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『役の行者』坪内逍遙(岩波文庫) 元々もの知らずな人間で、いろんなところで顰蹙や嘲笑を買っているんですが、今回も、そんな顛末であります。 さて、冒頭の坪内逍遙であります。今回はこの方に対する、私の日本文学史的無知の話でありますね。 しかし自分で言うのも何ですが、誰に誉められもしないのに(珍しがられたことは何度かあります)、身内ですら読んでくれていないのに(女房は言うまでもなく、娘にまで字ばかりの長文で煩わしいと言われています)、ブログでこうしてしこしこと駄文を弄しているそのおかげもありまして(少し文脈ヘンですか)、「近代日本文学史」の知識については、わたくし、少々自信があったんですね。恥ずかしながら。 坪内逍遙につきましても、岩波文庫の『当世書生気質』を読んで、その読書報告を本ブログに載せております。あまり高い評価ができなかったのが、少々我ながら残念でありましたが、でも、3回分も続けて書きました。 実はその後、同じく岩波文庫の『小説神髄』も買いまして、読もうとしたのですが、うーん、これはちょっと苦しかったですー。 あの擬古文で、評論で、200ページ以上は、ちと辛いです、私としては。 で、これは勘弁して貰いましたが、でも、逍遙は『当世……』を読んだから、まー、もういいだろうと、そのように安易に考えてしまったんですね。 で、この度、神戸の街の古本屋さんに入ったら、たまたま本書が売っていたので買いまして読んでみますと、とっても面白いじゃないか、と。 戯曲については、多分大学時代だったと思うのですが、わたくし少しまとめて読んだ時期があったんですね。 戯曲を読むというのは、少し「癖のある読書」という気がいたしますが、読み慣れるととても面白いですね。名の通りドラマティックな展開の作品が多く、その読書体験はとてもスリリングでありました。 ところが、劇作家としての逍遙の作品は、完璧に私、見落としていました。 そういえば、同じような見落とし方をしていて、最近になって俄然面白いじゃないかと思った作家がいます。幸田露伴、であります。 両者には共通項がありますね。 そう、長寿です。幸田露伴が慶応3年~昭和22年、享年76歳、坪内逍遙が安政6年~昭和10年、享年80歳であります。 これだけ長い間現役としていろんな作品を書いていたら、時代時代でかなりスタイルも変わっただろうし、ある時期に書かれた作品に、まとめて出来不出来があったりしたはずですが(例えば谷崎潤一郎などでも40歳ほどで亡くなっていたら1.5流くらいの作家じゃないですか、谷崎のピークって、中年以降ですよね)、それが後世、文学史の記載になると(まぁ、しかたないことではありましょうが)、一番目立っていた時期だけで紹介されてしまいます。 例えば、「幸田露伴→『五重塔』『風流仏』」みたいに。 逍遙の『当世……』とか『小説神髄』なんかも、そうなんでしょうね。落ちているところはいっぱいある、と。 今回、初めて逍遙の戯曲を読んで、私はびっくりしました。 とっても面白いんですね。取り上げたお話が怪異潭であるせいで「物の怪」の類が出てきて、まるで泉鏡花ばりであります。 実際私は、読みながら『天守物語』とか『夜叉ヶ池』なんかを何度も連想していました。 ドラマツルギーが、鏡花ばりに素晴らしい。台詞回しが、鏡花ばりに素晴らしい。 例えばこんな感じです。女怪・(略)……おお、だまされたわ? だまされたわ? 何の何の、 それがせにやならぬこと? みんな臆病な人間めが強い者を防ぐ 為、おのが身を庇ふために、猿知恵で工夫し出した自儘の掟ぢや。 おお、だまされたわ? だまされたわ? おろかにも、善い神、 正しい神、直しい神と、取るにも足らん人間に拝まれたといふ未 練気があつたりやこそ、憎い憎いと思うても、思ひ切つたことを 能うせなんだ……悔しいと思うても卑怯いことや残酷いことを能 うせなんだ。……おお、おろかや! おろかや! 迷うてゐた! 迷うてゐた! ……善や慈悲は、自分の都合で人間めが築きをつ た狭い狭い脆い脆い桟橋ぢやに! 廣大無邊な、暗の夜の沙漠の やうな魔界には、道もない、涯もない。ああ、なぜおれは魔王に ならうとは思はなんだぞ? 天下天下、我れ以上に何物もない魔 王になれば…… 考えれば、坪内逍遙という人は「シェイクスピア全集」の翻訳をなさった方ですね。 自前の戯曲を書いても十分素晴らしいことは、想像できたはずであります。 というわけで、今回も大いに反省させられた読書ではありましたが、それとは別に、とっても楽しい時間を持つことのできた読書でもありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.07.30
