安京の謎』の101ページに掲載されている地図です。簡単に説明すると、(6)(7)(9)(10)(12)(13)が五山送り火に使われる山々で、順番に大文字山、曼荼羅山、船山、左大文字山、西山、東山です。「大」の字の横棒が曼荼羅山、左大文字山、西山、東山を結んだ線となります。上から左下へ流れる線が、船山、左大文字山、嵐山。上から右下へと流れる線が、船山、左大文字山、船岡山、大文字山です。陰陽師はこの「大」の字を使って五芒星を思い描き、京の北側の護符としたはずです。おそらく当時は「秘中の秘」でしたから、その五芒星を敵に思い描かせないように、嵐山を隠したというのが真相ではないでしょうか。では、この陰陽師とは誰で、どこから来たかについて、次のブログでご説明しましょう。(続く)
2017.01.17
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少なくとも大国主ことオオナムヂから始まったとみられる日本の国土測量の「ハイテク技術」は、ニギハヤヒの大和王朝や、神武・崇神の大和朝廷においても引き継がれ、飛鳥京、藤原京、平城京、平安京と連綿と継承されていたのではないか、と私は見ています。というのも、都の造り方が同じだからです。聖なる山と山、聖なる高みと高みを結び、都の位置や規模を決めて行きます。その測量方法が、大文字焼きや五山送り火という行事や祭事として残されたというわけです。たとえば平安京を見てみましょう。最初の起点はおそらく京田辺市の甘南備山です。つまり神の降臨する神奈備山ですね。この甘南備山の頂上から北を見ると、右に比叡山、左に愛宕山の2大巨峰がそびえているのがよく見えます。古代の国土設計士は、この二つの巨峰と甘南備山を使って、平安京をデザインすることを考えたはずです。そこで、次の地図をご覧ください。本書86ページに掲載されている地図です。甘南備山が(3)、比叡山が(1)、愛宕山が(2)ですね。愛宕山と(5)の嵐山を結んだ直線と、比叡山と(6)の大文字山を結んだ直線の交点がPです。次に、甘南備山とPを結んで、直線を北に引いていきます。この直線を平安京の中央軸としたわけです。その際、より明確に中央軸を引くために、(4)の船岡山を人工的に造ったのではないかと私は見ています。さらに嵐山と大文字山を結んだ直線と、中央軸との交点に平安宮の朱雀門(11)を建造。平安京の幅は、愛宕山と曼荼羅山(7)を結んだ直線や、左大文字山(10)と船岡山を結んだ直線、さらに愛宕山と大文字山を結んだ直線や、船岡山と嵐山を結んだ直線によって決められたというわけです。お気づきのように、ここには五山送り火で使われる山がすべて使われています。図では(9)の船山だけ利用されていないようになっていますが、これはわかりづらくなるのであまり線をたくさん引きたくなかったという作図上の都合によるものです。実は平安宮(宮城)の幅を決めるときに利用されています(具体的には甘南備山と船山を結んだ直線で、平安宮の南西角が決められています)。そしてこの五山をすべて結んで出来上がるのが、大文字焼きの「大」の字であり、陰陽師の五芒星であったというわけです。次はその「大」の字に隠された秘密について語りましょう。(続く)
2017.01.15
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再び123ページの図3-14を見ながら説明しましょう。平安京の中心軸を作るために利用された山が(7)の船岡山です。(9)の大津近江京、恭仁京、そして(18)の吉野宮の造営に利用された山が(17)の船岡山。その(17)の船岡山とともに、吉野宮を造る際に利用された紀伊国の山が(16)の船岡山となっています。この近畿地方に配置された三つの船岡山が、古代日本の都を建造する三つの基本的な測量山となっているわけです。(7)の船岡山と(16)の船岡山を結ぶと、その直線上に平安京と長岡京があり、(7)の船岡山と(17)の船岡山を結ぶと、平安京、平城京、藤原京が直線上に並ぶ配置になっています。三つの同じ名前の山があり、その三つの山を結ぶと、このように日本の古都が直線上に並ぶというのは、偶然ではありえません。船岡山は、古代測量集団のグランドデザインに基づく測量山の役割を果たした重要な山であったことが、名前からも偲ばれるわけです。で、そのことを象徴的に表現していたのが、平安時代の女流作家清少納言の『枕草子』です。清少納言はおそらくその重要性をよく知っていたのだと思います。だから「岡は船岡」と記したわけです。こうした測量は、よく夜間、山にかがり火を焚くことによって行われました。そのほうが正確に位置を確認できるからです。その名残が京都の夏の夜を焦がす「五山送り火」であったのではないか、と私は考えています。(続く)
