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背番号28(その3)
背番号28の第3回目です
「28」は1955(昭和30)年に横山さんが退団すると2年間空き番になっちゃいます ここまで田宮謙治郎さん以外は大物が出てきてないのよね
1957(昭和32)年から西尾慈高さんという選手が着けますが3年間だけでトレードされてしまうわ
今回も4名紹介しますがみんな短いんだよ そして4名のうち3名はすでにほかの番号で掲載してるから再登場です ここまでのところは人材に恵まれない番号って感じよねえ・・・
西尾 慈高(にしおしげたか)投手(再掲)
西尾は先代が背番号「1」で紹介済みだがあまりに省略してあるため、詳しい内容に改訂して再掲する。
京都府京都市出身で立命館神山高校から立命館大学へ進む。大学では吉田義男の同期。高校時代はファーストと掛け持ちだったが、大学では投手に専念する。サウスポーで無理のない綺麗なフォームから大きく曲がり落ちるカーブやフォークボールなど落ちる球を武器にしていた。
1954(昭和29)年、大学4年時の夏の選手権終了後に中退してタイガースへ入団している。最初の背番号は「1」だった。
この年いきなり2試合に登板があり、2回1 /
2で被安打2、自責点1で防御率3 .
00という数字が残っている。
2年目の1955(昭和30)年は13試合で6試合の先発もあったが0勝2敗で防御率3 . 72だった。
1956(昭和31)年に29試合(先発19)3勝3敗とローテーションの一角に食い込み始める。翌1957(昭和32)年は開幕投手を任せられたものの15試合で1勝2敗と低迷してしまった。
1958(昭和33)年、背番号を「28」に変えたところ40試合(先発25)11勝10敗とブレイクする。自己最多の189回を投げ完封勝利も3試合あり、先発とリリーフを掛け持ちしつつ防御率2 .
71の好記録を残した。
1959(昭和34)年が37試合(先発21)8勝9敗。 続く1960(昭和35)年は32試合(先発15)4勝4敗と成績が落ちていき、1960年のオフに2対2の交換トレードで中日ドラゴンズに移籍することになる。
中日では1961(昭和36)年から1965(昭和40)年まで5年間プレーしているが、移籍1年目の6勝が最高で、そののちは3勝、2勝、1勝、0勝となって引退している。
通算成績は296試合(先発108)39勝40敗、817回1 / 3を投げて249四球、415奪三振、自責点271、防御率2 . 99である。
2017年5月5日、83歳で逝去。
梅本 正之 投手(再掲)
梅本は背番号「12」で紹介済みだが改訂し再掲する
和歌山県有田郡広川町の出身。県立耐久高校時代は長身でストレートが速い右本格派として地元では注目されるが甲子園出場はできなかった。
藤村富美男にあこがれて育ったこともあり、知り合いのつてを頼ってタイガースに入団している。もらった背番号は「60」だった。
1年目の1955(昭和30)年、5月に右手中指を骨折したため登板機会はなく、プロ初登板は2年目の1956(昭和31)年になったが、結局2試合で0勝0敗に終わっている。
3年目の1957(昭和32)年は9試合ながらも、そのうち8試合が先発で4勝4敗、防御率も2 .
65と成長が見られた。
しかし4年目は5試合登板にとどまっており、0勝1敗とプロの壁は厚かったようだ。
5年目の1959(昭和34)年に背番号を「12」に替えて23試合に登板しているが、先発が8試合、リリーフが15試合と掛け持ちになった。成績は1勝4敗で防御率は3 . 91と大した戦力になっていない。
しかもこのころ肩を壊して下手投げに変えてみたものの上手くいかず、1961(昭和36)年には背番号を「28」に替えてみたが2試合の登板しかできなかったため、この年を最後に投手をあきらめ外野手に転向している。
1962(昭和37)年は一軍登録されず、1963(昭和38)年に野手として13試合に出たが9打数0安打に終わり、藤本監督から「ノックで生きてみい」と勧められてシーズン終了後引退すると同時に二軍育成コーチに就任。
梅本はノックの技術に磨きをかけて「ノックの名人」と言われるまでになり、おもにファームの選手たちの守備力向上に努めた。
選手寮である「虎風荘」の寮長にも通算18年間就任し、「鬼軍曹」と言われながらも、若手たちを温かく見守る存在としてチームに長く貢献した。
通算成績は
61試合6勝10敗 155
回を投げ、52四球、奪三振 84
、自責点62、防御率 3.60
。
2024(令和6)年9月25日、鳴尾浜球場の最終戦が行われた。来季からファームの拠点が尼崎に移るため、最後のセレモニーが行われ88歳になった梅本も出席している。
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また一つ、タイガースの歴史が閉じるという意味では寂しくなるなぁ。甲子園のすぐ東隣にあった旧虎風荘から今の鳴尾浜に移転する際は寮長だったから、思い出は山ほどある。
新しい寮をどうするか? 球団から依頼されて、巨人、横浜(現DeNA)、ダイエー(現ソフトバンク)の寮を参考のために見学にいった。「阪神が強くなるため」の寮にしようと思ってね。選手の部屋の作り、おいしい食事、トレーニングルーム、風呂、応接ルーム、豪華(?)寮長部屋、〝麻雀部屋〟…。かなり、私が主導して決めたんやで。
