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1997年の1月5日、もしくは6日。私はボストンに戻りました。どうしてそれがわかるかというと、6日(月)にテニスをした記録が残っているからです。ポールと私が組んだダブルスで、マーティン/フレッド組に次のスコアで勝ったことが記されていました。6-1、6-4、6-0、12-10第四セットが12-10とは、すごい接戦でした。4セットやったということは、いつもの枠の二倍、二時間以上試合をやっていたのだと思います。 その次の記載は、8日(水)。以前試合をして6-2、6-2で勝ったレーティング4・9のアートと再戦、8-6、3-1のスコアでした。以前よりも接戦となっていますね。 ちょっと間があって12日(日)には、以前6-1,6-2、6-0と圧勝したレーティング5・0のヴィックと再戦し、6-1、4-3のスコアでした。 そして、いよいよ13日の週から期末試験シーズンに突入します。期末試験シーズンといっても、すでにメディア論と統計学は12月に終わっています。残っているのは、ミクロ経済、マクロ経済、そして国際金融論で、14(火)、15(水)、17(金)にそれぞれイン・クラスのファイナル試験がありました。私の記憶が正しければ、教室内で1時間半~2時間くらいかけて問題を解く形式だったと思います。 後で結果が分かったのですが、最初のミクロ経済はあと5点多く点数を取っていればA-だったのに結果はB+に、マクロ経済は予想通りA-。中間テストではクラストップの点数だった国際金融は期末試験でデフォルトのケースを論述しなかったことで減点され、A-に落ちてしまいました。 すでにお話ししたように、B+だとあきらめていたメディア論はファイナル・エッセイでAを取ったのでA-に上昇。統計はファイナル試験をちょっとミスして、Aには1点足りずにA-でした。これによって、最初の学期の成績が出そろいましたね。A-が4つにB+が1つでした。まずまずの成績です。この成績でしたら、最後の学期は3教科でB-を取っても卒業できる計算です。しかしB-はほとんど勉強しなかった、あるいは理解できなかったときに取る成績です。普通に、まじめに勉強していればB+は取れるのだということが実感できた学期でもありました。(続く)
2024.11.27
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12月19日のシングルスの初敗戦で気を落としたのか、12月20日(金)から翌年1月5日(土)までの17日間、日記には一切何も書かれておりません・・・・・・というのは嘘で、実は1月14日の週から期末試験が始まるまでの間、大学が冬休みに入ったのでワシントンDCに遊びに行っておりました。ところが、会おうと思っていた人が、ペルーの日本大使館人質事件が発生したため急遽、長期間不在に。ボストンーワシントンDCの格安往復航空券を買っていたこともあり、その日程は動かせず、17日間をDCで一人で過ごすことになりました。一応、ファイナル試験用にノートや教科書を持っていきましたが、その期間勉強をした記憶がありません。きっとボストンに戻ってから試験勉強をすればいいや、と思っていたに相違ないのです。で、その代わり何をしたかというと、モールに行っては映画を見ておりました。当時、私が見たと記憶している映画は、次の通りです。The Englis PatientEvitaShall We Dance?Shine最初のイングリッシュ・ペイシェントは確かアカデミー作品賞を取った作品でしたね。イギリス出身のクリスティン・スコット・トーマスの演技が光りました。日本公開は翌年。二つ目のエヴィータは、マドンナ主演。歌は本当にうまいです。三つ目は、役所広司主演・周防正行監督による1995年の邦画ですが、アメリカでは96年暮れに上映されて好評を博しておりました。この邦画のように、外国の映画をよく上映する名画座のような映画館がデュポン・サークルのそばにありました。まさか、その建物のアパートで、のちに暮らすようになるとは、その時は想像もしておりませんでした。それはまた別の話です。四つ目は、実在の天才ピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットの半生を描いた映画。ほかにも何か観に行ったような気がしますが、よく覚えておりません。こうして一人寂しくクリスマスを過ごし、新年を迎えた私は、おそらく「17日の空白期間」である最終日の1月5日(日)に、ファイナル試験が待ち受けるボストン(正確にいうとケネディスクールがあるのはマサチューセッツ州ケインブリッジ。私が住んでいた寮は、ビジネススクールのある、チャールズ川を隔てたボストン市のソルジャーズ・フィールド・パークにありました)のハーバード大学に戻りました。(続く)
2024.11.26