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『さようなら』田中英光(角川文庫) わたくし、この作家についてはあまり知っている方ではありません。(というか、今ではほとんどの読書人でもそうだと思いますが。) 『オリンポスの果実』という小説を、むかーし、読みました。 ボート漕ぎの選手の話でしたが、なんだかぽやぽやっとした印象だけがあり、ほぼ完璧に内容を覚えていません。(私が内容を覚えていないということについて、これは明らかに私のせいでありまして、作品の評価を表すものではありません。) 後、何となく知っているのは、太宰治の一周忌の日に(確か、そのように記憶するんですが、違っているかも知れません)、太宰の墓の前で自殺をした太宰の弟子。 確か坂口安吾が、この件を評して、弱者が強者をいじめて破滅させてしまったという「強い者イジメ」の典型的なケースだと書いていました。 (田中英光は、自身ボート漕ぎでオリンピックにも出場した、元々は気は優しくて力持ちの好青年だったそうです。でもそんな人だから、文学の毒にまともに当てられたのでしょうねー。) そんな作家の薄い短編集を読みました。4つの話が入っています。これです。 『野狐』『さようなら』『聖ヤクザ』『子供たちに』 筆者晩年の作品でありますが、すでにこのころは、本人は完全にドラッグ・ジャンキーですね。薬物中毒の妄想による傷害事件なんかも起こしています。 そんなことを知ると、もう、タイトルを見ただけで何となく内容が分かってくるような気がしますが、事実その通りの内容です。 けれども、その東北の宿にゆき、半月ほど経つ中、ぼくはそれがやはり自分の誤解だつたと気がつきました。君たちはこちらから、愛せるようにしなければ、決してそつちから大人を愛そうとするものではありません。精神も神経も傷つき果てたお父さんは、愛し愛されるひとが必要だつたのです。(『子供たちに』) こんな部分などを読んでいると特に感じるのですが、どうしてここまで甘ったれることができるのかなぁ、と。 でも、客観的な視点がまるでないわけでは、当たり前ながら、ありません。まったくなくなれば、そんな文章は小説でも何でもありません。 結局この「甘ったれ」の正体は、わたくし、二つの原因かな、と考えました。 ひとつめは、よく言われる「私小説の合わせ鏡地獄」ですね。 現実生活が(特に人間関係が)、小説に描くための素材そのものとなってしまい、自然不自然演技意図渾然一体となり、訳が分からなくなっていき最後に疲弊だけが残る、という状況であります。 これは、古く徳田秋声の小説などにも見ることができます。 現在にだって、別に私小説作家ではなくても、この縺れた毛糸玉のような状況は文章表現者には付きものでありましょう。 でも、大概の作家はここまでは行きますまい。 ここまで行く前にちょっと立ち止まって、リセット・ボタンを押します。 ではなぜ筆者は、それができなかったのか。 それが原因の二つ目で、簡潔に言えば「時代」なんでしょうね。 例えば、こんな表現があります。 ぼくたちはそうした奴隷の言葉に送られた、奴隷の軍隊としての残虐性を中国において遺憾なく発揮した。「グッドバイ」の意味する如く、神を傍らに持たず、中国語の、さようなら「再見」の意味する、愛する人たちとの再会の希望もない軍隊は、相手の人間をいたずらに傷つけ殺し軽蔑し憎悪することで、自分たちの高貴な人間性も不知不識に失つていた。ぼくたちは、中国兵の捕虜に自分たちの墓穴を掘らせてから、面白半分、震える初年兵の刺突の目標とした。或いは雑役にこき使つていた中国の良民でさえ、退屈に苦しむと、理由なく、ゴボウ剣で頭をぶち割つたり、その骨張つた尻をクソを洩らすまで、革バンドで紫色に叩きなぐつた。(『さようなら』) つい1.2年前にこんな体験をし、そして同時に敗戦も経験した精神が、「私小説の合わせ鏡地獄」に直面した時、リセット・ボタンなどに目もくれず、行き着くところまで突っ走ってしまうというのは、充分あり得ると思いますね。 しかしここには、やはり、作品の出来不出来を越えた、語るに足るものがあるような気がします。 人間は生まれる時代を選び得ません。 でもだからこそ、文学などという存在が、湧き水のようにひっそりと現れ、そしていつまでも枯れることなく流れ続けるのかも知れません。 最後になりましたが、短編集の表題にもなっている、上記にも引用した『さようなら』という短編は、筆者の師匠の太宰治がいつも小説にサービス精神旺盛に篭めていた「面白さの芸」が、随所に見られるなかなかの好作品だと思います。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.07.27
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『ダンス・ダンス・ダンス・上下』村上春樹(講談社) 唐突ですが、いしいひさいち氏といえば、まー、やはりギャグマンガ(多くは4コマ漫画)の天才の一人でしょうね。 作品に表れる、対象に対する天才的な切り込み方や批判的視点に、本当に驚かされることが多いです。 そして時々、ヘンなリアリティというか、いわゆる4コマ漫画の「文法」に従っていないような作品(何というか、「唐突な登場と唐突な退場」という感じのものですがー。)が表れたりします。不思議ティストです。 (絵も抜群に上手なことは、彼の描く似顔絵が実によく似ていることからも分かりますよね。) さて、そんないしい氏のかなりむかーしの作品でしたが(『バイトくん』のシリーズだったでしょうか)、先輩が昨夜見た夢の話を延々と喋るのに付き合わせられるバイトくん、という話がありました。 私は妙に記憶に残りました。 