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じゃこうねずみ君からバトンを頂きました。1.貴方のHNの由来は? 自分の名前のエイジで登録しようとしたら、既にエイジには使用者が。。。そこで適当に@を付けて著作権の法の網を抜けました。2.他に別のHNを名乗っていたことはありますか? ミクシではエイジ。@は付いてません。3.他の方にどのように呼ばれていますか? 基本的に苗字で呼ばれる。 まれに将軍とか言われることもある。4.全く同じHNを使っている人を見つけた事がありますか? おかげで自分の名前も堂々と名のれない時代になりました。5.ぶっちゃけ、改名しちゃいたかったりしますか? ノン6.HNの由来が気になる人にバトンを渡してください。 とりあえず、HNの由来がよくわからず気になるひとは。。。アンドロメダ6594さん。むえたさん。かおチェさん。瓦割さん(は、なんとな~くわかるけど、一応知りたい)強制ではないので、もしネタに困ったらどうぞ~。
2006.01.23
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出願の時期です。マイニチ1千通位来ます。バイトの人員を増やし、願書処理の体勢を整えているけど、マイニチ残業。きのうは残業後に読書会もやりました。主催者はエイジ@。主催者残業にもかかわらず厚い友情の甲斐もあって、友達は仕事上がるまで待ってくれてて、9:30位から読書会開始。終電で帰りました。しかし、夕食は出前を取るんだけど、それが大学近くの中華料理屋「平○軒」メチャクチャ油っこい。ラーメンを箸で掴むとぶちぶちと麺がちぎれ、口にはこぶ頃には、なんとも食べやすい一口サイズに☆昨日と一昨日は「平●軒」で、胃に多大なるダメージを受けました‐‐;今日はいつもより少し早めの8:00に上がれたので、夕食は出前でなくて、皆で食べに行きました。でもなぜか、またしても中華。まあ、中華のまえに「高級」が付くんだけど、でも中華はしばらくいいや。今週末はセンタ‐試験。来週末は論文の発表が控えているのに休みがまったくないなあ^^;
2006.01.19
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興味のある方だけ読んでえくださいな。。。。>1日は24時間しかないので、1時間悩み苦しむ事は1時間それ以外に使うことを放棄することである。>これはトレードオフの関係であるから、悩み苦しむ以外の選択肢として、確かな満足感を得るためにも、>とりあえず、何かハンバーグとか美味しい物を食べに行こうとか・・・(^_^;)>人生そんなに複雑じゃないかも。>お腹イッパイなら悩み無しかもしれません・・・>でも虚しいなぁ~>ただブクブク太るだけだしなぁ~>もう私にはわかりません!現実というのは、そのような恣意的・不定的自由意志のみで成立しているのではないと思うよ。話が複雑になるのは、現実が恣意的・不定的自由意志のみで成立すると考えるからで、それだとどこまでも選択肢が拡散していってしまう。でも、現実に我々には多数に在る選択可能な選択肢の一つを常に選択している。現実というものを考える時、二通りの見かたができると思う。一つは、客観的な現実の見かた。もう一つは、主観的な現実の見かた。客観に徹した見かたをすれば、現実というのは、複数の選択肢の内の一つでしかない。現実はどこまでも選択肢として拡散し、どこまでも比較され、対象化され得る現実となる。その現実は、つまりは偶然的現実である。数ある選択肢がある中でなぜだかその現実が選択されているのである。現実を時間という単位で区切り、悩み苦しむことや、美味しいハンバーグを食べる喜びを1時間という抽象的な数字に変換させるものの見かたである。そうすることで感情や感覚などの本来交換不可能と考えられる経験の総体であるところの現実は、概念化することで交換可能にもなる。そんな時、なぜこの私はあっちの「彼」の経験ではなく、こっちの、この「私」の経験を所有しているのか?というような問いも起きてくるし、デカルトの「悪霊」も想定可能になる。