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仏教3.0を哲学する 永井先生のコメント 先日立ち上がった藤田一照さんのところでの永井哲学の勉強会でも「慈悲の瞑想」については中心的な議論として上がってました。その慈悲の瞑想について永井先生の答えが出てますね。「私が注目したのは、他の瞑想(や坐禅)とは異なり、これは言葉を使ってしかできないこと、しかしその言葉の質は普通のヤリトリの言葉とはまったく違うこと、であった。私の思うところでは、これは、通常の言葉によるヤリトリとは逆に、先ほど述べた意味での無為なる存在が、他の無為なる存在に呼びかける、いわば超越者に対する祈りの言葉なのである。そして、おそらくはそれが、たぶんそれだけが、われわれの場合の蔓なのである。」 慈悲の瞑想が「言葉」によって為されるというところがとっても重要な気がする。言葉が登場すると、そこでいきなり超越的になり、形而上学的になり、呪術的になり、宗教的になってくるようで。祈りの念はコトバにならなければ〈他者〉には届かない?!というか祈りというのはナニでできているのかな?と祈祷寺に務め毎日6度も祈祷している私が問う(笑)お経もそうだが、言葉で導入されて、言葉を超え出るような機能が祈祷にはあるような気がしている。原始宗教などでのトランス状態の祈りの形とか。。。
2019.01.31
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宗教家であれば、それが伝統的な宗教であれ、カルト的であれ、「存在神秘」について語れるということが彼が宗教者である条件であろう。存在神秘を形而上的超越的に語っても構わないし、超越論的に語っても構わない。その神秘への崇敬の念と、存在驚愕こそが宗教と神の起源でもあるのだろう。古東哲明先生 『ハイデガー 存在神秘の哲学』
2019.01.30
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まどみちお「そもそもアリや菜の花ちゅう名前自体、人間が勝手につけたものですよね。われわれが社会生活をする上では名前がなくちゃ困るけれど、名前で呼ぶことと、そのものの本質を感じることは別なんじゃないでしょうか。なのに「あ、チョウチョだ。あれはモンシロチョウか」と思った瞬間たいていはわかった気になって、その対象を見るのをやめてしまう。どんな存在も見かけだけのものじゃないのに、人間はその名前を読むことしかしたがらないんですよね。本当に見ようとは、感じようとはしない。それはじつにもったいないことだと思います。」『いわずにおれない』集英社be文庫世界をまどみちおさんのように「なに性」を〈これ性〉として見ていくことができない時代になってきていますね。なに性 ー これ性分別智(わけてわかる智)ー無分別智(わけてかわる智でない)知恵ー慈悲非言語事実この花意味ー事実「私」ー〈私〉思惟・反省ー純粋経験公案ー現成神の知性ー神の意志カント原理(起こる内容の連続で現実が規定される)ーライプニッツ原理(今ここに起こることはすべて現実である)規定された私の存在(純粋理性のカテゴリー)ー無既定の私の存在(統覚)他者は「主体である」という在り方をする客体ー私は世界を構成する主体本質(~である)ー実在(~がある)可能的現在ー現実的現在他律的ー自律的文・否定文(時制変換可)ー絵・否定絵(時制変換不可)公的な主観性ー私的な客観性横の糸はあなたー縦の糸は私赤肉団上ー一無位の真人ものーこと春ー花夏ーほととぎす秋ー月冬ー雪超越的述語面ー超越的主語面
2019.01.30
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一家5人で参加のご家族もいてありがたかったです。寝ニョロ、結跏趺坐の為の足ストレッチ、坐禅、講話しながら茶話会という流れでした。先日、藤田一照さんから最近出版された『現代坐禅講義』文庫版をプレゼントしていただきました。坐禅会や修行僧に紹介してくれとのミッションも頂いて。臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺師の帯コメントも、実は一度修正されたそうですが、修正前のコメントが素晴らしい。最初に出版されたハードカバーの方は、以前一照さんに「一花開世界起」とサインを頂いて善寳寺専門僧堂に寄贈しました。 修行僧の課題図書の一つとなっております。講話では岸政彦さん「断片的なものの社会学」という書籍からの引用と、詩人のまどみちおさんの文章、道元禅師の「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」を引用してお話を進めました。「すずしかりけり」は冬にかかっていると思われがちだが、春夏秋冬すべてにかかっている言葉であると以前青山俊董老子から聞きました。春は花ですずしかりけり、夏はほととぎすですずしかりけり、秋は月ですずしかりけり、冬は雪さえてすずしかりけり。春夏秋冬すずしかりけりと見て、すずしかりけりと暮らしていくことが大切ですね。「春と花」の関係と「意味と事実」との対応関係についてお話ししました。意味=なに性=春、事実=これ性=この花人生には意味がある前に、生々しい現前の事実があります。そこに坐りましょうというお話。「これ」は「なん」だ。ということが「現成 公案」ですね。
