PR
Keyword Search
Calendar
Comments
Freepage List

【会津の墓石】
同じ墓地にあった別の墓石です。位号が「尼」だけです。そして側面には「天保四巳天」と彫られています。こうした「尼」だけ、あるいは「門」だけの位号の墓石は、この墓地に何基もあります。この村は、漢字表記が現在とは異なっていますが、この村のことであろうと思われる村名が『文禄三年蒲生家高目録』に出てきています。そして、『新編会津風土記』にある家数からすると、江戸時代後期には大きな村でした。
ですから、墓地に残っている古い墓石の数が多いことも頷けます。そして実に不思議なことなのですが、ここは曹洞宗のお寺の墓地なのですが、境内には観音堂と薬師堂が建てられています。それぞれに立派なお堂です。と同時に、山間部でもかなり幅の広い沢沿いにある村ですから、現在ではかなり広い田圃があります。しかし、『会津鑑』の石高を『新編会津風土記』の家数で割ると、一軒当たり3石程度の石高しかありません。
しかし、気になる戒名が彫られた墓石を撮った写真からすると、少なくとも116基は彫られた戒名が気になります。年に3石しかない石高でも、宗門人別制度下では墓石を建てなければならなかったのであろうと思われますが、1軒あたりの人数を考えると、米を十分に食べられたとは思えません。一般に、江戸時代には一年に一人一石の米を食べたと考えられていますが、会津の山間部の村々では、一人一石を食べられるほどの米は収穫がありませんでした。
そして、こうした村が江戸時代を生き抜いてきた裏には、保科松平家の農民保護政策があったと考えられます。社倉米制度だけでなく、高齢者に対する扶持米の支給は、会津全域で行われていました。「老養扶持」と言われている米の支給に関して、山間部の村で起こった出来事について、『会津藩家世実紀』は少し詳しく記しています。