タイガース非公式サイト2代目

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2025年11月16日
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背番号35(その6)

2代目タイガース非公式サイトです

みなさんこんにちは 背番号35の第6回目です 

今回もまた3名を紹介しますが 1人目は捕手で一時期はレギュラーも取った選手 背番号35を着けたのは1年だけね

2人目は中日を戦力外になった選手で最晩年の2年間をタイガースで終えた外野手

3人目はこの背番号「35」で唯一のドラフト1位の投手 この人は7年間着けてるんだよ

こうやって聞いてみて皆さんお分かりになるかな? 突然訊ねられると難問だよね 平成になってからのことなので 一定の年齢以上の人ならわかる人はわかるとおもうけど すぐには答えが出てこないでしょう

では順次見ていくよ 読み進めば「あっ そうか!」となるかもね

山田 勝彦 捕手 (再掲)

山田さんはすでに「27-7」で紹介済みです 実際は27より先に35を着けてたんだね ということで一部修正したうえで再掲します

愛知県名古屋市熱田区の出身で高校は東邦高校。1986(昭和61)年、高校2年の春にセンバツ大会に出場しているがこの時は控え投手だった。1回戦で敗退したなかでリリーフ登板を経験している。

センバツ以降は外野も守ったりしていたが、秋に新チームとなって本格的に捕手に転向するとみるみる力をつけ、半年で東海地区ナンバーワン捕手と評価されるようになる。バッティングも好く高校通算で24本塁打を記録している。

1987(昭和62)年のドラフト会議ではタイガースから3巡目で指名されて入団する。背番号について整理しておくと、最初の背番号は「61」で1988(昭和63)年~1991(平成3)年の4年間着ける。1992(平成4)年に「35」に変えるが1年間着けただけ。1993(平成5)年に「27」へ変えて2002(平成14)年まで10年間着けたのち、トレードで日本ハムファイターズへ移籍することになる。

ルーキーの1988(昭和63)年はファームで33試合、2年目の1989(平成元)年に初めて一軍に上がるが、出場したのは1試合のみ。3年目の1990(平成2)年はまた1年間ファームで過ごした。

1991(平成3)年から一軍戦力の一角として認められるようになり、この年は66試合に出ているが打率 . 128。期待されていた打撃は伸びてこなかった。


 背番号が「35」に変わった1992(平成4)年、「新亀フィーバー」に乗っかるように山田も台頭し、生涯唯一の100試合以上の出場を果たしている。成績は114試合313打数64安打31打点4本塁打、打率 . 203というもので、これがキャリアハイとなった。

またこの年で嶋田が引退したため、1993(平成4)年から背番号を嶋田が着けていた「「27」に変更している。

当時は1990年に入団してきた関川耕一が強力なライバルとして存在していたため、なかなか正捕手定着ができなかった事情がある。捕手としては拮抗していたがバッティングでは関川のほうが優っていたし足も使えた。そのため関川は打力と俊足を生かせる外野手に転向していき、1996(平成8)~1997(平成9)年は山田が正捕手の座についている。

ところが1997年のオフに関川がトレードで中日ドラゴンズに移り、交換で移籍してきた矢野燿大が強力なライバルとして立ちふさがったため、出場機会は激減していく。

1998(平成10)年は矢野が110試合、山田は69試合とレギュラーの座を奪われ、以降は21試合、45試合、54試合、39試合と控えに甘んじている。

2002(平成14)年には星野監督が就任し、そのオフに戦力構想から外れて伊達昌司とともに日本ハムファイターズへトレードされてしまった。

日本ハムでは3年間プレーしており、最初の2003(平成15)年こそ40試合に出ているが、2年目が3試合、3年目は1試合に終わり2005(平成17)年オフに現役を退いた。


 引退後は楽天、オリックス、阪神でバッテリーコーチなどを務め、2022(令和4)年からはかつての同僚だった新庄剛志が監督を務める日本ハムで一軍バッテリーコーチを務めている(2025年現在)。

通算成績は795試合1753打数360安打130打点21本塁打、93四球388三振、打率 . 205である。

南牟礼 豊蔵 外野手 

宮崎県都城市出身で県立都城工業高校。高校時代は全国大会などの主だった大会で活躍した実績はない。

高校から社会人野球の電電九州に進み、1980(昭和55)年、1981(昭和56)年と連続で都市対抗本戦に出場したことで評価が高まり、1981年のドラフト会議で阪急ブレーブスから3位で指名されてプロ入りしている。

日本ハムには足掛け10年在籍したがレギュラーを取ったことはない。100試合以上出場できたのは1989(平成元)年の1シーズンだけだ。その年ですら打席数は192に過ぎず、クビにならずに10年も置いてもらえたのが不思議なくらいだ。