やっぱり一番の思い出は、1995年1月17日阪神大震災かな。前年暮れに新しい寮に引っ越ししたばかりだった。朝、グラウンドを見たら両翼のポールは折れて、寮の周辺は水が噴き出して、泥だらけ。すでに十数人の選手が入寮していた。食事の確保のため、大阪方面から食べ物を運んだ。寸胴のカレーをひとりで運び込んだこともあった。寮生を守らなければ…と必死やったなぁ。
震災直後は大ベテランの真弓明信(当時41歳)も入寮したし、2軍監督・藤田平も住み込んだ。球団には「若手の寮では?」という意見もあったらしいが、私は〝オールウエルカム〟。タイガースのための寮だと思っていたから。
入寮する選手の父母との面談も仕事。藤川球児(現球団スペシャルアシスタント)のお母さんが何度も来られたのが印象的かな。野村沙知代さんとは長時間お話をした。野村監督との息子でもある克則(現阪神2軍コーチ)が入寮するときのこと。「どうか、息子をよろしく。どうか!」と何度も頭を下げられて。普段のイメージと違ったなぁ。まあ、親というのは、そういうものかも。
一度は寮長職を外れ、 2
年後に再び戻れた時はうれしかった。「この仕事が天職かも」と感じた。大成功した選手、志半ばで退団していった選手、多くの出会いを作ってくれた舞台には心から「ありがとう」と言いたい。(初代寮長)
福塚 勝哉 捕手(再掲)
福塚は背番号「8」で紹介済みだが一部を改訂し再掲する
福塚は1957(昭和32)年、県立和歌山商業から毎日オリオンズに入団した捕手。はっきり言ってプロ野球のレベルの選手だったかどうか「?」の選手だろう。
オリオンズには5年間在籍しているが、通算で87試合に出ただけである。5年目の1961(昭和36)年にようやく進歩が見られたが、57試合77打数15安打3打点で打率 . 195という成績に過ぎない。5年間でホームランは1本も打てなかった。
1962(昭和37)年、2対2の交換トレードで飯尾為男とともにタイガースに移籍し、「背番号8」を遠井から譲られる。
この年のタイガースはリーグ優勝しているが、福塚の出番は少なく28試合12打数2安打1打点の成績だった。わずか2安打だが、そのうちの1本がプロ入り初本塁打、タイガース3年間で打った唯一のホームランだ。村山とバッテリーを組むことが多く、日本シリーズには7戦中5戦に出場し、第7戦ではスタメンマスク。シリーズでは2安打も記録している。
2年目の1963(昭和38)年にはプロ生活最多の85試合に出場したものの打率は1割台だった。
1964(昭和39)年には世紀のトレードで入団した山内一弘に背番号8を譲り、「28」に替えている。2年目ほどの出番はなく41試合の出場にとどまり、このオフに阪急ブレーブスの西本幸雄監督に請われ移籍していった。
阪急では第2の捕手として1965(昭和40)年に84試合、1966(昭和41)年に82試合と貢献したが2年間で現役引退している。
通算成績は407試合571打数120安打27打点3本塁打、12四球、68三振、打率 . 210だった。
室山 皓之助(むろやまこうのすけ)外野手
岡山県出身で高校は倉敷工業で、1957(昭和32)年の選抜でベスト4まで勝ち上がっている。卒業後は法政大学に進み、3年の春夏と4年秋に連続ベストナインに選出されるなどスター選手だった。リーグ通算68試合出場、232打数69安打、打率 .
297、2本塁打、26打点。
1962(昭和37)年、阪神電鉄に入社しタイガースへは出向という形で入団する。背番号「22」で出場52試合目に当たる8月15日、右中間への飛球を追う際にアキレス腱を切断してしまう。
1963(昭和38)年に復帰することはできたが81試合153打数32安打10打点3本塁打、打率 . 209という成績で終わっている。
1964(昭和39)年はわずか4試合出場で無安打に終わっており、ケガの影響が心配された。
1965(昭和40)年、背番号を「28」に変更して再起を目指したが、26試合目にまたしてもアキレス腱を切断し選手生命は終わったかと思われた。
それでも不屈の闘志で1966(昭和41)年のシーズンに復帰している。しかし怪我が頭をよぎると思い切ったプレーができず、19試合で打率.070という数字しか残せないままオフに現役を退いた。
引退後は阪神電鉄に戻り、1967(昭和42)年から1978(昭和53)年までは「ホテル阪神」に勤務している。
1979(昭和54)年からタイガースフロント入り。広報などを経てチーム担当部長まで歴任した。
通算成績は182試合303打数59安打17打点5本塁打2盗塁、30四球、67三振、打率 .
195だった。
まとめ
どうでした? 前にも出てきた3人は覚えてた?
「28」を着けた期間は、西尾さんが3年、梅本さんが3年、福塚さんが1年、室山さんが2年なのよね とくに室山さんは東京6大学時代に好打者で鳴らしてたのに プロでは重なる不運で開花できずに終わってしまってるのね
どうも「28」がぐんと浮上してくる感じがないですね
しかーし! いよいよ次回その4は江夏豊さんの登場です もちろん「江夏豊伝説」として独占枠で紹介するよ!
背番号28―4につづく
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