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『文学国語入門』大塚英志(星海社新書) 図書館で借りました。 風のうわさに聞く「悪名高い国語新指導要領」(本書にそう書いてあります)ということで、図書館でちょっと手に取り、そのまま借りて家で読みました。 まずなぜ「悪名高い」かをざっと説明します。 高校国語科の授業内容が2022年から大幅に改定となり、今までの「現代文」が「論理国語」と「文学国語」の二つの科目に分かれます。 「論理国語」では、どうも誰も読まない行政文書や契約書や「取り説」の類の文章の読み方を教えるのではないか、と。(考えただけでつまらんですなー。) そして「文学国語」に、文学系の文章をすべてまとめて押し込んでしまう、と。 で本当にヤバいのは、全体の授業時間数の関係で、「文学国語」は、科目としてあっても例えば進学校なんかは選択しない(できない)だろうということであります。 別に進学校が選択しなくってもいいように思いますが、進学校が選択しないということは、受験には不要だと考えられる科目なわけで、それは一気に全国的に、別に進学校でもあるまいにという高校まで右へ倣えしてしまい、その結果国語の授業から文学教材が消えてしまう(なくなってはいないが誰も学ばない、そもそも学校が選択科目として立てない)ことになってしまう、と。 これは、やはりまずくないですかね。 元文学少年の私としては、ひじょーーに寂しい。 でも、そんなのなくなっても構わない、むしろすっきりする、と考える人もいるんでしょうね。 これは別の本で読みましたが、イギリスなんかでも、かつて詩の暗誦を授業に多く取り入れていたのが、最近はそんな文学教材にかける時間がどんどん減っているということでした。(やはり寂しい。) ところが、……えー、実は、今回の本書は、そんな話題はほとんど入っていません。(えー、なんのこっちゃ。) もちろんそれは重要なテーマではありますが、本書の内容を、そのあたりと絡めてわたくしなりに説明いたしますと、こういうことです(たぶん)。 がんばって授業に「文学国語」の科目を立てたならば、こんなに充実した学習ができますよ、という紹介。 あれこれ文句をつけず、そう割り切って読みますと、これは結構興味深い内容でした。 以下に、ざっと私が理解した内容を紹介してみますね。(いつものことながら、私のユルい頭で理解した範囲ということで、えー、すみません。) まず筆者は、「文学国語」学習の究極の狙いを「主権者教育」と置きます。(それはまー、他の教科でも多かれ少なかれ同じではありますが。) そしてそのために、「他者」「社会」と関わるツールを学ぶことが必要だ、と。 次に教材の集成である近代文学史について、筆者はざっくり、近代になって突然注目を集めるようになった「自我=私」の肯定と暴走、そしてその制御または阻止の繰り返しを描いた歴史であるとまとめます。(たぶん。でもこの辺が、近代的自我の目覚めから始まって結構目新しく面白い所です。) なるほど、そうまとめられれば、確かにそんな気がしますね。 そして肯定・暴走と制御・阻止とを、少しずつパワーアップしながら繰り返す歴史の中で、文学は徐々に「私」を客観視する目を養ってきた、と。 文学教材を学ぶ意味の一つは、まずそこにあります。 それを踏まえて次に筆者は、この「文学国語」が本当の狙いとしているのは「私」の暴走の制御・阻止にある、と説きます。 なぜ、今、暴走の制御・阻止なのか。 それは、日本の歴史上現代ほど「私」が暴走している時代はないからでありましょう。今あれこれと問題になっているネット上の言論空間を思い浮かべても、確かに納得がいきます。 つまり、成熟した「主権者」として「他者」と「社会」と関わり合うには、「私」の暴走と制御・阻止を伝統とする「近代文学」(特に現代文学)を学ぶのがふさわしい、と。 本書の後書きですが、こんな文章があります。 それは「他者とともに社会をどうつくっていくのか」という問いが今、この国だけでなく世界で改めて問われているからです。いや、「改めて」なんてしらばっくれるのは止めましょう。その問いをずっと先送りにしてきた結果が「今」なのです。愛国心や「日本人」を説く一方で、外国や異文化にあまりに不寛容で、絆と言いつつ弱者に冷たく、多様性と言いつつヘイトが横行し、民主主義を嘲笑うことが「正義」の顔さえする状況があります。SNS、つまりソーシャルと称するツールはあっても「社会」は不在です。 その時「他者と生きるための社会」をつくる手立てとして「文学を学ぶ」というのは、考えられるオプションの一つです。 ……、どうですか。たぶんこんな内容の本でした。(重ねて、たぶん。) ただ、それにしても、私としましては、二つ気になるところが残ります。 一つは、そんな重要な手立てである「文学国語」が、冒頭でも触れたように実際には教育現場で学ばれにくい状況になろうことに対する言及の少なさであります。 でもこれは本書については、木に縁って魚を求める類いの不満でしょうか。 もう一つは、上記のテーマに沿って具体的に文学史上の作品を分析するにあたり、少し荒っぽく強引な立論が見られると感じることです。 「そー読むかー?」と感じてしまう部分が、わたくしとしましては何か所かありました。……うーむ。 本書は、文学評論とは異なるかとも思いますが、新しい切り口からの近代文学史とも興味深く読めそうでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.02.19
