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『しょっぱいドライブ』大道珠貴(文春文庫) 実は我が家の本棚の隅っこに隠れていた(隠れていたってことは、ないでしょうが)文庫本でありました。 手に取ってホコリを拭いて見てみますと、薄っぺらいし、さくっと一気に読んでみました。 で、読んだ後、なんとなく似た雰囲気の小説(本作もそうですが、芥川賞受賞の女性作家の小説)が浮かんだので、少し調べてみました。 本作(この文庫には3つの小説が収録されていますが、総タイトルとなった小説が芥川賞受賞作品です)は、2002年に芥川賞を受賞しています。 私が、よく似た雰囲気と思ったのは、津村記久子(2008年受賞)とか、本谷有希子(2015年受賞)とか、村田沙耶香(2016年受賞)なんですが、比べてみると大道珠貴が10年ほど先んじているのがわかりますね。 併せて気が付いたのですが、この大道珠貴の受賞あたりから女性作家の芥川賞受賞数がぐんぐん増えて来て、近年ではもう圧倒的女性優位になっているのではないですかね。 これは良い悪いの話ではないでしょうが、どんな世界においても、その世界で褒められる性に偏りがあるというのは、短期的にみれば、あまりよくないのかな、と。(短期的と書きましたが、改めて書くまでもなく、おそらくは文学においても、長い歴史スパンの中では圧倒的女性差別的期間があった事にちょっと触れているつもりであります。) で、「似た雰囲気」というのは、これも一時言われていた言葉のようですが「こじらせ女子」的な雰囲気のことで、脱力感、虚無感、自己肯定感の低さあたりを私は本作にも感じました。 ただ、主人公の描かれ方の底に流れているのはそういったネガティブなものであっても、例えば上記に並べた女性作家たちは、それらの感情や人間性を、小説に仕上げるにあたってきわめて達者に描いているという気がします。 だから読んでいて感情移入がしやすく、ユーモラスであったり、適度に癒されたりして、ほどほどの好感度が得られたりする、というのは少し意地悪な見方でありましょうか。 この度取り上げている短編集も、自分の年齢の倍以上も年上の男と同棲する30代の女性の話であったり、二十歳を越えてなお、小学校時代からの明かな主従関係の元に付き合ってきた同性女性(こちらが「主」)との話とか、ややまっとうではない(「まっとう」とは何かというのはそれはそれで難しくはあるのですが)、「こじらせ」系の主人公を描きながら、その描き方は、とてもテンポがよく、会話のやり取りなどを読んでいると、本当に達者だなあと感じさせるものです。 そんなふうに、本作は芥川賞「こじらせ女子」系作品の先達、とまとめることができるのかな、と思いました。 ただ、そんなことをぼんやりと、かつ、じっと考えていますと、やはり少し物足りない感じが残りました。 「こじらせ女子」系の話が、新しい作家の間に結果的に多く輩出されたということは、やはり時代を映していることでありましょう。 例えば、近代日本文学史のなかで、古くは「浪漫主義」「写実主義」などから「白樺派」「新感覚派」とか「第三の新人」「内向の世代」など、限られた時代に似通った作風の作家が現れるのは、やはり時代の要請と捉えることができると思います。 そんな意味で考えれば、芥川賞に女性作家の花盛りである現代というピリオドも、やはりそんな時代を表しているのだと思います。 ただ、私がどうも少し物足りなく思うのは、描かれる「こじらせ」人間関係の原因が、主人公(個人)の資質の枠からほとんど踏み出されていない感じがするところであります。だから、時代や社会の要請だとは思いつつ、そこに時代や社会を描く広がりが感じられない。 あるいはそれには、別の要素もあるのかもしれません。文学がもはや、時代や社会の諸問題と正面から有意に切り結ぶ力を失ってしまった、ということなのかもしれません。 ただ、そうだとすると、後に残るのは感性しかないのか、いや、そんなこともあるまいと思いつつ、せめてもう少し背筋をピッと伸ばして正面を見ているような主人公の姿や、それなりの大きさを持つテーマを、私などは読んでみたいと思うものではありますが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.12.29
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『間違いだらけの文章教室』高橋源一郎(朝日文庫) さて、高橋源一郎氏であります。 現役の文学者の中で、私がとっても信頼している方のひとりであります。 そんな作家の文章教室を読むのですが、タイトルがもうすでにひとひねりもふたひねりもしていますね。でも私は最初はあまり気にしなかったです。だって高橋さんの本ですから。 そう思って読み始めたのですが、なんかだんだん、どうも読みづらく感じてきたんですね。引用がとても多くて、そこから筆者のいわんとしていることが、何といいますか、まどろっこしく感じられました。 このまどろっこしさは何だろうと少し考えてみましたが、感じたことをちょっと強めに表現しますと、あなたはひとり分かっているかもしれないが私にはまるで分からない……何だか「上から目線」的、……いえ、フェイヴァレットな高橋本ですから、この表現ほどには強くは感じてないのですが、しかし違和感的なものが残りました。 