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【長野県の首無し地蔵】
前述までの墓地にあった首無し地蔵です。この首無し地蔵を正面から見たら、どのように見えるか想像してみて下さい。会津に残っているこのように合掌している地蔵菩薩像をここで何回もご紹介しています。そして、そこに見えている形は間違いなく十字架だと小生は考えています。それは、ここでは記しませんが、会津には転切支丹類族帳が残っていて、それに関して詳しく記されている文献が3冊あります。そこに記されている村には、必ずキリシタンの痕跡が残っています。
そして、転切支丹類族帳に載っていなくとも、同じような石像や石仏が残っていれば、その村もキリシタンだったと考えられます。室町時代末期から江戸時代初期に掛けて、領主もしくは藩主がキリシタンであれば、当然、その領地一帯はキリシタンになっていたと考えられます。この時代には、宗門人別制度=寺請制度=檀家制度は影も形もありません。一般民衆は現在のような葬儀は行っていませんし、埋葬して墓石を作ったのはのはキリシタンだけであろうと思われます。
ですから、郡山市にあるような「切支丹墓碑」が残っていると考えられます。会津にも、あの「切支丹墓碑」とそっくりな墓石が残っていますが、あの墓石には「寛文」と彫られています。また、「濫僧」もしくは「乱僧」と言われた、畿内地方から出て修行をしていた仏僧が、村々で、風葬にされた人骨が所々に残っているのを埋めさせたのは、埋葬ではなく、汚れを隠すためであったと考えられます。宗門人別制度が施行される以前には、お寺は葬儀をしていません。また、蒲生氏郷に「昌林院殿高岩忠公大禅定門」という戒名が付けられていますが、これも後の時代になって、家臣がお寺に依頼して戒名を付けていただいたのであろうと思われます。
そう言えば、蒲生氏郷は南部攻略や名護屋城にいたのでキリシタンの布教はあまり出来なかったと書かれていたサイトを見たことがありますが、当時のローマ・カトリック教会では、「布教する」ことが出来るのは、聖職者だけで、それもそれなりの訓練を受けた聖職者だけでした。しかし、会津には蒲生氏郷と共に、キリシタンの宣教師が入って来ていたことは間違いありません。勿論、伊那谷のキリシタンの拠点であった高遠にも、宣教師がいたであろうことは容易に考えられます。