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『海も暮れきる』吉村昭(講談社文庫) 尾崎放哉といえば、種田山頭火と並んで自由律俳句界の二大スターでありますね。 有名な句がいくつかあります。 わたくし恥ずかしながら、ちょっとだけ俳句が趣味であります。5・7・5の定型句を主にしますが、でも、なんとなく放哉の自由律も、いいなーと思います。 しかし時たま、こんなのどこがいいんだという気もします。 例えば、本書にも出てきますが、こんな句。 火の気のない火鉢を寝床から見て居る とか、 死にもしないで風邪ひいてゐる ……どうですか。こんなの、どうよ、という気がしません? なんか、集団催眠術にかかっているんじゃないのか、という感じ、ありませんか? でも一方で、有名なこんな句なんかは、やっぱりいいような気がしますね。 咳をしても一人 素人ながらわたくし考えるのですが、俳句というのはつまるところ一つの小宇宙ではないかと。 芭蕉の有名な「荒海や佐渡に横たふ天の川」とか、確か丸谷才一がほめていた、久保田万太郎の「湯豆腐や命の果ての薄明かり」なんかには、やはり間違いなく一つの小宇宙があるような気がして、そしてきっとそれは言語芸術というものの中心に近い所に位置していると思います。 「咳をしても一人」も、やはりいいですよね。この句が催眠術とは、やはり言えないでしょう。 ……と、さて、そんな尾崎放哉が主人公の小説であります。 いちおー実在の人物を主人公に書いた小説なので、こういうのは、歴史小説? 伝記小説? どういうのでしょうか。 以前にも何度か書いたことがありますが、司馬遼太郎の書いた坂本龍馬がとても明るいのは、司馬遼太郎がそう書いたからだという説、なるほど少し前に司馬遼太郎が土方歳三を書いたのを読みましたが、土方はまるで芸術家のようでした。 ……えーっと、何が言いたいのか少しわからなくなってきたのですが、上記の司馬=龍馬と同じように考えると、本書の放哉も、筆者吉村昭の狙いに従って作られた人物である、ということですね。では、その狙いは何なのか。 そもそもなぜ放哉なのか。 それは、けっこうヒントありな気がします。 放哉がイヤな奴だからですね。 つまりまー、人格にかなり問題のある人物でありつつ、優れた芸術作品を生み出したからであります。(実はそんな文学者はとっても多いですね。ちらっと思いつくだけでも、太宰治、石川啄木、中原中也、宮沢賢治や上記の久保田万太郎などもそんな感じで、もし隣り同士の家に住んでいても絶対つき合いたくないタイプの人たちですね。) 上記に何人かの文学者を挙げましたが、彼らに比べると放哉はまだましな気がします。 放哉の人格破綻の原因が酒乱だとはっきりしているからです。 酒乱だとなぜましなのか、それも簡単、酒を飲まなければいいからです。 事実本作の終盤、放哉は結核の末期患者となり酒乱にさえなれない、つまり極端な全身衰弱のために内臓が酒を受け付けなくなってしまうからであります。 さて、上記になぜ放哉なのか、それは放哉がイヤな奴だからだと書きましたが、少し別の書き方をすれば、それは、放哉のかなり問題のある人間性と、そこから生み出された感動的な作品との間の遥かな距離をどう埋めるのかに、作品としての狙いはあるのではないかということであります。 終末期の結核患者である放哉と、晩年になるほど研ぎ澄まされて行くと言われる彼の句境の深化との連動を抉ることこそが、本作のテーマとなるはずでありましょう。 と、そう思って、私は終盤に向けてじりじりと読み進んでいきました。 そこには、大正期の、あまりまともな医療機関にかかることのできなかった結核患者の終末期の闘病ぶりが、「死は、想像していたよりもはるかに執拗で、肉体を苛めつくした上で訪れてくるものらしい。」と本書にあるように、読んでいてキリキリと痛くなってくるように描かれていました。 しかし、それが放哉の句にどう影を落としていったのか、……なるほど、そんなことはそう簡単に書けるものではないとは思いますが、なんか、少し弱い感じがしました。 というより、終盤においては、俳句の姿自体が描かれない、少なくとも印象的には描かれていないように思います。 その代わりに書かれているのが、一人の末期結核患者の姿です。 これは何なのでしょうね。 単純に考えれば、書くうちにやや作品としての構成が崩れていったのかもしれません。 しかし、構成が狂ってもぜひとも描きたいのだという気迫の籠ったこの書きぶりの理由を、わたくし、本書の筆者の「あとがき」で知りました。 構成が破綻しようが何としてもこれを書くのだという作家の執念のような意志は、なるほど、創作意欲の核に確かにあるものでありましょう。 (思い起こせば、漱石の長編小説のほとんどが、そんな読み方のできるものではありませんか。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.07.30