気になったのでちょっと止まって考えてみました。 ふたつ、思いつきました。 まず筆者が例として取り上げたその文章が、いかにも高橋氏が引用しそうな文章だということはわからないでもないですが、やはり一種「キワモノ」めいたものでないのか、ということです。 それは、遺書(かなり特殊な状況下の遺書)であったり、小説の一部(これもかなり特殊というか、極端に独創性の高い小説の一部)であったりしています。 それらを通して筆者が言いたいこととは私の二つ目の思いつきの内容なのですが、それは後述するとして、かなり特殊な文章を例示するにあたって、高橋氏自身は身を引きながなそれを放り投げたとでもいう感じがしました。 身を引くとは、これは一種「キワモノ」めいた文章を読者に提示する経過について、ひょっとしたら必要以上にへりくだった表現になってしまったんじゃないかということで、その書き方が、ややまだるっこしく、やや独善臭がして、そして結果としてやや「上から目線」的になったのではないかと、……まー、わたくしの愚考であります。 で、二つ目の思い付きですが、それは上記にも少し掠っていますが、いくつかの文章を取り上げて、それを通して筆者がどんなことを言いたがっているかということであります。 それはたぶん、人はなぜ文章を書くのか、ということでありましょう。 なるほど、いかにも高橋源一郎的でありますね。 物事の核心に、いきなり迫ってきています。 もちろん一番重要なのは、森羅万象あらゆる事柄において、その通りなのでありましょう。 しかし、どこか、肩透かしを食らったような気がします。 と、そこまで思って、はっと気づいたのが、冒頭に触れたタイトルについてでした。 少し極端な言い方をすると、この教室は文章教室ではなくて、文学教室なのではありませんか。なぜ書くかという問いは、文章の問いというよりも、遥かに文学の問いであります。 料理学校に習いに行ったら、化学式ばかりを教えられた、いえ、大切な体の栄養に関することですから、化学式を教えてどこが悪いといえばそうなのでしょうが、そんな難しいことはとにかく、仕事の上で必要な文章を書きたいだけですという人は、少し白けやしないかということであります。 というようなことを中盤あたりで考え考えしながら読んでいました。 でも、高橋氏といえば、おそらく今の日本の文学者の中でも一二を争うような「文学好き」な作家でありましょう。文章を論じて文学に入っていくのは必然、というか、私にとっても願うところであります。 そのようにしてタイトルのこだわりを外して読んでいきますと、やはり高橋氏であります。後半は、哀愁溢れる文学話になっていきました。 文章=文学テーマについて、筆者の主張は短くまとめると下記の引用にほぼつきます。 鶴見俊輔の文章を引用し、その解説のまとめあたりの部分です。 鶴見さんの「文章」を読んでわかることは、「文章」というものが、そもそも「教室」というものから、教えたり、教わったりすることから、かけ慣れていることだ。「それを知れば、十年は使える」やり方が、「文章」にあるなら、ぼくたちは教わりたい。ぼくも、教えたい。 けれど、そんなものは、ないのである。 この後ももう少し重ねて説明をし、そして2頁ほど後ろに、このようにまとめてあります。 その時、ぼくたちは、気づくのである。 そこに、鶴見俊輔という、ひとりの、誠実な人間の「人生」、その「物語」があり、ぼくたちは、「文章」を通じて、それを読んでいたのだ、と。 いかがでしょう。 やはりいかにも「文学マニア」高橋源一郎的ではありませんか。 「弘法筆を選ばず」とは、いろいろ問題を含んだことわざだとどこかで読んだ気がしますが、すぐれた文学者は形式・内容、何を語っても、やはり優れた文学性を表す、と、……いえ、そもそも私は高橋氏の本のファンでありますから。 この読書報告も、今はやりの言葉でいえば、「推し活」(!?) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.12.14
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『苦役列車』西村賢太(新潮文庫) えー、困った事やねー、と思いながら書き始めました。 それは、まー、何についても同じでしょうが、小説についても(作家についても、と言ってもいいかもしれません)、やはり相性、好き嫌いというものがあるということですね。 そんなことは当たり前ではないか、どうしようもないことだと、わたくしも一応は知っているつもりで、この拙ブログにおいても、どうにも個人感情によるネガティブ意見しか書けそうもないと思ったときは、その小説は取り上げないでいました。 今回、好みでないと思いつつ、冒頭の小説を取り上げてみます。 なぜかというと、自分でよくわからないところがあるからであります。そのことについて少し考えたいというのが、主旨でありますが、勢い感情的なネガティブ意見になってしまったなら、非常に申し訳なく思っております、が……。 というわけで、冒頭の小説を読みました。この作家の小説は初めて読むんですね。 