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「神の法と人の法」 2019年2月24日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年11月25日放映「聖書に親しむ」 「神の法と人の法」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、4章11、12節 「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます」(12節)。 「法」というと何かむずかしく、めんどうなものというのが多くの人々の受け取り方ではないでしょうか。しかし「社会あるところに法あり」という言葉が示すように、私たちは社会に住んでいる以上、「法」というものと無関係に生きていくことは不可能です。聖書は「罪とは律法に逆らうこと」であり(第一ヨハネ3章4節)、「律法によらないでは……罪を知ることが」できないと教えています(ローマ7章7節)。 正しい「法」が制定され、それがきちんと守られている社会こそ最も住みよい世界であり、反対に正しい「法」が守られずに破られ、また「法」が制定されていない無法な社会ほど恐ろしい世界はありません。 私たちは過去の歴史において正しい「法」を制定するために、またそれを守らせるためにどれほど多くの人々の尊い血が流されてきたか知っているでしょうか。「法」について学んでみましょう。 一、三種類の法について 「法」とは、「おきて」とか「定め」、また「きまり」とか「規則」のことであり、それは、「法則」や「法律」または「律法」という言葉の総称です。「法」には様々な種類がありますが、基本的なものは次のような三つではないでしょうか。 1.自然の法則――自然的なもの 自然現象の中に見られる「常に変わらない一定の関係やきまり」のことで、天地万物を創造された神によって定められたものです。 2.道徳の律法――個人的なもの 人として当然行うべき行為や在るべき姿、また歩むべき道である「道徳に一定の規則やきまりがある」というものです。 3.社会の法律――社会的なもの 「社会生活を維持するために人によって定められた規律」であり、守るべき義務と負うべき責任の伴った強制的なものです。 二、人の法(律)について 社会の法律は、どのようにして制定するのでしょうか。それはどこまで及ぶものであり(範囲)、また何のためにつくられ(目的)、そしてどのような特徴があるのでしょうか。 1.範囲――正しい法律は、道徳の律法の要求することと人間の自然な願望の要求することとの兼ね合いによって決まるものであり、この二つの要求に反するものは悪法です。 2.目的――正しい法律の目的は、個人の権利と利益、また公共の福祉と安全、そして国家の秩序と平和を守るためです。 3.特徴――この法律は、その前提となっている道徳の律法と人間の自然な願望が放縦の罪によって、ゆがめられる危険性があります。すなわち両者を締め付ければ不自由で息苦しくなり、反対に緩めれば退廃的になり、どちらにしても問題が多く、限界があることを忘れてはなりません。 三、神の(律)法について 人間が生まれながらの罪人である以上、人の定めた法律だけですべてのことを取り締まることは不可能であり、どうしても神の律法が必要です。 1.範囲――神の律法は、自然の法則と道徳の律法と社会の法律のすべてに及ぶ絶対的な規準であり、聖書は、道徳の律法は神によって定められていると明白に教えています。 2.目的――神の律法の目的は、第一に私たちに神のみこころを教え(出エジプト20章3~17節)、第二に私たちに罪の意識を生じさせ(ローマ3章20節)、第三に私たちをキリスト(救い主)へ導くための養育係の役目を果たすものです(ガラテヤ3章24節)。 3.特徴――神の律法は、時代や地域の違いに関係のない不変の律法であるとともに、悪い思いや動機までもさばく完全な律法です。 律法は、私たちを救い主へ導く養育係であることを知っているでしょうか(ガラテヤ3章24節)。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.02.23
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「神のことばと人のことば」 2019年2月17日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年11月14日放映「主のことばを聞く」 「神のことばと人のことば」 甲斐慎一郎 テサロニケ人への手紙、第一、2章13節 「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは信じているあなたがたのうちに働いているのです」(13節)。 「人間以外の動物にことばはなく、またそれを教えることもできない。ことばを語り、またそれを理解する能力は、ただ人間だけが先天的に与えられている」というのが現代の通説です。ですから人間の人間たるゆえんは、ことばの存在にあるということができます。 それで、ことばとは何かということを聖書から学んでみましょう。 一、三種類のことばについて 新約聖書の中で「ことば」と訳されている原語は、いろいろありますが、代表的なものは、次のような三つです。1.ロゴス――ことばの実体または実体としてのことばです。2.レーマ――ことばの表現または表現としてのことばです。3.グロースサ――ことばの音声または音声としてのことばです。 この三つのことばを人間の三つの要素である「霊」と「たましい(心)」と「からだ」に対応させるなら、次のようになります。