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「神の栄誉と人の栄誉」 2019年3月31日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年3月17日放映「苦難の意味するもの(2)」「神の栄誉と人の栄誉」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、5章41~47節 「白分から語る者は、自分の栄光を求めます」(ヨハネ7章18節)。 「わたし(キリスト)は人からの栄誉は受けません」(同5章41節)。 「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」(同5章44節)。 「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである」(同12章43節)。 これらの御言葉には、自分の栄光と人からの栄誉、すなわち人の栄誉について、また神からの栄誉、すなわち神の栄誉について記されています。そこで人の栄誉を求める場合と神の栄誉を求める場合とは、どのような違いがあるのかということについて、次のような三つの観点から学んでみましょう。 一、動機や在り方の違いについて 主は、「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方(神)の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません」と語っておられます。(ヨハネ7章18節)。 これは神の栄光を求めない者は、必然的に自分の栄光を求める不真実な者となり、その人には不正があるということを教えています。なぜなら自分の栄誉を求める者は、私心や私見また私利や私欲、そして私情や私憤というものから離れることはできないからです。 これに対して神の栄光を求める者は真実です。なぜならそのような人は自分の栄光を求めず、私心や私見、また私利や私欲、そして私情や私憤を捨てて無私になり、「神のみこころは何か、すなわち何か良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」からです(ローマ12章2節)。 二、価値観や考え方の違いについて ある人々は、自分が感動したり満足したりするもの、また自分の気持ちや好みや必要にぴったり合うもの、そして自分を喜ばせてくれるものがすばらしいものであると思っています。これは自分の名誉になることこそ最も価値があると考えることです。 他の人々は、人を感動させたり満足させたりするもの、また人の気持ちや好みや要求にぴったり合うもの、そして人を喜ばせるものがすばらしいものであると思っています。これは人から栄誉を受けることこそ最も価値があると考えることです。 これに対して聖書は、神を満足させるもの、また神の要求にぴったり合うもの、そして神を喜ばせるものがすばらしいものであると教えています。これは神から栄誉を受けることこそ最も価値があると考えることです。 パウロは、「人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです」(第一テサロニケ2章4節)、「私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。……もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」と述べています(ガラテヤ1章10節)。 三、行動や生き方の違いについて 自分の名誉になることこそ最も価値があると考える人は、自分を喜ばせてくれることならば何でもするが、自分を喜ばせてくれないようなことは何もしないという身勝手な生き方になるでしょう。 また人から栄誉を受けることこそ最も価値があると考える人は、人に取り入ったり、人の歓心を買ったりするために、あまり能力のない人は、適応できずに脱落してしまい(不適応現象)、能力のある人は、適応しすぎて挫折してしまう(過適応現象)ことになるでしょう。 これに対して神から栄誉を受けることこそ最も価値があると考える人は、身勝手な生き方をすることはなく、また適応できずに脱落することも、適応しすぎて挫折することもなく、私たちに与えられている能力や賜物にふさわしいことを要求される神から必要なものがすべて与えられて、丁度よく適応していくことができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.03.30
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「神のあかしと人のあかし」 2019年3月24日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年3月4日放映「苦難の意味するもの(1)」 「神のあかしと人のあかし」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、5章1~12節 キリスト者は、「あかし」という言葉を用いますが、この言葉は、「証」という語を含む次のような4つのことを意味しています。▽証明――事実の真偽を明らかにすること。▽証拠――事実を証明する根拠のことで、これは「物のあかし」で す。▽証言――事実を証明する言葉のことで、これは「言葉のあかし」 です。▽心証――裁判官が得た確信のことで、これは「心のあかし」です。 ですから、ある物事の真偽は、「証拠」と「証言」と「心証」によって「証明」されるということができます。