なるほど、人の夢の話を聞かされるというのは、なんか相づち一つでもうまく打ちにくいような、いわく言い難い退屈さがありますよね。どなたも体験的に大いに納得いただけるのではないでしょうか。 でも人の夢の話を聞く「うんざり」の正体とは、いったい何なのでしょう。 わたくし思うんですが、それは結局、人は無意味に耐えられない、ということではないでしょうか。 無意味、あるいは意味が理解できないことに対する人間の抵抗力のなさは、確かドストエフスキーの『死の家の記録』の中にも、反抗的な囚人の精神を痛めつける刑罰として、書いてあったように思います。 囚人への刑罰とは、少し話が飛びすぎてしまいました。ごめんなさい。 話を戻しますが、人は無意味に耐えられません。 しかし、人の心の中(精神世界)には、意識で把握できない「無意識」の領域が、我々の理解する「意味」とは全く異なった行動規範(それを「規範」と呼べるのなら)に則って、明らかに存在している、と。 しかもその「無意識」部分は、「意識」部分の十倍ほども大きいということであります。 部屋が二つあって、一つのドアで繋がっていますが、片方の部屋の大きさは、もう一方の部屋の大きさの十分の一。 部屋を繋ぐドアの横には「看守」が立っていて、ある者には二つの部屋の自由な出入りを許し、ある者には許しません。今まで許されていた者も、ある時いきなり「出入り不許可」が命ぜられたりします。またその逆も。 この小さい部屋が我々の「意識」であり、一方の大きい部屋が「無意識」なんですよね。そしてドアの横の「看守」が、どんなルールに則って出入りの許可不許可を決めているかが全く分からないというのが、現在の我々が、我々の精神世界について知っていることだそうです。 たぶん、「夢」の無意味さ(理解困難さ)は、ここに原因を持つのだと思います。 そして問題は、放っておけばそんなうんざりするような「夢」話を、いかに統一体としての一つの小説にするか(それも、世界中で読まれるような面白い小説にするか!)、であります。 (やっと『ダンス・……』の話に繋がってきました。) 「うまく言えない」と彼女は言った。「どう言えばいいのかな。その羊男という人の姿が目にありありと浮かぶというんじゃないの。わかるかな? 何かこう、そういうものを見た人の感情がこっちに空気みたいに伝わってくるのよ。それは目には見えないものなの。目には見えないんだけど、それを私は感じて、かたちに置き換えることができるの。でもそれは正確にはかたちじゃないの。かたちのようなものなの。もし誰かにそれをそのまま見せることができたとしても、他の人には何がなんだかわからないと思う。それはつまりね、私だけにしかわからないかたちなの。ねえ、上手く説明なんかできないわよ。馬鹿みたいだわ。ねえ、私の言ってることわかる?」 この「ユキ」の科白は、本作の方法論のフォーマットに、核心的に触れていると思います。いえ、本作だけではなく、現在に至るまでのほとんどすべての村上作品の「書式」がこれであるように私は思います。 そしてさらに本当の問題は、この「書式」で作られた物語が、本来ならそれだけでは面白いはずはなかろうというのが、冒頭で触れたいしいひさいちの漫画の指摘だということであります。 つまり、ここにこそ村上春樹の類い希な、きわめて独創的な才能があるということであります。 無意識(「無意味」)を面白いものにする才能。 「意味」と付かず離れずの距離を保ち続ける物語を造り出す才能。 そもそも、そんな事って本当にできるのかと思いませんか? しかしもしそれが可能ならば、我々が村上作品を読むという体験は、まさに「我々の生活と我々の夢」という関係に等しく、なるほど人々が村上作品に深い感動を覚えるという意味の正体が、ここからもまた納得できそうに思います。 ともあれ、村上作品が降りていく精神世界への深度は、本作以降、加速度的にその数値を伸ばしてゆくのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.07.23
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『羊をめぐる冒険』村上春樹(講談社) 上記作品の読書報告の後編であります。 私はここん所ずっと村上春樹を読んでいるんですが、いけませんねー。 何がいけないかと言いますと、それは「麻薬」のいけなさですね。 「麻薬」とは、えらく剣呑な話ではないかとお怒りの貴兄、もしも私の発言が誤解をお与えしましたならば、謹んで謝罪致します。 簡単に述べますと、まるで禁断症状が起きる如くに次々と村上作品を手に取ってしまう、さほどに面白い、ということですね。 この面白さの正体については、すでに多くの評論家が分析をしていると思いますが、寡聞にして私は存じません。 私自身の感想としては、稚拙ながらこんな風に思っています。 まずは、文体の力。次に、造形された人物の魅力。 どうですか。やはり稚拙な分析ですね。これでは、論文にはなりません。 でも、村上作品の登場人物(主役級の人物ですね)って、とてつもなく魅力的だと思いませんか。この人物に簡単にすっと感情移入ができない人は、たぶん村上作品は面白くないのだと思います。 しかし、あれ(主役級人物の魅力)の正体は、本当に一体誰なんでしょうかね。