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『琉球処分・上下』大城立裕(講談社文庫) タイトルに「琉球処分」とありますが、この語は本小説独自のものではなく、歴史用語であるようです。例えばネットの本屋さんで検索しますと、この単語をタイトルに用いたたくさんの書籍が現れます。 本書の下巻(上下巻で1000ページにも及ぶ長編小説)解説に、こう書かれています。 金城正篤氏(琉球大学名誉教授)は、琉球処分について、〈明治政府のもとで沖縄が日本国家の中に強行的に組み込まれる一連の政治過程をいう。〉と定義する。 明治維新後の廃藩置県において、なぜ琉球だけがやや別藩と異なった対応となったのかについては、まず、琉球がそこに至るまで長く独立した別国家であったという点が一つ、もう一つは本書の筆者による「あとがき」にこう触れられています。 琉球=沖縄が、日本にとって国内軍事植民地としての重要な価値を持っていて(略) この今に至るまで沖縄を「軍事拠点」(本文中用語)と見る視点に対する危惧は、同じく本文中には作品中の時間設定として、このようにも描かれています。 いずれ日本政府が、これまでの中国より以上に恩恵をたまわるといっても、なにか、にわかには信じがたい。いや、恩恵そのものは確かにあるかもしれないが、信に琉球の人民をいつくしむ志をもってのことであるかどうか。 上記に私は、「琉球がそこに至るまで長く独立した別国家であった」と書きました。 もちろん、そのような現実の歴史的経過をどう考えるべきなのかは、本作品の極めて重要なテーマではあるのですが、同時にそれが「別国家」であったことの記述が、本書の小説としての面白さの核になっています。 そんな「別国家」の特質を、筆者は、本作の各章のタイトルにとても巧妙に表しています。たとえば、 「ぼんやり王国」「外交だらけの国」「ただふしぎな蒙昧」…… 特に私が興味深かったのは「外交だらけの国」という表現で、例えばこんな個所があります。琉球国王に家臣が進言する部分です。 古来わが国は外国に向かっては、頼り、こいねがうだけが道。薩摩だけにはそれも利きめがありませんでしたが、中国はいつでもそれを聞き届けてくださいましたし、日本政府もどうやら、大きなことを言うだけに島津よりはいくらか御しやすいものと思われます。ここまで引き延ばしてきたのですから、あと一息で我を折るに違いありません。そうすれば、おのづからまた活路はひらけるというもの。 この対応の巧妙さは、本書において再三触れられているのですが、それに対する当時の日本側対応人物の視点では、例えばこんなふうに描かれます。 (略)けれども、琉球の使節にはそれがあるとは思えない。あの表情にはひとかけらの偽りも感じられないが、真実自信のない表情にみちみちているのだ。すると、自信のないねばり強さなるものが世のなかにあるのだろうか。大久保は、たぶんはじめてそのような人生を目の前に見て、とまどってしまったのであろう。 大陸的な充実した強さではないのだよ。あくまでも島国の――貧乏な島国のものだ。なんにももたない空しさだけだ。決してかれら自体が強いのではない。が、あの空しさを見て、ぼくらが薄気味の悪さを感じとるだけなのだ。口がせまくて底の深い古井戸のようにね。 引用終盤に古井戸のような薄気味悪さとありますが、それは日本側人物の心情としては「近代的政治感覚が琉球にだけは全然通じない」という表現になり、さらには内務卿・大久保利通のセリフとしてこのように描かれます。 「一体、われわれは琉球を支配しえているのだろうか、松田君」 実は本書は、冒頭に触れたように、文庫本上下巻1000頁にも及ぶ物語でありますので、最初はかなり内容がつかみにくく(「事件(政治過程)」が主題の作品であることで、読者が感情移入しやすい主人公が表面に出てこないせいでもあります)、少し読みにくくあるのですが、上記のような対立構造がわかってくるあたりから、その双方の食い違いが無限ループのように繰り返され、えんえん下巻終盤まで、その構図が続きます。 私は、この小説の文学的成果(小説的面白さ)はここにあると思います。(1000頁もあることの意味も。) あるいは、こんな読み方はあまりに偏っているんじゃないかという気もしないではありませんが、小説が小説であって「大説」ではない面白さ素晴らしさとは、そんな部分を決して見落とさないことではないかと、……まー、少々ひねくれものを自任する私は、考えるのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.10.20
