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『夏目漱石『心』を読み直す』小森陽一(かもがわ出版) 以前読んだ、志賀直哉の短編について書かれた本と同シリーズの本であります。 大きな特徴は、新しい本であるということ。(2020年9月第1刷発行とあります。) 本書にはサブタイトルとして「病と人間、コロナウイルス禍のもとで」とあります。 でも、わたくし、この「コロナ」云々というのは、イヤというかなんというか、ちょっと胡散臭いんですよねー。 コロナ禍は既に2年以上になっていますから、ぼつぼつとそれについての本も出ていますが、私としては、あまりにリアルタイムでありすぎないかと思うんですね。 それも医学のことについてですから、正しいことが日進月歩どんどん変わっていっていると思います。 確か最初は、マスクにはあまり効果がないと言っていましたよね。 その後言っていた「三密」も間違い、最近では「一密」でも危険だそうです。 まー、その時々においては、それが正しかったんでしょうがねぇ。 というわけで、本書においても私は、コロナについて触れているところはかなり眉唾に読みました。 ただ、これは私の持論(というほどのものではありませんが)ですが、漱石と源氏は懐深くいろんな新しい読み取りを許してくれる、と。 本書にもいくつか、なかなか楽しい刺激的な分析がありました。 そのうちのいくつかを、ざっと以下に報告したいと思います。(でもいつものことながら、そこにはわたくしの勝手な「妄想力」の結果も加わっていることをお断りしつつ。) 世間には、この『心』の「先生」の奥さんである「静」と、第一部第二部の主人公である「私」の関係が、その後どうなっていくだろうかと推理する評論の類がいくつかあるようです。 私も初めて読んだ時は、なかなかおもしろいなーと思っていたのですが、でもそんなことどこにも書いていないんだから仕方ないではないか、とも思いました。 しかし今回本書で改めて指摘され、ハッとしました。 どのような指摘かといえば、漱石が最初に考えていた『心』の構成は、前作前々作の『行人』『彼岸過迄』と同様、短編を積み重ねて長編を作る形であったという指摘です。 ところがその最初の短編のはずの「先生の遺書」が、思いの外に長くなってしまって、仕方なくそれ一作で『心』という長編小説にした、と。 まー、この指摘自体は、ちょっと『心』について調べた人には常識的な話ですよね。 私ももちろん以前より知っていました。でもそのことの本当の意味について、実は知っていなかったんですね。(たぶんどうしようもなく私がヌケているせいでありましょう。) ポイントは、『行人』も『彼岸過迄』も、一つ一つの短編に出てくる登場人物は同じ人物であるということ。 ということは、『心』の最初の漱石の腹案には、その後の「私」やその後の「静」、あるいはその前の「静」なんかのイメージや、ざっくりしたストーリー展開があったということではないですか。 これはわたくし、少しドキリとしましたね。 そういうことだったんだ、と。 だから多くの人が、その後の二人が気になるんだ……。 ……と、まぁ、愚かな私が本書を読んで新しく知ったことは、他にもいくつかありますが詳しくは各人で読んでいただくとして、最後に一つだけ、これもなかなかユニークな推理が書かれてましたので、ちょっと紹介しますね。 ともあれ、「先生」が自殺することになって『心』の本文は終わります。 でもそこには、「先生」がどんな死に方をする(した)とは書いていないんですね。 その、自殺の方法についての推理であります。 これはひょっとしたら私がここで書いてはいけないのかなーとも思いましたが、まー、推理小説の「ネタバレ」とは違うでしょうから、書いてみますね。 筆者は、「先生」は冒頭に出てきた鎌倉の海岸から海に入ったのではないか、と推理しています。 根拠も幾つか書かれていますが、なかなか「魅力的」な根拠の一つは、その死に方は死体が残らないことであります。 ……うーんと私は思わず唸って、一つの小説のイメージを浮かべました。 梶井基次郎『Kの昇天』 もちろん梶井のこの短編小説は、『心』よりずっと後に書かれていますが、私は思い浮かべてちょっとロマンチックな気分になって、そしてまた、愚か者の私は、改めてはっとしました。 これも、「K」ではないか、と。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.08.25