やはり筆者の人間性がその原型なんでしょうか。うーん……。 というように、「村上春樹をめぐる冒険」は、際限なく私(達)を惹きつけ巻き込み取り込んでいきます。だから「いけませんねー」と、わたくしはつくづく思ったのでありました。 ところで、上記の「魅力」の話ですが、作品のストーリーには魅力はないのかとお気づきの貴兄、そうなんですねー。ストーリーについて、私実は、これはなかなか難しい、簡単には何とも言い難いと思っています。 (というか、村上春樹はストーリーの新しい面白さを我々に提示しているように私には思えて、その「新しい面白さ」というものは、そう簡単に、一朝一夕に万人に理解されるものではないと考えております。) という話を、実は前回の本ブログでしようと思っていたのですが、前回に書ききれず今回に入って、さて内容は、さっぱりそれに繋がっていませんねー。 だから村上作品は困ったモンなんですねー。(って、それは村上作品のせいじゃないだろうっ!) 前回の最後に話していたのは、三島由紀夫の『小説とは何か』の一挿話であります。 柳田国男の『遠野物語』の中に「炭取り」が廻るという話があって、その話の中の描写に三島由紀夫は小説を見た、っちゅう話であります。(すみませんが、もう少し丁寧な説明は前回のブログ記事をご覧くださいね。) その部分を三島由紀夫はこのように述べています。(引用部分中の「このとき」とは、「炭取りが亡霊の着物の裾に当たってくるくると廻った時」を指します。) すなはち物語は、このとき第二段階に入る。亡霊の出現の段階では、現実と超現実は併存してゐる。しかし炭取の廻転によつて、超現実が現実を犯し、幻覚と考へる可能性は根絶され、ここに認識世界は逆転して、幽霊のはうが「現実」になつてしまつたからである。幽霊がわれわれの現実世界の物理法則に従ひ、単なる無機物にすぎぬ炭取に物理的力を及ぼしてしまつたからには、すべてが主観から生じたといふ気休めはもはや許されない。かくて幽霊の実在は証明されたのである。 どうですか。 この三島の理論にはまだもう少し続きがあるのですが、今私はこの文章を写していて面白いことに気が付きました。 いえ、別に面白いことでも何でもないのかも知れませんが、どんなことかと言いますと、村上春樹もこの三島の文章をきっと読んでいる、そして、この理論の援用をもって、『羊』次の『ダンス』そして、さらには空から蛭が降ってくるなどのエピソードを持つ『海辺のカフカ』といった作品の理論的根拠のひとつとしたのではないか、ということであります。 うーん、ちょっとエキサイティングですね、そうでもないですか。 ともあれ死んだ「鼠」は、本作の中でたくさんの炭取りを廻し、さらには村上作品自体がこの後、日常生活の中で炭取りの廻り続ける世界と接点を持つという物語に、どんどん傾斜していきます。 私が上記に触れた、ストーリーの「面白さの新しい形の提示」とは、こういう事であります。 世界中で読まれ続ける村上作品を、多くの人が、心の深いところからの感動があると述べていることについて、私は村上作品が、「面白さ」ということの質を根本的に変えようとしている、あるいは少なくとも、「新しい面白さ」を我々に次々と提示しているのだと思います。 そしてその試みが成就したならば、まさしく人類の新しい「価値」が創造されたということであり、それは「革命」と呼ぶにふさわしいものであるのだと、私はここまで考えた時、その「偉業」にほとんど目眩を覚えるばかりでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.07.20
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『羊をめぐる冒険』村上春樹(講談社) 村上春樹の初期作品「鼠三部作」の3作目であります。 このあと『ダンス・ダンス・ダンス』という作品があり、その「後書き」に筆者が、主人公の「僕」は基本的にこの「鼠三部作」の「僕」と同じであると書いていますから、「四部作」と考えてももちろんいいんでしょうが、あまりそうは言われません。 それは、作品の中での「鼠」の重要度が、前3作と後1作とで違うからでしょうね。 一方、本作の「耳の彼女」は、次の『ダンス…』に直接繋がっており、ストーリーを展開していく大切なキー・パーソンにはなっていますが(しかしその「彼女=キキ」についても作品内での存在感は全然違っています。何より「彼女」の魅力が全く違います)、そもそも「鼠三部作」の全編に通奏低音のように流れていた「直子」の話が、『ダンス…』にはほぼありません。(一般的な「喪失感」のひとつとして位の重みですかね。) 今回本作を(幾度目でしょうか)読み直して、私は、長い間ずっと本作について変な思いこみを持っていたことに気が付きました。 どんな思いこみかと言いますと、そもそも村上作品について、私はデビュー作よりとても大好きで、特にこの三部作は何度も読み直しをしたのですが、しかし何時までも初期作品ばかり読んでもいられず(次々と新作が発表され、その意味では村上春樹は極めて勤勉な小説家でいらっしゃいます)、さすがのフェイヴァレットな「鼠三部作」も、考えればかなり長い間読んでいませんでした。 