一方主観に徹した見かたをすれば、現実は複数の選択肢の内の一つではなく、どのような因果関係を経ているにしろ、ただ端的にその現実であり、<いま・ここ>なのである。その端的な直接の事実が逆に選択肢を収束させ、現実は必然性を帯びてくる。悩み苦しむ現場において現実は、悩み苦しみそれ以外ではあり得ない。美味しいハンバーグを食べた時、現実は、やわらかなハンバーグのしたたる肉汁に舌鼓を打つ喜びそのものになる。現実を現実そのものとして直面し、それを直に生き切る時、そこに選択の余地は生まれない。もしあなたの大切な人が理不尽な死に方をした時、その悲哀の感情を、それとは別の感情に取り換えることはでるだろうか。ある程度時間が経てばそれは可能かもしれない。ただ、その悲しみの現場においては悲哀に身を浸す以外にどうしようもない。それ以外の可能性が絶たれてしまう。涙を流さざるを得ない、立ちすくまざるを得ない状況というのがある。私が、この人生の苦しみを背負い切ることができないからといって、私であることをやめて、あっちにいる彼の人生を生きることはできない。どうしようもなくこの私であるという、この直接の実存的経験こそが、選択肢を収束させる。まあ、いつも収束と同時に拡散は始まっているのだけれど。現実は、数ある可能性の中の一選択肢が偶然実現してしまっているという、偶然的現実の側面と、数ある選択肢が極所的に収束し、そこからどうしようもなく開けているような現実、すなわち必然的現実の側面がある。まあ長くなったけど、 『地球交響曲第三番』日記の話は、その現実へのピントの合わせ方が様々あるって話だったんだよ。
2006.01.17
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最近の星野道夫への想いが募り、身近にいる最もスピリチュアルな話のわかる人を誘って観てきました。三番の登場人物は三人。写真家の星野道夫宇宙物理学者のフリーマン ダイソン外洋カヌー航海者のナイノア トンプソンしかし、映画の始まる直前星野道夫はカムチャツカで熊に襲われ亡くなります。映画はそこから始まります。本来は、三人の生き様からガイアの在りようと、我々の在りようを理解するのが主題だったんだと思いますが、この映画は星野の死をキッカケにして、彼の生と死をどのように理解するか、に主題化されてしまったように思えます。しかし、その突然の焦点のズレが、この映画が本来何を主題とすべきかをより明らかにしたし、また結果的に映画自体の完成度をより高めたと思います。三番は、亡くなった星野道夫の代わりに、彼と同じ世界を分かち合ったことのある友人達が登場し、星野が生きていた頃の思い出、そしてその死について語りました。その友人立ちの中に生き生きと星野の思い出があるのがわかりました。星野道夫の凄い所は、彼は友人達の魅力をエッセイに書き綴っているのですが、その当の友人達は、自分がエッセイに書かれているということを知らない。星野は写真もエッセイも一流だと思います。ただ、それを介さず友人達の中に非常に強く星野が印象付けられていうことが、生身の彼の魅力がどれほどのものなのかを証明しているように思えます。世界的な宇宙物理学者フリーマン・ダイソンは、自然科学の立場から(あるいは既存のそれを超えた)根本的な生命の死生観を教えてくれました。かつて、太古の生命には「死」というプログラムがなかった。「死」は常に外的な事故死でしかあり得なかった。生命の進化と多様化に伴い、やがてSEX(性別)と同時に「死」を生命は得ることになる。古い個体が死ぬことで、進化と多様化のスピードは圧倒的に増した。ガイアにおいて生命が多様化しなければ、一度の大災害ですべての生命は滅んでしまう。「〈死〉があるということは、とても幸運なことだと思います。次の世代に生きる場所を明け渡すことができるからです。なぜ絶望するのですか。希望を失うのは馬鹿げています。希望は本当に重要なものです。もちろん美しいことだけを期待すべきではありません。世界は必ず悲劇的な側面を持っているし、それが現実です。しかし悲劇的であるからこそ、希望もあるのです。」