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『一人称単数』村上春樹(文芸春秋) ……えー、前回の続きであります。 村上春樹の最新短編集を読みながら、わたくしはわたくし的「新発見」をしたと、前回最後にハッタリをかましてしまいました。 えー、先にお詫びしておきます。ごめんなさい。 そんな大したものではありません。 でも、まー、わたくし的には、「なーるほど」と、かなり納得のいく了解だったもので、まぁ、そんなつもりで以下、お読みください。 それは、こんな部分の話です。 例えば「ウィズ・ザ・ビートルズ」に出てくる「彼女の兄」(なんとも素晴らしい造形で描かれていますが)のこのセリフ。 「月の裏側まで行って、手ぶらで帰ってくるようなものや」 私もこの関西弁のセリフをクスッと笑いながら読んだのですが、その後、こんな箇所を見つけ、そして、はっと思いついたのでありました。 こんな箇所とは、こんな部分です。 遅かれ早かれ彼女とは別れることになっただろうと思う。とはいえ、彼女と一緒に過ごした何年かを懐かしく思い出すことができる。彼女は僕にとっての最初のガールフレンドであり、僕は彼女のことが好きだった。女性の身体がどんな風になっているか、それを(おおむね)教えてくれたのも彼女だった。僕らは二人で一緒にいろんな新しい体験をした。おそらく十代のときにしか手にすることのできない素晴らしい時間を共有もした。 多分どの部分か、お分かりになると思いますが、「女性の身体がどんな風になっているか、それを(おおむね)教えてくれたのも彼女だった。」の部分ですよね。 実際、この部分って、なくてもいいと思いませんか。 ちょっと、外してみますね。 遅かれ早かれ彼女とは別れることになっただろうと思う。とはいえ、彼女と一緒に過ごした何年かを懐かしく思い出すことができる。彼女は僕にとっての最初のガールフレンドであり、僕は彼女のことが好きだった。僕らは二人で一緒にいろんな新しい体験をした。おそらく十代のときにしか手にすることのできない素晴らしい時間を共有もした。 ね。これでもう、しっとりとしたいい思い出の文章じゃないですか。十代の性的な興味についても、後半の記述の範囲で十分仄めかせてありますし。 また、「品川猿の告白」のこんな部分だってそうです。「はい。子供がおられなかったので、そのかわりにといいますか、暇を見ては私をみっちり教育されたのです。きわめて我慢強く、規則性をどこまでも重んじる方でした。真面目な性格で、正確な事実の反復こそが真の叡智への道だというのが先生の日頃の口癖でした。奥様は無口ですが、とても優しい方でして、私にはそれは良くしてくださいました。仲の良いご夫婦でして、こんなことをよそさまに申し上げるのはなんですが、夜の営みはかなり激しかったです」「ほう」と僕は言った。 ここも、猿の最後のセリフはなくてもいいですよねー。(ただ、ひとつ上の引用部に比べたら、ここ記述はもう少し小説のいろんな部分と絡み合っているような気もしますが。) ともあれ、村上春樹はこんなふうに書くんですね。 そして、アンチ・ハルキストから、ミソジニストなんて言われたりして、気持ち悪がられたり、憎まれたりしちゃうわけです。 でも今回私は、上に書いた「ウィズ・ザ~」の「彼女の兄」のセリフなんかとセットで読んでいて、(ひょっとしたら世間では「今更」なのかもしれませんが、)はっと気がついたんですね。 あ、村上春樹は、「関西のしょうもないこと言い人種なんや」と。 これは最近の村上作品に、かつては一切出てこなかった関西弁が時々顔を出すようになったことと関係しているのかもしれませんが、「月の裏側~」の減らず口は、間違いなく関西テイストです。 冗談としての比喩の在り方に、意味を飛ばした過激さがあり、それは関西テイストであろう、と。 以前私は、本ブログで町田康の作品の読書報告をした時に、「さ、家帰ってへぇこいて寝よ」という下品な一文(関西では広く伝播している一文)のことを書きましたが、「しょうもないこと言い人種」は、こんな下品なわざわざ言う必要など全くないことを、つい、言ってしまうんですね。 我が意に反して、本当に、気がつけばすでに舌が滑っているんです。 まるで吸った息を吐くように、何の意味もない下品な表現を、無意識に口から吐き出してしまいます。(これはひょっとしたら、遠く井原西鶴あたりの呪縛かも知れません。難儀な話やなー。) かつて村上春樹は、なぜ作品に過激な暴力やセックスを書くかについて、読者に揺さぶりをかけるためということを書いていました。 それはその通りなのかなとは思います。(本短編集の「石のまくらに」の彼女の、「いっちゃうときに、ひょっとしたら」うんぬんの設定などは、それに近いように思います。) そうなのかなとは思いつつも、ひょっとしたらもう少し「軽い」次元で、村上春樹は、(あるいは村上春樹といえども、)「関西しょうもないこと言い人種」のDNAの命令に逆らえず、つい、つるりと書いてしまったのではないのか、いや、きっと、そうに違いないと、私は、この実にしっとりとしたいい短編集を読みながら、ごく関西人的に考えていたのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.02.04
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