この度、久しぶりに三作まとめてじっくり読み直してみましたが、それまで私は、この三作には、「自殺した彼女=直子」に対する激しい後悔と喪失感が、具体的な描写やエピソードを伴って全編に溢れていると、そう思いこんでいたんですね。 ところが、違っていました。 「直子」に対する思いは、『風の歌を聴け』にはさすがにほぼ全編に亘って描かれていますが、二作目の『ピンボール』以降には(『ピンボール』で初めて「直子」という固有名詞が出てきたのに)「直子」話は全面展開していません。 (いえ、これは間違っていますかね。ピンボールとは「直子」であると読むと、「直子」話は全面展開しています。) 落ち着いてよく思い出せば分かることだったんですが、「直子」話が(設定を変えながら)全面展開するのは、実は『ノルウェイの森』だったんですよねー。 村上春樹はごくおおざっぱな言い方をすれば、現時点での最新作『1Q84』に至るまで、「純愛系」(というより「失恋・喪失系」)と「冒険系」の、二系統の小説群を次々と紡ぎ出していらっしゃるのであります。 さて、『羊』であります。 発行からすでに三十年が過ぎ、『1Q84』に至るまでの主立った作品を一応読み、そして改めて『羊』を読み直すと、本当にいろんな事が頭に浮かぶのですが、そのひとつとして私は、しみじみこんな感想を持ちました。 「ちょうどこの『羊』の終盤からなんだよねー。三島由紀夫が言うところの『炭取り』が廻ってしまうのは。」 「炭取り」というのは、少し有名な話であります。(いえ昔はわりと有名な話だったんですが、今では「なんだそれ」って話になっちゃっているんでしょうか。) 三島由紀夫が、絶筆のひとつである『小説とは何か』という文学的随想の中で語った話で、柳田国男の『遠野物語』のひとつの話を取り上げて、「ここに小説がある」といったというエピソードです。 大雑派に(かつ私のバイアスをかけて)説明しますと、ある家のお祖母さんが亡くなり、その通夜の席に彼女の亡霊が現れるという話です。 参列していた何人かも亡霊の出現には気が付くのですが、三島が注目したのは、亡霊が部屋の中を移動していく時に、囲炉裏のそばに置いてあった「炭取り」に着物の裾が触れて、その丸い炭取りがくるくると廻るという描写、その部分であります。 「ここに小説があった」と、三島は言うわけです。 ……うーん、賢い人というのは、言っていることがよく分かりませんねー。困ったモンです。(別に困りませんか。) 私のように、頭の作りが遙かに雑にできているモンにも分かるように、噛んで含めて説明して欲しいのですがー。 しかし普段はそんなことには知らん顔の三島由紀夫が、この件については比較的丁寧に説明をしてくれています。 珍しいことです。(自殺の年の随筆で、この世へのいろんなお土産のひとつだったのかも知れませんね。) こんな説明なんですが、……えーっと、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.07.16
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『1973年のピンボール』村上春樹(講談社) えー、『風の歌を聴け』の続き、ですね。 というより、このお話は『風の歌を聴け』がなかったらほとんど意味のわからないお話のような気がします。 つまり、単独作としては、あまり体をなしていないんじゃないかと言うことですね。 村上春樹が「出来が悪い」として、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の外国語への翻訳を許可していないことについて、本当は『ピンボール』だけをそうしたかったんじゃないかと、少し邪推をしてしまいます。 しかし、『ピンボール』だけ駄目っていっちゃうとあまりに透けて見えてしまうものがありそうで(それに少し大人げないような気もして)、それで、2作セットにしたのではないでしょうか。 だとすれば、『風の歌』は少し気の毒な気がしますね。 デビュー作ゆえの気負いや稚拙さはあるとしても、いわゆる「デビュー作には作家のすべてが詰まっている」的な、村上春樹エッセンスが、明らかにあの小説にも詰まっていると思えるからです。 さて、冒頭からいきなり「もひとつやなぁ」的に触れてしまった『ピンボール』ですが、うーん、何といいましょうかー、このお話は二つの憂鬱の話なんですが、読後感は「軽い」ですね。 それもやはり、少し書き込みが足りないと思うからでしょうかねー。 第一、終盤近くまで奇数と偶数、各章ごとに書き分けられている「僕」と「鼠」の話ですが、この二つ、バランス悪すぎませんか。 まるでマーラーの3番みたいではないですか。(いえ、もちろん、マーラーの3番は名作ですが、この3番も楽章ごとの長さがめちゃめちゃばらばらであるという、それだけの接点で取り上げただけなんですがー。) 基本的に「鼠」の話には展開がないんですよね。同じような「雰囲気」が延々と続いています。 そもそも、この「鼠」の憂鬱の原因は何なのでしょうか。 霊園は鼠の青春にとってもやはり意味深い場所だった。まだ車には乗れない高校生のころ、鼠は25CCのバイクの背中に女の子を乗せ、川沿いの坂道を何度も往復したものだ。そしていつも同じ街の灯を眺めながら彼女たちを抱いた。様々な香りが鼻先を緩やかに漂い、そして消えていった。