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『沙羅乙女』獅子文六(ちくま文庫) 獅子文六作品の読書報告は3作目であります。 まず『てんやわんや』を読んで、何だかもうひとつ面白くなかったような報告をしました。でも、あまり記憶に残っていません。 次に『コーヒーと恋愛』の読書報告をして、これはとても面白かったと書いています。ストーリーそのものはやはりほぼ忘れましたが、好印象の記憶は残っています。 そして3作目ですが、これは何というか、まー、やはり読後感は、あっけにとられるというのが正解でしょう。 そして、後味は苦い、と。 しかし私も、少しはいろんな小説を読んできたつもりですが、短編小説ならともかく、これくらいの長編小説で(文庫本で本文が377ページです)、これだけあっけにとられる思いをさせる終末部を持つ作品を読んだのは、本作が初めてです。 いきおい本作をどう評価するのかというのは、この終末部の存在をどう考えるのかということにならざるを得ないと思います。 では、どう考えるのか。 ポイントは2つだと思います。 まず1つ目、作者はこのエンディングをどのあたりで意図したのか、ということ。 これこれはなかなか難しい問題ですよねー。 ストーリーの自然な流れとか、伏線めいたものの存在はないかとかを、きっちりと読み直していかなければいけませんものね。 ここはざっくり、無責任に、私の勝手な読みを書きます。 章立てで言いますと、終りから3つ目の「男と男」のあたりじゃないか、と。 この辺りを書いているうちに、作者は、現在のあっけにとられるようなエンディングに決めたのではないか、と。 その証拠はどこにある、と言われますと、えー、かなり困るのですが、ね。 ごく弱い状況証拠らしいものが一つだけ。 それは、この場面の小岩井日出子の行動です。 この場面の日出子の行動は、今までそれなりに書き込まれていた恋のライバル日出子像としては、あまりに乱暴というか非常識で、整合性に欠けるように思います。 本当ならもう少し常識的な対応があって、そして、もう少しこの先まで続く展開が考えられるべきではなかったかと。 事実ここで、塙と日出子の話は見事にぶつりと途切れて終わってしまいます。 私は、エンディングに向かって、作者が少し無理をしたんじゃないかと、思った訳です。 というわけで、取りあえず、終末部直前のところで、現在の終わり方になったと、(やや無理やりに)考えます。 では次に、なぜこの形にせねばならなかったのか、という問題ですね。これが2つ目のポイント。 というより、本当はこちらを先に考えるべきだったのかもしれませんが、とにかく2つ目のポイントです。 本作品は、昭和13年7月から12月まで東京日日新聞に連載された新聞小説であります。既に中国での戦争は始まっており、アメリカとの開戦も間近であります。 当然考えられるのは、それなりの筋からの「横やり」でしょうかねー。 それなりの筋からの、小説に対する横やりと言えば、有名なのは同時代の谷崎潤一郎の『細雪』に対する軍部からの掲載中止でしょう。 ちょっと調べてみましたら、あの事件は昭和18年なんですね。既に太平洋戦争が始まっています。 それと状況を比べると、昭和13年の本作への「横やり」というのは、ちょっと早すぎないですかね。(これもにわか知識で申し訳ないですが、政府による芸術作品への検閲がひどくなるのは昭和12年頃からだそうです。) それに作品内容が全然違いますよね。 谷崎のは、ブルジョア姉妹の優雅な生活絵巻。一方こちらは、勤労少女の、手に汗握る苦労話ではありませんか。 とすれば、ひょっとしたらいかにも日本人っぽい「自粛」あるいは「忖度」めいたものだったのかもしれませんね。 うーん、ちょっとイヤに方向に進みそうですねー。 ……まー、ともあれ、そんな状況下で現在のエンディングに向かって書き進めていった時、作者は作品をどんな風に書き込んでいったのか、それを最後に探ろうと思います。 しかし、これはもう明らか、というか、あまりにも何も書き込んでいません。 上記に本文377ページと書きましたが、371ページ目に主人公級の人物に召集令状が来ます。 そして残り6ページ少しで、今までのストーリーをほとんど崩壊させて、小説は突然終わってしまいます。 これに我々は、驚きあきれるわけですねー。 ……えー、ここでわたくし、じーと考えてみたんですね。まー、下手の考え休むに似たりなんですけれど。 で、思ったのは、このエンディングはあまりと言えばあまりにヒドくはないか、と。 ほとんどやけくそのようなエンディングであります。 でも作者は、自分で書いていてこのやけくそさに気がつかないのでしょうか。 そんなはずはないでしょう。 では、気がついていて、それでもなお、もう作品の出来も読者へのサービス精神も、そんなものはみんなどうでもいい、というやけっぱちで作者はいたのでしょうか。 それもやはり、ないんじゃないかと私は思います。 だとすれば、なぜか。 作者は、作品の最後にこの決定的にゆがんだ終末部をあえて書くことで、表現の自由が失われて行くこの息苦しい時代への批判を、そんな文言や表現は一切使わずに、自らの小説を崩してしまうという手法を使って読者に感じさせたのだというのは、あまりに穿った読み方でありましょうか。 そしてもし、そこに狙いがあるのならば、上記に私は終末近くで本作の展開はゆがめられたと書きましたがそれは私の読み違いで、作者は作品冒頭から、壊すために積み上げる作業を370ページ行なうことを、まさに自らに科して書いたのかもしれません。 なるほど、少なくとも、この読みの方がスリリングですよね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.10.30