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ほとんどテニス日記の様相を呈してきましたが、12月9日の週からはそうではなかったようです。10日にマクロ経済の宿題#6の提出期限であることが記されていただけで、まったく真っ白。つまりテニスをやるどころではなかったことを示しています。事実、次の16日の週は、いきなり16日(月)にミクロ経済の宿題#7の締切日と統計学のファイナル試験が鉢合わせしています。それに確かこの前後には、メディア論のファイナル・エッセイの締切日があったはずです。翌17日(火)は、マクロ経済の「最終プロジェクト」の発表日であったことが記されています。このマクロ経済の最終プロジェクトは、五人くらいでチームを作って、どこか好きな国を一つ選んで、それをマクロ経済的に分析、経済政策をどうすればいいかを報告書として発表するというもので、当然成績にも関係してきます。作成した報告書は今手元にありませんが、私の記憶ではY(国民総生産)=G(政府支出)+I(投資)+C(消費)+Ex(輸出)-Im(輸入)の等式を使って、その国の弱い部分と強い部分を洗い出し、政策提言したと思います。よくIMF(国際通貨基金)がやっているやつですね。航空自衛隊から派遣されていた、同じコースの尾上さんら日本人5人で、日本を取り上げたと記憶しています。私は(Ex-Im)。つまり輸出から輸入を差し引いた貿易を担当したはずです。実は旧大蔵省担当記者として、貿易統計や国際収支統計はしょっちゅう記事にしていましたから、お手の物です。統計学のファイナル試験とマクロ経済のプロジェクトを終わらせて、ようやく余裕が出たのか、19日には久しぶり(ほぼ2週間ぶり)にテニスをしました。多分、その間、ほとんど室内で勉強して過ごしたせいか、運動不足で足がまったく動きませんでした。ちょっと走っただけで息切れして、試合でもミスを連発。普段だったら負けるはずのない4・5くらいのゲリーに3-6で敗れたと記されています。2セット目は疲れ果ててしまったので、軽い練習だけにしてもらいました。このクラブで私が味わったシングルスの唯一の敗戦でした。(続く)
2024.11.24
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11月25日の週からは、また勉学が忙しくなります。月曜日の25日は、ミクロ経済とマクロ経済の宿題NO5がそれぞれ提出日となっています。翌26日にもマクロ経済と書かれていますから、何らかの宿題があったのでしょう。番号は記載されておりませんでした。このころは学期も終盤に差し掛かってきます。それでもちょうど28日がサンクスギヴィング(感謝祭)で休みがあったこともあり、27日夜にはテニスをしています。スコアは6-0、6-0。テニスパートナーのピーター・リュウとシングルスの試合をしました。12月2日(月)は、再びミクロ経済の第六回目の宿題提出日。その週の5日(木)には、コーチのC・Jのリターンマッチを受けています。スコアはなんと9-7。いい試合でした。熱戦の末、何とか破っています。翌6日にもテニスの試合。6-2、6-3とマイケル・ギャラント(5・0)を退けました。私の苦手の左利きプレイヤーで、連日のいい勝負となりました。(続く)
2024.11.23
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11月11日の週は、再び勉強が忙しくなります。13日にはミクロ経済の宿題#4の締切日であると同時に、統計学の二回目のイン・クラス試験がありました。続く14日はマクロ経済の第四回目の宿題の提出日でした。しかしながら、ここでも14日の宿題提出が終わるや否や、その日の夜はテニスをしています。この日はダブルスの日で、2セットが終わった後に組む相手を取り換えて、また2セットしました。スコアは、6-3、6-1と6-1、4-6。メンバーはTaiという人とピーター・リュウともう一人の名前は忘れてしまったので、書いてありません。Taiがどういう人だったかも覚えていません。15日も別のピーター(3人目のピーター)とテニスをしています。レーティングは4・5。スコアは6-1、6-0、6-0でした。何と週末の16,17も両日テニス。16日の相手は背の高いアラン・ロング(レーティング4・9)で、6-0、6-1、6-0と私は絶好調でした。17日はテニスクラブではなく、多分大学のテニスコートか市営コートで日本人とテニスをしています。私と中村さんという方が組んで、奥村・山本ペアを6-3、6-2,6-1で破っています。山本さんは日清食品の方だと書かれていますが、どのような方だったかは覚えていません。奥村さんは、おそらく私と同じコースのクラスメイトで宮崎県庁に務めていた方だと思われます。中村さんは偶然、ボストンに来ていた私の知り合いの中村さんだと思われます。このころは木曜の夜から始まって金曜日と週末はテニスをするというのが、当たり前になっていたようです。翌週の21(木),22(金),24(日)もテニスをしています。21と22日はダブルスで、ムラッド(Murad)と私が組み、ピーター・リュウとアート(Art)が組んだダブルスの試合では、6-4、6-0で我々が勝利。私とアートが組んで、ピーターとムラッドが組んだ試合では、6-4、6-2とまたしても我々のペアが勝ちました。で、22日は私ともう一人の4・5のピーターが組み、再び組んだムラッドとピーター・リュウ組と対戦。今度は4-6、6-1、6-2、6-3で3-1のスコアだったと書かれています。このように二日連続してダブルスをするのは珍しく、たいていはシングルスがマッチングされます。私がどうしてもダブルスがやりたいと頼んだので、フロントの人がマッチングしてくれました。私は、実はシングルスよりダブルスが好きなので、結構楽しめました。しかし、アメリカ人は基本的にシングルスが好きです。ダブルスをしたいと申し込んでも、人が集まらなくてシングルスが組まれる場合があります。24日は5・0のマイケルとシングルスの試合をして、6-0、6-0、3-2であったと記録されています。(続く)
2024.11.21
