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「神の質問と人の質問」 2019年7月28日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年1月13日放映「信仰の妨げ(2)物への執着」「神の質問と人の質問」 甲斐慎一郎 ヨブ記38~42章 聖書には、「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる」という言葉があります(箴言17章28節)。私たちは、人のうわべだけを見ている間は、決してその人の真の姿を知ることはできません。 「口あけて、はらわた見せる、ざくろかな」という言葉がありますが、人は、ひとたび口を開けば、その人の知性や才能また性質や人柄が現れてしまうものです。ですから的を射た質問ほど、相手をよく知るのに適切なものはないでしょう。 「さあ……わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ」(ヨブ38章3節)。 「おまえの神はどこにいるのか」(詩篇42篇3、10節)。 この前半のヨブ記の言葉には神の質問について、後半の詩篇の言葉には人の質問について記されています。 一、人の質問について 人がキリスト者に尋ねる質問には様々なものがあります。それは神の存在をはじめ聖書とその記事について、またキリスト教と教会について、そして次に来る世(来世)や永遠の運命について等です。しかしこれらの質問は「これこれについてどう思うのか、どうなのか」という私たちの知識を問う質問です。 これに対して「おまえの神は、どこにいるのか」という質問は、神の存在を尋ねているのではなく、「おまえの神は、ほんとうにおまえを救ったのか、おまえの信仰はどうなのか」という私たちの信仰を問う質問です。 人は、言葉においては私たちの知識を問う質問をするかもしれません。しかし心の中では、私たちの信仰を問う質問をしていることを忘れてはなりません。すなわち「あなたは、ほんとうに神を信じているのか」と尋ねているのです。 二、神の質問について ヨブ記の38章から42章までの間に、三種類の神の質問が記されています。 1.あなたは……(を)知っているか――ヨブの「知識」を問う質問です(38章5、18、33節、39章1、2節、5回)。 2.あなたは……(した)ことがあるのか――ヨブの「経験」を問う質問です(38章13、16~18、22節、39章1節、9回)。 3.あなたは……(する)ことができるか――ヨブの「能力」を問う質問です(38章4、31~35、37、39節、39章2、10、20節、40章24節、41章1~5、7、10、13、14節、25回)。 これらの質問は、言葉においてはヨブの知識と経験と能力を問うものですが、その内容は、ヨブが「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」(42章2節)と告白しているように、神の全知全能を教えるものです。すなわち神は、ヨブの無知と未経験と無能力を教えることによって、ご自身の全知全能を示し、「あなたは、これでもなおわたしを信じないのか」と尋ねているのです。 三、私たちの応答について 私たちは「あなたは、ほんとうに神を信じているのか」という人の質問に対して、「信じているつもりです」とか「信じているはずです」また「だいたい信じています」というようなあいまいな答えしかできないでしょうか。それとも「信じています」とはっきりと答えることができるでしょうか。 人の質問に対して、どのような答えをするかは、次のような神の質問に対して、どのように答えるかによって決まるのです。 もし私たちが、「あなたは、これでもなおわたしを信じないのか」という神の質問に対して、「はい、信じています」と、はっきり答えるなら、人に対しても、「はい、信じています」とはっきり答えることができます。しかし私たちが神の質問に対して、あいまいな答えをするなら、人に対しても、あいまいな答えしかできないのは当然ではないでしょうか。私たちの答えは、どうでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.07.27
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「神の助けと人の助け」 2019年7月21日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年1月6日放映「信仰の妨げ(1)人への恐れ」「神の助けと人の助け」 甲斐慎一郎 イザヤ書、31章1~5節 「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち」(1節)。 「万軍の主は……エルサレムを守り……これを助けて解放する」(5節)。 この前半の1節には、エジプト人の助け、すなわち人の助けについて、後半の5節には、万軍の主の助け、すなわち神の助けについて記されています。 神の助けとは「神からの助け」または「神が与えてくださる助け」という意味であり、人の助けとは「人からの助け」または「人が与える助け」という意味です。しかしここでは、人の助けについては「人が求める助け」という意味も加え、「神の助け」と「人の助け」とは、どのような違いがあるのかということについて、次のような三つの観点から学んでみましょう。 一、その動機の違いについて 私たちがだれかに助けを求める動機は、何でしょうか。イスラエルの民がエジプトに助けを求めたのは、外敵であるアッシリヤの攻撃による恐ろしい災いや悲惨な運命から逃れるためであることは、言うまでもありません。