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「新しい年を迎えて」 2019年12月31日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年3月14日放映「計画に現れる愛」 「新しい年を迎えて」 甲斐慎一郎 ヨシュア記3章1~4節 私たちが新しい年の初めに当たり、その出発点に立って、これから進もうとしている道について考えることは、何よりも大切なことです。私たちの前には、どのような道があるのでしょうか。 一、私たちが通ったことのない道 この個所において、つかさたちは「あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ」(4節)と言いましたが、「この道」というのは、直接的にはヨルダン川を渡る道のことを指していました。しかしこのことはイスラエルの人々が、これから行くすべての道についても同じように言えることです。 私たちがこれから歩もうとしている人生の道も、同じように私たちが通ったことのない道です。このことはキリスト者も世の人々も同じです。しかしキリスト者は、途中の道は分からなくても、出発点と目標点は、はっきりと分かっているということです。 イスラエルの人々はエジプトの国を出て、カナンの地に向かいましたが、キリスト者は罪の生涯を出て、天の御国に向かっているのです(ピリピ3章20節)。 ですから私たちは、一度も通ったことのない人生の道を進むために、次のような3つのことを心がけていなければなりません。 1.出発点である罪からの救いを明確にする。2.目標点である天の御国に向かう自覚を持つ。3.途中の道については信仰によって歩む。 二、キリストが通られた道 しかし私たちが通ったことのないこの道を、すでに通られた方がおられます。それはイエス・キリストです。キリストは、苦しみも弱さも涙も経験されたのであり(ヘブル4章18節、15節、5章7節)、「すべての点で、私たちと同じ」でした。人としてのキリストと私たちの違いは、ただ一つ「罪は犯され」なかったことだけです(同4章15節)。 しかしキリストは無実の罪を着せられ、私たちのために罪とされました。これは誰も経験したことがない想像を絶する苦しみでした(マタイ27章46節)。このようにしてキリストは、私たちのために「苦しみを受け、その足跡に従うようにと」、私たちに「模範を残され」たのです(第一ペテロ2章21節)。 よく言われるように私たちが行く道のすべてにキリストが立っておられます。キリストは、私たちのために先にそこを通られ、「道を踏み固め、平らにしてくださったのです」(S・D・ゴードン)。 誰も通ったことがなく、踏み固められていないものは道ではありません。キリストは、ご自身のことを「道」であると言われました(ヨハネ14章6節)。これは、キリストが私たちのために神に至る道となってくださったという意味だけでなく、私たちのためにすべてのことを経験して、私たちが通りやすいように踏み固めてくださったという意味においても道なのです。 三、キリスト者が通るべき道 パウロは、晩年に「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と告白しています(第二テモテ4章7節)。 1.勇敢に戦う生涯 私たちは、どんなに小さな良いことでも勇敢に戦って獲得しなければ、真に自分の身につきません。 2.走るべき道のりを走り終える生涯 私たちは、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」、身軽になり、「忍耐をもって走り続け」なければなりません(ヘブル12章1節)。しかもコースを間違えずに、また完走するためには、途中で脱落しないように節制と計画性が必要です。 3.信仰を守り通す生涯 主は、私たちのためにいのちを捨ててくださいました。ですから私たちは、どんなことがあっても信仰を守り通さなければならないのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2019.12.31
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「神のいつくしみときびしさ」2019年12月29日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2016年7月7日放映「神への信仰と感情」「神のいつくしみときびしさ」 甲斐愼一郎 ローマ人への手紙、11章22節 「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」(22節)。 ここでいう「いつくしみ」と「きびしさ」は、第一義的には「信仰に立つ異邦人に対する神のいつくしみ」と「不信仰なユダヤ人に対する神のきびしさ」を意味しています。 しかしここでは神の「いつくしみ」と「きびしさ」という観点から、聖書全体が教えている健全な信仰について学んでみましょう。 一、神との関係における健全な信仰 神のいつくしみは、「神の愛とあわれみ」の表れであり、神のきびしさは、「神の義と聖」の表れです。この二つの性質は別のものですが、決して矛盾するものではありません。