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ミクロ経済と国際金融という大きな中間試験を二つ、それに統計学の一回目の試験が終わってホッと一息つけたからでしょう。11月4日から始まる週は、テニス三昧という様相を呈していました。5、6、7と三日連続でテニスをしに行っています。5日はマサチューセッツ州に務める役人で、レーティング4・3のマイケルと対戦。6-0、6-1.6-0と圧勝。6日はニューヨークから引っ越してきたばかりのピーター・リュウ(4・6)と対戦。6-0、6-1とこの日も圧勝しています。7日はダブルスの試合で、私と前日試合したピーターが組み、別のピーター(レーティング不詳)とエド(5・0)が組んだペアと対戦。6-2、6-2、6-2で勝っています。6日に対戦し、7日にダブルスを組んだピーター・リュウは、年齢は58歳と私よりも20歳年上でしたが、私のことを気に入ってくれて、一度家に遊びに行ったことがあります。郊外の大きな家に住んでおりました。何の仕事をやっていたかは忘れました。郊外なので家のそばにはよくコヨーテが出ると話していたのが、印象に残っています。その後もちょくちょくと一緒にテニスをやりました。私はテニスが好きな方でしたら、年齢やレベルに関わらず、だれとでもテニスをします。そのためか結構、テニスの交友関係は広いです。映画監督の長谷川和彦氏とはよくテニスをやりましたし、先日亡くなられた西田敏行さんの奥様ともよくミックスダブルスで対戦していました。共同通信社経済部にいた1990年代前半によく遊んでくれた私のダブルス・パートナーが、亜細亜大学の衛藤瀋吉学長でした。私の叔父のことを良く知っておられました。私の父親くらいの年齢でしたが、負けず嫌いで本当によく走っていらっしゃいましたよ。左利きでスピンの効いたサーブとクロスショットを得意とされていました。何よりテニスが本当に好きでいらっしゃいました。ちょうど亜細亜大学のテニス部が全日本大学選手権で優勝したころの学長で、よく私のことを「君はうちのテニス部の連中と同じくらい強い」と外交辞令かお世辞で言っておられました。私がICUのテニス部にいたころの亜細亜大学は、まだ我々と同じ関東学生テニスの7部(一番下の下部リーグ。60校近くがひしめき合っている)に所属しており、練習試合も組んで対戦しておりました。1980年2月17日に練習試合で亜細亜大学と対戦したときの記録も残っています。私は当時ICUのナンバー1で、相手のナンバー1と対戦して、4-6、6-2、2-2(日没で終了)となっています。確か相手は現役の関東学生(本選出場者)で、私がよく健闘したというのが実情でした。ずいぶん昔の話ですが・・・。その後、亜細亜大学は1987年に衛藤先生が学長になるとテニスに力を入れて、93年には関東学生テニスの一部まで這い上がり、94年と95年には一部で優勝しただけでなく、連続して大学日本一にも輝いたわけです。その衛藤学長も2007年にお亡くなりになったと聞いております。経済部で農水省担当しているときは、取材先のUSA Rice Council(USAライスカウンシル)幹部ともワシントンDCでテニスをしたことがあります。当然、私が圧勝しました。富山支局時代はよく富山県警捜査二課長とテニスをしました。私も衛藤先生と同様にテニスが大好きで、テニスだけでも多くの思い出があります。ということですから、少しでも暇を見つけると、すぐにテニスをしに行ってしまうわけです。(続く)
2024.11.20
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日記帳を見ると、10月28日の週から結構忙しくなったことがわかります。10月28日はミクロ経済の第三回目の宿題提出日。その二日の30日水曜日には同じミクロ経済の中間試験(In-Class Exam)がありました。その結果はよく覚えていませんが、悪かったという記憶がないので、A-とB+の中間くらいの成績だったのではないでしょうか。翌31日にはドミンゲス准教授による国際金融論のコース「ITFー100」の中間試験(In-Class Exam)があったと書かれています。連日の試験ですね。私はこの試験で50点満点でクラス最高点の45点か46点を取りました。たぶんほかにも最高点の学生はいたと思いますが、一応経済部の記者として国際金融を担当したことのある身としては、面目躍如といったところでしょうか。連日の中間試験が終わってホッとしたのでしょう。31日の夜にはテニスをしています。6-0,6-1,6-0 Alanアランのレーティングが書いてありませんが、それほど強くなかったので4・5くらいでしょうか。二日後の11月2日(土)には、トーナメントの試合と書かれて、ダブルスをしたと記されています。まったく記憶にありませんが、グラハムという名前の人と組んで、6-4、5-7、5-1とあります。第三セットの途中で終わっていることを思うと、正式なトーナメントではなかったようです。しかし、面白いのは対戦相手の名前。何とウィンブルドン(Wimbledon)と書かれていました。想像するに、ウィンブルドン・チームとか、ローランギャロ・チームなどに分かれて、遊びのトーナメントがテニスクラブで開催された可能性があります。本当に和気あいあいとしたクラブでしたから、しょっちゅうイベントが開催されていたように記憶しています。ちょっとした異業種交流会になっていて、とても楽しかったです。勉強で部屋に籠りがちになる学生生活の中で、ずいぶん気分転換になったのではないでしょうか。(続く)
2024.11.19