1.霊――実体としてのことばが宿るところで、人間の本質的な部 分です。2.たましい――表現としてのことばを思索し、また組み立てると ころ(脳)です。3.からだ――音声としてのことばを語り(口)、また聞くところ (耳)です。 人間は、霊にことば(ロゴス)が宿っているので、そのことば(ロゴス)を脳(たましい)において思索し、組み立てて、表現としてのことば(レーマ)となり、口(舌、顎、喉、声帯)によって音声としてのことば(グロースサ)を発声するのです。ですからことばの意味がわからず、思索できなければ、音声として発声することはできないのです。 二、人のことばについて 人がことばによって励まされたり、傷つけられたりするのは、なぜでしょうか。なぜことばには力があるのでしょうか。 1.「ことばは第二の人格である」と言われるように、それは私たちの心の表現です(マタイ12章34節)。私たちは、ことばの遣り取りによって心の交際をしているのです。 2.ことば以外の音は意味がないので、耳で聞いても、私たちの心に直接はいることはありませんが、ことばは、すべて意味があるので(第一コリント14章10節)、耳を通して私たちの心に直接はいってくるのです。 3.ことばは、人の心から出て、人の心にはいるので、それは私たちが考えている以上に、互いの心に大きな影響や感化を与えているのです。 私たちは、自分のことばが周囲にどのような影響や感化を与えているのかを知って、どれだけ注意深く語っているでしょうか。 三、神のことばについて 聖書は、「神は霊」(ヨハネ4章24節)であるとともに、「ことば(ロゴス)」(同1章1節)であると教えています。神のことばには、次のような働きがあります。 1.人のことばが人の心から出て人の心にはいり、その心に影響や感化を与えるのに対して、神のことばは、神の霊から出て人の霊にはいり、その霊を生まれ変わらせるのです。 2.しかし、そのためには、神のことばを人のことばとしてではなく、信仰によって事実どおり神のことばとして受け入れることが必要です(13節)。 3.人の霊を生かすのは、神の口から出ることばだけであり(マタイ4章4節)、人のことばは人の心にまでしか届かないのです。 私たちは、神のことばを信仰によって受け入れ、その霊が生かされているでしょうか。それとも人のことばとしてしか受け入れず、その霊が「罪過と罪との中に死んで」いるでしょうか(エペソ2章1節)。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.02.16
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「神のいのちと人のいのち」 2019年2月10日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年11月5日放映「神のことばである聖書」「神のいのちと人のいのち」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、11章17~26節 「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません』」(25、26節)。 私たちは、人間の生と死について、どのように考えているでしょうか。生とは何か、死とは何か、という死生観ほど人間にとって大切なことはないでしょう。なぜなら、その人の死生観は、その人の人生観にほかならず、生と死をどのように考えているかが、その人の人生と永遠の運命を決定するからです。 冒頭に掲げたキリストの言葉は、私たちに聖書が教えている死生観、またはキリスト教死生観というものが、どのようなものであるかということを明確に教えています。 一、三種類のいのち いのちとは何か、またいのちには、どのような種類があるのかということを考える時、どうしても避けて通ることができないものに死があります。そこで聖書が教えているいのちを、死との関係で述べるなら、次のような三種類になるのではないでしょうか。◇死につつあるいのち――人間の堕落以後、肉体のいのちは、生まれた瞬間から、後はただ死に向かういのちになっています。 ◇死からよみがえったいのち――しかし聖書は、霊の復活(エペソ2章5、6節)とともに、肉体の復活(ヨハネ5章29節)を教えています。 ◇死ぬことがないいのち――さらに聖書は、復活しても再び死んでしまういのちではなく、もはや死ぬことがないいのち、言い換えれば永遠のいのちというものを教えています(黙示録21章4節)。 私たちが考え、また現に持っているいのちは、この三つのうちのどれでしょうか。 二、人のいのち ここでいう人のいのちとは、神から離れている人のいのちのことを意味しています。 多くの人々は、生命にとって死は避けることができない定めであり、やむを得ないものであると思っています。しかし聖書は、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6章23節)と記し、「罪によって死がはいり」(同5章12節)とあるように、死は罪の結果であると教えています。 それは、神がアダムに禁断の木の実を「取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2章17節)と言われた言葉が成就したのであり、その結果、人の霊は直ちに死に、肉体は、すぐには死ななかったものの、ただ死に向かういのちになってしまったのです。◇死は、罪によってはいったものです。◇その結果、霊はすぐに死んでしまいました。