様々な夢があり、様々な哀しみがあり、様々な約束があった。結局はみんな消えてしまった。 ここに描かれるような「喪失感」が、「鼠」に特有な物であるとしたら、その内容の説明は『風の歌を聴け』に負ってしまいすぎているように思いますし、もしこの「喪失感」が一般的な若者の感傷に近いものならば、まぁ、悪いとは言いませんが、それはさほど目新しい物でもないように思います。 ただ、「鼠」の章について言えば、本作には、彼の街からの出発と「死」についての暗示が描かれていますね。 これが次作の『羊をめぐる冒険』に繋がっていくのでしょうね。 さてもう一方の憂鬱の持ち主、「僕」の章ですが、唯一日本人らしい固有名詞を持つ女性「直子」が出てきますが、彼女の造形も、あきらかに『風の歌を聴け』に負っています。 わたくし、思うんですが、筆者はこのことについてちょっと迷ったものの結局前作に乗っかかると決めたのではないでしょうか。 そう決めてしまえば、そのこと自体に対する批判は出るとしても(私も前述しました、いわゆる独立した作品とは読みがたい、というやつですね)、書く書かないのエピソードはすっきりします。 でも結果としては、何となく痩せたような作品になってしまった、と。 全体を通して次作(『羊』ですね)への「ほのめかし」が随所に見えるように思います。 配電盤の葬式、ふたごの出現と消滅(このふたごもまた、見事にリアリズムを抜き去った会話をする人物達と設定されていますね)、そしてピンボールへの傾斜。 この後、村上作品に全面的に展開されていく「異界」への暗示が、あちこちにちりばめられ、そしてそれは、かなり「凄み」のある描写だなぁと、本作が描かれて既に30年以上が経って読み返し、改めて感じます。 しかし最後に、はて、それも筆者の明確な「戦略」なのかと立ち止まって考えてみると、村上春樹氏のクレバーな頭脳は定評あるところでしょうが、なるほど、作家とはつくづく凄いものだと、私はひたすら感心するのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.07.13
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『風の歌を聴け』村上春樹(講談社) 冒頭作品の読書報告の後半であります。 前回書いていたのは、私は村上春樹の第2作目あたりからのファンであったということでありましたが、「ファン」であることについては、その後少し間を置くようになっていきました。 そもそも「ファン」って、偶像崇拝があるでしょ。 加えて「フェティシズム」。 例えば『風の歌を聴け』に出てくる「猿の檻のある公園」に行って写真を撮ってくるとか、『ランゲルハンス島の午後』に出てくる「橋」の上を何度も行ったり来たり歩いてみるとか……。 (あのぉ、これ、わたくし、どちらもしました。) それがイヤになったことと(当たり前やんか、エエ年して)、それともう一つ。 「謎解き」ですね。 村上春樹ファンとくれば、作品の謎解きであります。 この謎解きの春樹本がやたらたくさん出版されて、ああでもないこうでもないと、まるまる「百花繚乱・百鬼夜行」状態なんですね。 これに、ちょっと、もー、付いていけない、と。 そこで私は、「ファン」の看板を下ろしまして、偶像崇拝はやめてむしろ「ファンダメンタリスト」でいようと考え、「原典」だけを読もうとつい最近までそうしていたんですが、前回書きましたように、この度内田樹氏の講演を切っ掛けに、また少し、「第二次産業的」村上春樹読書をしてしまいました。 でもまぁ、そうすると自然に「原典」の読み直し意欲が起こるわけで、実に久しぶりに私は冒頭の小説をじっくり最後まで読み通しました。 そしてどう思ったかと言いますと、「第二次産業的」村上春樹本では、石原千秋の分析が(この分析は石原氏の独創というよりは過去のいくつかの分析の総括的なものでありますが)、とてもしっくり来ると感じました。 例えばこんな個所についての分析。 今、僕は語ろうと思う。 もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。 そんなわけで、僕は時の淀みの中ですぐに眠りこもうとする意識をビールと煙草で蹴とばしながらこの文章を書き続けている。熱いシャワーに何度も入り、一日に二回髭を剃り、古いレコードを何度も何度も聴く。今、僕の後ろではあの時代遅れなピーター・ポール&マリーが唄っている。「もう何も考えるな。終わったことじゃないか。」 この抜粋部分は、作品中では「額縁」に当たる部分、つまり主な舞台の時代である「僕」が21歳の時の感情ではなくて、この小説を書き出した28歳時の「僕」の感情表白となっている部分であります。 石原千秋(ならびにその他の評論家)の分析のポイントは、ここに描かれる「問題」や「終わったこと」が、こう書いてあるにもかかわらず、作品中にほとんど説明されていないではないかと言うことであります。 そこで、一本の補助線を引いてそれを見える形にしよう、と。 その補助線とは、端的に斉藤美奈子の評論のタイトルが述べているものですね。 なるほど、そう読むと、少なくとも本作品中の主人公の感情表白個所には一定の、そしてとてもしっくりいく「根拠」が伺えます。