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与謝野鉄幹は、一般的には、晶子の亭主。「妻を娶らば・・・」の作者。くらいにしか評価をされていないが、それは、大きな間違いである。日本が近代化するにつれて、日本の精神文化である短歌も近代化を迫られていた。しかし、旧態依然の歌の道が続いていた中、まず、短歌革新論を唱え、実践をしたのは、落合直文であり、その結社が「浅香社」である。その彼のもとに集まったのが、与謝野鉄幹、尾上柴舟、金子薫園らであった。落合の流れを汲み大々的に新派短歌確立へと動いたのが、与謝野鉄幹であった。鉄幹は、明治32年「新詩社」をつくり、翌年機関紙「明星」を創刊、明治41年第100号をもって終刊するまで、晶子とともに歌壇を支配し、ロマン主義短歌時代を築きあげた。「明星」前期には、山川登美子、茅野昌子、窪田空穂らが活躍し、「明星」中期には、相馬御風、平野万里、石川啄木、吉井勇らが現れ、「明星」後期には、自然主義の北原白秋、吉井勇らで受け継がれた。明星100号によって多くの詩人、歌人が育成された意義は極めて大きい。この鉄幹による短歌革新は、子規の「根岸短歌会」による写生論に基づく現実主義による短歌革新とあいまって、日本の近代短歌確立のための歴史的偉業であった。これが、鉄幹は短歌の本には、出てこないが、歴史の本には必ず出てくる所以である。
June 16, 2005
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晶子の支援者で、もう一人の大物。それはあの上田敏。東京大学英文科を卒業し、ヴェルレーヌ、ボードレール、ブラウニングなど清新なフランス近代詩を紹介したあの訳詩集「海潮音」を書いたその人。中学校の教科書にあったカールブッセの「やまのあなたの空遠く・・・・」ヴェルレーヌの「秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみてひたぶるにうら悲し」(2番、3番がまた良い。)何度も読んで諳んじたものだ。晶子の「みだれ髪」が発刊になると同時に、毀誉褒貶相半ばするさまざまな反響が巻き起こり、その中で、上田敏が「明星」紙上へ、6頁にも渡って、晶子の歌を全面的に認める文を発表した。これは、晶子と新詩社の同人たちを大変力づけた。いわく。「「みだれ髪」は、瀟洒たる一篇の美本に綴られ、斬新の声調、奇抜の思想を歌ひ、この夏文界の寂寥を破りて、殊に歌壇の語り草となりぬ。・・・・今の短歌、新体詩は、わが好まざるところ、命なく、心なく、偽り多く、品作りて、・・・わが文芸趣味の中心この如くなれば、今この歌集を翻して、その奔放なるに驚かず、熱意かくばかりにして、始めて歌を物すべしと感ずる・・・・」追伸晶子の長男は、上田敏によって「光」と命名された。
June 14, 2005
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与謝野鉄幹と晶子は多勢の人々に攻撃され非難される場面が何度かあった。その中で終始味方となり支援してくれた1人がこの大物文学者鴎外である。●鉄幹は落合直文亡き後、鴎外を自分の師として尊敬していた。鴎外もそれに応えて、鉄幹が明治43年に刊行した歌集「相聞(あいぎこえ)」の序文で、旧派短歌に対抗して新派短歌を打ち立てここまで育てたのは、鉄幹しかいないと書いてくれた。●第一次「明星」が明治41年11月廃刊となり、鉄幹は不本意ながら晶子の女の腕に頼る生活。そんな鉄幹の失意の中、鴎外は鉄幹を何度も慶応大学教授に推薦をしてくれ、遂には実現をすることとなった。●大正10年第二次「明星」創刊の際には、鴎外が多くの同人を集めてくれ、再開することができた。●また鴎外は「明星」に毎号欠かさず、原稿を寄せてくれた。○鴎外は、軍医であったにも拘らず、自然主義的な考え方より心情的には、「明星」の浪漫主義に近かった。○あの例の「舞姫」の主人公太田豊太郎が鴎外の分身であるかないか。鴎外の後を追って来日した「エリス」は、女友達、恋人、はたまた婚約者か。また来日の目的は?など林尚孝茨城大学名誉教授が最近「仮面の人・森鴎外」を書いたが、私は、まだ読んでいない。いえることは、世が鉄幹を色魔の如く言っていることに鴎外は同意せず、また、自分自身が夢に溢れたロマンチストであったため鉄幹を激励してくれたということであろう。
June 13, 2005
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雅子は、明治13年、大阪生まれ。旧姓増田雅子。実家は薬問屋。「明星」の社友に加わり、しら梅と号して活躍した。25歳の春上京して、日本女子大学に入学、新詩社に出入りして、晶子、登美子らと才を競い、三才女と呼ばれた。雅子は、与謝野晶子、山川登美子とともに合同歌集「恋衣」を出して認められた。この三人の歌集は、鉄幹が三人を競わせ、また新詩社を売り出すための目論見であった。夫、茅野蕭々は、明治16年、長野県諏訪市生まれ。本名儀太郎。旧制諏訪中学(現諏訪清陵高校)、第一高等学校、東京帝国大学独文科を卒業、短歌を「明星」に投稿していた。号は暮雨。当時3歳年上の雅子は、美貌で才媛の誉れたかく、蕭々は、熱心に求愛し結婚した。三高のドイツ語教師を経て、慶応大学文学部教授となり、リルケやゲーテの訳詩を手がけた。雅子も母校日本女子大学の教授となり、研究が主となったため、短歌などの業績は少なくなり、また当初のようなロマンチックなものは、希薄となった。「その御手にほそきかいなをゆるしませくづるる浪のはてしなくとも」晶子より大分控えめである。昭和20年戦災で家を失い、翌年、仮寓で夫が死去、4日後に雅子も世を去った。何という夫唱婦随。我もかくありたし。
June 5, 2005
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