そこで「あかし」ということについて聖書から学んでみましょう。 一、神のあかしについて 聖書の中には、しばしば「あかし」という言葉が記されています。神は、様々な方法によってご自身を人間にあかししておられますが、これには5つの段階があります。 ▽第一段階――自然界によるあかし。 「ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです」(使徒14章17節)。 ▽第二段階――預言者の声によるあかし。 「この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである」(ヨハネ1章7節)。 ▽第三段階――聖書の言葉によるあかし。 「あなたがたは……聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言(あかし)しているのです」(ヨハネ5章39節)。 ▽第四段階――キリストによるあかし。 「わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言(あかし)しているのです」(ヨハネ5章36節)。 ▽第五段階――御霊によるあかし。 「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」(ローマ8章16節)。 神は、このような5つの段階を通してご自身をあかししておられるのです。 二、人のあかしについて 先に述べたように「あかし」というのは、「証明」の「証」であり、「証拠」の「証」であり、「証言」の「証」であり、「心証」の「証」です。 ですから「あかし」をするということは、「証人として事実を証明する根拠を述べること」、また「証人として事実を証明する言葉を述べること」、そして「証人として心に得た確信を述べること」です。 キリスト者が「救いのあかし」という時に用いる「あかし」というのは、一般的に「救いの体験談」と言われます。このように言うことは間違いではありません。しかし言葉の厳密な意味から正確に述べるならば、次のように言うことができます。 「イエス・キリストが真の救い主であることは、私がその方を信じて罪から救われたという確かな証拠によって証明することができるので、そのことを証言(あかし)します」。 「イエス・キリストが真の救い主であることは、自分で信じて、『この方がほんとうに世の救い主だと知っている』私が(ヨハネ4章42節)、そのことを証言(あかし)します」。 「私が救い主イエス・キリストを信じてキリスト者になり、神の子どもであることは、御霊ご自身が、私の霊とともに、あかししてくださっているので、そのことを証言(あかし)します」。 三、人のあかしにまさる神のあかし この神のあかしと人のあかしについてヨハネは、「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです」と述べています(9節)。 神のあかしは、人間のあかしよりもまさっていることは言うまでもありません。しかしどちらにしてもキリスト教は、「あかしの宗教」なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.03.23
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「神の時と人の時」 2019年3月17日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年1月28日「平安と将来と希望を与える神の計画(2)」「神の時と人の時」 甲斐慎一郎 イザヤ書49章8節 世の人たちは、「過去は変えられないが、未来は変えられる」と考えています。確かに神を信じない世の人々がこのように思うのは当然のことです。しかし聖書は「過去を変えてこそ、将来があり、過去を変えられなければ、将来はない」と教えています。 一、二種類のこれからの時(未来と将来) 宗教哲学者の波多野精一氏は、二種類のこれからの時をそれぞれ「未来」および「将来」と呼び、実存哲学者ハイデガーは、「未来」および「到来」と呼んで区別しました。 ▽未来――いまだ来たらずという意味で、見通しがきかない絶望と不安の時です。 ▽将来――まさに来たらんとするという意味で、見通しがきく希望と平安の時です。 未来は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、将来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 二、二種類のいままでの時(過去と由来) 前述した実存哲学者のハイデガーは、二種類のいままでの時をそれぞれ「過去」および「由来」と呼んで区別しました。 ▽過去――過ぎ去ったという意味で、今さらどうすることもできない時です。 ▽由来――由って来たるという意味で、今にまで伝えられて来た時です。 過去は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、由来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 三、人の時について 日本語の時制には「過去形」と「現在形」はありますが、「未来形」はなく「現在形」で代用しています。英語ならば、「明日」という未来を表すことばがあれば、必ずWillかShallをつけなければなりません。しかし、WillとShallは、助動詞ですから、英語も未来形の動詞は、ないことになります。それでも英語は「過去形」と「現在形」と「未来形」がはっきりしています。