「死」が生命の終極としてあるのではなく、進化の一過程としてあるのがわかる。星野の死も例外ではない。とりわけ彼の死は、生物学的な側面だけでなく、「悲劇と希望」というヒューマニズムの側面からとらえても、生命の進化ということが言えるだろう。それは彼の悲劇的な死にともなう喪失感の意味と、そしてその死の意義を問わしめる星野自身のLife。自然と一致している彼の死生観は、我々に悲劇のみではなく、希望の側面をも提示している。そして三人目のナイノア・トンプソンは、自分の属する文化とそのルーツを見つめ直すこと、そしてそこから何を次の世代に残すか、という個体の死を乗り越えていく生命の在り方を問うているように思えた。そもそも「教育」ということの根本にはそのような思想が内包されねばならないと思う。彼は自分の生まれたハワイの文化への劣等感を払い、自分たちの伝統文化を取り戻すために、5000年前のハワイ人達がそうしていたように、近代機器を一切使わず、当時と同じカヌーで、タヒチからハワイまでの航海を成功させました。海図や羅針盤、コンパスのかわりになるのは、星の位置、波や風の動き。それで自分がどこにいて、そしてどこに向かっているかを正確に知るのである。そして、最も大事なことは、水平線の果てにある、未だ見えない島を見る力だ。それはすなわち、目的への信念。夢の実現を信じる力とも言える。5000年前の航海を現代に蘇らせ、ハワイ人の若者達に自信と希望を与えた彼の次の課題は、その特殊な成功体験を「教育」として普遍化させていくことだそうな。‐-------感想として‐-------今回この三番を見るのは二回目です。前に見たのは15歳のときだったと思います。当時は、学問的な意味でも、スピリチュアルな意味でも、大きな感動と興奮を覚えました。星野道夫を知ったのもそこにおいてです。今回は一回り大人になってまた冷静な目で見て、新たな発見もありました。それは、人のものの見かたと、生きかたの多様性について。例えば、現代人は自然科学的な世界観の中に生きている。でも、アラスカのインディアンなんかの一部の人達は神話の世界に生きている。どちらの世界観が優れているのか、あるいはどちらが世界の真理を表しているのか。自然科学における世界の見かたと生きかた。シャーマニズムにおける世界の見かたと生きかた。西洋人における世界の見かたと生きかた。東洋人における世界の見かたと生きかた。哲学者における世界の見かたと生きかた。詩人における世界の見かたと生きかた。どれも長所あり、短所あり、それぞれが、それぞれの環境・文化・時代の進歩・変化に合わせそれぞれの世界を生きている。よく考えてみると、どれが究極的に正しいのかは、歴史と場所が判断してくれるんだろうけど、その歴史と場所という概念自体が、見かた生きかたで変化するものなので、判断はまた無限に拡散して、その多様性を認めざるを得なくなる。そして、そのものの見かたの多様性を許すのがLife(生命)なんだなと思いました。さらに、どのような見かたを選択しているのかで、そのLife(生命)の有する個性は変化し、生きかた、即ちLife(生活)の多様性をもたらす。あえて今日の結論を言うならば、このLIFEの発展の場として、さらに大なるLIFE、すなわちGAIA(ガイア)があるのでしょう。…という統一的なものの見かたを、この映画は示そうとしているのでしょう。
2006.01.14
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この日記はアンドロメダ6594さんに触発されて書きました^^;『スピリチュアルな人々』(2006/01/10)僕も、「星野道夫の世界展」には何度か足を運びました。僕は彼の写真に出会うまで写真という表現が嫌いでした。それは当時僕が写真というものを理解していなかったからなのですが。。。中学生の頃ある写真を見ました。アジアのどこかの戦地で、裸の少女が泣きながら逃げまどう写真(詳しい戦地・カメラマンが誰かは忘れてしまいましたが・・)僕はそれを撮った写真家に何かいい知れぬ嫌悪感を感じました。目の前の少女を助けようとせず、写真を撮るということに、、カメラマンの非常さを感じたからです。