2017.01.14
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オオナムヂの国作りを助けたスクナヒコナは謎の人物です。だけど、かなり高度な知識と技術を持った人でもあったようです。その中の一つに、測量技術があったのではないか、と私は考えています。再び123ページの図を見てみましょう。京都の三上山(2)から大和の三輪山(13)を通って、オオナムヂとスクナヒコナが造った妹山(14)を結んだ直線は、そのまま吉野の船岡山(17)へと続きます。で、図では、この吉野の船岡山(17)と、紀伊の船岡山(16)のを結んだ直線上に吉野宮(宮滝遺跡)があることを示しています。これも面白いですよね。なぜかと言うと、京都の平安京を造営するときに、南北軸を決めるために利用された山も船岡山というからです。次回はこの船岡山のついて、語りましょう。
2017.01.12
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さて、奈良県吉野にある妹山を造った神の名前の話でしたね。まずは、柿本人麻呂の歌とみられる『万葉集』の当該歌をご紹介しましょう。「大穴道少御神(おおあなむちすくなみかみ)の作らしし妹勢能山(いもせのやま)を見らしくよしも」歌の内容は、オオナムヂとスクナヒコナの神がお作りになった妹背の山を見るのはいいものだな、というような意味です。そうなんです。『古事記』によると、大国主ことオオナムヂが「国作り」をする際、スクナヒコナという参謀を得て国土を築いていきましたが、その国土造りのために造った山が妹背山だというんですね。この妹背山がどこの山であるかについては、二説あります。紀伊の妹背山ではないかとする説と、吉野の妹背山(妹山と背山)ではないかとする説です。実はどうちらも正しいのですが、よりわかりやすく、説得力があるのが吉野の妹背山です。しかも、紀伊の妹背山にはオオナムヂを祀った神社はありませんが、吉野の妹山にはオオナムヂを祀った大名持神社があります。写真を御紹介しましょう。これが吉野の妹山です。ピラミッドのような円錐形をしています。『万葉集』でも認められた古代日本のピラミッドでしょうか。オオナムヂが造ったのだとしたら、紀元前一世紀ごろのことだと思われます。(続く)
2017.01.10
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本書『竹内文書と平安京の謎』の123ページに掲載した地図を紹介いたしましょう。これは京都から奈良にかけての近畿地方の図です。上に琵琶湖、左に大阪湾があります。白抜きの長方形の部分が、上から平安京、長岡京、恭仁京、平城京、藤原京となっています。私が正確に大きさを測って、地図にそれぞれの古都を描きました。で、問題のラインが、(1)(2)(3)の三上山、三上山、二上山を結んだ直線です。この直線が恭仁京の中央(ただし恭仁宮は三上山の真南)と、平城宮の中央を一直線で結んでいることがわかりますね。さらに平城京のほぼ真南に藤原京があることもよくわかります。大和三山のうち(21)の耳成山が、二上山の真東におそらく人工的に造られた山であることや、藤原京を建造する際の夏至の日の出ラインとして測量に使われた神の山である(13)の三輪山が、(9)の近江大津宮、(2)の三上山、恭仁宮を結んだ直線上にあることも一目瞭然ですね。そうです。間違いなく古代日本の測量集団は、山と山を結ぶ「タカミムスビ」を使って、測量しながら古都を次々と築造していったんですね。(18) の吉野宮も、同様に測量して造られましたが、その際に測量に利用された「人工山」が、三上山―三輪山の直線上にある(14)の妹山です。この山が「神が造った特別の山」であることは、『万葉集』の柿本人麻呂の歌とみられる歌にも記されています。この歌が重要なのは、何と人工(神工)の山を作った人(神)の名前を明らかにしているからです。次回はちょっと脱線しますが、この神の謎に迫りましょう。(続く)
2017.01.08