そのように人が助けを求める動機は、苦しみから逃れるためです。 これに対し神が私たちを助けてくださる動機は、何でしょうか。キリストは、「あなたがたは、世にあっては患難があります」と仰せられ(ヨハネ16章33節)、また「彼らをこの世から取り去って(すなわち患難から逃れさせて)くださるようにというのではなく、悪の力から守って(すなわち罪から逃れさせて)くださるようにお願いします」(同17章15節、欄外注)と、私たちのために祈っておられます。このように神が私たちを助けてくださる動機は、私たちを罪から逃れさせるためです。 二、その方法の違いについて それでは人は、どのような助けを求めるでしょうか。人が助けを求める動機は、苦しみから逃れるためですから、その方法は、どうすれば、苦しみから逃れることができるか、または楽をすることができるかということです。しかし人は、苦しみから逃れようと安易な道を求めれば求めるほど心が弱くなり、ますます苦しみに耐えられなくなるだけでなく、小さな罪にも勝つことができず、堕落してしまうのです。 これに対して神は、どのような助けを与えてくださるでしょうか。神が私たちを助けてくださる動機は、私たちを罪から逃れさせるためですから、その方法は、どうすれば、私たちを罪から逃れさせることができるかということです。そのため神は、苦しみをも用いて私たちに罪を悔い改めさせるだけでなく、苦しみによって私たちの心を鍛えて強くしてくださるのです。 詩篇の著者は、「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」(119篇67節)、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(119篇71節)と述べています。 三、その結果の違いについて 私たちが住んでいる社会は、互いに助け合って生きている世界です。たとえば、ある人が助かる(すなわち苦労が省ける)のは、その背後でだれかがその人を助けている(すなわち苦労を背負っている)からです。ですから私たちは、罪から逃れることなど全く考えず、ただ苦しみから逃れて楽をしようとするなら、その結果は、ほかの人を苦しめ、多くの人々に苦労をかけさせてしまうことになるのです。 これに対して神が与えてくださる助けは、どのような結果をもたらすでしょうか。 1.罪から救われて、正しく、きよく歩むことができるようになります。 2.苦労をいとわずに、ほかの人を助けることができるようになります。 3.神のみこころにかない、神の栄光を現すことができるようになります。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.07.20
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「神のことと人のこと」 2019年7月14日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年11月26日放映「神が求められること」 「神のことと人のこと」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、16章13~28節 「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(23節)。 冒頭の言葉は、ご自分の十字架の死と復活を預言されたキリストを、事もあろうに引き寄せて、いさめたペテロが、そのキリストから受けた厳しい叱責の言葉です。聖書の中でサタンと呼ばれるほど強い叱責の言葉は他になく、これは何と恐るべきことでしょうか。 しかし、それにもまして恐るべきことは、その叱責された理由が、「神のことを思わないで、人のことを思っている」(23節)からであるということです。私たちは、どのような時に、「神のことを思わないで、人のことを思っている」ことになるのでしょうか。 一、思想的な面――神の言葉と人の言葉のどちらを重んじるか(13~17節) 人々はイエスについて、バプテスマのヨハネとかエリヤまたエレミヤだとか言っていますが、ペテロは、神の啓示によって「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えています(16節)。私たちが最も心を配らなければならないのは、神とその言葉です。 しかし多くの人々の最大の関心事は、人とその言葉です。彼らは、人の意見はどうか、人の考えはどうか、人の思惑はどうか、あの人は何と言ったか、この人は何と言うか、というような人の言葉ばかり気にしています。 私たちは、人の心を見て常に正しい評価をされる神の言葉と、うわべを見るために常に正しい評価をするとは限らない人の言葉のどちらを重んじるでしょうか。もし私たちが神の言葉を差し置いて、人の言葉ばかり気にしているなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 二、体験的な面――神の救いと人の救いのどちらを信じるか(21節) 聖書は、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」と教えています(ルカ二四章26節)。十字架こそ栄光に至る唯一の道であり、「十字架なくして栄光なし(苦難なくして栄冠なし)」です。 私たちも救いにあずかり、神の栄光を受けるためには、罪を悔い改め、十字架の贖いを信じなければなりません。しかし、その十字架を避けて、ただ栄光だけを求めようとするのが人の考えであり、サタンが誘惑するところです(マタイ4章8、9節)。 