まあ、今考えれば、戦場でカメラマンが銃を持ったり、医療行為をするより、写真を撮って世界に知らしめる方がよほど大きな行為になるということなんですけど、でも、その写真を見てから、写真家という職業に対して疑念を抱くようになりました。目の前の少女を助けるよりも、ジャーナリズムや世界の眼というファインダーを通して、現実の外から写真を撮るということが興味本意に行われて、ある種のエンターテイメント的なものとして撮られているのではないかと。。。当時はなんだかむしゃくしゃしました^^;(日本のお昼の奥様向けワイドショー番組の悪い影響で、ジャーナリズムそのものを誤解したということもその原因の一つなのですが)そんな時に、「星野道夫の世界展」をたまたま見に行ったのです。「どーせ写真家なんて」と思いながら・・でも、星野の写真は違いました。テレビの向こうの刺激を求める興味本意の人々の為に写真を撮っているのではない。「それ」と一つになるためにこの人は写真を撮っているのだなと直観しました。そして、この人の意識は、現代の流行思想とか、ジャーナリズムとかそんなものに基いて行為しているのではないことがよくわかりました。流行思想やジャーナリズムという意識ではなくて、自然を自然の内から、自らも自然と一致して自然そのものをとらえているのです。自然の外からでなく、内において、です。素人の勝手な考えですが、写真家の極意とするところは、いかに対象との一致を果すのかに尽きるのだと思います。「作品」というものが人々に感動や、驚きや、現実の深淵を伝えきるためには作品そのものから、製作者とObjectとの直接の一致が、鑑賞者に垣間見えなければいけないと思うんです。でなければ作品と鑑賞者の一致もまたあり得ません。裸で逃げ惑う少女のどうしようもない悲哀を共に味わうことなしに、戦争の現実は理解できないし、それが理解できないジャーナリズムも意味をなさない。カメラマンがその現実の悲哀を味わい尽くし、どうしようもなく立ちすくんでしまった時が、本当にシャッターを切るべき瞬間なんだ。ま、カメラマンによりどう行為するかは異なるかもしれないけど、でもそこで現実の「深淵」を見据える覚悟がなければ写真なんかは撮ってはいけないんだと思う。(これは倫理)自然と向き合い、自然と一つに近付こうとした星野。「いつの日か、わたしたちは氷の世界で出会うだろう。そのとき、おまえがいのちを落としてもわたしがいのちを落としてもどちらでもよいのだ」このような気概があって初めて現実そのものを、自然そのものを「外から」ではなく「内から」そのままに作品にできるんだと思う。そして彼はいのちを落としました。この、自然に向き合い当然のように抱く死への覚悟と、その予感、それも含めて彼の写真であり、彼のエッセイなんだと思います。いや、彼の場合、写真も、エッセイも、それが「自然」そのものになってるんですよね。
2006.01.10
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俺はお前だ。というか、いつも二人でCafeで話しているような内容だからじゃあないかな。というわけで、昨日のコメントの返事書いてたら長くなってしまったので、日記として主題化してしまいます。(私的な日記なので普通の読者の方々には失礼します)人生に「戯れ言」を入れる必要は一般的に考えて、ない。ただその生(ナマではない)の現場にのみ徹すればいい、という極めて刹那的な生き方がある。そしてそれは、仕事の現場なんかに行くと、そのような「気分」を醸して生きている人がほとんどであるということを思い知らされる。戯れ言を挟む余地さえない。だって必要ないから。そんな間隙のない事業、そして人生。それはそれで充分な生(ナマではない)なのかもしれない。まあもちろんオレも、仕事や弓の現場では「戯れ言」は言わない。それは、その現場に徹しきることができなくなるから。でも、オレの生(ナマではない)は、一つの現場だけじゃだめで。「何かに徹したい」という欲求と、「何かに埋没して自己を見失いたくない」という矛盾した想いが常にある生(ナマではない)で、その後者の立場が「戯れ言」を言わせる。