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『雪の練習生』多和田葉子(新潮文庫) 多和田葉子といえば今は飛ぶ鳥を落とす勢い、というのは、わたくし、自分で書いておきながら何を書いているのかよくわかりません―。どうもごめんなさい。 ガセネタっぽい話そのものでありますが、ちらっとだけ「解説」(「解説」ってなんやねん)いたしますと、失礼ながら、誠に失礼ながら、村上春樹はノーベル文学賞候補者としての「賞味期限」が切れたんでないか、という事であり……すみませんすみません、まことにすみません。 ……とにかくそんなこんなで、多和田葉子です。 わたくし、本書を古本屋さんで見つけまして、裏表紙の「宣伝文」を読みますと、野間文芸賞受賞作とありまして、わたくしは、あれ、と、ふーん、の真ん中くらいの感想を持ちました。 あれ、と、ふーん、の真ん中というのもまた、説明のしづらい感想なんですが、簡単に言うと、もう、かなり前になってしまいましたが、同筆者の『献灯使』という小説を読みまして、そして、その小説がアメリカで割と大きな賞を受賞したということで、かなり話題になっていたと思います。 で、今回の本書が、野間文芸賞受賞で、ふーん、多和田氏がまた名作を書いたのか、あれ、でもこの作品は話題にはあまりなっていないんじゃないか、という感想が、まー、一応、あれ、と、ふーん、であります。重ねてすみません。 で、読んでみました。三部構成の小説なんですね。 読み始めてしばらくして、……来ましたねー、がんがん、来ましたねー。 もう、飛ぶ鳥を落とす勢い! ごめんなさい、村上春樹ぶっちぎり! ……と、思ったんですね。 これは凄い小説じゃないかと、読んでいてドキドキするように思ったのであります。 小説でなければ表せないものを、物語世界を、縦横無尽に天衣無縫に飛び回っているような小説でした。高速走法、オーバードライブ、なんて言葉が浮かんだりしました。 で、第2部に入って、展開について、人間社会、あるいはヨーロッパ近代史に対するシニカルな批評めいたものがかなりストーリーの前面に出てきつつあるように感じました。 もちろんそれ自体が悪いわけではありません、しかし、その展開の変化に対して私がふと感じた違和感は、あの第1部の天翔けるような自由さドライブ感はどこへ行ったのだ、というようなものであったでしょうか。 そして、話は第3部に進んでいきました。 ……なんでしょうか、私としては、これは別のお話になってしまってはいないか、と。 ……うーん、よーわからん。 で、ふと、わたくし、思い出したのですが、本ブログにも何回か多和田氏の作品の報告を書いていますが、どれも、今一つよくわからないというものではなかったか、と。 特にわたくし的には、終盤に失速感を覚えるというような感想ではなかったか、と。 で、ちらちらと、自分の書いたブログの文章を読み直してみたんですね。 やはり、そんなことが書かれてありました。『献灯使』なんて、未完じゃないのかなんて失礼なことが書かれてあります。 『犬婿入り』も、思い出してきたのですが、その終盤の展開にあっけにとられた記憶があります。で、あまりに何だかわからなかったので、ちょっとネットで調べてみたら、芥川賞受賞時の各選考委員の感想の中で、河野多恵子が「最後の部分が文学的誠実さを失ってしまっている」と述べていたのを読んで、少し納得したのを思い出しました。 ……しかし、これは何なんでしょうね。 「お前の読み違えだ」と指摘をいただいたなら、そうかもしれないなあと思いもしたでしょうが、よくわからないのでぐずぐずあれこれ考えたりします。 例えば、この筆者は物語の発想力にずば抜けたところはありながらも、飽きっぽい性格で、書いていていやになっちゃうんじゃないか、とか。 あるいは、こんなこともわたくし考えたのですが。 本作は三部構成で、各部の長さは文庫で100頁にほぼ統一してあります。三代にわたるホッキョクグマの伝記という形になっていますが、これ、分量まで統一する必要はあったのか、とか。 もうひとつ、私としては、割といいアイデアだと思うのですが、1から3部の順番を全く逆にしてはいけないのか。そうすれば、ストーリーは後になればなるほど、どんどん盛り上がっていくんじゃないか、とか。 ……いえ、まるでふざけてばかりいるわけではありません。 そんな風にあれやこれや考えるほど、私にとっては第一部は素晴らしく、それだけに、私としては後の部分が十分納得がいかず、と。 やはり、多和田作品とは、わたくし微妙に御縁がないのかもしれませんねえ……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.10.06
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