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『かか』宇佐見りん(河出書房新社) ……えー、えらいもので、最初の「令和期の作家」であります。 いえ、まー、令和もすでに3年目に入っておりますから、例えばその間に芥川賞なんかを受賞なさった作家は、我が拙ブログのアバウトな(かなりアバウトな)カテゴリでいえば「令和期の作家」となるわけで、実際この筆者も、冒頭の本作の次の小説で、見事芥川賞作家となりました。 本作は筆者20歳の作品で、文芸賞を受賞なさったそうですが、まー、20歳でこれだけ書けるというのは、やはりかなりの飛びぬけた才能なんでしょうなー。 また、デビュー作らしく、いろいろ工夫したかなり気合の入った作品だと思います。 例えば、読み始めて最初に少し戸惑うのは、この独特の文体、というか、筆者の造語の連なりであります。 でもこんな文章は、わたくし、むかーしどこかで読んだような気がしましたよ。 思い出しました。友人の高校の先生に見せてもらった、女子高生の遠足感想文でした。その感想文は、あきれると同時にけっこう面白かったので記憶に残っています。なんか、それにそっくりな感じで、例えば本文のこんな部分。 いきなし妙ちきりんな告白から始まってごめんだけど、うーちゃんは体毛を剃るのが下手です。はじめてかかのカミソリあててみたときなんかは、何もつけずにしたせいで当然のごとく肌を傷つけ赤こい線をつくりました。今ではさすがに泡あわ使うし怪我はしんけど、十九歳になったところでむつかしさはかわらんもんよ。 わたくし考えてみたのですが、方言というのは否定の形が最も特徴的な気がする、と。 上記の引用部分で言うと、「怪我はしんけど」「かわらん」という個所などですが、そんな方言についての研究は、きっと専門家が詳しく分析なさってましょうが、何かそんな気がします。 そして、第三者的に聞く(読む)と、そこが何だか素朴で温かい、と。 (あともう一つ、方言の方言らしいところは文末のバラエティですかね。ここにも方言の粋が詰まっているように思います。) と、まぁ、このような一人称告白文体で最後まで書かれています。 この文体って、読めばわかりますが、私の読んだ単行本は115ページですが、結構みちみちに中身が詰まってます。 でも、まー、ちょっといじわるに言えば、こんなことでは脅かされないぞという私のようなすれっからしの読者がいて、要は必然性と「美しさ」であろう、と。 そんな風に読むと、一読鬼面人を驚かすようなこの文体も、読み進めるほどに驚きも違和感も薄れてきて、やはりちょっと上手だなと思ったりするのは、この文体の奥にある作者のこんな感受性と表現力であります。 かかは、ととの浮気したときんことをなんども繰り返し自分のなかでなぞるうちに深い溝にしてしまい、何を考えていてもそこにたどり着くようになっていました。おそらく誰にもあるでしょう、つけられた傷を何度も自分でなぞることでより深く傷つけてしまい、自分ではもうどうにものがれ難い溝をつくってしまうということが、そいしてその溝に針を落としてひきずりだされる一つの音楽を繰り返し聴いては自分のために泣いているということが。 少々たどたどしくも縁語がらみでイメージをつないでいくさまが、なんとなくわたくし、がんばっているなという気がします。 と、そんな文章については「力作」っぽいのですが、さて、全体としての作品の完成度はどんなものなんでしょうか。 わたくしが勝手に思いますに、やはり、終盤のクライマックスあたりが少し「弱い」のではないか、と。 冒頭しばらく読み進んだところにこんな一文があります。 みっくん、うーちゃんはね、かかを産みたかった。かかをにんしんしたかったんよ。 本作は結局のところ、この一文の説得力という所にテーマがあるように思うのですが、それが、少し弱くないでしょうか、と。 ラストシーンに向けての終盤に、それが集中的に書かれているようですが、まずここが、少し痩せた感じになっている、と。かなり説明っぽい、と。 そして、ラストシーン、ここも、……うーん、どうなんでしょうか。 ちょっと、あっけにとられたのは私の読みそこないでしょうか、ねー。 でも、次作で芥川賞ですから。 そういえば、昔、芥川賞受賞作で一気に出来の良くなった女性作家を読んだことがありましたよ。 樋口一葉なんて人も、「奇跡の一年」みたいな言われ方で、ある年に一気に恐ろしく上手になった方でありましたものね。(念のために少しウィキで調べてみましたら、「奇跡の14ヶ月」というのが正しいそうです。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.07.18