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『月の満ち欠け』佐藤正午(岩波文庫) 懐かしい作者の名前であります。 と、書くのは、作者に対しては失礼なのかなとも思いつつ、まー、やはりそう思って読みだしたことは否めません。 むかーし、『永遠の1/2』という小説を読んだんですね。 私が多分大学生だった頃です。 確か、村上春樹なんかもデビューして間近だった頃と思います。 村上春樹は、その後も出る本出る本読み続けました。しかし、佐藤正午は、まー、申し訳ない(ことも、本当はあまりありませんが)、『永遠の1/2』以外一冊も読まずに今日に至りました。(でも、本当はそんな作家って、佐藤正午以外にもいっぱいいるのですがー。) と、あれこれ過去を振り返っても仕方ないので、まー、それはやめて、一つのイメージだけを押さえておきます。 つまりは、ベテラン作家であります。 読み始めて、少しワクワクしましたね。 こちらが勝手にベテラン作家だという先入観で読んでいるせいもありましょうが、なかなかスリリングで、いっぱい技巧や仕掛けに満ちた序盤の展開ぶりだったからです。 さらに読み進めていって、時間軸が現在過去を行き来したりして、これはがっちりと構成された作品に違いないと思いました。 たとえ、少し偶然の出会いが多すぎたり、事故死が不自然に多すぎたりしても、まぁ、それは許容範囲だろう、と。 しかし、でも、なんだか少し、いや少しずつ、展開に私の感覚との違和感が……。 やはり、事故死が多すぎませんか。 この事故死の多いのは、明らかにストーリーの要請でありますね。 つまり「瑠璃」が死ななければ、「瑠璃」は現れない。(次の謎が生まれない。) 一方で、三角哲彦と初代瑠璃の恋愛生活は、後の展開を担うほどに説得力強く書き込まれているのでしょうかね。初代瑠璃の人格の目鼻立ちが、どうもよく見えないように感じるのは、私の読みそこないでしょうか。 さらに遡れば、冒頭に出てくる狂言回しの小山内は、作品の現在時制に於いて、何のためにわざわざ東京まで出かけたのでしょう。 そしてその時会うはずだった三角哲彦が、姿を見せなかった意味は。 読み終えて改めて考えてみると、私の感じたこれらの細かな「違和感」とは、結局のところ二つの理由にまとめることができるかな、と。 一つは、この部分。 「だけどあたしは何回死んでも生まれ変わる。アキヒコくんが、よぼよぼのおじいちゃんになっても、若い美人に生まれ変わって現れて、誘惑する」 この初代瑠璃のセリフこそが、本小説の展開の動力部分であります。 よく読めば、これだけですでに少しヘンな感じはしますが、作品はリアリティと共にこの方向に進んでいきます。そしてどこにたどり着くか。 その一端の描かれているのがこのシーンです。 (略)るりは、本当に三角さんを慕っている。慕っているって言い方では、きれいごと過ぎるかもしれない。女として彼を求めている。一緒にいると、もっとベタベタしたがってるように見える。まだ七歳の娘が、建設会社の部長さんを、本気で追いかけまわすんですよ。たぶん寝たがってると思う。ほっとけば、彼女はあの人とセックスだってしてしまう……(略) これは四代目るりの母親のセリフです。 これは、やはり、グロテスクな話でしょう。 では、なぜこうなってしまったのか。 わたくし、二つのお話を思い出しました。 一つは、氷河に落ちた恋人が河口から出てくるのを、ずっと何十年も待ち続ける恋人の話。 もう一つは確か手塚治虫のSF漫画でしたが、宇宙の果ての小さい星で、若き日の恋人の来るのをずっと待っているうちに「山姥」のようになってしまった女性の話。 本作のラストシーンは、三角哲彦と四代目るりが出会う印象的な場面なのですが、実は作中にはすでに、その後の二人のことが書かれてあります。上記の二つ目の引用部ですね。 私が思うのは、この話を歪な(グロテスクな)ものにしないためには、このラストシーンを最新の現在時制のものにして、本当に終わるべきではなかったか、と。 途中に出てくるエンディング時制より先の、上記二つ目引用のエピソードなどは描かれない方が、少なくとも読後の後味は変わってくると思います。 では、なぜ筆者はそうしなかったのでしょうか。 それが、私の考えた二つ目の理由でもあります。 それは、つまり、読者を引っ張るためでしょう。 エンタティメント小説の、なかなか難しいラインの設定だと思います。 読書途中の読者の興味を引っ張るために、どこまでやむなくそれ以外のものに目をつぶるかのぎりぎりの線引き……。 ストーリーにぐんぐん引っ張られる小説は、もちろんはらはらとスリリングに読ませてはくれますが、後で振り返ったとき、あそこはここは、やはりかなりムリ筋じゃなかったか、と思い返してしまう……。 ……いえ、これは、私が本ブログで再三自分の書いたことの言い訳に使ってきた、読者のわがままな読みの特権に、もちろん過ぎないのでありますが。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.08.12
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