すなわち神は、いつくしみのゆえに、きびしさを差し控えたり、反対にきびしさのゆえに、いつくしみを止めたりされるようなことはないということです。 このことを罪に対して述べるなら、次のようになります。神は、どのような小さな罪でも決して許される(許可される)方ではありません。これは神のきびしさです。しかし神は、どのような大きな罪でも悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、赦される(赦免される)方です。これは神のいつくしみです。 そしてこの罪を許可されない神のきびしさと罪を赦免される神のいつくしみが一つに溶け合ったものこそ「キリストの十字架」にほかなりません。聖書には、「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています」と記されています(詩篇八五篇10節)。また賛美歌の262番1節は、「十字架のもとぞいとやすけき、神の義と愛のあえるところ」と歌っています。 私たちは神のいつくしみと神のきびしさが一つに溶け合ったキリストの十字架のゆえに、罪を赦されて救われることができるのです。 二、自分との関係における健全な信仰 私たちは、聖書を読んだり、説教を聞いたりした時、どのようなことに恵まれたり、慰められたりするでしょうか。聖書の教えは、決して罪を許可しないきびしいものです。 しかし私たちは、神に罪を許可してくれるように求めないまでも、罪に対するきびしさを少しでも和らげるようなことに喜びと慰めを見いだすなら、私たちは根本的に大きな間違いを犯していることになります。 神からの真の祝福と慰めは、人間の側から見れば、罪の悔い改めと神への信仰と服従と献身によって与えられるものです。ですから罪を軽く取り扱い、「平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」(エレミヤ6章14節)のは偽りの祝福であり慰めです。 罪を許可されない「神のきびしさ」を受け入れない人は、罪を赦免される「神のいつくしみ」を受けることはできません。またこのような人は「悔い改めにふさわしい実を結」ぶ(マタイ3章8節)ことができず、何回でも同じ罪を繰り返して行うのです。 三、他の人との関係における健全な信仰 「親しき中にも礼儀あり」という諺がありますが、対人関係において大切なことは、やさしさときびしさを兼ね備えていることです。 もし私たちが「きびしさ」だけで「やさしさ」がなかったなら、初めは罪を責め合ってぎすぎすし、ついにはとげとげしくなるでしょう。反対に「やさしさ」だけで「きびしさ」がなかったなら、初めは罪を許可し合う馴れ合いになり、ついには互いに侮るようになるでしょう。どちらにしても対人関係を損なってしまうことになるのです。 しかし私たちが罪を許可されない神のきびしさと罪を赦免される神のいつくしみを心から信じて受け入れるなら、人の罪を許可しないきびしさと、人の罪を赦免するやさしさを兼ね備えた人になることができます。 しかしこれは、「飴と鞭」、言い換えれば、「やさしさときびしさ」をたくみに使い分けるという処世にたけることではありません。やさしさの中にきびしさがあり、きびしさの中にやさしさがあるというように、二つのものが混然と一体となっていることなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2019.12.28
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「キリストの受肉(3)その痛みについて」 2019年12月24日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2016年1月22日放映「神への信仰と意志」「キリストの受肉(3)その痛みについて」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、5章7節 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(7節)。 先回は、キリストの受肉の第二回目として「その疲れについて」学びましたが、今回は第三回目として「その痛みについて」学んでみましょう。 イザヤ書53章には「痛み(痛める)」という言葉が3回(4、7、10節)記されています。その痛みは私たちのためですが、「罪(咎)のために」という言葉も3回記され、それは痛みの内容を教えています。◆それは、刺し通される痛みです(5節)。◆それは、砕かれる痛みです(5節)。 ◆それは、打たれる痛みです(8節)。 一、痛みの種類 人間を構成している「霊」と「心」と「からだ」によって三種類の痛みがあります。 1.肉体的な痛み からだの苦痛のことで、これは医学的に病気や怪我がいやされなければ、取り去ることができないものです。 2.精神的な痛み 心痛のことで、これは心を突き刺されるようなむごいことを言われたり、脳天を打ち砕かれるような衝撃を受けたり、打ちのめされるようなひどい目に会ったりして心が傷つくことです。これは気分転換をしたり、ほかのことで気を紛らわせたりしても、容易にいやされることができないものです。 3.