「戯れ言」の立場とは、自己反省の立場であり、自己反省の立場とは、現場を脱却した観点に立つということであるが、それもまた新たな現場の一つではある。「現場を主題化する現場」ともいうべきような現場か。そしてその「戯れ言」の現場、上にあげたような刹那的現場第一主義者達にとっては割と非現実的内容ではある。でもげーでる君の言う通りで、(私の)人生には「戯れ言」という再契機(remind)が必要不可欠で、その「戯れ言」をたれる現場において、さらにその(仕事や弓の)現場を止揚し徹しきるための再構築が必ず要求されると思う。そして、その「戯れ言」とは何であるのか?というような更に大きな哲学的自己反省の立場もその大枠として同時になきゃ、その妥当性が薄れる。(これが徹底的批評主義なのか?)一見この・現場・戯れ言(現場を主題化する現場)・哲学的自己反省という三段構えの生(ナマではない)は非現実的なのかもしれない。でも、オレはここまでやってはじめて、本当に「場に徹しきる」ということが可能になるのではないのかなあと思うわけです。この3段構えの生(ナマではない)は、その三つの契機の内、どれからもそのリアリティを失ってしまってはいけないんだと思います。「三位一体」みたいな構造?んで、昨日の日記におけるオレの戯れ言は、最初の「現場」という契機の比率が最近軽いなと思って出てきたようで、まさにげーでる君指摘の通り>「緊張感、使命感、重圧」を直接的に感じられなくなったためなんですよ。それは外から得ようとするのではなく、現場において内から「直接」接しなければ得られるものではないことはよくわかってます。だから「戯れ言」いう前にそれをやれということなんです。だから、とりあえずは「自力」的にそれをやってみて、そこからまた新たに戯れ言たれたいと思います。というわけでげーでる君、今年も戯れ言にお付き合い下さいますよう、宜しく御願い申し上げます。
2006.01.08
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今日は自分の甘さについて。夢ってなんだ?わくわくすりゃそれでいいのか?まあ、それも一つの要素ではある。でも、それだけじゃだめでしょう(-ε- )甘い。意識が。だから夢からリアリティがどんどん遊離してっちゃう気がして。夢ってのはそもそも非現実そのものでもある。ま、寝てる時のやつは置いとくとしても、いま現実において抱く夢の方は、まだ実現してないという意味で非現実だ。でも夢ってのは、それを非現実から引き上げ、そして実現することにその意義が置かれるってことは、誰も否定しないだろう。現実を変えて行ければ、自然と非現実も変化してくる。生活を変えていけば、自然と夢へのイマジネーションも変化してくる。現実(生活)と非現実(イマジネーション)の接点が、夢の実現ということだろう。だから、実現するには、夢と現実をつなぐ「媒介」が必要で、それが「弓道」それが「哲学」それが「Life」でもここしばらくその媒介がうまく機能してない^^;弓は練習不足。論文の執筆も思うようにいかない。仕事と両立しなきゃ。ま、簡単に言えば、ちゃんとやれよ!ってこと。そんな甘い意識だと夢のイマジネーションもだんだんとボヤけてきちゃうぞ。だから、意識の甘さなんです。学生時代の、当時の日々の練習と試合。あの緊張感、使命感、重圧、それと同等か、あるいはそれ以上の重さのものを背負って今後弓を引くことができるのだろうか。そして、そんなものどこに?哲学も同様だ。書くのが不自由だ。書けない。書けるけど書こうとしない。なぜもっと書こうとできないのか。あの人のように、なぜそれに徹し切れないのか。もっともっと現場に接していかなきゃいけないのにいつも現実から離れた戯れ言ばっかなのはよくない。戯れ言も、それを言う時と場合ってもんがあるだろうし。だから欲しいのは『覚悟』生活の中のそれぞれの局面、それぞれの覚悟は今後どこで得ることができるのだろう。でもそれは、探して出てくるものじゃないのは経験上よく知ってる。所謂「自力」でそれを得るものではないってことはよくわかる。主客相分かれる認識論の領域じゃなくて、主客未分における経験論の領域においてあるってのも何となくわかるのですが。。。…はい、というわけで今日のタイトルでそろそろ締め。「スミマセン、今日も戯れ言です。。。」さーて、明日から3連休だ^^