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ニューイングランドの紅葉を堪能した後の10月21日の週。後半の24日には「APIー153 #3」と、マクロ経済の第三回目の宿題提出日が記されています。同時にその日の夜、10月3日以来、三週間ぶりにテニスをした記録も残っていました。6-0、7-6 Joe(5・0)私と同じレーティングを持つ、ジョーと対戦、勝っていますね。第一セットは6-0でも第二セットはタイブレークでtしたから、実力差はそれほどなかったと思います。勉強に一段落ついたからでしょうか、翌22日にもテニスの記録が記されています。6-1、6-2、6-0 Vic(5・0)この日も5・0の選手と試合です。昨日テニスをしたばかりで勘が戻ってきたためか、この日は圧勝でした。こうして秋は深まって行きました。(続く)
2024.11.18
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10月7日の週には9日に「APIー101A #2」と記されています。ミクロ経済の宿題第2回目の提出日ですね。10月14日の週には、15日に「APIー153 #2」、翌16日に「APIー200 Exam 1」と書かれています。前者はマクロ経済の宿題第回目の提出日で、後者は統計の第一回目のIn-Class試験があったことを示しています。大忙しの時期ですね。「ちぎっては投げ」みたいな状況になっていました。この10月中旬の週には、ミッドキャリアのアメリカ人クラスメイトから「ニューイングランドの紅葉が始まったので、外に出ないで勉強ばかりしていると、きっと後悔する」といった内容のメールが出されていました。そこで、その週末は、紅葉狩りをしにドライブをしたことを覚えています。確かに紅葉がきれいでしたが、その一年か二年後、飛行機の窓からニューイングランドの紅葉を見たことがあります。そのとき見た紅葉の美しさは本当に素晴らしかった。ニューイングランドの10月の紅葉は是非一度ご覧になるといいでしょう。ちなみにニューイングランドとは、メイン州、ニューハンプシャー州、バーモント州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、コネチカット州を合わせた地方です。なかでもボストンは、この地方における最大の都市であり、中心となっています。(続く)
2024.11.17
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統計学のコース「APIー200」の宿題を提出した翌日の10月3日には、「APIー153 #1」と記されています。これはマクロ経済の授業の第一回目の宿題問題の解答提出締切日です。正式な授業名は「Topics in Applied Macroeconomics(応用マクロ経済学における主題)」。講師はスザンヌ・クーパー(Suzanne Cooper)助教授(Assistant Professor)。全体の満足度、役に立ち度ともに4・30くらいをマークしている人気授業です。調べたら今でもハーバード大学ケネディ・スクールで教えているようです。ケネディ・スクールの教育指導・カリキュラム部長(Academic Dean for Teaching and Curriculum)だと書かれています。当時から教え方はとても明瞭でよかったと記憶しています。この日で3教科の第一回目の宿題提出が無事終わったので、おそらく夜、テニスをしたことがわかります。同じ日に、6-2、6-2 Art(4・9)というメモが記されているからです。9月12日に会員制テニスクラブでコーチのC・Jと試合をやって以来、実に3週間ぶりのテニスです。電話で希望時間を伝えると、テニスクラブのほうで試合をセッティングしてくれました。自分のレベルと同じ人とマッチングしてくれることはすでに説明しましたね。私の仮レーティングは4・5で、対戦相手のアートは4・9。向こうのほうが上ですが、宿題に追われ運動不足の私がストレート勝ちしています。この試合の後、私のレーティングはすぐに5・0に上がりました。(続く)
2024.11.15
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9月30日の週(学期が始まって第三週目)になると、ほかの授業の宿題の締め切りがやってきたことが日記帳からわかります。10月2日は「APIー200 #1」と書かれていますが、これは統計学の第一回目の宿題の締め切り日です。正式には「Empirical Analysis and Program Evaluation(経験的分析とプログラム評価)」。簡単にいうと、統計を基にプログラムなど提示された計画を評価する方法を学ぶ授業です。説明し忘れましたが、授業コードの「API」というのは、「Analysis of Policies and Institutions(政策と組織・機関の分析)」の略で、私がこのときほかに履修したミクロ経済やマクロ経済も「API」の授業でした。この統計学のコースの先生は、リチャード・ライト(Richard Light)教授(専門・教育学)。コース全体の評価4・40、役立ち度の評価4・75と極めて高い評価を得ています。またしても、この高評価につられて履修しました。確かに極めて明快な英語でわかりやすく話す授業でした。成績は宿題の提出と、三回の教室内の試験(In-Class Exam)で決まりました。私の記憶では、私はすべての宿題を提出し、最初の二回の試験では平均で93点ほどの成績でしたが、比重が40%ある最後の試験で85点を取り、確かAには1点か0・5点足りなくて、A-となってしまいました。同じミッドキャリア・コースのインドから来た同級生のミトラは、楽々Aを取っていました。彼女は経済学ですでに修士号をもつ成績優秀な学生でした。一方、同じミッドキャリアの同級生で韓国から来た同業者(新聞記者)は「B-を取っちゃった」と言っていましたから、数学が苦手だと結構苦労する授業だったのかもしれません。でも、「B-」でも悲観する必要はありません。別の教科でB+を取ればちゃらになります。平均Bで8教科履修すれば、卒業できることになっているのです。実際、その韓国から来たクラスメートはちゃんと一年後には卒業しておりました。ライト教授の簡単な紹介をしているサイトを見つけました。こちらです。生涯教育者と言う感じの方ですね。統計学者とも書かれています。(続く)