1991(平成3)年に土井正三監督が就任するとさすがに戦力外と見做されたのだろう。春先から出場機会がほとんどなくなったため、ドラゴンズの星野監督に直訴してシーズン中の5月に川畑泰博との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍する。

中日では移籍したシーズンに56試合に使われたが、1992(平成4)年、1993(平成5)年はほとんど使われなくなり、戦力外通告を受け自由契約公示された。

ここで手を差し伸べたのがタイガースで、足の慢性的な故障で守備に難のある石嶺和彦を補う守備固め要員として1993年11月8日に入団が発表されている。背番号は山田が返上して空いていた「35」に決まった。

移籍1年目の1994(平成6)年は96試合に出場し96打席に立っている。これは単なる守備要員だけでなく代打の起用も多かったことを示す数字だ。実際に89打数22安打12打点2本塁打と勝負強さを見せたシーズンとなった。

しかし翌1995(平成7)年は全く一軍で使われず、シーズン終了後には自由契約選手となって退団。ダイエーの入団テスト受けたが受験中にひざを壊し、現役続行をあきらめて引退している。

通算成績は546試合747打数186安打78打点13本塁打、57四球122三振、打率 . 249だった。

引退後は整体師の資格を取り、兵庫県西宮市に「みなみむれ接骨院」を開業している。



舩木 聖士 投手 

広島県三原市出身で県立尾道商業高校時代は3年でようやくエースになったが怪我もあり全く頭角を現すことができなかった。

卒業後に社会人のNKK(日本鋼管)へ入社してからじわじわ実力をつけ、1995(平成7)年の都市対抗野球本戦で準優勝。久慈賞を受賞する活躍を見せたことで上位候補・即戦力の評価を受ける。

同年のドラフト会議でタイガースの1位(逆指名)で入団、背番号は退団した南牟礼の着けていた「35」を引き継いでいる。

ただし、体格的には174センチ89キロで、近代の投手としては小柄なうえにちょっとぽっちゃり気味。本格派というよりスリークォーターで、150キロ近いと言われたストレートも実際に投げてみると140キロ台前半だった。この年のドラフト会議出は福留孝介が7球団競合、単独でなら他の選手でも狙えたはずだが、約束してしまって浮気ができない逆指名というのが災いしたケースではないか。

ルーキーイヤーの1996(平成8)年こそ20試合で17先発し、6勝9敗の成績を残すが、防御率は4 . 49。

期待された2年目の1997(平成9)年は、24試合17先発と積極的に起用されいるが、1勝8敗、防御率4 . 84と2年目のジンクスというのか実力通りというべきか、全く通用しない。

その後は5年間で2勝しかしていないが、1999(平成11)年に野村監督が就任し、舩木を18試合(先発7)に投げさせている。これはあまりの投手不足から舩木を使わざるを得なかったためと言われている。しかし防御率は3 . 86でキャリアハイの数字なので、舩木もよく頑張ったのだろう。

2001(平成13)年のシーズン終了後、3年連続最下位の野村監督が辞任する。星野仙一が新監督になると2002(平成14)年のシーズンは4位に順位を上げる。そしてそのオフにチーム編成に大ナタが振るわれた。

ドラフトに備えることと、大物のFA争奪戦に全部参戦しようという腹もあり、実に24人が戦力外やトレードでタイガースを去ることになる。舩木もその中に入っていた。

解雇を受けて舩木はロッテ・オリオンズのテストで認められて入団。2003(平成15)年から2年間プレーするが、17試合0勝0敗と結果が出せず、2004(平成16)年を最後に現役を退いた。

通算では101試合(先発44)、9勝24敗、314回2 / 3を投げて159四球234奪三振、自責点178、防御率5 . 09に終わっている。

引退後はトレーナーになるための勉強をし、2007年から スポーツDEPO 尼崎下坂部店にアドバイザーとして勤めている。

まとめ

山田さんのタイガース時代は 暗黒時代にすっぽり入っちゃってるのよね 手薄な投手陣をリードするのは大変だったんじゃないかな?もっと評価されても好いとおもうけどなあ ライバルも関川さんや矢野さんがいたからレギュラー守るのはきつかったとおもうよ

南牟礼さんはよく判んないよ 何でとったのって言っても本文に書いたように石嶺さんの補助的な守備要員ぐらいしか理由は無さそう 代打では少し貢献したらしいけどね

ドラフト1位の舩木さんはファンもがっかりしただろうな 先代は初めて見たときの体型で絶句したみたい その後もぶくぶく太っていく一方だったから「3年目くらいでもう要らない」っておもってたって

背番号35-6につづく


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Last updated  2025年11月16日 08時30分55秒
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