そもそも初めて読むと、ちょっといろんなところで誤解を生みそうな書き方を、そもそもこの作家はしていそうだと、読んでいて気が付きましたし、ネットでちょっと調べてみても、やはり同種の感想がありました。 まー、小説とは何をどう書いてもいい文章表現なので、そんな戦略(作品がすべて連作的な関係を持つという戦略)の作家がいてもそれは良い悪いの話ではありません。(大江健三郎の作品なんかずばりそうですものね。) そんな部分もあるんだろうなとは思いつつ読んだのですが、私がどうにもいやだったのは、その文体(文体、というのでしょうかね、やはり)というか、書き方でありました。 はっきりきわめて個人的感情のレベルのことを書けば、とにかく文章がいや、読みにくいのではなくて、こんな文章は読んでいたくない、というものでありました。(客観性に欠け説得力のない書き方になってしまってすみません。) 何といいますか、私としては、しばしば出てくる陳腐な慣用表現や、文脈の中にとても座りの悪い用語(特に漢字熟語)などが、気になって気になって、とにかく嫌だったです。 で、あまりに「嫌さ」が感じられるものだから、なぜ私はこんなに嫌なんだろうかと思ったんですね。すると、ここにはなかなか興味深いものがあるんじゃないかと感じ、ネガティブ感想になるかなと思いながら書いてみました。 まず、主人公は中卒学歴の19歳の男性なんですね。時代は昭和の終わり頃ですか。 これらは筆者の実際と重なっています。と、いうか、この筆者は自分の小説は私小説であると宣言し、一種それを売りにしているようであります。 だから、中卒学歴の19歳の書いた文章なのだから、というところでわざとそんな稚拙な書き方をしているのかとは、当然考えられるのですが、そのあたりをじっと考えますと、わたくしとしては、なかなか興味深いテーマが浮かんできました。 まず、文章力などとてもありそうもない主人公を描いた作品は、わざと下手に書くのか、という問題であります。 その前に、「人称」の問題がありますが、それは後述します。本小説についていえば、人称の問題は、なかなか興味深い用いられ方がされていますから。 具体的に例を挙げてみますね。 例えば芥川龍之介「藪の中」。この小説は何人かの登場人物の弁明(語り)から成り立っていますが、その中の一人殺人者である盗賊の語りは、きわめて理路整然と描かれています。つまり、現実ではあり得ないだろうかということでも、文章表現という場合においては、その形こそがリアリティだと、我々は読んでいることがわかります。(中卒学歴の19才だから下手くそに書けばいいとはいえない。) 例えば絵画でいうならば、色彩的センスのない人物を描くときでも(まー、そんな人物を描く絵画があるとしてですが)、画家は、しっかりとした色彩でその人物を描くべきなのではないか、ということですね。 少し話は飛ぶかもしれませんが、逆の照明を当てて考えてみて、こんな例示が浮かびました。『徒然草』第85段に、有名なこんな文章があります。 狂人の真似とて大路を走らば、すなはち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。 いかがでしょう。 少し例示がずれているような気もしますが、拙いふりをして拙く書いた文章は拙い、……んでしょうかね。 さて、上記に「人称」について少し触れました。 二つ目の私の疑問は、本作の人称についてであります。 本作は「私小説」を自任しつつ、実は、三人称で書かれています。 主人公の名前は「北町寛太」で、「寛太」「彼」で一貫した完全な三人称小説です。(ただし、ある種の三人称小説にしばしば見受けられますが、三人称でありながら、神の視点を持つ語り手がいるのではなく、主人公の視点に近い心理説明などがなされます。) 私小説でも別に三人称でも構わないと思います。 ただ、三人称ということは、中卒学歴19歳の主人公とはやはり異なった視点の語り手(これは作者と完全に重なるというわけではありません)がいるわけで、この「人物」の書く文章まで稚拙にする必要が、あるのでしょうか。(どうしても稚拙にしたければなぜ一人称で書かないのでしょう。) ……と、ここまで書きましたが、私は一方で、実は作者はそんなことは皆お見通しで、その上にやはりこの形で本作を書いたのだという気もしています。その根拠は何か。 まず一つ目は、現代という時代に私小説を書くという戦略であります。 現代において、一般的にはすでに私小説なぞ息の根が止まっているという感じがまず前提にあって、にもかかわらず何人かの作家は私小説を書いています。そしてそんな作家の作品は、ことごとく、かなり技巧を凝らした私小説であると私は思っているからであります。 そして最後に二つ目です。 それは、いくつかの不明の要素があっても、本作の主人公の、生殺し・生き腐れのようなカタストロフィーを書くため、見つめ続けるためには、やはりこの描き方こそがベスト!……と考えるものなんですが……。 だとすれば、本作はなかなかの問題作、力作でありましょう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.12.01
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