私たちは、罪を悔い改めて、キリストの十字架による贖いを信じて神から栄光を受ける神の救いと、ただ人間の努力によって人からの栄光を勝ち取る人の救いのどちらを信じるでしょうか。もし私たちが、神が与えてくださる十字架による救いを退けて、ただ人の栄光だけを求めるなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 三、実践的な面――神の意志と人の意志のどちらを選ぶか(24、25節) この十字架による救いの体験を持ち続け、また信仰に成長していくために必要なことは自己否定であり、十字架を負うことです。聖書は、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためいのちを失う者は、それを見いだすのです」と教えています(25節)。 これに対して世の人々は、自分を救うために、自分を主張し、自分の考え、自分の意見、自分の意志を通すように言うでしょう。しかしその行き着く所は死です。 私たちは、神の意志と自分の意志が対立した場合、いのちに至る神の意志と、死に至る自分の意志のどちらを選ぶでしょうか。もし私たちが神の意志を退けて、自分の意志を通すなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 私たちは、思想(思い)において、体験において、実践において、神のことと人のことのどちらを優先しているでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.07.13
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「神の宗教と人の宗教」 2019年7月7日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年11月21日放映「神を求めなさい」 「神の宗教と人の宗教」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、1章1~27節 「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っている時に世話をし、この世から自分をきよく守ることです」(26、27節)。 この前半の26節には、「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いている」むなしい宗教である「人の宗教」について、後半の27節には「神の御前できよく汚れのない宗教」である「神の宗教」について記されています。 そこで神の宗教と人の宗教とは、どのような違いがあるのかということについて、次のような三つの観点から学んでみましょう。 一、信仰の目的の違い 私たちは、何のために神を信じ(てい)るのでしょうか。もし私たちが、自らの弱さや足り無さを神の力によって補い、また様々な苦しみや患難を神の助けによって乗り越えるために信じ(てい)るなら、それは自らの利益と都合のために神を利用している現世御利益の宗教、また御都合主義の宗教です(人の宗教)。 これに対してヤコブは「神の御前できよく汚れのない宗教」(27節)とか、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(2節)と述べています。これは十字架の宗教です。それは私たちがキリストの贖いによって罪から救われ、「神の御前できよく汚れのない」者になるだけでなく、「患難さえも喜」び(ローマ5章3節)、それによって「成長を遂げた、完全な者とな」(4節)るためです(神の宗教)。 二、信仰の性質の違い 私たちは、どのように神を信じ(てい)るのでしょうか。 「わたしがおまえと等しい者だとおまえは思っていた」(詩篇50篇21節)とあるように、「人間の神概念は擬人的である」(G・C・モルガン)。すなわち神も私たちが思うように思い、私たちが感じるように感じ、私たちが意志するように意志する方であると考えています。しかしこれは人間の知識と感情と意志の域を出ない常識的な宗教です(人の宗教)。 これに対して聖書が教えている真の神は、私たちが思い、感じ、意志することとは全く別なことを思い、感じ、意志する方です。それで私たちの目には神のなさることが逆に見えたり、余りにも規模が大きいために見えなかったり、思いもよらない出来事に映ったりするのです。これは人間の知識や感情や意志を越えた超自然的な宗教です(神の宗教)。 三、信仰の対象の違い 私たちは、どのような神を信じ(てい)るのでしょうか。 世の人々は、「いわしの頭も信心から」とか、「何者のおわしますかは知らねども忝なさに涙こぼるる」と言って、伺を信じるかということよりも、信じる心が大切であり、この信心さえ深ければ、どんなにつまらないものでもありがたく思われるものであると考えています。しかしこれは盲信であり、迷信の宗教です(人の宗教)。 これに対して聖書は、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は、上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」(17節)と教えています。これは啓示の宗教です。天地万物を造られた真の神は、すべての良い贈り物と完全な賜物によってご自身を啓示されたのであり、私たちは、この神を信じるのです(神の宗教)。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.07.06
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