例えばこんな部分について。 夏の香りを感じたのは久し振りだった。潮の香り、遠い汽笛、女の子の肌の手ざわり、ヘヤー・リンスのレモンの匂い、夕暮の風、淡い希望、そして夏の夢……。 しかしそれはまるでずれてしまったトレーシング・ペーパーのように、何もかもが少しずつ、しかしとり返しのつかぬくらいに昔とは違っていた。 この「昔」とは、いつなのか。 それがとてもよく分かる分析となっているということですね。 そして何よりこの分析に従うと、この作品の後村上春樹が書き続ける「鼠三部作」に見える主人公の「喪失感」の裏付けが取れる、つまり、たぶん、それはこの分析がかなり正しいことを物語っているのだと思います。 ただ、だとすれば、この作品の根っこの所にある「感情」は、(少し表現に戸惑うのですが)、現代的で華やかな作品の意匠とまるでそぐわぬ、古い日本文学固有のテーマと同様のもの(例えば、鴎外の『舞姫』?『普請中』?)になってしまわないか、と。 (村上春樹に批判的な斉藤美奈子の文章には、それを見事に揶揄的に語っている個所があります。) ……ふーむ。 村上春樹が現在、本作と次の『ピンボール』とを、レベル以下ゆえに他国語への翻訳を許可しないとしていることについて、なるほど、少し苦しい彼の心中が、僭越ながら、少し垣間見えるような気も、致します。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.07.09
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『風の歌を聴け』村上春樹(講談社) 久しぶりに本書を手に取ったのは、えーっと、遡っていくと去年の出来事あたりがその「遠因」かなと思います。 内田樹氏の講演会に行ってきたんですね。 今となってはあまり覚えていないんですが(最近の私の記憶力の低下については、もはやなにをかいわんや状態でありますが)、確か、ノーベル文学賞の発表前後じゃなかったかしら。 で、テーマが村上春樹であった、と。 確かその時内田氏は、『ノルウェイの森』にかなり触れていらっしゃった記憶があります。 あっ、そうだ。『ノルウェイの森』の映画化が話題になっていた頃でした。 割と面白い分析をなさっていまして、その講演会が切っ掛けで、私はネットで、内田氏の村上春樹に関する本を調べ、そして買ったのが二ヶ月ほど前ですか。 しかしこうして、一つのテーマについて自らの取った行動を遡ってチェックしてみますと、私ってつくづく動きの鈍い人間だなーって、思います。 さらに、その動きの鈍さは続いていきます。 で、そのとき読んだ本が、 『村上春樹にご用心』内田樹(アルテス)でありまして、とても楽しかったです。で、この続きの本が出ている、と。 (思い出しました。去年の内田氏の講演会で、ご本人がこの度続編を出版しますとおっしゃっていました。) その続編のタイトルがこれですね。 『もういちど村上春樹にご用心』内田樹(アルテス) この本を買ったのが一ヶ月ほど前。 しかし、この本は、私としては、前作ほど面白くは思えませんでした。あの講演の時におっしゃっていた『ノルウェイの森』を巡る分析が載っているかなと期待していたのですが、ありませんでした。 (そういえば、講演の時、この分析は急遽朝から考えていたものです、みたいのことをおっしゃっていたっけなー。) とにかく、トータルな印象としては個人的には少し残念なものではありましたが、この本の中に加藤典洋氏の事が触れられてありました。 加藤氏については、村上春樹作品の初期から説得力ある分析を一貫してされていた方だといった紹介でありました。 そこでふと私は、そういえば昔に古本屋で見付けて買った『国文学』に、加藤典洋の『風の歌を聴け』についての論文があったよなー、と思い出しまして、それを読んだのが先日。(一応、何回目かの再読ですね。) 以降、ぱらぱらとではありましたが、斉藤美奈子の『妊娠小説』を一部読み直し、さらに石原千秋の『謎とき村上春樹』も同様に読み直しました。 思い起こせば、冒頭の村上春樹の小説を初めて読んだのは、私の大学生活後半の頃でした。確か友人に勧められ、借りて読んだと思います。 あの頃は、いわゆる「元新左翼」っぽい若い作家がいろいろ出てきた頃で、同じような感じの作品が次々に出版されていました。 だから、(という接続詞が相応しいのか、よく分からないのですが)本作の印象も、それなりに面白くはありましたが、他の同種の小説に比べて「一頭地を抜いて」というほどのものは、私は感じませんでした。 ただ、違ったのはそれから先。 二作目三作目と出版され続けていったその作品は(特に圧倒的転換点は三作目『羊をめぐる冒険』ですかね)、他の「弱小」作家のものとは、まるで比較にならない充実ぶりでした。 いつの間にか、私は自分の『風の歌を聴け』の単行本を買っていました。 新作の出るのが待ち遠しく、例えば今でも手元には、1980年9月号の『文学界』の雑誌があったりします。 この雑誌には、後に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終わり」の部分の元となった『街と、その不確かな壁』という少し長めの短編小説が掲載されています。 たぶんこの作品は、その後、どの単行本にも収録されていなかったはずであります。(じゃなかったかしら。) ともあれ私は、よーするに割と早い頃からの「ハルキスト」であったわけですが、多くの「○○イスト」のその時々に温度差があるように、私の場合も、一直線に熱い「ハルキスト」ではありませんでした。 いえ、それには、私なりに理由はあるのですが……。 ……なんか、ヘンな私の読書遍歴の話になっていますが、えーっと、そんなつもりはなかったんですがねー。 えー、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.07.06