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なぜ神の山である「上山」という同じ名前を付けられた山が等間隔に一直線上に並んでいるのかという問題です。その事実を解釈するときに考えられるのが、次の三つの可能性です。(1)古代の人々が、同じような標高の三つの山がたまたま等間隔(33・4キロ)に三つ直線上に並んでいることを測量によって知っていたので、「上山」という同じ名前を付けた。(2)古代の人々は、一直線上に等間隔に並んでいることを知らずに、測量もせずにまったく偶然にたまたま「上山」という名前を付けた。(3)古代の人々が、同じような標高の三つの山が一直線上に等間隔に並ぶように、三つの山全部かそのうちの一つか二つを人工的に建造して、意図的に「上山」と名付けた。一番単純で簡単な解釈は(2)ですね。全くの偶然にしてしまえば、それ以上何も考える必要はなくなります。神様のせいにしてしまえばいいんです。しかしながら、現実を見てみましょう。少なくとも真ん中にある京都の南端に位置する三上山は、測量に使われた聖なる山であることは間違いのない事実です。既に説明したように、恭仁京の宮殿は三上山の真南にあります。偶然に宮殿の真北に三上山があるとは考えづらいですよね。大和の二上山も、藤原京や平城京の古都造営には欠かせない測量山であり、聖なる山でした。なぜなら、平城京の宮殿(大極殿)は京都の三上山と大和の二上山を結んだ直線上にあるからです。藤原京も二上山の真東に造られ、夏至の太陽が昇るのは三輪山からであるように設計されています。飛鳥京から見れば、二上山に夏至の夕日が沈むように設計されてもいますね。つまり確実に言えるのは、大和の二上山と京都の三上山は、測量的にも、風水的にもなくてはならない重要な山として、「神の山」と名付けられたということです。間違いなく、古代の人々は、少なくとも二つの「上山」は測量していたんです。それらを示したのが、『竹内文書と平安京の謎』の123ページに掲載された地図なんですね。次回はこの地図を参照にしながら、古代日本の都がどのように建造されていったかを見て行きましょう。(続く)
2017.01.06
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まずはこちらをご覧ください。前にも紹介しましたが、近江富士こと滋賀県の三上山です。琵琶湖の対岸から撮影した三上山ですが、存在感があることがわかりますね。標高432メートル。山全体が御神神社のご神体となっています。まさに神の山。この神の山から33・4キロ離れた、京都最南端に鎮座するもう一つの神の山が、恭仁京の宮殿のほぼ真北にある三上山です。標高473メートル。恭仁京はこの聖なる山の真南に造られた都であったことがわかります。そしてこの三上山から33・4キロ離れた場所にある大和の聖山とされる山が、二上山です。標高は、雌岳が京都の三上山とほぼ同じ474メートルで、雄岳は517メートルあります。雄岳山頂には葛木二上神社があります。この三上山ー三上山ー二上山は見事に一直線上にあるわけです。ほぼ同じ高さの山が一直線上に並び、しかも名前が「神の山」で、それが等間隔に並んでいるというのは、一体どういうわけか、ということになります。次はこの謎解きをしましょう。(続く)
2017.01.04
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さて、本の執筆活動も一段落したことですし(ただしもう次の本の執筆を開始していますが)、「5000年前の古代人の完璧な測量技術」のシリーズを再開しましょう。これまで古代イギリス、古代エジプトと5000年前の測量師の技術を継承したとみられる古代遺跡の跡を見てきました。古代測量師たちのグループが、もう想像を絶するような驚異の測量技術を持っていたことがわかってきましたね。ここで目を古代日本に転じましょう。まさか5000年前の日本には、そのような測量技術はなかったであろうと、普通ならそう思うはずです。ですが、私は、実は日本にこそ、そのような高度な測量技術の源泉があったのではないかと思っています。既に『竹内文書の謎を解く』などで明らかにしたように、東経137度11分には羽根ラインがあります。『竹内文書と平安京の謎』で明らかにしたように、どうも古代日本には、我々の知っている歴史では考えつかないような古代文明があったように思えてならないんですね。そのうちのいくつかを、これから事例として挙げて行きましょう。まずは、「御神山」こと「三上山」です。『竹内文書と平安京の謎』に詳しく書きましたが、三上山ー三上山ー二上山という三つの「神の山」が完璧な一直線上に、しかも等間隔に並んでいることから検証してゆきましょう。(続く)
2017.01.02
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元日の太陽です。2017年が明けました。本年もよろしくお願いいたします。
2017.01.01
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