2019.01.28
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夜、修行僧に講義をする。昨日のNHK文化センターの資料を使って話をする。道元禅師の有名な歌に「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」春をミクロ的方面に限定していくと花が出てくるが、「この花」には行きつかない。「この花」をマクロ的方面に拡大していっても春そのものに還元されつくされない。子供が言葉を学習するのに最初に春からはおぼえない。まずは「この」花を見て、それから花は春に咲くものだと学習するだろう。これは→何かであると学ぶ。春はナニ。花はコレである。大人は「コレ」をすべて「ナニ」かに還元しようとする。科学者や法律家、経済学者や評論家の仕事はすべてがそれであるだろう。逆に詩人、芸術家は「ナニ」かであるものから「コレ」を救い出す方向の仕事をしている。修行が「ナニ」かであると、途端につまらなく辛いものになる。「コレ」を見いだせると途端にありがたく大切になってくる。正法眼蔵の現成公案は「コレナニ」ってことだという話をした。現成→コレ公案→ナニナニコレ鎮百景やなんだこれミステリーでもいいが、「コレ」を救い出せる修行が成仏ということにもなるのではないか。先日引用した岸政彦の文章での「この小石」は無数の小石から成仏させられて「この小石」になったとも言える。公案を現成させる。意味から事実を救い出す。これが成仏ということか。
2019.01.25
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(ライプニッツ的な意味での)神の知恵に陶酔するものがいる。世界が神の知恵でできていると見て、それに則って冷静に可能的世界を構成し説明しようとする。全ての事実には意味があるとする立場である。(ライプニッツ的な意味での)神の意志にも陶酔するものがいる。世界が神の意志によって現実的世界が現成していると見て、その存在への祝福を存在驚愕とともに受け取る。全ての意味には事実があるとする立場である。前者は科学者や法律家であり、後者は宗教者・芸術家などである。例えばV・フランクルは前者に属する。後者の代表格はまどみちおであろうか。どちらの視点でも宗教的陶酔があるということが、彼らの優秀さの基礎にあるであろう。
2019.01.25
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22日に師家養成所から戻り、今日から通常勤務。午前中は山内への挨拶回りと不在時にたまった仕事の処理をする。午後からNHK文化センターにて坐禅講座。社会学者の岸政彦「断片的なものの社会学」 の文章と、まどみちお「どんな小さなものでもみつめていると宇宙につながっている」の文章を引用して話を進める。岸政彦「断片的なものの社会学」より抜粋 小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。 私は一度も、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、一度もなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。 そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。 そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」 が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、 意味のなさ。 これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。 私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。以上の岸政彦「断片的なものの社会学」抜粋の文章にはライプニッツ的な神の意志(※永井均 『私・今・そして神』を参照のこと)を〈私〉がモノに対して働せることが可能なのではないか?ということを惹起させる。〈私〉がとりたてて特徴のない小石に神の意志を働かせて〈世界にたったひとつの「この小石」〉としているのではないか。ナンでもない小石を唯一のコレにする神の意志のような能力が〈私〉にはあるのではないか。というか、〈私〉であるということがこの世界内で自覚され得るためにはその神の能力が必要不可欠なのではないか?これは一般的なものを具体的なものに解釈し、具体的なものを一般的なものに解釈するということだけには尽くされないことが起きていると思う。可能的世界(神の知性)から現実的世界(神の意志)が実現してきている。永井哲学でいうところの〈私〉と「私」の表記にまさに対応する。現実的〈私〉と可能的「私」との対応である。コレ性→ナニ性への変換は子どもが言葉を習得する際に機能する。