2006.01.07
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今日は朝から風邪気味でした。朝から喉が痛くて、午後からなんだか熱っぽくなってきてしまいましたねえ。しかも今日はエクセルで数字と睨めっこだったんで余計だるかったなあ。さっき薬飲みました。悪化する前に治してしまいたいと思います。生活が崩れそうな予感を感じた今日は、ちょっと生活について考えてみたいと思います。生活を段取ることってのは非常に大事なことだ。一日の予定、一週間の予定、一月の予定、一年の予定、一生の予定予定をあらかじめ確認し、それを実行・実践する。最近は、段取りと現場がある程度近付いた生活が実現できてる感があったりする。(…気がする)風邪をひき始めたりすると、そうゆう生活を守るってことが大事なことに思えてくる。でも、それが極端になり、それを守るためだけの生活になっていくと、生活から不確定要素がなくなり、イマジネーションの働く余地も奪われ、自然「張り」も無くなってしまうんだろうか。段取りの時点で鮮明に生活の絵が全て見えてしまうというのも面白くないかもしれない。自分の生活を段取るということは、自分の意識を段取ることだ。ただ、意識を段取りすぎて、そのうち自分の思い通りに意識が運ばないこがあったりしたら、それに対してストレスがやたら大きそうだ。スケジュール帖に予定がぎっちりと詰められていることがまるで美学のように語られることがある。その予定満載の手帳は段取りの取れた意識を意味するが、同時に固定され限定され尽くされた意識とも言える。意識が傲慢さを得る危険性を常に孕んでいる状態でもあるということに気付かなければいけないとも思う。生活を段取ることは豊かな人生を得るために必要なことだ。♪「段取り八割、現場二割」の生活。でもその割合は絶妙なバランス感覚が大事で、どちらに偏っても人生はおもしろくない。(ビバじゃない)思うに、人生の不確定性は、人に不安と共に想像力を与える。その不安と想像力ってのがすなわち段取り力の源につながるのだけれど、それが、イマジネーションの働く余地を奪うほどの段取りになってしまうことに逆に不安を覚える。不確定性の忘却は、イマジネーションへの望郷も同時に奪う。一日の予定を立てるのも、人生への目標を持つのも、そこから不確定性の契機だけは排除してはいけないなと思う。だってそれだとわくわくしないじゃん。--------------------------------ああ、インデペンデンスデイってホントいやなハリウッド映画の典型だねえ。さっきからついつい見てしまってるけれども。。。
2006.01.06
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久しぶりの仕事。朝憂鬱になるのが嫌だったので、ちょっと早めに起きて、早めに家を出て、お気に入りのカフェでちょっと一服。一日の段取りをつけてから出勤しました。いやあ、ホントは今日まで休みのはずだったんですが、年末の仕事収めの日に入試願書発送の仕事が新年初めに大量にやってくることを思い出して、そして休日返上で本日出勤という流れ。これに気付かなかったらちょっと大変なことになってたんじゃ無いでしょうか?だって本当は今日出勤の人間は3人のみだったんですよ。3人で200件の宛名を書いて、200通の入試願書(ダンボール10箱)をさばかなきゃならんかったのですよ。結局今日は+3人増の、6人掛かりでやっつけました。課長さん、もうちょっと考えてシフト組んで頂きたぁいヾ( ̄O ̄;)明日からはバイトが+10人増で、受付した願書の処理に終われる日々でございます。。・・・ええ、愚痴ばっかもあれなんで、ちょっとまともなこと書こ。…うーん、あ、あれだね、仕事すると、いいよね。そういえば年末年始休みで身体がなまってたんで今日はいい仕事できましたよ。脳と身体が活性化しました。やっぱ仕事してないと腐りますなあ。(無理やり捻り出したなんともレベルの低いコメント・・・)今日の日記、以上。