そのために私たちは、時間というものは「過去」から「現在」そして「未来」に流れているものであると、何の疑いもなく信じています。 四、神の時について ところが「神の世界」や「聖書の世界」は、このような「過去」「現在」「未来」という時制概念が全く通用しません。神は時空を超越された方ですから「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在です」(J・ウェスレー)。 人間も、過去のことは、今さらどうすることもできず、未来のことは不確かですから、神の前においては、過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在です。 ヘブル語には、古代ヘブル語と現代ヘブル語があり、現代ヘブル語は「過去形」と「現在形」と「未来形」がありますが、旧約聖書の原語である古代ヘブル語の時制には「完了形」と「未完了形」しかありません。 古代ヘブル語は、神の選民であるイスラエル人の言語で、旧約聖書は、神の視点から、また神を中心に記されています。それで、それを書き記す古代ヘブル語の時制は、「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在である」という神概念を基にしているので、「過去形」や「未来形」がない時制になったものと思われます。 五、罪からの救いを受ける時について もし私たちが現在、神を信ぜず、今まで犯してきた罪を悔い改めず、キリストの十字架による贖いを信じないで罪を赦されず、聖霊によって罪をきよめられなければ、罪深い過去の姿は、そのまま現在の姿であり、それはまた未来の姿でもあり、罪深い姿は永遠に続きます。これが永遠の滅びであり、地獄です(ヨハネ3章36節、黙示録20章15節)。 もし私たちが今、神を信じて、今まで犯してきた罪を心から悔い改め、キリストの十字架による贖いを信じて罪を赦され、聖霊によって罪をきよめられるなら、その罪をきよめられた今までの姿は、今の姿でもあり、それはまた将来の姿でもあり、罪をきよめられた姿は永遠に続きます。これが永遠のいのちであり、天の御国です(ヨハネ3章16節、黙示録21章3、4節)。 人は、罪深い過去を、ぬぐい去ることなど絶対にできません。しかし神は、「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」と仰せられたのです。(イザヤ44章22節)。 六、死の支配からいのちの支配への移行 神が私たちの罪深い過去を罪がなかったかのようにぬぐい去ることができるのは「全人類は、人類の古い始祖であるアダムの子孫として生まれるので、彼の堕罪による死の支配下にありますが、『だれでもキリストのうちにあるなら』(第二コリント5章7節)、人類の新しい始祖であるキリストの子孫として生まれ、いのちの支配下にはいる」からなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.03.16
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「神の怒りと人の怒り」 2019年3月10日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年1月20日「平安と将来と希望を与える神の計画(1)」 「神の怒りと人の怒り」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、1章18~25節 人間は、感情の動物であり、人生に喜怒哀楽が絶えることはないでしょう。この喜怒哀楽の中で最も気をつけなければならないのが怒りです。 一、三種類の怒り 新約聖書の中で「怒り」と訳されている原語には、いろいろありますが、似通ったものを一つにまとめて整理するなら、次のような三つに分類することができます。 1.オルゲー(分別のある怒り、冷静な怒り)――これは、感情に支配されず、判断力の伴った怒りです。 2.プロソクティゾー(陰険な怒り、陰湿な怒り)――これは不愉快に感じたり、嫌悪を覚えたりする怒りです。 3.テュモス(感情的な怒り、爆発的な怒り)――これは感情に支配され、それが爆発した激しい怒りです。 一口に怒りと言っても、このような三種類の怒りがあるのです。 二、神の怒り 聖書は、次のような三種類の神の怒りについて教えています。 1.罪に対する怒り これは、罪に対する神の聖と義の現れとしての怒りです。人類の堕落以後、神は、すべての人に対してこの怒りを抱いておられ(エペソ2章3節)、これが人間が生まれながらの罪人であるということの意味です。しかしこれは分別のある怒り(オルゲー)です。 2.不信仰に対する怒り これは、「神の慈愛……を軽んじ」(ローマ2章4節)、「すばらしい救いをないがしろに」する(ヘブル2章3節)ことに対する怒りです(プロソクティゾー)。エジプトを脱出しながら、不信仰のために「しかばねを荒野にさらした」(同3章17節)イスラエルの民に対する怒りは、これです。 3.やがて来る怒り これは、世の終わりに、神がすべての罪をさばき、正しい報いを与えるための怒りです(第二テサロニケ1章5~9節)。この怒りは、一般には分別のある怒り(オルゲー)ですが、特にヨハネの黙示録においては、激しい怒り(テュモス)として記されています(15章1節)。 パウロが「今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われる」(ローマ5章9節)と述べているように、キリストが与えてくださる救いは、この神の怒りからの救いです。 三、人の怒り 1.