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『村上春樹の世界』加藤典洋(講談社文芸文庫) 『村上春樹は、むずかしい』加藤典洋(岩波新書) この度上記の2冊を立て続けに読みまして、取りあえず筆者が村上春樹の作品をどのように理解していったかが、何とかわかったような気がしました。 いやー、2冊まとめて読みますと、「力作」という感じがひしひしとして、なかなか読みごたえがありました。 そんな力作の濃厚な内容を簡単にまとめることは、到底私の力量の及ぶところではありません。 ただ、私の「すごいなー」と思った感想の説明について、以下に、少しがんばって書いてみたいと思います。 まず筆者にとって、なぜ村上春樹なのかということが、2冊ともの最初の方の文章に書かれてありますが、まとめますと、二つの理由です。 一つ目。村上春樹がその仕事の幅の広さにおいて、今まで日本文学史になかったタイプの小説家だということ。 これについては、なるほど言われる通りだと思いますね。こんなに勤勉に様々な作品を次々発表し続けた作家って(それも長期にわたって)、たぶんいないように思います。(近いのは三島由紀夫くらいかなーとも思いますが、彼は自殺したせいで20年ほどの小説家実働期間であります。) しかし筆者にとってもっと大切な、なぜ村上春樹なのかの理由は、二つ目であります。 『むずかしい』(『村上春樹は、むずかしい』を指す。以下同じく『世界』→『村上春樹の世界』を指す)にこうあります。 日本の文学世界はいまや彼を排除する理由をもたず、彼に手を広げ、彼を迎えいれようとしているのだが、この変化は、必ずしも村上の作品の文学的な力によって、従来の考え方、文学的な価値基準を変えさせられ、新しく日本の文学世界自身が自分を更新した結果、生じてきたものではない。要は、気概を失い、村上作品の人気と商品としての力に、日本の文学世界の全体が拝跪した。 そして、「村上に文学的に対峙しようという姿勢を放棄して久しい」とあります。 なるほど、これはひょっとすると小説家にとって新しい形の「不幸」なのかもしれませんね。 そこで、じゃあ自分が書こうということで、まぁ、筆者は書きだすのですが、その評論のスタイルについては、またこんな風に説明しています。 いまの文芸批評の多くが読み物であることを忌避し、病理解剖的になっていることを反省し、これとは違う、生きた対象としての小説に、いわば市井に生きる町医者として、あるいはクリニックの臨床心理士的に、向き合う批評を置いてみたい。(『世界』) これについても、読んでいると本当にそれっぽく感じます。 なんと言いますか、なんかちょっと「古臭い」感じなんですね。でも、「古臭い」ゆえに、肌のぬくもりを感じるといいますか、そういえば、かつて文芸評論は、そのままその時代の社会批判であったり現代思想であったりしたような時期があったなあ、と思い出させるような書きぶりです。 以下、筆者はその形に則って村上作品文芸批評を描いていきます。 もう少し具体的にその方法論的なものを説明しますと、筆者は、村上春樹の各作品を村上春樹自身の「ビルドゥングス」として捉え、解釈していきます。 それは、作品内のいろんな要素を、少し恣意的かつ乱暴に無視したりつなぎ合わせたりすることでありますが、その結果そこに現れた一本道は、極めて分かりやすい形となって我々の前に提示されます。 箇条書き風に、少々私のバイアスも加えつつ村上春樹の「ビルドゥングス」跡を辿っていくと、こんな感じです。 1.近代の「否定性」の否定期……マキシム的生き方 2.マキシムの否定・デタッチメントの否定 3.コミットメントのために……内閉性の否定 4.新しい内閉性否定の模索……自己再発見の苦悩 (えーっと、上記の用語の説明は、えー、すみません。取りあえずパスということで、重ねてすみません、各自で本書をお読みください。) 大体こんな軌跡を描いて村上春樹は『騎士団長殺し』のあたりにいる、という解釈です。 また、「4」の自己再発見とは、現在の村上自身の苦悩であると筆者は述べますが、一言でいうと、「自分はこれまで無条件で人を好きになったことがなかった」ということで、直近の長編短編小説の様々なシーンにこれが描かれていると筆者は指摘します。 