2006.01.05
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確か、昨年末に目標を具体的に詰めるとかって言ってたけど、いつになったらマニフェストするのか。。。実は何も考えていないのではないか( ̄Д ̄;) はい、というわけで、考えながら書いていきたいと思います(割と適当)『反省2005』まずは痛々しき反省点から、・父とその会社と非常に中途半端な付き合いをしたということ。⇒しかし、それがもともとの俺と親父との間柄をよく表しているなあとも思う。自分の中で、未だ父は反面教師としての父です。・ただただ、事態に翻弄され、自ら動けなくなること多かった。⇒自覚の不十分と、意思の無さの結果と受け止めます。・いい意味でも悪い意味でも社会勉強ができたと思う。⇒多くの大人の人との付き合いがありました。・沢山の「物」を失ったが、人からも、自分の内からも沢山の「気持ち」を得る事ができた年でした。⇒年始に自己を見失った2005年、「感謝」という言葉でもって締めくくりたいと思います。はい、次『目標2006』じゃあ、最も大きいとこから考えてみます。今持っている具体的な目標は?>自分の弓道場を建てることです。なぜ?>弓道と哲学がより能く可能となる生活のためです。そんな生活が理想だなあと思うから。そして、そんな生活は老後の楽しみとして実現するのではなくて、仕事をしながら日常の生活の在り方として実現したいと思いますく ̄ー+ ̄)40歳までに建てます(宣言)そのためにできることは?>お金を貯めること。哲学を続けること。真摯に弓を引き続けること。それが可能な生活を成り立たせていくこと。じゃあ具体的に今年は何をしましょうか。・家族と共に「自立」した生活を営みます。・再就職します(^^;)ゞ・ブログを書き続けます。そしてブログを書きながら、生活とブログとの関わりを考えていき対と思います。・週一回は必ず弓を引きます(道場に行けずとも弓には触れます)そして弓を引きながら、生活と弓道との関わりを考えていき対と思います。・審査を受けます(弓道五段)・週一回は必ず授業にモグリます♪~( ̄ε ̄;) (たとえ課題が出来ていなくとも)今年はいい加減に後期の西田哲学に手をつけたいと思います。・毎月弓道場貯金します(都合により具体的な額は公開しませんが)・英語とドイツ語のリスニングを毎朝電車の中で行います。たとえ電車で寝ようとも、本読もうとも続けます(By NHKラジオ講座)・一日一回は必ず手帳を開き、自分の夢と、生活を確認します。今思いつくのはこんなとこだ。ん、でも、な~んかしっくりこないぞ。それは、最も大事なことが、「何をやるか」ということに尽きるのではなくて、「どんな理想にに基づいてそれをやるか」ということだからだろう。これさえやっていれば理想の人間になれるのかといわれれば、けしてそんなこたない。(直観として得た)初心を忘れないということ。それは、今のここにあるこの意気込みを忘れないということでもあるんだけど、且つ、生活しながら行為を通じて、その初心をとらえ直し続けるということ、直観し続けていくということなのかなと思う。じゃあ、最後にモットーとして『日々是更新』
2006.01.02
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謹賀新年。「年が明ける」というのは2005⇒2006というようにただ数字が変化することではないんだなあ。ま確かに数字の変化なのだけども、それが凄いのは世界中の人がそれを意識してるってこと。すごいね西暦。まあ、そんな分けで新年を迎えたわけですが、特に大した感動が待っていたわけでもなく、寝正月。まだ昨年末に考え始めた昨年の反省と新年の目標を考え続けてたりするわけです。ま、ネコには無関係で、我家のニート君こと「影千代」にはいつも通りの1日だしねえ。
2006.01.01
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