あってはならない怒り――罪から発する怒り わがままや自己中心、また憎しみや妬み、さらに恨みや軽蔑、そして復讐心など、どのようなものであれ、罪から発する怒りは、決してあってはならないものです。 2.忍ばねばならない怒り――罪の傷痕に対する怒り 人類の堕落以後、罪の傷痕として残っているあらゆる弱点や欠点や短所に関しては、怒るべではなく、愛をもって互いに耐え忍ぶことが必要です。 3.なくてはならない怒り――罪自体に対する怒り ①自分の罪に対する怒り これは、私たちを神とその救いに導くだけでなく、私たちに闘志と気力を与えるものです(第二コリント7章11節、12章8節)。これを持たなければ、罪と妥協して、あってはならない怒りを発するだけでなく、闘志も気力も失い、無気力になってしまうでしょう。 ②ほかの人の罪に対する怒り これは、時と場所を選び、相手の立場や状態をよく考え、知恵を用いた分別のある怒り(オルゲー)でなければならず、しかも長時間は禁物です(エペソ4章26節)。この怒りは、世の堕落を防ぎ、人々に良い影響や感化を与えていくことが目的で、神に代わって天罰を下すようなものではないことを決して忘れてはなりません(ヤコブ1章20節)。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.03.09
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「神のさばきと人のさばき」 2019年3月3日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年1月9日放映「新しい事をされる神」「神のさばきと人のさばき」 コリント人への手紙実、第一、4章1~5節 「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」(5節)。 一、人のさばきについて 立法権・司法権・行政権という三権が分立している民主主義国家においては、さばき(裁判)は、司法権が行っています。正当な裁判は、次のようなものです。 ▼原告と被告の両者の言い分や弁明を公平に聞くことであり、決してえこひいきしたり、不公平なことはしない。 ▼その言い分や弁明の内容は、確かな証拠や証言のある事実でなければならず、決して想像や推測でさばかない。 ▼その判決は、公平な第三者が、法律に則って行うべきものであり、決して主観や私情をさしはさまない。 ところが個人の人間関係においては、キリストが「さばいてはいけません」(マタイ7章1節)と仰せられたようにしばしば不当なさばきが行われています。 ▼原告や被告の立場にとどまらず、それを越えて裁判官の立場に身を置く時、私たちは人をさばいているのです。 ▼経過を見守るとか、様子を見るとかして保留にするのではなく、最終的な決定をする時、私たちは人をさばいているのです。 ▼人の善し悪しを見分けたり、識別したりすることにとどまらず、具体的な罰を加える時、私たちは人をさばいているのです。 二、神のさばきについて 別紙の図は、左から右の横軸は、「この世」と「ハデス」と「永遠の世」という三つの世と、それぞれの世を区切っている「死」と「審判」という、時間の経過を表しています。上から下の縦軸は、この世においては「超自然の世界」と「自然の世界」、ハデスにおいては「パラダイス」と「よみ」、永遠の世においては「天の御国」と「地獄」という次元を異にする二つの世界と、それぞれの世界を隔てている大きな淵を表しています。 このハデス(ギリシャ語)またはシェオル(ヘブル語)とは「死者が終末のさばきを待つ間の中間状態で置かれる所」です(新改訳聖書のあとがき)。聖書は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と教えています(ヘブル9章27節)。この死と死後のさばきの間において死者の霊のいる所が、ハデスです。 このハデスの中に、天の御国にはいる前の待合室に相当する「パラダイス」と、神の審判を受ける前の拘置所に相当する「よみ」とがあります。 非キリスト者は、死んだ後、「よみ」に、キリスト者は、死んだ後、「パラダイス」に行きます。パラダイスにいるキリスト者は、復活のからだが与えられ、「キリストのさばきの座」において「各自その肉体にあってした行為に応じて」、天の御国における報いを受けます(第二コリント5章10節)。 よみにいる非キリスト者も、復活のからだが与えられ、「大きな白い御座」において「自分の行いに応じてさばかれ」(黙示録20章11~13節)、地獄における報いを受けるのです。 以上のことをまとめるなら、聖書は、さばかれる人々と審判の時期の違いによって、次のような三つの審判があることを教えています(エーリヒ・ザウアー)。 1.「キリストのさばきの座」(第二コリント5章10節)――これは、キリストの空中再臨と地上再臨の間において、あらゆる時代のすべてのキリスト者がさばかれる審判です。 2.「諸国民の審判」(マタイ25章31~46節)――これは、キリストの地上再臨の後、千年王国の始まる時に、患難時代に生き残ったすべての国々の民がさばかれる審判です。 3.「大きな白い御座」(黙示録20章11~15節)――これは、最後の審判と呼ばれ、千年王国が終わり、新天新地になる前に、前者の二つのさばきを受けなかったあらゆる時代のすべての死者がさばかれる審判です。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.03.02
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