〈コレ〉は「ナニ」だったんだと理解し、「ナニ」は〈コレ〉だったんだと驚く。言語習得の形式はこれに当てはまるのであろう。現実的な〈コレ〉を可能的なもの一例「ナニ」として理解し、可能的な「ナニ」が現実的な〈コレ〉であるということに驚く。世界を開く唯一の〈私〉は、世界に無数に存在する「私」の一例として自覚されることを一般には、「物心がつく」という。ここでは神の意志が否定されて神の知性が働いている。西田哲学の場所論的に言えば、超越的主語面が超越的述語面に包摂されて、絶対無に於ける原初的判断が成立する。コレ性→ナニ性・ナニ性→コレ性の哲学として世の中を眺めると面白いかもしれない。世の中には二種類の仕事が存在する。コレ性をナニ性へと変換する仕事と、ナニ性をコレ性に変換する仕事である。「コレ→ナニ性質」と「ナニ→コレ性質」と仮に名づけるとすると◆「コレ→ナニ性質」の一例・精神科医の仕事(医療的診断と薬の処方)・占い師の仕事・科学的探究の方向・現成→公案・凡夫◆「ナニ→コレ性質」の一例・永井均の仕事・まどみちおや詩人の仕事・マインドフルネス・「天上天下唯我独尊」・公案→現成・成仏小石のナニ性をコレ性に変換させることを仏道修行においては「成仏」と言われているのではないか。生活すべてを成仏させるということはこの方向性で人生を生きるということでもある。澤木興道師の「自分が自分を自分する」は「坐禅が坐禅を坐禅する」などともよく読み替えられるが、これを一般定式化すれば「〈コレ性〉が「ナニ性」を〈コレ化〉する」とも言えるだろう。この時に自分が成仏したり坐禅が成仏したり、食事が成仏したりする。現在における救いの形式は「ナニ→コレ」である。逆に過去や未来での救いということを期待する場合には「コレ→ナニ」と働くであろう。例えば「あの時の失恋は辛かったけど、今となってはいい思い出だ」とか「この失敗の痛手は、将来笑い話になるだろう」とか。でも今ここの直下の現実においては「コレ→ナニ」的な慰めは誤魔化しでしかない。コレ→ナニ主義の人は、すべてを理詰めで説明する快楽に陥りがちであり、形式にあてはめすぎるきらいがある。ナニ→コレ主義の人は、目の前のことに理屈抜きで身体が動いてしまう。直情型になりやすいのではないか。 神の知恵に酔うものがいる。神の意志にも酔うものがいる。前者は科学者であり、後者は哲学者である。
2019.01.24
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最後の更新が2014年ということで、あれから5年も経ちましたね。 その後の自分の人生上の変化を報告してみると、 ○仕事・修行面 : 1,善寳寺住職の秘書室「侍局」という部署に勤務して広報をしております。寺の広告やらマスコミ対応やら、市の観光連盟の活動やら色々ですね。 2,坐禅会を主催するようになりました。毎月第4土曜日に「禅のつどい」という名称です。毎回20人くらいは参加があります。ヨガの先生とも知り合い、寺ヨガということでコラボしてやることも多くなりました。 毎月第3木曜にはNHK文化センターでも講座を持つようになりました。坐禅とストレッチに加えて、すこし禅についてのお勉強もします。 3,昨年度より曹洞宗の師家養成所という研修機関に所属して修行をするようになりまし。4年間で年間に90日の研修をします。禅の指導者である「師家・准師家」を養成する研修プログラムです。日本全国に30箇所ほどある修行道場を巡ってそこの師家の元、修行僧と一緒に修行に励みます。今は10人の仲間と共に研鑽を深めています。 ○弓道:たまに引く程度で、忙しくてなかなか道場には顔を出せていません。妻が最近復帰して大会や審査など頑張っているので、先を越されそうです。また、来月から小学校3年生の息子も始めさせるとのことで盛り上がってます。 ○哲学:藤田一照さんとのご縁から、大学で学んだ永井哲学が再燃している今日この頃。3年前には永井均先生ともお合いしてお話しする機会を頂きました。今年から永井哲学の勉強会を藤田一照さんの芽山荘にて立ち上げることになり、その初期メンバーに仲間入りさせて頂きました。引きこもりから救って頂いたのは永井哲学に出会ったからでした。大学の卒論は永井哲学と西田幾多郎で書きました。それを一照さんに読んで頂いたこともこのようなご縁に繋がりました。20年以上続くこの永井哲学との因縁はまだまだ動いていたようです。 ○家庭面:師家養成所もあり、年の3分の1は出張しています。妻や子供たち、師匠や親たちに迷惑をかけてばかり。家に居るときくらいは楽しく和やかに家族とふれあいたいものですが、なかなか思う通りにはいきませんね。 18歳まで「引きこもり」であったということが、これまでの自分の人生を大きく支えてくれていると思うようになりました。いままではずっと人には言えず、人生の恥であると思っていました。でもこれこそが自分のオリジナリティの源泉でした。哲学、弓道、仏道、すべて引きこもりの時の余韻で進んでいるように思います。 もう少しこれについても書いてみたいと思ってます。
2019.01.23
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