2024.11.14
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数学は得意だったとはいえ、いかんせん私がやったのは数ⅡBまでで、数Ⅲを取っていないこともあり、正直ジム・ハインズの授業は苦戦しました。それでも何とかA-くらいはとれるかなと密かに期待していたのですが、ファイナル試験でミス。計算したらわずか5点不足して、B+の成績に転落してしまいました。しかし、あのように学生から絶大な評価を得て、非常に面白い授業をしてくれたハインズ准教授でしたが、結局ハーバードでの終身教授の職(Tenure)にはつけず、この年度を最後にハーバード大学を去ることになりました。一説によると、教え方がうまくて学生の間で評判がよくても、論文を出していないことがマイナス要因になったのではないかということでした。ハインズ准教授は97年度から別の大学に移ることになりました。ハーバードの同僚で国際金融論を教えている奥様のドミンゲス准教授も一緒に移籍するとのことでした。私は両方のクラスを履修していたこともあり、ラウンジにいた二人と話をする機会がありました。「どちらの大学で教えることになったのですか」と私が聞くと、ミシガン大学との答えが返ってきました。「ちょっと寒そうですね」と言うと、「まあ、ボストンで寒さには慣れているから、大丈夫」と二人で話していました。ハインズ氏はミシガン大学で終身教授職につけたようで、その後同大学で税制と経済の専門とする教授としていくつもの論文を出しています。ローレンス・サマーズとの共同論文も書いていますね。また後でご紹介しますが、奥さまもミシガン大学を中心にして活躍されたようです。(続く)
2024.11.13
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9月16日から20日までの日記帳にいつも以上にメモが記されていたのは、この週がショッピング・ピリオド(Shopping Period)だったからです。この期間なら、登録することなく、いくつでも授業に出ることができます。実際に最初の授業に出て、登録するかどうかをきめればいいわけですね。どこの大学でも同じようなシステムを持っていると思います。それでは、空白だらけの日記帳のページを先にめくって行きましょう。もう登録を済ませた後ですから、次の週からは本番となります。早速9月25日(水)には「API-101A problem#1」と書かれています。これはジム・ハインズ准教授(James Hines, Associate Professor)のミクロ経済コース(正式には「Applied Economic Analysis」=応用経済学による分析)の第一回目の宿題である問題の解答締め切り日であったことを意味しています。前週に早くも宿題がでていたんですね。前週末に結構苦労して解答した覚えがあります。このコースはリーディングの宿題はほとんどありませんが、その代わり応用経済学の宿題が毎週のように出ます。ちゃんと勉強するようなカリキュラムになっているんですね。ハインズ准教授は学生に人気があり、その高評価につられて私も履修しました。101AのAは、もっとも数学的に経済を教えるコースだったと思います。微積分(Calculus)を使います。同じ「API-101」でも、AからEまでの5クラスあって、それぞれすこしずつ異なるアプローチをとります。微積分をまったく使わないコースも用意されています。私は文科系のくせに数学が好きで得意なので、Aのコースを選びました。数学が得意なのは、5000年前に測量士だった前世があるためだということは、以前確か説明しましたよね。東経137度11分の羽根ラインを見つけることができたのも、このラインを作った測量士だった前世があるから必然的にわかったわけです。(続く)
2024.11.12
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Marvin Kalb(マーヴィン・カルブ)のメディア論の授業でグループ分けしたのは、そのグループ内で一週間で起きたニュースの中のトップニュースを選ぶという作業をやらせたからです。人種も年齢も国籍も社会的地位も違う人たちが1つのトップニュースを選ぶわけですから、もう大変。「船頭多くして船山に登る」といった状態になります。グループとしてトップユースが決まったら、それを理由とともにクラスで発表し、また議論します。他の人たちが何に興味を持って、何を考えているかがわかって、結構面白かったです。 説明がおくれましたが、マーヴィン・カルブが何者かについて説明しましょう。CBSニュースとNBCニュースの記者を30年間務めたジャーアリストで、有名報道番組「Meet the Press」のホスト(司会・進行役)としても活躍しました。ハーバード大学院に創設されたメディア論の研究センター(Joan Shorestein Center on th Press, Politics and Public Policy)の初代センター長でもあります。