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『明るい夜』黒川創(文芸春秋) この作者も初めて読みました。 そもそも私には、新しい作家を次々に開拓していくという積極性が全くありません。 文芸雑誌というものについては、ほぼ完璧に手を出したことがありません。 要は、小心者なんだと思います。 先日沢木耕太郎の有名な『深夜特急』をパラパラと読んでました。 『深夜特急』というのは、若き日の沢木耕太郎が、香港からイギリスまで主に乗り合いバスで旅した記録であります。 そこに、初めて韓国に行った時の事が書かれてありました。飛行機が朝鮮半島の上空にさしかかった時、「この地から、西に向かってどこまでも歩いて行けばヨーロッパに達することができるのだ」と、思った瞬間の感動を書いていました。 こういう、興味のない人にとっては、何当たり前のことに感動してんねんというようなことを熱く語れる人は、本当に旅が好きなんだなと思いますね。 新しいものが見たくて知りたくて仕方がないという思いが伝わってきます。 で、次に私は感じるんですね。私とは全然タイプが違うと。 では、お前はどういうタイプなのかと聞かれますと、これもかつての読書に私と似たタイプを発見しております。 それは漱石の「猫」の苦沙弥先生であります。 いえ、苦沙弥先生のモデルは漱石自身ですが、私が漱石に似ているなどと言うのでは、もちろんありません。下記のように書かれている苦沙弥先生の性格なら、私によく似ていると思うだけです。こんな風に書かれています。 彼は性の悪い牡蠣の如く書斎に吸いついて、嘗て外界に向かって口を開いた事がない。(「猫」の第二章) というわけで、私が初めての作家を読む時は、大抵どなたかが勧めて薦めてくれた小説でありまして、この度も、私の読書のお師匠さんのような方が勧めてくれました。 何でもこの作家は評論なんかも書いていて、その出来がなかなかよろしい、と。 なるほど、小説と評論の両方を書く方って、たまにいらっしゃいますよね。 でもわたくしは、ちょっと意地悪にも、しかしそういう方って、両方が同じ程度にすごいって方は、まー、あまり見ないような気もするが、もぞもぞ……、と思ってしまいました。 と、そんな先入観じみたものを持って読み始めました。 悪くなかったですね。主人公が20代半ばの女性で、割と透明感のある書きぶりでした。 お話に大きなエピソードがあるわけではありません。京都に一人暮らししている彼女の、アルバイト先での話とか彼氏との会話とか友人との話などが、ずるずると描かれて行きます。 後半もう少し大きなエピソードもないではないですが、まー、総じて淡々と、という感じであります。 では、我々はこの女性の話に何を読み取るのか、ちらちらっと出てくる描写や説明の中で、私はこんなところがふと気になりました。 ≪僕は……≫なり、≪工藤が……≫なり。要するに、彼は、そうやって語りはじめられることになる最初の一行、そこに踏ん切りをつけかねて、こうやって世界をただ眺めているのかもわからない。 「……なんか、わたし、いやなんだよ。そこまでやることないように思えて。それだけの自信、まだないっていうのもあるし」 なんかさ、自分の、母親のそういうナマっぽさっていうか、へんに女っぽいところ、そのまま受け継いじゃってる気がしてきて。気持ち悪いんだよ。 どうですか。最初の引用は、小説を書きたいと仕事を辞めた主人公の彼が、小説が書けないでいる場面。 二つ目は、大学を卒業しても定職につかずアルバイトに明け暮れる主人公が、それを問われたときのセリフ。 三つめもその続きみたいな場面です。 わたくし、思うんですがね、ここに描かれている若者たちの心にあるのは、未来に向かうことへの戸惑いというよりも、むしろ自分の肉体に対する違和感めいたものではないか、と。 ちょうど作品なかばで、主人公の友人の女性(イズミさん)について、主人公の彼氏が、「イズミさんって本当にいるの?」と尋ねる場面がありますが、そんな存在と非存在の並立、バーチャルとリアルの混乱の中で、自分の存在をバーチャルに近い方に位置取り、現実の肉体感覚を嫌悪するような、そんな世代が描かれようとしているのではないかと感じました。 これは、新しいのかな、とも思います。 しかし、たとえそんな一種の典型が描かれているとしても、なんといいますか、そこにびっくりやあこがれや、そんないわば「そわそわ」感が、どうも、私には感じられませんでした。 いえ、これは私の不徳の致すところなのかも知れません。 こんな時、今までわたくしが「逃げ」を打っていた科白で言うならば、残念ながら、あまりご縁がなかった、というところで、ひとつ……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.07.04
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