霊的な痛み 自分は神のみこころを痛めたり、神を傷つけたりしているという自覚のことです。これは、私たちが神の言葉によって刺し通され、砕かれ、打たれる時に覚える痛みです(使徒2章37節、ヘブル4章12節)。 二、キリストの痛み キリストは、頭にいばらの冠をかぶらせられ(マタイ27章29節)、手に釘を刺し通されました(ヨハネ20章25節)。また平手で打たれただけでなく、むちでも打たれた(マルコ14章65節、15章15節)のです(肉体的な痛み)。 またキリストは、イスカリオテ・ユダには口づけで裏切られ(ルカ22章48節)、ペテロには三度も知らないと言われ(マタイ26章70~74節)、偽善の律法学者、パリサイ人たちを厳しく叱責され(同23章1~36節)、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われ」ました(同9章36節)。キリストの心痛は、いかばかりであったことでしょうか(精神的な痛み)。 そしてキリストは、十字架の上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と、人類の罪を負って死ぬという言語に絶する苦しみを嘗められたのです(霊的な痛み)。 キリストにとって肉体的な痛みや精神的な痛みは、この最も激しい霊的な痛みに備えるものとなったのではないでしょうか。 三、私たちの痛み 「霊」と「心」と「からだ」は、切っても切れない関係にあるので、三種類の痛みは、それぞれ大きな影響を及ぼし合っています。 1.肉体的な痛みや精神的な痛みがないと、霊的な痛みもないかのように錯覚してしまうのです。 私たちは、肉体的な痛みや精神的な痛みがなくても、御霊によって生まれ、光の中を歩んでいなければ、神のみこころを痛めているということを決して忘れてはなりません。 2.肉体的な痛みや精神的な痛みは、私たちに霊的な痛みを覚えさせるのです。 人間にとって最も大切なことは、霊的な痛みを覚えるとともに、それが取り去られることです。人間というものは、肉体的または精神的に痛い目に会わないと、なかなか霊的な痛みに気がつかないものですが、私たちは、霊的な痛みに気づく時、神に近づくことができるのです(詩篇119篇67、71節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2019.12.24
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「キリストの受肉(2)その疲れについて」2019年12月19日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2016年2月1日放映「神への信仰と知識」 「キリストの受肉(2)その疲れについて」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、5章7節 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(7節)。 先回は、キリストの受肉の第一回目として「その渇きについて」学びましたが、今回は第二回目として「その疲れについて」学んでみましょう。 「疲れ」とは、どのようなことを意味するのでしょうか。次のような三つにまとめることができます。▽それは、足りなさの表れです。 ▽それは、弱さの表れです。 ▽それは、無力さの表れです。 一、疲れの種類 人間を構成している「霊」と「心」と「からだ」によって三種類の疲れがあります。 1.肉体的な疲れ からだの疲労のことで、これは病気でない限り、必要な睡眠や休息また栄養を取ることによっていやされることができます。 2.精神的な疲れ 心労のことで、これは次のように言うことができるでしょう。(1)どうしてよいかわからない(知性的な面)。(2)どうにもやりきれない(感情的な面)。(3)どうすることもできない(意志的な面)。 これは、色々と学んだり、レクレーションで気分転換を図ったり、正しい人間関係を持ったり、様々な能力を身につけたりすることによっていやされることができます。 3.霊的な疲れ 神の前における無力さのことで、これは、神を「離れては……何もすることができない」(ヨハネ15章5節)という絶対的な弱さのことです。 二、キリストの疲れ キリストは、「旅の疲れで」(ヨハネ4章6節)、休まれたことがあり、また激しい突風が起こり、舟が波をかぶっているような中でも、疲れのために「とものほうで、枕をして眠っておられた」(マルコ4章38節)こともあります(肉体的な疲れ)。 またキリストは「笛を吹いてやっても君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった」と言って(マタイ11章17節)、ご自分を非難した当時の人々の身勝手さや、「数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかった」ことで(同11章20節)、どんなに疲れを覚えられたことでしょうか(精神的な疲れ)。 そしてキリストは、「わたしは、自分からは何事も行うことはできません」(ヨハネ5章30節)と言われました(霊的な疲れ)。 