◇そして、肉体も死につつあるのです。 これが神から離れている人のいのちです。 三、神のいのち ここでいう神のいのちとは、神が私たちに与えてくださるいのちのことを意味しています。 この神のいのちは、死につつあるいのちではなく、死ぬことがないいのちです。しかし人間は、罪のために死ぬべき者となってしまいました。ですから、この死ぬことがないいのちを得るためには、まず罪が取り除かれなければなりません。 「キリストは……罪を取り除くために、来られたので」あり(ヘブル9章26節)、その結果、「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅とを明らかに示され」たのです(第二テモテ1章10節)。◇キリストは、罪を取り除かれました。◇その結果、キリストは死を滅ぼされました。◇そして、いのちと不滅が示されたのです。 聖書は、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし……あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。……キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と教えているのです(エペソ2章4~6節)。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.02.09
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「神の力と人の力」 2019年2月3日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年10月3日放映「三つの選択」 「神の力と人の力」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、1章16~32節 人間というものは、自然や社会の中にあって様々な力に囲まれ、多くの力に支配され、無数の力の影響を受けているとともに、色々な力を利用しています。これらの力を大別するなら、次のような三つになるでしょう。◇物理的、機械的、自然的な力--おもに自然の法則にみるこ とができる力です。◇政治的、経済的、社会的な力--おもに人間の集団にみるこ とができる力です。◇精神的、道徳的、宗教的な力--おもに個々の人間にみるこ とができる力です。 第三番目の力は、人間にとって最も大切な基本的なものです。このような人間の心や霊における力に関して、「神の力と人の力」は、それぞれどのようなものであるかということを聖書から学んでみましょう。 一、三種類の力 新約聖書の中で「力」と訳されている原語は色々ありますが、代表的なものは、次のような三つ(四つ)です。◇デュナミス--潜在的な力、または潜在力としての力です◇エネルゲイア(エネルギーの語源です)--活動的な力、ま たは活動力としての力です◇エクスースィア(クラトス)--支配的な力、または支配力 としての力です 私たちが自然界において目にしているのは、活動力です。しかしそれは自然の中に潜在力があるからであり、この二つの力を支配しているのが自然の法則です。ですからこの潜在力と活動力と支配力は、互いに切り離すことができない一つの力であり、力の三位一体ということができます。この三つの力は、自然的な力だけでなく、政治的、経済的、社会的な力、また精神的、道徳的、宗教的な力においても同様に存在しています。 二、人の力 人間の最大の問題である罪は、私たちを堕落させる一種の力であり、聖書が教えている三種類の罪を、三つの力に当てはめるなら、次のようになります。◇内住の罪の力--これは潜在力としての罪の力です(ローマ 7章20節)。◇行動の罪の力--これは活動力としての罪の力です(ローマ 3章23節)。◇不信仰の罪の力--これは支配力としての罪の力です(ヨハ ネ16章9節)。 潜在力としての罪を持っているということが人間が生まれながらに罪人であるという意味であり、行動の罪は、それが活動力として表れたものです。それは、神を信じない罪人が、その不信仰のために「この世の神」(第二コリント4章4節)である「サタンの支配」(使徒26章18節)の下に置かれるだけでなく、人の力では、その支配力に抵抗することができずに罪を犯してしまうのです。 三、神の力 これに対して神の力は、どのようなものでしょうか。聖書は、三種類の力を教え、その三種類の力を、三つの力に当てはめるなら、次のようになります。◇福音の力--これは潜在力としての神の力です(ローマ1章16節)◇結実の力--これは行動力としての神の力です(ローマ6章22節)◇信仰の力--これは支配力としての神の力です(マルコ9章23節) 「福音は……信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ローマ1章16節)、私たちは、この福音によって「罪から解放されて……聖潔に至る実を得」ることができます(同6章22節)。それは、私たちが「サタンの支配から神に立ち返」り、キリストを救い主として「信じる」時、神の支配の下に置かれ、私たちは「罪の赦しを得」て、「聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継」ぐことができるのです(使徒26章18節)。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.02.02
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