その看板授業が、私が履修した「Press, Politics and Public Policy」だったわけです。政治とメディアについて研究しているThomas Patterson(トマス・パターソン)教授とともにこの授業を担当しておりました。二人とも授業はとても面白かったです。そして何よりも、宿題に出されるリーディングアサインメントの内容が秀逸で最高でした。毎週、論文を中心にして重要部分の抜粋を120ページほど読まされるのですが、どれも本当に充実しており、ためになりました。アメリカ人の学生もリーディング資料の面白さに感嘆しておりました。クラスにおけるグループ発表と、二つの小論文、そして最後の比較的長い論文でグレードを付けられるのですが、私は最後の論文を残した時点(60%分)でB+くらいの評価でした。まあB+でもいいかと半ばあきらめていたのですが、最後の論文でAを取り、A-に滑り込んだと記憶しています。そのAがハーバードでもらった最初のAの論文でした。(続く)
2024.11.11
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Marvin Kalb(マーヴィン・カルブ)のグループ分けで一緒になったRafy(ラフィー)ことRafael Alunanについても触れておきましょう。私と同じミッドキャリア(Mid-Career)の行政学コース(MPA)の学生で、夏の講習でも一緒だったため、お互い顔見知りでした。彼も非常に頭脳明晰で、性格も明るく落ち着いていて、人気者でした。といっても、私より10歳ほど年上でしたから、当時すでに50歳くらいだったかもしれません。面白いのは彼の経歴で、フィリピン政府の観光大臣と内務大臣を歴任した大臣経験者でした。同級生にはほかにも大臣経験者や、変わったケースでは現職の上院議員も名前を連ねていました。ラフィーがその後どうなったか調べたら、フィリピンの外交問題評議会の議長まで勤めたと書かれていました。いまでも外交問題に関して評論や提言をしているようです。→こちらハーバード行政大学院の強みはここにあります。世界中からすでに社会人として活躍している優秀な人材が学生として集まってくることです。彼らから仕事のノウハウや実体験の話を聞くだけでも、勉強になります。(続く)
2024.11.10
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昨日紹介した日記帳の右ページの説明をしましょう。左上の枠外に記されている「Kalb」というのは、メディア論の教授であるMarvin Kalbのことで、オフィスの空き時間(部屋を訪れたときに相談に乗ってくれる時間)が月曜の午後7時から9時までだと書かれているのだと思われます。教授の部屋は「T275」。一度も訪問しませんでしたが、会って話をするのも面白かったかもしれませんね。ただし、五教科取っていると、その余裕を持てませんでした。9月19日の右側に「パスポート」とあるのは、パスポートの更新をボストンの領事館で済ませたのだと思われます。「電球」は寮の部屋の電球を取り換えたのでしょうか。そして、9月20日の欄に名前と数字が書かれているのは、メディア論のコースを受講する学生をグループ分けした際に私が入ったグループの他のメンバーの名前と電話番号です。赤字で囲まれたマイケル(Michael Whitlock)がグループリーダーに選ばれました。彼はジョージメイソン大学を卒業したばかりの大学院1年生で、夏の間はCIAの中東南アジア分析局に特別研究員(Graduate Fellow)として在籍していました。CNNでインターンをしていたこともあったそうです。なかなか聡明で、人当たりのいい感じの若者でした。その後どうなったのかな、と思って調べてみたら、ハーバード大学院を卒業した後、ヴァージニア大学の法学院を卒業、弁護士になったようです。2018年からは住友電工アメリカの最高法律責任者の補佐(Assistant General Couessel)をしているようです。公共政策や行政学だけで食っていくのは大変ですから、法律家になって良かったのではないでしょうか。彼の場合、実際に政府と企業の間に生じる問題(たとえば反トラスト)の専門家とかかれていますから、見事に大学院で学んだことを結び付けて仕事をしているように思います。 Michael Whitlock Assistant General Counsel. Former federal prosecutor and law firm partner. Expert in antitrust, government/internal investigations, and corporate compliance.Michael Whitlock - Assistant General Counsel - Sumitomo Electric U.S.A. Holdings, Inc. | LinkedIn一番、上に書かれているRafy(ラフィー)も楽しい人でした。(続く)
2024.11.09