しかしキリストは、このように父なる神に完全に依存しておられたので、精神的な疲れも肉体的な疲れも克服して、神のみわざを成し遂げることがおできになったのです。 三、私たちの疲れ 「霊」と「心」と「からだ」は、切っても切れない関係にあるので、三種類の疲れは、それぞれ大きな影響を及ぼし合っています。 1.肉体的な疲れや精神的な疲れがいやされると、霊的な疲れもいやされるたかのように錯覚してしまうのです。 私たちは、肉体的な疲れや精神的な疲れがいやされても、神を信じ、キリストにとどまることによって霊的な疲れがいやされない限り、小さな罪にさえ勝つことはできません。 2.肉体的な疲れや精神的な疲れは、私たちに霊的な疲れを覚えさせるのです。 人間にとって最も大切なことは、霊的な疲れがいやされることです。肉体的な疲れや精神的な疲れを覚えることは、私たちに霊的な疲れを覚えさせ、それによって私たちは、神に近づくことができますが(詩篇119篇67、71節、伝道者7章2~4節、マタイ5章3~12節)、それはまた精神的な疲れや肉体的な疲れを克服する秘訣なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2019.12.19
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「キリストの受肉(1)その渇きについて」2019年12月8日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2016年1月22日放映「真の信仰の三要素」「キリストの受肉(1)その渇きについて」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、5章7節 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(7節)。 人間は、肉体を持っているために、飢えや渇き、また疲れや痛みなどという独特な不自由さや不便さがあります。人となられたキリストも罪を犯さなかったこと以外は、私たちと同じでした。 しかしこの(飢え)渇きと疲れと痛みは、肉体のみならず霊と心にもあるものです。それで聖書から次のような三つのことを学んでみましょう。◆キリストの受肉(1)--その渇きについて◆キリストの受肉(2)--その疲れについて◆キリストの受肉(3)--その痛みについて まず渇きについて学んでみましょう。 一、渇きの種類 人間を構成している「霊」と「心」と「からだ」によって三種類の渇きがあります。 1.肉体的な渇き のどの渇きのことで、飢えも含めるならば飲食欲のことです。 2.精神的な渇き 心の渇きのことで、これには三つのことが含まれています。(1)知識的な満足を求めること。(2)感情的な満足を求めること。(3)意志的な満足を求めること。 これを実際的に分かりやすく述べるなら、人に理解されたい、人に喜ばれたい、自分の願いが叶えられたいという求めのことです。 3.霊的な渇き 神への渇きのことで、これは神の「みこころを行い、そのみわざを成し遂げ」たいという求めのことです(ヨハネ4章34節)。 二、キリストの渇き キリストは、十字架の上で「すべてのことが完了したのを知って……『わたしは渇く』と言われた」(ヨハネ19章28節)と聖書は教えています。これは、肉体的なのどの渇きのことですが、なぜこのような時に言われたのでしょうか。それは、十字架の上で私たちの罪をその身に負い、人類の罪を贖うという神のみわざを成し遂げている間は、肉体的な渇きも忘れていましたが、それが完了した時、のどの渇きを覚えられたのです。 キリストは、十字架の上で神のみわざを成し遂げたいという霊的な渇きを満たすために、のどの渇きという肉体的な渇きを忘れ、また人に「さげすまれ、人々からのけ者にされ」ることによって(イザヤ53章3節)、精神的な渇きを満たすことも犠牲にされたのです。 キリストにとって最も大切なことは、霊的な渇きを満たすことであり、精神的な渇きや肉体的な渇きを満たすことは、第二、第三のことでした。これは私たちにとっても同じではないでしょう。 三、私たちの渇き 「霊」と「心」と「からだ」は、切っても切れない関係にあるので、三種類の渇きは、それぞれ大きな影響を及ぼし合っています。 1.肉体的な渇きが満たされるなら、精神的な渇きも満たされ、さらに霊的な渇きも満たされたかのように錯覚してしまうのです。 2.肉体的な渇きは、精神的な渇きを招き、それは霊的な渇きをも覚えさせるのです。 前者の典型的な例は、愚かな金持ちの農夫です(ルカ12章16~21節)。彼は、豊作のために肉体的な飢え渇きが満たされましたが、それによって精神的な渇きや霊的な渇きも満たされたかのように錯覚したのです。 人間にとって最も大切なことは、霊的な渇きが満たされることです。後者のように肉体的な渇きや精神的な渇きが満たされないことは、私たちに霊的な渇きを覚えさせ、それによって私たちは、神に近づくことができるのです(詩篇119篇67、71節、伝道者7章2~4節、マタイ5章3~12節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2019.12.07
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