なかなかスリリングな分析部分であります。 そしてその「苦悩=模索」の戦いの「並走者」が、以下の4つに広がっている(デタッチメント時代、村上には一つの「並走者」もなかった)と、さらなる筆者の分析は続きます。 1.恋人 2.子供 3.父親 4.歴史 ……なるほどねー。 このように読んでいきますと、今に至る村上作品の難解さが、見事に霧が晴れるように一気に晴れて、遥か向こうまで見渡せるようですねー。 うーん、これが、古き良き文芸評論の力でありましょうか。 ただあと少し、私に一抹の「予感」として残るのは、さて本当にそんな一本道で村上春樹諸作品が読めるのかな、という「危惧」であります。 まー、それは、これから一冊一冊村上作品を再読再々読せよという、なかなか楽しそうな「証明作業」でありましょうか……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.10.16
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『子猫が読む乱暴者日記』中原昌也(河出書房新社) いえ、この本も図書館でふっと見つけたのですがね。 いえ、この本というのは、冒頭の今回報告する本ではありません。この本です。 『知識ゼロからの近代絵画入門』山田五郎(幻冬舎) 絵画とか音楽も、人並みに好きなもので、そんな本も時々手に取って読みます。 で、この本を読んだのですが、思いの外によくできた、とても分かりやすい本だとわかりました。 19世紀から20世紀初頭の西洋絵画史をまとめてあるのですが、「はじめに」という文章にこんな事が書いてあります。 西洋絵画史で一番面白い100年間。しかもここを理解しておけば、一見、意味不明な現代アートが実は近代美術史の文脈に沿って創られていることもわかってくるという、一粒で二度オイシイ絵画史です。 「一粒で二度オイシイ」というのは、なんか懐かしいフレーズですよねー。 私も何度か使ったことがありますが、そもそも好きな分野の事が書かれてある本が、そうなんですよね。 私で言えば、クラシック音楽のことが書かれている本(音楽学のような専門的なものではなく)を読むことは、まさに音楽に触れている「オイシサ」と読書の「オイシサ」の「一粒で二度オイシイ」であります。 で、私はとても心地よくこの本を読み終えたのですが、さて、どこにどう冒頭の挙げた小説との接点があるかといえば、何となく気の付いた方もいらっしゃると思いますが、20世紀初頭絵画の一流派「ダダイズム」であります。 ちょっとだけ本書(『知識ゼロからの~』)の記述に習いながらおさらいをしておくと、ダダイズムとは、第一次世界大戦後の文明への虚無感が生み出した、既存の芸術の意味や価値を全否定した「芸術」であります。 端的な例として挙げられているのがマルセル・デュシャンの「泉」という「作品」で、これは既製の小便器に架空の作家名と製作年を書いただけのものであります。 この「作品」のことを初めて知った人も、あー、あれの類いのことね、と思い出すものがいっぱいありますよね。 いわゆる現代アートと呼ばれるわけわからない作品群の事です。 私はそんな「作品」を見るたびに、「やったもん勝ち芸術やな」と独り言つのですが、その原点がこんなところにあったんですね。 (私の言った「やったもん勝ち芸術」というのは、本書によると「観念芸術=コンセプチュアル・アート」というのだそうです。モノではなくて、コンセプトが作品という理解ですね。) さて、やっと、冒頭の『子猫が~』の読書報告が始まります。 というかー、ごく素朴に書きますと、あまり始まりたくない、と。 そもそも、小説というのは全く何を書いてもいいジャンルであり、そうである以上、何が書かれてあっても、まー、そうなんだと取りあえず首肯するものであります。 しかし、それこそ小便器に架空の作家名と制作年を書いただけのようなお話を読まされると、(今気づいたのですが、この例えは、例えられるものを褒めた例えなんでしょうか貶した例えなんでしょうか、)なんと言いますか、読み手として、なんか悲しくなってくるんですよね。 いえ、これは全く個人的な私の感情であります。 上記にも触れてますが、そもそもダダイズムとは、人類史上初の大量虐殺戦となった第一次世界大戦がもたらした文明への無力感・虚無感から生まれた、既製の価値を全否定しようという思想であり、それは芸術的な意欲であることは間違いないと思います。 でもねー、でもねー、……。 ……わたくし少し気になったので、ネットのレビューを見てみました。 褒めてあったり貶してあったり、いろんな意見がありましたが、読んでいて悲しくなるというのは、ありませんでした。 私の読みそこないでしょうか。 そこまでネガティブになることはないのでしょうか、ねぇ。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.10.04
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