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『彼岸過迄』夏目漱石(岩波書店) わたくし、本小説を2017年発行の新しい岩波の漱石全集で読みました。第七巻一冊がまるまる本小説であります。図書館で借りました。 以前、同漱石全集で『三四郎』を読んだら、新しく書かれた巻末の注解がとってもおもしろかったんですね。そこで、今回も同じ柳の下をねらったのですが、今回はさほどびっくりするほどおもしろい注解はありませんでした。しかし、今回は月報におもしろいことが書かれていました。 書いたのは柴崎友香という小説家で(寡聞にして私はこの方の小説を読んだことがありません)、この小説はヘンな小説だと書いてありました。そしてその理由が二つ。 一つは、タイトルもヘンだし(このタイトルのヘンさは、私も拙ブログで取り上げたことがあります。世の中には大概いろんなタイトルがありますが、これだけ徹底的に「業務メモ」に徹した小説のタイトルは、わたくし他に存じません)、小説としての「禁じ手」がある、と柴崎氏は書きます。 それは最後の章の「結末」で、最後に自分の小説をレポートのように説明してしまうなど、「小説として普通はやってはいけないことをやってる」と書いてます。 なるほど、そうなんですか。知りませんでした。 二つ目は、本小説が「計画通りに書き上げられたとは言い難い」とされています。 確かに、本書の先行研究にもありますが、作品内の時制は、本書の終盤の「松本の話」の後に作品の冒頭の時間に戻る形になっています。 ところが、その時間にいる須永の人柄は「退嬰主義」と書かれてあり、「松本の話」のエンディングに書かれた須永の手紙から伺われる彼の人柄のトーンと、どうも整合性を持ちません。 漱石、よく考えずに書き出した? と思わざるを得ない部分であります。 という風に柴崎氏が指摘するように、本小説は確かにどこか何かヘンな小説です。 終わりから三つ目の「須永の話」がもっともクライマックスであり、そして、そこは異様な緊張感があふれていますが、その回もぷつっと終わってしまい、その次の回はいきなり「松本の話1」になっています。 本書を朝日新聞で毎日読んでいた明治時代の読者は、かなり戸惑ったんじゃないでしょうかね。 「あれ、私は1回か2回分、読み忘れたっけ」などと思って古新聞をめくり直したと思いますよ。(それも漱石のテクニックだとしたら、うーん、漱石、策士ですねー。) そしてそのクライマックスの須永と千代子の二人の「口論」についても、最終回の一つ前(第34回です)で、いきなりこういう形で口火が切られます。 「あなた夫程高木さんの事が気になるの」 彼女は斯う云つて、僕が両手で耳を抑へたい位な高笑ひをした。僕は其時鋭どい侮辱を感じた。けれども咄嗟の場合何といふ返事も出し得なかつた。 「貴方は卑怯だ」と彼女が次に云つた。此突然な形容詞にも僕は全く驚かされた。 この千代子の高笑いは、しかし、いかにも唐突感があります。 なぜこんな高笑いが出てくるほどに急に彼女の気持ちが煮詰まったのかについて、私は今回読んでいてふと、少し前に読んだ漱石の『こころ』の、Kが突然お嬢さんへの切ない恋心を「私」に告白するシーンを思い出しました。あの場面のKの心理も、よく考えれば分かるようで分かりにくいものであります。 また、その二人の「口論」が異様に盛り上がったままぷつりと切れて次の「松本の話」の章に入った後、二人の関係はこのように描かれています。 彼等は夫婦になると、不幸を醸す目的で夫婦になつたと同様の結果に陥いるし、又夫婦にならないと不幸を続ける精神で夫婦にならないのと択ぶ所のない不満足を感ずるのである。 そして、そんな千代子との関係を持たざるを得ない運命的な須永の顔つきを、こう書いています。 僕は彼の此顔を見ると、決して話を先へ進める気になれないのである。畏怖といふと仰山すぎるし、同情といふと丸で憐れつぽく聞こえるし、此顔から受ける僕の心持は、何と云つて可いか殆んど分らないが、永久に相手を諦めて仕舞はなければならない絶望に、ある凄味と優し味を付け加へた特殊の表情であつた。 どうですか。この二つの表現は言おうとしているものの実体がちょっとわかりにくくないですか。私なんかは、これは無理筋じゃないのかなどと思ってしまったりします。 で、私の連想はここで又ふっと飛んでいくのであります。 こういう無理筋描写は、村上春樹の小説にもよく見られるのではないか、と。 正確な引用ではなく申し訳ないのですが、例えば「100%の女性」みたいな書き方を村上氏はよくなさいませんかね。 あれも、実体の分かるようで分からない表現ではないですかね。 でも、村上春樹の小説の魅力の一つにそんな描写があると、私などは思っています。それは、多分、論理ではない小説的なとしかいいようのない表現でしょう。 漱石のこんな表現もまた、読んでいて心に後を引くように思います。時をおいて、ふっともう一度読み返したくなるような。 さて、冒頭に紹介しました柴崎友香氏は、本小説は漱石作品の中で『草枕』と並んでもっとも好きな小説だと書いています。 その理由として挙げている一つは、本小説の「肩すかし感」である、と。 これも、とても共感できる分析でありますね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.10.25