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9月12日は木曜日だったのですが、その4日後の16日月曜日から始まる一週間の日記帳は、結構賑わっていました。e・・・と言っても、この程度ですけどね。まず、16日の月曜日を見ると、午前8時のところに「L140」、午前11時半のところに「STAR」と書き込まれています。これは授業が行われる場所「レクチャールーム」の場所を示しています。「L140」はレクチャールーム140号室。記憶では、50~60人はは入れます。コースは多分ミクロ経済です。「STAR」は「L」よりも大きな教室で、100人くらいは入れるのではないでしょうか。確かコースは統計だったと思います。 基本的に月曜の午前8時に始まるコースは水曜日の午前8時にも授業があったと記憶しています。月曜と水曜がセット。火曜日に授業のあるコースは、木曜日とセットになっているわけです。で、私が取った火、木の授業は 、午前8時から「STAR」でマクロ経済、午前11時から「L230」で国際金融、午後2時から「LAND」という大教室で、メディア論でした。全部で5教科。普通4教科で十分なのですが、私は欲張って1教科余計にとりました。6教科取っている人もいました。「そんなに取って大丈夫?」と聞いたら、「ただパスする(単位を取る)だけなら問題ない」と言っていました。確かにそうかもしれませんが、5教科でもかなり大変でしたから、私はそんなに無理はしたくないなと思いました。(続く)
2024.11.08
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9月12日に記された謎の数字と名前。 Chris J. (Pro)6-32-1ですが、当然テニスのスコアですね。C.J.と呼ばれていたテニスのプロと対戦して、6-3、2-1のスコアであったことが記されています。実は新学期が始まる直前。特に冬場の運動不足を解消するために、会員制のテニスクラブに入ることを思い立ったんですね。電話帳を見て電話をかけまくり、探し出したのが、WESTON RACQUET CLUBでした。このテニスクラブにした決め手は、主に三つあります。①膝によくないハードコートではなく、人工芝のコートだったこと。②冬場や雨天でもテニスができるインドア・コートを持っていたこと。③自分の実力にあった人を探して、試合や練習をマッチングしてくれること。③は説明が必要ですね。つまり、テニスクラブに「今日の何時に同じレベルの人とテニスをしたい」と朝電話で申し込むと、受付の人が電話をかけまくってくれて、ちょうどいい相手を探し出して、テニスができるようにアレンジしてくれるわけです。でも、そのためには、自分がどのくらいの実力なのかを入会の時にレート(評価)してもらう必要があります。冒頭のC.J.は、テニスのレーティングをしてくれるテニスのコーチ(レッスンプロ)だったんですね。実は人工芝コートは、私の得意中の得意とするコートです。前にも書いたと思いますが、共同通信社を辞めてハーバード大学に留学する前までの6年間。私が入っていた、人工芝のコートが13面ほどある会員制テニスクラブでシングルスは無敗のクラブチャンピオンでした。腕に覚えがあるわけです。レーティングでは早速、ストロークやボレー、スマッシュ、サービスの練習をした後、C.J.とを試合をすることになりました。普通はコーチと対戦すると負けますが、何しろ人工芝コートでは6年間無敵の現役クラブチャンピオンですから、6対3のスコアで第一セットを取り、第二セットも2対1で私がリードしているときに、たぶん90分の制限時間が終わったのだと思います。コーチと同じくらいだと5・0のレーティングですが、私がまだアメリカでは初めて入るテニスクラブだったこともあり、「最初は4・5で、様子をみよう」ということになりました。つまり最初は4・5前後のレートの人とマッチングして試運転をするわけです。実力が同じレベルの会員とマッチングしてくれるシステムは、すこぶる好評でした。クラブ側が自分の練習相手をさがしてくれるんですからね。今でもやっているのかなと思って調べてみました。「ウェストン・ラケット・クラブ大学から車で30分の距離でしたが、2013年ごろまではやっていたようですが、その後閉鎖されたと書かれていました。素晴らしいテニスクラブだっただけに残念です。それでも会員のレビューが残されていたので、それをご紹介して、次に進みましょう。This is a great club for people who love tennis and want to play a lot of it. Their guaranteed matchmaking is excellent - I almost always get a great match. You can call up in the morning and say "I want to play tennis at 6" and play tennis at 6 with someone at your level. It's a fantastic service and I don't know of any other club that does this.私も同意見です。スタッフおよび会員の皆様、その節は本当にありがとうございました。(続く)
2024.11.07
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空白だらけの日記帳を見ていくと、8月10日の「オペラ座の怪人」の後に出てくるのは、8月13日の謎の数字です。そこには2-66-44-6と書かれています。何かの暗号でしょうか・・・。でも、私のブログをいつも読んでくださる方ならすぐにおわかりですね。これはテニスのスコアです。夏期講習が始まって一カ月半。たぶん本当に久しぶりにテニスをしたのだと思われます。だれとテニスしたかはまったく覚えていませんが、同じ夏期講習に参加した腕に覚えがある人たちとハーバード大学のテニスコートでやったにちがいありません。結構、競った試合になっていますね。多分4人でダブルスをやったのではないでしょうか。同じハーバードのテニスコートで約10カ月後にもテニスをした記憶があります。そうしたら私のプレイを見ていた学生がつかつかとやってきて、テニス部に入らないかと誘われました。つまり大学を代表して試合に出ないかというわけです。ちょっと一年ほど誘われるのが遅かったですね。実は私のコースは一年で修士号が取れるミッドキャリアのコースでしたから、もう卒業間近でした。卒業生が大学を代表してテニスをすることはできません。このテニスのスコア以降、ほぼ一か月にわたって空白が続きます。おそらく新学期が始まるので、忙しかったのでしょう。次に記載があるのは、学期が始まる直前の9月12日。このように記されておりました。 Chris J. (Pro)6-32-1また、数字の暗号ですね(笑)。(続く)
