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『「一九〇五年」の彼ら』関川夏央(NHK出版新書) アマゾンあたりでこの筆者の作品をなんとなく探していると、この筆者にはけっこうたくさんファンがいることに気がつきます。 いろんなことに疎い私は、なるほどなあと初めて気がつくのですが、考えてみれば、次々に出た本を追っかけて読むというほどではないものの、例えば図書館で見つけたりすると、少なくとも手に取ってみるくらいの、まー、やはり、考えてみれば私もファンのひとりなのかもしれません。 どんなところがいいのかなーと、ちょっと考えてみましたが、過去に何冊か我が拙ブログで書いた読書報告に、こんな風にまとめていました。 「筆者の評論文の魅力は、切れ味の鋭いシニカルな水際だった文章の中に混じる、こんな甘甘の部分にあるのじゃないかと私は思っています。」 なるほど。 鋭い批判力と適度な感傷性、といったところでしょうか。 ……と、いうかー、この度の読書報告も、これで結論付いてしまいそうなのですがー。 例えば、島崎藤村について書いたこんな部分。 藤村のこのような性格や生きかたが、「新生」事件の顛末とともに、押しつけがましさや気味悪さの印象を人に持たせたのである。 芥川龍之介はさらに一歩踏みこんで、藤村を「老獪な偽善者」と呼び、花田清輝は「犯罪者」と断罪した。それは、「自分のようなものでも、どうかして生きたい」という藤村の「告白」にあらわれている、生存への過剰な意欲からもたらされる気味悪さ、やりきれなさだといえた。 どうですか。特に最後のほうの「生存への過剰な意欲からもたらされる気味悪さ、やりきれなさ」という分析は、なるほど、水際だった鋭さがあると、私なんかは感心してしまうのであります。 こんな個所を挙げていくときりがないのですが、もう一つだけ短く抜き出してみますね。 これは、平塚らいてうを扱った章で、らいてうの有名な「原始、女性は実に太陽であった。」に触れた後の部分です。 この「青鞜」創刊の辞は、彼女のもっともよく知られた文章だが、生涯彼女はこの一文から自由になれなかったともいえる。一九一四年(大正三)、二十八歳のとき「青鞜」の発行権を若い伊藤野枝にゆずって身を引いたが、酷ないいかたをするなら、八十五歳までつづく平塚明子のその後の人生は、長い長い晩年であった。 「酷ないいかた」と文中にありますが、全く酷で、真実はしばしば人を傷つける見本のような文章です。 実はその「酷」さは、このらいてうの章の最後の一文にもそのままつながっています。短くこの一文。 平塚らいてうは「新しい女」としてではなく、偉大な婦人運動家としてでもなく、漱石の作品に光彩を与えるヒロインの原像として歴史に残った。 ……うーん、最後まで「酷」ですなー。参考までにモデルとなった漱石作品のヒロインとは、有名な話ですが『三四郎』の里見美禰子のことですね。 というあたりが、まず水際だった鋭さだと私が感じる部分ですが、もう一方の適度な感傷性、これは要するに、描写について、見てきたような嘘をついているということでありますね。(そういえば、この筆者の本に『やむにやまれず』というタイトルのものがありました。筆者自身の解説に、このタイトルの後には「嘘をつく」がつながるとありました。) それは例えばこんな部分です。 旧中山道を北へ向かって歩く。本郷区は小石川区にかわり、右手に岩崎別邸が見えるあたりで東京は終る。雉子が、けえん、けえんと鳴く。草葺屋根の農家がぽつりぽつりと見える。肥え桶をのせた荷車が行き交う板橋街道にそれると、すぐにとげぬき地蔵がある。その先の左側、こんもりとした森のなかに明治女学校はあった。 これは野上弥生子を扱った章の一部分ですが、オノマトペを多用して、見てきたような小説的描写を行っています。最後に「森」の語が見えますが、野上弥生子が百歳目前で亡くなる直前まで執筆していた小説『森』の舞台が、この明治女学校なんですね。 このあたりの文章の展開は、極めてドラマ性が高く、それは読者の感傷を撫であげるかのようであります。 と、批判性と感傷性で、今回の読書報告もほぼ結論付くのですが、さて、筆者はこんな書き方をどこで学んできたのでしょうか。 それを、各章の共通したフォームから、わたくし、あ、あれかと思ったのでありました。 各章の共通したフォームとは、12人の文学者を取り上げながら、各章は二つこれも共通した小見出しのまとまりに分かれています。この二つです。 「一九〇五年、○○歳の彼(彼女)」 「××××年、○○歳の彼(彼女)」(「××××」はその文学者の没年) まず「一九〇五年」がなぜ取り上げられているかは、本文に再三に書かれています。一言で言うと、明治維新以降の日本が「国民国家」として「完成」したピークの年であるという説明ですが、このピークは、その後一瞬で終わるそうです。 わたくし、思うに、12人もの人物、それも極めて個性的な文学者を、それが国家の歴史的ターニングポイントであるとはいえ、ただ一時点で貫いてしまうというのは、やはりかなり無理があると思います。 ただ、なぜ「一九〇五年」が挙がるのかと云えば、それはやはり司馬遼太郎の影響ではないでしょうか。 そしてもう一つ、文学者の晩年、それも臨終前後を特に取り上げるというのは、これは山田風太郎でしょう。 そう気がついて少し調べましたら、本書は2012年に出版されており、そして山田風太郎の衣鉢を継ぐ関川夏央の現在の大きな仕事である『人間晩年図巻』の第一巻は、2016年出版となっています。 なるほど、司馬遼太郎と山田風太郎の「文体模写」(文体模写は言い過ぎですかね)ですか。 もちろん、それができる独自の強力な文章力が筆者にあるとはいえ、ちょっと、それって、いいとこ取り過ぎませんかねー。(失礼。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.11.27
