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『阿弥陀堂だより』南木佳士(文春文庫) 本文庫の解説文を書いているのが、小泉尭史という映画監督の方で、わたくし寡聞にして存じ上げなかったのですが、本書を原作とした映画を撮った監督であります。 映画監督が小説の(それも自分が撮った映画の原作小説の)文庫本解説を書いているというのは、これもわたくしよく知らないのですが、私としてはとても珍しく、なかなか面白く解説を読みました。 小説と映画の違いというのは、今私がけっこう興味を持って考えているいる事で、例えば、本解説にはこんなことが書いてありました。 小説で存在感のある人物に出会うことは、シナリオを書く上で確かな力になります。しかし厄介なことにシナリオを基にした映画は小説よりも詩に、詩よりも音楽に近いものです。 映画は音楽に近いというのは、なかなか興味深い表現ですね。 私は読んでいて、なるほどと思うところとても多いと感じました。 と、そんなのを読んだので、ではその映画を見たいものだと思い、ネットで少し探したら見ることができました。 そこで私はこの度、小説をはじめ三分の一ほど読んだところで、それを原作とする映画を見て、見終わった後に、残り三分の二くらいの小説を読むという体験をしました。 これもなかなか興味深い体験でした。 映画の前半部を見ている時は、この場面は小説のあそこに書かれていたものだなと感じながら視聴し、映画を見終わって読書を再開した後は、この描写は映画ではああなっていたなとか思いながら読みました。 どちらも興味深く、共に深く理解できたような気がしました。 また、そんなことをしたから、より上記の「映画は小説よりも詩に、詩よりも音楽に」という表現に、「なんとなくわかるなー」感を持ったのかもしれません。 では、映画の原作としては少しおいて、単独の小説の読書報告としてはどうなのか、本文中にこれもなかなか興味深い表現があります。 本書の主人公(上田孝夫)は小説家で、有名な新人賞を受賞したもののその後、なかなか筆が進まず「鳴かず飛ばず」状態が長く続いているという設定ですが、このように書かれています。 「上田さんの小説は素朴で粗削りな部分も目立ちますが、文章の骨格がしっかりしています。こういう新人作家は磨けば光ります。どうぞじっくりと磨いてください」 多くの地道な生活者たちの平凡な感情に共鳴する小説を書きたい。できれば単行本を出版したい。それさえ実現できれば、他に望むものはないのだが。 一つ目の文は、編集者から言われた言葉ですが、二つ目の文の孝夫自身の感情の描写も含めて、そのまま本小説のいわば「ポイント」になっている気がします。 つまり本書は、設定、文体、テーマ、どれをとっても素朴といえばきわめて素朴で、しかも誠実に一生懸命書いているような感じがします。 ただ、「粗削り」というのは、どういう意味なのか少しわからないのですが、いくつか、読んでいて分からない、というか、その表現が本当に最もふさわしいものとして選ばれているのかなと思うようなところがありました。 例えば、終盤部にいきなり小説家開高健のエピソードが出てくるのですが、このエピソードなんかも、わたしにはかなり唐突感がありました。 しかし、そんなことを言えば、そもそも私は、本書に何度も出てくる地域の広報誌の囲み記事「阿弥陀堂だより」の文章の魅力がよくわかりません。 ひょっとしたら私は、本小説にとってふさわしい読者ではないのかもしれません。 (中盤あたりに、阿弥陀堂を守っている老婆が主人公に、小説とは何かと尋ね、答えきれないでいると、同じ場にいた重要登場人物である誠実な若い娘が、「小説とは阿弥陀様を言葉で作るようなものだ」と答え、老婆が納得するという挿話があるのですが、これも私にはあまりよくわかりません。) もちろんそんな個所ばかりではありません。 冒頭に映画との比較について少し触れましたが、やはり小説には、映画ではなかなかそこまで踏み込めない人間や状況に対する深い洞察があったりします。 作家として誠実というのは、そのような洞察や真理をいかに最適に表現するかについて、徹底して考え続け言葉と文章を選び続ける精神を言うのだと思います。 (そう考えれば、上記に少し批判的に取り上げた開高健のエピソードも、開高健の研ぎ澄まされたような文体のことを思い出せば、何が言いたくて書いたのかわからないというわけでありませんが……。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.03.23