2024.11.05
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昨日はICU(国際基督教大学)の81年卒組の同窓会が開かれました。かつては三鷹駅からしか出ていなかったICU行きのバスが武蔵境駅からも出ているのにびっくり。すこしだけ便利になりました。こちらが会場です。学食ですね。昔の学食はもっと古くて小さかったですが、いまはこんなに立派に。ただし近年、食堂使用料が値上がりしたとか。一学年でだいたい500人いたと思いますが、この日は約100人が参加。テニス部以外のICU同窓会に参加するのは初めてだったので、まさに44年ぶりくらいに出会う人もおりました。同窓生の中には40歳を過ぎてからオペラ歌手になった方もいらっしゃると聞いて、驚くばかり。国立音大の大学院を出られた田辺いづみさんで、大活躍されているようです。歌を披露されましたが、素晴らしかったです。確か2曲目には、森山良子の「あれ、あれ、あれ」を私たちのために歌ったので、大盛り上がりでした。総合司会はセクションメイトのK君が、部分的な司会はジョン・カビラ(川平)氏が担当。そういえば、彼も同窓生でした。本当にいい声をしていますね。それに同じ年とは思えないほど若いです。このほかグリークラブの歌声もすばらしかったです。同じセクションメイトは、総合司会のK君以外に見当たりませんでしたが、司会者のすぐそばのテ―ブルにおいてあったパソコンで、インターネット参加した英国サリー州に住むYさんと、米国シアトルに住むIさんとちょっとだけ話をすることができました。二人とも44年ぶりに会うセクションメイトです。時差があるので、イギリスの方は朝早くから、シアトルの方は夜遅くから待っていらっしゃったのではないでしょうか。ギリシャ古典文学を専攻したYさんは、今はイギリスでギリシャ語やギリシャ文学を教えているとか。同じ人文科学で、私がラテン語を習った古典文学の川島先生の指導を受けていたと思います。川島先生もわかりやすくていい先生でした。Iさんは語学科だったので、専門の授業で会うことはありませんでしたが、FEPを乗り切った同期としてよく覚えています。とても懐かしかったです。このほかにも、テニス部の同窓生とも再会。グリーにも属していたMさんとは、一年ぶりの再会。私にテニス部の同窓会に出るよう「果たし状」をわざわざ送ってくれたIさんとも無事、「巌流島の再会」を果たしました。ジョンズ・ホプキンス大学院(SAIS=高等国際問題研究大学院)では私の先輩であるMさんとも久しぶりに再会。みな元気そうでなによりでした。非常に楽しいひと時を過ごさせていただきました。準備をされた幹事のみなさま、ありがとうございました。
2024.11.04
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嵐が去って、快晴ですね。またまた忙しくなりそうなのd、写真ブログです。別の日に撮影した晴れ間の写真。光がピラミッド型に雲間から放射されて、綺麗でした。10月22日の撮影です。
2024.11.03
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1996年7月27日に記されたCape Cod(ケープコッド=コッド岬)についても説明しておきましょう。ケネディ家の別荘があることでも有名な、風光明媚な観光地です。同じマサチューセッツ州ですが、ボストンからはかなり遠いです。記憶では片道3時間はかかったと思います。夏期講習でクラスメイトとなった、コロンビア人のヘンリーと車を飛ばして遊びに行ったと記憶しています。行きは私が運転、帰りはヘンリーが運転しました。コッドは魚のタラ。タラの漁場があることからコッド岬と名付けられたそうです。コッド岬はこれを含めて二度訪れたはずです。この後、私の日記は空白が続いて、次に記載があるのは、8月10日。「The Phatom of the Opera」と記されています。当時は知る人ぞ知るミュージカル「オペラ座の怪1986年にロンドンのウェストエンドで初上演したアンドリュー・ロイド・ウェバーの音楽で有名なロングランミュージカル。ボストンの劇場街にある劇場「Wang Theatre」で観劇して、それこそ感激しました。確か二度見たと思います。観劇は学生割引など安いチケットがあったので、非常にお得でした。日記には記載されていませんでしたが、ボストンの別の劇場で上演していたミュージカル「Rent(レント)」も素晴らしく、留学中に二回観に行っています。(続く)
2024.11.02
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ちょっと忙しいので、今日は写真ブログ。本日の朝焼けです。秋のさわやかな朝焼けでした。
2024.11.01
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