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『虹・浅草の姉妹』川端康成(新潮文庫) この短編集に含まれている三つのお話は、『浅草紅団』の続きみたいな話であります。 『浅草紅団』については、以前に本ブログで報告しました。 で、今回の文庫本を手にしてから、そうだったなーと気が付いたのですが、何に気が付いたかというと、『浅草紅団』は私は苦手だったということです。 うーん、と唸りつつ、読み終えたのですが、この近代日本文学史を代表する小説家の作品を取り上げて、「苦手だ」というのは、「あんたには日本文学はわからへんねや」と言われても返す言葉のない様な状況でありましょーが、しかしねー、川端作品の全部が苦手というわけではなく、いえ、でも今、これも本ブログにて報告の『雪国』を書いた自分の文章を読み返してみたら、確かにこれも少し苦手そうに書いていますねー。 うーん、困ったことです。(何が?) 例えばこんな文章、女の足について書かれた文ですが。 抱いた羽根蒲団の赤い縁から、垂れた裸の素足、こんなに美しいのかと、綾吉は驚きながら、その白い二つのものは、なんだか虚無の象徴のやうに思はれる甘い疲れ。 またこんな文はどうでしょう、「お島」というのは若い女性で、美容院の中にいます。 お島はちらりと鏡の中の娘を見ただけだ。お島も鏡の中の人間で、鏡のなかにお島を見ると、まことに鏡こそ彼女の美しさにふさはしい住居らしく思はれて、始終なにかを切つてゐるやうな美しさ。いつどこが光るやら、不安で見てゐられぬ。 こういう文章の「比喩」が、「新感覚派」なんでしょうかね。 そんな気もしますが、今読みますと、それ以外の部分から少し浮き上がっているようにも感じます。 しかし、こんな比喩が次々と浮かんでくるのは、やはり持って生まれたモノという気もしますねー。まー、天才、ですかね。 『浅草紅団』の時にも思いましたが、「風俗」を描くことが作品の主眼のひとつであるわけですね。 昭和初期の、浅草の新しい風俗であった踊り子達です。 でも風俗を描くことの難しさは(ましてや、その時代の最先端の若い女性の風俗を描く難しさは)、描写が古びることに対して、どう抵抗していくかという課題でもありましょう。 川端がそんなことに気づかないはずはなく、十分そのことに備えつつ、あるいは、そのことに対して居直りもしつつ、描いているのだと思います。 そしてその事と関連があるのか、もう一つ私が個人的には気になって仕方がない、何といいますか、一種「蓮っ葉」な文体、これなんかは、意図的に何かをねらってのモノなんでしょうが、こんな感じになっています。 寝れなかつた朝、尚且つ美しい顔は、ほんたうに美しいのだ。 それが若ければ、眠らぬ疲れは、反つてやさしく触れてもみたい清げを添へ、三十代ならば、欲情は朝にしくもなしと相手に思はせるやうな、艶めかしさをただよはす。 濱村の顔はちやうど、若い方のそれで。 例へば、これはこの物語の春ではなく、十月のことなんだが、東仲町で電車を下りると、いきなり、銀座風の洋装の娘に突きあたりさうになつて、名刺を渡されてみれば、「今晩は愛して頂戴な。」 「寝れなかつた」とか「清げ」とか、ちょっとルール違反の気になる表現がありますが、それだけでなく、全体がどこか「打っちゃった」ような「蓮っ葉」な、崩した文体になっていますよねー。いかがですか。 こんな書き方こそが、時代の風俗を描くために最も相応しい文体なのだと考えることも、まー、可能なんでしょうが、私としては、こんな表現は、爪の生え際の皮のささくれのように、ひりひりと神経を逆撫でして仕方がないんですが、それって、「お前の勝手だろう」って言われてしまうことなんでしょうか。 ともあれ、やはり川端康成は、天衣無縫の無手勝流であります。 しかしこんな「飛び道具」のような描写は、日本文学の中の異端、というより、そもそも小説世界の異端なのではないでしょうか。 ただ、小説世界の異端ということは、そのまま極めて高度な独創性を有すという誉め言葉と全く重なるものであり、そんな意味で、この作家がノーベル文学賞に選ばれたというのは、世界がその異端性を認めたということでありましょう。 ……しかし、なんですか、するってぇと、ノーベル文学賞ってのは、偏屈モンのための賞、ってことですかね。 なるほど、そういわわれれば、何となくそんな気も、しますわね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.07.02
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