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『「私」をつくる』安藤宏(岩波新書) もう10年以上前になりますか、いろんな本をやたらに乱読していた(それもカルめの本を)のを反省し、心機一転、今後は近現代日本文学を中心に読書しようと、今となってはその理由もよく覚えていませんが思って以来、特に推理小説だけというわけではないのですが、あまり推理小説も読みません。 ところが少し前に、久しぶりに一冊推理小説を読んだら、読んでいるときは推理小説の読書らしく、それなりにはらはらしつつ読んでいたのですが、読み終わったら、どうも、なにか、「引っかかる」んですね。 しばらくぼんやりと考えて、あ、それは「思った」のではなくて、「思い出した」のだと気が付きました。 昔、推理小説を読んだときに感じたこと、それは、私は作者に騙された感じが嫌だ、ということでありました。 もちろん、推理小説ですから、いわば作品中の「犯人」の仕掛けたトリックに騙されないように「名探偵」のつもりで読むところに、その面白さの醍醐味があることは、一応知っているつもりであります。 私の言いたいのは、犯人に騙されるのはいい、でも作者に騙されるのは、なんとなくいい感じがしない、という事であります。 冒頭の本書の読書報告に近づけるべく、言い方を変えればこういうことです。 作者に騙されての違和感というのは、三人称の文体の地の文に断りなく「嘘」が描かれる(仄めかされる)のは、いくら推理小説とはいえ納得がいかない(少し嫌な感じがする)という事であります。 さて、「三人称の文体」という言葉がやっと出てきましたが、冒頭の本書のテーマがそれにかかわっています。(実はそれは、「一人称の文体」でも同様の問題点をはらんでいるということですが。) 本文から、その問題意識が書かれている個所を引用してみますね。実はこれは近代小説が抱え込んだ大きな課題でもあった。なまじ〝話すように書く〟などという試みを自覚的に始めてしまったために、近代の小説は「話しているのは誰なのか」という問題、つまり作中世界を統括する主体がどのような立場と資格で語るべきなのか、という課題に突き当たることになってしまったのである。 ちょっと例を交えて(この例は文中にもある例ですが)、説明してみますね。 「彼は走った」 「彼は走ったのである」 この「~た」と「~のである」の二文を比べた時、後者の文には、微妙に誰かの主観が感じられる、そこには「話し手の判断」がある、というものであります。 どうですか。この問題意識がすでに、かなりスリリングではありませんか。 これらの事柄について、特に本書前半部に、あれこれ詳しく分析説明がなされているのですが、ざくっと、で、どう考えるの、の部分だけ、かなり端折って抜いてみますね。あえて言えば、それは外からの視点ではなく、物語の内部に浮遊する虚構の知覚主体なのであり、個々の場面に出没し、ひそかにのぞき見し、聞き耳を立てつつ、それでいて自身が存在しないかのように抑制的にふるまう、隠れた「私」なのである。 ……なるほど、ねえ。 私が、推理小説を読んでいて、微妙に嫌だなと思った原因はこれだったんですね。 さらに、上記には私は「作者に騙される」と書きましたが、本書で取り上げている「隠れた『私』」は「叙述主体」とも表現されており、作者とは全く別の「主体」であると書かれています。(なるほど、これも納得ですね。) つまり、私の違和感の正体は、「叙述主体」が物語の「犯人」と、微妙な共犯関係を持ちつつそのことを伏せたまま叙述しているせいだ、少なくとも、多くの推理小説の結末部の「種明かし」に至る部分までは、ということであります。 ということで、本書のおかげで私の推理小説に対する違和感はかなり拭われたのですが、実は本書の分析は、そのことだけにとどまっていません。 「叙述主体」のそもそもの来歴から始まって、その働き、もたらしたもの(言葉の豊かさ)と失ったもの(表現の矛盾)という功罪全般、そしてさらには今後の克服すべき課題と可能性にまで及んで、実に詳細に分析解説されています。 そのうえ、ちっとも難しく書かれていません。私のイージーな頭脳でも、一応はそれなりに理解できるように導いてくれます。 ということで、そのあたりは、ぜひお読みいただければ、と。 「是非お読みいただければ、と。」と今私は書きましたが、この表現にはどんな要素が存在していて、どんな仕掛けがどんな働きをしているのかなど、そんなことも書かれています。ぜひ。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.03.09
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