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『末裔』絲山秋子(新潮文庫) 確かかなり昔に、私はこの作家の本を一冊だけ読みました。 と、思って探っていると、なんだ、我が拙ブログにも報告があるではありませんか。 実はその時の読後感をほぼ覚えていないんですね。で、どんなことを書いていたかと読んでみますと、我が文章ながらというか、我が文章らしくというか、実に内容のない文章であきれました。(困ったもんだ。) よーするに、ざっくり言えば、私としてはあまり読んだ作品に感心しなかったんですね。(もちろん言うまでもなく、これは極く個人的な感想であります。) でも考えてみれば、こんなことは多分よくあることでありましょう。 というのは、実は、今回冒頭の長編小説を読んで、私はかなりこの作家を信頼できる方じゃないかなと思ったのであります。 信頼できる方というのは、私としては、現代の文学的課題に対して真摯に取り組んでいる方じゃないかということであります。 では「現代の文学的課題」とは何か、と正面から問い詰められると、私としては少し困るのですが、私のアバウトな頭でぼんやり思っている一つのことを述べますと、「近代的リアリズム」のことであります。 これは別に私のオリジナルではありませんが、よーするに日本では多分明治時代以降追求されてきたであろう、小説の伝統的なリアリズム描写手法がそろそろ終焉を迎えているのではないかということであります。 だから最先端の小説家は、例えば村上春樹は、作品の伏線をちっとも回収せず、その上唐突に「騎士団長」を登場させたり、カズオ・イシグロは、あえて展開上重要な挿話を書かなかったり、語り手がそもそも信頼できない視点であることを暴露しながら物語を進めたりしていると、私は思ったりします。 そう思って本書を読んでいくと、作品冒頭で、いきなり主人公の自宅の玄関のドアの鍵穴がなくなったりしています。(ドアの鍵じゃなくてドアの鍵穴が消えちゃうんですね。)そしてその後ホテルが消えたり、人が消えたり、また犬がしゃべったり、と。 それでは、それは例えば安部公房が書いていたようなシュールリアリズムなのかと考えれば、それもどうも違うような気がします。(むしろ、筒井康隆のある時期の息苦しい小説に近いような気がします。) 本作の方が、なんと言いますか、「不思議」が身近なんですね。 うーん、これは一体、私たちをどこへ連れて行ってくれる作品なのだろうかという、少しのイライラ感と、そしてやはり期待感を抱かせてくれる展開であります。 と思って読んでいると、わたくし、ふっと浮かぶものがありました。 作品の舞台は鎌倉ではありませんか。 私は関西人なので、鎌倉と言っても1、2回観光で行った程度しか知りませんが、例えば西岸良平の『鎌倉ものがたり』なんて不思議な漫画がありました。(映画化もされましたね。) 先日ぼーっとNHKを見ていたら、「不思議の町・鎌倉」みたいな番組をやっていました。 日常生活の中に怪しいものが普通に紛れこんでいて、そんな中に住み慣れていくと、リアルのほうがおかしく面白くなく、記憶は曖昧が正しく、そして、怪しいもののほうにのみ共感できる、そんな生き方の世界が広がっていくような気がします。 そもそもタイトルの「末裔」というのは、時代が経つほどに様々なものが衰退し矮小化していくと言うことでありましょう。 ただそれを、価値判断して昔はよかったとノスタルジックに捉えるのではなく、その前の段階として、とにかく描いてみる。 私は本書の展開(筆者が連れて行ってくれる世界)を、そのようなものと読んでみました。私にとって最も共感できる読み方でありました。 ただ、終盤、主人公が長野県の佐久市に言ってからの展開は、私としては今ひとつ納得できませんでした。(私としては、「シュール」のイメージが軽薄な感じがしました。) 私は上記に、近代的リアリズム描写が終わりかけているその先の展開と書きましたが、それはいわゆる因果関係から離陸した世界を描くということであります。 そして、その世界で物語を進めていくというのは、全く頼りとするものがない(少なくとも既存のものは皆無の)独自の説得力を追求すると言うことで、それは大いに困難な作業ではないかと思います。 いえ、だからこそ私は本書の作家を、ポスト近代的リアリズムを正面から模索している意欲的な作家ではないかと大いに思ったのであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.11.13
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