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『ミチクサ先生・上下』伊集院静(講談社) 図書館で借りたのですが、図書館ではずいぶんの数の予約が入っていました。かなり待ちました。 そのとき知ったのですが、予約の数なんですが、えらいもので、上巻の方がかなり多いんですね。いえ、当たり前ですかね。別にえらいものでもないのかな。 上巻だけ借りて、まず読んでからその後下巻を借りるのですかね。 まー、とても理性的な図書館利用法ではありますね。あるいは、ちょっと遠慮がちのお方がけっこういらっしゃる、と。よき公民なのでしょうね。 私なんか厚かましい人間なもので、上下巻一気に予約しますがー。(今回もしました。) さて閑話休題、この筆者の小説はわたくし、以前『ノボさん』という、本小説でも極めて重要な登場人物である正岡子規を書いたものを読みました。今となってはほとんど内容は忘れていますが、途中あたりからかなり面白く読みすすめた記憶があります。 途中あたりからというのは、『ノボさん』に漱石が登場してきてからですね。 明るい子規と暗い漱石というコントラストが、とっても鮮やかで面白かったんですねー。 この度の小説は、その二人の立場が逆になったお話ですが、今回は途中から子規が出てきてもどうこうという感じは受けませんでした。 というより、ずーっと、一貫して、なんと言いますかー、ちょっと「タルイ」感じで最後まで行っちゃったんですね。 なにせ『ノボさん』よりかなり長い上下巻のお話ですから。 また、この度の小説は日経新聞朝刊連載と言うことで(『ノボさん』の初出誌は失念しましたが)、なるほどこんなものなのかな、と、ちょっとまたバイアスの掛かったことを考えました。 というのは、まず文章がかなり「ユルい」こと。次に同じエピソードが何度も出てくることなど、よーするに私の偏見で、普段あまり日本文学に興味のない方々を対象読者に書かれた小説かなー、と考えたわけです。すみません。 と、まあ、そんな感じで少しだらだらと読んでいたのですが、さらに読み進めて、……んーー、そういうことってどうなんかなー、と感じたことがありました。 それは一言でまとめて言えば、史実に基づくつもりはない小説、とでもいうことですかね。 あれこれありそうですが典型的なのは、「鏡子悪妻説」についてのエピソードが、ほぼ書かれていないことです。 基本、二人ずっとラブラブ。(そういえば確か『吾輩は猫である』に、この夫婦はひょっとしたらラブラブじゃないのかと思わせるところがあったような気がしますが。) もっとも、「鏡子悪妻説」についても、それは正しい理解ではないという説があるようです。(漱石死後近くの、初期の漱石研究の時代に、古株の漱石の弟子たちが書いたそれこそ「偏見」にあふれた説である等。) しかし、漱石の子供たちの回想記などにも、やはり少なからず描かれている漱石家の「家庭内のトラブル」について、本小説にほぼ触れられていないというのは、実のところかなり展開に無理を生んでいるように思います。 では、そんな無理を犯してまで、その代わりに筆者が書きたかったことは何なのか。 これはなかなか難しい問いですが、私が興味深かったのは、作品の中盤あたりで(本書は、一応漱石の誕生から亡くなるまでを描いていますので、中盤あたりというのは、漱石がいやいや教師をしていた頃や、ロンドンでうんざりする日々を送っていた頃となります)、ちらちらと何度か出てきたとまどう漱石の姿・たたずむ漱石の姿であります。 例えば、漱石の初恋の相手という説のある「眼科医患者の女性」について、後年「あの人は今、どこで何をしているのだろう」と呟く場面や、生まれたばかりの筆子を抱いて「人は生きている限り、何かを探し求めるものだ」と考える場面や、また友人への手紙の中で、「しかし私はいったい何をすればいいのかね」と綴る場面に現れているように思います。 それは、漱石の生涯を俯瞰すれば、この時期とは、小説を書く直前の尋常ではない小説の才能が大噴火する間際の、エネルギーの固まりが出口を求めて膨れあがっているような時ですから、そこから出るオーラのようなものは、その持ち主である漱石をも巻き込んで、得体知れずも魅力的なものであるということでしようか。 しかし、描かれたその頃の漱石の心のありようには、読んでいてとても「青春的」で期待感が高く、懐かしいようなすがすがしい「文学性」といってもいいようなもの発露が感じられました。 それに比べると、終盤近くの職業小説家になった後の漱石の姿には、作者自身が同病相哀れむと感じているようなニュアンスがしみ出していて、それはもちろん悪化していく漱石の体調を描くゆえもありましょうが、そこに至るまでのさわやかさははるか後景に控えてしまった感がありました。 さて、そんな読書感を私は持ちました。 ただ、やはり読後もしばらく気になったのは、上記にも触れました、「史実に基づくつもりはない小説」という部分です。 本来小説とは何を書いてもいいものであります。 それは一応わたくしも心得ております。 ただ、歴史上の人物をモデルとして特定しつつ、でも歴史的事実に基づかず何を書いてもいいというのは、はて、どうなのでしょうか。(もちろんここには、事実とは何かという問題もありますわね。) 実は今私は、少々ピントはずれかもしれないことを頭に浮かべているのですが、それは例えば水戸光圀であります。(大岡越前でもいいですが。) どちらも実存なさった方であり、なおかつ、光圀なら全国漫遊ですか。(光圀の全国漫遊は、全く史実にはないそうです。) ……うーん、漱石と越前・光圀は、もはや小説においては同じ扱いであって、……うーん、いいのかなー。……よくわかりませぬー。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.10.10
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